「ルーク」
「イオンが離れた。そろそろ行く……エミヤ、頼んだぞ」
「……承知した。そのままアルビオールに連れて行けばよいのだな?」
「ああ」
モースについて行くイオンがアッシュ達から離れたのを見て、後方から奇襲する。砂漠越えの上着のフードを目深に被り、突然のことに目をパチクリとするイオンに心の中で謝りつつ、アーチャーが肩に担いで連れて行く。ルークはモースの相手だ。
凄まじい勢いでイオンはどこぞへと連れて行かれる。砂漠の町並みがすごい勢いで流れてゆき、普通なら解らないところでイオンはふと既視感を抱く。
この速さ、この揺れ、そしてこのコーナーリング。妙に既視感が……ああ、これは。
「まさか、エミヤ殿……ですか?」
「…………………………黙秘権を行使させていただこう」
「やっぱりそうですか。お久しぶりです」
「今の私は怪しい誘拐犯Aだ。導師誘拐の実行犯に心当たりなどないように思ってくれ。導師イオン、君に会いたいという人たちがいる。用件が済めば確かに送り届けるから、それまでどうか付き合ってくれたまえ」
「はい、分かりました」
「……導師イオン。誘拐犯の私が言うのもアレだが、もう少し、こう……誘拐犯に挨拶をするのではなくて、もっと人を疑うとかだな……」
「エミヤ殿は、グレンの信頼できる相棒で、従者殿なんでしょう?」
「む……」
「僕があなたを疑う必要がないと判断するには、それで十分ですよ」
穏やかな声で、けれどきっぱりと断言され、アーチャーはふっと小さくため息を吐いた。肩に担いでいる状態でイオンの表情は見えないが、きっと笑っているのだろう。ルークといい、イオンといい、グレンはよくよく信頼関係を築いていたらしい。
もうここまでくれば追手も来ることは無いだろうと少しだけ走る速度を緩めて、イオンを軽く担ぎなおす。
「……今の私は誘拐犯Aだ。その信用は成立しない」
「そうですね。じゃあ、誘拐犯のはずなのに僕を心配する部分で人となりをみた、とうことにしておいてくれませんか?」
「……ふむ、喋ると舌を噛むぞ導師イオン。そろそろ静かに誘拐されておいてくれ」
「分かりました」
誘拐犯と被害者にしては、なんとものんびりとしたやり取りだった。
艦内の廊下は靴音が良く響く。その足音を耳ざとく聞き取り、そしてその歩幅の感覚から歩いているのが誰なのかをキッチリ聞き取り、フローリアンは首を傾げた。ひとつは、分かる。今まであった中で一番背が高くて、歩幅の大きい人だ。
けれど、もう一つが誰か分からない。
ルークよりも小さくて、ティアと同じくらい……? いや、でも確かティアの歩き方は軍人独特で、なんとなくこの歩き方は違う気がする。ノエルとも違う。誰なんだろう。今までが今までだった分、足音で誰が来たのかを測るのは特技の域なはずなのだが。
うーんと彼が考えこんでいればノックの音。大抵は扉を開ける前に誰かを分かっているのだが……いや、一応この扉をノックしているのはアーチャーであろうとフローリアンも当たりをつけているのだが、それとは他に誰か知らない人が要るというのはなんだか新鮮だった。
返事をして、扉を開ける。さあ誰がいるのかな、フローリアンがわくわくしながら扉を開ければ。
「お帰り、エミ……ん?」
「え」
扉を開いたフローリアンと、その顔を見たアーチャーの少し後ろに立っていたイオンの視線が合って、両者共に固まる。数秒、両者共に無言。しかし次の瞬間にはフローリアンは満面の笑みを浮かべ、未だに混乱するイオンにガバリと抱きついた。
「うわあ!?」
「あはははは、弟、弟、弟だ! エミヤエミヤ、見て見て! 僕おにーちゃんなんだぞー!」
「エミヤ殿、あの、これは一体どういう……」
「それは本人が言うだろうさ。ほら、ちゃんと自己紹介したまえ」
「わかってるよう! イオン、はじめましてこんにちわ! 僕はね、フローリアンって言うんだ。生まれた順番は三番目。君のお兄ちゃんだよ」
「フローリ、アン……?」
「そ、フローリアンが僕の名前。……会いたかったよ、イオン」
抱きついているだけだった手が動き、イオンの背を軽くぽんぽんと叩くように撫でる。それはまるで混乱するだけのイオンを宥めるような動作で、訳もなく落ち着いて、イオンはなんだか妙に泣きたくなった。恐る恐る両手を伸ばし、ぎゅっとその背に手を回す。
「生きて……た、ん、ですか?」
「うん」
「イオンレプリカは……僕の、仲間たちは……みんな、僕意外、皆……殺、されて……死んで、しまったものだと……っ!」
よかった、と呻くようにイオンは呟き、ついに涙を溢してフローリアンを縋りつくように抱きしめる。
「ありがとう。ありがとう、生きていてくれて、ありがとう……フローリアン。僕、僕は……あなたに会えて、とても嬉しい」
「お礼を言いたいのはこっちだよ、イオン……」
生きていてくれてありがとう。
何度も何度も涙を流しながら呟くイオンの言葉が、フローリアンにとってはどれだけ嬉しい言葉であったのか、きっとイオン自身は知らないのだろう。いままでほけほけ笑うだけだったフローリアンの表情も泣き出しそうな笑顔が浮かぶ。
フローリアンは、消えていく仲間達を見ていた。自我もないままザレッホ火山の火口へと、生きたまま突き落とされて溶けて消えていく仲間達を見ていた。その中から自分だけ逃げ出して、生き延びた。
……いや、ルークの言葉が真実ならもう一人、あの時同じ火口から逃げ出した弟がいるはずなのだが―――それでも、死んでいく仲間を見捨てて逃げ出して、自分だけが助かったのだと。
ずっと、心のどこかでそう考えていた。
だからこれも仕方のないことなのだとモースに監禁され、いつまた殺されるのではないかと怯えては彼の考えを必死になって測り、毎日を暗くて狭い場所で生きていた。
ああ、泣きながら自分が生きていてくれたことを喜んでくれる人がいることの、なんと幸福なことか!
「でも、フローリアン……あなたは、今までどこに……?」
「モースにね、ちょっと閉じ込められてたんだ」
「……っ、そんな……」
「あはははは、そんな顔しないでよイオン。確かに暗くて狭くて寂しかったけど、ルークが出してくれて今ここにいるし。イオンにもあえて―――もう、一人じゃないから寂しくないよ」
なんだかまた泣きそうになった顔をするイオンの頭をよしよしと撫でる。おお、これって僕今すごくお兄ちゃんっぽくないかとフローリアンが自画自賛していると、逆に頭を撫でられていろいろとこみ上げるものがあったのか、イオンはますます泣く寸前の顔になった。
はれ? と、フローリアンは固まりおろおろと辺りを見回す。弟を上手く慰められないお兄ちゃんなんて格好悪いではないか。
助けを求めてアーチャーの方をみれば、彼はやれやれと肩をすくめこちらにゆっくりと近付き、二人の背を軽く叩く。
「そら、落ち着きたまえ導師イオン。君が悲しそうな顔をするたびにフローリアンがどうしようかとうろたえているぞ」
「あ、エミヤ! 僕お兄ちゃんなんだからかっこ悪いこと言わないで!」
「フローリアン。自分は兄だからと張り切る気持ちがあるのも分かるが、君は君なのだ。君のままの君をイオンに見せるべきではないかね」
「そんな! 僕のかっこ良くて頼りがいのあるお兄ちゃんなイメージ作り計画が!」
なんですか、それ。辛うじてイオンはついそう呟いてしまいそうになるのを堪える。どうやらフローリアンはそれはもう『お兄ちゃん』という言葉に憧れと言うか、理想と言うか、とにかくキラキラしたものを感じているらしい。
フローリアンはどこまでも真剣な顔をしていて、アーチャーは苦笑するべきなのか皮肉に笑うべきなのか迷い、結局疲れたような溜め息を吐くことで落ち着いてしまった。
「……君もな、土台無理な話を、そう本気に真面目に叫ぶのはやめないか」
「『くーる』ってのが格好いいかなぁとか……」
「君が? クール? ふむ、よもや『ルーク』に語感が似ているだけで目指しているわけではあるまいな。きちんと辞書を引いてきちんと意味を調べたのかね?」
「イオン~、エミヤが虐めるううう!」
「え、あ、えっと……エミヤ殿、フローリアンは生まれてまだ二年なんです。優しくしてあげてください」
「そーだそーだ!」
「ふむ、やはりどちらかと言えば生まれた順番はとにかく導師イオンのほうがいかにも兄らしい―――」
「えええええええ、やーだー、僕がお兄ちゃんなの!」
「クールな人間は駄々など捏ねんぞ」
「エミヤの意地悪!」
ぷーと頬を膨らませて愚痴るフローリアンと、その言葉をしれっと流すアーチャーと、その二人を見てイオンはつい小さく笑いを溢す。その声を耳ざとく聞き取ったフローリアンはアーチャーの方を半眼で見て、ほら笑われちゃったじゃないかと文句を言い、抱きついていた手を離し場を仕切りなおすように背筋を伸ばす。
フローリアンはごほんと一つ咳払いして、手を差し出した。
「僕がここにいることを喜んでくれてありがとう、イオン。僕はフローリアン。これからもよろしく!」
「……こちらこそ。僕に会いたいと思ってくれてありがとう、フローリアン」
七人作られた。レプリカの中で一人だけ役目を与えられて、廃棄を免れた。憎まれても何も言えないというのに、そんな一人だけ恵まれていた仲間を恨むでもなく会いたかったと言ってくれた。そのことが本当に嬉しくて、イオンは無邪気に笑うフローリアンを眩しいものを見るような気持ちで見つめ、その手を握る。
嬉しいのに、嬉しすぎて泣いてしまいそうだ。人が涙を流すのは、悲しい時や辛い時ばかりだと思っていた。涙など、知識だけの存在だったのに。
「これからよろしくおねがいします、『兄さん』」
「……! へへ、うん、よろしく!」
* * *
フローリアンとイオンとの会話が一段落ついたころを見計らって、アーチャーはイオンをさらに連れて行く。もう一人あってほしい人がいるのだと言われてイオンは首を傾げていたが、すぐに誰を指しているのかを理解したフローリアンは心構えだけはさせたほうがいいだろうと、待っている人の名を告げる。
そうすればイオンは目を見開き驚いていたが、自分を落ち着けるように何度か深呼吸し、神妙に頷く。いつかは、ちゃんと話さなければと思っていました。そう言って機会を与えてくれたということに対してイオンは礼をいい、上げたその顔には覚悟が見えた。
そんなイオンが心配で、フローリアンは途中までイオンについて行く。やがて着いた扉の向こう、この部屋にアリエッタがいるのだと言われたとき、イオンの体は一瞬強張った。気遣わしげに顔を覗き込むフローリアンに大丈夫だと言うのだが、イオンの笑顔は少しぎこちなくなっている。
「イオン」
フローリアンは気づけば名前を呼んでいて、今まさに扉をノックしようとしていたイオンは頭の上に疑問符を浮かべてこちらを見ている。本当に、気づけば呼んでいたので、何を言うつもりだったのか、フローリアンは自分自身でよくわかっていない。
「えっと……がんばれ」
結局口から出たのは、ありふれた励ましの言葉一言だけだ。
けれどその言葉に、イオンは柔らかく笑って頷いた。
扉の向こうに行ったイオンを見送りしばしの無言の後、フローリアンはふと傍らに立つアーチャーに視線を向ける。その視線に気づいたアーチャーはどうかしたのかとフローリアンの方を見返して、フローリアンは視線をそらし、じばらくしてから、意を決したように再びアーチャーの瞳を見つめる。
「エミヤ、一つ聞いてもいい?」
「なんだね」
「……嘘をつくのは、やっぱり、悪いことなのかな」
フローリアンの言葉に、アーチャーはすっと目を細めた。何のつもりでこのようなことを聞いているのか考えてみるが、よく分からない。わからないが、このタイミングで聞いてくると言うことは、この部屋の中の二人に関することについてなのだろう。
さて、どう答えるべきかと心中で唸りながら、「そうだな……」と口は勝手に動いている。
「一概に、一思いにはっきりと答えることなどできんだろう。誰かにとっての真実は誰かにとっては偽りでしかなく、誰かのにとっては偽りでもそれが真実だと信じている人もいる。偽りに救われる者もいれば、真実に苦しみ傷つく者も確かにいる。逆もまた然り」
「ふぅん……」
「……それでも、どれだけ柔らかな優しさから差し出された嘘でも、知って傷つくことになったとしても真実を知るべきだと言う人もいれば、そのまま覆い隠してしまった方が良いと言う人もいる。……嘘にもそう言う種類のものはある。一概に良し悪しは私では言えんな」
一旦そこで言葉を切って、アーチャーはフローリアンのほうを向く。フローリアンはじっとこちらを見続けていて、常に前面に出ているいつもの無邪気さは鳴りを潜めている。どちらもが本質で、どちらもがありのままの彼だ。
「悪いこと、だけじゃない……?」
「ただし、忘れるな。それがどのような想いで成されたものであれ―――君が今から成そうとする類の嘘をつくならば、その嘘をついたと言う事実を、後生大事に背負い続けなければならないと言うことを」
「―――――」
アーチャーの言葉に、フローリアンの瞳に動揺が浮かぶ。
「忘れるな、フローリアン。その場しのぎに『嘘をつく』ことはそんなに難しいことではない。しかし、何かのために『嘘をつき続ける』のは中々難しいぞ」
「……エミヤが言うなら、そうなんだろうね。でも、……僕がこれから吐く言葉は僕の勝手な嘘だけど、誰も知らないだけできっと真実だ」
せめて、これ以上。世界を大嫌いになってしまっても、世界を恨んでしまわないように。
フローリアンはノックも無しに、イオンが入っていった扉を音もなく押し開けた。
* * *
イオンが扉を開けて入れば、寝そべるライガの横腹に背中を預けるようにして座り込んでいたアリエッタが顔を上げた。少女の顔が一瞬だけ強張り、小さく笑顔を浮かべる。その表情を見て、イオンは遣る瀬無い気持ちになった。
ああ、無理をしているんだろう。イオンはなんとなくそう思い、悲しくなる。
「アリエッタ」
「……こうして、会うのは……久しぶり、ですね。…………イオン様」
違う。久しぶり、ではない。初めてだ。ここにいる『イオン』と、アリエッタがこうしてゆっくりと話をするということは。なんと言えばいいのだろう。どういえばいいのだろう。どのように言葉を紡げば、己の言葉が彼女に伝わるのか。イオンは必死になって考えるが、上手い言葉は見つからない。
出来るだけ傷つけたくは無いが、真実を話すと言うならば彼女を傷つけずになど不可能だろう。きっと苦しむ。泣いて、哀しむ。きっとそれが嫌で、オリジナルのイオンは彼女に何も言わなかったのだ。それを、レプリカの自分が狂わせていいものなのだろうか。
……けれど、このままで良い訳がないと言うのも、わかっている。今ここにいる『イオン』は、アリエッタの『導師イオン』ではないのだから。
イオンは一度目を閉じて深呼吸し、緑の瞳で真っ直ぐにアリエッタを見る。心細そうに人形を抱きしめているアリエッタの姿に一瞬迷うが、このままではきっと誰の為にもならない。イオンも、アリエッタも、オリジナルのイオンも、誰もすくわれない。
「アリエッタ。僕は、あなたに……ずっと、話さなければいけないことがあったんです」
知らなければいいこともあると思っていた。知らないままのほうがきっと幸せだと思っていた。けれど、このままじゃいけないよと言ってくれた人がいた。上手く言葉を伝えられないと臆病なことをいう自分に、大丈夫だよと、がんばれと頭を撫でてくれた友人がいた。
きっと心のどこかで誰かにそう言ってもらえるのを、ずっと待っていたのだ。このままではいけない。それくらい、嫌になるほど分かっているのに動き出せなかった。
背中を押してくれた人がいて、機会を与えてくれた人がいて、がんばれといってくれた人がいた。
逃げるつもりは、もう、ない。聞きたくないと言われても何度でもわかってくれるまで話すつもりで臨む。しかしイオンが何かを言う前にイオン様は、とアリエッタのほうから言葉を発した。俯きがちの少女の声は酷く小さくて、うっかり気を抜けばすぐに聞き逃してしまう。
イオンは一音も聞き逃さないように耳を澄ませる。
「フローリアンに、もう、会った……ですか?」
「はい……アリエッタは、フローリアンにどこまで話を聞いているんですか」
「何も、きいてない……です。フローリアンが、イオン様のレプリカの一人だってことしか、聞いてないです。イオン様から、話して、貰おうって……」
ポツリポツリと溢すように言葉を紡ぐアリエッタは、ここで覚悟を決めたように顔を上げた。じっと、イオンの緑の瞳を見る。真っ直ぐなその視線に、イオンも逸らそうとはしない。
「フローリアンは。……イオン様にとって、何、ですか」
ああ、きっと、この言葉は、彼女なりにずっと考えていたことなのだろう。
こちらにとっても、一つの流れとして答えやすい問いだ。
「……彼は、僕にとって家族で、仲間で―――兄弟です。生まれた順番で言えば、僕は弟に当たるんでしょう。アリエッタ……僕は、フローリアンと同じイオンのレプリカ。七番目のレプリカイオンです」
「―――――――――」
「僕は、あなたのイオンではないんです。僕は」
「イオン様が、……イオン様が、変わっちゃった、のは……二年前、から、……その時から、もう……変わってた……ですか?」
「……そうです。あなたを導師守護役から解任したのは、僕にはあなたとの記憶がなかったからだったんです」
「…………………………」
イオンの言葉に黙りこむアリエッタを、彼はただ静かに見ていた。そして、ふと感じた違和感が口からついて出る。
「思ってたより落ち着いてますね、アリエッタ」
「……フローリアンが、居たから……イオン様が、すり替わってたなんて思わなかったけど……変わっちゃったことには、気づいてたから」
イオンが『変わった』ことには、気づいていた。それはちょうどアリエッタの代わりにアニスが導師守護役に任命された時からで、だからアニスのせいだと恨めしく思いもした。
イオン様は、アリエッタのことが嫌いになっちゃったの?
どうしてアリエッタが導師守護役を解任されたの?
どうしてどうしてどうしてどうして!
アニスが。アニスが、アリエッタのイオン様をとっちゃった……アニス、アニス、アニスが!
「…………ずっと、考えないように、してた、だけで……」
誰かのせいにしたかった。何かのせいにして、かすかに感じた違和感に気づかない振りをした。だって、もしも、その違和感に気づいてしまったら。知ってしまえば、疑問が生まれる。
「……あなたは、イオン様だけど……アリエッタの、イオン様じゃ、ない…です」
「……そう、ですね」
「でも……でも、でも、それなら! あなたが、アリエッタのイオン様じゃないなら……アリエッタのイオン様は、どこに、いるですか?」
「……アリエッタ、」
「どうして、イオン様は……変わることをアリエッタに教えてくれなかったですか。何も言わずに、アリエッタの前からいなくなっちゃったですか。まるで……これじゃあ、まるで……っ!」
考えたくなかった、気づきたくなかった、違和感など感じなかったふりをした理由は。
「……オリジナルの、導師イオンは―――今から二年前に、もう既に……」
病で死んでいます。
イオンの言葉が、しばらくはアリエッタの頭に届かなかった。予感はあったし、最悪の場合も想像は出来ていたし、むしろ『彼』がアリエッタに何も言わずにこんなことをしていたのなら『そう』なのだろうとは思っていた。
それでも、そうかもしれないとは思っていたとしても、割り切れるかどうかなど別問題だ。
「うそ……」
「……………………」
「うそ、嘘……うそ、です。『イオン』……が、アリエッタ、を、驚かそうとしてる……だけ、です、ね?」
「二年前に僕達が作られたのは、導師であるオリジナルイオンが己の死期を悟ったからです。スコアに詠まれた最後の導師。その死を隠すために、僕達が……」
「嘘です! 嘘、嘘、嘘……お願い、……嘘、」
「……アリエッタ」
「嘘、うそうそうそうそ……っ!」
「――――――いいや、全部本当のことだよ」
突然聞こえた静かな……イオンに良く似た、けれど違う声に、イオンとアリエッタは驚いて扉のほうを向く。後ろ手に扉を閉め、ゆっくりと歩いてくる、イオンとは違うもう一人のレプリカイオン。
「……フローリアン?」
呆然と呟くイオンに、フローリアンは静かに笑う。それは、ついさっきまで見ていたはずの『くーるなお兄ちゃん』になりたがっていた、幼い無邪気な顔からは想像がつかないような表情だ。フローリアンはゆっくりと歩いてきて、アリエッタのすぐ前にまで来た。
しかし、膝を折り目線を合わせるようなことはしない。ただ立ったまま、じっとアリエッタの顔をみて、呟くように声を出した。
「オリジナルイオンは、二年前に死んでるよ」
「やだ、嫌です……アリエッタ、聞きたくない!」
「病気だった。病気で死ぬのだとスコアにも詠まれていて、けれどその後の導師が誰かなんて詠まれてなくて、だからオリジナルイオンはモースとヴァンに協力して、僕たちを作ったんだ」
「嘘です! うそ……聞きたくない、です!」
「……フローリアン! 今はまだ、これ以上は……」
耳を塞ぎ目を閉じていやいやと頭を振るアリエッタを案じて、イオンが諌めるように言う。恐らくはもう少し時間をかけてゆっくりと説得をするつもりだったのだ。確かに、アリエッタにとっての『イオン』は世界だったから、それを失うと言うことにこんなに急に受け入れることはできないだろう。
そうするべきと思っても、しかしフローリアンは首を振る。諌めるように再び名前を呼ばれて、しかしフローリアンは少し目を伏せてごめんね、と心の中だけで呟いた。
謝ったのは、アリエッタとイオンと、両方に対してだ。
彼女を案じるがゆえに嘘をつく。
それが許されることなのか、許されないことなのか。偽りを知り崩れそうになる少女がいることを知っていても真実を話すべきだと決心し、そして話したイオンの心を裏切ることになっているのか否か、フローリアンには判断できない。
優しいイオンと泣いているアリエッタに心中で再び謝り、部屋の前で交わしたアーチャーの言葉を思い出しながらフローリアンは声に出す。
「アリエッタ。僕はね、オリジナルイオンの死に際を見ちゃったんだ」
「う、そ……」
「……僕が、モースに閉じ込められていたのは知ってるでしょう? まだあの頃は廃棄が決定される前で、本当に閉じ込められてる感じじゃなくて、ちょっとした軟禁状態だったんだ。だから、逃げ出そうとして、部屋から抜け出て―――迷いこんだ部屋に、病が重くなって今にも死にそうなオリジナルイオンがいた」
嘘だ。そのような当時のフローリアンに、自我があるはずがない。あったとしてもそれはまだ酷く幼くて、一人脱走を企てようと出来るほどのものではない。そして、軟禁だとか生ぬるいような方法で閉じ込められたことなどない。監禁だ。狭く暗い逃げることの叶わない牢獄のような部屋に、ずっと閉じ込められていた。
しかし生まれた順番的に当時のことについてなど知るはずもないイオンはフローリアンの嘘を見抜けず息を飲み、アリエッタはさらに激しく頭を振った。
「うそ……うそ! イオン様は、イオン様は死んでなんかない!」
「すごく弱ってて、意識も無くて、息は細かった。痩せてて、小さかった」
嘘だ。そんなオリジナルなど知らない。モースが言うには、一度だけ会ったことがあるらしい。生まれたばかりで自我もろくろくない時で、まともに覚えてもいないが。それでも、その当時はまだオリジナルイオンもそれなりに元気だった頃のはずだ。
そしてすぐに譜術的才能の劣化が見つかり研究所に閉じ込められていたのだから、痩せて弱ったオリジナルイオンなど一目たりとも見ていない。
「やだ、やだ、やだやだやだ! 聞きたくない、お願い、だから……っ!」
「――――目を覚まして、僕のほうを見て」
嘘だ。フローリアンは、オリジナルイオンに会いなどしなかった。
「……アリエッタの名前を、呼んでたよ」
けれど、憶測でしかなくとも、これだけは真実。
確信を持って言える。もしもオリジナルイオンが一人病に死に往く時に、意識があったなら。
最期に呼んだのは、きっと。
「え……?」
「謝ってた。でも、アリエッタはきっと泣いちゃうからこうするしかなかったんだって、オリジナルイオンの方こそ泣きそうになりながら謝ってた。それとも、泣いてたのかな。何度も何度も謝ってたよ」
「……イオン、様……」
「最期まで呼んでたのは、アリエッタの名前だった」
「………………っ!!」
「アリエッタが、アリエッタのイオンをすごく大切に思ってたのと同じくらいに、オリジナルイオンもアリエッタのことが大切で、だから何も言えなかったんだ」
ついに堪えきれずに、アリエッタの目からぼろぼろと涙が零れ落ちた。何度も何度もしゃくりあげながら『イオン』を呼び涙を溢す。フローリアンはアリエッタの傍にしゃがみ込んで片手を握り、そしてイオンを呼ぶ。
呼ばれたイオンは大人しくフローリアンに呼ばれるままアリエッタの傍に近づき、そしてフローリアンと同じようにアリエッタの片手を握る。そうすると泣き止むばかりかますます涙は零れる一方だ。けれど二人とも何も言わずに少女の手を握っていた。
そうしてわんわんと泣き出した少女を眺めながら、フローリアンはずっと心中で謝っていた。ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい。許してほしいとは言わない。嘘をついたと言う事実は、これから先ずっと後生大事に抱えて墓場まで持っていく覚悟はできている。それでも今この時だけは、声に出さずにでも謝らせて欲しかった。
ごめんね、アリエッタ。ごめんなさい、オリジナルイオン。ごめん、イオン。ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい。
俯いていると、ふと、アリエッタと握っていないほうの手に温もり。驚いてフローリアンが顔を上げれば、イオンがもう片方の手を握ってくれていた。ぱちくりと目を瞬かせるフローリアンにイオンは柔らかく笑って、握る手にぎゅっと力を込める。
イオンは笑うだけで何も言わない。けれどその何もかもを許してくれそうな表情に、フローリアンまで泣きたくなる。
「フローリアン、アリエッタ。大丈夫ですよ、僕達は一人じゃない。一人じゃないから、今は泣いてもきっとまた立ち上がって歩いていける。大丈夫。だから、今は、思い切り泣いても良いんです」
「イオン様、イオン様、イオン様……!」
「……僕は、泣いてなんかないよ」
「そうですか? ……そうですね、でも、僕は今フローリアンも泣いてるみたいに見えたから」
イオンの言葉に、フローリアンが握る手に力がこもる。アリエッタはそれどころではなくて気づいていないだろうが、イオンは気づいているだろう。けれど彼は何も言わずに、ただ優しくフローリアンの手を握ってくれていた。
許しが欲しいわけではない。例え嘘でもきっと真実で、偽りによって成された言葉に真実の意味では偽りは無いと信じている。けれど嘘をついたと言う事実はこれからもフローリアンの心のどこかで引っかかって、彼はそれを背負っていくことになるのだろう。
それなのに、イオンの手の温もりに許されているような気になる自分が悔しくて情けなくて―――その温もりが、本当に少しだけ嬉しかった。
ごめんなさい。
心中で最後にもう一度だけ呟いて、フローリアンは二人の手を握りしめた。