イオンを返せ、と。坂を走り降りながら剣を抜き、ルークはアッシュに切りかかる。
グレンは無言でそのすぐ後ろへ続き、シンクと斬り結んだ。
後ろのほうでガイがルークの名前を呼んでいる。
「おい、いい加減に前俺が言ったこと分かったかよ?」
「はん、何のことだかさっぱりだね!」
「そーかい。でも本当は、分かってても分かりたくないだけなんじゃねえの?」
「……黙れ!」
シンクが感情的な声を上げ、頭痛と吐き気を堪えながら斬り結ぶグレンには少し荷が重くなる。それでもシンクの攻撃を捌き切り、距離を取った。シンクは一瞬の激昂のまま追撃しようとしたが、記憶の中よりもいくぶん動きが鈍いグレンに不審な目を向けている。しばらく無言で対峙するが、未だに無言で睨み付け合う赤毛よりも何をするべきかを知っていたようだ。
「アッシュ! 今はイオンが優先だ!」
「わかっている!」
ぶっきらぼうに答えたアッシュは無言でルークに駆け寄ろうとする仲間達を見やって、その瞳がたった一人に向けられた。驚いた顔をするその人からすぐに視線をそらし、殺意を隠さずルークを睨み付ける。
「いいご身分だな、ちゃらちゃら女を引き連れやがって」
それだけを吐き捨てて、アッシュはシンクと黒い陸艦と共に走り去ってしまう。
それを呆然と見送っていた後、気分が悪くなったのかルークは蹲って口元を押さえていた。そんなルークにグレンは近付く。そして一度ぐしゃぐしゃと頭を撫でた後、その隣にしゃがみ込んで落ち着かせるように背中を叩いた。予想外の出来事に混乱して、不安そうな目でこちらを向いてくるルークに安心させるように笑いかける。
「な、言ったとおりだろ。世界にゃ似てる顔が三人、ってな。一人と会ったな、ビックリしたのか?」
「ああ……そう、だな」
ルークはグレンの冗談めかした励ましの言葉に笑い返そうとしているのだが、どうにも上手くいっていない。心臓の辺りを服ごと握って震え続けるルークに、それでも笑いかける。再び立ち上がって、俯くルークの頭をぐしゃぐしゃなで続けた。
特段何も言うでもなく、ルークはその手を甘受している。
「さて、イオンは連れてかれるし六神将に会った時点で囮作戦は失敗だし……どーする? これならいっぺんバチカルに帰って船を使ったほうがいいんじゃないか?」
「無駄ですわ」
「……なんで」
ナタリアの言葉に質問を投げかけたのはルークで、ふらふらとしながら立ち上がった。もう大丈夫なのか、と目で問えば、ルークの口元が小さく歪む。大丈夫だと傲岸に笑い返したつもりらしいが、はっきり言って強がりにしか見えない。
「無駄、って事は港を封鎖でもしたか? 姫」
「ええ、お父様はマルクトを完全に信じてはいませんもの」
「なら、陸路を行ってイオン様を捜索しましょう。仮にイオン様が命を落とせば、今回の和平に影響が出る可能性がゼロではないわ」
「そうですよ! イオン様を捜してください! ついででもいいですから!」
「あなたが決めてください、ルーク。この中での責任者はあなたです。イオン様を捜しながら陸路を行くか、あるいはナタリアを陛下に引き渡して港の封鎖を解いてもらうというのも……」
「そんなの駄目ですわ! ルーク、分かっていますわね!」
「だー、うっせーなぁ! ちょっと黙れ!こっちゃまだ気分がわりーんだよ!」
一度大きな溜息をつき、陸艦が去って行った方向を見る。雨の中だというのにそのまま濡れていた友人の姿を思い出して、ルークの表情が険しくなる。
「陸路! ナタリアを連れてかないと色々ヤバイし、イオンをあのくそったれどもから助けてやんなきゃなんねーし、それに、」
―――俺は英雄にならなきゃいけないんだから。
俯いたルークが独り言のようにポツリと溢した言葉が聞こえたのは何人いただろう。それは、スコア通りに英雄になるためには確実に和平を進めなければいけないから、イオンを取り返さないと、ということに続くのだろうか。
しかし違和感にグレンは怪訝な顔をする。英雄に『ならなければ』? なりたい、ではなく?
英雄に、そう言ったときルークはグレンの右腕を見た気がした。解らない。浮ついた気分に占められていた自分のときとは違う、どこか強迫観念に襲われている目をした、義務感に駆られたようなルークの言葉の意味が。
「……ルーク?」
「陸艦の立ち去った方角から見ると、ここから東ですから……彼らはオアシスの方向へ行ったようです」
「私達もオアシスへ寄る予定でしたよね。ルーク様ぁ、追いかけてくれますよねっ!」
「ああ……」
小声で呟かれたグレンのルークの名を呼ぶ声は、次々に進んで行く仲間のことばに埋もれて届かなかった。陸艦の去った方向をみて、こみ上げる気持ち悪さを堪えるような表情をしたルークを見る。
……ヴァンは、恐らく自分の時とは違う言い方でルークをあおったのだろう。こんなにもルークが切羽詰った顔をしているのだから、一体どんな言い方であおったのか解らない。まだ、英雄と言う言葉を嬉しそうに願うのならば不機嫌になられても説教しなければ、と思っていたのだが……この表情は何を意味している?
深呼吸でもして落ち着いたのだろうか、いくぞ、とだけ行ってルークはさっさと歩みを進める。その背を見ながら仲間たちはアッシュのことについて小さく言い交わし、グレンは一人で黙考してついて行った。
海沿いに街道を進んで数日、遠目に見える砂漠にルークが驚いた、と声をあげた。
「砂漠……へぇ、アレが砂漠か。本当に砂しかないんだな」
「げぇ……もう砂漠かよ」
うんざりとした声をあげたのはグレンだ。見る景色全てがいちいち真新しいルークとは違って、グレンはそう感嘆の声をあげられそうにない。遠目に見える砂の丘。風が吹いて砂に刻まれた紋は遠目からでも見える。風が吹くたびに刻み方を変えるそれを、楽しく思って見ていれたのは砂漠に入っていつまでだったか。遠い日を思い出す。後少しでも近付けば、風に乗って小さな砂漠の欠片の粒か飛んでくるだろう。
がりがりと頭をかいて、空を見上げる。黒い曇り空。
「ルーク、今日はここで夜営をしといたほうが良い」
「はぁ? なんで……まだ進めるだろ。早くイオンを、」
「砂漠はなぁ……雨が全然降らないんだ。もう本当にな、死ぬほど降らねぇ。でもこの空見ろ、丁度よく今日は降りそうだろ? なら、ここで夜営してついでに雨水から飲み水作っといたほうが良い。うん、絶対。これ絶対。じゃなきゃ死ぬ。喉の渇きで死ぬ。ヤバイって」
「……砂漠に行って、夜の間に溜めときゃいいんじゃねえか?」
「ルーク……いいか、覚えとけ。夜の砂漠の雨は……地獄だ……」
「は? あ、ああ……そうか」
遠い目をして砂漠を地獄だ、と証するグレンの目の生気の無さに些か引き気味になったルークがカクカクと頷いた。が、グレンがどうしてそうまで言うのか理由が分からず首を傾げている。ここで教えてやれば簡単だが、それでは面白みがない。
そこでグレンはいつものようににやりと笑ってルークに問題提起をする。
「そうなんだよ。じゃあルーク、久しぶりの連想ゲームだ。何で砂漠で夜の雨は地獄だ、って俺が言うと思う?」
「は? そんなこと急に言われても解るわきゃねーだろ」
「まーまーまー、全部言え、なんて言ってねえよ。取り合えずここから見てみろ、砂漠。何か一つ思いつかね?」
「全部砂で、草も木もなくて、ずっと砂で……ああ、雨が降ったら避けようが無くて直撃? でも雨避けくらい…」
「いや、当たってるぞルーク。砂漠じゃまともに雨をしのげないんだよ。砂漠の砂は粒子が細かくてさ、雨避け作ろうにもまともに布も張れねーんだ。結果直撃」
「うげぇ……」
今まででも旅の途中で雨に降られたことはある。それでも簡単に雨除けを作ったり、雨をしのげそうな森に入ったりしていたのだ。ルークはまだ雨を避けることもできず直撃する下で眠ったことなどない。が、どうやらグレンには身に覚えがあるようで、その時のことを思い出しているのか本当に嫌そうな顔をしている。
なんというか、乾いた目というか鮮度が落ちきった濁った魚の目というか、あまり楽しくなさそうな目だった。
「寒いし冷たいし体は冷えるしでも空に文句言っても止まねーし、そもそも寝れやしねぇ。雨に打たれてむしろ疲労は溜まるし、でも一日中起きてても次の日体が使いもんにならないし、頑張って寝るんだが……いや本当に砂漠の夜の雨はなぁ……」
二度と経験したくないね、と言った後、グレンは更に溜息をつく。それだけじゃない、と言った後に続いた言葉に、ルークも今度こそ顔を引きつらせる。
「それにだ。昼と夜の温度はひでぇし、雨避けれないから火をたけないし、そしたら夜行性の魔物はうじゃうじゃ寄ってくるし、ホーリーボトル蒔いてもすぐに雨で流される。でもやっぱり身を隠すとこなんて無いし、おまけに砂漠は夜盗だの盗賊だのが多いからな。下手すりゃ集団で夜襲かけられたら相手もこっちも死に物狂いだ。何とかしのいでもまた来るんじゃないか、ってなかなか寝れやしねえ。で、朝起きて進もうにも体力限界、疲労は取れない、まともなもんじゃねぇ」
「なんなんだよそれ……砂しかねえのにそんなに厄介なのか」
「そーなんだよ。オアシス着いたら命生き返る気がするくらいひでぇんだぜ。だから、明日に備えて今日はここで休んどいたほうが良い。大佐、異論は?」
「いえ。貴方がそういわなければ私から言っていたでしょう。今日は明日に備えてしっかり休養しておいたほうがいいでしょうね」
「そうか……ま、グレンの言うとおりになったら勘弁だしな。今日はここまでにするぞ」
「よっし、決まりー。じゃあ雨しのげそうなのは……ねえな。今のうち簡単に雨避け作っとくか。ルーク、手伝ってくれ」
「へーいへい。ガイ! お前も手伝えよ!」
「ああ、解った! じゃあ女の子たちは料理を頼む」
「おや。私はすることがありませんね、では料理のほうを手伝いますか」
「待て大佐ーーー! アンタな、こっち手伝おうとはしねーのか!」
「私は肉体労働が苦手でしてね。最近は腰も痛くて……」
嘘付けこの現役軍人鬼畜眼鏡。と、つい同じことを思ったルークとグレンだったが口に出すほど冒険家でもなかった。でも多分手伝ってもらったら手伝ってもらったで、その途中で色々といじられそうで嫌だ。しかし料理をさせるのも、嫌だ。何を入れるか解らない。グレンの記憶の中で奴が言っていた言葉が蘇る。
『勿論。命の危険の少ない人体実験なんて貴重でしょう? 有効利用しないと』
命の危険が『ない』、とは言い切らない男なのだ、ジェイド・カーティスという奴は!
どうする、とルークに目で訴えられて、しかしどうすればいいのかわからない。ガイを見てみる。旦那に料理はやめさせてくれと目で訴えられた。だから俺にどうしろというんだお前達。俺にだって無理なことはたくさん在るんだぞ。しかしジェイドの料理。それならナタリアの料理とどっちをくらべれば……いや待てよ。ナタリアの……料理?
突然くわっとした顔でガイのほうを振り向いたグレンに、ガイとルークはビックリする。かなり切羽詰っている表情だ。
「色男。『女の子たち』に料理を頼んでいたよな。……それは、姫も、込みか?」
「え? ああ、うん。そうだが……」
「大佐! アンタ今すぐ胃薬作れ! 大至急だ! 先に飲む奴と後に飲む奴! むしろ麻酔と言うか鎮痛剤と言うか……明日歩ける程度になっとかんと話にならん!」
「「「は?」」」
「いや、これは俺の勘だがな! ああいう上流階級のお嬢様系はな、絶対的に……!」
ちょっと待ってナタリア! 包丁、包丁を振り回さないで危ないから!
ちょお、お姫様なにやってんの?! 危ない、危ないって!
はあ! はあ! はああああ!
ええええええ!?
まな板がもったいないよぉー。
包丁ってあんなによく切れたかしら……あ! ナタリア、鍋吹いてる!
って言うか、それよりなんでこの状態でもう鍋吹いてんの! そっちのほうが驚きなんですけど!?
ああ、ヒール、ヒール!
……鍋の焦げ付きはヒールでも治らないと思うわ。
どーかんでーす。
そうですわね。では鍋を使わず……。
そのまま?!
それは流石に無いで――ああ、焦げた!
よく焼けましてよ
焼 け す ぎ でしょ!
で、でもティア、一応これ焦げたとこ取れば何とか……あ、中火が通ってない。何で?! ナタリアすごいよ、ある意味天才だよね! 本当に!
そんなに言われても何も出ませんわよ
…………誉めては…
…………無いんだけどねぇ…
「「「「………………」」」」
背後から聞こえる、なんだかすごい音に男性陣の背筋に汗が伝う。後ろは振り返っちゃ駄目だ。ガイとルークの目が一斉にこっちに向けられる。なんだか縋りつくような目をしていた。だから無理だって。俺にどうしろと! 引きつった笑顔を返す。二人の顔が絶望にまみれた。うん、気持ちは解るよ。でも多分アニスとティアがいるなら二人の作った料理は……無事だと信じたい。信じるしかない。
でももしかしたらルークはナタリアの押しで愛の手料理を食べさせられるかもしれないけれど。とは言えない。そんな死刑宣告俺にはできない! 生きろ、ルーク……生きるんだ!
「ですがあの張り切りよう。ルークのためかもしれませんねぇ。我々はともかく、ルークはナタリアの料理を食べなければ彼女は止まらないんじゃないんでしょうか」
「なんだとぉ?! ふっ、ふざけんなよ!?」
「いえ、でも考えてみてください、ナタリアですよ? あり得そうでしょう」
「…………」
大佐ああああ! 俺が言えなかった死刑宣告をこうもあっさり言うとはなんという鬼畜だ。それともこれがお前なりの優しさなのか、と思いたいがその笑顔は何だーーー!
魂が口から出て行きかけているルークがふらりと倒れそうになるのを支える。しっかりしろ、寝てたら気絶してる間に口に入れられて本当に死ぬぞ。ガクガクとゆすってみれば、がしりと腕を捕まられる。必死だった。とにかく必死な目だった。今だけならヴァンよりも頼りにされている自信がある。それくらい必死な目だった。
「グレン……っ! 頼む、どうにかしてくれ!」
「解ってる、解ってるんだルーク……しかし、俺ではあの姫を止められねぇ。くそ、エミヤがいれば……」
いや、居ても無理かもしれないが。なんたってあのナタリアだ。鍋の焦げつきをヒールで直そうとするナタリアだ。外はこんがり中は半生を地で行くナタリアだ。もちもちするはずのものがねっちゃねっちゃして、ぱりぱりするはずのものがぬっるぬるになって、ふっくらするはずのものがかちこちになるナタリアの料理の腕だ。
……いくら腕のいいエミヤでもあのフォローは出来ないだろう。しかしルーク、そんな捨てられる子犬みたいな目で俺を見るな! ああ、けれど俺の願いはルークが生きることなのだから…っ!(錯乱中)
「ルーク……お前は王族だからと俺が毒味係りを買う。……グランツ響長にレイズデッドを頼んでいてくれ……あとライフボトル十個くらい用意してくれ。十個だぞ、タトリン奏長がケチっても十個は用意しといてくれよ」
「え……今回はアニスでも流石にケチらないだろ。でもグレン、それじゃお前が!」
「おいおい、本気か?」
「止めてくれるな色男。漢グレン、友の命を生かすために散ってやろうじゃないか……っ!」
「いや散ったらだめだろう……。おい旦那。そこでニヤニヤしてる暇あったら、グレンの言った通りとりあえず薬作っといてくれよ。こっちは俺らがやっとくから」
「そうですねぇ。自分から胃を障気の渦へ叩き込むような気概に打たれて胃薬でも作っておきますか。まあ、明日になって砂漠越えの時に戦えなくなられては困るのはこちらですから」
ひらひらと手を振ってジェイドは道具袋を漁りだす。どうやら本気で胃薬を作ってくれるようだ。ジェイドはジェイドで今一信用ならないのだが、それでも誰より冷静な現実主義者でもある。明日のことを考えても、変な薬は作らないだろう。何せこの道行きにはイオンの命と、ひいては和平の締結がかかっているのだから。
雨除けを作りながらこっそりと後ろを見る。
……ティアとアニスも結構必死だった。頑張っていた。でもあまり後ろはみたくないなぁ。
ごめん、エミヤ。自分の願いを叶えることもできずに先立つ不幸をお許しください。遠い相棒に別れを送る。さて、今のうちに遺言を考えておこうか。
「グレン、生きてるかー」
「なんとか……なんかたくさん懐かしいひとが綺麗なセレニアの花畑で手を振ってたけど……あれってどこの渓谷? うっかり嬉しくて走り出したくなっちゃったよ」
「駄目だーーー! バカ、それめちゃくちゃやべぇじゃねーか!」
「ルーク様の言ってる通りだって、グレンー。しっかりしてよ、イオン様も泣いちゃうから!」
「あー、いや、でも大丈夫だよルーク、奏長。今行ったら手を振ってた当のご本人に叱られるからいけない。まだやりたいこととかあるからな……ああでもどうしよう、あいつに馬鹿って言われるのも嫌いじゃない……」
「何いってんの?! 正気に戻って!」
「お前もディストみたいにマゾだったのか……?」
「ちっがああああう! ルーク、それは違う! 違うんだ! だって可愛いんだよ! 拗ねたみたいに言われちゃったらおかしいくらいどぎまぎしちゃうんだよ! 分かるこれ!?」
「わっかんね」
「ちくしょおおおおおお!!」
さあさあと雨が降っている。簡単な雨避けを作ったとは言え、端に寄れば風に吹かれて雨に濡れてしまう。わりと中心と言う安全なポジションにおいてもらえているのは多分慈悲だろう。頑張って焦げを落とした鍋に雨水が溜まる音が聞こえる。大声をあげてばたばたと駄々をこねていたら頭の上に置かれていた、いかにも病人、と言うタオルが落ちかけて慌てて掴んだ。それを取って、体を起こす。
ああ、眩暈が。これは頭痛の後遺症とかではないことは分かっているが。大声は出せていたけどまだダメージが体に蓄積しているのだろうか。どんな料理だよ。ふらぁと後ろに倒れかけたグレンを間一髪でガイが支える。
「大丈夫か? ほら、旦那の胃薬だとよ」
「ああ、さんきゅ。……で、姫は? 落ち込んでないか?」
「…………いや、その、落ち込まなかったらそれはそれで問題だと思うんだが」
「ええ? でもあの姫が落ち込んでるなんて似合わないじゃないか。元気出せって言っといてくれよ」
「あー……グレン、その励ましに逆に落ちこんでるぞ」
「え、マジ?」
「私、料理本当に苦手ですのね。本当にごめんなさい、グレン。まさかまずいだけならともかく、致死量にいたる毒扱いの料理を作ってしまうなんて……」
「ははははは、王家秘伝の必殺技ですね。いい腕です」
「……………………」
「大佐、これ以上ナタリアを落ち込ませないでください!」
「ありがとう、ティア……貴女は本当に優しいひとなのね。でも良いのです、彼の言うことは本当のことなのですから」
「で、でもこれから頑張れば……なんとか……」
なるんじゃないのかしら、とは言えなかった。流石にティアも。料理という名の効果覿面な激毒を見てしまった後では。
ちらりとティアが振り返れば、ティア、頑張って励ましてやって! といわんばかりにぐっと拳を握る、顔色が真っ青になったままのグレンがいた。でもできればもう一度チャレンジしようとは思わない方向で励ましてやって、と音律士のティアになら辛うじて聞き取れるくらいの声量で言ってきていた。とんでもない無茶振りだ。
グレンが気づくまで彼の枕元にかじりついて離れようともしなかったルークは、今ではいつものふてぶてしさを取り戻していて、ぎゃあぎゃあ喚きながら未だに青い顔色のグレンを寝かしつけようとしている。傍から聞いていれば怒っているようにしか見えないのだが、多分彼なりの心配なのだろう、あれでも。
その横でアニスはそのグレンとルークのやり取りをみて、あれ、案外これ……ライバルってもしかしてグレン? などと小声でぼやいている。ガイはそんなふうにでも誰かを気遣えるようになっているルークにジーンとしているようだった。あれではまるきり親ばかだ。
長々と溜息をついて、ナタリアをみる。分かりやすく落ち込んでいて、まあ流石にあれでは落ち込みもするだろうが……何とかならないものか。
そんな風に、それでも頑張ってナタリアについているティアを見てグレンはくすくす笑ってしまう。アニスとガイにもティアの応援に行くように言って、ルークを見る。不機嫌そうな顔をして、こちらを見ていた。今なら、少し近いとは言え雨音で皆には聞こえないだろう。
「なあルーク、聞いていいか」
「あんだよ?」
「なんで英雄に『なりたい』、じゃなくて『ならなきゃ』、なんだ?」
「――――……」
ピクリ、とルークの眉が動いた。まだこのころは嘘がつけないお坊ちゃまの癖に、それでも必死に無表情を装うとしている。空気が冷える。それでも、これだけは言っておかなければならない。
「なあ、ルーク。英雄ってのはな、そいつの手は血まみれなんだ。英雄は、手さえ打っていればどうにかなっていたはずの事を打たずに、結局起きてしまった悲劇を誤魔化す為に為政者が祭り上げるスケープゴート。ろくでもないものなんだぜ」
「……違う。俺は、アクゼリュスに行ってるじゃねーか。それは、伯父上が手を打ってるってことだろ?」
「そうだな。それがスコアに読まれていなくてもお前が選ばれていたなら、手を打ってるっていえるだろう。でも、スコアに読まれてるから、って理由で打った手は打ってないのと同じだよ。自分の行動が何を起こしてどうなるかを考えずに、スコアだのユリア様だのに言われたとおりに流されてるのと同じなんだから」
「…………っ!」
言われた言葉に伯父達だけでもなく自分のことも言われたように感じて激昂しかけて、それでも黙り込む。ここら辺は、ルークにしては驚くべき成長だろう。それだけをぼんやりと思いながら、グレンはルークを見ていた。不機嫌そうな顔を見ながらも、ここから離れて行こうとはしない。話を聞こうとしている。あの頃の自分なら間違いなく激昂して暴言を吐き、そのまま罪悪感もなく己の正しさを信じていただろうに。
本当に、かつての自分を比べてみてもこの世界のルークは真人間だ。
「俺一人ならきっと駄目でも、アクゼリュスではヴァン師匠がついてる。なら、上手く行かないわけがないんだ」
「そうだな。一人でも無理なら二人でならできるかもしれない。でも、ヴァン謡将だって神じゃない。人間だ。二人だけで無理なら三人、三人で駄目なら四人。そう言うふうに信じられる人間を、もっとお前は持つべきなんじゃないか?」
「……っ、勝手なこと言うなよ! お前知ってるだろ! 俺は、ずっと屋敷に閉じ込められてたんだぞ!」
ついに怒ったルークが大きな声を出し、グレンを睨みつける。その声に不穏なものを聞き取って、今までナタリアの方に向いていた意識がこちらに向けられた。慌ててこちらに来ようとするガイを手で止める。
「俺がいるだろう、ルーク」
「っ!」
「俺はお前が信頼するに足る人間には値しないか?」
「それは……でも、」
ヴァンに誰にも言うなと言われたから。それもあるが、ルークはグレンにだけは言えない理由があった。何故英雄にならなければいけないのか。
それを知ってしまえば、グレンはきっと気にしすぎだと笑うだろう。いい加減に怒るかもしれない。それでも、ルークにとってグレンが信頼できる、大切な友人だからこそ黙っておきたことがあったのだ。子どもの我侭だと大人はいうかもしれない。それでもこれだけは、と護りたいものがあるのだ。決めた思いがあるのだ。
だからこそ、ルークはグレンには言わない。しかし、グレンはそんなルークの心境を知ることはできない。
「スコアに詠まれたと伯父上も父上も言っていた。だから、俺は英雄になる」
「英雄なんてのは言葉でかざった人殺しだ。絶対に碌なもんじゃない。注意しておいたほうが良いに決まってるんだ。そもそもだ、スコアに詠まれた? 可能性のひとつだよそんなのは。なら、あなたは死ぬと詠まれたとして、スコアが言うならと諦めるのか? ばかばかしいだろう、スコアは絶対なんかじゃない。人の願いで覆されるべき可能性のひとつだ」
スコアを『そんなの』扱いしたグレンの言葉に、ティアやアニスなど教団員だけではなく、ジェイドまでもが驚いた顔をした。まあ確かに、今の彼らには爆弾発言だっただろう。それでもグレンは撤回させる気もなかったのだが。
「英雄が、全部人殺しだなんてわけじゃないだろう!? 戦争を回避させれば、俺は」
「誰も殺さないまま英雄になれる? それが胡散臭いってんだ。話が上手すぎるだろう。英雄は、そもそもがどうしようもなくとんでもない数の命を喰らってなるものだ。無血の英雄なんて御伽噺の世界にしかいないんだよ」
「じゃあ、俺がひとを殺さないままの英雄に初めてなればいいだけだろ!」
怒りのまま立ち上がって、雨が降っているというのにここから離れようとする。それでも、グレンがルーク、とその名を呼べば立ち止まる。雨が降っている。土砂降りと言うほどではないが、それでもさあさあと降り続く。雨でぺたりとした前髪に隠れて、ルークの表情はよく見えない。
ただ、どうしてグレンが自分のやろうとすることを否定するのかと、泣き出しそうな表情になっているようにも見える。
「お前は英雄なんて胡散臭いものにならなくて良いんだよ」
「……俺はっ!」
「ルーク。お前は、ただの一般人で良いんだ。ちょっと乱暴でちょっと我侭でそれでも本当は笑っちまうくらい真っ直ぐで優しくて不器用すぎて。そんな、ただの、ちょっと身分の高いだけのお坊ちゃんでいいだろう」
とんだ暴言だ。とてもではないが王族の人間に吐いて許されるような言葉ではない。本当にとんでもない暴言なのに、なんだか同じ目線からぽんと放たれた言葉のようで、ヴァンにお前が必要なのだといわれた時みたいに嬉しくて、ルークは舌打ちをしたくなる。
英雄になれといわれた。そのままで良いといわれた。
……嬉しいのはどちらだったのだろう?
「何度も言ってるだろう? 俺は、そういうお前のままのお前が結構嫌いじゃないんだぜ、ってな」
「でも、それじゃあ、駄目なんだ」
雨音にかき消されるくらいの小さな声で、ルークは呟く。
グレンの右腕に視線を投げかけながら。
「俺は―――英雄に、ならなきゃいけないんだから」
それだけを呟いて、ルークはどこかへ走っていく。その背を見送るグレンの瞳はとても悲しそうだった。
「色男、ルークを頼む」
「え……あ、ああ」
すぐに走り出そうとして、ぐいっと裾をつかまれてガイはつんのめりかける。どうしたと問えば、グレンは小さく笑いながら言う。
「悪いけどな、ルークに伝言頼めるか」
「……なにをだ?」
「明日の朝飯は俺とルークで共同作戦をはる。風邪引く前に戻って来い、ってな」
「ああ、わかったよ」
意地っ張りの坊ちゃんには伝わるか伝わらないか微妙なところだが、多分伝わるのだろう。ルークと同レベルの意地っ張り具合の言葉に、ガイは笑いながら頷いた。
久しぶりの没ネタNGシーン。
お姫様のどたばたクッキング前ふり。
「あらティア。それはなんですの?」
「ああこれ、これはね」
「これはねー……セントビナーまでいたらしいグレンの従者さんが書き残して言ったといわれる、伝説のレシピ集なんですよぉー?」
「あ、アニス? ……それはちょっと違」
「まあ、伝説の? それは素晴らしいですわ、少し見せていただけて?」
「はあ……どうぞ」
「ほんとーにすごいんだよ、もうこれアニスちゃんとしてはタルタロスに乗ってる間にぜひとも料理について語り合ってみたかったって言うかぁー」
「あの、ナタリア? 読む方向逆……いえ、後ろのは普通のレシピじゃなくて……」
「まあ、これはすごいですわ! たった一種類の材料でこんなにフルコースを作れるなんて! さすが伝説のレシピ集! 素晴らしいですわ! 決めました、今日はこのフルコースを決めましょう!」
「ええ?! あの、それはちょっと……、ね、そっちじゃなくてせめてきのこの方、を……」
「あら、何故ですの」
「に、ニンジンは……その、残りが……少ないから……?」
「あはは、ティア必死~」
「そ、そんなことないわよ!?」