『……俺が初めて人を殺したのは、俺自身が馬鹿だったせいでだ』
グレンが? 馬鹿? なんか想像つかねーんだけど。
『ああ……本当に馬鹿だったんだぜ、俺。マジで考えなしで、自分がした行動で次に何が起きるかとか、そういうのを全っ然考えないまま感情だけで動いてさ。……でもまあ今でもちゃんと考えれてるのか、って言われたらちょっとうーんって迷う感じだけど』
川の近くで野営をした時だった。どうしてそんな話になったのかは覚えていない。川の傍に座り込んで、ポツリポツリと昔話のように自分のことを話し出したグレンの声を聞いていた。手慰みに小さな石を拾っては川に投げ込む。
ぱしゃん。水が跳ねる音は一度きり。
『ルーク。お前はお前だけど、お前は俺にすっげえ似てるからさ』
ぱしゃんぱしゃんぱしゃん。跳ねる水音が複数。どんどん遠ざかり、やがてちゃぽんと小さな音を立てて途切れる。器用なものだ。少し羨ましくなって、ルークはむうと唇を尖らせた。
グレンの投げる石は何度か川の上を跳ねて飛んでいくのだが、ルークの投げる石はそのままざぶんと川の中に落ちるだけだった。不思議だった。投げ方が違うのか石の選び方が違うのかそれとも俺は川に嫌われているのだろうか。
そんな間抜けなことを考えながら、グレンの話を聞いていた。
『俺はお前で、夢の続きを見たいんだ』
コツとかねえのかよ。半分拗ねているようなお子様炸裂で尋ねてみれば、それでも馬鹿にするでもなくつくつ小さく笑いながら投げ方を教えてくれる。
言われた通りに、手首と投げ方に気をつけて川に向かって石を投げる。
石が水の上を跳ねる音が続いて、よっしゃあと思わず立ち上がって喜んでいた。はしゃぐルークをみて、グレンもやったじゃん、と楽しそうに笑っていた。
『お前に人を殺させたくないってずっと言ってるのは、俺がそう思ってるからだよ』
辛気臭い顔をしていた親友が笑ったのを見て、ルークは少しほっとした。
グレンがどんな思いでそんなことを言っていたのか、分かってもいなかった頃。
* * *
彼が立ち去っていった方向へと行けば、程なくして立ち止まっていたルークを見つける。ティアは声をかけようとして、ふと彼が立っている足元に何があるのか気づき、肩を強張らせた。
剣を握ったまま息絶えている、血まみれのオラクル兵だ。四十名ほどいるだろうか、あちこちの地面に引きずった赤黒い跡が見えることから、わざわざ一箇所に死体を集めでもしたのだろう。
彼はその死骸の小さな山をただじっと見下ろしている。
固まってしまった彼女の視線の先で、ルークは屈みこみ一番手前にいた男の鎧を剥いで、胸鎧の内側を覗き込んで手元の帳面に何事か書き込んでいる。
「……?」
よくよく見れば、積まれた死体は皆一度胸鎧を一度剥いで適当に戻されているようだった。彼の行動で考えられるのは胸鎧の内側に刻まれた所属師団と氏名をメモに取っていることだが、彼はそうして何をするつもりなのだろうか。
ルークの名前を呼べば、彼はようやっと後ろに立っていたティアに気づいたようだ。一瞬だけ動きが止まったが、そのままごそごそと手元の帳面になにやら書き込んでいる。書き終わったのか、ペンと帳面を道具袋の中に突っ込んで、それからやっと振り返った。
緑の瞳に感情らしい感情は浮かんでいない。ザクザクと方向を変えて歩いていく。……場所を変えようということなのだろう。確かに、すぐ傍であんなに死体が積まれているような場所で話を続けるのも、少し気まずい。
ルークの後についていく。その間は無言だった。ある程度歩いたところで、ルークがくるりとティアの方を向いた。
「何をしている、こんなところで。散歩だったら感心しないな。ここは戦場だぞ」
「あなたの様子が少し気になって……ルークこそ、さっきは何を?」
「ただの自己満足でしかない」
「……ルーク」
静かに名前を呼ぶティアの様子に、ルークは舌打ちをした。こういう声をしている時、彼女は絶対に引きはしないと分かっている。
全く、本当に強情な女だ。心中でそうぼやき、ルークが冷えた緑でじろりと睨めつけてみても、ティアはこちらを真っ直ぐに射る青い瞳を逸らそうとはしない。
「…………明日この道を住民が進むなら死体を見えなくしておいたほうがいいだろう。それにこの戦争が終わった後で戦死者名簿を作るなら、名前を控えておいたほうがいいかと思っただけだ」
ルークの言葉にティアは驚く。戦死者名簿。ならば彼はわざわざダアトに自分が殺した兵の名を報告する為だけに名前を控えていたのか。危険なことをする。それとも匿名で名簿作成の手助けとして送るのだろうか。……何のために?
分かるのは、ただ彼が随分と割に合わないことをしているということだけだ。彼が自己満足だといっていた理由は分かったが、では何故ただの自己満足だと分かりきっているようなことをしているのか。問いかけるティアの視線の先で、ルークはがりがりと頭をかく。
「……生死不明のままだったら待ち続けるひとがいるかもしれないだろう。一年二年ならまだしも、それでもずっと待つひとがいるかもしれない。なら、はっきりと死亡記録を残しておいたほうが前に進みやすいはずだ」
「…………」
「わかっている。俺はこれから殺す人間全てをそうはできない。今日はたまたまオラクル兵と会ったのが野営直前だったから出来たことだ。これから戦場で遭遇することがあっても、そのまま骸はさらして朽ちていく兵の名は知らないまま殺して去るんだろうさ。――――ただの甘ったれた感傷だと切り捨てても良いんだぞ」
自分の言葉にゆっくりと瞬きをしたティアを見てすぐに顔を逸らし、ルークは口元を歪める。どこか自嘲しているような笑みで、そして何の意味も無い非効率的なことを行っているということを心底から自覚していて、そんな自分自身を馬鹿にしているような声だった。
けれど、そんな彼をティアは馬鹿にすることは出来なかった。確かに、非効率なことだと、感傷に過ぎないことだとは思う。けれどその行動を無意味だと馬鹿にはできないと思ったし、そうしたくもなかった。ティアは目を伏せて、ただ正直に思ったことを小さく呟いた。
「……あなたは、剣の腕はともかく戦うにはきっと不向きな人間なんでしょうね。少し繊細すぎるんじゃないかしら」
「繊細? 馬鹿言え、そんなことあるものか。俺ほど兵に向いている人間はいないぞ」
なんせ人間をどれだけ殺しても何も感じもしないんだからな。
くつりと溢れる自嘲の笑みをかみ殺すように呟かれた言葉は、けれどどうしてかティアには泣き出しそうな声に聞こえた。あんなに怖がってたくせになと小さく言いながら、彼は己の左手のグローブに付いた血のりを擦っている。
「そこそこ狂いかけの自覚はあったが、まさかここまでイカレているとは思ってなかったが。どうやら俺は顔も知らない人間を殺して何も思わないくせに、グレンの願いを切り捨てたことに対してのほうが比重が重いらしい。申し訳ないと思う気持ちも、ああ、たぶんアレは悲しいという気持ちも、全部グレンにしか向かない。いくら人間を殺しても頭に浮かぶのは敵の残りはあと何人、だとかいう情報だけだ」
タルタロスの中で、人を殺すことにひどく怯えていたルークをティアは覚えている。そんな彼に向かってお前にひとを殺させたくないよと言っていた人が居たことも覚えている。
きれいなだけで、優しいだけで、非現実的な甘ったれた願いでしかないはずだった。それでもとても心のこもった願いだと思っていた。
そんな彼がついに人を殺してしまったのだと今更になって思い知って、ティアは何だか無性に物悲しくなる。人を殺しても何も感じない、と呟く彼を見ていられなくて落とした視線の先で、彼の手が小さく震えていることに気づいた。
どうしようか迷ったのは僅かで、ティアはゆっくり歩いてルークとの距離を詰める。
震える彼の手をとって、両手で包むようにして握ればルークは驚いた様な顔をしてティアを見返した。珍しいことに振り払おうとはしていない。
驚いた時の表情はあの頃と変わらない。そんなことをぼんやりと考えながら彼の目を真っ直ぐに見返して、小さなこどもを宥めるようにゆっくりと尋ねる。
「震えてるわね」
「……肌寒いからな」
「悲しいのかしら」
「そんな感情はまだ思い出してない」
「それとも怖い?」
「だから、俺はそんな感情―――」
言いかけて、ルークは口を噤んだ。どうしてだか自分でも解らないまま止まらない手の震えを宥めるように握られた、その両手がひどく冷たい。障気障害のせいだ。ひどく体温が下がっている。いつか、アルビオールの船室の前で触れたときよりも随分と体温が低くなっている。
それが苛立たしかった。喚いてしまいたい。いい加減にしろと暴れてしまいたくなる。ざらりとしたものが心の底を撫ぜて気分が悪い。そして、こんな風にはっきりと残り時間が少なくなっていることを感じてしまうことが、ひどく。
「…俺、は……」
これと似た感情を、オラクル兵を殺したあの時にも感じていた。
「怖くて、悲しかった……のか?」
真っ直ぐに目を見て、どこか泣き出しそうに笑って、人を殺させたくないよと言ってくれた親友の願いを壊してしまったことが悲しかった。どれだけの思いで、それを願ってくれていたのかを知ってしまったから。本当に、血を吐くような思いでルークの代わりにその手を赤に染めて、人を殺した夜は悪夢に魘されて、それでもずっと願い続けてくれていたことをこの手で砕いたことが苦しかった。
そしてあんなに怖かったはずなのに、人を殺して何人も殺して、それでも何も感じなくなっていた自分が怖かった。
ルーク自身では気づけぬままの、奥底深くの揺れが感情の杯を満たす。自覚の回線が途切れている彼自身は気づけない。それでも確かに揺れた感情が一筋、ルークの頬を伝って落ちて、ティアの手の上で弾ける。
乾けばすぐに分からなくなるような、その一滴の彼の揺れをティアは確かに見た。手袋越しに確かに感じた。呆然とするルーク自身はきっと気づいていないのだろう、だからこんなに不安そうな目をしているのだ。
ティアは小さく笑い、ルークの目を見てゆっくりと話す。
「大丈夫」
「……何が」
「人を殺すことに何も感じられなくなった自分に、悲しさや恐怖を感じられるなら大丈夫よ。あなたは自分で好き勝手に人を殺してしまうような、本当に狂ってしまった人にはならないわ」
何を根拠にそんなことを。出鱈目言うな。
頭の中に浮かんだ言葉はそのまま声となることはなかった。そうだったら良いと思ってしまったのだ。
立ち塞がるなら何であろうと砕いても進むと決めている。それでも無関係の人間を巻き添えにして、平然としていられるほど狂いきってしまいたくなどなかった。こんなことを思ってしまうなど、覚悟の足りない甘い考えなのだろうか。
人を殺しても何も感じられない自分が怖い。手段の一つとして当たり前のように相手を殺すことを考えに含んで、そのとおりに行動に移しそうで、いつかそうなってしまうのではないかと思えば自分自身が怖かった。
「なあ、ティア・グランツ。もしも俺が本当に馬鹿なことをしそうになったら、その時はお前が止めてくれるか」
特に何も考えないまま、ルークは気づけばそう呟いていた。己の言葉に彼は少し驚いたが、改めて考えてみるとそれはとてもいい考えのように思える。うんと頷きながら、珍しくキョトンとしている彼女に向かって改めて声に出す。
「そうだな、あのロッドでガツンと一発また頭をぶん殴って止めてくれれば良い。ああ、お前のおっかなさなら確実に俺も止まれる。たぶん」
「……………………ルーク、時々思うのだけれど、あなた私に喧嘩を売ってるの?」
「なんでそうなる」
「だいたいあの時、あれはあなたが……その、よ、横……っ、ああもう!」
今まで掴んでいた手をぺいっと離して、ティアはそっぽを向く。髪の分け目の向き的に顔はルークのいる方向からはあまり見れないが、どうもその頬に色がついているようで彼は首を傾げた。おい、こっち向け。そう言ってみたのだがティアはそっぽを向いたままだ。
仕方ない、とルークは彼女の腕を掴んでぐいっと無理やりこちらを向かせる。突然の狼藉に彼女は抗議の声を上げかけたが、ルークが彼女の顔を覗き込むために屈みこむと怯んだように口を閉じた。
「……どうした? 少し顔色が赤いぞ」
「ほ、放っておいてちょうだ……ちょっと、ルーク!」
無遠慮に額に手を当てられてティアは慌てた声を上げるが、ルークはマイペースなままうーんと考え込み、そして。
「熱は無いか。いや、しかしお前の体温は今低くなってるから、これじゃ分からないな。夜の森は冷えるし、頼むから風邪なんて引いてくれるなよ。オラクル兵が伏せてるならお前のフォースフィールドはなかなか重要なんだ、声が出ません譜歌も歌えませんじゃあ実は結構心許ない」
「……………………」
「だから、何故俺を睨む」
ティアは心底解らないといった風に尋ねてくるルークから目を逸らし、未だに額に手を当てたままの無遠慮さには心中で散々非難を浴びせてみる。しかし実際の彼女の口はひどくぎこちなく動き、お決まりのセリフを吐くしかできない。
「……知らないわよ、ばか」
遠くで小さく風が吹き、森の木々がざわめいた。