大きな巨体がずっと持ち上がり、すごい勢いで上から両足が叩きつけられる。その目測をはかり、ルークは力一杯に横っ飛びになって逃げた。ずうん、と重い地鳴りと砂埃。飛びのきざまに受身を取って、そしてまたすぐに距離を詰める。下手に離れればブレスによって消し炭になるのだ。近距離から足を避けるようにするのが一番安全だ。
フィアブロンクにとっては、先ほどからちょこまかと動いては地味に攻撃してくる羽虫が気に入らないらしい。ブレスを吐いたり、火球を吐いたり、足で踏みつけようとするのだが上手くいっていない。いらいらとしていれば遠距離から譜術攻撃。ぐるぐると唸りその譜術を放つ術者を標的にしようとすれば、今度は比較的外皮が薄い場所を狙ってルークの剣が向けられる。
唸り声を上げて、ドラゴンは羽ばたき滞空する。その状況から予測される攻撃は広範囲に対するブレスか、火球か。どちらにせよ回避行動に入ったほうが良い。
「そっちにもいくぞ、避けろよ!」
一応声をかけて、ルークは目前に迫った火球を避けた。その逃走経路を予測したかのように吐き出される火球を何とか必死になって避ける。最後の一撃が毛先をかすってこげた匂いが鼻につき、顔を顰めた。
それでも何とか避けきって、微かに気が緩んだのだろうか。ほんの一瞬の隙だったはずなのだが、間合いの目測を見誤った。はっとしたときにはもう遅い。後ろ足でたって、前足を構えている。あの巨体全体の体重をかけて交互に振り下ろされる攻撃を喰らってはひとたまりもない。
「ルーク!」
「この……くそったれ!」
振り下ろされる攻撃を、何とか剣で防ぐ。しかし衝撃までは殺しきれない。巨大な岩が一つ勢いよく突っ込んでくるような衝撃で左腕が痺れた。さらにその上防御のために剣の峰に手を当てていた右腕まで痺れている。舌打ちをする暇もない。次に振り下ろされる攻撃を避けなければ。無理やり避けようとして、道具袋が慣性の法則でルークの動きから僅かに取り残された。
「しまっ……」
―――普通なら、別に考えるまでもないことだ。道具は道具、壊れても買いなおせば良い。しかし、ルークはそうするわけにはいかなかった。彼の道具袋のなかにはミュウがいる。
咄嗟に体が動く。思い切り道具袋を後方に放り投げ、代わりにその場所にとどまることになったルークは全力で二撃目を受け止めた。なんとか止められた代わりに受けた凄まじい衝撃に、身体中の骨がみしみしと軋む。完全に両腕の骨と筋がいかれたようだ。剣を握ってもいられなくなってガシャンと取り落とす。耳鳴りと眩暈。視界が黒く染まって平衡感覚が狂っている。
膝を突きそうになるのを堪えていれば、そんな悠長な時間を敵が放っておくわけもない。フィアブロンクの尾が迫る気配を感じて、右腕で庇う。が、剣で受けてあれだけの衝撃があるものを、腕一本で殺しきれるわけがない。
踏みとどまることさえろくにできなかった状態のルークは、その衝撃をもろに受けて後方へと吹きとばされた。ルークはそのまま背後の大岩にぶち当たる。大岩にはいくつかのヒビがはいり、その衝撃を物語っている。
普通なら意識がとぶであろう衝撃に、それでもルークは耐えていた。ぎりりと奥歯が砕けそうになるほどかみ締めて、気を抜けばすぐに飛んでしまうであろう意識をなんとか繋ぎとめる。左腕は動く。しかしまだ剣は握れない。右腕は却下。動く気配もない。
痛覚が麻痺しているのか、体中が痛みすぎてもう痛みすら分からなくなっているのか。あんな勢いで吹きとばされたというのに、不思議なことに激痛に苛まされているという感覚は無い。ただ、視界が暗い。
それでもフィアブロンクの殺気を感じる。動けない獲物をわざわざ追いかけて踏み潰す手間をかけるわけもない。恐らく次に来るのは火球だろう。
ぶつけられた岩に体重をかける形で無理やり立つ状態を保っていたのだが、動かなければと一歩を踏み出す。その瞬間体中に灼熱が駆け巡り、息が止まった。痛覚は無い。一時的に痛覚は無いが、体へのダメージは凄まじいようだ。
ぐらりと体が傾きそうになるのを、それでも踏みとどまらせた。斃れることを己自身に許さない。まだ願いを叶えていない。ならば倒れることなど許されない。
「立ち塞がるなら―――」
しかしルークの決意など知ったことではないといわんばかりに、特大級の火球がルークのほうへと飛んできた。たとえ足がつぶれようが腕が飛ばされようが体が焼け爛れようが、ルークには死ぬつもりは無い。根性で生きのびてやる気は満々で、にやりと笑いながらその火球に向かって左手を伸ばす。
「砕いて進む」
第七音素の奔流が渦を巻く。ルークの体中に光の譜陣が浮かび上がり、眼帯の下で赤橙色の譜眼が煌いた。そしてルークは左手に浮かぶ光をそのまま制御しきるまでもなく放つ。ぶつん、と何かが切れるような音がした。
そして放たれた超振動は音すらも喰らい尽くして、全てを灰燼に帰する破壊の光がルークを狙った火球をあらかたかき消す。
しかし全てではない。まだ残り一つ二つが残っている。けれどそれを消しきるだけの余力がない。痛覚は無くなっているはずなのに、その分身体中の痛覚が一箇所に集まったかのような痛みを訴える譜眼に、ルークは左目を押さえて呻く。
悲鳴はあげない。地面に膝はつかない。必死にぎらぎらした眼光をフィアブロンクに向けて放ち、眼帯をむしりとり放り投げた。捨てられた眼帯は、たっぷりと吸った血の重みでべしゃりと嫌な音を立て地面に張りつく。
そして顔をあげたルークがもう一度超振動を使おうとするのだが、間に合わない。迫り来る火球がルークを蹂躙する寸前、ルークの足もとに光の陣が浮かび上がる。そして瞬時に展開された不可視の壁。半円形上に形成されるそれには覚えがある。
フォースフィールド。
二番目のユリアの譜歌だ。
魔界に落ちてなおその衝撃に耐え切ったユリアの譜歌。火球の一発や二発は軽く弾いた。フィアブロンクは苛立たしげに咆哮をあげ、次々に火球を吐き出してはぶつけてくる。それでも譜歌によって形成された結界はゆるぎない。
これならしばらくは持つだろうが、しかしずっとは無理だ。それでも時間は稼げる。どうするべきか。もはや起きているだけでも奇跡的な状況で、ルークはそれでも思考する。
「ルーク!」
ごおんごおんと結界に火球がぶつかる音を聞いていると、名前を呼ばれた。少しでも頭を動かせば視界はぐらぐら揺れるので、ルークはちらりと目を動かすだけにして、すぐに視線をドラゴンに戻す。
「丁度良い。ティア・グランツ、体は後で良いから先に左腕に治癒術をかけてくれ。折れても感覚があるならどうにかなるが、麻痺状態では超振動がまともに制御できない」
「何言ってるの、あなた自分の体がどうなってるか分かって―――」
「全体の治癒はアレを殺してからだ。俺は今剣を握れないから、超振動でどうにかするしかないだろう。早くしてくれ、フォースフィールドがいつまで持つか予想がつかない」
「でも……」
ティアは厳しい顔をする。ルークは平然としているが、閉じられた譜眼から流れる血が止まっていないのだ。今も赤の雫が一筋、彼の頬を伝ってパタリと落ちる。
恐らくはまともに制御もしないまま、取り込んだだけの第七音素をそのまま全力で放ったせいだろう。どれだけ譜眼で第七音素の収集率を上げていても、それを放つ体は普通の人間なのだ。許容オーバーの第七音素を無理やり超振動に変換して、制御もなしに放つなど無事ですむはずがない。これ以上譜眼に負荷をかける超振動の行使は止めるべきだと分かっているのに、ルークは退く気もないようだ。
ティアは戦闘ができないなら退いて態勢を整えたほうが良いと言おうとしたが、フォースフィールドの範囲外に出た瞬間狙い撃ちされるであろうことに気づいて口を噤む。結界が火球をはじくたびにびりびりとした振動が伝わり、静かな緑の瞳が彼女を追い詰める。
無言のままルークはひょいと左腕を差し出して、その腕を取ったティアは苦々しい思いで治療する。迅速に、けれど丁寧に。ルークが左腕の感覚を取り戻したのと、結界に限界が来たのがほぼ同時だった。
ばきりと嫌な音を立てて不可視の結界にヒビがはいる。その様子を見ながら、ルークはまた左腕を掲げた。ぼうと彼の身体中の譜陣が浮き出て、左目から零れる血の量が少しだけ増える。ぱた、ぱた、ぱた、と断続的に零れ落ちていくその血の量にティアの表情が歪む。
本当に微かに呻きながら、それでもルークは超振動の力をためている。
『……ろ』
手の中の光の威力を上げていくたびに突き抜ける痛みは増えて、それでもその照準を火球を吐き続けているドラゴンへと向けた。
『……やめろ』
そしてその光を放つ直前。不意に脳裏に響いた声に、ルークは思わず硬直する。
『やめろ。お前は、俺みたいに超振動で命を奪うな』
「グレン……?」
呆然と名前を呟き、ルークの動揺がそのまま表れて手の平の中の光が弱くなる。しかしついに突き破ってきた火球に慌てて照準を変えて、超振動を放った。先ほど放ったものに比べれば一気に威力は落ちているが、それでも火球をかき消すくらいはわけは無い。
全てを落としきったが、流石に限界だった。この後にまだパッセージリングの操作でもう一度超振動を使わなければならないのだ。だからこそ先刻の超振動で、フィアブロンクを倒しておかねばならなかったと言うのに。遅れてさらに疼きを訴える左目を押さえて、ふらりと後ろによろめく。
「畜生が……なんで邪魔をする、グレン」
「ルーク?」
ティアに支えられながら、ルークは呻くように呟いた。その言葉の意味が判らず問うような声が聞こえるが、それは流してじっとフィアブロンクの動きを見る。先ほどから連続で火球を消された光を警戒しているのか、ドラゴンは唸り声を上げながら近付こうとしない。
しかしいずれにせよこれ以上は持たない。ちらりと視線を巡らせる。結界内にこてんと放り投げられている道具袋がもこもこと動いていて、あの時思い切り放り投げてしまったがどうやらミュウにはダメージは無いようだ。
「ティア・グランツ。お前、ミュウを拾ってアルビオールまでいったん退け」
「……何言ってるの? ふざけないで」
「ふざけていない。忘れたのか。お前は外殻大地を降下させると決めたんだろう。なら生き残るのは義務だ、さっさと退け。俺は無理だ。色々ガタが来て動くのも一苦労だし、退く分の体力もない。しかしまだ死ねないしな、せいぜいエミヤが来るまで粘るとするさ……ほら、あいつもそろそろ動くみたいだぞ。火球が出されたら吹きとばしてやるから、さっさと行け」
ドラゴンはぐるるるると唸り声を上げながらこちらを睨みつけ、ずしんずしんとこちらにゆっくりと歩いてくる。ルークは溜息をつきながら左手を掲げ、早く行けと促すのだがティアの表情は強張ったまま、退こうとしない。
「……譜陣も譜眼もいつまで制御できるか解らない。暴走状態になった時に第七音譜術士はあまり近くに居ないほうがいい。下手したら巻き込まれるぞ」
「…………」
返答がないのでおい聞いてるのか、とルークが問えばティアからは聞いてるわよ、と返ってくる。それでは聞いているのに動かないのは己の意思なのか。つくづく甘い。人間もどきを一人見捨てることもできずに何が兵士だ。彼はそう思ったのだが、声に出すと煩いだろうと心中でぼやくだけにする。
第七音素を収束させる。
―――超振動で命を
「そうもいかねぇんだよ、グレン」
―――俺みたいに
「……ごめんな」
脳裏を過ぎる声に小さな呟きで謝り、一気に第七音素をを集めようとして、その瞬間にばさりという音が降ってきて、がしりと左腕を掴まれた。はっとして顔を上げる。いつの間にそこにいたのだろう。いつもの外套ではない、フードつきの外套。鋭い鷹のような瞳の中の刃色は呆れているような表情を映していて、眉間に寄る皺を揉み解すように指を置いている。
「ルーク……言わなかったか。グレンのときとは違うのだ、超振動は使うなと」
「エミヤさん!」
「……遅いんだよ」
「グランツ響長、ここは私が引き受けた。この馬鹿の治療を頼む」
「分かりました」
「おい、馬鹿って何だよ馬鹿って」
「馬鹿は馬鹿だ。小僧、何度超振動を使った?」
「…………仕方なかったんだよ」
「グランツ響長、この馬鹿は何度超振動を使ったのかね」
「二回です」
ぶつぶつ小声で誤魔化そうとしていたのに、あっさりと答えたティアにルークは慌てて「おい!」と声を荒げるのだが、アーチャーの「……ほう、二回?」という怒り交じりの声にうぐっと声を詰らせた。
「なるほどなるほど、それでも先ほどの三回目では全開で一撃を放つつもりだったな? しかもその後はパッセージリングの操作もあるのに、だ」
「うぐぅ……」
がしりとアーチャーは両腰に下げている双剣を引き抜き、その切っ先をフィアブロンクに向ける。鋭い眼光はルークではなくドラゴンに向けられていて、かのドラゴンは己の体躯よりも遥かに小さなその人間の形をした何かに、怯えたように一歩後ずさった。
「後でじっくりと左目について聞こう。その前に元凶退治だ。せいぜい休んでいたまえ」
振り返りもせずにそう言って、アーチャーはドラゴンへと切りかかっていった。
悲鳴を上げて、フィアブロンクがよろめいた。そのままふらりと傾いだ体は溶岩の中へ―――とは落ちずに、ずうんと音を立てて地面に横倒しになるだけだ。巨体が倒れた衝撃で軽い揺れを感じる。ふんと鼻で笑いながら、アーチャーは双剣を腰に戻す。
ありえない。ありえないありえないと思っていたが、本当に人外だ。よりにもよってこいつまで殺さずに収めるとは。流石は人外。怒れるライガクイーンを殺さずに宥めて引越しさせた猛将。双剣使いの最強の弓兵だ。
腰に剣を差した後、くるりとこちらに振り返ってかつかつと近寄ってくる。顔は、うっすらとした笑顔だ。怖い、怖すぎる。ルークは顔を引きつらせつつ下がってしまいたくなったのだが、ごくごく普通に治癒術をかけているティアに動かないで、と留められて脱走は失敗。
大岩に背を預けて上体を起こしているルークのすぐ隣にどかりと胡坐をかいて座り込み、立てた片膝の上に肘をついた。アーチャーはそれはそれは鋭い目をギロリと向けて、そのくせに顔だけは笑顔で、ルークは正直気絶したふりをしたくなった。
「さて、ではじっくりと聞かせてもらおうか小僧」
「お手柔らかに頼む……」
「そうだな。ではまず一つ。小僧、お前の左眼は今どこまで壊れている?」
「………………」
うわあ容赦ねえなコイツ。ルークは心中で呻いてぼやく。
予想通りというか、アーチャーの言葉に驚いた表情をして顔を上げたティアはどういうことですかと問い詰め口調だ。しかし首を振ったアーチャーはルークを指差し、そいつの症状はそいつに聞いてくれと丸投げしてくる。オイ待てよ、コラ。
ルーク。歌うときには凛として、常の声音は涼やかでよく通る、それが今だけは色々と湧き上がる感情を抑えているような低い声になっていた。黙り込んでいると、再び名前を呼ばれた。肩が勝手にびくりと跳ね上がる。治療の手は休めないままで青い海色の瞳にじっと見つめられて、ルークは舌打ちをした。
この目はよく解らないけれど苦手だ。嘘も隠し事も上手く繕えなくなる。流石は情報部、新手の譜術か譜眼でも作っているのか。ダアトもなかなかやるじゃないか、馬鹿げた思考を頭の片隅で転がして、仕方無しに現状を説明する。
「俺の、譜眼と譜陣はエミヤの特別製だ。とにかく第七音素を収束させることのみに特化していて、それ以外の安全面もその他もろもろ度外視して第七音素を集めるようになっている。でも、俺の体はオリジナルとは多少劣化しているとはいえ人間と同レベルだ。集められる量と使用可能容量に隔たりがある」
「そうだな、例えて言うなら水風船だ。穴を開けた水風船。水が第七音素として、風船の殻が小僧の限界容量だと思ってくれ。少々の容量オーバーなら風船が膨らんでどうにかなるが、限界値を越えればあっと言う間に破裂する。そんなイメージだ。小僧がパッセージリングを操作する時が張力ギリギリの限界値、そう考えたら分かりやすいだろう。はっきり言おう、譜眼から取り込んだ第七音素で制御なしのまま全開状態で超振動を放つなど、これ以上なく粉微塵に破裂した風船と同義だ。
さて、小僧。ここまで説明してやったのだ、早く左眼の現状に移れ」
「…………」
嫌がらせだ嫌がらせだ、絶対にこれ嫌がらせだ。
先ほどのアーチャーの言葉で嫌な予感でも抱いたのか、どういうことだと目で問う力が強くなっていらっしゃる。アーチャーはいつの間に拾っていたのか知らないが、ルークが放り投げていた眼帯を持ち上げて片手で軽く絞っていた。
ばたばたと時間が経ったせいで黒く濁った血が滴り落ちて、どれだけのダメージが譜眼に蓄積されているのかを言葉にせずとも示して見せた。ティアの目がさらにつりあがる。仕方ないだろう他にやりようが無かったんだから!
「……日常生活、戦闘状況に支障は無い。大丈夫だ」
「そうか。支障は無いか。では支障は無い程度の障害はあるのだな」
「…………………………」
「ルーク、本当なの?」
「大した事じゃない。というか、何で分かったんだよ」
「戯け、解析は私の十八番だ。その蓄積ダメージで無障害などありえん。しかしそうだな、戦闘に支障が無いといったら視力低下でもなく視野狭化でないか……遠近も違うな、となると……ふむ、色彩障害かね?」
「色彩障害……?」
「エミヤ、分かってるならわざわざ俺に言わせなくてもいいじゃないか!」
「どのレベルまで進行しているかは私は医者でも無いしわからんのでね。お前に聞かねばなるまいよ」
「よくもまあいけしゃあしゃあと……っ」
「今はどういう状況なの?」
「…………っ、あああああ、もう、別に大した事は無い! 左眼で見る世界がモノクロになっただけだ。色がないだけで視界も視力もそのままだし、まだ黒の濃淡も認識できる、マシな方だろう!」
大声で喚いて、ルークは立ち上がる。体が完全に治っているわけではないが、大分調子はいい。痛覚遮断の反動か、アーチャーが駆けつけた後になってだんだんと体中が痛みを訴えていたのだが、その痛みもほとんどない。やはりティアは治癒師としての腕は一流だ。
こっそり感心しながら道具袋を引っつかみ、パッセージリングのあるほうへ歩いていくとはっとしたような彼女の声が聞こえる。
「ちょっと待って、まだちゃんと全部診てないわよ?」
「動けるようになったらそれでいい。こんなところで治療するならアルビオールの中で診てくれ。そっちのほうが魔物もいないから安全だ」
「でも、せめてもう少し左眼は……」
「いい。どうせすぐにパッセージリングを操作するんだ、少々は―――」
「否。小僧、左眼だけは常に良好状態を保っておけ。それ以上負荷がかかっては本気で失明しかねん」
「……大げさだな」
「お前は! 分かっているのか、感情減退に色彩障害だぞ!? これ以上あれこれ重くなろうものなら起きたグレンに私が殺される! とにかくそれ以上左目に負荷をかけないように、左眼だけは完璧に常に良好状態を保っておけ、分かったか!」
「……分かった。頼む」
「え? え、ええ……」
くわっと力説するアーチャーの迫力に負けて、ルークは大人しくティアの治療を受ける。血が止まっていただけで痛んでいた左眼の疼きも順調に消えていく。その間中ずっとアーチャーは握った眼帯を見ながら血を落とさねば染み抜きだとぶつぶつ言っていたのだが、治療が終わった辺りでふらりとこちらに近付いてくる。
そして頭の上にぽんと手を置かれて三秒ほど目を閉じていた。ふむ、と感心したように頷き、手を離す。どうやら彼の解析結果からしてみてもまだマシなほうなのだろう。
「よくやってくれたグランツ響長。まあ色彩障害についてはもう戻りはせんだろうが、これならパッセージリングの操作をしても、さらに左眼の状況が悪化するわけでもないだろう。操作を終えた後もぜひ頼む」
「はい、分かりました」
「……しかし随分と来るのが遅かったじゃないか、エミヤ。お前ならもっと早く来ると思ってたんだが」
「あのな。これでも苦労したんだぞ? あの横に大きい狂信者を捕獲して縄で縛り上げてとある倉庫へ押し込めたり、それを追ってきたオラクル兵と鬼ごっこをしたり、ここにくる時にはアレだ、こう、火をつけなければ道ができないところを、ここはむしろ道を作らずに渡った方が無粋な輩も近付かんだろうと小さな足場を飛んで渡って、火口からのルートもあのフィアブロンクが生きていれば手練でもなければ通れんしな、生かしておいたのはそのためだぞ?」
「ああ、そうか。それならダアトからのルートはミュウでもいなきゃ通れないし、火口からのこのルートはあいつを倒さなきゃ進めないのか。確かにそのほうが安全だ。じゃあ、エミヤが苦労……はあんまりして無かったっぽいけど、いやなんかそれもすげーむかつくけど、とにかく眠らせたあいつが起きない内に済ませようぜ」
ひらひらと手を振って進んで行こうとするルークを、アーチャーが呼び止める。何だよ、と振り返って首を傾げる彼を見て、アーチャーは溜息交じりに呟いた。
「本当に左眼には気をつけるのだぞ。言っただろう、ダメージ負荷は蓄積され続けると。もう二度と治癒譜術を挟まない連続使用はするな。次こそ視力が一気になくなるやもしれん」
「そうか。まあ、せいぜい気をつけるさ」
軽く流すだけのルークを見て、アーチャーは再び溜息をつく。その代わりのように深刻な顔をしているティアを見やって、苦笑した。
「と、言うことだ。あの馬鹿は自分には無頓着なのだよ。グランツ響長、無茶をしようものなら殴り倒してでも止めてやってくれ。特に左眼には気をつけろ。あの調子ではいざとなったらまた連続で超振動を使いかねん」
「彼は人の体のことになるとすごく気をつかうのに……どうして自分の体に対してはああなんでしょうか」
「さてね。ただ、名は体をあらわすと言うだろう。グレンといいルークといい、本当にその名の意味のとおりだ。どれだけ違う存在になろうと魂のあり方はそっくりで、いい加減に嫌になるな」
聖なる焔の光。誰かのために命を燃やして、誰かの為に光を届けて、世界を照らして、後には何も残さず死んでいく。太く、短く、しかし鮮烈な軌跡を残す焔の灯火。
名前の意味を聞いたとき特に考えるでもなく、炎という連想から名前を与えた。
グレン。紅蓮。泥の中でも穢れなく咲く蓮の花。その紅の蓮華は古来より猛火の例えに使われる。いい名だと思ったのだ。焔の意味と、その花のあり方によく似ている気性の主だと思ったが故に。
……しかし。聖なる焔の光という名から解放されても、彼はやはり焔の名を背負って、焔のように生きていく。『ルーク』から解放される主にその名を与えたのは、アーチャーだ。
なあ、マスター。
君に与えなければ、良かったのだろうか。
―――焔という意味の名など。
同じだよ。君も、あの馬鹿も、結局根本は同じだ。
自分以外の何かの為に走って、絶対に止まらない。
「……グレンも、ルークも、傲慢で馬鹿だからな。周りがどれだけ心配しても止まりはせん。まあ、私も人に言えた義理は無いのだが。……グランツ響長、小僧を頼む」
あのローレライもどきを世界に引き留めるなら、ユリアの子孫の彼女こそが適役だろうから。