これは夢、暖かな日和のなか気持ちよくうたたねをしながら見るような、そんな優しい夢。
記憶の奥深くに眠る幼年期のやさしい思い出が作り出す、目を覚ませば忘れてしまうそんな夢。
その部屋は個人所有の船としては、不釣り合いなほど豪勢なつくりであった。
部屋いっぱいに敷かれた真紅のジュータン、何日分の洋服でもしまってしまえるような立派なタンス、そして大きなベッドには刺繍が入った真白なシーツがシワ一つなく敷かれていた。
部屋本来の主は外で話し込んでいる途中であったため、現在この部屋は主のたった一人の連れ合いである青い髪の小さな少女の占有するところにあった。
もっとも少女には占有を主張する気持ちなど微塵もなく、むしろこの沈黙と引き換えになるのならいつでもその占有権を譲り渡す気でいたのだった。
少女は広々とした部屋にひとりきりでいることに耐えきれない様子で、少女に与えられた、しかし少女の小さな体と比べるとあまりに大きな化粧台の前で、鏡に写る自身の虚像に話しかけたりもしていたのだった。
少女が健気な一人遊びにも飽きてきたころ、部屋の占有権は予想もない訪問者によって動かされたのだった。
階段を上る音を聞いた少女ははじめ、父が来たのだと思っていた。しかし、実際に現れたのは見たこともない、自分とそう変わらないであろう小さな黒髪の少年であった。
少女ははじめ見ず知らずの人物に対して警戒心を抱いたが、その考えはやがて消えうせていた。少年が豪華な部屋をキョロキョロといかにも興味深げに見まわしていたのを見ていると、その姿は好奇心にあふれた子供以外の何物にも見えなかったからだ。
しばらく視線をあちこちと忙しげに動かしていた少年だったが、やがて少女に気づくと早足に近づいてきた。
「ねぇ、どうしたの? げんきないね?」
少年の突然の問いに一瞬なにを言われているのか、少女には理解できなかった。やがてそれを理解すると、すこしムッとなった。なぜ見ず知らずの少年がいきなりなにを言い出すんだと思った少女は切り返して言った。
「あなたただあれ、ここで何をしているの?」
言った後には少女は少し口調が強すぎたと思いなおしていた。謝った言いなおそうかと考える少女だったが、そんな心境をよそに少年はニコニコと微笑んでいた。
「ぼく? ぼくはね、おとーさんといっしょにたびしてるんだ!」
そんな少年の態度に毒気を抜かれた少女は、少年の話に自分との共通点を見出した。この部屋の本来の主であり、今回の旅で少女の唯一の連れ合いは彼女の父親であった。つまり彼女も父との二人旅だった。
「わたしもお父さまといっしょにきたのよ」
少女の言葉に相槌をうった少年であったが、じっと少女を見つめるその表情には疑問の色が浮かんでいた。
少年は一回視線を左右に振ったあと、再び少女に視線を向けた。
「おてんきなのに、どーしておへやにいるの? 海みないの?」
突然の質問に少女は困惑した。船外に出ることはもちろんのこと、部屋からだって父か他の誰か大人の人がいなければ出てはいけないと言いつけられているからだ。
それに海を見るとはどういうことなのか、少女にはさっぱりわからなかった。これから長い船旅なのだから、海など見ようとしなくても目に入るものだ。それに、と少女は声にだしてつぶやいていた。
「海ってなんだかこわいもの」
少女のつぶやきに今度は少年が困ってしまった。少年には海の何がこわいのかがわからなかったのである。魔物かな?たしかに魔物はこわいけれど、船乗たちはだれもかれもみな強そうであったし、そのための護衛までがこの船にはいるではないか。少年は経験したことがないのだが、船乗りの話にきいた嵐というやつを怖がっているのだろうか?それにしたって、船乗りたちは危険ではあるが乗り越えられるものだと言っていたのだから。少年には少女が何を恐れているのかが、さっぱりわからなかった。
「海が? こわい? なにがこわいの?」
純粋にわからない風の少年の問いに、少女は答え窮していた。しどろもどろになりながらもなんとか答えを思いついていった。
「なにがって……、海ってとても広くて深いじゃない」
それに少年はさならる純粋さで対抗する。こうなると理屈などはあったものではなかったが、二人の子供の討論はますます激化していった。
「空だって、とってもひろくてたかいよ、空もこわいの?」
「それは……、空にはお水がないじゃない? だからおぼれないもの」
「海だって船があればおぼれないよ、それにすごくキレイでこわくなんかないよ!」
「海がキレイ?」
おもわず少女はつづやいていた。
少女にはにわかに信じられないことだった。今までだって何度も見てきている海に対して、そのような感想を抱いたことがなかったからだ。
少女のつぶやきを肯定と受け取った少年はやっと伝わったことを喜ぶように続けた。
「うん! とってもキレイだよ! 海だけじゃなくてみんなキレイなんだよ!」
「そうだ!」言うと少年は少女の手を取って船室後部の扉へと向かっっていく。突然の少年の行動に驚きされるがままに少女は引っ張られていた少女であったが、われに帰った少女は少年を引きとめた。
「だ、だめよ!」後部のドアは船尾のバルコニーに通じていた。少女はつねづね、その扉から勝手に船室外に出ないように父から言いつけられていたことを思い出したのだった。
少女の声に驚いた少年は手をつないだままの状態で振り返った。びっくりした表情のまま、まんまるに見開かれた目で少女の顔をじっと見つめた。ほんの一瞬だけ考えるように視線を動かすと、やがてにっこりと笑顔で言った。
「だいじょうぶだよ!」
根拠などないなのに自信にあふれた少年の言葉に、今度は少女があっ気にとられる番だった。その隙を見のがす少年ではない、目的のドアへとずんずんと歩み寄ると背伸びをしてドアノブをひねり押し開けた。
差し込む日差し、吹き込む潮風、流れ込む波音。開け放たれたドアから外界の情報が怒涛の勢いで押し寄せる。少女は小さく悲鳴をあげてぎゅっと瞼をとじて、これ以上の情報の侵入を防いだのだった。閉ざされた視覚の情報を補うためか、耳に響く波の音は先ほどよりも大きく、船の揺れもより大きなものに感じさせた。それはさながら、身体一つで海に投げ出されたような気持ちを少女にあたえた。
その時だった、驚いて瞼とともに力いっぱい握っていた少年の手がぎゅっと少女の手を握り返してきたのだった。その手から伝わってくるぬくもりを確かめるように、少女は瞼を開こうとした。しかし太陽はいまだまばゆく、少女の形のよい眉をしかめさせる。それでもゆっくりと、ゆっくりと開かれた少女の瞳の先にあったのは、さっきと変らない自信にあふれた少年の笑顔だった。
少年は少女の準備が整うのをじっと待っていた。やがてゆっくりと顔を上げた少女の顔をうれしそうに覗き込んだのたった、少年の持つ子供特有の無条件での気遣いと、相手の驚く顔を見たいという好奇心をこめて。
そして、少年は開け放たれた扉から敷居をまたいで日差しが踊るバルコニーへと踏み出した。
少年の手に引っ張られるように少女の白く透き通るような手も光の下に連れ出された。しかし、少女自身にはまだ迷いがあるのかうつむいてしまい、上目づかいに少年を伺うばかりだ。
少女の迷いを感じた少年は、視線をあちこちに呼ばして考えをめぐらせてみたが結局なにも浮かんでこなかったようで、一瞬だが困ったように空を見上げた。そして意を決したようすで再び、だが今度は語りかけるように笑顔で少女に行ったのだっ
た。
「だいじょうぶだよ」
その言葉が少女にどのような力を与えたのかは、少年にはわからないだろう。実際のところ少女にもハッキリとはわからなかったのだから。しかし、少女はその言葉を聞き、少年の笑顔を見て、一歩を踏み出したのだった。敷居のそとの外界へと向って。
一陣の風が吹き、少女の青い髪をそっと揺らした。
洋上のそれは潮を帯びて季節がらまだ肌さむい風だったが、先ほどまで緊張の中にいた少女にとっては心地よいものだった。
眼前に広がるのは空と海の青。少女の髪と似ているようでいづれとも違う青が、ずっとずっと交わることなく続いていた。その二つの青の中を鏡写しのように、つかずはなれず漂う雲と白波。そして、二つの青の境界線を示すように風にのる海鳥たち。少女の視界は一瞬にして、その光景に埋め尽くされていった。
少女がこのバルコニーに出たのはこれが初めてではない。以前にも父に連れられてここから海を眺めたことがある、そのハズなのに……。なぜ今こんなにも鮮やかに感じられるのだろうか。
少女は少年とつながれていない手を思慮深げに動かして、バルコニーに取り付けられた手すりへと預けた。ふと、手すりの間から下が見える。そこは船の影でできた薄闇で、打ち寄せる波もどこかよどんでいる風に見えた。そしてそれは少女にとって見覚えのある光景であった。
あの日、父に連れ出された自分は下を向いていた。さっきまで部屋にいた自分も下を向いていた。下を向いている自分には、暗くて深い海しか見えなかったのだ。
その考えにいたって少女はとなりに並ぶ少年を見ずにはいられなかった。
少年はこのどこまでも続くような空と海のさらにその先までを見つめるように、ますっぐな瞳をしていた。その瞳こそが、下を向いていた少女にこの景色を与えたのでった。
ふいに少年が少女の方に顔を向けた。自分に注がれていた視線に気づいた少年はまたあの笑顔をうかべた。
少年の笑顔につられた、少女の頬もほころぶ。花のような可憐な笑顔を浮かべて、鈴を転がすような声で。
「とてもキレイ……」
少年はそれを聞いてますますうれしくなったのか、弾けんばかりの笑顔でもってうなづいた。
「うん!」
緊張の失せた少女のとって、潮風はやや冷たいものとなった。少女はぬくもりを求めて少女の手を握る少年の手を、そっと握り返した。
空は青く、白い雲が羊の群れのように天高く漂っていて、
海は青く、白波が海面を泳ぐ蛇のように漂う。
中空を舞う海鳥たちは空と海の継ぎ目を探しているようだった。
まるで鏡に映る虚像のような海と空であるが、
それらは決して交わることのない似ていて非なるもの。
そのあり方はいつまでもかわることがないだろう。
その光景は少年と少女の記憶。もはや大人になった彼らにとってお朧げで、曖昧なものでしかない夢のようなものだ。しかし、心の奥には確かにこの光景は存在するのだった。握りしめた手のぬくもりとともに……。