地図で見ると、ハルケギニア大陸はスカンジナビア半島がないとか、イベリア半島に当たる部分がやたらに細いとか、イタリア半島に当たるアウソーニャ半島が太いとかいう細かな違いはあるが、欧州大陸と共通点が多い。
地球で言うとイギリスに当たるアルビオンの国土は、グレートブリテン島を15度ぐらい左に傾けたような形で、ハルケギニアの空に浮かんでいる。アルビオンのペンウィズ半島は実際のグレートブリテン島にあるペンウィズ半島と同じ場所にあり、南西部に飛び出している。アルビオンのペンウィズ半島には3本の大河(俗に三公爵と言われる)が流れており、川のもたらす豊富な水が、この半島を国内有数の穀倉地帯にしている。
プリマスから10リーグ(約10キロ)に位置するある村は、「三公爵」の一つ、ダブリン川の支流の川べりに位置している人口80人程度の小さな寒村である。
その寒村の村はずれに、一人の老人が住んでいた。
老人は手先が器用で、村では修理屋として重宝されていた。老人は老人で、こういったタイプに多い頑固で偏屈なタイプではなく、むしろいつまでも子供っぽいところのある性格で、子供におもちゃを作ってあげたりして、楽しく暮らしていた。
老人は「水車番」であった。村で取れた小麦を、水車を動力とする石臼で脱穀して袋に詰める。彼の仕事はそれだけではない。常に水につかっていることから傷みやすい水車は、日ごろからきめ細やかなメンテナンスが必要であり、老人の手先の器用さはそういった仕事で鍛えられたものであった。
ある日老人は考えた。
「水車の動力は、他にも使えるのではないか?」
おりしも、ヨーク大公家領が王家直轄領となった時期。村から数リーグはなれた草原が、王家直轄の牧場となった。村にも大量の羊毛が運び込まれた。新しい領主(ちじ、という名前らしい)が、羊毛から紡績糸に紡ぎだす作業を手伝うよう、領民に指示したのだ。無論、手当を弾んで。村は久しぶりの現金収入に沸いた。だが、来る日も来る日も糸車や糸巻き棒を使って、羊毛を紡ぐ作業に、さすがに飽きが来た。ましてや羊毛は次々に運び込まれ、まるで終わりが見えない。
「爺さん、なんとかならんか」
賃金はいいが、あまりにも大量な羊毛にうんざりした一人の男性が、老人に泣きついた。
二つ返事で了解した老人はある機械をつくった。水車を動力として、歯車をいくつも複雑に噛み合わせたそれは、これまで10人がかりで一頭の羊毛から紡ぎだしていた作業を、羊毛をセットするだけで出来るようにした。
村人はこぞってこの機械を利用した。すべての羊毛を紡績糸に仕上げると、老人に礼をつげて帰っていく。仕事が終われば機械には用はない。村人たちはワインを飲み、肉を食らい、久しぶりの豪華な食事に舌鼓をうった。
老人にとって、機械は手慰みに過ぎなかった。子供達が複雑に動く歯車に目を輝かせている様子を見ているだけで満足であった。
数週間後、老人は亡くなった。村は深い悲しみに包まれた。
そして新たに水車番となった若者が、この「ガラクタ」を持て余していた時、「彼ら」はやって来た・・・
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ハルケギニア~俺と嫁と時々息子~(蛙の子は蛙)
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『シュバルト商会』-トリステイン王国の東に国境を接するハノーヴァー王国。その王都ブレーメンに本店を持ち、ハルケギニア全土に支店を持つ大商会である。その影響力は「ハノーヴァーの影の王」と呼ばれるほどであり、国王ですらお忍びで金を借りに来るという。シュバルト商会の本店は、ブレーメンの中心街に位置する。外装こそ赤レンガの地味なものであったが、その実際の価値と、「国すら買える」という資産の全貌を知る者は、この世に一人しか存在しない。
アルベルト・シュバルト-シュバルト商会代表は、不機嫌であった。深夜寝ているところをたたき起こされれば、誰でも腹が立つ。だがアルベルトは、商売のチャンスというものが、出物腫れ物と同じように、時間と場所を選ばない事を知っていた。アルベルトをたたき起こしたのは、デヴィト・アルベルダ-ロンディニウム支店長にして、アルビオン国内でのシュバルト商会の全権を任せている男だ。風貌は「押しつぶされたヒキガエル」のようなものではあったが、小売店の店員でない限り、商売に顔は関係ない。だが
(寝起きにこの顔はつらいな)
デヴィトは顔を真っ赤にして興奮していた。鼻の穴を膨らませて呼吸する様は、オーガ鬼のようにも見える。眠気の為か、さしものアルベルトの明晰な頭脳もぼやけていた。だが、デヴィトが机の上に広げた図面を見ると、眠気は一気に吹き飛んだ。
「これは・・・」
***
アルベルトが睡眠を邪魔されるより1週間前。
「いや、間一髪でした」
ヘンリーの前でそういって肩をすくめるのは、トマス・スタンリー男爵。内務省で産業政策を担当していた彼は、専売所設置の際、ヘッセンブルグ伯(現ロンディニウム官僚養成学校学長)と共に、ブレーンとして参加。商会やギルドとの交渉でヘンリーを補佐し、特に木材専売所では王家出資比率5割を勝ち取った。交渉ごとでの駆け引きのうまさは、前世で商社に勤めていたヘンリーも一目置いている。
その彼を、旧ヨーク大公家領の財務調査官として派遣してのだが、まさかこんな拾い物をしてくるとは。ヘンリーはスタンリー男爵のほうを見もせずに、机に広げられた図面を食い入るように見ていた。そう、あの老人が作り上げた水力紡績機の図面である。
刈り取った羊毛を、綿織物に使えるようにする為には紡績糸にしなければならない。この作業がとにかく大変である。羊毛の様々な汚れを一つ一つ除去。綺麗になった羊毛を、手作業で加工するのだが、これが手間と時間がかかる。糸車や糸巻き棒で、切れないようにすこしづつ、すこしづつ紡ぎ出していく。大体、羊1頭の羊毛に、10人がかりで二日かかったその作業を、この機械はなんとたった3時間で終わらせてしまったのだ。報告書によると、動力は水車。心棒を中心に非常に細かな工夫が(歯車に秘密があるらしい)されており、途中で糸が切れることは殆どないという。
羊毛の納入が早いことを疑問に思った商人が、この紡績機を発見。木材専売所の関係でこの商人と付き合いがあったトマスは、いち早くその存在を知ることが出来たというわけだ。トマスは独断で、調査費用から流用する形で、商人や村人に「因果を含めさせ」た。旧ヨーク大公領の責任者であるロッキンガム公爵や、財務省は、この「独断専行」に激怒した。ヘンリーは報告書を読んで、鼻血を出さんばかりに興奮した。もちろん、その興奮は「怒り」ではなく「喜び」である。
「トマス!何が欲しい?金か、爵位か、それともチューしてやろうか?!」
蛙の子は蛙、キス魔の息子もキス魔であった。トマスは王子のハイテンションぶりに顔を引きつらせながら「遠慮します」とだけ言った。
ヘンリーの興奮もむべなるかな。これが普及すれば、革命的に綿織物の生産性が向上する。大量生産と大量消費-資本主義社会への扉がまさに今、この瞬間に開かれたのだ。
しかもハルケギニアの中でそれを知っていて、行動を起こせるのはこの俺だけ!
ヘンリーは、どれだけ厳罰化してもインサイダー取引がなくならない理由がわかった。お金が目的ではない。この麻薬の様な興奮は、何物にも変えがたい。この興奮を一度味わってしまうと、後戻りは出来ないだろう。
「その爺さんの名前は?」
「えーと、名前は忘れましたが、村ではジェニー爺さんと呼ばれていたそうで」
「ならこれの名前は「ジェニー」だ。ジェニー紡績機だ!」
ジェニー紡績機-のちにアルビオン産業革命の象徴となる機械は、こうして名づけられた。
***
「くそっ、遅かったか!」
アルベルト・シュバルトはロンディニウムのシュバルト商会支店の貴賓室で怒りを含んだ声を張り上げていた。デヴィトから報告を受けたアルベルトは、直ちに船をチャーターしてアルビオンに乗り込んだ。アルベルトには自ら陣頭指揮をとるだけの価値が、この図面にあることがわかっていた。
しかし時すでに遅かった。すでに村にはアルビオン政府の官僚が陣取っていて、他国人の、ましてや規模が大きいとはいえ、所詮は商人でしかないアルベルトが入り込む隙はなかった。他の商会に出し抜かれたのならともかく、まさか現地政府に先を越されるとは・・・アルベルトには予想外の事態であった。決して自らの行動が遅かったとは思わない。デヴィト支店長も、この図面と情報を得てから行動に移すまでの判断は、褒められこそすれ、決して責められるようなものではない。
アルビオン政府の行動が、早すぎたのだ。
自分の祖国であるハノーヴァー王国も、アルビオンのように迅速に動くことが出来れば、ヴィンドボナ総督ごときにでかい面をさせなかったものを・・・商会の利益が第1とはいえ、アルベルトにも人並みの愛国心はある。彼には祖国の鈍感さがもどかしかった。
千載一遇の商機を逃したことで、アルベルトが沈んだ気持ちで居ると、秘書のサニーが慌てた様子で飛び込んできた。
「か、会長!お、王宮から呼び出しが!」
「ほうっておけ」
ハノーバー王国のリューベック港は「安全性のため」夜間の出航を禁止している。安全性とは笑止千万、夜中に働きたくないだけだ。だがどんなにふざけた理由であろうと、規則は規則。普段のアルベルトなら、明日の朝まで待っただろう。だが今回は1分1秒でもおしかった-港の役人を脅して無理やり出航させた。もっとも、すべては無駄であったのだが。反則金払いを覚悟してまで行動しながら、なにも成果を上げられなかったという事実が、彼の思考を重く、沈んだものにしていた。
それがブレーメンの耳に入ったのだろう。王宮の馬鹿どもは、めずらしく商会が犯した違反を居丈高に取り上げて金をむしりとるつもりなのだ。まったく、そんな足の引っ張り合いばかりしておるから、ヴィンドボナの金貸しごときに遅れをとっているのが、まだわからんのか?自分が金融業を営んでいることを棚に上げたアルベルトの思考は、サニーによって再び遮られた。
「ブレーメンではありません!」
「何だと?」
「ろ、ろ、ロンディニウムの王宮からです!!」
(・・・つめの垢でももらって帰るか)
秘薬だとか何とか言って、ブレーメンの王宮に献上してやろう。少しは馬鹿がましになるだろうから・・・
*
「・・・というわけです。殿下、足でも結構ですからいただけませんかな?」
「は、ははは・・・」
ヘンリーは引きつった笑みを浮かべた。突拍子もないことを言って相手の調子を乱し、交渉を有利にするのがシュバルト商会のやり方なのか?始祖でもない彼に、アルベルトがわりと本気で言っていたことがわかるはずもない。
「ま、まぁ、その、つめの垢はさすがに・・・な。腹でも壊されたら困る」
「ならばこの図面の紡績機をいただきたい」
懐から取り出した図面に、ヘンリーの顔がこわばる。
「・・・それは出来ん相談だ。あれはわが国の平民が開発したもの。その権利はすべてわが国にある」
「そのような法律を、いつ制定されたのですか?」
ヘンリーは言葉に詰まる。本や絵画ならともかく、機械に関しては著作権の「ち」すら存在しないハルケギニアでは、アルベルトの言うことが正論である。
アルベルトはここぞとばかりに攻め立てた。法を犯してまでアルビオンに赴いたのだ。ただでは帰れない。彼は得意の交渉術で、この苦境の打開を図ろうと考えていた。デヴィトは「あの王子には注意なさってください」と言っていたが、所詮は王族。王宮でぬくぬく育った王族の相手など楽なものだ。
だがアルベルトはその考えは甘かったことをすぐに思い知らされることになる。
「王子はご存じないかもしれませんが・・・図面があれば、すくなくとも再現は出来ます」
「・・・その図面はどこから?」
「言うと思いますか?」
ミリーが紅茶を持ってきた。カップを持つ手が震えている。部屋に漂う張りつめた空気におびえているのだ。このメイドには悪いが、今はそんなことを気にしている余裕はアルベルトにはなかった。
「パンはパン屋、刀は鍛冶屋、戦争は軍人と相場は決まっております。失礼ながら、殿下がこの機械を手に入れたとして、それを十分に活用できるとは思えません。わが商会に任せていただければ、利益の一部をアルビオン政府にお渡しすることをお約束します」
「・・・」
王子は押し黙り、目を瞑って腕組みをした。
よし、後一押し。王子の反応に手ごたえを感じたアルベルトは身を乗り出す。
「わが商会として
「・・・シュバルト商会はいろいろ手広くやっていると聞いている」
「は?」
突話題を変えた王子の意図が分からずに、素っ頓狂な声を出すアルベルト。
「うちの羊毛も扱っているそうだな」
・・・なんだと?
「ワインに、硝石、建材・・・いろいろと助かっている」
「・・・っ!」
しまった!
アルベルトは自らがマンティコアの尻尾を踏んだことを悟った。
アルビオン王家経営の大規模な羊の放牧は、どの商会にとっても魅力的である。質のいいアルビオンの羊毛を大量に仕入れるためにしのぎを削り、血反を吐く思いでシュバルト商会も受注に成功した。羊毛の取引停止だけでも、商会にとっては大打撃だ。だが、それだけで済むはずがない。シュバルト商会は各国政府とも幅広く取引を行っている。羊毛紙・紙・ペンなどの消耗品に始まり、食料品に建材、はては武具に至るまで-王子はその発注を「他の商会にまわしてもいいんだぞ」と、脅迫しているのだ。
アルベルトの顔から血の気が引いた。
アルビオン政府からの発注停止-アルビオンだけなら、対した損害ではない。問題はそれによって発生するであろう風評被害だ。仮にアルビオンが「注文した商品に重大な欠陥が存在した」と発表したらどうなるか?右に倣えで、各国政府もシュバルト商会との取引を敬遠するだろう。
一番怖いのは、アルビオンが「何も言わない」事だ。
シュバルト商会とアルビオンに何があったのか?取引上のトラブルか?それとも・・・噂は噂を呼び、それが次第に「事実」となる。信用こそ命綱の紹介にとって、アルビオンの沈黙は今までシュバルト商会が築き上げた信用のすべてを容易に失わせることを意味していた。
自分の間抜けさに腹が立つ。せっせと自分の首を絞める縄を、目の前の王子に編んでやっていたのだ。
愕然として力なく椅子に座り込んだアルベルト。最早何をしても手遅れ-死刑執行を待つ囚人の気分だ。ヘンリーは、「縄」に手をかけた状態で、アルベルトに歩み寄って肩を叩いた。
「時に相談があるんだがね」
力なく顔を上げたアルベルト。
そこには、いっそ清々しいぐらいのあくどい笑みを浮かべたヘンリーがいた・・・