ベルケンドの第一研究所。その扉の前にたむろっている、どう考えても研究員ではないご一行。彼らの間に満ちる空気は形状し難いものだった。
とにかく雰囲気が悪い、空気が重い。だがしかし、険悪だというには陰湿さも、張り詰めている感覚も足りない。ただひたすら居心地が悪い、そんな空気だ。
大きく溜息をつき、とりあえずルークはイオンに服を掴む手を放すように頼む。放せばすぐにでも逃げていくと思っているのか、眉を下げる彼の頭をぽんぽんと軽く叩いた。逃げやしない、こっちもいくらかお前らに聞きたいことがあるからな。そう言えば渋々ながらも手を離してくれて、ルークは少しほっとした。
「さて、被験者とその愉快なご一行殿。お前らは何しにこんなとこへ来ているんだ。戦争回避の為に動けとエミヤに言われなかったのか」
「てめぇこそ何でこんなとこに居やがる、レプリカ! まさかお前、ヴァンと繋がってんじゃねえだろうな」
「オリジナルルーク。お前俺より頭劣化してんじゃないのか?」
「何だと?!」
「そんなことある訳が無いだろう。グレンが死に掛けてるのは、俺をあのひとから庇おうとしてだ。あのひとだろうが俺の願いの邪魔をするなら殺す。協力なんてするつもりは微塵も無い」
表情を変えることもなく、あっさりとヴァンさえ殺すと言い切ったルークの発言に、皆一様に顔を強張らせた。特にアクゼリュスまでのヴァンへの信頼ぶりを知っている、アッシュ以外の皆の表情は固い。
「ルーク……」
「『邪魔をするなら』だ、イオン。別に自分から進んで、殺して済ませようとしているわけじゃない」
守られるだけでは叶わない。その為にならこの手を赤に染めることももう厭わない。そう決めた。それでも、ルークの記憶にこびりついて消えない声がある。
―――ルークには人を殺して欲しくない
―――俺はお前に人を殺させたくないんだ
その声を、その願いを、いつかルークはその手で切り捨てることになる。
けれど、できるならギリギリまでその願いを守っていたい。たくさんの血を見るだろう。殺した数が多ければ悪で少なければ許されるなんてことは無い。事実は事実で、人を殺したことからは逃げられない。それでも、できる限り殺してしまう人が少なければ良いと思っている。
そう思うことがただの自己満足だとしても、己の意思で破って砕いた約束の欠片を、これからも自分は後生大事に持っていくことになるのだろうとも解っている。世界が砕けたあのときに、ルークの心は修正不可能なまでにどこかが歪んでしまったのだ。きっと、これからもずっと、あの声から逃げることなどできはしない。
人を殺してしまえばきっと記憶の中から聞こえる声が、キレイで優しいだけのあの願いが、ずっと己自身を苛むのだろう。
それでも、その声の願いを裏切ることになってしまっても。
願いのために、進むと決めた。
「立ち塞がるなら殺して進む。邪魔をするなら切り捨てる。壁になるなら砕いて進む。それが世界の何であっても、誰であっても、世界そのものでもだ。邪魔をしないなら何もしない。それでも、邪魔をするなら―――容赦はしない」
「……狂ってやがる」
「そうだな。で、それが何かお前にとって問題があるのか?」
「てめぇ!」
剣を抜きそうになったアッシュを、町中での抜刀を留めるようにジェイドが止めていた。
歪んでいる、狂っている、転がり落ちていくように壊れていく。だが、それがどうした。本当に叶えたい願いが叶うなら、そんなことは些事だ。世界のために破滅するのはごめん被るが、自分の願いのために命を懸けるのならそれこそ本望だ。
この心は、あの時一度壊れてしまったのだから。
一度目を閉じて、思考をカットする。今までの会話を情報に処理。益になる情報はなし。忘れたとしても問題は無い。記憶に留めるまでも無い。恐らく今の彼らではめぼしい情報は持っていないだろう。しかしさらに会話をして、グレンのときと今との情報の一致の確認をするべきだ。
目を開けて、イオンを見た。心配している時の目だ。苦笑できればよかったのだが、感情は無い。表情もまだ上手く作れない。目を見て話すことくらいしかできなかった。
「解っただろう、イオン。今の俺には集団行動は無理だ。自覚はある。俺は狂ってる。不和ばかりを撒き散らすしかない」
「ルーク……」
「……別に、目に付くものを片端から殺すって言ってる訳じゃない。だから待て、そんなに悲しそうな顔をするのは勘弁してくれ。言ってるだろう、邪魔をするなら、だ。邪魔さえ入らなければ何もしない。……さて、というわけで確認するぞ。今お前らがここに居るって事は、」
「次の目的地はワイヨン鏡窟、といった所ではないのかね」
ルークは些か強引に話の筋を変えようとして、その途中で聞こえてきた声の方向へ視線を巡らせる。背の高い、白髪の男がいた。
当たり前のように話に入ってきた男の両脇には大きな袋。抱えられている袋はパンパンで、傍から見てもかなりの重量のようなのだが、アーチャーにとってはまだまだ余裕で軽い部類に入るらしい。相変わらずの人外だ。
「エミヤ、買出しは終わったのか?」
「無論だ。さて大佐殿。先ほどの話だが、私の推理は果たして正解なのかな」
「あなたたちの動向も私達は知りたいので、それと交換でなら言うのもやぶさかではありませんが……」
「動向も何も。言っただろう、我々の今の動く基準はパッセージリングの操作だ。アクゼリュスのパッセージリングが支えていた一帯の大地がそろそろ限界でな。放っておけば大地が崩落する。最近地震が頻発するだろう? アレがその証拠だ」
「……何を目的にして動いているんですか」
「私はマスターの願いの助力をしているに過ぎんのだがな。そうだな、あえて言うなら天下無敵のハッピーエンドを連れてくる為だそうだ」
「?」
一同は訳が解らない、といった表情だ。その中で一人だけ、ルークはほんの一瞬アーチャーの影で苦虫を噛んだような顔をする。忌々しそうに「天下無敵のハッピーエンド、ねぇ」と低く呟くが、その声が酷く小声だったことと早口だったことで、誰の耳にも届かなかった。
「さて、ではこちらは言ったのだからそちらの番だぞ。ワイヨン鏡窟へ行くのだな?」
それは、質問と言うよりは確認と言ったほうが良い問い方だ。ジェイドは眼鏡の奥で目を細めて、アーチャーの様子を観察する。しかしかの人外は、口元だけをにやりと釣り上げるだけで何も言わない。
「……解っているなら、わざわざこちらに情報を出して確認するまでも無いことなのでは?」
「そうはいかん。私の知っている情報とどれだけ齟齬が出ているのか、それとも出ていないのか。それは確認しておいて損は無いし、この手の確認は怠らないことにこそ価値があるのでね。それに探られて痛むような腹があるでもない。かまわんだろう、なあ小僧?」
筋金入りの嘘吐き屋のくせに、いけしゃあしゃあとよく言うものだ。何が探られて痛む腹は無い、だ。信じるか信じないかは別として、と言う事ばかりの癖に。
しみじみと思っているのに、無表情でしれっと頷く己も大概だと思う。大分毒されてきたのかもしれない。
しかし先ほどの情報開示はミスリードの為のものではなく、敵対関係にはないとそれだけを提示する為のものなのか。しかしそれにしてはあっさり言ったものだ。今度は一体何を考えてるんだか、ルークにはさっぱり想像がつかない。
「しかし、あなたたちの言葉通りなら、どうしてあなた達はここに居ますの。この近くにセフィロトはありませんでしょう?」
「……………………………」
突如アッシュ並に眉間に皺を寄せて不機嫌をあらわしたルークに、アーチャー以外は少し驚いているようだった。先ほどまでずっと無表情だった彼が表情らしい表情を表したのはこれが初めてだ。特にユリアシティでの感情が削げ落ちた人形のようだったルークを見ていたナタリアは驚いている。相変わらず人形じみてはいるが、今のルークは無表情が多いながらもあの時より余程人間らしかった。
そしてそんなルークを見ながらアーチャーは少し遠い目をしている。全く、とぼやいた後でそれはだなと説明をしようとして、かしゅん、とみんなの背後で扉が開く音。
再び言うが、彼らの今のたち位置は第一研究所の入り口を塞ぐようになっている。慌てて道を譲ろうとして、そして出てきた人物を見て皆が驚き、そして出てきた当人も驚いたように目を丸くしている。まるで焼き直しだ。
「ティア! あなた、どうしてこちらにいらして……」
「……それは、」
「ユリアシティで俺は言わなかったか、王女殿下。パッセージリングの起動にはユリアの血縁が必要だと。しかしパッセージリングの起動には」
「ルーク!」
ナタリアの至極最もな質問に、ティアは言いよどんでいた。そんな彼女の代わりに淡々とルークが説明をしだすのだが、しかし彼女はそれを咄嗟に止めようとして咎める口調でルークの名を呼んだ。ルークはそんなティアをじろりと睨みつけて黙らせる。
ここでも人のことか、と。
反吐が出るな、心中でそう吐き捨てて、ルークはその苛立たしさを隠そうともしない表情であっさりと言ってしまう。
「起動キーとなったものには障気が大量に入り込んでな。結果、確実に障気障害をわずらう。すでに一つ起動させたから、そのための検査だ。……ティア・グランツ、薬は」
「……ええ、ちゃんと貰ったわ」
「次にいつここに来れるか分からない。そして起動するごとに障気は溜まり重症になっていく。その分も?」
「二段階に分けて貰っているから大丈夫よ」
本当はシュウ医師は大いに渋って、パッセージリングを起動するごとにこちらに来て、その症状の段階に一番あった処方をしたほうが良いと言っていたのだが、ティアはそれを言わないでいた。
しかしそのことを聞いても居ないくせにルークは知っていたのか、ティアを見る緑の瞳の温度はますます冷たくなる。それは不機嫌などと生易しいものではない。もはや殺意交じりの激怒だ。
ルーク、と宥めるようにアーチャーが声をかけ、ルークは舌打ちをしながらティアから視線を逸らした。そしてルークが宣告した言葉に声を失っている元同行人たちを見やって、ティアに向かってぞんざいに声をかけた。
「先にアルビオールに戻る。五分だ。戻ってこなかったら置いていく」
「私は、」
「納得していない奴等がいるならそれを説得するのは自分の仕事だ。俺は知らない。行くぞ、エミ―――」
「ルークっ!」
少しはなれたところから、切羽詰ったような声に名を呼ばれる。今度は何だとうんざりしながらルークはその声のほうを向いた。金色の髪。ガイだ。すごい勢いでこちらに走ってきていて、その後ろを追っているアニスは既にバテバテだった。
ガイは港からの全力疾走だがアニスは往復の走り込みだ。無理も無いことなのかもしれない。
現実逃避気味にそんなことを考えていると、すごい勢いで走りこんできたガイが大きく振りかぶった。こんの、大馬鹿野郎! と目が語っていた。間違いない、この一発だけは親友だろうが使用人だろうが、容赦なく振り下ろされるのだろう。
「ルークッッッッ!」
遠慮なく振り下ろされた拳をさっと避ける。いくらガイの動きがルークより早くても、直線の動きなら避けられる。それに勢いがあまりすぎてガイは直線以上の動きができない状況だったのだ。それだけ重なっていればルークとて避けられた。
結果、勢いあまってガイは転倒しかけたがそこは意地で持ち直していた。アーチャーは素晴らしいバランス感覚だな、とぼやいた後、にやりと笑ってルークの方を向く。
「小僧……五分だぞ。納得していない奴等がいるならそれを説得するのは自分の仕事、なのだろう?」
「エミヤ。それは嫌味か」
「ルーク、お前、何も言わないでどうして勝手に一人でいっちまったんだ!」
「さて、頑張りたまえ。自分の言葉には責任を持つべきだろうよ。それではな」
軽くひらひらと手を振って去っていくアーチャーの背を半眼で見送って、先ほどから何度も名前を呼んで喚いているガイの方を向く。
黙って聞いていれば言われる言葉は散々心配していたと、そういう事ばかりで。きっと感情というものがあったのなら苦笑いしたかったところだっただろう。本当に、大概にしてこのメンバーは何だかんだでお人好しばかりだ。
「ルーク、聞いてるのか?」
「聞いている。しかしお前こそ聞いていたのか? 伝言だったが言ったはずだな。俺はもう賭けはできないと」
「馬鹿野郎が。ルーク、賭けを持ちかけたのは俺だぞ。その俺を差し置いてお前のほうから先に逃げるなんてそうは問屋がおろさないからな。賭けは続行だ」
「それは無理だといっているんだ―――ガイラルディア・ガラン・ガルディオス」
その名を聞いて、ガイの目が大きく見開かれる。
知って……? と小さな声が呆然と呟いた。
「最近知ったんだ。しかし賭けを止めるといっているのはそう言う理由じゃない」
「ルーク……」
「俺は、狂信者だ。そのためなら何もかもを切り捨てる。お前が剣を捧げるに値する人間にはもうなれない。……約束さえ切り捨てて、自分の為だけに進むしかできないんだ」
いつか、お前が俺の剣を捧げるに値する主になったなら、その時は。
お前が成人したら、俺がどこにでも連れてってやるから。
いくつ約束をしたのだろう。
いくつの約束を破ることになるのだろうか。
胸は痛まない。悲しいとも、思えない。ガイはあんなに辛そうな顔をしているのに、何も感じない自分。辛そうな顔だ、と分かっているのに、それに対して何も感じていない自分。相手は自分が生まれてからずっと傍に居てくれた親友だというのに、それでも何も感じていない。それがルークには気持ち悪かった。
本当に随分と壊れている。こんなのはもう、人間じゃない。
「じゃあな。復讐をどうしても諦められなかったら、殺すのは俺にしろ。俺も簡単には殺されるつもりは無いが―――復讐を諦める賭けを途中で終わらせたのは、俺なんだから」
「……待て、ルーク!」
「あの二人もお前の幼馴染だろう。多分これからいろいろ面倒くさいことに巻き込まれるだろうから、俺は良いからお前もあっちを頑張って支えてやれよ」
「ルーク!」
くるりと体の向きを変えて歩き出す彼の名を、ガイは必死になって呼んだ。何かを言わなければと思うのに、上手く言葉の続きが出てこない。
本当の名前を知られて動揺しているのか、それが理由ではなく彼自身の意思で切り捨てると言われたことなのか、それともよりにもよって彼自身からあの二人の傍に居てやれと言われてしまった事に対してか。
刹那。ガイの脳裏に過ぎるのは、アクゼリュスまでに至る道。旅の風景。斬られて死ぬ人を見るたびに顔色を悪くしていた。強情っぱりの癖に人間相手には大人しく守られていた。その分魔物のときは俺が出るとグレンに噛み付いていて、グレンは困ったように笑いながら結局頷いていた。
歩く道のりで空を見上げてあの雲の形は何に似ているだの、セントビナーでは子とものようにはしゃいでいたり、砂漠の流砂の細かさに驚いたり、海の磯の匂いに変な匂いだとぼやきながら、それでも目はずっと海を見ていたり。
いつか自由になれたら。ケテルブルクにいってみたいと笑っていた。グレンとイオンと雪合戦をしたいのだと言っていた。ついでにガイも来るかと、笑っていた。あの時までは、確かにそんな記憶ばかりだったのに。
ここでルークを止めなければ、彼はそんな何もかもを置き去りにして行く気がする。ガイにはそう思えて仕方なかった。けれど迷いなく一人で進んでいくその足をどうすれば止められるのか解らずに、ただガイはうめくような声でルークに尋ねる。
「お前は、何がしたいんだ……っ」
「何が、って」
今まで築いた時間も誰かと交わした約束も切り捨てて、皆とは自分から距離を取る。伸ばされる手すら振り払って、一人きりだ。共に行動している人たちはいる。それでもルークは一人きりだ。一人で居ようとしている。傍に居るはずの人の手も借りずに、たった一人で何かをしようとしている。
そうまでして何をしようとしているのか。何故一人で為そうとするのか。それが分からなくてガイは歯噛みする。
その背を追いかけて一発殴って目を覚ませと言いたかったのに、ルークは止まらない、それが分かってしまってガイは何もできない。
一人葛藤するガイに気づいているのか、いないのか。
ルークは体を半分だけ捻って振り返り、ガイと視線を合わせた。
揺らぐことの無い翡翠の瞳はただ淡々と世界を映し、抑揚の無い、聞きなれていたはずの声はまるで別人のようにガイの耳に届く。
「俺は、俺自身のために俺の願いを叶えたいだけだよ。……例え、誰かの願いをこの手で奪ってしまっても」
馬鹿野郎、と小さく呻くガイの声を背に聞きながら、エミヤの行っていた動作を思い出しながらひらひらと手を振った。
ルークがアルビオールに戻ってみれば、アーチャーはごそごそと買ったアイテムと食材(割合比率3:7)の整理をしていた。声をかければ、おやと目を丸くされ、早かったなと言われる始末だ。ちらりとルークの後ろを見やったアーチャーはその後ろに誰も居ないことに気づいてやれやれと頭を振る。
「ルーク。帰り道は同じなのだからせめてグランツ響長と一緒に帰ってこようとは思わなかったのかね」
「あんなにナタリアやイオンが必死になって止めてて、途中からアニスも混ざって必死に引きとめようとしてるは、アッシュも不機嫌そうな顔しながら心配してたしジェイドは何も言わなかったけどあいつもあいつで心配はしてたんじゃないかな。ふん、あの集中攻撃から逃げ出すダシになんぞなるつもりはない」
「お前は……そんなに彼女に逃げて欲しいのか?」
「わざわざ行動を共にするのが俺たちのほうじゃなくても良いだろうと言ってるんだ。俺はもう超振動の制御はあらかたできるようになった。もともとグレンの記憶を覗いて知識だけはあったんだ。実際にコツを掴んだらあとは大丈夫だ。あいつの制御訓練は要らない。このままあっちと一緒にパッセージリングを起動させていかせれば良い。それで俺らは裏方に回ればいいだろう」
「裏方ね。しかし裏方にまわるとやれることは少ないぞ。偽姫騒動はここで起こしておかねばならんから、あちらは時間を食うことになる」
「……ある程度は歴史通りになぞらえないと予想外の自体が起きる可能性がある、っていうんだろ。それが最善なら俺は何も言わない。お前が言うのなら、グレンの願いを叶えるのに一番適している方法なんだろ」
「あの姫には戦場を突っ切ってもらわねばならん。戦場が降下した際のことも考えて、セシル将軍とフリングス将軍に面識を持たせておかねばならんのでな。ピオニー陛下には既にセントビナー、エンゲーブの住民の避難を頼んではいるが……さて、理由も話せない状況で議会のお偉方は納得したのかね。戦争がはじまる前に領土放棄など、これから起こることを知りもせん人間にはただ臆病風に吹かれて逃げているようにしか見えんからな」
「でも崩落のことはエミヤが伝えてるんだろう?」
「ああ、崩落が起きることまでは伝えてある。しかしな、それを議会にどう伝える」
アーチャー達がこれからおきることを知っている、というのは隠さなければならないことだ。だからピオニーもこうなるから避難させよう、ではなく、せいぜいがこうなる可能性があるから非難させたほうが良いのではないのか、までしか言えないし、それで議会があっさりと納得をする可能性も低い。
何もせずにただ待っているだけで最善の結果を享受できる、というのは質が悪い。民が、少なくとも民を導く指導者が自分たちの意思で決定し、自分たちの意思でその選択を選ばなければ意味が無い。一方的に与えられる最善などスコアと同じだ。だからこそ自分たちの頭で考えてもらわねばならない。
例えその結果が最善よりも遥かに悪い善次だとしても、それでも自分たちで選んだ結果にこそ意味がある。
しかし、今の状況でセントビナーが崩落する危険性がありますでは議会が納得しない。せめて地盤沈下でも起きだしていたら納得するだろうが、そうしたら今度はそれがキムラスカの仕業ではとの疑心暗鬼が生じるだろう。救援を送ろうにも渋りだすのが目に見える。
恐らくはセントビナー救出作戦はグレンの記憶どおりになる可能性がある。ならばきっとエンゲーブも似たようなことになるのだろう。せめてセントビナーの避難民がエンゲーブではなくそのままグランコクマ、もしくはケセドニアにまで避難できれば護衛人数もかなり減るのだが。
アーチャーがつらつらそんなことを考えていると、ルークはうんざりしたようにぼやいた。
「色々と面倒くさいものなんだな」
「仕方あるまい、改変する側は直接歴史に介入して改変しては修正がくる。そうなるように仕向けて、そのお膳立てをして誘導して、それだけだ。いいかねルーク、この世界の異邦人である私はそれまでしかできない。それ以上をするなら、この世界に生きるこの世界の住人の手と、その意思で為さねばならないのだよ」
「これから起きることを知っている、圧倒的な一人のカリスマに救われる世界には意味が無い、だろ。それじゃあまたユリアとスコアの二の舞だ。一人ひとりこの世界に生きる人たちが、自分たちの意思で選んだ結果にこそ意味がある」
「そうだ。誰かのおかげでこうなりましたという意識は、何かがあればあっと言う間にそいつのせいでこんな目に、という意識に変わる。選んだのは自分だという意識がなければ意味が無い。……とはいっても、スコアという予言に浸ったこの世界では些か理想論だろうが」
「……だからグレンは『英雄』という言葉を嫌ってたんだな」
「英雄など生まれる必要も無い世界こそ最善だ。とはいっても、私とてそんな世界は見た事が無いが。……いや、もはや私だからこそ、そんな世界を見れることもないのか」
「……そんな世界に生きる人間は完璧すぎて、もう人間じゃない別の生物なんじゃないのか」
自嘲していたアーチャーはそのルークの言葉に驚いて目を見張る。
思い出すのはこの世界に来る以前のこと。恒久的な世界平和をきっぱりと否定した誰かの姿。
ふっと口元が緩む。
「そうだな。最善が全て正しいわけではないし、正しいことが常に最善であるわけでもない。まさか小僧に教えられるとは、私もまだまだ未熟だな」
終わらない人間の欲望。その代償を負わされるのはいつも何の力もない人々。泣いている人々がいる傍らで、強欲な誰かは生を謳歌し幸福に笑う。そしてまた別の強欲な誰かは、力ない誰かを己の持つ力で蹂躙し高々と哄笑を上げるのだ。不条理に満ちた世界。どうしようもない、人間というのは本当にどうしようもない存在だ。
けれど、それでも全てが全部の人がそうだと言う訳ではない。
そんな人間がいる一方で、それでもかのアーサー王や赤い魔術師、クランの猛犬、ギリシャの大英雄。彼女たちや彼らのような存在も確かに存在する。
どうしようもないほど怒りを抱く愚かしい人と、眩しいほどに真っ直ぐで優しい人と。悪の中に善があり、善の中に悪がある矛盾だらけの人の世界で、それでも誰にも消せない輝きを持った人も確かにいる。それを忘れてはいけない。
くつくつとアーチャーはご機嫌に笑い出して、ルークは胡散臭そうな目でアーチャーを見ているのだが、当の本人は気にした様子もなく笑っている。溜息をついた彼の耳に足音が聞こえた。ルークが振り返れば、そこには帰ってきたらしいティアの姿。
その姿を認めて、一気にルークの機嫌が悪くなる。
「……本当に、呆れるほど責任感のある女だ。皆必死になって止めたんじゃないのか」
「それでも最後には皆分かってくれたわ」
「お前の頑なさに負けて、何も言わなくなっただけだろう」
「……これは私がしなければならないことなのよ」
「あーあーあー、はいはいそうですか。くそったれ、忌々しい。もうお前喋るな、座っとけ」
流石にその言い方にはカチンと来たのだろう、表情を厳しくしたティアだったが、彼女が何かを言うより先にルークは立ち上がる。そのまますたすたとティアの横を通り過ぎて確認するようにアーチャーに声をかけた。
「エミヤ、ノエル呼んで来る。目的地はユリアシティ、その次がグランコクマだな」
「そうだ。恐らく駆動部にいるだろう」
「分かった」
そしてそのまま出てくルークはティアの方を見ようともしない。アーチャーは頭痛を堪えて眉間に指を当て、何とかフォローをしようと頑張るのだが。
「……グランツ響長、あまり気にするな。アレもあれなりに、その、なんだ……気遣ってはいるのだ。判り辛いが」
「そうですか? ……そうですね。お気遣いありがとうございます」
絶対に信じていない声音の返答だ。
アーチャーはルークを無視してガイを連れてきてしまえばよかったと真剣に後悔しつつ、アルビオールの窓の中から空を見上げた。
どこまでも広く澄み渡ったいつもの空は、今日も今日とて眩しいくらいに透き通っている。