がたがたと、小さな歯車の連なりが大きな歯車を回している。機械仕掛けの町。職人の街、シェリダン。外殻大地の造船関係を一手に引き受ける音機関都市だ。譜業大国キムラスカの領土として世界中から優秀な技術者が集まり、世界でも最高の技術を誇る譜業の町として知られている。
……ガイがいたら、どんな状況であれ思わず大はしゃぎするんだろうな。確信の域に達する感想を思いながら、辺りを見回す。あちらこちらに悪戯のような機械仕掛けがあり、少し時間があるなら色々といじってみたいところだが。
「……小僧」
「分かってるさ、エミヤ。さっさと浮遊機関借りるんだろう」
「ああ。恐らくご老体方はあの集会場にいるだろう」
心なしか咎めるような声でルークを呼び止めるエミヤに軽く手を振って返す。そしてエミヤが指差す建物を見上げた。町に入ってすぐの場所にある、大きな建物だ。入り口の上にはいかにもと言った風な時計のような機械仕掛けが設置されていて、その入り口の前もなにやらいじれば動き出しそうな機械仕掛け。間違いない、本当にここにガイがいたらアニスやミュウ並みに大はしゃぎして、大喜びでいじりだすんだろう。
そんなことを思いながら、集会場へと足を踏み入れる。中心におかれた机の奥、元気な声をあげて飛行実験の成果を言い合う老人達に、アーチャーが声をかけた。
「失礼する。一別以来久方ぶりだな、ご老体。相変わらず元気なままで安心したぞ」
「む? ……お主は、エミヤか! ああ、ご注文どおりアルビオールは調整済みだぞい」
「そうか。それでは以前話を通したとおりに借り受けて構わないか?」
「ああ、持っていけ! と、言いたいところなんじゃが……」
「……何か問題でも?」
威勢よくかかかと笑っていたイエモンが表情を曇らせたのを見て、アーチャーもすっと目を細める。確か、グレンの記憶の中では飛行実験中だった一号機がメジオラ高原に墜落していたはずだ。その時のことを思い出し駆動機関についてさり気無く注意しておいたから、飛行実験前に不備の可能性のある部分を改善しただの聞いて安心していたのだが……まさか墜落したのだろうか。
深刻な顔をするアーチャーを見て、すぐにイエモンはそんな顔をするまでではないと手を振る。
「ああ、まてまてエミヤ。実はギンジの疲労が溜まっておっての。お主の頼みで二号機も完成間近、その操縦士としてノエルも訓練はさせとるが、あやつはまだもう少し訓練せねば心配なんじゃ」
「それもこれもイエモンがギンジの疲労を無視してせっつくから……」
「祖父としては失格じゃな、イエモン」
「ええい、煩いぞい! ごほん、ということでエミヤ、悪いがノエルの調整をもう少し待ってもらえんかの。今日を含めてあと二、三日で完璧に仕上げて見せるんじゃが」
「そうか……さて、専門家はこう言っているが。どうする、小僧」
「そうだな……」
ルークは顎に手を当て黙考する。これから起きるはずのこと。順番をずらしても流れが妨げにならないことを考えて、よしと頷く。
「なら、その間にメジオラ高原のパッセージリングを起動させよう。何が何でもこの二日間で制御訓練は一通り終わらせる。最後の三日目で起動、制御。ああ、血中音素を測る装置を作ってもらっておいたほうが良いか。そんなものか、エミヤ?」
「そうだな、それが良かろう。では私はまず一人でメジオラ高原に先行して、君が来る前に少々露払いでもしておくかね。一匹でかい魔物がいたはずだからな、それを倒してから戻る。それまでルークを頼んだぞ、グランツ響長」
「はい。ですが、一人で魔物を……?」
「ティア・グランツ。心配するだけ無駄だぜ? なんせエミヤは人外だからな。それに、こいつはグレンの従者で、相棒だぞ。――――あいつの相棒なんだ、最強以外は俺が認めない」
ルークは腕を組んだまま淡々とした声と無表情で、すがすがしいまでにきっぱりと言い切った。迷いもなく、確信を持っているような断言だ。その断言っぷりにしばし皆は絶句していたが、やがてアーチャーは額に手を当てくっくっくと笑い出し、ついには楽しそうに声をあげる。
「く、はははははははは! そうかそうか、私の主に相応しいかではないか、私こそがグレンの従者に相応しいかだと? ああそうか、そうだな、あの選択を選んだからこそ私は彼を主と認めた。今度は試されるのは私のほうか……良いだろう、ルーク。グレンの親友のお前に確信させてやろう」
何がツボに入ったのかは解らないが、とにかく楽しそうな声だった。周りの皆が呆気にとられている中、ルークだけはやはり無表情だ。それでもどこか満足そうな声で、これからの予定を組み立てている。
「そうこなくっちゃな。じゃあこっちは宿の手配でもしておこう。帰るのはいつ位になる?」
「なに、魔物とは言えたかだかでかいトカゲが一匹と変わらん。今日中には帰る」
「そうか」
「お、おい! エミヤ?! お主、いくら腕が立つとはいえメジオラ高原に一人は……っ!」
「案ずるなご老体。私はグレンの従者だぞ」
「おやおや、案外熱いお兄さんだったんだねえ。いい笑顔だよ」
さすがに焦って止めようとするイエモンに対して、タマラはのんびりと呑気に笑う。後ろでぼそりとエミヤには譜業機械の不良箇所をまた探して欲しかったんじゃが……とアストンが小さく呟いていたが、それはさらっと黙殺される。
「我が名はエミヤ。クラスはアーチャー、弓の騎士。焔の生き筋を魂に刻まれた主のサーヴァント。あのたわけの願いを叶える相棒なら、最強以外にありえまい」
獰猛な笑顔で言い切って、アーチャーは赤い外套を翻し集会場から出て行った。
そしてアーチャーがメジオラ高原へブレイドレックスを討伐しに行っている間に、二人と一匹は宿の手続きをする。グレンの記憶通りなら町のはずれで訓練をしていたが、今のルークには無理だ。ルークの体にはこれでもかと言わんばかりに譜陣が刻まれているからだ。常は効力を失い消えている譜陣だが、一たび第七音素を扱おうとしたならばフォンスロットを通る第七音素に反応し、譜陣は光を発して浮かび上がる。周り中から奇異な目で見られること受けあいで、そんな状況にわざわざ自分から行くわけがない。
ルークはミュウに窓を開けるように言いつけて、青い空を見た。陽光のまぶしさに少しだけ目を細めて、すぐに空から視線をそらす。そして早速超振動の制御訓練を始めようと言おうとして……こちらをじっと見ているティアと窓ガラスの反射越しに視線が合い、口を噤んだ。
「……ルーク。あなたは私に何も教えてくれないのね」
「何を、とはなんだ。はっきり言ってくれなければ解らないんだが」
「とぼけないで。……メジオラ高原に、パッセージリングがある。――――どうしてそんなことをあなたが知っているの」
なるほど。確かに不審といえば不審だ。何せルークはこの七年間、つまりは生まれてからずっと軟禁生活でまともに外も出たことがないお坊ちゃんなのだから。世間知らずも物知らずも標準装備、パッセージリングの場所を知っている、ということなど確かに考えてみればおかしいだろう。
ましてやこれからパッセージリングを操作するなら、ティアは障気障害を患うわけで。自分の命を懸けることなのだ、知りたいと思うのも当然の事なのかもしれない。しかしだからといって本当のことなど言えるわけもない。実はグレンは未来の可能性の一つの俺で、いろいろあってこれからおきるその未来を知ったからです、などと。頭がいかれているとしか思えない。
「……タルタロスでエミヤから聞いたからだ」
結局、答えは無難なものにしかならない。自分で言っておいてなんだが、どう考えても嘘はついていないが真実でもない答えだとしか思えない気がする。そしてティアもはぐらかされる気はさらさら無いようで、追求を緩めようとはしない。
「じゃあどうしてあの人はパッセージリングの場所なんて知っているの? パッセージリングの場所を知っている人なんて、ユリアシティでも教団内でもごく一部の人たちだけよ。そもそも、調べたとしてどうして調べていたのかしら」
「グレンは勘が良いらしくてな。ヴァン師匠と会った時も名前を知られないようにしてただろう。いつだか遠目に一度見た時から胡散臭いと思ってたようだ」
「そう。……でも、まるでこうなることが分かっていたように、しっかりと調べてるのね」
「なるほど、お前にしてみれば確かに疑わしいといったら疑わしいか。グレンが怪しいか? ならそれは的外れな疑いだ、あいつは俺を師匠の思惑から庇おうとして死にかけたんだからな。俺はアクゼリュスを崩落させた存在だし、万一ヴァンと繋がっていたら、と考えられるのは仕方ないとしよう。しかしグレンは疑うな。アイツを疑うことは俺が許さない」
「……そうは言ってもね、私はあなたほど彼のことを知っているわけではないわ」
「知らない? なら教えてやるよ、エミヤも言っていただろう。あいつは焔だ。誰かの為に命を燃やして誰かの為に光を落として自分の命を燃やし尽くす。燃え尽きた後には何も残さない、焔の光だ。
あいつはな、世界に喰われるくせに世界を好きだと抜かすような大馬鹿で、自分の命よりも世界のほうが―――いや、その世界に生きる人たちが好きだったのか。どちらにせよ、優し過ぎて馬鹿を見る人間さ。……ティア・グランツ、ある意味お前と同じタイプの人間だよ。馬鹿馬鹿しくて涙が滲む」
ルークの言葉はグレンを庇っているものだというのに苛だたしい色がはっきりと混じり、その口調はどこか吐き捨てるようだった。そしてまたユリアロードでの言い合いの時を蒸し返すように、ティアの決断を馬鹿馬鹿しいと切って捨てる。
ティアは眉をひそめるが、ルークも流石に今更話を蒸し返すべきではないと思ったらしい。溜息と瞬きを一つ。その間に先ほどまで揺らいでいた怒りの感情は彼の心の奥に沈む。くるりと体を壁に預けてティアに向き合う。緑の片目はやはり凪いでいて、感情というものが見えなかった。
「グレンは、もう……あいつは疑うだけ馬鹿を見るだけだ。俺に関しては見ていただろう。ヴァン師匠はイオンを連れ去る用の魔物しか用意していなかった。その魔物もアッシュがいたからあいつを助けようと使っていたが、俺はそのまま放置されていた。つまりは、だ。俺はあの人にとってあの時の為だけに生かされていた捨て駒だったんだよ、ティア・グランツ。アンタがあの場に来てなかったら、あの譜歌が無ければ俺は今この場に生きていない。もっと長く利用するつもりなら、少なくとももう少しご丁寧に扱うと思うんだがな」
卑下するでもなく、激昂するでもなく。淡々と、事実を事実として認識し話すその様子にティアの表情が曇る。ティアのその表情に、他人事ながらルークは溜息をつきたくなる。おいおい現役兵士。そんなに簡単に表情を変えてたらすぐにつけ込まれるぞお人好しめ。いくらなんでもあのマルクト大佐並にポーカーフェイスをしろとは言わないが、情報部なら頑張れよ。
……アンタ多分兵士には向かないぞこのお人好し。そうあるべきとして冷静な振りをしてるようだが、結局は情が強すぎるんだ。それでも兵士で居たいのかこのお人好しめ。
そんなことを言えば恐らくまた分かりやすく不機嫌全開で睨まれるのだろう。そうありたいと願い憧れた人がリグレットだったからか。何も好き好んで誤解されやすいような言動を真似て、茨の道を進まなくても良いと思うのだが。人のこと馬鹿馬鹿言う前に自分を見直せというんだこの不器用な生き方一直線め。
「ルーク、何ぶつぶつ言ってるの? それじゃ聞こえないわよ」
「気にするな、本音を少々言ってみただけだ」
「…………」
胡乱気な目で見られるが、しれっと知らんふりを押し通す。実は内心音律士だったティアに聞かれていたらどうしようかと思ったのだが、この様子なら聞こえてはいなかったようだ。
「情報はある。が、確信はあるがあまり誰彼に話すべきでないものも多い。知ってるだろうが俺はそういう取捨選択は苦手でね。状況になったら明かす。それ以上はエミヤか、でもエミヤも何も言わないだろうさ。グレンが起きたら直接アイツに聞け」
喧嘩は止めてくださいですのー、とルークの足に一生懸命縋ってくる小動物を軽く掴んでぺいっと投げる。みゅうううう~と跳んでいく聖獣は見事ティアの両腕の中へ。
「ふうん。ナイスキャッチ」
「ルーク! ミュウを投げないで!」
「がなるなよ。ミュウが泣きそうだぞ」
「ご主人様もティアさんも、喧嘩は止めてくださいですのー」
うるうるとした目でミュウに懇願されて、うっと声を詰らせてティアは困っていた。
ちょろいな。
表情が浮かべられたなら恐らくにやりと笑っていたであろうことを思いながら、ルークは声をかける。
「そろそろ超振動の制御訓練をする。気が散ったら危ないんだろう。そいつしっかり持っててくれ」
「私は納得しては……」
「じゃあ大人しくしといてくれ。必要になったら情報も明かす。言っておくが、それまでは俺もこれ以上言うつもりは無いからな」
ざっくりと言い捨ててルークはティアに背を向けた。その背は頑なで、それ以上は何を聞いても答えはしないとの意思表示がよく見える。ティアも溜息を吐きつつ、もう何も言わない。そのかわり、抗議の視線だけはじっとその背に送り続けることにした。気づいているだろうにルークは特に何も言わない。ただ深呼吸しながら第七音素の存在を感じとっている。
腕組みがほどける。自分の中に第七音素を集めるつもりなのだろう。そしてルークが深呼吸をしたと思ったら―――この部屋の中の第七音素が、普通ではない勢いでルークに集まりだした。
「……ルーク?」
いくらなんでも素養あり、では説明のつかない量だった。そもそも知覚できるほどの音素の収束と言う事態がありえない。その音素の流れを敏感に感じ取ったのか、ミュウもティアの腕の中で体を固めている。よく見れば彼の体が服の下でぼんやりと光って、何十にも絡み合った譜陣が光を浮かべて浮き上がってきた。それは殆どが服に隠されてはっきりとは見えないでいたが、グローブからでた指の先にまで 光が絡み付いている。それが明滅したかと思えば、ルークは呻きながら左目を押さえてがくりと膝を崩した。
慌てて駆け寄り顔を覗き込む。そして絶句してしまう。顔の左半分まで覆うように明滅する光の譜陣、その上に押さえつけられた手の平の下から、ゆっくりと赤い雫が流れていく。
ぽたり、と雫が宿の床に弾けて、その音でティアも正気に返った。彼の肩に手を置き必死に呼びかける。
「ルーク!」
「うる、さ……喚くな」
ぎりぎりと歯をかみ締めながら脂汗を流し、ルークも必死に制御しようとしているようだが彼の意思に関係なく譜陣は第七音素を取り込もうとしているようだった。術者の気の乱れは音素の暴走を簡単に許してしまうが、これはどうもそういった暴走ではなく譜陣自体に定められた効果なのだろう。
エミヤの魔術に対応する為の特別製。ルークの体を構成する第七音素を消費してしまわないようにと、たとえオーバーロードしてしまっても体外の第七音素を引き寄せ集める。そう言う強制力を持った譜陣と譜眼だ。なるほど、制御が命とはこういうことか。ユリアシティでエミヤが深刻な顔をしてぼやいていたのを今更になって納得し、しかし譜陣の制御はどうにも上手くいかない。というか、この状況で制御して超振動を使うなど無茶振りだとしか思えない。
譜眼が刻まれた左眼の痛みが酷い。喉の奥からは獣のうめき声のような音しか出ない。心配なのか足もとに小さい聖獣がしがみ付いてご主人様ご主人様と泣いている。煩い。集中できない、静かにしてくれ、と声に出すのも億劫だ。呼吸が浅くしかできないせいか、ひどく苦しい。視神経など焼ききれそうだ、この痛みは。もういっそこのまま目を抉り取ってしまいたい気分になってきて、しかしそれではエミヤの魔術行使に支障が出る。
そう考えて必死に抑えつけるのだが、この痛みから逃れられるのならと左手がだんだんと瞼に爪を立てようとしているのが分かった。……エミヤの魔術行使のときは集めた第七音素がそのまますぐに流れていくのだが、今の現状では体内に溜まる一方だ。過ぎた音素収束は軽い精神汚染じみた幻惑を連れてくるのだろうか。
ティアが何か言っている。解らない。左手を外そうとしているようだ。余計なことをする、俺は、この左眼さえなければ、この痛みから。左手に力が入っていくのが止まらない、そして、そのまま、眼帯ごと、爪を。
「――――……?」
爪を、立てて抉ろうとする直前で何かが左手に触れる。重ねられている? 温かいと思った。何が触れているのだろう。思考の一瞬の空白に、凛とした声が聞こえる。
「落ち着いて、ルーク。私の声が聞こえる? 深呼吸をして。押さえ込むより、受け流すようにイメージしたほうが良いわ。音素が体を巡って、ゆっくりと流れていく。イメージできる?」
左手に感じる温もりが、ぎりぎりで残されていたルークの理性に彼女の声を届けた。
イメージ。ぐるぐると体内を血のように巡っていく。体温のように拡散していく。流れ込むものが放出される。イメージする。第七音素がフォンスロットというフォンスロットから入り込む。それを拡散、放出。体内には残らない。
「大丈夫だから、落ち着いて。そう、ゆっくりで良いから、力を抜いて」
だんだんと左手から力が抜ける。左手がゆっくりと、慎重な手つきで外される。眼帯の下で震える瞼を開くと、麻痺していた痛覚が再び蘇る。フラッシュバックする鮮烈な痛みに顔が歪み、ぐらりと体が傾く。そのまま床に倒れこむかと思えば、間一髪でティアに支えられた。すぐに膝の上に頭を乗せて仰向けにされて、眼帯を外される。そしていまだに開かない左目に手を置かれた。触れられるだけでも痛みを訴える視神経に、呻きながらその手をどけようとするのだがそれはかなわない。
じっとしていて、とティアが呟いたと同時にじわりと温かな感覚が左目を覆う。治癒譜術だろう。だんだんとおさまる痛みに呼吸が楽になる。言葉通りに大人しくしていて、やがて彼女の手が離れる。
「どう、まだ痛い?」
「いや……痛みは無い」
震える瞼を押し開ける。痛みは無いが、突然の光に一度目を閉じて、もう一度両目を開ける。広がる視界。その片隅に引っかかる青色を求めて視線を巡らせる。
開け放たれた窓から見える、青空。我知らず口元が緩む。ルークのその表情にティアの顔に驚きが浮かぶが、彼の視線はただ空に向けられていて彼女の表情には気づかない。
「助かったよ、ティア・グランツ。おかげでどうにか、まだこの両目で空を見ることができる」
雲が動いて陽光が眼球に入る。流石にまぶしくなって、手の平をかかげた。日の光越しに赤く透ける手の平と、その隙間から見える明るい青。
「……ルークは、空が好きなの?」
「さあな」
思い出す。優しい風が吹いていた場所。揺れる木陰越しに見上げた青。三人で笑っていた。
『そうだな……この空なら、俺も――――』
「俺はもう、いくら見上げても何も感じないからな」
青い、と。そう思うだけで何も感じなくなっていた。あの時確かに感じた何かを思い出せなくなっていた。そのことに対して何も思わない自分。何も思えない、何も感じなくなってしまった自分の感情。その時になって初めて自分は感情減退というものの対価を思い知ったのだろう。
「まあ嫌いじゃなかったんだろうさ。いつかそう言っていた記憶ならある」
「……ルーク。あなた今、悲しそうな顔をしてるわ」
「そうか。俺は何も感じてないんだが」
「ミュウの言った通りね。確かに悲しそうよ」
青い、と事実を確認するだけしかできなくなったとして。あの時、見上げた空を見て確かに笑っていた気持ちを思い出せなくなってしまったとして。きっと、感情があればティアの言うとおりに悲しいだとか寂しいだとか苦しいだとか思ったのだろう。今はもうそれすらも無くしてしまったけれど。
大した事ではないと思っていた。感情など、消えてしまえば何も感じないのだから大した事ではないと思っていた。けれど何も感じないからこそ、これはそう、多分『苦しい』のだということがあることを知った。
それでも。
「……何度でも繰り返す。あの時あの場所に戻ってしまえば、必ずあの選択を繰り返す」
「こんなに、悲しそうな顔をしているのに?」
空に伸ばしていた手で拳握って、腕で目を覆うようにする。意識的に口元を歪める。笑う。
「グレンが―――――あいつが死ぬより、ずっと良い」
「……そう」
譜陣の制御で余程疲れていたのだろう、うとうとしだしたルークはまるでいつかのように随分と素直でとっつきやすい印象を与える。だからだろうか、これはフェアではないと思いながらも聞いてしまったのは。
「あなたは何がしたいの?」
「……グレンの願いを叶えたいんだ」
「グレンの願いは何?」
「天下無敵のハッピーエンド。馬鹿馬鹿しいよな、叶うわけが無い夢を見て、苦しむのは自分だって分かってるくせに」
それでも本気で願う馬鹿なんだぜ、グレンって。本当に俺には無理なことだよ、大馬鹿だ。
ルークはぼやきながら目を閉じる。けれど彼は気づいていない。それでも、不可能だと思いながらも友人の願いをできる限り叶えようとしている自分も、結局はグレンのバカなところに憧れているのだと。どれだけ走ってもきっと叶いもしないだろう願いを、それでも大事に抱きながら走っていこうとしたその姿。どれだけ苦しいことばかりでも、それでも生きてきた道筋をまき戻したくないと叫んだその生き方。だからこそアーチャーもグレンを主に認めたのだろう。一人では無理でも相棒としてできうる限り助力しようと。
なのに、それなのに、グレンが願うハッピーエンドには。
それが許せなくてルークは願う。自分自身の願いを。そのためになら。
「―――――――を、グレンにやらせるくらいなら、俺が……」
呟く言葉は不明瞭にぼやけてしまう。
本格的に意識が遠くなり、ルークはそのまま眠りに落ちていった。