幼い子どもにとっての世界は両親だ。全て彼らを通してでしか世界を知る方法がないということもあるが、幼い子どもというものは往々としてそう言うものだろう。両親を通して外を知り、少しずつ少しずつ世界の大きさを知っていく。そしてだんだんと外に広がる世界の大きさを知り、両親以外の世界、『自分達』とその他ではない、『自分』とその他という自己を確立しながら世界を知っていくのだ。
さて、ここでルークについて考えてみよう。いくら体は十七歳とは言え記憶も精神も彼にあるのは七年分。知識量にしても生きてきた時間にしても、実際問題七歳児と変わりない。しかし彼が生まれて間もないころには既に体は十歳だ。ある程度自分ができていて、そろそろ物心がつく時期。いくら記憶喪失だからといっても、それでもルークが『帰ってきた』と思っていた屋敷の人間にとっては、あくまでも彼は十歳の少年だったのだ。何も考えずに両親に甘えるということなどできなかったのだろうし、周りが許しもしなかったはずだ。
そもそも両親が両親だ。愛しているとはいえ病弱な為になかなか傍にいることもできない母親。体に障る、という理由でそう長く一緒にいられることも少なかっただろう。そしていつか来る未来を知っていて、愛することを怖れる父親。いつか失うと解っていて、それが決して外れることの無いユリアのスコアと言うもので、ましてやその死は国の繁栄の礎となるスコアだ。公人としての公爵と、私人としての父親と。どれだけの葛藤があったのだろうか。結果として、彼は息子を愛することを怖れた。愛して、失った後の長き時間を、後悔と苦しみに永劫に苛まされることを怖れたのだ。
交わす言葉も最低限ならまともに目も合わせもしない父親。過保護なまでに溺愛しながらも体の弱さから接することの少ない母親。そんな両親。
そんなルークにとって、両親の代わりに世界を現していたのがヴァンだ。傍から見ていてもわかる。ルークにとってのヴァンは、決してただの剣術の師ではなかった。おそらくはあの屋敷でたった一人だったのだ。七年前の自分ではなく、今ここにいる自分を自分としてみてくれた人物。早く思い出せ、などとは言わずに今の自分がそこにいることを許してくれた存在。本気で叱ったり誉めたりしてくれた、真っ直ぐに自分と相対してくれた唯一。ヴァンが元よりそう作り上げるつもりだったとは言え、彼が両親の代わりにルークの世界の中心だったのだ。
ましてや彼は生まれてからずっと外を知らない軟禁生活を送っている。外を何も知ることのないこどもにとっては、より一層その比重は重い。
その世界が彼を見捨てた。全ては偽りだったのだと、冷たい瞳で切り捨てた。それは彼にとってはどれだけの衝撃だったのか。世界に取り残された孤独感。そして己の力が犯した罪。利用されたのだと、ただそれだけのために向けられた笑顔だったのだと、思いたくなかっただけで心のどこかで理解していた。
混乱が極まった彼が己は無実と喚きたくなるのも仕方ないといえば仕方ないかもしれない。ただ事実を確認するだけの問いかけも、その時の彼には己を責めているようにしか聞こえないだろう。だから仲間も少し落ち着けさせようと、何も言わずに彼を一人にさせたのだ。しかしそれが追い打ちだった。
暗い空、広い甲板、一人きり。傍らにいるのはせいぜいが小動物一匹のみ。今まで誰より信頼していた存在に、もう要らないと切り捨てられた。世界にいらないと宣告されたのだ。何もかもから見捨てられ、何もかもからその存在を否定されているように感じただろう。
そんなルークにとって、唯一つ残っていた希望がグレンだった。壊れて崩れた世界にひとつだけ最後まで残っていた希望が、彼にとっての最後の光だった。その比重は、世界に裏切られたからこそそれまでの世界全てを覆い隠すほどの狂信に近くなった。否、そうしなければ、縋りつかなければ自分を保っていられなかったのかもしれない。
グレンの時は、何も残らなかった。何も残らなかったから、歯を食いしばりながらでもたった一人で立ち上がった。変わるのだと、自分の足で立ち上がった。己の決意で前へ進む決心をした。けれどルークにはひとつだけ残ってしまっていたから。そのひとつに縋り付いてしまったのだ。
そしてそのたったひとつの希望は己を庇おうとして消えようとしている。最後の光が目の前で消えようとする時に、彼は何を犠牲にしてでも良いと叫んだ。そして感情の殆どを対価に残した命。知ってしまったこれから世界におきる可能性。グレンが何をしようとしていたのか、その未来も。そしてそれはルークには決して許容できないもので。
少しずつ拡がりかけていた彼の世界は、あの時一度、完膚なきまでに粉々に砕けてしまった。代わりに継ぎ接ぎだらけに組み立てられたのはあまりに歪な心の形。
出来上がったのは狂信者。残った希望をなくしたくないと、世界に抗う子どもが一人。その為になら何をなしても願いを叶えようとし、おそらくは己自身も対価のひとつとして投げ出すことに疑いも持たぬ殉教者。
いつもやんわりと目隠しをしてくれていた存在はもう傍にいない。覆う全てが剥がれ落ちたまっさらな目で、これから築く血を直視してももはや止まることも無いのだろう。何故ならその歩みの停滞は彼の世界の完全崩壊を示すのだから。
「これから起きる状況には対策はしている。が、心は私にはどうにもならんぞ。―――それでも、君は君の願いをかなえるのだろうな、グレン」
「エミヤぁ、次はこれじゃ、この音機関の不良箇所を捜してはくれんか? ……む、どうかしたか」
「……」
場所はシェリダンの集会所。時刻は朝方。宿屋の屋根を塞ぎ終わってふらりと来てみれば、やはり缶詰状態にされて。
……始まりはアルビオールの二機同時開発と言う無茶に、今まで請け負っていた譜業機械の修理ができないと困っているのを見てしまったことだ。そのため少しでも力になればと、解析魔術を使って譜業機械の不良箇所を片端から当ててしまったのがいけなかったのかもしれない。
マシンドクターMr.エミヤ。曰くその耳は機械の声を聞き、曰くその目は機械の不良箇所を過たず発見し、その手腕から逃れられる不良はなし、とのこと。
聞いたときには何の冗談だと思ったのだが、どうもシェリダンではそう言うことになっているらしい。私はそのような電波ではないと声を大にして叫びたかったのだが、解析魔術というものをしらない人々にとってはまさしくマシンドクターだったのだろう。良いじゃないですかかっこいいですよ、と某操縦士の兄妹に尊敬の眼差しとともに熱く語られ、もはや諦めた感じになっている。
ほんの僅かな時間に空を見上げながらつらつらと真面目に考えていたのだが、わざわざ何も知らない人に向かって話すべきことでもない。軽く溜息をつき、振り返る。なにやらストーブらしき系列のものをえっちらおっちら運んでいるイエモンの手からそれを受け取り、しげしげと眺めながら軽く流すように呟く。
「いや、なんでもない。そうだな……あの一人と一匹に賭けるしかないと言ったところか」
「何の話じゃ。さっぱりじゃぞ」
「それはそうだご老体、こちらの話なのだから。ところで私はまだ帰れないのかね」
「なにおーう? ノエルの調整が終わったらすぐに行ってしまうんじゃろ。その間にしっかりと働いてもらわねばならんのじゃ、帰すわけなかろーが!」
「……ごめんなさいねぇお兄さん。イエモンは一度言い出すと聞かなくて……」
「タマラ! ひとを頑固者のように言うのはやめんか!」
「気にすることは無い、ご婦人。一度言い出したら聞かないというタイプには慣れている。ふむ……スイッチを入れてみてくださらぬか。ああ、ありがとう。やはり動力回路が動いていないようだ。右は正常に作動しているが、回路の左半分が動いていないな。途切れているといった感じだ」
「おやおや、じゃあやっぱり伝導体の一部がもう寿命なのかねぇ」
「お主ら、わしを無視するなぁ!」
「……イエモン、悪いことは言わん、そろそろ寝たらどうじゃ」
喚く後ろから声がかかり、イエモンは振り返った。そこにいるのはシェリダンめ組の最後の一人。仮眠室からごそごそ出てきた昔なじみは、そのまま寝ぼけた欠伸をかみ殺しながら、至極当然のことを言う。
「エミヤもお前に付き合って徹夜ではないか、仮眠くらい取らせてやらんか。それにのう、かっかするのは健康に悪いぞ」
「アストン!」
「そうだねぇ、アストンの言うとおりだよ。いい加減にしないとまーたノエルちゃんがギンジが止めるのも聞かずに「いい加減に寝てよおじいちゃん、お客様に徹夜までさせてー!」とか心配して怒って来るよ?」
「むぐぅ」
頑固一徹、シェリダンの職人気質の代表格、め組のイエモンとは言え流石に孫娘には甘い。むしろ、弱い。確かに、アルビオールの最終調整じゃー! とこのところ徹夜続きだった。大体終わったから明日からはもうちゃんと寝ると約束をしていたのにコレだ。確かにこのままでは怒りに怒った孫娘がやってきてしまう。まあ心配によるお怒りなので嬉しいかもしれないと思っているイエモンはかなりのジジ馬鹿なのだろうが。
「まあまあ、ご老体。明後日……いや、明日か。明日にはメジオラ高原のパッセージリングを操作するつもりだが、その時にぜひともパッセージリングを調べるために技術者に一人二人来て欲しくてね。なんせ創世暦時代の音機関だから扱いはデリケートにせねばならん、技術者の中でも腕の良い……」
「創世暦時代の音機関じゃとお?! いかん、こうしてはおれん、わしは早く寝るぞい! エミヤ、その技術者にはわしが行く! ミスなどしようも無いくらい今日から体調を整えておく、お主も明日に備えてもう寝るんじゃぞ!」
どたどたばたん。騒がしい音を立ててイエモンは風のように去ってゆく。その様子をアーチャーは些か呆気にとられて眺めていたのだが、流石の付き合いというか、タマラとアストンはいつものことだと小さく笑いさえしていた。のんびりと笑うタマラが差し出すホットミルクをありがたく受け取る。ひと口飲んで、ほっと息を吐いた。
「ご老体も元気だな。良いことだが」
「いつまで経っても変わらないヤツでねぇ」
「はっはっはっ、まあそう来なくちゃイエモンじゃ無かろうて。しかしエミヤ、連れて行くのはイエモンで良いのか?」
「ああ、もちろん。元からめ組の誰か一人には来てもらおうと思っていたところでね。お二人も来たいならきっちりパッセージリングまでご案内するが?」
「私は遠慮しとくよ。イエモンが抜けたならアルビオールを見ておいた方がいいだろうしねぇ」
「そうじゃな。代わりに若いもんを一人二人連れてってくれんかの。わしらはイエモンの自慢話でも聞くことにするわい」
「承知した。では私もそろそろ宿に―――」
不意に。何かが降ってきた。
『待て、今帰らないほうが絶対面白いことになる。ちょっと待て』と。
セイバーでもあるまいに、何故か直感がそれを告げてきたのだ。理由は解らない。しかし面白いこと? 面白いこととは何だ。それにこの言いよう、誰にも聞こえぬ声としたら天(グレン)の声でも降ってきたのだろうか。眠っている間にラインを介して声を届けられるようになったとでも言うのか。有り得まい、魔術を知らぬ者にそのような芸当は不可能だ。
一応、とんでもない頭痛を覚悟ならアーチャーの声をルークに通すことはできるだろうが、魔術ラインを起こさなければならないのだから一々ルークにダメージを与えることになってしまう。この世界でも一応魔術は適用できるが、この世界は徹底的に魔術に適正が無い。危険極まりないのだ、この世界に生きる者にとっての魔術と言うやつは。
「どうかしたのか、エミヤ」
「ああ、いや……」
身に覚えの無い突発的な直感にアーチャーがあれこれ考えていれば、アストンが少し心配そうな顔をしてこちらを気にしている。さて、どうしたものか。うーむと考え込んで、ホットミルクをまたひと口。
「そうだな。小僧にはグランツ響長とミュウがついている、心配はいるまい。起きたらどうせまたここに来るのだし、仮眠室を借りてもいいかね」
どうもルークを混乱の渦から救う協力者は、これにて現れることはなくなったようだ。
そしてその後、結局アーチャーは起きてからも一日中シェリダンの集会場に缶詰にされていた。さらにあくる朝、後日ベルケンドい組がこちらにやってきた場合のことについて、その時に協力して欲しいのだとアーチャーがかなり頑張って説得していると、軽いノックの後集会場の扉が開く。
見慣れた夕焼け色の髪。ざっと見ただけだが特に体の不調も見当たらない。どうやらティアはしっかりとルークを見て、ついでにアーチャーの頼みどおりしっかり休ませてくれたようだ。問題はあの時グレンの何を見たのかルークが覚えているかのだが……今の感じを見ると、どうも覚えていないらしい。少しほっとして、それでも一応彼に直接尋ねる。
「ルーク。調子はどうだ」
「ああ、一日ゆっくり休んだからもう快調だ。……昨日蹴り落とされて打ったとこ以外はな……」
「……蹴り落とされた?」
「あ、ああああああれは! あれはあなたが!」
「せっかく人が親切に節々が痛む体に鞭打って……」
「だって、起きたら! ビックリするでしょう!?」
仕方ないだろう、どれだけ引いても右腕外れなかったんだから、とルークは言ってやりたかったのだが。俯けた顔を真っ赤にして、なんだかぶるぶる肩を震わせながらロッドを握り締めている彼女に今そんなことを言ったら、それこそ容赦なく殴られそうな気がして思いとどまる。
あの時はどれだけ待ってもエミヤは帰ってこず、仕方ないと頑張って彼女をベットに上げて。ついでにミュウも拾って。さて俺は隣のベッドで二度寝でも、と思ったのだが、何故か彼女の手はルークの腕から外れず。理由は知らないが身体中にやたらに疲労が蓄積されていて、ベッドでの休息を訴えていた。
だから、いくら兵士でも彼女も一応生物学上は年頃の少女なのだからと、それなりに気遣って同じ毛布を被ることは避けて隣で寝転がっている『だけ』にしたと言うのに。なかなか肌寒い朝なのに我慢して毛布も彼女に被せていたというのに!
起きた時だ。彼女があまりにもポカーンと凝固していたので、やれやれと思いながらその時まで読んでいた音素学の本から視線を向けて、やっとおきたのか寝ぼすけ響長? と言ってみれば。
『―――……………、ッ!?!?!?!』
『ぐが!』
何故か顔を一気に赤くしたかと思えば、声にならない声をあげながら思い切りベッドから蹴落とされたのだ。全く、訳が解らない。俺が何をやったと言うのだ。そもそもお前が俺の右手を放さなかったのが原因ではないか。こちらはそれなりに気を遣ってやったというのに何たる仕打ちだ。
何故かひたすらばかを連呼されて、顔をあげようとすれば枕が頭に降ってきた。理不尽だ。床と枕に打たれた頭を抑えながらも自分の意見を主張し、ついでに寝る前に俺は何かしたのかと問うと、さらに何かを言いかけた彼女は不意に口を噤んで、覚えてないの、と聞いてきたのだ。何がだと聞けば、しばらくこちらの顔をじっと見て、かと思えば覚えて無いならいい、とだけ返して。結局それ以上は何も言わなくなった。
体中に妙に疲労が溜まっていることや、やたらに左目の奥で痛みが疼いていることについて聞いても何も答えない。知っているのは明白なのに、覚えて無いなら思い出さないほうがいいだの言い出す始末だ。俺が情報公開を渋っていた当て付けかとも思ったが、そういう仕返しをするタイプでもないと思う。全く、本当に訳が解らない。
無表情ながらもどこか不機嫌そうに腕を組んでその時のことを思い出すルークと、顔の赤みがなかなかひかずに気まずそうにするティアと。アーチャーにはどんな『面白いこと』が起こったのかは解らないが、とりあえずルークを宥めようと声をかける。
「まあ、なんだ。何があったかはあえて聞かんが……礼は言ったのかね、小僧」
「礼? なんでだ」
「何でも何も……お前は体内の内側の七割が軽度損傷、一割が重度損傷、左腕は折れて筋組織や筋も損傷過多、左目に至っては譜眼の負荷で眼球の水晶体、網膜、黄斑に軽度損傷、視神経には負荷甚大、毛様体には軽い凝固傾向が見られていたのだぞ。下手をすればというか何もしなければ確実に一気に視力低下だ」
「……なんだよそれ。何度聞いても答えもしないが、俺本当に寝る前何やってたんだよ」
「さてね。超振動の制御訓練で無茶でもしたのでは? さらに音素の流れはめちゃくちゃで君の体は第七音素の塊だ。乱れに乱れた音素組織では治癒術も中々効かなかっただろう。それでも左腕も一応治っているし、左眼も痛みはしても視力低下は無いのだろう。まったく、どれだけ苦労したか私は治癒師ではないので解りはせぬが……一人で治してくれたのはグランツ響長だぞ」
「なるほど、それは手間をかけさせたんだろうな。道理で熟睡だったわけだ。それじゃあ起きもしないか。世話になったみたいだな、ティア・グランツ。礼を言う。仕方ないから蹴落とされたことは流してやる―――待て、何故ロッドを振りかぶっている。ちょっと待て」
「仕方ないから……仕方ないから? なかなか治らなくて、どれだけ心配……起きたらしれっと……しかも隣に……『流してやる』?」
地雷を踏んだな。恐らくは分かっていないながらも、ルークなりに何かを感じて微妙に顔を引きつらせている。恐怖の感情を思い出した、と言う訳ではないだろう。ただ単に体が覚えている条件反射か。助けを求める視線を綺麗にスルーして、遠い昔、人間だったころの記憶をぼんやりと思い出しながら二人を見るだけにする。
声はかけない。経験則だ。あの目をした女性には近付かないが吉。
「何が言いたいんだ、待て、何を言っているおい、待て何だそのオーラは。兵士は感情のコントロールも必要だって言ってたのは誰なんだ! 今あんた絶対怒ってるだろう!」
「…………ええ、そうね。感情のまま動くなんて、兵士としてあるまじきことね。ごめんなさい」
ルークの言葉にぴくりと表情を動かし、ティアは大きく溜息をつく。あれ、助かったのか。ルークもほっと息をつこうとして―――にこりと。ティアが笑った。そう、笑っているはずなのに。その笑顔を見て体が凍りついたのは何故なのだろう。
「…………」
「ほらルーク。私もう怒ってないでしょう? でもね、自分がやったことに対して全くなんとも思ってないあなたに、私は少し話があるの。よかったら表に出てくれないかしら」
きれいな笑顔だった。とても魅力的な笑顔だ。そう、背後のオーラさえなければ。よかったら、と断っているが間違いない。出なければ、やられる。背筋に流れる冷や汗を感じながら、ルークは必死に唾を飲み込む。
彼は思った。自分はまさかとんでもないパンドラの箱を開けたのでは。しかし感情を忘れたはずの体にこれほどの反射行動を起こさせるとは、もしや今俺は本能的に危機を感じているのか。恐るべし、ティア・グランツ。流石はヴァン師匠の妹だ。笑顔なのに迫力が尋常じゃない。
「……わ、分か、った…………」
「そう、じゃあ来て」
かくかくと首振り人形のように頷くルークの腕をとってずるずると集会場から出て行く。すみませんエミヤさん、少しだけ時間を貰います。すぐに終わらせますので。ティアはあくまで笑顔だ。イロイロと記憶が錯綜し、うっかり人間だった頃の自分が出てきそうになるのを押し留め、アーチャーは全力を持って『アーチャー』の仮面を被り続ける。そうか、分かった。少々なら大丈夫だ、気にするな。顔が引きつっていないのが奇跡だ。
今までの二人をぼんやりと眺めていため組の三人も、それぞれに最近の女子は強いのぉ、あの坊主も鈍いなわしが若かったころは、ただの痴話喧嘩だね、だのと。流石は人生経験豊富な方々だ、動じるまでも無いということか。ただ、先ほどまでいくらアーチャーが頼んでいても聞き入れようとはしなかったい組との協力について、特に頑迷だったイエモンの態度に少し軟化傾向が見えてきた。詳しい心境の変化は聞かないでおこう。
ただ一つ。すまないルーク、君に救いの手は無いぞ。
一般的な教育的指導のために引きずられていった彼にどうか幸あれ。
メジオラ高原のダアト式封呪の扉を超振動でこじ開ける。パキン、とガラスの割れる時の音がして、がらがらと不思議な色の扉が崩れ落ちた。左眼の痛みに呻いて押さえつける。短い時間だけあってダメージは少ないようだが、ノーダメージだというわけでもない。血が滲んでいるわけではない。痛みだけだ。あまり覚えてはいないが、二日前に超振動を起こそうとして暴走させてしまったときにくらべれば余程マシだろう。それでも、この譜眼を突き刺すような痛みには慣れることは無い。
エミヤに呼ばれて振り返ると、軽く頭に手を置かれた。急に何だ。つい固まったが、すぐに気づく。三秒ほど目を閉じていたかと思えば、何と言ったか、解析魔術? だとかいうので多分俺の体の調子をざっと見たのだろう。譜眼と譜陣の暴走状態の時に比べれば随分と負担は少なくなっていると教えてくれた。それでも譜眼の負担はだんとつで大きいようだが。
しかし、いつの間に俺は超振動をここまで制御できるようになったのか。こう、超振動を起こそうとする時に体の中を流れていく血流と拡散していく熱をイメージする、なんてどこで知ったんだろう。知らない間に増えている知識と言うのは少し不気味だ。絶対にあの寝ている前にあったらしい何かに関係があるはずなのだが、ティアばかりかエミヤまで口を閉ざす始末だ。本当に何があったんだか。
いくら思い出そうとしても、いつかの旅の夢を見ていたことしか思い出せない。
「ルーク、やっぱり左眼が痛むの?」
「いや、それほどでも無い。大丈夫だ。行こう」
ひたすら考え込んでいたら心配そうにティアがやってきたのだが、軽く手を振って治癒術を断る。どうせここで治癒術をかけてもらっても意味は無い。パッセージリングを操作すれる時の方が超振動を遣う時間も長いはずで、もっと左目も痛くなるのだ。かけてもらうとしたらその後のほうが効率もいい。
エミヤにはシェリダンからの技術者を見てもらって、先にティアと二人で入る。辺りを見回すが、魔物はいないようだ。エミヤに声をかけて、技術者が入ってきた瞬間、聞こえるのは元気な声。
「おおおおおおお、これが、これが創世暦時代の音機関か!」
「遥か彼方2000年もの昔、その時代に作られた音機関がこうして未だに命を持って動いておるとは……これぞかの時代の技術力の高さを垣間見る一幕ということじゃな。エミヤぁ!」
「却下だ。私達の目的はパッセージリングについての調査だ。それが終わってからなら何も言わん、先に奥に行くぞ」
ええ、そんな、マシンドクター! お主には情が無いのかぁ! と、若い技術者とイエモンが二人がかりで拳を握って力説するのだが、エミヤは我関せずだ。さて行こうか、と俺たちに声をかけて、さっさと進んで行ってしまう。まだ何かを言おうとする二人に、エミヤはぼそりとそれは小さな声で呟く。
「そういえば確か、この奥にはここの音機関を整備するための、2000年前から稼動する機械人形がいたとの情報が……」
「いざ、往くぞぉぉぉぉぉおおおお!」「はいいいいいい!」
風とともに去りぬ。あっと言う間に走って奥へ行ってしまったシェリダンの技術者魂には脱帽だ。全く、防衛プログラムが作動して襲われるかもとは思わんのかね、とぼやきながらエミヤは彼らを追っていく。そしてそのシェリダンの人たちに馴染んでいる感じのやり取りをみて、思わずぼやく。
「なんというか、元気だな。あのじいさん……イエモンさんだったっけ」
「あの年齢になっても元気なのは良いことよ」
「あと三十年は生きてそうだ」
地核振動停止作戦。その時起こるはずの襲撃から、上手く彼らを守れたら。
続く言葉を心中だけで呟き、後を追う。
扉の向こうに行けば、昇降機を調べているらしい若い技術者とアーチャー、動く機械人形を食い入るように見ては調べてぶるぶると歓喜に打ち震えているイエモンがいた。こちらに気づいたアーチャーの表情を見てルークは大方のことを察する。歴史どおりなのだろう。それでも一応声をかける。
「その昇降機動きそうか?」
「いや。やはり、動力が死んでいるようだ。パッセージリングは恐らくはこの下で、見たところ階段も無い」
「そうか。じゃあちょっとどいてろ」
「ああ……っと、待て小僧。その構えは……いや、あまり聞きたくないが何をするつもりだ?」
「何って。決まってるだろう、下に行くならここを俺の超振動でぶち抜けば、」
「だから待て。どれだけの深さだと思っている。いくらなんでも……例えば降りて無事だとしても、登れなくなったら餓死だぞ!」
「そ、そうですよ! 創世暦時代の音機関ですよ! 壊すなんてそんなの勿体でしょう!」
ずいとエミヤよりも前に出て必死になって止めてくる技術者は、やはりシェリダンの技術者らしく音機械の愛へ溢れていた。そんな彼にちらりと視線をやって、仕方ないと溜息をつく。
さて、ではこれから俺が言う言葉にこの技術者は何を言うのだろうか。
「……エミヤは動力が死んでいる、と言ったな。じゃあ換えの動力をもってきて取り替えれば動くんだろう」
「はい。ですが、換えの動力―――まさか」
「あの機械人形は動いている。なら、動力が生きているんだろう。とれば使える」
「ま、待ってください! そんなの……」
「否定するなら代わりに成り得る案を出せ。パッセージリングは操作しなければならない。これは大前提だ。それにエミヤがあんたらを連れてきたのは、パッセージリングを調査させる為なんだぞ」
「ご主人様……一生懸命働いているのに、可哀想ですの」
言葉につまる技術者の代わりに、小さな聖獣が悲しそうに訴える。大して親交の無い技術者にはそれこそざっくりと言葉を放っていたルークだったが、小さな聖獣にはほんの少しだけ態度を軟化させる。仕方ないだろう、他に方法がないんだ。そう言って軽くミュウの頭を撫でて、ちらりと技術者のほうを向く。若い技術者も代わりになる案を出すことができずに悲しそうに眉を下げていた。しかし、もう反対はしていない。
それを納得だと受け取って、ルークは機械人形を調べているイエモンの方へ声をかける。
「聞こえていましたか、イエモンさん」
「ああ、まあアヤツがアレだけ大声で叫べばなぁ。しかし、惜しいのぉ……未だに動き続けている機械人形だというのに。この調子なら、まだまだ動くこともできるじゃろうが」
「そうですね。目的を持って、そのためだけに作られて、2000年をたった一人でそのためだけに動き続けてきました。もうすぐその目的も終わる。……眠らせてやる時期なのでしょう」
「そうか。そう思えば少しは未練も少なくなるか」
「動力はどこに?」
「いや、わしがとろう。見たところ攻撃でもせねば防衛機構は働かんようじゃ」
そうポツリと言って、イエモンはしゃがみ込み機械人形の駆動部分に手を伸ばす。カチリ、と動力が外れた音がすると、今まで動いていた機械人形は動きを止めた。それを見てイエモンはしばらくそこに立っていたが、やがてその動力を持ってこちらの方へ歩いてくる。やはり年の功かその表情に特に変わりは無いように見える。ただ、いささか必要以上に冷静にも思えるが。
若い技術者と話しながら動力を繋げている背を見ながら、ルークはここに来たときから一言も喋っていないティアの方をちらりと見る。これからのことを考えて、やはり緊張しているのだろう。はっきりとは言い切れないが、少し顔色が悪い。
「いいのか、ティア・グランツ。逃げるなら最後のチャンスだぞ」
ルークの言葉に、ティアが表情を厳しくして彼を睨みつけてくる。が、静かに凪いでいる緑から視線をそらした。これからシェリダンの技術者にパッセージリングの起動キーについても調べてもらう予定だが、恐らくはユリアの血縁でしか解けない、ということを結論付けることになるだけだろう。
ロッドを握り締り締めている。何も思っていないわけではないのだろうに、それでも彼女は静かにルークの言葉を否定する。
「前にも言ったでしょう? 兄さんを止めるのは、妹の私がするべきことだから」
「ああそうだな。なら、俺ももう一度言うぞ。俺はお前のその回答が気に入らない」
「……グレンの生きかたに似ているから?」
「そうだ。世界のために死ぬなど俺は絶対にごめんだ。俺は俺のためにしか、俺の願いのためにしか命は捨てない」
「そうね、そう思う人もいるでしょう。それでも、私はあなたのようにはなれないわ」
話はいつも平行線。きっとこの話でどちらかが折れることはきっと無いのだろう。
ティアの回答にぎりっと奥歯をかみ締め、ルークは彼女に背を向け一気に不機嫌な表情になった。いや、不機嫌だというだけでは齟齬が出る。これは不機嫌だというよりも、駄々をこねる時の子どもの表情に似ているだろうか。ままならない世界に、どうにもならない我侭を言っているようなものだ。
「そうか。俺は世界のために自分を、なんて考えをする人間は嫌いだよ」
ルークははっきりと自覚する。怒り、苛立ち、焦り、そんな感情をまぜてぐちゃぐちゃにしたような、腹の底から灼熱が煮えくり返るようなこの感情は『嫌悪』だ。向かう先は誰に? 考えるまでも無い、彼女ではない。己へだ。嫌いだと、逃げろといっているくせに本当は知っている。逃げるはずが無いと知ったうえで言っているのだ。そんなことができるわけが無いと知っているうえでの言葉なのだから。
しかし思い出す感情がろくでもないものばかりだと言うのは、全く人間らしいじゃないか。人間は壊すことの天才だ。助けて支えるよりも突き放して傷つけるほうが簡単で、これは笑える、どうやら人間もどきでもそう言うところは人間らしいようだ。
人の世界は常に何かから奪ってでしか存在できない。命だけじゃない。何かを犠牲にしてでしか成り立てない。
命をかけて、世界を救っても。その誰かの命を喰らって生き延びる世界に住む人々は、大半はその犠牲すら知らぬままに生きるのだ。その世界が、命が、生活が、誰かの犠牲の上に成り立っていることを知りもしないで、当たり前のように笑って暮らすのだ。ひとりと世界ならどちらが正しいかなど明らかだろう、そう言って、当たり前のように生きて、すぐにその犠牲になった人間のことも遠い記憶に整理して。
そんな世界のために、顔も知らない誰かのために、命を捨てる。
反吐が出る。ああ、反吐がでる。苛々と吐き捨てるような調子で言葉を放つ。
「大ッ嫌いだ、そんなやつ」
ティアは何も言わなかった。ただ彼の背をみて静かに目を伏せて、そう、とだけ答えて何も言わない。
それが何故か、ルークを一層のこと苛立たせた。