人は見た目が大事だというが、9割だと見も蓋もない。
「15からは自分の顔に責任を持て」という言葉がある。14とも、20からとも言うらしいが、ともかくある一定の年齢に達すれば、そこから先は自分の生き方が顔に出るという。真面目な人間は真面目な顔に、卑怯者は卑怯者の顔に、胆力のあるものは腹の据わった顔に。
初対面の人物に、第一印象で抱くイメージというのは、よほどの観察力の持ち主でない限り、容易に覆る。だが、「生理的に合うか合わないか」という点に関しては、外れない場合が多い。
一説によると、人は初対面の人間に二分で飽きるらしい。逆説的に言えば、最初の二分は、集中して相手を観察しているということ。好きか嫌いか、得か損か-突き詰めれば「敵か味方か」なのだが、それを見分けるために、五感を総動員して、相手を観察する。
カリーヌ・デジレ・ド・マイヤールが、アルビオン王弟ヘンリーに抱いた第一印象は、少なくとも、悪いものではなかった。
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ハルケギニア~俺と嫁と時々息子~(交差する夕食会)
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夕食会は、マリアンヌ王女が、ヘンリー夫妻を招待するという形式で行われた。主賓はもちろんヘンリーと、その妻キャサリン。ヘンリーと向かい合うようにマリアンヌが位置し、その横に同席を許されたカリーヌ。そして当然のごとくリッシュモンが腰掛けている。リッシュモンとは会議冒頭から何度も顔をあわせているので、すでに顔なじみといっていい。ヘンリーはマリアンヌに手を伸ばして握手を求めた。
「お久しぶりですね。マリアンヌ妃殿下。ヨハネス19世の即位式以来ですか」
「えぇ、6年ぶりです。ヘンリー殿下もお元気そうで」
ヘンリーとマリアンヌは、以前一度だけ対面したことがある。ロマリア教皇の即位式は、ハルケギニアの各王族がそろって参加する。教皇に敬意を表する・・・というのは建前で、王族の顔合わせや、首脳間外交の場として利用されていた(当のロマリアも、新教徒の勃興で衰えつつある教会の権威や影響力を誇示するために、むしろそれを推進している面もある)。当然、ヘンリーとマリアンヌも参加していたのだが、顔合わせをする人物が多く、時間も限られていたため、挨拶をした程度にとどまっていた。そのため、今回の夕食会が、初めての会談といっていい。
「ははは、元気だけが取り柄です・・・それではさっそくですが」
「えぇ、交渉の進展についてはリッシュモンから「何を食べさせていただけるのですかな?」・・・は?」
何かの冗談かと思って見返したが、ヘンリー殿下は、いたって真面目な顔をしていた(目だけは期待に輝いていたが)。ふと、目線を横にやると、キャサリン公女も同じような目をしている。
マリアンヌはその目の輝きに覚えがあった。自分の使い魔の犬が、おやつをおねだりする時の目と同じなのだ。見えないはずの尻尾が、パタパタと触れているのが見える気がする
まぁ、すぐその理由に思い至ったわけだが。
(((・・・あぁ、そうか。この人たちはアルビオン人だったんだ)))
マリアンヌは、あいまいな笑みを浮かべながら、鈴を鳴らして、料理を持ってくるように命じた。
食事というのは、一種の「物差し」である。毎日必ず、最低でも一回は行う動作には、知らず知らずのうちに癖がついているものだ。それを利用して、まず初対面の人物に食事を供応して、相手の器量を測るということは、昔から行われてきた。貴族が魔法を使う以上にあたりまえのことだから、食事を綺麗に食べることが出来ない人物は、軽くあつかわれる。
悲しいかな、典型的な貧乏貴族に育ったカリーヌは、食べれる時に食べるという習慣が、未だに抜けないでいる。「ご飯は美味しく、楽しく食べるもの」という家に育った彼女にとって、いちいち口をぬぐってワインを飲むだの、フォークの上げ下げの角度などは「どうでもいいじゃん!」。そんな彼女も、ピエールに「人に不快な思いをさせないのがマナー」といわれると、反論できなかった。(マナーの由来を延々と語られるのにつき合わされるのが嫌だったということもあるが)
だが、解ったこともある。マリアンヌにお相伴して、多くの貴族と食事を共にしたが、名門といわれる貴族であっても、食べ方が汚い人物は多かった。マナーとやらは完璧だが、何故か嫌な感じを人に与える人物は、いけ好かない根性の持ち主であることが多い。
その点、ピエールは(以下ノロケのため省略)
ヘンリー殿下の食事風景は、こういう表現が妥当かどうかはわからないが「気持ちがいい食べっぷり」である。マナーは完璧だが、それ以上に「おいしそう」なのだ。マリアンヌ王女と会話を交わしながらも、その手が止まることはない。そして口に入れた途端、この世の全ての喜びの感情を凝縮されたような笑顔を浮かべられる。見ているこちらもなんだか嬉しくなる。
「うん・・・おいしい。おいしい・・・おいしい」
アルビオンへ訪問経験のあるリッシュモンは、ヘンリーの「おいしい」に、涙を誘われた。
色々と思うところもあるマリアンヌだが、すぐに自分の立場を思い出して、同盟国への、感謝の言葉を口にした。
「アルビオンには、先の停戦合意の仲介交渉でも、また今回の会議開催にもご尽力頂きました。トリステインを代表してお礼申し上げます」
「同盟国として当然のことをしたまでです」
そのつもりがあるのかどうかは解らないが、リッシュモンには、ヘンリーの言葉が、ガリアの軍事力に怯えて、日和見を決め込んだハノーヴァー王国への皮肉に聞こえた。
「ですがまだお礼を言われる段階ではありません。何より、会議の先行き自体が不透明ですからね」
口をぬぐい、リッシュモンに視線を向ける。
「所詮我らは仲介者にすぎません。入ってくる情報も限られます・・・聞くところによると、交渉は平行線との事。エルコール・コンサルヴィ枢機卿は決裂もありうると憂いておられました」
「坊主は悩むのが仕事ですからな。神から与えられた試練を乗り越えてこそ、真の信仰が得られるといいます」
人を食ったような外務卿の言葉に、ヘンリーは苦笑するしかない。
カリーヌはそんなリッシュモンを苦々しく思っていた。生理的に、こういうもったいぶった言い回しが苦手なのだ。頭をかきむしりたくなる思いをこらえながら、平気な顔をして聞いているヘンリーや、次第にそうしたやり取りに慣れていくマリアンヌを見ていると、やはり王族というのは、自分達とは違う世界の生き物だという思いを禁じ得ない。
「神ではなく、人の起こした不始末の尻拭いだと思うのですが?」
「見解の相違はよくあることです。我らにとって『太陽王』は天災以外の何物でもありません」
ヘンリーは、今度は笑わなかった。
これで、口の横にソースがついていなければ完璧だったのだが・・・
「正直なところ、どうなのですか?交渉の当事者として、率直な感触をお聞きし・・・な、なんだキャサリン?」
「・・・ついてるわよ」
キャサリンにソースを拭いてもらうヘンリー。威厳も何もあったものではない。言葉に表現できない、むず痒い空気が漂う中、そうしたことにトンと縁のないマリアンヌは、内心(いいなぁ)と羨望の眼差しを送っていたが、リッシュモンの咳払いに、慌てて居住まいを正す。
「このまま行けば、決裂は間違いありませんな」
かすかに残っていた妙な空気は、その一言で吹き飛んだ。
***
講和会議は、トリステインとガリア双方の提示した条約案の突合せから始まった。仲介交渉にあたったロマリアやアルビオンは「国内の意思統一にさえ手間取った両国が、果たしてまともな条約案が出せるのか?」と、心配していたが、トリステインの条約案を見て安心し、ガリアの条約案を見て、頭を抱えた。
トリステイン案(リッシュモン案)は、5つのポイントから成り立っていた。
①国交の回復と同時に、国境線を開戦前の実効支配地によって決定する。
②開戦前に結んでいた通商条約を再度締結(通商の再開)
③謝罪を要求するが、賠償は要求しない。
④両国共に軍備制限は設けない。
⑤両国の緩衝地帯として、クルデンホルフ大公家を「大公国」として独立させる。
③の謝罪は、賠償を要求しない点で、真剣に求めていないことは明らかである。本気で謝罪を求めるつもりなら、賠償を盛り込んで、条件闘争を行うはずだ。国境線の決定の仕方にしても、通商の再開にしても「完全な被害国」と言っていいトリステインが出した条約案とは思えないほど、現実に即した解決策であり、このまま成案としてもおかしくないほどの完成度であった。
当然、トリステイン国内では、セダン会戦で戦死者を出した貴族や兵士の遺族、家や財産を失った平民を中心に「ガリアに対して譲歩し過ぎだ」という反発も出たが、大方はこれを「仕方なし」と、半ば諦めながら受け入れていた。無論、心から得心して受け入れたわけではない。だが、大国意識の塊であるガリアに対して、謝罪と賠償を求め続ける無意味さは、長年隣国として付き合わざるを得なかったトリステインは、よくわかっていた。むしろ、さっさと講和を結んで通商を再開したいという、実利的な考えが、1年という冷却期間を経てこの国を諦めという感情に落ち着かせたのだ。
それに引き換え、ガリアの条約案は「講和を結ぶ考えがないのではないか」と、温厚な性格で知られるロマリアのエルコール・コンサルヴィ枢機卿が、色を成して、ガリアのポンポンヌ外務卿に食いかかったというぐらいであるから、相当なものであった。
①開戦前に結んでいた通商条約の再度締結(通商の再開)
②トリステインの謝罪と賠償
③ラグドリアン湖畔を初めとした領土の割譲
④トリステインの軍備制限(国境より10リーグの城と要塞の破却など)
さすがのリッシュモンも、しばらく何もいえなかったという。②は、殴っておいて「手が痛いじゃないか」と言いがかりをつけているに等しい。最初に最大限の要求を提示して、条件闘争を行うのが外交交渉の定石とはいえ、いくらなんでもこれは・・・と、会議に参加した各国は眉を顰め、トリステインは激怒した。これではどちらが最初に殴ったのかわからない。
これはひとえに、ガリア側の事情に原因があった。先々代の国王シャルル11世から始まった中央集権化は、先代のロペスピエール3世の治世下の下で、国王個人への権限集中化という形をとって現れた。それに反対する、又は異議を唱えた大公家や大貴族は、理由をつけて改易、または領地を削減されて、牙を抜かれた。だが、そのロペスピエール3世が突如崩御すると、中枢部に権力の空白が生まれた。独裁者の死後、主導権を握るために、暗闘が始まるのは、歴史が証明している。むしろロペスピエール3世という強烈な個性(キャラクター)に依存していた面の大きいガリアの中央集権化が、その死を境にして揺らぎだしたのは、当然ともいえた。
現国王のシャルル12世は45歳と働き盛りだが、その基盤は余りにも貧弱である。太陽王は死の当日まで権力を手放さず、30年にも及んだ王太子時代、国政には殆ど干渉を許されず、グラン・トロワでくすぶっていたためだ。突然国王となったシャルルは、リュテイスで孤立していた。だが、官僚機構も、軍部も、封臣議会も、ましてやパンネヴィル宰相を筆頭とする行政府も、手をこまねいているという点では同じである。新国王の統治の方針や考え方が解らない段階で、また次にヴェルサイテルの主導権を握る人物や勢力がはっきりしない中で、政治的アクションを起こす事は、リスクが高すぎる。誰だってモルモットにはなりたくないのだ。
各勢力が、互いに牽制しあいながらの暗闘が続く中、政治的緊張の原因となったのは、新国王の「側近集団」を自称する勢力であった。官僚集団や行政府との接触が許されなかった王太子時代のシャルルの下には、ロペスピエール3世に不満を持つもの、または排斥された外戚や大公家などが集まり、自然と側近集団を成した。(こうした行為が、父王の怒りを誘い、国政から遠ざけられる一因となったのだが、シャルルからすれば「じゃあ、他に誰と話せというのだ」と反発。それがまた父王の怒りをかうという、悪循環に陥った)
即位後のシャルルは、王太子時代の側近を遠ざけた。国王の中央集権体制を望まない彼らを側におく危険性に、今更ながら気がついたのだ。だが、他に頼れるものも知るものもいないシャルルは、一部の侍従や側近を、彼らに頼らざるを得なかった。彼らの登用は、必然的にパンネヴィル宰相を初めとする行政府や官僚機構を刺激した。
そうした中で、当面の政治課題となったトリステインの講和は、当然のごとく各勢力の意見主張が入り乱れた。
ガリアは、巨大な戦艦が、急に方向転換が出来ないように、突発的事態に関しての反応が遅れがちであった。ハルケギニア一の人口と領土が、かえって自分の首を絞めていたのだ。先々代のシャルル11世の時代から始まった中央集権化は、そうした意思決定の遅れを、国王への権限集中で解決しようとしたものである。だが、今の国王シャルル12世の権力基盤が定まっていない状況では、中途半端な中央集権化が、誰も責任を取らないという政治的無責任を許すことになり、以前にもまして、意思決定が混乱した。百家争鳴、それぞれが、それぞれの立場で言いたい事を言い合う状況では、まとまるはずがなかった。
駐ガリア大使からの情報を元に、ガリア側の事情を(ヘンリーというより、マリアンヌに解説するような調子であったが)説明し終えたリッシュモンは、関心するように言う。
「そうした状況下で、国内を、一応は『講和』で一本化したのですからな。シャルル陛下は、なかなかの手腕の持ち主のようです」
自分の父ではなく、相手を褒めるような外務卿に、内心、面白くないマリアンヌが異議を挟んだ。
「ですが、あの内容では、本当に講和を望んでおられるのかどうか。まるでわが国をわざと怒らせて、会議がつぶれるのを望んでおられるような条文ではありませんか?」
「おそれながらマリアンヌ様、それは違います」
外務卿の言葉の意味がわからず、首をかしげるマリアンヌ。
「・・・どういうことです?」
「表に出ていることは単純のようで、単純ではないのです。ガリアの条案だけをみれば、一見強硬論に見えます。しかし、物事とは『何を言ったか』ではなく『何をしようとしているのか』が大事なのです。言葉や言動ではなく、相手の意図-真意を汲み取ることが」
急に説教臭い調子になった老臣に、何も今、ヘンリー殿下の目の前で言わなくてもという感情的反発を覚えたマリアンヌだが、この老人の言いたいことぐらいは解かる。だが彼女がそれを言う前に、鴨のステーキを口に運んでいるヘンリーが答えた。
「考えうるだけの強硬論を、シャルル陛下自らが唱えることにより、国内の講和反対派の声を掻き消してしまおうというわけですか」
「いかにも。そしてこれはシャルル陛下の真意が『講和』にあるという事の、何よりもの証明になります」
「最初から講和を結ぶつもりでなければ、そのような政治的行動を起こす必要もありませんからね。このままずるずると、現状を追認すればいいわけですから。もっとも、それは貴国にとって、望ましいことではないでしょうが」
ヘンリーの言葉に頷くリッシュモン。そんな老臣の態度がますますマリアンヌの感情を逆なでする。自分を子ども扱いする老臣も、先を越された形のヘンリーも見る事が出来ないでいると、ふと、自分に向けられている視線に気が付いた。
(キャサリン公女?)
他ならぬ主賓のヘンリー王子夫人であるキャサリン公女が、自分に露骨な視線を向けていることに、マリアンヌは戸惑った。観察するとか、そういったレベルのものではない。それこそ、全身をなめるように、こちらをじっとりと見据えている。一度意識すると、気が付かないことができるほど、柔な視線ではなかった。
蛇が獲物を見据えるように、狼が、群れからはぐれる羊を見定めるように、一種の殺気すら感じさせるような眼差しを向けられる覚えのないマリアンヌは、ただただ困惑するしかない。
だからといって、自分から視線をそらすのは、なにかこう、女として負けた気がする(何の勝ち負けかはわからないが)。マリアンヌは失礼にならない程度に、微笑みながら視線を返す。
すると、キャサリン公女は、スッと視線をそらした。
(勝った)
「・・ンヌ様?マリアンヌ様?」
「は、はい?!」
勝利の余韻に浸りながら心の中でガッツポーズをしていたため、急に話を振られたマリアンヌは素っ頓狂な声を出してしまった。
「大丈夫ですか?」
「い、いえ、なんでもないです。大丈夫です、ヘンリー殿下」
「ならいいのですが・・・」
怪訝な顔をするヘンリーに、慌てながら言い訳をする王女。これが「あなたの嫁さんのせいよ!」と言えたらとも考えるが、妙な対抗意識を燃やした自分にも責任があるため、マリアンヌは、その愉快なアイデアを没にするしかなかった。
特に気に留めることでもなかったのか、ヘンリーはすぐに話題を戻す。
「完全決裂ということはないだろうと私も見ています。クルデンホルフ条項-大公家の独立は、ガリアにとっても望ましいでしょうから」
「・・・耳がお早いですな」
「蛇の道は蛇ですよ」
シュバルト商会の事は伏せながら、独自の諜報組織があるかのように臭わせるヘンリー。同盟国といえども、すべてを明らかにする必要はない。
ロペスピエール3世崩御後、ガリアが停戦に応じた背景に、トリステインに属するクルデンホルフ大公家が、領内の金融業者を通じて、停戦に応じるようプレッシャーをかけていた事は、市場では周知の事実であった。クルデンホルフ大公領に本店を持つ金融業者は、その匿名性と堅実な融資姿勢から「クルデンホルフ銀行」と信頼性が高く、商会だけではなく、王侯貴族も密かにリュクサンブールに足を運んでいた。その中には当然、ガリアの貴族も含まれている。領地経営に行き詰った貴族達は領地や年貢を担保に、当座の運転資金を借りて、なんとか破産を免れていた。金融機関からの融資が、生命線となっていた彼らにとって、大公家からの圧力は、封建貴族の頂点であるはずの「太陽王」よりも恐ろしかったのだ。
ガリアにとって、クルデンホルフ大公家が、このままトリステインに属するより、名目上でも独立させたほうがいいに決まっている。問題はトリステインだ。なぜ貴重な外交カードである「クルデンホルフ大公」を、何故切り離すような条項を入れたのか?
「本当ならば、手放したくはないのですが・・・」
そう言うマリアンヌの眉間に皴が寄っている。自分たちの力ではなく、金融業者の圧力によって停戦が成立したということは、この古い王国の王族たる彼女の自尊心をいたく傷つけたことは、想像に難くない。
「ハインリヒ大公を見ていると、さすがに旧東フランク領で生き残ってきた家系の御当主だという思いに駆られます。古のザクセン「豪胆王」オットー1世や、ハノーヴァーのグスタフ2世も、あのような人物だったのでしょうね」
昨日、夕食会で顔を合わせたハインリヒ・ゲルリッツ・フォン・クルデンホルフ大公の、物静かな顔を思い浮かべるヘンリー。鼻眼鏡をかけて書類に目を通す姿は、哲学者か聖職者を思わせる白髪の紳士が、「金を信仰している」と陰口をたたかれる人物と、同一人物だとは、どうしても思えない。だが、実際に、この初老の大公が、ガリアとトリステインが疲弊したラグドリアン戦争の中、ただ一人だけ利益を-長年の悲願である独立を果たそうとしているのは、紛れもない事実であった。
ワインを忙しなく口に運ぶヘンリーの言葉には答えず、リッシュモンが口を開く。
「いつ戦場になるかわからないところでは、安心して商売ができませんからな。特に政治リスクの高い王侯貴族への貸し出しを行っている『クルデンホルフ銀行』としては、リュクサンブールがいつ戦場になるかわからないという地政学的リスクまで抱え込んでは、金貸し共も、おちおち寝てもいられないでしょう」
いつも感情を交えることのない老外務卿の言葉尻に、やりきれない思いが混じっていた。
「あの大公家は最初からそれを考えていたのでしょうかな?リュクサンブールに金貸し共を呼び込んで、誰も手出しができないような状況を作り上げる-まったく、とんでもない大公様です」
カリーヌは、初めてリッシュモンの意見に同意した。あのセダン会戦を経験したものにとって、クルデンホルフ大公家だけが利益を得る現状は、とてもではないが納得の出来るものではなかった。(祖国の地と犠牲の上に、自分たちだけが・・・)言葉には出さなくとも、それが、多くのトリステイン貴族の共通した考えであった。
「国境に『大公家』という緩衝地帯が出来る事は、わが国にとって、悪い話では・・・むしろ、いい話なのは間違いありません。ですが・・・」
言葉を濁すリッシュモン。
ヘンリーはデザートのチーズケーキを頬張りながら唸った。
「『太陽王』様々ですか・・・やり切れませんな」
ブルーベリーソースを下あごにつけたその姿に、威厳などあるはずもなかった事は、言うまでもない。