暗い場所だった。日の光はあまり入らない。『昼』と『夜』というものが外にはあるらしい。『昼』には『タイヨウ』が『空』という天井の向こうに広がる世界に昇っていて、光に溢れているそうだ。
暗い部屋の隅で膝を抱えて蹲る『彼』は、それを知識だけで知っていた。いや、本当は一度だけこの目で見ているはずだった。ただ、その時はとにかく生きることに必死で……自分でも何をしていたのかよく覚えていない。
記憶の始まりは歩いて、歩いて、歩いて、歩いていたこと。
生まれたかとおもえば必要ないと廃棄され、仲間たちが悲鳴を上げることもなく溶けて消えていく中で、彼は生き延びた。だから歩いた。どうしてそうだったのかは解らない。どう動いてどう逃れたのかは解らない。ただ気づけば熱い場所ではなく冷たい森の中にいて、夜になれば凶暴性を増す魔物に怯えて世界をさまよった。
知識は無い。ただ本能のみで歩き続けて、自分以外の生きている『人間』に出会った。驚いた顔をして、しかしにやりと笑ったその表情の意味を、彼はまだよくわかっていなかった。そもそも言葉の意味を理解していなかったんだから仕方ないといえば仕方ないかもしれない。
『ほう……これは拾い物だ。ダアト式封呪を七番目ほど使えずとも第七音素の素養はある。ふん、ここまで生き意地があれば何かに使えるかもしれんな』
人ではなく、ものを見る目だと今なら分かる。冷たい目の色をした瞳が上から見下ろして、腕を掴まれる。連れて行かれたのは暗い部屋。
『ヴァンも私がまさかこのような予備を持っているとは思うまい』
それからどれだけの時間が流れたのか分からない。
ずっと暗い場所だった。誰も来ない。彼意外は誰もいない場所。時折気まぐれのようにモースがやってくるだけで、食事さえ扉の小窓から差し入れられるだけだった。人とあったことがなかった。
だから、その時は本当にびっくりしたのだ。
「こんなところに居たのか」
扉を蹴破って入ってきたのは鮮やかな赤色。片目を黒い眼帯で覆い、もう片側から覗く瞳の色は緑色。
この部屋は閉じ込められた人間が逃げ出さないようにと、採光のための窓すらなかった。だからよく分からなかったのだが、どうやら時刻は夕刻だったようで、目の前に立つ存在の髪の色と似た色の光が世界に満ちている。
太陽も夜も昼も夕焼けも、彼は何も知らなかった。
しかし見たのがはじめてだったからこそ、その色が記憶に焼きつく。
「ロー、レライ?」
気づけば唇から言葉が零れて、彼は自分自身の言葉に首を捻る。
ろーれらい? 『ろーれらい』ってなんなんだろう。モースが何かを言っていた時に聞いた気がする。けれど、考えて思い出さなければ解らないような単語が、どうして勝手に口から零れたのか。分からず、けれどやはり視線も逸らせず。じっと己のほうを見つめてくる瞳に、ルークは小さく頭を振る。
「ローレライか。確かに体の構成音素的には同じかもしれないが、俺はそいつじゃない。俺は、ルークレプリカ」
「レプリカ……ぼくと、同じ……」
「そうだ、俺もレプリカだ。識別名称が無いと不便だから、そのまま名前を借りている。俺はルークと呼んでくれ、フローリアン」
「ふろ……?」
「……ああそうか、分かるわけがないか。お前の名前だ、フローリアン」
「……フローリ、アン……? なまえ……」
彼―――フローリアンは、この時の燃え立つような世界の赤を忘れない。
呆然と呟くフローリアンにそうだと頷き手を差し出し、暗いだけの狭い場所から大きな外の世界へ連れて行ってくれたルークの、その言葉と共に。
「お前は今日からフローリアンだ。ほら、さっさとここからでるぞ」
「――――」
その言葉が始まりで、彼は三番目のレプリカイオンからフローリアンという自分自身になれたのだ。
差し出された手をとる。握った手は剣ダコでごつごつしていて案外大きくて、そして温かい。手を引かれるままついていけば、拡がる外の世界は大きく、空は手に届かないほど遠い。
今まで狭いくらい部屋の中しか知らないフローリアンには全てが未知で、怯えて足を止めそうになる彼の手を引き、ルークは一度振り返り、そしてすぐに前を向く。
「ようこそ、世界へ。フローリアン」
「『残酷で理不尽で生きる人間は醜悪ばかりの、それでもどうしようもなく時折優しく美しい、この世界へ』」
ポツリと溢した。その声の調子はいつもの無邪気なものよりも酷く大人びていて、どこか記憶の中の誰かの声に似ている。その言葉を落とした少年のすぐとなりに座っていた少女は驚き、ぎゅっと人形を抱きしめる力を強くしてうかがうように少年の名前を呼ぶ。
「……フローリアン? どうしたん、です……か?」
「ルークが言ってたんだ。僕をモースのところから連れて行ってくれたとき、すっごい小声で」
「ルーク、が……」
「うん。聞こえてないと思ってたのかなぁ、ルークってちょっと間抜けなところあるよね」
場所はアルビオールの船内の一室。イオンと同じ顔の人間がエンゲーブの住民の前に顔を出すのは色々と問題があるとルークによくよく言い含められて、フローリアンは大人しく船室の一室に閉じこもっている。
ミュウはエンゲーブの子ども達に大人気で、ともすれば探検だとあちこちに言ってしまいそうな子どもの相手をして、上手いことフローリアンと接触しないように気を引いてくれていた。ルークにフローリアンのことを頼むぞ、と何度も念を押されていたからか気合が入っていて、子どもにもみくちゃにされても健気に相手をしている。
ミュウは子どもの相手、ノエルは操縦とそのほかにもいろいろとすることがあったため、彼の護衛と船室に閉じこもりきりの話し相手としてアリエッタがそこに居た。彼女の兄弟の魔物も誰彼と人を襲うほど無節操ではなく、今は大人しく室内で床に寝そべっている。
フローリアンは、そんなアリエッタのライガに無邪気に抱きつく。仔ライガほどふわふわの毛むくじゃらではないが毛並みは綺麗で、手触りもいい。ぐりぐり額をこすりつけてその手触りを堪能しながら、フローリアンはくすくす笑いながら言葉を紡ぐ。
「たぶん……じゃなくて、コレは僕が勝手にそう思ってるだけなんだけどね? ルークってさ。たぶん、世界が好きじゃないんだよ」
世界を残酷で理不尽だと、生きる人間は醜悪だと、そう吐き捨てた時の彼の声に込められた黒い感情をフローリアンは知っている。けれどその後の言葉がルークの本質だ。
彼は世界の美しさを知っている。フローリアンがいまだ知らない世界の残酷さを、理不尽を、醜悪さを知って―――けれど優しい世界を知ってしまったルークは、世界を嫌いになれない。
どれだけ痛めつけられても、詰られても、理不尽でどうしようもなくていい加減にしろと叫んでしまいたくなっても。彼に残ってしまった温かないつかの陽だまりの記憶が、彼自身の優しさを縛り付けて世界を嫌いにさせてくれないのだ。
アルビオールの船室の窓から空を見て、話してくれたことがある。セントビナーの展望台から空を見たと言っていた。フローリアンの兄弟であるイオンと、名前しか知らないルークの親友だというグレンと、三人で展望台から空を見たと。
当たり前に手は届かなかったけれどすごく遠くて、なのに近く見えて、でもやっぱり高かったな、と。
本当に微かに口元に笑みを浮かべて空の青を見上げていたルークの表情を、フローリアンは知っている。
「でもね、僕は結構好きなんだ、この世界。だってルークに会えたし、エミヤにもティアにもノエルにもミュウにも会えたし、アリエッタにも会えたんだもん。それに、きっと、これから家族にも会える。ルークがあの場所から連れてきてくれたから、いっぱい怖かったり寒かったりしたけど、全部帳消し!」
生まれた次にはもう要らないと火山に廃棄が決定されていた。それでも彼は無邪気に笑ってこの世界が好きだよと言い、俯くアリエッタに向かって問いの言葉を投げかける。
「ねえ、アリエッタは?」
「………………」
「アリエッタはこの世界、好き?」
フローリアンの言葉に、アリエッタの瞳が揺れる。
蘇るのは、自分をイオンと会わせてくれたヴァンの言葉だ。
……美しい街だったと言っていた。彼女自身は覚えていない。赤ん坊の頃だったのだ。知っているのは既に廃墟になった寂しい残骸ばかりが残る町の風景だけ。それでも、かつてはきれいな町だったのだろうとは思う。ヴァンの言葉のとおりに、きれいな町並みの活気のある島だったのだろう。
町をもう一度蘇らせてくれると、約束した。彼女の本当の両親も町も復活させてくれると、確かに約束をした。昔のイオンもそんなヴァンに協力していて、……今のイオンは変わってしまったけれど。
けれど、その復活は今ある世界をすべて否定してひっくり返してからではないと叶わないものなのだということはぼんやりと分かっていた。
理不尽に故郷を奪われた。ホドの崩落の影響でフェレス島は滅びて、そのホドの崩落はスコアのために世界が見殺しにしたからだと、難しいことは知らなくてもそれだけはヴァンも昔のイオンも教えてくれた。
答えなど決まっている。こんな世界。こんな世界、
「アリエッタ、は―――」
口を開いて、けれど続く言葉が出なかった。口を閉じる。答えられない自分が信じられなかった。何故、どうして。すぐに思いつく。この世界は残酷だ。理不尽で冷たくて、ルークの言うとおりに醜悪なのだろう。
けれど。
それでも、この世界でなければアリエッタはイオンとは会えなかったかもしれない。
ヴァンにも、リグレットにも、ラルゴにも、シンクにも、ディストやアッシュに会うこともなく―――もしも世界がもう少し優しくて、暖かくて、正しくて清らかであったなら、今ここに居るフローリアンにも会うことはなかったのかもしれない。
強く美しい育ての親にも、つい最近生まれた可愛い兄妹たちにも、今となりに居てくれる魔物の兄弟たちにも会えなかったかもしれないのだ。
この世界であったから失ってしまったものがあり、この世界であったからこそ会えた人がいる。この世界でなければずっと残って居ただろう温かなものが確かにある代わりに、この世界でなければ届かなかったであろうものも確かに存在する。
それがどうしたと、それでもはっきりとこの世界を、故郷を見殺しにしたこの世界を否定することが……アリエッタには、できなかった。
「ねえ、アリエッタ……アリエッタは、この世界がすき?」
無邪気な幼い子どもの声に、ふと深みが増す。
まるでアリエッタがよく知る『彼』のようだ。アリエッタは息をのみフローリアンの顔を見る。フローリアンは静かに笑って、見守るように彼女を見ていた。その様子までまるでそっくりで、アリエッタは泣き出しそうになる。本当に、本当に記憶の中の彼とそっくりで。
けれど、違う。違うのだ。顔も同じ、声も同じ、瞳の色も髪の色も背の高さも手のひらの暖かさもきっと同じだ。それでも、違う。見た目は本当に同じで、そっくりで、違うところを捜しても見つからないくらいそっくりで、それでも、どうしても、違うのだ。
彼はフローリアンで、『彼』ではない。どれだけ見た目が同じでも、レプリカはオリジナルにはなれない、代わりにはならない、人として存在している限り自分としてでしか存在できない。どれだけそっくりに見た目を似せても、どれだけそっくりに構成されても、同じいつかを再生させることなど出来ない。
そうだ、本当は、心のどこかで知っていた。分かっていた。兄弟達は何も言わずに傍にいてくれた。不安に気づかなかったことにして、知らないふりをした。違和感に確信を持ってしまえば、生きていく勇気がなかったから。
――――どれだけそっくりでも、オリジナルとレプリカだから違いが分かるというのではなくて。
ただ、彼女にとってはそれが『彼』だからこそで。
「……ケセドニアで、………………イオン様、に、会ったら……」
ルークが言っていた。ケセドニアにイオンが来ると。その時にあわせてやると。ゆっくりと話をさせてくれると、彼自身から話を聞けと、そう言っていた。
……『彼』は、そこで本当のことをすべて話してくれるだろうか。
きっと、『彼』は。
「その後で、答えます……それじゃ、だめ、ですか?」
「うーん……いいよ! アリエッタが、ちゃんと答えてくれるならちょっとくらい遅くなってもいいや」
フローリアンは先ほどまでの表情などまるで嘘のように、にっこりと無邪気に笑う。それは記憶の中の彼とはまるで違う表情で、やはり似ているくせに全く違う存在なのだと改めて思う。
今見せている無邪気な表情と、誰かに似ているとても大人びたその表情と。本当の彼はどちらなのだろうか。
「フローリアン、は……何を知ってる、ですか?」
「えーっと、それはね」
アルビオールに船内放送がかかる。もうすぐでケセドニアに着くといっていて、それをBGMに、くすくすと笑うフローリアンは自分の唇の前に指を置いて、内緒話をするかのように静かに小さく言葉を紡ぐ。
「アリエッタの『イオン』にとっては、アリエッタがすごく大切な人だってことしか知らないよ」
* * *
意識がふっと浮き上がるような感覚がした。黒い世界が震えて、うっすらと瞼を開ける。どこかで息を呑むような音がして、マルス、と名前を呼ばれた。ぼんやりと視界を巡らせれば、そこに居るのは己の親友の姿だ。状況がつかめないが、辛うじて残っていた記憶を探りああと合点がいく。
小さく笑い、こちらを泣き出しそうな目で見てくる親友に軽口を叩く。
「よう。どうやら私は死に損なったようだな。頑丈なものだ」
「っんの、大馬鹿野郎が……散々人を心配させやがって!」
「大声でがなるな。傷にさわるだろう?」
「うっせえ! こっちがどんだけ心配したと……てめえどんだけニーナがお前にベタぼれか知ってんだろうが、俺の妹を嫁かず後家にするつもりか!?」
「ははは……すまない。心配をかけた」
なだめるために軽く親友の膝を叩くのだが、なにやら親友は今にも泣き出しそうなのを堪えているようで、低い声を出しながら唸っている。それだけ心配をかけていたということはやはりかなり危篤状態だったようだ。
マルスはゆっくりと辺りを見回す。質素な一室……一室? よく考えれば自分が寝ているのはベッドの上だった。おかしい。彼の記憶は戦場真っ只中だったはずなのだが、どうしたのだろう。
「ここはどこだ?」
「そっか、お前ずっと起きずに寝てたもんな……ここはケセドニアのマルクト領側の宿屋だよ。感謝しろよてめえ、俺がずっとルグニカ平野から担いで来たんだからな」
「なに? ルグニカ平野は戦場―――」
疑問の声を上げようとした瞬間、全てが鮮明に蘇る。咄嗟に飛び起きそうになり、そして傷む傷口にうめき声が零れた。慌てたマルスの親友が彼をベッドに寝かせつけた。
「赤い、髪の……炎の髪の剣士が居なかったか。彼はどこだ。私は、彼に……っ!」
「だあああ、まて、落ち着けって! お前の言う赤い髪のヤツなら、たぶんまだこの町に居る。そんなに話があるんなら後で俺が呼んできてやるから少し待てよ!」
彼の親友は今にも現状を把握するために飛び起きて駆け回りそうなマルスを慌てて押し留め、立ち上がるんじゃないぞと何度も念を押して部屋から出て行った。その背を力なく見送り、ガクリと身体中の力を抜きベッドに背を預ける。
『―――――――――やめろ!』
……あの声がなければ、死んでいた。否、あの場所にあの青年が居なければ死んでいた。
あの時。隊長から斬りかかられたあの時、青年が咄嗟に上げた声に反応して、本当に微かながらに隊長の剣筋から体を逸らせることが出来た。それでも深くは斬られてしまったが、即死しなかったのはあの声のおかげだ。
そして、今生きているということは。彼は恐らく虫の息で助かる見込みも薄かった自分の願いを、移動しているエンゲーブの住民の中にいるだろう親友に、最期になるかもしれないのなら一目会っておきたい、と言った願いを聞き入れてくれたのだろう。
あの場所から避難民のところまでどれだけ距離があったのかは解らない。それでも気を失ってしまった彼を、あの青年は途中で放り投げることなく律儀に連れて行って、しかも治療までしてくれたらしい。
「深くはなかったが、彼もかなり傷を受けていたはずだ……それでも、見捨てずに助けてくれたのか」
マルスは小さく笑った。あの時、友軍に向けられた容赦のない斬撃を見て戦慄したことも本当だ。けれども、剣を突きつけた時に真っ向からこちらを睨みつけた、あの濁りのない真っ直ぐな翡翠の瞳に怒りに染まった剣先がふと押しとどめられたのも事実だ。
スコアに危険を詠まれた住民の避難をさせるため。彼は人を守るために剣を握り振っていた。
「……それに比べて、私は―――」
戦争を調停する為でもなく、どちらかに加担しさらに戦争を加速させる。そのような政治のために剣を握りたかったわけではない。
ただ、日々のスコアを守り、そして皆が平穏に穏やかに笑って暮らせるようにと、ユリアが愛し導いてくれた今の世界を守ることが出来たらと、それだけを願って剣を習い教団へ入ったというのに。
のろのろと片腕を上げて額の上に置き、ため息を吐く。
その時ガチャリと部屋の扉が開いて、顔を向けた。そうすれば、そこに居たのは想像通りの赤い髪の青年、ではなく。マルスは怪訝な顔をする。どこかで見たことのある顔だ。
どこだったかと考えて、ふと思い出す。
「あなたは、エンゲーブの……」
「はじめまして、ニーナちゃんと同級生だったマルコの父です」
「マルコ……ああ、ご本人には会ったことがありませんが、名前が一文字違いだと、彼女から名前は聞いています。頭がよくてクラスのリーダーで、世話好きだったと……」
「……はい」
「ご子息も貴方も、この住民移動に参加されていたんですか? お怪我は……」
「―――――――――マルコは、死にました」
擦れるような声で、それでもはっきりと呟いた村人の言葉に、マルスは息を呑む。まさか、と呻くマルスに首を振り、村人は移動のせいではありません、と小さく答えた。
「導師を狙ってきた不逞のやからから彼をお守りするために、死んだそうです。マルコ、マルコは……マルコはっ! 昔、スコアラーに詠んでもらったんです! いつか高貴な方の力になれるだろうから、軍に入るようにと」
「それでは……」
「そうです! マルコは……息子は、スコアに殺されたようなもんです!」
村人は両手でギリギリと拳を握り、震える声で吠える。隠し切れない憤りが声から気配からそこら中に溢れていて、マルスはそうですか、と静かに頷く。
「私は教団のオラクル兵です……私を殺しに来ましたか?」
「……いいえ。いいえ! ただ、俺は……スコアを守るための軍にいるあなたに、オラクル兵である貴方に聞きたいことがあったんです」
「聞きたいこと?」
「……スコアを守ったからこそ手に入れることが出来た幸福があったとして。そのまま守り続ければ不幸が来ると、知ったなら。出会えたはずの人と出会えなくなるかもしれなくとも、出会えたなら誰よりも愛したかもしれない人との可能性を奪っても―――」
―――軍に入って、任務先で出会ったんだ。助けてもらったよ。スコアを守ったおかげで会えたんだ。ユリア様のお導きだね。今度家にも連れてくるよ。母さん、ご馳走作ってくれる? おい親父、あんたはせめて髭くらいは剃っといてくれよな。
「……スコア、から……外れることは、罪でしょうか。それが死に往く定めを詠まれたスコアだと、知ってしまったら、そこから外れて生きる道を探すことは……罪なのでしょうか」
「―――――――――」
つい先日のように思える息子の言葉を思い出しながら、村人はその疑問を喉から搾り出す。その疑問に黙然として目を閉じていたが、やがてマルスは瞳を開けた。
「“スコアとは、人を支配する為のものではなく、人が正しい未知を進むための道具に過ぎません”」
「!!」
「これは、改革派である導師イオンのお言葉です。いつか……大詠師モースとスコアに対して意見を交換していた時にそう呟いていたのを確かに聞きました。スコアは……幸せに、幸福に、正しく生きていけるようにと、そのための道具であるはずなのです。ですが、その道具のために命を失うなど……本末転倒だと、私は思います」
「ですが……ならば! なぜ、そう教えてくれなかったのですか! スコアラーは、軍に入ればマルコが死ななかったことを教えてくれなかった!」
「導師イオンのお言葉は、まだ新しい派閥の考えだからです。教団内部の事情なので守秘義務があるので上手く言えませんが……今までずっと教団の仲にあった考え方は、保守的で、死のスコアを詠むことを禁じてきたものです。そしてその遵守こそを善とする。導師のお考えは、まだ新しくその意思を受け取るものは少ない。
……ですが、そうですね。彼はこのようなことが起こり得ると考えたからこそ、スコアに振り回されるだけの今を憂いておられたのかもしれません」
「導師イオン……あの方が……マルコが、守った、あの方は……そうですか」
「…私も、ニーナの出会えたのはスコアに詠まれ軍に入ったからこそですが……」
マルコと似ている状況に、村人の顔が上がる。その顔をみて、マルスは力強く笑った。
「例えば、軍に入ればいずれ死ぬと詠まれていたとして、私は軍に入らなかったとする。そうすれば、確かにニーナにはスコア通りに出会えないかもしれません……けれど、必ず私は彼女に出会う。世界中から必ず探し出して、私は愛する人に出会います」
「……随分と、情熱的な言葉ですね」
村人の声は震えていた。からかう言葉にしようとして、震えを殺せず嗚咽が混じる。ボタボタと涙が流れ、それを隠すように両手で目を覆った。そんな村人に手を伸ばせないもどかしさを感じながらも、迷いもなく彼は言い切った。
「だから、貴方は間違えてなど居ない。大切な人が死ぬと分かれば、そうさせたくないと願うのは人として当然だ。守り続ければ手に入るはずのものが亡くなってしまうとして、それでも……生きているのなら―――」
「そう、ですね。そうだ。そうだったんだ……もっと、早く、知ることが出来たなら……良かった……」
二人の間にしばし無言が満ちる。と、突如響くノックの音。まるで見計らったかのようなタイミングだと思い扉を向けば、扉が開いた状態のままで、扉に背を預けてこちらを見ている赤い髪の青年が居た。
「この世界では随分と刺激的な話をしているな。扉くらい閉めておいたほうがいいぞ。保守的な人間のほうが多いからな」
まさしくタイミングをはかられていたらしい。扉を閉めて、ルークはマルスの枕元へと近寄ってくる。いったいつから聞いていたのか問いたかったが、赤い髪の青年……村人が、ルークさん、と呟いていたからおそらくはルークという青年は、肩をすくめた。
「仕方ないだろう。立ち聞きするつもりはなかったんだが……タイミング的に入りずらかったんだ。で、マルスと言ったか。アンタ、これからどうするつもりだ? 俺はアンタを助けはしたが、オラクルにとっちゃ戦場逃亡と同じだろう。隊長が部下を斬り殺そうとした、なんて証拠もないでは信じるものか」
「そうだな、私も進退を考えねばなるまいが……それよりも君に礼を言わねばと、」
「礼か……そんなのはいらない。忘れたのか、俺はアンタの仲間を散々斬り殺してるんだぞ」
「しかし、私を助けてくれただろう」
穏やかな目をして、ありがとうと呟くマルスに、ルークは呆れた顔を隠そうともしない。
「あんたお人好しだろう」
「君ほどではないと思うのだが」
「どこがだ。ったく……おい、マルス。あんたは先刻の話を聞く限りは信用できると見た……命を助けたことに少しでも恩を感じてるなら、少し頼まれてくれないか」
ルークが話すいくつかの言葉に、マルスは驚いた顔をしながらも頷く。それによしと返して、じゃあ頼むぜと言い置き部屋から出て行こうとした。そして、ふと振り返る。涙は落ち着いたらしい村人の、息子をスコアに殺された男に振り返る。
あの時はただひたすらに混乱していて、絶望していて、何かに憤りをぶつけでもしなければ立っても居られなかったように見えたのだが……今では、憔悴しているがそれでもあの時とは違う目をしていた。
ルークは扉のノブに手をかけたまま、静かに尋ねる。
「……あのときの問いの答えを聞こうか、マルコさんの親父さん。あんたはこれからスコアとどう接して生きていくつもりだ?」
「急に、今までの全てを変えるなどできやしませんや。……ですが」
ふと、村人は宿屋の窓から空を見上げた。少し雲がかかっているが、今はまだ晴れている。そんな空を見上げて、小さく小さく、本当に小さく笑って答えた。
「この天気は、明日は雨が降るだろうから傘を準備しておかないと、とか。そういう、小さいことから自分で考えて―――いつかは、スコアに頼らなくても生きていけるようになりたいと……思ってますさ」
「……そうか」
ルークはふっと息を吐く。笑ってはいなかったが、それでもどこかほっとしたような顔だった。
「じゃあ、俺は少し用事があるので失礼しよう……マルス、また後でな」
「ああ、分かった……ルーク殿、今度はエンゲーブの住民分だ。もう一度言っておく……助けてくれて、ありがとう」
「……なんでお前がエンゲーブの……まあ、いい。アンタみたいなお人好しに何言ったって無駄だろう」
軽く手を振り、ルークは部屋から出て行く。町の住人に聞いたが、まだキムラスカとマルクトの国境付近で一騒動は起こっていなかったらしい。と、いうことは、偽姫騒動はこれから起こるのだろう。少しこちらの日程が遅かったのが気になったのだが……あちらもあちらで予想外に遅れていたのだろうか。
まあなんにせよ、偽姫騒動が起きればイオンがモースについてダアトへと帰国するはずだ。ダアトに帰られると、六神将の目をくぐって連れ出しフローリアンと会わせるのは骨が折れる。今のルークにはモースはどうとでもなるし、インゴベルト陛下の状況も少し知っておきたい。
つらつらと考えながら、状況を把握でそうな宿屋の屋根に上る。ぎらぎらと暑い日差しに辟易としながら、酒場の前辺りを監視し始め……ふと、空を見上げた。
「しかしありがとう、か……まさかエンゲーブの住人よりもオラクル兵に言われるとはな」
世界は分からないな。
小さく呟いた言葉が、太陽を弾く砂漠の町に溶けていった。