才能、というものが確かにこの世界には存在する。
当たり前だ。
十に少し数えたぐらいの齢で、壮年の男を文字通り吹き飛ばせるだけの武が、努力によるものだとなどどの口が言うというのだ。
老齢の軍師がその知識と経験を総動員して必死に考え、指揮した軍隊を、その孫ほどの年齢の少女が容易く読み取り裏をかく現状が、才能以外の何によるものなのだ。
彼女達が彼らを覆すだけの努力を積んでいた?
ありえない。
数十年もの年月を数年、数ヶ月で乗り越えられるものを努力なんて呼びはしない。
それは、努力とは別のものだ。
故に断言しよう。
彼女達が強いのは、努力によるものではない。
無論、努力が全くなかったとはいえまい。
どれほど優れた宝玉とて、磨かなければ光らぬ、ということは確かに事実。
故に彼女らとて、勿論彼女らなりに努力はしたのであろう。
だがそれは、才なき者の努力とは全く意味を同じとしないものだ。
たった一撫ででそこらの石を数十年磨いても到底得られぬ輝きを放つ彼女らの努力、そんなものに認めるだけの価値はあるのか?
成功を約束された人間の行うほんの僅かな努力なぞ、才亡き者の絶望の上でのあがきの万の努力と同等に語る事など決してできはしまい。
結局彼女らが強く、美しいのは、生まれ持った才能がただ人より多かっただけなのだ。
他人より恵まれていたから強く、他の凡人どもが行った些細な努力なぞそれに微塵も及ばなかったからこそ彼女らはこの戦乱の世において無双が出来るのだ。
崇高な信念を持っているから今まで覇を唱える事が出来ていたのではない……元から強かったものが、『たまたま』そんな考えを持っていただけだ。
つまりこの世界は才能がすべて。
他のすべてを捨ててただひたすらに剣を振るった数十年の地道な努力も、飢えて老いてそれでも捨てられなかった気高い思想も、腐敗しきった現実との狭間で必死で持ち続けた崇高な理念も、すべては才の気紛れの前に屈する運命にある。
それこそが、この作られた外史の中での絶対の法則だった。
だからこそ彼女達は、戦場において凡人を殺す事が出来る。
彼女らの抱く理想が気高いから、信念が尊いからそれに反するものたちを理想達成までの必要な犠牲とすることを許されているのでは、絶対にない。
強いから、弱いものを踏みにじって自らの理想という『我』を通す事が世界に認められている、ただそれだけだ。
ならば彼女達も自問するべきであろう。
自分たちよりもさらに才有る者には、すべてを踏みにじる権利がある、という至極当然な力の論理が存在するかもしれないことを。
「これが曹操か……やっぱりこの世界は、どっかおかしいな。まあ、いいけどな」
己の虜囚となり、必死の抵抗をした挙句に今は眼前で疲労からか深い眠りに落ちている少女を見下ろしながら、男は呟いた。
齢は二十歳半ばを少し過ぎたぐらいであろうか。
黒髪に茶色の瞳、そして奇妙な衣服とその全身から常人ではないと主張しているこの男は、しかし世間で噂されているような天の御使いなどというものでは決してなかった。
なるほど、その男が語る異国の歴史、類稀なる知識、未来を知っているがごとき智謀、それは天から来たといわれてもおかしくはあるまい。
現に彼のことをよく知りもしない民草にとって見れば、彼のそれらの知識、そしてそれから自分たちにもたらされる利益を考えれば、天というものはまさに実在したと思っても無理はない。
だが、彼の直属の部下たちは、彼のことをそんな目で見る事は決してなかった。
彼自身がそんな高潔な印象とは程遠かったからだ。
酒食を好み、財を好み、民を税の元としか見ず、武を嫌う。
英傑と呼ばれるには足りぬそれらは、天ではなく妖魔の類ではないかと陰口が叩かれる方が似合っていた。
ただ、全体的に濁った雰囲気を漂わせている男であったが、唯一、その瞳だけがこの乱世ではそう珍しくもないそんなただ単に濁った印象を違えていた。
深い、深い黒を称えたその瞳は、もはや濁ったなどという言葉だけでは済まされない。
淀み、腐った沼の奥底の汚泥を捏ね回して作ったようなそこからは、その他のパーツからなる雰囲気とは桁違いの廃退感とそれに似合わぬ底知れぬ覇気を生じさせていた。
それは決して正の方向性としての雰囲気ではないし、初対面の人間に対して好感をもたれるようなものでも決してなかったが、同時に人をひきつけざるを得ない独特の雰囲気を持っており、それは魅力といってもいいものであった。
今まで、犯し、喰らい、殺し、飲み干してすべてを手に入れてきたその犯した罪に相応しいだけの経験は、間違いなく彼の影となり力となって相対したものを吸い込もうとしてくる。
そんな彼は、新たな戦利品を見て舌なめずりをする。
「とはいえ、英雄の名前を名乗ってはいてもこうやって俺の前で寝てるところを見ると、結局この子もただの女だってことなんだろうな」
つらつらと戯言を言う傍らにも、倒れた少女を嘗め回すかのごとき視線は止まらない。
いまだ幼いとはいえそれでもそれなりに出るところが出て、引っ込んでいるところは引っ込んでいるその肢体は、女性らしい丸みも十分称えていて自由自在に武器を振るうだけの筋力があるようには到底見えない。
だが、彼女の名は間違いなく曹操。
少なくともこの外史の中には彼女以外の何者も、曹操ではないし、現実に彼女はそれを名乗るだけの武も、知も、覇気も間違いなく持っていた。
「本物の曹操だったら、俺がこんなところにいるのもおかしいしな」
だが、それもすべては過去のもの。
この、中華すべてを統べようとし、その志に相応しいだけの力を持っていた彼女も、その双翼をもがれ、知略で負け、戦略で叩き潰され、部下を奪われ、己の愛人すら犯され、武器を取り上げられ、そしてすべてを奪われた今となっては、もはや単なる一少女でしかない。
そう、彼女はもはや、無力で美麗な籠の鳥。
気紛れに手折るも戯れに放すも自由自在で、精々飽きるまでは自分の手の中で美しく歌ってくれれば、それでいい。
その歌の中身が高潔であろうと下劣であろうと気にしないし、こちらに対して愛情を持とうが憎しみを持とうが見目さえよければ気にしない。
すでに何匹も囲われている中に増えた、新たなコレクション。
彼女を這い蹲らせた挙句に今じろじろと色に気ぶった瞳で見つめる男―――この外史の主にとって見れば、英傑として名高い曹操もそんな程度の存在でしかなかった。
群雄割拠するこの時代において、どの勢力からも畏怖とともに語られる彼の名前は北郷一刀。
この外史においては、別の歴史の彼よりもほんの少しだけ賢くて、ほんの少しだけ巡り合わせが違った、元平凡な一少年である。
一言で言うならば、運がよかった。
これだけだ。
中二病真っ盛りの彼がたまたま持っていたスタンガン、それによってこの世界に来た直後の襲撃を凌いだ彼は、一冊の本を手に入れることとなった。
「なんだこりゃ? えっと……太…平要術の書? って読むのか?」
彼の故郷であった現代日本における高等教育というものは、少々歪である。
受験、という事だけに特化してその後になれば微塵も使用する事もない知識をただただひたすらに詰め込んでいくそれをよいことだと思っている人間はそうはいないし、その反動としてゆとり教育だとか、新指導要綱など様々な取り組みがなされている。
とはいえ、それなりの大学に入って新卒の資格を得なければ、正社員として就職できる確率が五割前後でしかない時代において、その制度が間違っているからといって真っ向からはむかうというのもなかなか難しい。
生涯年収八千万という正社員の三分の一の給料で一生を過ごしたくなければ、やはり大学に入るまでの間にそれなりに勉強をしなければならないのだ。
それゆえ、本年めでたく18歳となった一刀もそれなりに受験勉強のためにひいひい言いながら勉強していたのであるが、突如異世界に飛ばされる羽目になったときにも、これが幸いしていた。
何がよかったのか、というと、学校において特に歴史とそれに付随するものとして国語における古典を得意としていた彼は、カナ交じりではない白文の漢文を、何とかある程度までは意訳できる程度の学力を有していたのだ。
「すごい、これはすごいぜ!」
ここ、後漢末期の時代における平均的な教養は決して高くない。
文字すら読めないものですら、珍しくない。
当たり前だ、高度な教育というのはそれを支えるだけの財―――教育機関中に一切生産せずに消費するだけの衣食住の確保があって始めて実現できるものである。
未だに原始的な農法がまかり通っており、交通・流通機関も決して発展しているとはいえないこの時代において、義務教育九年に高等教育三年という長期間、教育を受ける事が可能であるのは一部の特権階級のみであり、その彼らにしたところでそこまで時間を費やしてまで教育を受ける事はありえない。
それゆえ、この世界に来た北郷一刀は受験対策という歪んだものであったが、この世界においてもっとも知を蓄えたものの一人であったといってもいい。
例えば、「戦に最も大事なものは?」というもう今更各種創作で使い古された、それこそ現代日本であれば中学生であっても答えられるようなものとて、知らぬものからすれば自らが経験から感じ取るしかないのだ。
それを思えば、例えその知識を自力で開眼したものと比べれば劣るかもしれないが、それすら知らぬ下級の軍師、将軍、商人などと比べれば、遥かに彼は武・商・政のすべてに通じている。
そんな彼に、太平要術の書。
最も、この書は別に書かれていることがそれほどまで凄いのではない。
もしそうであるならば、別の歴史においては今まで学力というものとは一切縁がなかったと思われるしがない旅芸人一座の張角一味が、あそこまであっさりと、短期間で、黄巾党という一大勢力を手に入れることが出来るはずがない。
そこには、魔術的な力が働いていたと考えるのが自然であるし、事実それにはある種の妖術が掛かっていた。
神仙から授けられてたものであり、仙術を使いこなす術をのせているとも、病を治す符の作りかたが書いてあるとも言われるそれは、この世界においては稀代の人身掌握術や集団催眠術、それなりの戦術眼を持ち主に対して付与する妖術書である。
さすがにただの賊といった文字も読めぬような輩では使いこなせるかどうかは定かではないが、これはすでに一大勢力を築き、覇王と呼ばれるまでに曹操が成長する際に師にすらなった稀代の書なのだ。
そんな書が、それなりの学を持つ一刀の元へと来たのだ。
「馬鹿でも天下が取れる」ほどの書を手に入れて、天下を取る事を考えないものがいるだろうか?
一大勢力を自力で作れるだけの力を手に入れた者が、名前こそは「天の御使い」とよばれはしても誰かの御神輿となってただのお飾り、その実態として丁稚身分に甘んじようと思うだろうか。
現代日本において、得意の剣道も全国大会の花形選手になれるほどではなかった、学業においても東大京大はいうに及ばず、地方国立すら怪しい出来。
女の子にもてる訳でもなく、大金を持っているわけでもなかった。
かといって、食うに困っているわけでもなければ、誰かに暴力で持って従わされているわけでもない。
世を恨むほどの不遇を囲ったわけでも、身内を戦乱で失ったわけでもない。
どこまでも平凡、誰かに成り代わられたとしても何の問題もなく社会の歯車が回っていくであろう人物、北郷一刀に善になり悪になり明確なビジョンがあるわけではない。
天下を取って万人に平和をもたらしたい、だとか、人々の生活をよくしたい、この戦乱の時代を収めたい、などという理想を、この世界に来てまだ一刻もたっておらず、現実に虐げられた民草などというものを見ても聞いてもいない彼に抱け、というのは無理がある。
また、民から養われていたわけでもなく、その成長に際してこの国の一粒の米も入っていない彼に、今すぐ上に立つものとしての資質を求めるのも、また間違いであろう。
ならばその善悪は、過程によって容易にどちらにも染まってしまう。
高潔な理想を志し、現実を何とか変えられないかと奮闘しながら落とし所を探す義士の仲間となれば、それに同調しただろう。
現実を知り、その上で自分たちの手の届く範囲での最上の結果を求める君主に仕えれば、その「手の中の最上」を実現する為がむしゃらに働いたであろう。
自身の力を自負し、その力によって現実を更なるよい形に書き換えられると信じる覇王の傍にいれば、その者が全力を尽くせるように奮闘しただろう。
当然ながらそれは、逆方向にもいえる。
自身の高貴を自負して人を見下すものの傍にいれば『天』を鼻にかけるように、野生に生きる蛮族の傍であれば彼自身もまた野蛮に、血筋によってのみなる古びた王朝にであればいいように利用され、平々凡々な一地方領主の隣にいれば人畜無害に流されるまま生きてアッサリと死んだであろう。
そして、この世界においては一番初めに出会ったのが彼の命を奪わんと挑み、敗北した理想も信念も目的もない三人の匪賊と、彼らを従える事の出来る妖術書であったのだ。
それゆえ、自分で天下を取れる、という事だけを理解している今の彼にあるのは、配下の三人と同様のただの我欲。
旨い物を食べたい、便利なところに住みたい、人の上にたっていろいろとえらそうな事をしたい、尊敬の目で人から見られたい、褒められたい、称えられたい。
そして……いい女を抱きたい。
凡人ならば当然で、高潔な、万民に平和を求める世を目指すのであれば、上に立つものに決して許されないそれは。
この外史においては、力さえ、才さえあれば容易に実現できるものである。
初めの立つ位置から間違っていた彼は、こうして三国時代を模した外史の中に入り込みながらも、魏・呉・蜀のいずれにも属さず、一大勢力を築く事となる……ただ、その我欲を満たす為だけに。
太平要術の書と、彼自身の持つ彼だけのもう一つの武器を持って。