――― introduction in
「どうすればよかったというんですか」
その問いに対する答えを持っていない。恐らくは、誰もが持っていないのだ。ただ、それでもこれが己なりの答えだと、そう言えるものを求めて人は毎日を足掻いている。ジェイドは眼鏡を軽く直しながら、ただ誰に話すでもなく呆然と自分自身に問いかけている風な村人の話を聞いていた。
「スコアを守ったからかかあと会えた。スコアを守ったからこそあの家族が出来た。マルコが生まれたのだってスコアのおかげだ。スコアを守らなかったら、あいつとは―――会えなかった。マルコだって、今度家に連れてくるといっていた人に会えたのは軍に入ったからこそで……守らなかったら、そんなもしもなんて、仮定……」
苦悩する村人は頭をかかえて、ついに膝から力が抜けたように崩れ落ちた。彼の頬を伝う雫がぱたぱたと地面に濃い色のしみを作ってゆく。
「けれど、それでも! もしも、何かの拍子にスコアを知れたなら! こんな未来の為に読まれたスコアだと知ることが出来たなら! 俺も、かかあも、マルコも」
ごつんと額を地面に擦り当てて、村人は地面に爪を立てている。下手をすれば爪がはがれるのではないか、というくらい力が入っていて見ているだけでも痛々しい。しかし、それでも注意しても彼は聞き入れはしないのだろう。爪の間に入る土も気にせず地面をかいている。
「けれど、もしもさっきの男が俺に何も言わなければ、俺はきっと、鬱屈とするだろうけれど何の疑問を持つこともなくスコアを信じて……いつものように、頼っていたんでしょう。ああ、そんな、自分が……情けない…………っ!」
がり、と地面に赤黒い跡が出来る。止めるべきだったのかもしれない。けれど今は何を言っても無駄だろう。あと五分しても今の調子であれば力ずくでも止めよう。そう決めて、ジェイドは静かに嘆く村人の背を見守っていた。
ぼろぼろと大粒の涙を流して、噛み砕かんばかりの力を込めて歯を食いしばり、村人はかすれる声でスコアに殺された己の息子の名前を呼ぶ。
「……マルコ……っ」
――― introduction out
二日目は大禍なく過ぎていった。ただ、やはり戦闘を知らない一般人の森林の中の行軍は酷く鈍足で、予定していた四日の行軍よりも一日二日ほど過ぎてしまいそうだった。そして今日は三日目の朝。その日の空は雲ひとつもない晴天で、高い場所――そうだ、あのシェリダンのロケット塔に登りでもすれば、きっとずっと遠くの空まで見ることができるのだろう。
「…………」
右目を掌で覆い、赤橙色の左眼だけで空を見る。モノクロの世界。濃淡の在る灰色と白と黒。
名前を呼ぶ声がした。ぞんざいに声を返し、ルークは眼帯を結びなおす。これでよし、と立ち上がって振り返った瞬間にするりと足もとに眼帯が落ちる。
……喧嘩売ってんのかテメー。
眼帯相手に声に出して毒づくほどお天気な頭のつくりはしていないが、心中ぼやいてしまうのはもうしょうがない。しかし、いい加減に眼帯ぐらい自分で結べるようになっていないと不便なことこの上ない。寝ているときに引っ掛けて外れたから結びなおしてくれ、なんてエミヤに頼むのは嫌だしジェイド相手には論外だし、ここにはミュウもいない。
かといって、ティアに頼むのも気が引ける。小言の嵐が待っているだろうことは簡単に想像がつく。どうしたものか、これはいっそエンゲーブの住民の誰かに頼むべきかとも思うが、どうも初日の夜のマルコの父親とのやり取りをいくらか聞かれていたようで、住民を護衛している四人の内のルークに対する風当たりだけが妙に違っていた。
スコアをただ遵守することを否定して、さらには息子を殺されたばかりの住民の傷口に、さらに刃をつきたてるような物言いだったのだ。小さな村ならば住民同士の繋がりは強いだろうし、ルークの言葉は外郭大地の人間には爆弾発言だったろうとの自覚はあったので、特に何を思うでもない。
ただ、そんなに声を張り上げたつもりはなかったのだが、どうやら夜の森は想像以上に静かで、よくよく声が通るものなのだなと思っただけだった。
足もとに落ちている眼帯を拾い、再チャレンジしようと試みるがどうも上手くいかない。だんだんと眉間によるしわは深くなり、さすがの感情なしのルークも苛苛としてきた時だった。こうなったら硬結びしてやろうかと本気で考え始めていたとき、名前を呼ぶ声が近づいていることに気づく。
「ルーク、もう出発するって大佐もエミヤさんも……あなた何やってるの?」
「…………眼帯を結びなおしているんだ」
くそうエミヤめ、どうせならボタンバンドの眼帯にしてくれればよかったのに。いつか言ってみた苦情に返ってきたのは、まさか君がそこまで不器用だとは思ってなかったのだよ、と言う一言だけだった。
畜生め。不器用で悪かったな。
「私が―――」
「いい。これくらい自分でも出来る」
「…………」
「こらそこ。疑わしそうな目で見るな」
「別にそんなつもりで見てるわけじゃ……」
「目が口よりも雄弁だぞ」
じろっと睨みながらも手を止めずにごそごそと頭の後ろで結ぼうとするのだが、やはり上手くいかない。もともとルークは紐を結ぶという動作が苦手なのだ。どうにもいつも縦結びになって上手く行かない。靴紐くらいならどうとでも誤魔化せるが、なんせ眼帯だ。
人の目線の位置にあるもので、それがしっかり縦結びになっているのはどうにも避けておきたい。エミヤやジェイドに何をいわれるかたまったものでもない。
なんとかほどけないように結べたと思ったら縦結び。ほどく。結びなおす。こんどこそ。また縦結び。ほどく。こんどこそ。横に結べた、と思ったら、少し緩い。このままではオラクル兵との戦闘のときにほどけてしまうかもしれない。ぎゅっと引っ張って固く結ぶ。そうしたらなぜか縦結びになった。何の仕打ちだ畜生ローレライめ!(やつあたり)
再びほどく、こんどこそ、以下エンドレス。
くすり、と小さく零れた音にルークはピクンと反応した。
いっそ才能にも見えるほどの結びの下手さ加減に、ついにティアが笑い出したのだ。この野郎笑いやがったなと恨めしげに見てくるルークにティアは謝り、そしていい加減に時間もないからと代わりに眼帯を結ぶ役を買って出る。
たしかにこのままでは延々と同じことの繰り返しになりそうだ。彼としてはとても不服だったが、これでは仕方がない。大人しく眼帯を彼女の手に渡し、ちょうど近くにあった倒木を椅子代わりにして座る。
ティアは手早くルークの眼帯を結びながら、ふと一瞬だけ視線を揺らし口を開きかけ、しかしすぐに思いとどまったように口を閉じた。何かを問いたげなその様子を気配だけで察して、ルークが振り返る。
「なんだ」
「……何が?」
「お前、さっき俺に何か言いかけてなかったか」
「………………いいえ、気のせいじゃないかしら」
ティアは流すように答えて、不審気に眉間に皺を寄せたルークに前を向かせた。そのまま眼帯を結びきって、ルークが何事かを言う前に先に戻っていると逃げるように立ち去る。その背を見送るルークは常の小言がなかったことに違和感を感じながらも、まあたまにはそう言う日もあるかと思うことにして、歩き出した。
ルークは知らない。昨日彼とアーチャーの目を盗んで、ティアとジェイドの間でやり取りされた会話の内容を。
『完全同位体同士の大爆発理論……ルークが、それを調べていたんですか? まさか……』
『コンタミネーション現象の一種です。確かに私が理論を組み立てましたが、本来なら完全同位体を作れないフォミクリーの性質上、理論だけで机上の空論この上ないもののうちの一つ』
『つまり―――いえ、確証の無い話はやめましょう。……この住民移動が終われば、私はまずアッシュをベルケンドヘ連れて行き彼の血中音素について調べます。一番確実なのはルークの血中音素を測ることですが……それでは彼に勘付かれてしまう』
『……もしも何かの拍子にルークが血中音素を測るような機会があれば、』
『彼はレプリカだ。体を構成する第七音素以外の音素が混ざっていたのなら、それは―――』
ジェイド・カーティスのあの言いようで、ティアは確信していた。嫌な予感はしていたが、やはり“大爆発”というものはろくでもない現象なのだろう。そしてレプリカとオリジナル、どちらか、もしくは双方に何かしら害がある現象なのだ。
『どのような現象かを説明するにしても、まず始まっているのか始まっていないのかを確認してからにさせてもらえませんか。いえ、ただ後回しにして逃げているだけだとしても……あまり口にも出したくない』
ティアのロッドを握る手に力がこもる。
『一度始まってしまえば、収束するまで終わらない』
嫌な予感ばかりが降り積もっていく。
* * *
橋を渡る前に、問題が発生した。橋と街道が繋がっていて、その街道を挟むようにして森が広がっていたのだ。そして橋を渡った後の道にも脇に森が広がっている。伏兵がいたら厄介だ、というか、確実に橋を渡った向こう側の森にはオラクル兵の伏兵が居るだろう。それを確信していたルークとアーチャーは大いに困ってしまった。
まず先行させるにしてもどちらの森を先行させるのかという問題にぶち当たる。出来るなら進行方向の橋の向こうの森を調べておきたいのだが、こちら側の街道迎いの森も危険だ。
街道の迎い側の森には伏兵がいるかどうかはわからない。居ないのかも知れないが、いるかもしれない。可能性だけは否定できない。もしも住民が橋を渡ろうとしている時に側面を強襲されるのでは目も当てられない惨状になるだろう。
できれば迎側の森も、橋の向こうの森も、両方調べておきたかった。あれこれ話した結果、恐らくほぼ確実にオラクル兵が伏せているだろう森への先行はアーチャーとジェイドが、伏兵が伏せている可能性が無きにしも非ず、の迎側の森をルークが先行することになった。
ティアはアーチャーがジェイドと共に先行することになったため、空中からの状況がわからなくなった分、住民の防御は絶対に必要だと強固に主張したルークの言葉に反論し切れなかった形だ。
そしてルークが森に入って徒歩十分。早歩きで進んでいることから、おおよそ一キロいくかいかないかの距離だろうか。こちらは進行方向ではなく、あくまで進行中の側面奇襲を憂慮しての配置なのだ。ここであともう二十分ほど待ち、何もなければそのまま引き返して伏せられたオラクル兵と戦っているだろうジェイドとアーチャーの援護に向かう。
目を閉じて腕を組み、じっと時間が過ぎるのを待つ。
「…………?」
じりじりするような思いでしばらく待っていると、ふとルークの耳に遠くで一斉に鳥が飛び立った音がした。ばさばさと羽音がして、鳥はルークの頭上を越えて一直線に背後へ。鳥の飛んできた方向と、その量に彼は顔を顰める。
―――鳥、立つ者は伏なり。獣、おどろく者は伏なり、といってな。覚えておくと良い、獣が飛び出すことは奇襲行動を行うものの存在を示唆し、鳥が一斉に飛び立つのは伏兵の存在を示していることがある。全ていつもそのとおりに行くとは思えんが、知っておいて損は無いだろう。
「……さすがだなエミヤ。さっそくお言葉通りだぜ」
ぼやいて、ルークは近くの木の上に登る。視界は高くなったが、森の木々に邪魔されて様子は見えない。
さて、でてくるのはどこの所属だろう。マルクト兵ならエンゲーブの住民避難を訴えれば戦闘にはなら無いだろうが、問題はキムラスカとオラクル兵だ。出来るだけ少人数の部隊編成であることを願いながら、じっと気配を殺して前方に意識を向ける。
でてきたのは、白と銀。
「オラクル兵かよ……」
呻いて、覚悟を決める。腰の剣を抜き放ち、タイミングを計る。相手は一個小隊分の人数がいて、個人個人でならば負けない自信もあるが、今のルークでは一人であれだけの多人数を捌くには些か荷が重い。
問答無用の奇襲しかない。会話で引き伸ばすにしても、モースが送り込んだスコア狂信者ならばどうにもならないだろう。数人が過ぎた後で、わざと敵の中央に踊りこむ。頭上から突然振り下ろされた刃に、オラクル兵は悲鳴を上げることもなく倒れた。
舞う赤。それはルークの髪の色か、それとも吹き出した血の色なのか。
突然のことに動きを止めたオラクル兵に肉薄し、ルークは躊躇いもなく刃をめぐらせた。数人が一息の間に命をうしない、そしてようやっと理性が戻ったオラクル兵の声が鋭く響く。
「奇襲だ!!」
「構え!」
「気をつけろ! 手練―――ぐああああ!」
混乱から立ち直ったとしても、まだ完全に兵団としての多勢に無勢を生かしきる前に指揮系統をめちゃくちゃにする。とりあえず大きな声を上げている統率者らしきものから順次斬っていけば、やはり混乱から抜けるのは難儀なようだ。
あと、三十人近く。
「悪いな、」
ここで死ぬわけにはいかない。ギリりと奥歯をかみ締めながら、さらに一振り。
新しい赤が吹き上がる。
「――――切り捨てるぜ」
ルークはまるで誰かに謝る様な言葉を吐き、そして刃を無慈悲に奮う。
剣戟の音が途切れた。あちらこちらに傷を負い、赤く染めたルークは息を切らして自分の喉下に突き出された剣を見下ろしていた。
「やってくれる……やってくれたな、貴様! 小隊が壊滅だと!? われらはこれからマルクトの背後に回ろうと言うところで」
「はっ、お互い様、だ……ふん、オラクル兵にしておくにはもったいない腕だ」
一人だけ、オラクル兵の中に手練が混じっていた。それでも、良い勝負になったとしてもルークが一対一なら負けなかった相手だが、さすがに四十人近くを一人で相手取っているとちゅうでそのような人間と相対するには分が悪い。
剣を取り落としてはいないが構えられない。喉下には相手の切っ先がある。
「まさか一人でオラクル兵に立ち向かうとはな……マルクトの人間か?」
「そんなことを聞いてどうする」
「いや……ただ、どうしてこのような無茶をするのか気になってな」
「…………」
つい先ほどはまで殺しあっていたというのに、この会話だ。やり辛いことこの上ない。オラクル兵にもこのような人間がいるということが、だ。ルークはすぐに後方へ跳び下がれるように準備はしているが、相手もそれなりの腕で隙が無い。妙な動きをしようものならすぐに喉に当てている剣が動くだろう。
気を張り詰めていると、その手練のオラクル兵の後ろからぎゃんぎゃんと喚くような声が聞こえた。
「何をごちゃごちゃはなしている?! 貴様、さっさとそやつを殺さんか!」
「……隊長、この者の剣技は惜しい。どうか―――」
「戯けが! 我らはスコアの成就の為だけに存在しておるのだぞ! 我が小隊はマルクトの背後をついてスコア成就に貢献するつもりであった……その邪魔をした男を生かしておけるか!」
「しかし隊長!」
「くどい、殺せ!」
二人の言い合いにルークはおや、と思った。一番後ろでがたがた震えてこちらに剣を向けようともしなかった男が隊長だったらしい。特に放っておいても害は無いかと放置していたのだが、まずかったか。
しかし、いかにも無能そうな男だ。これならルークが真っ先に斬った声を張り上げていたオラクル兵のほうが隊長らしかったが……彼は補佐官だったのだろうか。
「どけえ! 貴様が殺さぬなら、私が殺す!」
剣戟の嵐の中には入ってこれなかったくせに、抵抗も満足にできない相手になら思う存分刃を下ろせるらしい。腐ってやがる。こちらに近付いてきたら唾を吐きかけてやるつもりが満載で、ルークは酷くさめた気持ちでその近づく足音を聞いていた。
「お待ちください、隊長。こやつは手練です。私が刃を引いた瞬間に体勢を整えるでしょうし、隊長が近付きすぎれば私が殺すよりも先に隊長を殺しているかもしれません」
その言葉に、無能な隊長がぎくりと体を強張らせて動きを止めた。その様子を見て、手練のオラクル兵は溜息を一つ。そしてルークに対しては全く持って油断なく相対している。本当に、オラクル兵にしておくにはもったいない人間だった。
「……お前は何故、我等に奇襲をしかけてきたのだ?」
「……住民を避難させていて、このままだと兵の動きと住民の移動が重なっていた。殺させるわけにはいかないからな」
「馬鹿な、我らはスコアを守り民を守り世界を繁栄に導く者だ。力ない民を殺すなど……!」
「マルクトの国民でもか?」
「マルクトだろうがキムラスカだろうがダアトだろうが、民は民だ! 兵は民を守るために武器を持つのであって、殺しあうのは兵と兵だ! 一般人を手にかけるものか!」
「――――ならば、それがキムラスカ兵に蹂躙されるとスコアに詠まれた村の民であっても、か?」
「な、に……?」
ルークの言葉に衝撃を受けたようにオラクル兵の精神に虚無が生まれ、ルークはその隙を逃さずさっと後ろに飛びのこうとして、出来なかった。すぐに精神を立て直す器量もある。本当に厄介な相手だ、ルークは心中でごちる。後ろでオラクル兵の隊長らしき男がぎゃあぎゃあ喚いているが、手練の兵は追撃をして来ようとはしていない。
じっと、こちらを見ている。面覆いのせいで顔は見えないが、ルークの言葉の真偽を確かめるようにこちらを眺めているのだろうと思う。
「とある秘預言の一文に、キムラスカ・ランバルディアの陣営はルグニカ平野を北上するだろう。軍は近隣の村を蹂躙し、とある。そこの隊長は知ってたんだろう? モースにじきじきに教えてもらったか?」
ルークの言葉にオラクル兵は驚愕し、しかし後ろを振り返りルークから視線を逸らすような愚は冒さない。ただ、何故お前が知っている、という隊長の言葉で確信を抱いたのだろう。刃を握る手に小刻みな震えが走るが、それでも刃は下ろされなかった。
「そのスコアを知って、お前は、その民を逃がしたのか」
「そのまま放っておけばろくでもないことになると知っていて、放置できるかよ。気分悪りぃ」
「……逃がした村人はどこの住人だ」
「……エンゲーブ」
「…………!」
ルークの言葉に、なぜかオラクル兵の動揺が一段と酷くなる。ルークが眉をひそめていると、いい加減に焦れてきたのか隊長が大声で喚きだした。
「殺せ! そいつをころせ! なぜ貴様のような得体の知れないものが、秘預言を知っている!? 我等とてこの戦争に出るときに特別にモース様にお教えいただいたものだというのに……秘預言を一介の教団員が知ることでも重罪ものを、一般人が知ろうとは!」
「隊長……」
「そいつを殺せ!」
「……できません」
「何を言っている! さっさと殺せ!」
「できません!」
激しい拒絶に、隊長は顔を怒りに赤黒く染めて、そしてルークは不審な思いで目の前のオラクル兵を見ている。オラクル兵は首を振り、呻くように小声で悲鳴を上げていた。
「エンゲーブ……エンゲーブには、隊長、エンゲーブには私の親友と、恋人がいるのです!」
「殺せ……ソイツは! ユリアのスコアを狂わせようとしている男だぞ!」
「ですが! できません、この者がエンゲーブの住民を避難させていると言うのなら、私にはこの者を殺せません……!」
「貴様、それでもユリアのスコアを遵守する教団を守るオラクル兵の言葉か!」
「しかし、隊長!」
「殺せ!」
「無理です、できませ……」
「そうか。ならばお前が死ね」
ひやりとした冷えた声に、オラクル兵がはっとして振り返ろうとした瞬間に、ルークが叫ぶ。
「―――――――――やめろ!」
ルークがオラクル兵を突き飛ばすよりも先に、喚きながらこちらに近付いていたオラクル兵の隊長は剣を振り下ろした。至近距離だった。狙いは過たずルークに剣を突きつけていたオラクル兵の背中から胸を裂くように。
先ほどルークが作り上げていた赤い噴水が吹き上がる。ばたばたとルークの頬にその赤が張り付き、オラクル兵の体がルークのほうへと倒れこんでくる。こんな状況だというのにルークは一瞬だけ我を忘れた。
どくり、心臓が波打つ。
フラッシュバック。
赤い血しぶき。
頬にかかる熱。
こちらに倒れこむ誰か。
「ふん、敵を殺せぬとは軍律違反も甚だしい。ましてやユリアのスコアを狂わせるような男を見逃すなど……当然の罰だ」
呆然とするルークを見て好機だと思ったのか、オラクル兵の隊長はにやりと笑い剣を振り上げて、そして躊躇いもなく力任せに振り下ろした。
「貴様もだ。世界の繁栄のために、スコアを狂わす要因は一つ残らずここで死ねぇ!」
この後に途切れる命を確信し、オラクル兵の隊長は剣を振り下ろす。その刃がルークの脳天を勝ち割る直前、で止まった。何!? と驚きの声を上げる。其れはそうだろう。ルークは己の右手のみで剣を受け止めていた。
否、違う。ルークが右手を上げて剣を止めるような動作をして、それを隊長が馬鹿なことをと笑いながらそのまま右手ごと斬り捨てようとしていた瞬間だった。彼の右手に触れた剣が、途中からぼきりと折れたのだ。
「何だ……っ!?」
ルークの右手の平に光が灯っている。その光に触れた瞬間に、剣はまるで物質の結合がほどかれたようにへし折れたのだ。彼がゆらりと立ち上がる。左手には辛うじて剣が握られている。だらんと下げられていた左腕に力がこもり、ぎゅっと握りしめた瞬間、ルークが顔を上げた。
その表情を見た瞬間、オラクル兵の隊長はひいっと恐怖に顔を引きつらせる。憤怒、憎悪、殺意。止むことの無い黒い感情が吹き荒れていて、一歩、ルークが足を踏み出すと腰をぬかして地面にしりもちをつく。
「な、な、な……何だ、貴様はぁっ!?」
「輪廻転生すら許さない」
一歩一歩ゆっくりと歩みを進め、そして逃げようとするオラクル兵の隊長に近付いたルークは問答無用でその顔面を掴みあげた。
「貴様は魂すらも分解されて塵になれ」
ルークの手の平に灯る光が強くなる。
そしてやめろやめろやめろと喚く男の顔を冷酷に見下ろして、
「―――屑が」
掴んでいた手のひらに力を込めた。
エンゲーブの住人たちが橋を渡りきって、ティアと村人が先行していたアーチャーとジェイドに合流する直前のことだ。
いつまで経ってもこちらと合流してこないルークをティアが内心で結構心配していれば、住民達の間でざわめきが過ぎる。ざわめきは後方から。恐らくは、やっとルークが合流できたのだろう。そう思ってほっとして、ルークならすぐに前方のアーチャーたちに合流しようとここを通るだろうと待っていた。しかしいくら待っても通らない。
どうしたのかと不審に思っていると、慌てたような声で住民の一人が血相を変えてティアを呼びに来る。あの人たちを止めてください、と。
嫌な予感がして走って後方へ向かえば、血まみれになったルークが村人の一人に掴みかかられているところだった。
「てめえ! マルス……マルスに何をしやがった!」
「俺はなにもしていない。こいつのこれは、こいつの隊長に斬られた傷だ」
「馬鹿をいうな、仲間同士が殺し合うもんか! こいつはなぁ、俺の妹の……ニーナの恋人なんだよ! オラクルんなかでも剣の腕も確かで、そんなにほいほい誰かに斬られるようなやつじゃねえんだ! お前のその身体中の切傷、それは全部こいつに付けられたんじゃねえのか! お前だろう、お前がマルスをこんなにしたんだろうが!! ええ!?」
「だから、俺は何もしていない」
「待ちなさい! 何があったの!?」
ティアが声をかけるとすぐに村人はルークの首元から手を離し、ティアに縋りつくような声を上げた。
「治癒師(ヒーラー)の嬢ちゃん、頼む、このオラクル兵を助けてくれ! 俺の親友なんだよ! 頼む、来月には妹と……ニーナと結婚するんだ! 頼む、助けてくれ!」
村人の一人の必死の懇願に、ティアは彼らの足もとで寝かされているオラクル兵を見た。かなり傷が深いが、もともと鍛えていたせいか、まだかすかに息がある。住民の内の何人かが必死に包帯を使い止血しているが、傷が深すぎて間に合っていない。
ティアはすぐにオラクル兵の近くにひざまずき、治癒術をかける。緑の光が傷を治していくが、かなりの深手だった。はたしてもつかどうか、これは本人の生命力しだいと言ったところだ。
何があったのだとルークに目で問えば、ルークはゆっくりと瞬きをして酷く冷静に呟く。
「森にオラクルの伏兵がいた。戦いになって、色々あって、そいつがオラクルの隊長に斬られた。まだ生きてて、エンゲーブに親友がいるから話したいっていわれて、連れてきたんだ。重くて引きずってきちまった途中で気を失ったけど」
「こんな怪我人を引きずってくるんじゃねえよ! もっと、ちゃんと、」
「俺の怪我は全部こいつにやられたんだぞ」
「だからって、ひきずるこたぁねえだろうが! 最低だぞ、アンタ!」
「違う、最後まで聞け。俺の体もかなり満身創痍なんだよ。そんな状態で自分よりも身長が高い鎧つきの人間を担げるもんか。それでも連れてくるなら引きずるしかないだろう」
「……それは……」
「連れてきただけありがたいと思え」
「……ってめえ、やっぱりてめえが……!」
「だから違うと……もういい。そう思いたいならそう思っておけ。別にいい」
ルークは軽く手を振りそれだけを言うと、ざくざくとそのまま前方へと向かおうとする。
「ちょと待ちなさい、ルーク! あなたの怪我も治してから……」
「いい。グミでも齧りながら進んでいく。そいつの治療を気合入れてやっとけ」
そうじゃないと色々煩そうだ。辛うじて音律士であるティアに聞き取れるくらいの声量で、ルークがぼやいた。その言葉を聞きティアは眉をひそめるも、今ここで問い詰めてはルークも村人達の感情を逆なでするようなことしか言わないだろう。むしろわざとそのような言葉を選んでいるようにも見えて、ティアは困惑する。
あらかたの治癒を終えて、後は普通の応急処置でも大丈夫という段階になって、村人は拝み倒さんばかりの勢いでティアに感謝をしてくるが、しかし予断は許さずもうこれが治癒師に出来るギリギリで、これからは本人の生命力しだいだというと村人はぎりぎりと拳を握り締めた。
そして深手のオラクル兵の手を握り、語りかけ始める。なあ、ニーナが待ってるんだぜ。今年には結婚するってお前言ってただろ。おい、いくらお前でも俺の妹泣かしたら承知しねえからな。なあおい、死ぬんじゃねえぞ、おおばかやろう。
震える声で語りかける村人の言葉を聞きながら、怪我をろくに治療もせずにふらふらと歩いていっていたルークの背を追う。さほど走るでもなく、ルークを見つけた。しかし、近くの木に背を預けるようにして地べたに座り込んでいて、ティアは一気に頭に血が上る。
「ルーク!」
「…………ィア、…グ…ンツ?」
「ばか! 怪我してふらふらの状態で人をずっと引きずってまで連れてきて……治癒師の前で何やせ我慢してるのよ……っ!」
「うる、さ……いな。静かに、してくれ」
ルークの声が酷く弱弱しいもので、その言葉で我に返ったティアはついつい大声になっていた自分を恥じた。軍人ならば感情は律するべし。そんな基礎を忘れてどうするのだと自分に言い聞かせ、彼の体中に刻まれた大小さまざまな傷を片っ端から癒していく。
深いものは無いが、とにかく数が多く、その分だけ出血も多い。彼がフラフラになっているのも、このあたりが理由だろう。
「あなたが、もっとちゃんと普通に怪我をなおさせてくれたなら、こんなに言わないわ」
「平気だと思ってたんだ。なのに、こっちに戻ってきて、お前の顔みたらなぜか急に気が抜けた」
「……はい?」
「お前のせいだぞ」
「待ちなさい。あの、本当に意味が分からないんだけど……」
「知るか。俺だって訳がわからん」
言い合いながらも、ティアの手は止まらない。てきぱきと治癒していく様子を見て、なるほど確かにこいつは優秀な治癒師(ヒーラー)だなと改めてルークは感心する。治った右手で軽く左目に触れると、かすかに痛みが走る。
顔を顰めていると、すぐにティアにばれて低い声で名前を呼ばれた。ぎくりと肩を強張らせると、彼女は顔を近付かせて、間近で青の瞳がルークを睨みつけてくる。
「超振動を、使ったの?」
「馬鹿を言うな、使ってない。エミヤに散々パッセージリング意外では使うなと言われただろう」
「……本当に?」
「…………少し、使いかけたが……ギリギリで思いとどまったぞ」
「でも左眼は見せなさい」
「……好きにしろ」
ルークの言葉通りに、ティアは彼の眼帯をほどく。表れた、彼の夕焼け色の髪と同じ赤い瞳はもう見慣れた。彼女が手を伸ばすと閉じられて、その瞼に手を置く様にして治癒術をかける。たしかに、損傷具合は酷くなく、彼が言うとおりに実際に超振動を放つほど使ったわけではないのだろう。
一通り治癒術をかけ終わって、改めて彼の体をざっと見る。かけ忘れた場所がないかを捜していたら、ポツリとルークが彼女を呼んだ。どうしたのかと顔を上げれば、ルークは俯いていて顔を上げようとしていない。
首を傾げて名前を呼び返そうとすれば、ルークの手が縋るようにティアの片腕を掴んで来た。ティアは驚き目を見張るが、ルークは俯いたままだ。
「なあ。俺、狂いそうになったら俺を止めてくれって、言ったよな」
「そう、ね。……確かにそう言ってたわね」
「ロッドで、なんて生ぬるい。なあ、もしも本当に狂いそうになったら、殺してでも止めてくれるか」
「……何を、言っているのよ」
「俺、今日、そうするしかないからとかやむを得ずとか、そう言うのじゃなくて……」
私怨で人間を殺そうとしたんだ。ルークのその言葉にティアは驚く。腕を握る手が強くなるが、それを気にしていられないほど弱弱しく泣き出しそうな声に聞こえた。実際の彼の声は酷く乾いている。それでも、ティアにはそう聞こえた。俯いているから、彼の表情は分からない。
声のままに泣き出しそうなのか、苦しそうなのか悲しそうなのか、それともまだ表情を上手く作れず無表情のままなのか。
「なあ、もしも俺がいつか狂って、人を殺しても笑ってる様になっちまったら」
―――その時は、おまえが俺を殺してくれる?
ルークの言葉に、ティアの肩が小さく震えた。
嫌な予感ばかりが、音もないまま彼女の心に降り積もる。