アニスに、導師イオンへ「ガイのカースロットを今のうちに解いておいてくれ」と伝言を頼んでユリアシティの中を行く。そろそろルークはテオドーロ市長と話が終わったころだろうか。市長がいるはずの部屋へ行く途中に、会いたくもない男と目が合ってしまった。おや、とそれでも一応笑顔を向けられて思い切り舌打ちをする。
「酷いですねぇ、眼が合った瞬間に舌打ちをするとは」
「貴様と私の間で和やかに笑顔を返せというのか? 冗談も過ぎる。丁重に辞退させていただこう」
「はっはっはっは、いやー、優秀な人材に嫌われるとは、悲しいものです」
「よく言う。お互い様だろう」
ここにグレンがいればお前らいい加減にしろよな、とでもぼやいていただろうか。自分が感じているのが埒の無い感傷だと知っている。アーチャーは軽く頭を振ってその感傷を追いやった。
「こちらに何の用だ?」
「……ティアからルークの様子がおかしいと聞きました」
「気のせいではないのかね」
「感情が削げ落ちているようだと。……少し一人で落ち着かせようとしただけだったんですがね。貴方は、ルークに何をしたんですか」
溜息をついて、説明する。どうせいつかは言わねばならないことだ。いや、いっそ下手に隠すより言ってしまったほうが良いだろう。ルークは彼らから離れようとしているが、グレンはルークが一人になることなど望んではいなかった。今の現状を知っていてもらったほうが、余計な齟齬も少なくなる。
グレンを救命するにはそうするしかなかったこと、そのために譜陣と譜眼をありったけ刻み込んでその後も少々無茶をさせてオーバーロードさせてしまったこと。譜陣を刻むのは素養がなかったら精神汚染だが、素養があってもキャパシティ以上の第七音素を集めすぎたのだろう、弊害は感情障害として現れたこと。
そしてその結果の感情減退。いや、むしろ九割九分九厘削がれたといったほうがいいだろう。
ざくざくと要点だけをまとめられた話を聞いて、ジェイドが少し苛ただしげに眼鏡に触れる。
「感情の減退……譜陣を……いや、譜眼? なるほど、左目を隠していたのは…。まったく、人外殿は嫌がらせがお好きなようだ」
「処置をしたのは私だが、自分などどうなってもいいからグレンを助けろといったのは小僧だ。それに、技術というものは開発した側にではなく、使用者側にどう利用するかは委ねられる。それが技術というものだろう」
「ええそうですね、分かっていますよ。分かっていますが、嫌がらせだと言ってみただけです」
「なるほど、人間らしい感情だな」
「また嫌味ですか」
「そのようなつもりは決してないのだがね、大佐殿?」
ニコリと笑って言われたセリフに、アーチャーもふっと笑って返す。表面上はにこやかだ。しかしここにルークかグレンでもいたら、きっとブリザードの発生を幻視していただろう。しばし睨み合っていたが、珍しいことにすぐに両者とも視線をそらす。
そして相手の目を見ないまま交わされる会話は、これからのことに対する事実確認だ。
「ルークはこれからどうするつもりなんです」
「あの状態では君達と共にいても不協和音のもとになるだけだと私と二人で行くつもりだったそうだがね。超振動の制御はできるようにと、第七音譜術師のグランツ響長についてきてもらおうと思っている。
パッセージリングが崩落したことにより恐らくだが他の外殻大地も崩落する危険性があるが、パッセージリングの作動にはユリアの子孫が必要だ。グランツ響長についてきてもらったのならそれはこっちでなんとかしよう。
……タルタロスを外殻大地に打ち上げる方法がある。タルタロスに音素活性化装置を取り付ければ、一度だけだがアクゼリュスのセフィロトを利用して外郭へ上がれる。貴様らはそれを利用して外殻大地へ行けばいい。とりあえず戦争を止めるように動いてくれると助かる。……それと、アッシュが今この町にいる。超振動を使えるあれを連れて行ったほうが、何かあったときも便利だろうよ」
「アッシュが? しかし、その情報をどこまで信じてもいいと?」
「私の主はとにかく無駄に勘がよくてね。あの髭は絶対きなくさいからと私に内偵を勧めるように申し付けていたのだ。実際にこの私が潜っていくつか探った内容だ、信用できないか?」
「いえ……ただ、何時から調べているのかは知れませんが、随分と腕の良い諜報員だと思っただけです」
「ああ、なんせ私は人外だそうだからな」
話はこれで終わりだとアーチャーが去りかけて、それをとめる声がする。最後にひとつだけ聞かせてもらいたい、と言う言葉に、振り返らず立ち止まるだけでその続きを無言で促す。
「アクゼリュスで私たちがあの場所にたどりつく以前、……一体何があったんですか」
「……ルークがヴァンに騙されて、かけられた暗示でパッセージリングを崩壊させかけた。そしてルークにアクゼリュス崩落を負わせたくなかったマスターが無茶をして、壊れかけたパッセージリングに止めをさした。……それだけだ」
「なるほど。だからグレンのためにルークも無茶をしたというわけですね」
「あそこでグレンが死んではそれこそルークが壊れていただろうからな。……全く、私のマスターは誰も彼もが後先も考えず突っ走るのだから困り者だ」
「諌めるのが従者の仕事では?」
「できたら苦労はせん。それに……グレンに似たところは少なからず私にもあってな。私の言葉では止め切れんのだ」
「それにしてもパッセージリングを破壊、ですか……グレンは……もう一人の『レプリカルーク』ですね?」
「さてな、そういうことはマスターが起きたら直接本人に聞け。話して良いと思ったなら彼から話すだろう」
「なるほど、否定はしないと。分かりました、彼がおきたら直接聞きますよ」
「ではな、ネクロマンサー。世界中を走り回っていればいずれ会うだろう。それまでせいぜい馬車馬の如く働いておけ」
アーチャーがテオドーロのいる部屋に行くともう既にルークは出て行った後だった。どうやらジェイドと話しているのを見て気をきかせたつもりだったのだろう。話を聞いてみると、やはりルークにもユリアロードの使い方はよく分からなかったらしい。ならば彼が向かうのはティア・グランツの家だろう。
グレンから流れ込んできたいつかの記憶を頼りにユリアシティを進む。そしてそこで―――修羅場にあった。絶対零度が吹き荒れている。氷の渦が逆巻いている。いつか似た景色を見たことある。アレはタルタロスの中だっただろうか。その中心には一組の男女。二人の近くにいるアニスとナタリアは硬直している。
それもそうだろう。少なくとも今まで仲間だと思っていたルークが、一人の少女の首筋に剣を突きつけているのだから。
「……もう一度、言ってくれるかしら」
「ティア・グランツ。アンタには、世界のために死んでもらう」
ルークよ。言い方というものがあるだろう。本当にどうしようかこのコミュニケーション能力0。いや、むしろマイナス100か。何故剣を突きつける結果になったのだ。交渉ですらない、恐喝ではないか。しかもこれでは今ここで殺すと言っているようにも取れるのだが。
アーチャーは遠い目をして回れ右をしたくなった。これでついてくるわけがない。いやむしろついてきて欲しくないからか、わざとか、そうかわざとなのか。しかも気のせいか正気を取り戻し始めた女性陣が一斉にすごい眼でルークを見ている。そりゃそうだ。
女は怒らせたら恐いのだ、やめろ。やめるんだ小僧!
叫びたかった。アーチャーの中のエミヤシロウが実際問題叫んでいる。しかし今声出したらやばい気がする。沈黙は金。故郷の言葉を思い出すが、しかしここで引くわけには行かない。己が認めた主のためにも、できるだけの手は打たねばならぬのだから。
「……小僧、結論から言うではない。説明をしろ。グレンもお前に何かを頼む時は丁寧に説明していただろう?」
「……俺がアクゼリュスを崩落させたことにより他の外殻大地に影響が出る。またパッセージリングの耐用年数自体が限界を迎えて、遠からず外郭の大地はひとつ残らず崩落する。それを防ぐ為にはパッセージリングを操作し外殻大地を降下させるしかない。しかしパッセージリングの起動にはユリアの血族が必要だ。
そしてパッセージリングを起動させれば、その瞬間起動者にはパッセージリングから障気が体に流れ込む。よって、解呪者は極めて重度の障気障害にかかる可能性がある。しかし外殻大地を降ろさなければいずれ崩落し人々は皆死に絶える。止めることはできない。
それゆえに、ティア・グランツ。アンタには、俺の願いを叶えるためについて来てもらう。そしていずれ死に至る病を負ってもらいたい、と言っている」
恐るべしグレン効果、と言うべきか。無表情のまますらすらとルークの口からかなり詳しい宣告が流れている。そう、それは宣告だ。世界のために死んでくれという宣告。途中で口を挟ませぬ、有無を言わせぬまま一気に言いきってしまった。
「ちょ……っ、何訳分かんないこと言って……!」
「ルーク! 貴方は一体何を言っているのですか!」
しかし、急にこんなことを言われて納得するわけがない。ルークの言葉も今の段階では荒唐無稽に過ぎるものだ。そもそもなぜそんなことをルークが知っているのかということもある。アニスとナタリアはとにかく緩やかな死刑宣告をされているティアをルークから庇おうとして声を荒げるが、次のルークの言葉にティアの顔色が一気に青くなる。
「なるほど、信用できないか。そうだな、今の状況なら仕方ないだろうな……ではこう言えば心当たりがあるか? ヴァン・グランツは外殻大地の人間を効率よく殺しつくそうとしている」
「……っ!」
声を詰らせ息を呑むティアを見て、ルークの目が細められる。観察するような目で数秒彼女を眺め、首に突きつけていた剣を鞘に納めた。
「心当たりがあるか。なら、話は早い。ユリアロードで待っている。覚悟が決まったら来い。決まらないなら、もう外殻大地に来ようとするな。断言しよう――――苦しいだけだ。行くぞ、エミヤ」
「お待ちなさい、ルーク!」
言いたいだけ言って、用は済んだとばかりに家から出て行こうとするルークにナタリアが声をかけた。今のルークなら何のためらいもなくそのまま進んで行きそうだったものだが、意外なことに彼の歩みはぴたりと止まる。
アーチャーもおや、と少し驚いた目でルークを見ていたのだが、腕を組んで少し何かを考えていたルークの脳内は、彼の予想の斜め上をいっていた。
「ナタリア・ルツ・キムラスカ・ランバルディア。王女殿下の貴女に頼むのは気が引けるが、貴女が適任だろう。とある二人に伝言を頼みたい」
「なんか、やっぱ、喋り方……」
「ルー、ク……?」
これ以上無いほどありえないものを見たといわんばかりの目でアニスとナタリアがルークを見ている。どこかで見たことのあるような、誰かに似ているような、けれど思い出せない。妙な違和感。ティアは先ほどの衝撃が覚めていないようで、一人でぐるぐると考え込んでいる。……まあ当然だろう。おそらくはルークが何を言っているかまでは聞こえていない。
「一人はガイラル……いや、ガイ・セシルに。賭けの続きはもうできない。すまないと。そしてもう一人は、このユリアシティのどこぞの医務室で寝こけている俺のドッペルゲンガーへ」
「どっぺる……えーっと、それって六神将のアッシュのこと?」
「ああ、そのアッシュだ。識別名称が無いと不便だから『ルーク』の名前は借りていく。時が来て、帳尻を合わせて辻褄合わせも終わった時、欲しいなら返す。だからそれまで辛抱しとけ『オリジナルルーク』、と伝えておいていただきたい」
「……っ! ルーク、あなたはまさか―――」
「そして貴女にも言っておかなければならないだろう、王女殿下。俺は七年前、誘拐の折に作られた『レプリカルーク』だ。貴女と約束をしたルークは俺ではない。貴女のルークは、アイツだ。だから会いに行ってやれ。医務室だ。多分アイツも喜ぶぞ」
「……っ、ではやはり……」
ナタリアの表情が歪んだのはルークが自分の存在が偽りだと知ってしまったからなのか、それとも彼の変容が自分がレプリカだと知ってしまったからだとでも思ったのか―――アッシュが、約束をしたオリジナルルークがここにいると知ったからか。
「俺はいいから七年間存在を殺されたオリジナルルークにでもついててやってくれ。そんでもってバチカルにアッシュ引きずってでも連れ帰れよ。俺はもう帰らないから、そうでもしなければシュザンヌ様が倒れてしまわれるだろう」
それだけを言い切り、ナタリアが固まったことにも気にせず出て行こうとして、思いとどまったようにルークは再度振り返った。その視線の先はティアでもナタリアでもなく何故かアニスで、急に目を向けられたアニスはびくりとする。喋り方だけではない、何の感情も見えない緑の瞳。冷たくも無い代わりに温もりも無い、無感動の瞳。
おかしすぎるルークの変容に、それでも怯えも見せずに果敢に立ち向かう。
「な、何?」
「アニス・タトリン。あのお人好し……イオンをくれぐれも頼んだぞ」
「そん、なの……言われなくたって!」
「そうか。それなら安心だな」
その時だけ、何の感情も表さなくなっていたルークの顔に、本当に少しだけほっとしたような表情が浮かんだように見えた。気がした、だけかもしれない。ルークはすぐに出て行ってしまったから解らない。アニスはぶんぶんと首を振り、固まっている二人をそっと見る。
今まで固まっていたナタリアは、ぎゅっと手を握り締めたかと思えばティアの家から走って出て行った。ティアは相変わらず顔色の悪いまま何かを考え込んでいるようだ。どうしよう、声をかけたほうがいいのだろうか。アニスが困っていると、とっくに立ち去っていたとばかり思っていたアーチャーの声が聞こえる。
「グランツ響長。この家に音素(フォニム)学の本はあるかね」
「え……あ、はい。あると思いますが」
「そうか。ならば、それを借り受けたい。ルークには超振動の制御訓練をしてもらいたくてね。私は正直さっぱりなのだが……ルークには本だけでもあるだけで違うだろう。私はユリアロードの部屋の前にいるから、来たくないのであれば私に本を渡してくれ。覚悟が決まったのなら―――直接ルークに渡してやれ」
ティアにそれだけを伝えて、出て行こうとしたアーチャーをアニスが呼び留める。
「エミヤっ!」
「……なんだね、タトリン奏長」
「……『レプリカルーク』って……なに? あいつ、どうしちゃったの?」
まあ当然といえば当然の質問だ。この中で、恐らくルークがレプリカだと知らないのは仲間内でもアニスだけだろう。あれだけ間近にその変容を見てしまえば、いくらなんでもおかしいという事くらいは分かる。グレンのおかげでそれなりに柔らかくなっていたルークは、グレンの時ほど仲間達から見限られていたわけではないようだ。
だからこそ、その分あの豹変ぶりが信じられないのだろう。実際はそうするしかなかったとは言え、自分が原因とも言えるアーチャーは無言に徹する。ただ一言、詳しくは大佐殿に聞いてくれとだけ言って去っていった。
ルークは床に描かれた譜陣をぼんやりと見ていた。円だけの組み合わせで、よくぞこんな譜陣を描けたものだ。そんなことを思いながら、しかし『感心』という感情は無い。いや、もしかしたら感心していたのかもしれないが、感情を忘れてしまった今のルークにはそれが感心という感情だと解らない。ただ感想として思っただけだった。
テオドーロ市長は、ユリアロードはユリアが作った音機関なので第七音素がどうのこうのといっていたが……はっきり言ってルークにはさっぱりだ。使用したら、確か陣が光るのだったか。音素を流し込むだけで転移の譜陣が発動し、そしてそれが開発されたのが2000年も前だと言うのだから、創世暦時代というのは本当にすごかったのだろう。
腕を組んで、譜陣を囲む四方の柱のうちの一つに背を預けながら時間つぶしにあれこれ思考する。そんなルークの耳に、ご主人様ご主人様となんだか一生懸命な声が聞こえた。ぴょこぴょこ跳んでルークの視界のなかに入ろうとしている小動物を見て溜息をつく。がしりと頭を掴む。なんだかみゅうみゅう言っているが気にせずそのまま肩に乗せた。
騒いだらすぐ落とすぞ。それだけを呟いたらさっそく嬉しそうに騒いでいる。有言実行、落としてやろうか。真剣に黙考していると、なんだかふわふわした感触がぐりぐりと頬に当たる。ちらりと見ると、ご主人様はやっぱりご主人様ですの~なんていいながら聖獣がすりすり懐いている。訳がわからん。
「ご機嫌だな」
「はいですの! ご主人さまは変わってもやっぱりご主人様ですの。とっても優しいですの。だからボクもすごくすごくすごーく嬉しいんですの!」
「……優しい?」
ミュウの言葉に心底解らなさそうにルークは首を傾げる。苛立ちはしない。不思議にも思わない。やはり声は平坦だ。この聖獣は何を根拠にこんなことを言うのか。それがいくら思考しても分からなくて、確かわからなかった時はこの動作をするのだったと思い出しながらそれをなぞる。
これから町へでることもあるなら、確かに今のままでは不便だ。そう言う意識はあるので、せめて取り繕うくらいには感情があるふりをできるようになっておかねば。そう思っての行動だった。けれど首を傾げる時、どんな表情をしていたのかまでは思い出せない。
まだまだ難しいなと思いながら、それでも嬉しそうに懐いてくるチーグルに言葉の続きを促す。
「俺は今、感情の殆どをなくしてる状態なんだが。それでも優しいっていうのか」
「はいですの。ボクには分かるんですの。どれだけ色んなものを忘れても、ご主人様が気づいてなくても、それでもやっぱりご主人様は優しい人なんですの! ボクは分かるんですの! ボクはご主人様が大好きだからちゃーんとわかるんですの!」
ご主人様は変わっちゃったけど、それでもどーしても変えられない優しいところが、まだまだたくさん残ってるんですの! 嬉しそうに懐く小動物の、頬にぐりぐり攻撃がますます加速する。特に何も感じない。そろそろ本気で落とそうかと頭は考えるのだが、不思議とそうする気にならなかった。いい加減痛いぞと呟くと今度は涙声になってごめんなさいですのーなんて言いながらますますぐりぐりしてくる。こいつ、人の話きいてねえ。
溜息をついてチーグルを腕で拘束し、その頭をぐしゃぐしゃにする。それでもやっぱりミュウは嬉しそうな声をあげるだけだ。ぽいっと落としても、ころころと転がった後起き上がって足もとにじゃれ付いてくる。しばらく無言でそんな小動物を眺めていたが、ルークはしゃがみ込んでミュウと目を合わせた。大きな目でまっすぐ見つめてくるミュウの頭に手を伸ばし、ぐりぐりと撫でる。
その時自分の表情が本当に微かに柔らかになっていたことに、ルーク自身は気づかない。
「変なヤツだなぁ、お前も」
嬉しそうにみゅうみゅう鳴いている小動物に構っていると、ふと気配を感じて振り返った。いつからそこにいたのか、片手に本を持ったティアがそこにいた。ルークは全く気づかなかった。さすがは曲りなりにも現役兵士。ティアはティアで少し驚いた様な目をしていたのが、ルークと眼が合った瞬間にすっと兵士の顔になる。
無言で差し出された本を受け取る。基礎的な音素学の本だ。どうやら言い忘れていたのをエミヤが言ってくれたらしい。悪いな、と言えばいいえ、とだけ返される。ぱらぱらと見て、すぐに道具袋の中に入れる。彼女は何も言わない。だから仕方なくルークの方から口を開く。
「覚悟を決めたのか」
「ええ」
「世界のために死に往く病を背負うというわけか」
「そうね。あなたが言っていることが本当なら、そう言うことになるんでしょうね」
「逃げても良いんじゃないのか。アクゼリュスを崩落させた人間の言葉など信用ならないと。モースへの第七譜石の報告があるにしても書類で事足りる。皆も納得するだろうさ」
「それはできないわ。本当だと確実に信じられなくても、嘘だとも言いきれない。もしも本当のことだとしたら、兄さんが恐ろしいことをしようとしていると言うのなら、それを止めるのは妹の私の役目だもの」
「……そんなに、自分の命を犠牲に喰らって生き残る他者の世界なんてのを守りたいのか」
淡々としていたルークの声に、不意に苛立たしそうな色が混じる。
「ティア・グランツ。アンタもグレンと同じ人種か。自分ひとりより世界のたくさんの人が大事か?」
「……ルーク?」
今まで平坦だった彼の声にはっきりとした波ができた。道具袋を握る手はぎゅっと強く握りしめられていて、こちらを見る緑の瞳にはあからさまな怒りが滲んでいる。彼が何に怒りを抱いているのかは分からない。ただ、どうやら覚悟ができたら来いと言っていた割には、覚悟をしたことに怒っているように感じられる。それとも覚悟などするはずが無いとでも思われていたのだろうか。だとしたら、ティアにとっては酷い侮辱だ。
いくらなんでもこれでは理不尽だと、怒りをもって睨みつけてくる緑の瞳を彼女も睨み返す。緑と青がぶつかる。互いに全く引く気は無い睨み合いだった。
「バカな女だ、本当に。自分と世界とどっちが大事かなど決まっている。自分だ。世界など見殺しにしてしまえ、馬鹿馬鹿しい」
「馬鹿馬鹿しい、はどっちよ。そんなこと出来るわけないでしょう」
「そうか。俺はお前やグレンみたいになるほうが無理だがな。世界が俺を殺そうとするなら俺は世界を殺してでも俺が生きる道を捜す。捜して、実行する。俺は俺のやりたいようにしかしない」
「傲慢な答えね。それなら、あなたはどうして外殻大地を降下させようとしているの。世界を救おうとしているのではないの」
「言ったとおりだ。俺は傲慢だからな、俺のやりたいようにしかしない。世界が俺を殺そうとするのなら、俺は世界を殺す。そうじゃないなら、住む世界が無かったら困るからしょうがないから助けるだけだ。俺は俺のためにしか命を使わないし、俺は俺の願いのためにしか命を捨てない。
―――ああそうだ、俺は、義務感などで、世界のためになど死ぬものか! 俺は、」
何かを言いかけて、ティアの後ろから入ってきたアーチャーを見つけてルークは言葉を切る。ルークはその姿を見た瞬間に正気に戻ったようで、それからはあっと言う間に表情が削げ落ちた。今まで見せていた烈火の怒りも瞬きひとつの合間に平坦になる。先ほどの感情の揺れが嘘のように、未だに見慣れぬ無感動な瞳に戻った。
「邪魔をしたかね。ルーク、グランツ響長」
「……いいえ」
「……別に」
「それなら結構。しかし小僧、少しは安心したぞ。感情が完全に無くなっているわけではないのだな」
「なにが安心だよ。残ってたのにしても『怒り』だろう。ろくでもない」
「そうかね。自分以外の誰かのために怒れる感情が残っているなら、上等だろう」
「曲解するな。どこぞの馬鹿と思考が似ていたのが気に食わなかっただけだ」
「せっかく剣を突きつけてまでしたのに、上手くいかなんだな。彼女の生真面目さを見誤った君の誤算だ」
「うるさい。これ以上余計なことをいうな、エミヤ」
「……その言いよう、やはりわざとか。ルーク、いくらなんでもあの気の配り方は……」
「……?」
「ティア・グランツ! さっさとユリアロードを起動させてくれ!」
あれのどこをどう考えれば気を配っていたということになるのかがよく分からず、ティアは怪訝そうに眉をひそめる。そしてこれ以上余計なことを言われては堪らないとルークが少し声を荒げるのだが、それがそのままアーチャーの言ったことの肯定になっていた。
覚悟が決まらないなら外殻大地にはもう来るな。それは時間稼ぎにしかならなくても、それでもギリギリまでユリアシティにでも閉じ込めてしまいたかったということなのだろう。ああでも言えばルークの言葉を断った生真面目な彼女が、そのまま普通に六神将の一人のアッシュについていくとも思えない。同行していなければ、それだけ時間ができる。その間に、どうにかして他のパッセージリング起動キーを探せればそれでよし。そうでなくても、障気障害を負う時間を、少しでも遅く短くしたかったのだろう。そして、恐らくだがルークがしようとしていることは。
アーチャーの予想でしかないが、ルークが口ではどうこう言っていようがそれでも彼は結局グレンと根幹が一緒の人間なのだ。だということは、アーチャーにも少なからず似ているということで、おおよそでしかないが、それでも想像がついている。
グレンが何をしようとしていたのかを知って、それを知ったルークが何を願っているのか。
「断言しよう、ルーク。お前の願いを聞けばグレンは怒り狂うぞ」
「……先に俺を怒らせたのはグレンのほうだ」
アーチャーは溜息をつきながら、二人の後ろに立つ。床に描かれている譜陣が光を発し、彼らの体が移動した。