――― other side in
話し声が聞こえる。身振り手振りで自分の持っている品物の説明をする男と、それに感心したように笑いながら頷く男女。上っ面だけはニコニコと笑う男が手を差し出して、頷いた女性が懐から財布を取り出し―――
「待ちたまえ」
不意に聞こえた声に男は不機嫌そうに声のしたほうを向く。そして視線の先にいる、鷹のような鋭い目つきをした男と視線がカチあって、背筋を凍りつかせた。赤い外套を纏った背の高い男がゆっくり歩いてくる。ざくざくと土の砂利を踏むただの音が余計に恐怖をあおる。
対して人の良さそうな一組の男女は、突然話に乱入してきたその赤い男を見てもキョトンとしているだけだ。
「いま引くなら何もしないが」
「な、何だぁお前……商売の邪魔……っ!」
「聞こえなかったか。今引くなら何もしない、といったのだ」
「……っ!!」
別にすごまれているわけではない。ただ、表情らしい表情も無くそれだけを淡々と言い切られて、わけも分からぬ圧迫感に耐え切れられずに背を向けて逃げ出した。財布を手に持ったまま、あ、と声をかけ損ねて立ち尽くしている男女に赤い男は視線を向ける。
「……君たちがタトリン夫妻でよろしいかな?」
――― other side out
なんだか目が飛び出るほどの金額を貰ってファブレ公爵邸から辞して、グレンが一人宿に入ってこれからのことを考えていたときだった。
「がっ……ぐ、あ」
頭の内側からトンカチでめちゃくちゃに叩かれているかのような激しい痛み。何も考えるな。目を閉じて耳を塞ぎ情報を遮断する。余計な思考をするな。うめき声も上げずに自分自身に言い聞かせる。閉じろ閉じろ閉じろ閉じろ、閉じろ……っ!
どれくらい時間が経ったのだろう。気づけは痛みは引いていて、脂汗まみれになって荒い息をしている自分がいた。ほっとして、グレンはがくりと膝をつく。そのまま体も倒れてしまいそうだったのだが、そこは左手をついて何とか堪えた。大きく息を吸って、吐く。よろよろとベットに背を預けてへたれこむ。
「ルークは閉じてるけど、俺は開いてるからこっちに来るのか。でも、『同じ』でも『違う』俺は、お前のレプリカじゃない。お前とルークの間ほど完全なつながりはない。……まあ、予想通りだな。感覚共有されないのはありがたいが、痛みは何倍だよこれ? これはちょっと……きついなぁ」
考えをまとめる為に、ぼそぼそと独り言を声に出す。
「キャツベルトの時で試してみて、もうルークには繋がらないって分かってるだろう? ……いや、俺に繋がりかけてたからまだ試そうとしてるのか? その度にこんなになるのは勘弁なんだが……頼むから何度も試さないでくれよ、鮮血のデコっぱちヤローめ」
頭を振って、何とか起き上がろうとするのだがなかなか上手くいかない。これはヤバイ。せっかくイオンと同じ宿にしたのに、こうも体にガタが来てしまってはどうにもできない。やはり同調フォンスロットを開かれるのは鬼門でしかないようだ。特に今のグレンの体には負担が大きすぎるらしい。
体が動かない。意識が遠ざかる。畜生、せめてイオンをダアトに返しておけばパッセージリングのダアト式封呪は……いや、ダアトではヴァンが連れ出してしまえるからむしろ逆に危険なのか。しかしイオンに砂漠越えやデオ峠を越えるなんてムリをさせるわけには……
結論を出す前に、思考できるだけの意識が遠ざかる。畜生、それだけを小さく呟いてグレンは意識を失った。
* * *
こんな夢を見たのは、ペールとあの庭であんな話をしていたせいだろう。
夜の渓谷。記憶粒子。咲いたセレニア。歌が聞こえた。振り返り、驚く少女。少し大人びている?
どうしてここに。
綺麗な声が震えを押し殺して聞いてきた。
それに答える低い声。
ここからならホドが見渡せる。それに。
「……約束してたからな」
―――ああ、
息を呑んだ少女の瞳から零れる一筋。頬を伝う。喜んでいるというにはあまりにも儚い涙だった。
ゆっくりと歩み寄るその少女の後ろにいるのは、あの旅を共に歩んだ、
―――これは夢だ
夜の渓谷に風が吹く。
仲間がゆっくりと彼の方へと歩んでいく。青い軍服の男が一瞬だけ悲しそうな顔をして、
―――何かが少しずつでも違っていたら、俺の世界でも叶っていたかもしれない、可能性の分岐の夢だ
記憶粒子が辺りを満たして幻想的な世界を作る。
始まりと誓いと約束の帰結する場所で咲く白い花。
セレニアの花畑。
月下。少女の涙は止まらない。帰ってきたらしい彼は、少女を抱きしめない。
夜の渓谷の夢を見た。
それでもこの結末では『彼女』が救われない。『彼女』を愛した、約束を守れなかった『彼』も。そんなのは、嫌だ。嫌なんだ。今までずっと頑張ってきて、大切な人ばかりを失って、それでも信じて待ち続けたのだろう、やっと涙を流した彼女が。その涙があんなに悲しそうなものであるのは許せない。泣くなら幸せなときだけ泣けばいいのに。もう苦しまなければいいのに。悲しんでほしくない。
それでも時間をかければ救われるのかもしれない。また笑えるのかもしれない。彼女ならきっと進んでいける。それくらい優しくて強い人だから。それでも。
この世界のそうあるべき結末がこれだと言うのなら、それでも俺は全力を持ってこの結末を覆すまでだ。俺の世界のようには絶対にしない。それでも、この結末のようにもしない。絶対だ。全力を持って狂わせる。こんな結末、認めない。
例え違う世界でも、彼女がしあわせに笑える世界でなければ、そんな世界は認めない。
―――彼女の隣にいるのは『焔』でいて欲しいと願うのは、彼女にずっと『焔』の行く末を見ていて欲しいと願うのは、他の誰もを近づけたくないと願ってしまうのは、……違う世界の『焔』である俺のわがままだろうか。
* * *
体を揺すられて五感が戻る。夢を見ていた気がする。遠い夢の残滓。思い出せない。何かを強く願った気がする。きゃんきゃんとなんだか煩い。一度強く目を瞑り、ゆっくりと開けた。ツインテールの少女が必死な声でグレンの体を揺すっている。
「グーレーンー、ちょっと起きて! ってゆーか何でアンタ床で寝てんの。ベッド後ろにあるじゃん!」
「んー……タトリン奏長か」
「あ、起きた! 助けてグレン、町中捜してもイオン様がいないのっ!」
「なに……?」
まだ少し平衡感覚がおかしい頭に手をおいて深呼吸をする。ちらりと窓から外を見れば青い空。意識が残る最後に見たのは夕焼けだったから……
「くそ、もう朝かよ……分かった奏長、俺も捜そう。何か情報は?」
「町を捜してたら、サーカス団みたいな人が、イオン様っぽい人と町の外へ向かったって……」
「サーカス団……漆黒の翼か。あの口ぶりだとオラクル兵から依頼されたんだろうな……とにかく町の外まででるぞ」
「だめだよぉ! 町を出てすぐのところでシンクが張ってて邪魔するんだもん!」
「……っ、くそ!」
本当は、この町からどうすれば出られるかは知っている。今のうちに真っ先に廃工場へと行けばルーク達に会わずに町から出られるだろう。そしてイオンがダアトの陸艦に連れ去られるより先に取り返せるだろう。
けれど確実にナタリアに目撃される。ナタリアからルークへと伝われば、確実にジェイドにも伝わる。そうすればバチカルに来たことがないはずの存在が、なぜ廃工場を抜ければ外に出られると知っていたのか、という話になってしまう。誰かに話を聞いたことにしても、昨日のほとんどはルーク達と共にいたのだ。流石に誤魔化しきれないだろう。
「……バチカルのことだ、ルークに町から出られる道がないか聞いてみよう」
「うん……そうだね。じゃ、行こ!」
「うお?!」
がしりと手首を掴まれて引っ張られる。つんのめりそうになりながら、自分も走った。デジャヴ。息が止まりそうになる。
『はーいはいはいはい、ちゃーんとティアには黙っててあげるって。あー、そう言えばここっておいしいケーキのお店があるんだよねぇ~。……え、なになにいいの? やったぁ、さっすがルーク! じゃ、行こ!』
「………………、」
同じ体温。―――――――でも、違う。違うんだ。心が違うと叫んでいるのに、それでも本当に時々重なってしまって少し苦しくなる。違うけれど同じ、双子のような存在。あの時、親愛や信頼を築いた相手はこの世界の人たちとは違うけれど、この世界の彼らはグレンを知らないけれど、……それでもグレンにとっては大切な存在には変わりない。
引っ張られていて良かった。イオンを心配して真っ直ぐ前を見据える瞳は、後ろを振り向かないだろうから。大丈夫だよアニス、この世界のイオンは絶対に死なせない。……お前も、皆もだ。グレンは一瞬だけ泣き出しそうな笑顔を浮かべて、瞬きひとつの間にそれを奥へと引っ込める。
「タトリン奏長、体調は戻った。もー手を離してくれても大丈夫だぜ」
「はれ、そぉ?」
そこで振り返ってきたアニスににやりと笑みを返す。その顔を見て確かにもう大丈夫だと判断したのだろう、アニスはあっさり手を離しさっきよりもスピードを上げていく。
「じゃあ突っ走るからね、遅れないでよ~!」
「そっちこそ! ははははは、このスピードについてこれるか?!」
「はぅあ?! なに本気で全力疾走してんのアンタ! すぐバテるじゃんそれじゃ!」
賑やかに言い合いながら、いつかのように走っていく。
―――そして、ルーク達にあったころにはグレンは見事にばてていた。ルーク様~とルークに抱きついたアニスがイオンのことを説明している間、その後ずっと後ろで深呼吸をしているばかりだった。自分でも情けないとは思うが……しかし、本当にこの体はガタがきているようで、体力までいささか落ちている。
強制的にフォンスロットに干渉されていることも関係あるだろうが、もしかしたらアーチャーと随分長いこと離れているのも関係あるのかもしれない。ラインは大丈夫でも距離があればいろいろと不都合ではあるのだろう。それでも、体のガタが音素が乖離するほどではないのがまだ幸いといったら幸いだが。
話に耳を済ませてみれば、どうやらルークがイオンを取り返すと気炎をまいていて、ガイがバチカル廃工場のことを話している。ここからはグレンもよく知るとおりになってルークとアッシュがかち合うのだろう。止めるべきか? 自分に対する不安感は、それでも安心感を求めて英雄という言葉への依存をより高める結果になってしまうだろう。しかしどうやって……
いや、それよりも先にナタリアはどうするべきか。バチカルに残して戦争に反対させたいが、モースのことを考えると難しい。戦争に反対するナタリアをルーク達が知らない間に処刑する、くらいは簡単にしてしまうかもしれない。連れて行ったほうがいいだろうか? しかし、それでは確実に戦争が起こる。
一体どうすればいいのか。アーチャーはナタリアの出自を隠し続けたままでは危険だと言っていた。いつかひょんなことから外部に漏れて、下手すれば貴族の一部が王座欲しさ内乱を起こす可能性があると。ナタリアの王女としての自覚や覚悟、成長を促す為にもここの世界でも偽姫騒動は起こしておいたほうがいいと言っていたが……それでは本当に戦争になってしまう。
起きるだろう戦争と、起こるかもしれないもっと悲惨な内乱と。
どうすればいいのだろう。最善が解らない。いつもその場しのぎの善次しかできていないような気がする。それも、ちゃんと良手となっているかすらも解らないのだ。
ぎゅっと握った拳を見つめていると、声をかけられて顔をあげる。そこには心配そうなルークの顔。
「グレン、なんかお前顔色悪い気がするけど……大丈夫か?」
「ああ……大丈夫だよ。で、ルーク。話は決まったのか」
「とにかくこの町を出るために旧市街にある工場跡へ行くんだと。そこからなら外に出られるらしいしな、イオンのことはそこで考えるってさ」
ルークの言葉にそうかと頷き皆を促す。これから起こるだろうひと騒動に一人心中で嘆息しながら。
そして、この世界のナタリアもナタリアだった。強かった。押しても引いてもびくともしなかった。これでは、なんとかバチカルにとどまって戦争をしようとする陛下をとめるストッパーになってもらう、なんて無理な話だ。
アクゼリュスに行くのは誰でもできることですから、とか王女様には王女様にしかできない方法で国を助けた方が良いのでは、とか散々ない頭を振り絞って考えた説得もぜんぶパアだった。そしてやはりルークが脅されている。少しはなれたところでごにょごにょ話しているルークとナタリアを見て、ああもうこれ説得ムリだ、と観念した。
まあモースの息がかかったバチカルに置いていくのはとても不安ではあるし、これはこれで仕方ないことかもしれない。……女性陣の仲が大層険悪なのが気になるが。
ああそうだったな、初めはこんな感じだったんだよな、俺たちのときも。
遠い目をする。どうやら思い出というのは知らず知らずのうちに美化されてしまうようだ。
「よろしくお願いしますわ」
「……ルーク。見損なったわ」
「う……うるせーな! とにかく親善大使は俺だ! 俺の言うことは絶対なんだよ、行くぞ!」
ああ、頑張れルーク。ティアに冷たい目で見られて冷や汗をかいている彼にエールを送る。と、視線に気づいたのかルークが助けを求めるようにこちらを向いた。駄目だルーク、俺をそんな風に見てくれるな。いくら俺でも女性陣には太刀打ちできん。両手を交差してバッテンを作って無理だと伝えると、げんなりした顔になった。
「さあ、では早くここを抜けてしまいましょう!」
一緒に行くことをルークに許してもらえたせいかご機嫌になったナタリアは元気よく宣言し、ずんずん先へと進んでしまう。その後ろに溜息をついたティア、さらに不機嫌そうなアニスが続き、恐る恐ると言った風に残りがついて歩きながら、ガイがこそこそとルークに近寄る。
「なぁ、ルーク。いいのか? このまま連れて行っちまっても」
「そうだぞ。これって下手したら王女様出奔、って取られるかもだぜ」
「しょーがねーだろ。ここでうだうだ言っててもどうにもなんねーんだし。大体ガイもグレンも止めきれなかったじゃねーか!」
小声でこそこそぼやくガイに乗っかって同じくぼやいたグレンに、ルークは不機嫌そうな顔になって反論した。まあ確かにそれはそうだ。それはそうなのだが。そーっと前を向く。久しぶりにブリザードが舞っている。そう、話をしているでもなく雰囲気からブリザードが吹いている。主にアニスとナタリアの間で。うわぁ。
「いや、だってさ……俺マルクト生まれでも一般庶民だし、やっぱ王女様には逆らえねーしさ。ここはバチカル幼馴染たちが止めなきゃだろ?」
「無理だっつーの! 正義魔人モードのナタリア止められる奴なんざ見たことねーよ!」
「俺がナタリア様に敵うと思うか……?」
「…………ははは、無理そうだなー」
グレンはナタリアの後姿を見て、乾いた笑いを浮かべた。常に真っ直ぐ前を向く。うつむくことを許さない。誇り高く王家に相応しい王女たろうと努力し、民を思って歩いていく。まだ若く未熟とは言え、それでもそうあろうとするナタリアは、彼女自身はまだ知らずともその出身に関わらず、王女に相応しい気概と志を持っている。
が、いささか潔癖で頑固なところがあって、一度決めたらなかなか諦めないのだ。グレンとて知っている。もし今無理やり送り返しても、結局アクゼリュスへと出ようとするだろう。それなら初めから目の届く場所にいてもらった方が安全だろうし、……まあ、そもそも今のルークがナタリアを無理やり返せるわけもないのだが。
「お守り役は大変でしょうねぇ。同情します」
「アンタはお守りしないって口ぶりだな」
からかうような口調で話しに入ってきたジェイドにガイが胡乱気な目を向けた。そうすればジェイドは声をあげて笑って、すぐに声を潜めてしれっと言う。
「はっはっは。……当然じゃないですか。謹んで辞退させていただきますよ」
「何をこそこそやっているんですの? 殿方ならこそこそせずに堂々となさい。それが紳士のたしなみではなくて?」
「おや。怒られてしまいました」
はははと笑うジェイドに、男性陣残りの三人は一斉に半眼になる。そして同時に思った。コイツに押し付けられねーかな、と。
どれだけ歩いただろう。途中ではナタリアから敬語を直せとガイが怒られたり、グレンには名前を呼べといったりしていたものだが。グレンとしてはそれだけは何とか回避したかったことなので「しかしなぁ、姫。うん、仕方ないから敬語は諦めるけど、ほら、一人だけいかにも質の良い服を着てるだろう」「これではどうやったって上流階級の人間だと分かっちまう。それならいっそ俺だけでも姫って呼んで、貴族の姫ってことにしといたほうがいいんじゃないのか」と舌先三寸で丸め込んだ。納得してくれたようでほっとしたものだ。
……何人かには怪しむような目で見られたが。
前ではまだ出口ではないのかとぼやいているナタリアにルークとアニスが帰ればいいのに、とぼやいていて、それに対してナタリアが憤慨している。そして喧嘩しだす二人にティアが一言黙りなさい、と……なんだろうあの冷気。恐いよ。なんかルークとティアがブリザード巻き上げてた時も恐かったけど今のほうが何か恐いよ?! とにかくすごく不機嫌そうだ。
巻き込まれた形のガイは遠い目をしている……頑張れガイ。俺は遠くから応援しているぞ。巻き込まれないようにして。
「……グレン。貴方はルークの側にいなくてもいいのですか?」
「じょーだん。今近くにいったらガイみたいになるだろ。……ルークが来いっていったら行くけどな」
「やれやれ、ガイも過保護でしたが貴方も貴方で過保護ですね」
「そーだよ、俺はルークを気に入ってるんでね。悪いか?」
「いいえ。ただ物好きだなとは思いますが」
グレンと同じように皆から少しはなれた後ろを歩くジェイドに突っ慳貪に返すのだが、彼の言葉はどこまでが探りでどこまでが普通のぼやきなのか解りづらいから厄介だ。エミヤならきっとそれもはっきりと聞き分けられるのだろうが、グレンにはまだ荷が重い。溜息をついた。
そして気は進まないが今のうちに聞いておこうと口を開く。
「大佐、あんたはイオンを取り返したらどうするつもりだ?」
「……と、言いますと?」
「連れて行くつもりなのかと聞いてるんだ」
「そうですね……イオン様がどうしたいかで決めれば良いのでは?」
「おいおい冗談だろ、大佐。そんなのあのお人好しの塊のイオンなら行きたがるに決まってるだろーが。アンタ分かってるよな? 陸路でアクゼリュスに行くにはどの道を行かなきゃならねーのか。……イオンに峠越えさせる気かよ」
「そうですね。ですが、再び攫われる可能性があるなら手元においておきたい、というのも本音です」
「……アクゼリュスだぞ。障気が吹き出てるようなところに、体の弱いイオンを黙ってつれてく気か?」
「……しかしアクゼリュス救出が終わるまでは、モースの力が強いダアトに返すのも憚られる。そうでしょう?」
「………………」
グレンは黙り込む。本当に注意しなければいけないのはヴァンで、モースではないのだが……しかし、どちらにしても確かにダアトが危険だ、というのは的を得ている。いっそのこと、ザオ遺跡で保護した後はケセドニアで身を隠しておいたほうが良いのではとも思うのだが、六神将なら簡単に連れ去ってしまえるだろう。
最終手段としてはいっそマルクトだ。グランコクマには今エミヤがいるはずだし、これ以上無いほど安全なのだが……マルクトに誰が連れて行くかと言う問題も残っている。アニスではモースに伝わってしまう。六神将の襲撃に備えるなら、確実に言い出しっぺの自分も同行せざるを得ないだろう。が、今グレンがルークの側を離れるのは得策ではない。
それならやはり、アクゼリュスを降下させるにしてもパッセージリングを操作するにはダアト式封呪を解かなければならないのだからやはり連れて行ったほうが……しかし今のルークには暗示がある。降下など本当にできるのか? 降下するにはまず暗示を解いてからでなければ。その暗示を解くまでイオンはエミヤに任せて……しかし暗示をどうすれば解けるか、なんて知らないのだからどうにもできない。そうすれば後は耐久限界で崩落するだけだろう。どうすれば良い?
思考が纏まらずグレンは舌打ちしながら頭を掻く。グレン自身が超振動が使えたら楽なのだ。超振動が使えたら、ダアト式封呪ごと扉をぶち壊して入れるし、力技で操作もできる。パッセージリングに何を書き込めばいいのかも分かっている。……そう、こんな体でさえなければ。
「これ以上無いものねだりをしてもしょうがない、か」
「……何がです?」
「べっつにー。ただな、大佐。俺はイオン連れて行くのに反対だからな」
「まあ、我々がここで何を言っても、結局はその時にならなければ分かりませんよ」
「よく言うよ。アンタ連れて行く気満々じゃないか……っと、どうしたルーク?」
ふと、前を歩いていたルーク達がそろって足を止めていたことに気づき声をかけた。グレンの声にルークは顰め面をして振り返る。
「なあ、何か妙に油臭くねぇ?」
「ほんと、ひっどいよぅこの臭い!」
「……この工場が機能していたころの名残かな? それにしちゃぁ……」
「おい、嫌な予感がする……気をつけろよ!」
本当は何があるかを分かっているのだが、それは言えない。ただの勘だということにするしかない。グレンが注意を促せば、耳を済ませていたティアが思ったとおりのことを言う。
「音が聞こえる……何か、いる?」
「まあ、何も聞こえませんわよ」
「いえ……いますね。魔物か?」
「上だ、姫!」
「危ない!」
咄嗟にティアがナタリアを突き飛ばす。そして先刻までナタリアがいた位置に振ってきたのは大きな蜘蛛の魔物だ。べたべたとした油の塊を鎧のように着込んだ魔物で、とんでもない臭気に思わず誰もが顔を顰める。それでもとりあえず小手調べとルークとガイがつっこんで切りつけるが、泥のような油に剣が滑って奥まで届かない。二人の顔が歪む。
「おいおい何だこの魔物は!」
「こんなの見たことないぜ。中身は蜘蛛みたいだがな!」
「っへ、相手が油なら焼けばいいだろ。大佐!」
「分かりました」
呪文詠唱に入ったジェイドを攻撃から護る為に前に出る。とは言っても、まともに剣をふるっても油で滑ってはどうしようもないのだが。それでも囮くらいにならなれる。降ってくる足を避けて懐にもぐりこむ。記憶通り、ところどころで油のよろいが剥げていた。そこを的確に狙って切り裂けば、一応痛覚はあるのかいっそう暴れてグレンを踏み潰さんと狙ってくる。
二本足の同時攻撃を避けて、それ以上入り込むことはせず潔く引く。元から時間稼ぎなのだ、ダメージを与えるにはあの鎧をどうにかしてからでいい。ナタリアの弓の援護とアニスの譜術で無理せずに離脱する。
「……終りの安らぎを与えよ―――フレイムバースト!」
まだほとんど封印術が解けていないせいか、グレンの記憶の中にあるジェイドの譜術にしては小さい。けれど、普通に考えればそれでも十分な威力の焔の譜術が炸裂する。魔物が耳障りな悲鳴を上げて暴れだし、油の鎧が剥がれ落ちた。
チャンスだと思い前に出ようとしたグレンだが、突然膝からがくりと崩れ落ちそうになる。咄嗟に剣を床につきたてて堪えた。
「グレン!?」
「馬鹿野郎、ルーク! 俺に構わずさっさとそのきもい蜘蛛倒せ!」
動揺するルークを叱咤して、床から剣を引き抜こうとするのだがそれも叶わない。再び剣に縋りつく。
また頭痛が襲ってきたのだ。痛みは一瞬だが、鋭く脳髄を刺すように突き抜けて、痛みが引いた後も妙にめまいがして立つのが困難だった。舌打ちをする。今いる位置は陣で言えば中衛だ。前衛ほど敵に接近してはいないが、ぼーっと突っ立っているにはいささか危険な位置だった。
……アッシュが工場の外に着いたのだろうか。だからかもしれない。近付いただけでもこうなるとは、弊害としては流石に予想以上だ。断続的に続く痛みに歯を食いしばる。またいつ頭痛が来るともわからないなら、前衛として敵に斬りかかるのは自殺行為でしかない。
ふらふらする足もとを叱咤して一気に後衛にまで下がった。近くで敵に矢を撃っていたナタリアが駆け寄ってくる。
「どうしたのですか、どこか怪我でも……」
「いや、持病がね。治癒譜術じゃ治らないんだ。少ししたら落ち着くから、敵さん倒すのに集中してくれていいよ。ごめんけど俺はこの戦闘抜けさせてもらうから」
「わかりました、ではここで大人しくしてくださいませ」
「ああ、そうだ姫。どうせならあいつの目とか狙える? 油の下も固くてルーク達もてこずってるみたいだけど、どんだけ固くても目まで堅い生物なんて見たことないからな」
「目……分かりましたわ。撃ち抜いて見せましょう」
鮮やかに笑って断言し、すぐに構える。ぎりぎりと矢を引き絞る音。腕は微動だにせず狙いは揺るがず、ルークとガイの両方を一気に潰さんとしたのだろう、大きく足を振り上げて―――顔、らしき部分が丸見えになる。その隙を逃さずナタリアは矢を放つ。その矢は見事大蜘蛛の瞳を貫き、痛みにのた打ち回る魔物をみてアニスがにやりと笑った。
「あれ、お姫様なのに良い腕じゃん!」
微妙にひねくれている賛辞にナタリアも小さく笑うだけで返し、隙をみてもうひとつの目も撃ち抜く。完全に視界を潰された魔物は、さらなる痛みに打ち震えてめちゃくちゃに暴れていた。
「ルーク、今だ! とどめ刺せ!」
「おお!」
ティアの譜歌とアニスの譜術で動きが鈍くなっている大蜘蛛の脳天にルークの剣が突き刺さる。ルークはすぐに剣を抜き距離を取って魔物を見ていたが、びくん、と一度体を固くして、すぐに動かなくなった。やっと終わったらしい。
そしてルークは剣を納めると、何よりもまずグレンのほうへとすっ飛んできた。
「グレン! おい、お前なんかどっか悪いんじゃねーだろうな!」
「はれ? あ、いや。俺? ここは普通初陣なのに結構活躍したっぽい姫とかに言葉を……」
「んなのは後だ!」
「……そーかい」
ちらりとナタリアのほうを見る。むっとしているかと思えば、彼女も心配そうな目でこちらを見ていた。おお、なんだろうちょっと嬉しいかもしれない。
「ああ、大丈夫だよ。ちょっと偏頭痛もちでね」
「え……お前も突然頭痛とかきたりするのか?」
「まあなぁ。今まではこんなにひどくは無かったんだが。ま、それは置いといて。良い腕じゃないか、姫」
「いいえ、着いて行くと言ったからにはこれしきのこと出来なければ。それよりも……あの、ティア」
「何?」
「……ありがとう。先ほどは助かりましたわ。……貴方にもみんなにも迷惑をかけてしまいましたわね」
「……いいのよ」
あ、なんだか軟化してる。そうだよこうだよ、こうでなくちゃ。小さく口元を緩めていると、ルークになんだか半眼で見られる。いや違うよ? そう言う意味でにやにや見てたんじゃないぞ? 俺にはちゃんと他に好きな娘がいるんだからな! ……なんて言えるわきゃねーだろ馬鹿野郎!
「さて、こんな油っくさいとこにいたらまた頭痛が来るぜ。さっさと出よう」
「おーい、皆! 非常口みたいなのがあった! ちょっときてくれ!」
ガイの言葉の通りに皆が集まる。出口に近付く。そのたびにひどくなる頭痛。繋ごうとされるときほど酷くはないが、それでもこの感覚は知っている。間違いない、アッシュだ。彼自身の意図もなく、捩れきった本来ありえない関係と繋がりにグレンの体が反応しているのだ。同調フォンスロット。ルークは閉じている。グレンは開いたまま。その捩れがここであらわになっただけの事。
「……上等だ」
そのほうが都合が良いと願ったのは自分自身だ。
全ては自身の願いを叶える為に。