金が無かった。
いやあるにはあるが、ここで30Gを払ってしまうと俺に残るのは5Gだけである。
勿論、5Gあれば食事はできるだろう。
エールは3Gだったが、他の料理そのものはそれほど高くなかったからだ。
しかし、宿代となるとわからない。俺は少しでもお金を持っておきたかったのである。
「えと……」
パチクリと瞬きをしながらその受付嬢が言った。
「困ります……」
「そこをなんとかっ!」
俺は土下座をした。これで少しでも手元にお金が残るのなら安いものである。
「えと、あの。でも、その……」
うろたえながら彼女が言う。
「やめてください。顔をあげてください」
俺は顔を上げなかった。ここで上げてしまったら同意を引き出せないと思ったからだ。
「お願いします」
「如何しました?」
新たに声。目の前の彼女がほんわかした感じなら、その声の持ち主はきびっとした感じだろうか。
「主教様」
その声に、俺は顔を上げた。
その女性は先ほど俺が頭を下げていた女性よりも随分と小柄で、ふと後ろの景色が僅かに偏光していることに気がついた。
目を凝らす。
「実は……」
ぼそぼそと話し始める二人。
よくよく見れば、主教様と呼ばれたその背中には二対の透明な羽根がついていた。
ここにくる途中にも何人か見たなぁと思い出すこと暫し。
話している二人から目を逸らしたところ、奥で作業している一人がこちらを伺うかのように見ており、ついぞ目線が合ってしまい、さっとその女性は目線をずらした。
……微妙に気まずい。
俺は再び二人へと目線を戻す。
「成程」
と、主教様は頷き言われた。
「経緯は把握しました。えと、貴女は……あら。貴女の名前は?」
「えいじです。主教様」
と俺は頭を下げ、慇懃に言った。しかし入り口で神殿のようだと思ったのは間違いではなかったのだなぁとそんなことを思う。
胸のワッペンは同じく『γγ』であったが、位の違いは外面からはどう見分けるのだろうか。
「えーじさんは随分と礼を尽す方なのですね」
くすりと笑い、
「ですが駄目ですよ。そう女性の方が頭を地面につけるの等という真似は」
「あ……はい」
俺は微妙な気持ちになった。
「えっと、コホン」
と咳払いをして、主教様が言った。
「つまり――お金が無いのですね?」
「恥ずかしながら」 俺は答えた。
「最初は『観光客』が職を変えに来たのかと思いましたが――」
と、彼女が主教に……って彼女の役職はなんなのだろうか。
「そうですね。貴女のその服はここではなかなか見ないものです。
職を持たないままその剣一つでここまで辿り着いたのは評価に値しますし、勇気あるその選択はきっと私達の女神様の気にいるところでしょう」
「では……」
と、俺は主教を見た。
すると彼女は人差し指を揺らし、
「いえ、見方を変えましょう。お金がなければそれに代わる何かを収めてくれれば良いのです」
と微笑みながら言った。
「成程」
俺は頷いた。盲点だったからだ。
そういうことなら、と俺は男から頂いたリュックへと目線をずらした。あの中には幾つかのスクロール、それに指輪がある。
相場はわからないが、30Gには十分届くことだろう。
「……あら。その腕輪はなんですか?」
リュックを開けようとした俺に向かって主教が言った。
「腕輪?」
俺は両腕を確かめた。勿論、腕輪など……って、ああ。
「時計のことですか?」
「時計!」
と、主教が言った。
「時を計るのですか!」
何やら食いついた主教へと俺はチャンスと思いつつ、
「えと、気になるなら見てみます?」
「ええ、宜しければ」
その声に従い、俺は腕時計を外し、彼女へと渡した。
彼女はマジマジとその腕時計を見ている。
これで応じてくれそうだと思いつつも、いやまて。と少し不安に思いつつ尋ねた。
「ここでは……」
と、言いかけたのを言い直す。
「この国には時を計るものは無いのですか?」
もしかすると、貴重なものなのかもしれないなぁと思いつつ。大体その時計は現代世界への形見のようなものでもあるのだし。
最初は手放す気満々だったのでこういうのもなんだが。
「真逆」
と、主教が言った。
「小さなものなら砂時計もありますし、数字を変化させて時を刻む魔道具も少々高価ですが存在しています。
しかしこの様に精巧で魔力を感じないものを見るのは初めてです。針を動かして時間を知らせるこの円形の造りも面白い」
成程。時間を知らせるものはあるのかと一息。
しかしデジタルはあるのにアナログが一般的でないというのも変わってるなぁとか思ったり。
あいや、ステータス画面と魔法などというものがあるのだから、そこに行き着くのはそう難しいことではないのだろうか。
「それを対価の代わりにできますか?」
そう言うと、主教があら、と一声。
「高価なものなのでは?」
「ええ、確かに」
俺は嘘を吐いた。
「それは私がかつて住んでいたところでも決して安いものではありませんでした。
でも見ての通りそれは精巧な造りです。大きな衝撃があっては壊れてしまいますし、私がこれから向かおうとする場所のことを考えたら手放しても。
……いえ、区切りのようなものをつける為にも手放した方が良い気がしています」
そこで息を吐き、目線をずらす。
まぁ、高価という点に目を瞑れば嘘ではない。
そんな俺の仕草に何を感じ取ったのか、
「貴女の選択と勇気に敬意を」
主教が左の親指を右手で握り、こちらへと頭を下げ、そして背中を向けた。
「さぁ、いらっしゃい。儀式を始めましょう」
窓から入ってきた光に、背中の透明な4枚の羽根がきらめいた。
迷宮世界
主教の背中を見ながら俺は歩いていた。
後ろからは最初に俺に声をかけてくれた司祭。いや、主教だから主祭になるのか?シスターは違うだろうしなぁ。
にしても前をいく彼女の身体は随分と小柄で、まるで少女にでも案内されているかのような不思議な気持ちになったのである。
勿論、この世界はファンタジーであるのだから、見た目と年が一致しないのであろうことは分かっている。何しろ種族が違うのだから。
「さて」
と、主教がきびっとした声で言った。
「着きました」
その場所は神々しいという雰囲気とは少し違っていた。
まずでかい地球儀のようなものが目に付く。壁にはどこかの地図――多分この世界のだろう――が張ってあり、床には二等辺三角形のような測量器具のようなものの図が描かれていた。
主教が足を進め、俺は後ろから着いていく。
彼女の小柄な身体を目線で追い越しつつ前を見れば、何かを置く台のようなものがあり、その四隅にはラミエルのような正八面体の石がどういう原理か宙に浮き、青く発光していた。
「少しお待ちを」
そう主教に言われ俺は立ち止まる。
彼女は先ほど俺が渡した腕時計をその台に置き、跪き、祈るように左親指を右手で掴んだ。
降る様な光がその場に満ち、次の瞬間その台にあった腕時計は姿形無く消えていた。
俺はその光景に感嘆し吐息を漏らした。
「ふふっ」
と、主教が子供のように笑った。
「随分とお喜びになられたようでした。これは少し後でお返しをしなくてはなりませんね」
その言葉には少し聞きたいところはあったのだけれど、そこで一つある感覚が襲ってきたのである。
「さて、貴女の番です。跪き、道を示さんと祈りを捧げるのです」
それはある種の緊張した雰囲気に身体が反応したのかもしれないし、ここに来る途中に飲んだアレが今更主張し始めたのかもしれない。
てか多分後者だ。
その声に、俺は躊躇いつつも、言った。とある感覚はさらに増してくる。
「すいません。本当に申し訳無いのですが」
「如何しましたか?」
主教が怪訝そうに言った。
「そのですね」
俺は言った。
「花摘みに行きたいのです」
「花摘み?」
怪訝そうな顔をしながら主教が言う。
む。ニュアンスは伝わらないのかとそんなことを思いつつ。
「その、つまり、トイレです」
と、俺は言った。
少ししんとした空気が流れ、
「……くっ」
と、どこか笑いを堪える声を聴き、俺は後ろを振り向いた。
「くっ……くく」
先ほどのどこかほんわかとした女の人だった。
「あはっ。あっはははははっ」
と、そこで無邪気で盛大な笑い声が起こり、俺は後ろを振り向いた。
主教様が無邪気に可愛らしく笑っておられました。
俺は少し顔を熱くしつつ、その姿を見る。
「ふふっ、ふふふふっ……ミュレン、ねぇミュレン! 案内して差し上げて。うふふふふふっ。な、何を言うかと思えば……あははははは。面白い人ね、貴女」
「えと」
俺は言いかけたが、何を言うべきか迷い、言葉を失う。
「ふ、ふふふふふ。ご、ごめんなっさいっ、えーじさん。あ、あの、こちらへ」
口をVの字に歪めながら彼女が言った。
「にしても花摘み。ふっふふふっ。花摘みね。随分と詩的な表現ね。私も使おうかしら」
そんな先ほどのキリッとした声とは違った無邪気な声を後ろに、俺はミュレンと呼ばれた柔らかな雰囲気の彼女の背中を追いかけた。
* * *
唐突であるが、何かしらの困難、あるいは壁のようなものにぶつかったことはあるだろうか?
俺も僅かではあるが、人生の壁というものにぶつかったことがある。
幾つかは乗り越えることが出来たが、幾つかからは回れ右をして諦めたこともある。
しかし今回のこれに関して言えば、避けては通れないことであった。
「……さて」
と、俺は呟いた。
「どうしたものか」
どうしたもこうもやることは一つなのだが、どうにもこうにも思い切ることが出来ないわけで。
ここはトイレである。
目の前には便座がある。
だが俺はその便座に腰を降ろすことを躊躇っていた。
しかし、こうしている間にもあの感覚が押し寄せてくるのである。
俺は諦めてズボンのベルトを緩め、チャックを開け、それから、……ああ。それからはいていたパンティを降ろし、便座に腰掛けた。
そして俺はそこでかつてないほどの虚無感というか遣る瀬無さを覚えたわけである。
つまりはおしっこである。
当たり前のことだが、俺が女性のおしっこの仕方など知っているわけが無い。
男の場合は長年そうだったわけなのだから分かっている。尿意と共にホースを手で持ち、目的のところに発射するだけでいい。
しかし、女性の場合はそうではない。
まじまじ自分の身体を見てみるのだが、ぷくっと膨らんだ豆のようなものには穴は開いていないし、そもそもどうやって出すのかさえわからない。
だがもはや俺の尿意は限界だった。
ままよっと俺はその尿意に従ったわけなのである。
そして……あ。と思ったときには何かが開くような感覚と共にシャーとおしっこを出すことが出来たのである!
俺はそこで少々感動を覚えた。何しろ初めての経験である。そこにはそこはかとない充足感が存在していたのだ。
そしておしっこが終わり、そんな充足感を得た後に感じた情けなさときたらなかった。
おしっこが終わり、パンティをあげようとして、そこで一つのことに気づいた。
再度言おう。男にはホースがある。だから不必要に撒き散らす心配は無い。しかし女性には無いのである。いやもしかしたら女性には女性のやり方があるかもしれない。
しかし、女になってしまって一日目の俺にはその方法はわからなかった。身体が覚えてるだとかそんなファンタジーの欠片は存在しなかった。
そのぐっしょりとした感覚を打ち消すために、俺は自分の尻ごと揺らして水気を切ろうとした。しかしどうにも不潔感がぬぐえない。
トイレの紙を探し、そして気づいた。
トイレの形は馴染みの深い、便座に腰掛けるタイプのトイレだった。だが、そこには文化のギャップというものは確かに存在していたのだ。
「紙が……無い?」
トイレットペーパーというものはそこには無かった。あるのは右についている小さな蛇口であり、その下にはその水を逃がすための排水溝があった。
成程。この水を手で掬い、綺麗にするのであろう。
そう気づき、俺はチョロチョロと水を出し、手で掬って股を洗浄し始めた。
そこまでは良かった。良くはないけどまぁ、いい。問題はその最中にあるものに手が触れた時である。
一瞬びくっと刺激のようなものが走って、それから何か勃起のようなあれを最小限に押し留めたようなそんな感覚を確かに股から感じたのだ。
俺は見た。
姿形はさっき見たときとはあまり変わっていなかったように思えたけれども、確かにそれは主張していたのである。それがわかってしまった。
俺は少し考えた後、人差し指でそれへとチョンと触れた。
「……あ」
ぞくっとした。それから俺は我に返って、尻を揺らして水気を切ると、そのままパンティを上げ、チャックを閉め、それからベルトをした。
奇妙な感覚が身体を駆け巡っていた。そしてあまりにも自分が変わってしまったことを自覚したのだ。
「あー……、あああうあうん!」
小さな声で奇声をあげ、気持ちを落ち着けようとした。
何かが終わってしまったような気がした……いやまぁ、これから始まるのだけど。
泣きそうに思いながらも、 俺は決意した。
絶対男に戻ってやるんだから―――っ!
もっともその直ぐ後で、何故か視界がぼやけるなぁと手を顔にやったら泣きそうじゃなくて泣いていたことに気づいたのだけれど。
後書き
この物語のテーマはTSと異世界と迷宮です。
だから最後のこれは必要なことだと思って書いて書き終わってからわたしはこう思いました。
わたしは何を書いているんだろう。