ティアはアルビオールの船内を自室に向かって歩いていた。廊下を曲がる。すると、とある船室の扉に背を預け、胡坐をかきながら座り込んで本を読んでいるルークを発見した。因みに彼の膝の上ではすやすやと仔チーグルが呑気に寝こけていて、その寝顔がとても幸せそうで、ティアはうっかり違う世界にトリップしそうになったのだが、それを間一髪のところでなんとか堪える。
いけないいけないとティアは首を振り、目を閉じて己が理想とする教官の姿を思いう浮かべて平静を装う。彼女のようになりたかった。彼女のような軍人になりたかった。軍人として在るなら、あの人のようにありたかった。理想の姿を思い浮かべる。
クールダウン完了。
深呼吸をして目を開く。
ミュウは何だがむにゃむにゃ言いながらルークの膝に顔を摺り寄せていて、落ちかけそうになったその体を彼が拾い上げ膝に乗せなおしていた。寝相悪いなコイツとぼやいた彼は軽くミュウの頭を叩いて、落ちるなよとだけ呟いてまた本を読んでいる。
ミュウは寝ぼけながらぱちぱちと何度か瞬きをして、丁度良い位置を捜してごそごそ動いてまたこくこくと眠りだした。その健気な聖獣の小さな手はルークのズボンをぎゅっと握っていて、その姿が、もう……
ティアには最大の試練だ。
ついつい数秒か、数十秒か、それともまさか数分なのか、時間間隔も分からなくなるほどぼんやりしていてのに気づいて少し落ち込む。
兵士たるもの常に気を張っていなければならないだろうに、何か一つの物事に気をとられて僅かでも意識を飛ばしてしまうとは。しかしミュウが可愛いすぎるのもいけないのだ、きっと!
一度溜息をついて、ルークに近付いた。
……それにしてもなぜ自室でもなくあえて廊下で、しかも椅子でもなくそのまま床に直接座って本を読んでいるのか。
内心首を傾げて、しかしすぐに思い出す。彼が今陣取っている扉の奥に誰が眠っていたのかを。ユリアシティについた時にも評されていたが、本当に忠犬だ。けれどそれならどうしてわざわざ廊下に出ているのだろう。わざわざ廊下に出て床に直接座り込まなくても、枕元に椅子でも持ってきて本を読めば良いだろうに。
ルーク。名前を呼ぶ。彼は顔を上げちらりと一度こちらに視線を寄越すが、すぐに本へと視線を戻していた。相も変わらず、ルークの世界は今日もグレンとイオンとその他で構成されているらしい。
「……何をしてるの?」
「見て分からないか。本を読んでいる」
「それは分かるわ。ただ、何故あなたがわざわざ廊下に座り込んでるのかを聞いてるの」
「別に。気分だ」
「そんなに心配なら、彼のベッド脇に椅子でも持ってきて座っていれば……」
「だから言ってるだろう、そんな気分じゃないんだ」
ルークは無表情のまま淡々と返し、本のページをめくる。今まで彼がよく読んでいた、ティアの渡した音素学の本ではない。ベルケンドで買ったのだろうか。アクゼリュスまでのルークを思い出せば、時間を見つけてはこうして読書に励む彼を見ていると、何だか不思議な感じがする。
それとも彼は表には出さなかっただけで、案外読書好きだったのだろうか。そういえば彼は結構好奇心旺盛だった。グレンという友人を得てからは、何か解らないことがあればよく次から次へと質問していた。
グレンはそれにのんびりと答えていて、そして続く質問に彼自身も解らないことがあれば首を傾げて二人してああだこうだと推論をぶつけ、そして最終的には何故そうなったのかと言うような結論に達し、ティアとガイとアニスと途中からはイオンも混ざって、四人でよく苦笑しながらその二人を見ていたものだ。
因みにバチカル以降はナタリアが二人の会話を聞いて大いに納得しさらに吹き飛んだ疑問や納得を口にして、それを面白がってアニスとジェイドが引っ掻き回してもいた。
思い出すいつか。その時にはまだ目の前の彼もよく笑っていたのだが。
「……床に直接座り込んでたら、体が冷えるわよ」
「それしきのことで体調を崩すほど軟弱じゃない。いらない心配だ」
「そう……」
何を意地になっているのか、てこでも動きそうに無い様子にティアは溜息をつく。ユリアシティで皆と別れ彼と旅に出るようになってから、溜息をつく回数が増えている気がするのはきっと気のせいではないだろう。
かつかつと歩いて彼の前を通り、そしてルークの隣に無言で腰を降ろす。
ルークはぴくりと眉を動かしたようだが、特に何も言わない。表情も変えていない。けれどどこか不機嫌そうだ。それをサラリと流して、ティアはアルビオールの窓から空を眺めた。雲に突入しているのか、空の抜けるような青はなかなか見れない。
「……ティア・グランツ。何してるんだ、お前は」
「何って、見て分からないかしら。ただ座ってるだけよ」
「それくらい分かる。お前こそさっき自分が聞いてたくせに、なんで床に直接座り込んでるんだ。体が冷えるって言ってたのはお前だろう。服も汚れるぞ」
「……服が汚れるといえば、汚れれば困るのはあなたのほうでしょう? 私は軍服だから良いけれど、あなたの服はいい素材を使ってるって、」
「話を逸らすな」
今まで読んでいた本からついに視線を上げ、不機嫌なオーラを漂わせたルークの顔がティアの方を向く。ティアに向けられる片目の緑に浮かぶ色は、怒りと苛立ち。
一番強く思い出している感情がそれのせいか、もはや彼の表情で見慣れてしまったのが無表情と怒りだとは、ともに旅をする仲間としては嘆くべきところなのだろうか。
ルークを心配するアーチャーからも感情のリハビリを頼むと言われているが、ティアは正直彼の感情のリハビリにどれだけ自分が役に立っているか、よく分からないでいた。何とか会話をしようとしてもざくざくとぶつ切りの会話にしかならず、そして会話をしても彼を不機嫌にしかできない。
向けられる表情はいつも怒り顔と無表情。緑の瞳に浮かぶのは、殺意交じりの苛立たしさと不機嫌そうな鋭い眼光。
……ミュウのほうが余程彼の感情を宥めながらの会話になっていると思う。しかしティアとて敵意ばかり向けられ続けて、何も思わないわけではないのだ。いい加減にこの調子だと彼女のほうにも苛立ちは募る。
「そうね。あえて言うなら気分かしら」
「……ふざけるなよ、おい」
「ふざけてないわ、あなたと同じでしょう」
「気分で体を冷やすのか。随分と兵士失格の思考回路をお持ちのようだなオラクル騎士団の響長様は」
「ええ、私は兵だから。これでも鍛えているから少々冷えたくらいで体調を崩すようなやわじゃないの。要らない心配よ」
ティアの言い様に、ルークの眉間に一気に皺が寄る。ちっと舌打ちしながら、低い声で呟いた。
「さっきから俺の回答をそのまま使ってるだけじゃないか。いい加減苛苛する、やめろ」
「もう十分苛々してるじゃない」
「煩い。これはお前のせいだろう」
「……ええ、そうね」
ティアはまた溜息をつく。
感情を忘れた彼の心が分からない。何をどう感じるのかが分からない。何を思っているのかが分からない。何も解らない。試しに彼の言葉をそのままトレースして会話をしてみたのだが、彼がどんな気持ちだったのかもちっとも分からなかった。結果など、彼を不必要に苛立たせただけだ。
当たり前といえば当たり前か。自分が言った言葉をそっくりそのまま返されて、これでは皮肉か嫌味にしかならない。気分を悪くさせるだけのことだ。
ごめんなさい、と小さく呟けばまた小さな舌打ちが聞こえた。そんなにあっさり謝るくらいなら最初からするなとの言葉が耳に痛い。
「反省するならさっさとどこかに行け。女は男よりも体が冷えやすいんだろう。いい加減に冷えるぞ」
「……後もう少ししたら行くわ」
「今すぐに行け、と俺は言ってるんだが」
「そんなに変わらないでしょう」
「強情な女だな。いいか、障気障害というのは障気が体内に蓄積されることによって内臓器官を極端に弱める。肺が弱まれば呼吸をするのも重労働だろうし消化器官が弱まれば食欲も落ちる。諸器官や心臓が弱まれば新陳代謝の機能も落ちて体温も一気に下がる。今はまだそこまではっきりと症状が出ていなくても、いずれはそうなるんだぞ」
「……」
ルークの容赦の無い言葉に、ティアは少し息を呑んで奥歯をかみ締めていた。震えそうになる体が許せないのか、ぎゅっと強く拳を握っている。しかし膝を抱えて蹲ろうとはしないのが彼女らしいといえば彼女らしいのか。
特に情に揺れるでもなくそんなことを思いながら彼女を観察して、ルークは淡々と言葉を紡ぐ。
「体調を常に可能な限り最善に保っておくのはお前の義務だ。もう行け」
「……そうね。その気になったら、すぐにでも」
「………………、…………………………、……強情な上に意地っ張りか。俺にはお前が理解できない」
「それはお互い様でしょう」
長い沈黙の後に吐き捨てるように言われた彼の言葉に、いい加減に落ち込みたくなる。彼女が平静を装って返せば、返るのは不機嫌そうな溜息だ。
そして徐にルークは自分の膝の上で寝こけていたミュウをティアのほうに押し付けてきた。突然のルークの行動にティアはキョトンとする。が、彼はそんな彼女を無視して立ち上がり、ティアには一瞥もくれずすぐ後ろの扉を開いて船室へと入っていった。
どうやら彼のほうが我慢の限界だったらしい。しかしこれで何とか椅子にでも座ってくれればそれでいい、体を冷やすことも無いだろう。
そう思って沈む心に蓋をしようとして、ミュウの背をゆっくりと撫でた。すやすやと眠るその小動物の寝顔はとにかく幸せそうで、とにかく可愛くて、涙は決して出ないのだがなんだか泣きたくなる。そしてミュウを連れて自室へと戻ろうとした時、つい先ほどルークが入っていった船室の扉が乱暴に開いた。
思わずその扉のほうを向き、しかし急に視界を覆った何かがふわりと降ってきて小さな悲鳴を上げてしまった。隣に彼がまた座り込んだ気配を感じると同時、今己の上に振ってきたものが何かに気づいてティアは困惑する。
「……毛布?」
「いくら言っても聞かないんだから、しょうがないだろ」
全く、お前はつくづく理解不能な女だ。ルークは不機嫌全開でぼやきながら、ぱらぱらと本のページをめくって先ほどまで読んでいたはずの箇所を捜している。しばらくは薄手の毛布の端を握って呆然とし、しかしよく見ればルーク自身は毛布らしきものも持っていないことに気づく。
慌ててルークに声をかけた。
「ちょっと待って。私に毛布をとってきてくれてるなら、どうして自分の分を……」
「仕方ないだろう、この船室に二枚しかなかったんだから。一枚はグレンにかけてるんだから、残りは一枚だ」
「それなら私なんかよりあなたが使うべきでしょう」
「煩い。俺が取ってきたんだからどうしようが俺の勝手だ。文句は聞かない」
「……なら、船室で椅子に座れば良いわ。私はあなたが床に直接座りさえしなければもう戻るから」
「それは却下だ。近くに居なければ落ち着かないが…………グレンが寝てる部屋には入りたくない」
「どうして」
「―――起こしたくなる」
ルークの声は酷く小さくて、ティアが音律士ではなかったら聞き取れたかどうか。空気を裂き空を飛ぶ音にまぎれてしまいそうな小声で、ルークはぼそぼそと続けた。
「詳しい話は省く。グレンを生かすために俺は感情を対価にしたが、それでも完全に生き延びさせることはできなかった。俺の感情と、グレンが眠り続けることでやっと無理やり生かしてるようなものだ」
起こせば即死ということは無い。起きれば今は止まっている残り時間がゆっくりと、けれど確実に零れていくだけで。それでも、今起こせばグレンは馬鹿だから確実に残り時間を無視してまた無茶をするだろう。ただでさえ少ない残り時間を容赦なしに自分の手で削っていく。
そんなこと、ルークには許せない。だからこそ、今はまだグレンを絶対に起こせない。
「全部が終わるまで、あいつをおこしちゃダメなのに。それでもあんなしかめっ面ばっかしたまま寝てるの見たら、起こしたくなるんだよ。あいつ本気で馬鹿だから、どうせまた馬鹿な夢見てるんだ。俺には解る。どんな夢かまでは解らないけど、それでもろくでもないもんだってのは近付けば解る」
「『繋がってる』から?」
「ああ、そうだ。感覚と感覚が繋がって、時々同調する。完全には解らなくても、なんとなくの感じならわかる」
ルークは苛々と呟いた。眠るグレンを見ると起こしたくてたまらなくなる。グレンがどんな夢を見ているのかは解らない。いや違う、知っている。グレンがどんな夢を見たのかを知っているのだ、自分は。知っているはずだ、と理屈もなく心が断言していて、なのにそれを忘れてしまっている。
忘れてしまって覚えていなくて、解らないのに、起こさなければ、すぐに起こさなければと何かが囁いて起こしてしまいそうになるのだ。
早くあんな夢から解放してやらないと。ふと思い浮かぶ言葉が分からない。苛苛する。『あんな夢』? どんな夢を見ていたか俺は知っていたなら、どうして忘れてしまっているのだろう。こんな言葉がどうして思い浮かぶんだろう。
「早く、あいつを―――から解放してやらないと。……ティア・グランツ」
「何?」
「…………、」
「……ルーク?」
「…………いや、なんでもない」
一瞬。ティアに譜歌でも歌ってくれと頼もうとして、やめた。こんな時にどうして譜歌を頼もうとしたのか。ルークは自分がよく分からず眉間に皺を寄せる。全く、理解不能なヤツの傍にいたら自分自身の事まで理解不能になってしまう。
溜息をつき、ルークは本の続きを読む。
隣に座るティアが立ち去る気配はない。
「……あなたは、恐いとは思わないの?」
ポツリと零れた声に、何が、などと聞くまでもない。ルークがユリアシティでテオドーロに言われたことを言っているのだろう。一度も外れたことのないユリアのスコア。それに己の死が詠まれているという事に、僅かな揺らぎも見せていないルークはきっと異質な存在に見えるのだろう。
「別に。誰かが必死になって守らなきゃ起こりもしない未来なんて、怖れるまでもない」
本当に恐ろしいのは、変えようともがいても追いかけるように重なって、どうしても変えられない道筋を辿らされる、そう言う類のものだ。世界の修正。星の記憶。
グレンの記憶で、ヴァンは未来が定められていることを知っていると言っていた。
「未来は自分で選べると信じてる、だったかな」
「え?」
「グレンが言ってたんだ。正直、今の世界を見てたらどいつもこいつもスコアスコアスコアスコアで雁字搦め、選べるものも選ぼうともしてないんじゃ意味も無いと思ったが―――それでも、グレンはそう信じてたんだ。こんな世界を信じるなんて俺には反吐が出る……が、グレンが信じた未来なら、俺も信じよう」
恐怖に震えることではなく、進むことを選んだ。仲間と共に歩くことを選んだ。そこに立つことを選んだ。歩みを進めて戦うことを選んだ。誰かの為ではなく、己の意思で選んだ。
己の意思でその場所に立ち、そして続く未来も人々が自身の意思で選べることを信じて、願っていた。
眩しいと思う。かつては同じ存在だったとして、そうなれた可能性の一つだったとして、それでもルークは自分が彼のようになれるかなど、正直言って自信が無い。少しずつ迫り来る死に怯えて、それでも必死になって前を見て進み続けた。泣き出しそうになる臆病を隠して最後まで笑って嘘をつき続けていた。
そんな風には、きっとなれない。
すごいと思う。本当は恐かっただろうに、それでも歩みを止めなかったその心はとても強い。その強さは今のルークには少し眩しくて、その眩さに憧れる。
そんなヤツが命を懸けて守った世界を、『彼』が信じた未来を、その言葉を、自分も信じたいと思った。
「未来は自分の意思で選ぶ。スコアに死を詠まれている? 上等だ、いっそ喧嘩を売る理由ができて清々するな」
高ぶるでもなく激昂するでもなく、あくまで淡々と語るルークの言葉に、ティアは何も言わない。己の意思でスコアを覆す。ローレライ教団の人間としては止めるべき言葉だっただろうに、それでも黙ってルークの言葉を聞いていた。
毛布を握って考え込んでいるティアを横目で見ながら、なんとなく声をかけた。
「怖いか? スコアから外れるということが。イオンはスコアを可能性の一つ、数ある選択肢のうちの一つとして考えて欲しいと願っていたが」
「……そう、ね。正直に言えば怖いわ。けれどあのあり方を知ってしまった以上、スコアに依存するのはもっと怖い……。それに、死を詠まれているならと唯々諾々と従ってしまうのは、おかしいと思う……」
「なるほど。ユリアシティ出身の人間にしては、賢明な思考だ」
ルークは小さく、ほんの一瞬だけ笑う。ただ彼の声は淡々としたままで、ティアもルークの方を向いてはいなかったのでその表情を見ることはなかった。
「そうだな、そう言う考えをもてたなら、あんたにいいことを教えといてやる。ユリアは世界を愛していた。だからスコアを覆した未来を願って第七譜石を隠したんだ」
「……待って。どういうこと? その言い方……まさか、あなたは第七譜石がどこにあるか知ってるの?」
「さあ、どうだろうな」
「ルーク!」
「ユリアシティでもいくつかヒントは出してるだろう。さっきのもヒントだ。後は自分で考えろ」
ひらひらと面倒くさそうに手を振って、今度こそルークは本に集中しだした。それでも納得がいかないティアがルークに言い縋ろうとして、しかしそれ以上騒いだらミュウがおきるぞ、と言う一言でぐっと口を噤む。
そしてもはやティアのことなど忘れたかのように本を読み進めていたルークだったが、不意に肩に触れた感触にぴたりと動きを止めた。
「…………なんのつもりだ?」
「仕方ないでしょう。毛布はひとつしか無いし、あなたもここから動くつもりがないんだから」
もってきた毛布の片側を肩にかけられて、二人で一枚の毛布を使っている状態だ。大きく溜息をつき、俺は要らないと言った筈だが、と主張してみても却下される。この生真面目な響長はどうやら持ってきた当人が寒い思いをして、己ひとりがぬくぬくとしていることがどうしても許せなかったらしい。
しかたない。ルークは彼女の名前を呼んで、手を貸せと言った。怪訝な顔をする彼女の手を片手でぞんざいにとって、厚いグローブに覆われた手を見て、その時になって自分が言いたかったことがこれでは上手く伝わらないことに気づく。
眉間に皺を寄せてぺいっと手を離せば、ルークが何をしたいのかわからないのだろう、ティアは少し首を傾げていた。手がダメなら仕方ない。
そう言うわけで、ルークは手の甲をぴたりと彼女の頬に押し当てた。
ティアはカキン、と凝固した後、我に返った瞬間上半身だけをすごい勢いでルークから離す。パクパクと口を開けては閉じて、声にならないといった様子だ。
「な、ななななな、な、何するの、いったい!?」
「いや、これで分かっただろう。俺は基礎体温が高いんだ。だから少々冷えても平気だ、と言おうとしたんだが……しかしお前、基礎体温低いな。本当にそっちこそ体を冷やすなよ。しかたない、もうちょっとこっち寄れ」
「は?」
「それ以上体を冷やして体調を崩されるわけにはいかない。もうちょっと肩が当たるくらいこっちに来い」
なに、温石代わりだ気にするな。
ルークはいつものように無表情のままで、淡々と言葉を放つ。しかしその内容にティアはついて行けずにフリーズしたままだ。いつもまでたっても動こうとしないティアにルークは内心首を傾げて、仕方ないとティアの腕をぐいと引き寄せる。
そのままとん、と肩に当たる互いの肩の体温にやっぱり冷えてるじゃないかと溜息をつき、そして隣の顔を見ようとして―――ふと、彼女の顔が全体的に赤くなっていることに気づく。
「……? おい、顔が赤いぞ。やっぱり体調崩してるんじゃないのか。これから風邪などひかれては本気で洒落にならないん―――」
「本! そ、そういえばその本、何の本なの? 面白い?」
「は? いや、作者名がジェイド・バルフォアだったから買ってみただけで……研究や理論の書籍だ。面白いも何もないが……」
「ジェイド……まさか、大佐? でも大佐のファミリーネームは確か」
「ああ、バルフォア博士はその才能を買われて軍の名家、カーティス家に養子に行ったんだ。まえあいつ言ってただろ、ファミリーネームにはあまり馴染みが無いって。それよりお前、熱があ」
「たっ、大佐は本も出してたのね!」
「いやだから、」
「さすがはマルクト皇帝の懐刀、侮れないわ!」
「…………ああ、そうだな」
なにやらすごく頑張って話を逸らしたがっているらしいティアの必死さを酌んで、ルークも何も言わないことにする。まああの調子なら体調を崩しているというわけでもないのだろう。
ルークは本に意識を戻す。
ページをめくる音がぱらりと響く。
かしゅん、と扉が開き、近付く足音にノエルは軽く振り返る。
「エミヤさん。どうされたんですか、たしかルークさんに話があるって仰ってたんじゃないですか?」
「いや、なんというか。ところでノエル、グランコクマにまで少し速度を落としてくれないか」
「え? はい、わかりました。……ですが、良いんですか? 急ぎだと仰ってたんじゃ……」
「なに、今はそこまで火急必死と言うほどでもない。急いだほうがいいのはいいだろうが、それでも比較しても時間はあるほうだろう。頼めるか」
「わかりました。ですがどうされたんですか、急に」
「うむ。私も無粋な真似はしたくないのだよ」
「は……そうですか……? ああ、なるほど」
重々しく頷いた後、大真面目に紡がれたアーチャーの言葉にノエルは何かに納得したように頷いて、小さく笑う。
「わかりました。急ぎ過ぎず、遅れ過ぎず、ですね」
「君が話がわかる相手で助かるよ。さて、ではグランコクマにつくまで、悪いが私の話し相手もついでに務めてもらえるかね」
「はい。操縦しながらでよければ喜んで」
本当は、アーチャーはルークにグランコクマについてからの予定を話すつもりだったのだが、それはどうしても今すぐでなくてもいいだろう。せっかくあの二人が友好を深めているのだ、そんな時期にわざわざ行かなくともいい。
「しかし、あの二人は本当にどうにかならないものか……」
「そうですね、ルークさんって不器用そうですからね……」
「不器用だけで済むレベルかね、アレは」
「でもティアさんのこと結構気遣ってるじゃないですか。……結構遠まわしに、ですけど」
「うむ。傍から見ればそれなりに気遣っているのはわかるのだが……しかし、その気遣いを直接受ける身からしてみれば無表情だわ淡々としているわ時には怒り交じりの眼光だからな」
「ティアさん本人だと気づきづらい感じでしょうか」
「やはりわかり辛いのは確かだな……」
わからぬは当人達ばかりなり。
二人はそろって溜息をついた。