冷えきっている空気に出迎えられるのには慣れてきた。
後ろ手に閉めたドア一枚分隔てられているのに外と大差ない、この感覚に。
風はこの空虚さと等価なのだろうか。
そして、この問いを思い描いたのはいったい何度目になるのだろうか。
とうとう冬の始めなのに「慣れた」と感じてしまうようになったのだから……まぁ数えることじゃない。
「ただいま」
四文字の呟きは壁に吸い込まれていく。
行為は無駄。
けど、僕は家を家と定義することのできるこの瞬間が嫌いじゃなかった。
わずかに――ほんのわずかながら部屋に熱がこもったような気のしてくる儀式。
こんなことに頼らないとダメなのは末期だと思うのだが……今の、僕の今の家には必須となっている日課だった。
寂しい。
今日はキムチ鍋の元を安く買えた。
かさっと音を立てる袋を冷蔵庫の斜め横に置き、中身を詰め込んでいく。
2キロ780円の鶏むね肉は一つ一つ別の袋に小分けしながら冷凍庫に眠らせておくが、最後の一つは炊飯器の中に仕舞う。ああ、お湯は事前に沸しとけば良かったと思いながらフライパンに水を入れ火にかける。最近焦げやすかったのを買いかえたからついつい使ってしまい困る。そう、まったく困ることなく念じつつ炊飯器の釜にはキムチ鍋の素と塩を投入する。
ふと手の汚れが気になった。
血なのだろうか。鶏肉の袋の底に残った赤っぽい液体の臭いには嫌悪を覚えた。
たらたらと垂れていく流水に両手をさらしているとお湯は沸いた。だから炊飯器の鶏肉にぶっかける。
蓋を閉じた。このまま1時間ほど待っておいたら本日のメインは完成するだろう。
炊飯じゃなく保温機能を利用する低温調理。
と、ご飯を炊けないことに気付く。
この家に炊飯器は2個ないのだから当然炊けない。
冷凍庫を探ってみるけどご飯のタッパは見つからなかった。ということは台所下のスペースに格納されていることを意味している。
フライパンで、という手法はあるけどうかつなことにフライパンに合うサイズの蓋を買い忘れたからその手は使えない。
ただ一つの鍋はさつまいものシチューと共に冷蔵庫の中だ。充分に揃っていたはずの料理器具は自炊をするとともに減っていきこんな弊害を生み始めていた。悲しい。
前に作ったときはサバの味噌煮の炊き込みご飯のストックがあったから気にならなかった盲点に今度こそ困った。
まぁけどできあがったら鶏肉だけ皿に移して炊けばいいかと思いなおす。
鳥の油と辛味を吸ったスープごと炊いたらきっと美味しくなる。
それに1時間後炊けるのを待てないくらい空腹になっていたら鶏肉は食パンにはさんで食べればいい。料理の相性的にはよくないけどご飯で食べれるものでパンで食べれないものはそうはない。
味なんてどうだっていいのだ。
死ななければ。
生きてさえいるならば。
――なにを。
(なに、やっているのだろうか?)
料理と返ってくる自問に制服姿のまますることかと突っ込みを入れ、なんとなく倒れる。
僕を柔らかく受け止めてくれたベッド。そのベッドを褒め立てるように空気清浄機は反応し、起動し始める。
しわになってしまう、立ちあがってハンガーにかけろと脳は命じるのに体はだるく、横になったまま動くことはない。
疲れているのだろうか?
妙に気だるく。
無力。
このまま眠ってしまおうか――という囁きに耳を傾けたくなってくる。
都合のいいことに、自分は課題を提出期限ギリギリではなく貰った直後にやってしまう主義なのだ。
明日の朝七時までにやっておかなければならないことは何もない。
何もない。
だったらいいのではないだろうか。
このまま終わっても。
このまま終わっても。
炊飯器鶏は固くなってしまうのかもしれないが……いや、どうだろうか、むしろ柔らかくなるのだろうか。低温調理は一時間以上したことはないから判断がつかない。けど、食べられないことはないだろう。いくらなんでも炊飯器で雑菌が繁殖することはないだろうし。あるのか。あるのかな。たった一晩でもごはん以外は入れとかないほうがいいのかな。
思考のループは不意に途切れることになった。
――ッ!
それはきっと無音の断末魔。
(な……なに?)
まったく心当たりのない、音量としては最低レベルの異音を鼓膜が捉えたような捉えていないような――妙な感覚。
本来は気のせいだったということしたって何の差し支えもない異変。
なのにあくまで本能はがなりたてている――警戒せよ、と。
死ぬぞ、と。
殺られるぞ、と。
けど。
(別に )
――違和感の十秒後。
ようやく異常現象は目に見えるようになったらしく……信じられないことに、視界の隅にすっと滑り落ちていく家電製品の一部があった。
部屋の角に置かれているテレビの三分の一。
名義上の父から巻き上げてきたと自慢げに微笑んでいた思い出がある、当時は最新式だったデジタル対応のやつ。
そいつにディスプレイの左上から斜めに線が入っていて、ゆっくりから加速しつつ滑っていった。
で、DVDケースを薙ぎ倒しながら落ちていく。
わけがわからないので説明を求む。
どうやら僕の家のデジタルテレビは真っ二つに分割されたのだということはわかった。
けれど、その結果に至った過程をまったく理解できない。
因果を証明できはしない。
理不尽現象。
さらなる追い打ちとして本棚へ袈裟斬りのごとく切れ込みが入れられた。
視界の範囲内で引き起こされたというのにその線の刻まれていく瞬間を見てなお『原因』を把握できない。
ほぼ無音のままこんなことをできる道具を、武器を、兵器を、僕は知らないのだから。
おそらく工業用の機械にはこういったことをできるものはあるだろうけど、そんなものは室内に存在しているわけがない。
考えられるのは、漫画に出てくるような象くらい釣り下げられる強度の極細の糸で輪切りにされたとかだろうけど、切り口を見ると輪切りでもなかった。
背後の壁ごとってどうやったらそんなことできるのだろうか。
「もったいない。せっかく買い換えたばかりなのに……」
浮かんできたのはたんなる感想だった。
本という意外に重たくなる紙の集合体の重量を支える木材と分厚い辞書を丸ごと綺麗に裂いている断面を見て、呟く。
以前使っていた小型の棚は細かく分解するのに苦労したのにこれはないんじゃないかな。
ゴミを出すのにあんなに苦労したのは初めてだったのに。
三カ月前なら、不幸中の幸いを喜べたのに。
あれ?
今考えることはそうじゃない気がする。
原因を調べなきゃなんないのかな。
断面はどうなっているのかちょっと興味はあったけどこの位置からじゃ覗けなかった。
賃貸関係の契約を取り仕切っている会社に電話しなきゃダメなのかも。
リフォームとか、もう個人で対処していい範疇を超えている。
これはまとめて対処してもらわないとなんない。
ああ、壁一枚隔てた向こう側からなにやら慌てている隣の部屋に住む家族の声が聞こえてくる。
はっきりとは聞こえないけどどうやら部屋から脱出するということになったらしい。
逃げなきゃならないってのが正解なのかな。
きっと逃げるべきなんだ。
生きたいのなら。
そう思ったのにぐらりと体は傾いた。再度反応する空気清浄機。
息が荒い。体が重い。なんか汗をかいているような……それに熱だってあるかも。
(――風邪ひいているのか)
すとんと何かが落ちるように自覚できた。
だから。動けなくなってしまうのも仕方がないんじゃないだろうか?
いや、生を放棄するわけにはいかない。
そんなのはあの人の一生を貶めることになる行為だから。
僕は生き延びなければならない。
逃げなければ……逃げたら追ってこないだろうか。ああ、獣じゃないのか。体温計はどうしよう。体温は計らないとダメだ。最悪タクシー呼んで病院にいかないと。保険証はどこだっけ? 今倒壊していっている棚にあったっけ。危ないな。埃が……そうか逃げないとならないのか。でも、やっぱ寝ていたいや。
どうにかドアに手をかけたその瞬間。
足元の感触が――床が床たる感覚を失い、重力に従っていく様子をなんとなく感じながら僕の意識は途切れたのだった。
後書き:
デジタルテレビを壊したらどうなるのかは不明。
爆発や炎上はないと思いますけど、実際どうなるかなんてとてもテストできません。
だからデジタルテレビの中のどういうタイプなのかは書かなかったり。