アウソーニャ(半島)は、何であんな形をしてるのか、知っているか?
ありゃな、大聖堂のクソ坊主どもに、自分の罪深さを認識させるためさ
理由?地図を見てみりゃわかるだろうよ・・・ほら。親指を下に向けているように見えるだろう?
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ハルケギニア~俺と嫁と時々息子~(正直者の枢機卿)
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少年は得意げにこの小話を語る叔父に、温厚な性質の彼にしては珍しく、血相を変えて食いかかった。ハルケギニアに生を受けたものは、誰しもが一度は「光の国」の首都ロマリアへの憧れを抱く。「始祖の眠る地で、教皇聖下と神官たちの指導の下、敬虔なるブリミル教徒たちが、自らを慎み、幸せに暮らしている」-そんな「理想郷」が、この世界に存在していると。彼もそれを信じていたからこそ、それを茶化すような叔父の言動が許せなかったのだ。
叔父は「お前は正直者だな」と言って笑った。
「正直者」の少年は、成長するにつれて(自分の周りの狭い世界ではあるが)現実を経験し、そんな理想郷は存在しないであろうことを、誰に教えられたというわけでもなく悟った。「光の国」ロマリア連合皇国も、この世界に幾つもある国の一つにしか過ぎないと。
宗教庁は、各国に跨る組織という性格上、連合皇国を構成する王国や都市の出身でなくとも、優秀であれば出世の道が開かれている。「自分こそは未来の教皇」という野心を燃やす者、純粋に信仰心から聖職者を志す者、教会の現状に不満を持ち、自分が変えるという改革の志を持つ者、果ては「でもしか」司祭に至るまで-多くの若者が、こぞってロマリアを目指した。その中に、理想郷への想いを捨てきれない「正直者」もいた。
それから40年近い年月が経ち、「正直者」の青年-エルコール・コンサルヴィ枢機卿は、ラグドリアン戦争講和会議に、ロマリア連合皇国の使節団を率いて参加していた。
***
予定の五日間を越えてもなお、終わりの見えない講和会議。ラグドリアン湖畔には「丁寧な罵り合い」の場所として、いくつもの仮設テントが設営されていた。テントが一つ設営されるたびに、モンモランシ伯爵は、波ひとつたたない湖面に向かって、ひたすら頭を下げている。(役目とはいえ、気の毒なことだ)と、真面目で気の弱そうな伯爵に同情しながら、枢機卿のみが着用を許される真紅の衣とマントを身に纏ったエルコールは、ロマリア使節団に割り当てられたテントの一つに、客人を迎え入れていた。
「アルビオン王国財務卿のシェルバーンです。お噂はかねがね」
「エルコール・コンサルヴィです」
差し出した手を握り返したエルコールは、シェルバーン伯爵の、野太い声と体格に似合った、太い指と肉厚な手のひらの感触を確かめながら、彼の隣に所在なさげに立つ初老の貴族に視線をやった。
「枢機卿、こちらは」
「存じております。ようこそいらっしゃいました、ハッランド侯爵」
トリステインの国境を跨いで以来、初めて自分に向けられた歓迎の言葉に、ハノーヴァー王国外務大臣のベルティル・ハッランド侯爵は、一瞬顔をほころばせたが、すぐに顔を引き締めた。
「ベルティ・ハッランドです。お忙しい中、時間を割いて頂きましたことを・・・」
「まずはお掛けください」
「立ち話もなんですから」と椅子を勧めるエルコール。緊張を顔に貼り付けたハッランドは、ぎこちなく一礼して、勧められた椅子に座った。エルコール・コンサルヴィ枢機卿といえば、現教皇ヨハネス19世の右腕として知られ、ガリア国内の8つの教区を統括する司教枢機卿。教会の権威が衰えたとはいえ、ハノーヴァー王国の閣僚の首の一つや二つ、簡単に吹き飛ばせるだけの影響力があった。むしろそんな大物を前にして、微塵も緊張した態度を見せないシェルバーンのほうが変なのだが、彼の場合、年がら年中その言動に頭を抱えざるをえない王弟の言動によって鍛えられていた。「アレ」と仕事をすれば、大抵のことには驚かなくなるものだ。
(その点に関しては、あの王子様に感謝するべきなのかね)と、シェルバーンが埒も無い事を考えていると、緊張で顔を強張らせたハッランド侯爵が意を決したように、本題を切り出した。
「単刀直入に申し上げます。トリステインと我が国の新政権との、橋渡しをお願いいたしたく・・・」
仲介したシェルバーンは当然だが、エルコールの顔にも、予想出来た内容に驚きはなかった。ハッランド自身も、思うところは多いのだろう。机の上で組んだ手を、忙しなく組み替えている。
「お恥ずかしい話ですが、我が国には単独でザクセンに立ち向かうだけの力はありません。トリステインに頼るしかないのです」
「人の窮状は見て見ぬふりをしながら、自分の時は助けて欲しいというわけですか」
言葉に詰まるハッランド。淡々とした口調で、事実を告げられるのは「恥知らず」と罵られるよりも、この貴族の胸を突き刺した。唯一の救いは、エルコールの視線に非難するような気配が感じられないことだが、それはこの枢機卿に仲介交渉を行う気がないからではないかという不安を、ハッランドに感じさせた。
こつこつと机を指で叩きながら、エルコールは尋ねる。
「・・・この話を私のところに持ってきた理由をお聞かせいただけますかな?」
「まさか告解にこられたわけでもありますまい」と言いながら、こちらを見据える枢機卿の眼差しは、聖職者というより、報告書と証拠資料を丹念に読みこんだ上で、判決文を考える裁判官を思わせた。納得するまではどのような決断も仲介もしないという姿勢に、ハッランドはハンカチで汗をぬぐいながら、直球でぶつかるしかないということを再度認識した。手持ちのカードは無いに等しい。まな板の上の魚である自分が出来ることは、おとなしく裁かれることだけだ。
「枢機卿の、ロマリアのお力をお借りしたいのです。トリステインの貴族は熱心なブリミル教徒が多いと聞きます・・・教皇聖下の右腕と言われる枢機卿の言葉が欲しいのです。枢機卿の口利きとあらば、トリステインとて耳を傾けざるを得ないでしょう」
「・・・かえって『英雄王』の自尊心を逆なでする事になるのではありませんか?」
「枢機卿ならば、そのあたりを上手くやっていただけるものと確信いたしております」
あまりに露骨な要望に、エルコールは苦笑した。正直は美徳だが、欲に正直では困る。だが、嫌いではない。言葉を飾りたがるロマリア人に辟易していたガリア人のエルコールには、この初老の侯爵の率直さが好ましく思えた。それだけハノーヴァーがなりふり構ってはいられない状況にあるのだろうが、それも合わせて考えると、ハッランドの立場には、同情を覚えないわけではない。
ハルケギニアでは「国旗」と王家の紋章はイコールである。王権は、始祖から王家に与えられ、その王家が国を治める。実際がどうあれ、名目上、国家は王家の私有財産という格好。そのため、国家の象徴たる国旗は、王家の紋章と同じとみなされるというわけだ。
ハノーヴァー王家は、金の盾に3頭の王冠をかぶった青いライオンを紋章とする。それぞれ「自由・不屈・真実」を意味するライオンの威信は、ラグドリアン戦争で、大きく傷ついた。
ブリミル暦2998年、東フランク最後の国王-バシレイオス14世が暗殺されたのをきっかけに、東フランク王国は崩壊。ゲルマン人を巡る対立や、元々の王権が脆弱だったこともあり、バシレイオス14世の伯父アルブレヒト大公が、王都ドレスデンで王位継承を宣言したものの、杖の忠誠を誓うものは、殆どいなかった。何百もの諸侯が独立を宣言した旧東フランクは、およそ1000年にも及ぶ戦乱と干渉戦争を経て、いくつかの王国と都市連合に再編される。その中でもザクセン王国(アルブレヒト大公の子孫)と並んで、勢力を振るったのが、ハノーヴァー王国のオルデンブルグ家だ。
オルデンブルグ家は、元々東フランクに幾つもある侯爵家の一つでしかなかった。だが、この家は代々子宝に恵まれる回数が、よその家よりも多いという特徴があった。歴代の当主は、婚姻関係や養子縁組を活用して、国内での勢力を拡大。ブリミル暦2998年の王国崩壊の際には、王国領は何百もの諸侯に分裂したが、オルデンブルグ家はその殆どに相続権利を持っていた。極め付きはハノーヴァー初代国王グスタフ・アドルフ1世(2950-3030)が、つシレイオス14世の岳父であったという事。東フランクの後継を名乗る権利は、十分にあった。婚姻政策を活用して周辺諸侯領を次々に併呑。グスタフ2世(3201-3290)の時代には、ザクセン「豪胆王」オットー1世(3250-3303)と旧東フランク地域を二分するまでに成長した。
だがその内実は、王家の婚姻関係で結びついただけの、緩やかな同君連合王国とでも言うべきものであった。一度下り坂になると、諸侯は次々と離反・独立。元々、戦が得意な家でもないオルデンブルグ家に、軍事力で国家をまとめるという考え方も、武力も存在しなかった。
この事態に、ハノーヴァーは西と北の2つの勢力と結ぶことで、勢力の維持を図った
ハノーヴァーから見て西に国境を接するトリステイン王国は、東フランク王国崩壊以降、旧東フランク領への進出を狙い、ハノーヴァーとも何度も衝突した経緯がある。ハノーヴァーは、このトリステインと軍事同盟を結ぶ事によって、ザクセン王国の軍事力と対抗した。トリステインとしても、「旧東フランクの盟主であるハノーヴァーを助ける」という大義名分と、オルデンブルグ家の縁戚関係を利用するために、積極的に同盟関係を喧伝した。ブリミル暦4500年代にトリステインが東方進出を諦めた後も、この同盟関係は、現在に至るまで続いている。ハノーヴァーが、国土防衛のためにトリステインの軍事力が欠かせないという環境は変わらず、トリステインも、東の守りとしてハノーヴァーを位置付けた。
ラグドリアン戦争では、ハノーヴァーは、その長年の同盟国を見捨てる決断を下した。ガリアの大軍の前に、国家存亡の危機に瀕したトリステインからの、度重なる援軍要請にも耳を貸さず、それどころか、ブレーメン(ハノーヴァー王都)の王政府は、トリステインとの国境を閉鎖して物資を断った。
ロペスピエール3世の死により、からくも生き延びたトリステインと、ハノーヴァーとの関係は、当然の如く冷え込んだ。ハノーヴァーは「トリステインが滅びるだろう」という目論見が外れたことに頭を抱え、ザクセンの脅威に怯えることになる。
特に後者、ザクセンの脅威は、ハノーヴァーにとっては、抜き差しならぬ問題であった。ザクセン初代国王アルブレヒト1世(2950-3002)が、東フランク王を宣言した際、ハノーヴァーの初代国王、グスタフ・アドルフ1世が真っ先に異論を唱えて以来、両国は文字通り「不倶戴天の敵」であった。同じ旧東フランクに領地を持つ王国でありながら、ザクセンは武人肌、ハノーヴァーは文人肌と、とかく気が合わないのだ。無論、すぐに攻めかかってくるということはないだろうが、それでもザクセンからすれば、今は千載一遇のチャンスである。いつエルベ川を、ヴェティン王家の紋章をつけた軍勢が越えてくるかもしれないという状況に変わりは無い。
この事態に、ハノーヴァーは青くなってトリステインとの関係修復に乗り出した。東にザクセン、西にトリステインを抱えることが出来るほど、ハノーヴァーには余裕はない。だが、ここ一番の肝心なときに見捨てられたと感じたトリステインが、ハノーヴァーに向ける視線は、嫌悪感を通り越して、軽蔑の感情に満ちていた。この講和会議を利用して、少しでも関係を修復したいと考えていたハノーヴァーだったが、取り付く島もないトリステインの反応に、困り果てた。万策尽きたハノーヴァー使節団は、ハッランド外相の発案で、ロマリアを頼ることを考えたというわけである。
「・・・枢機卿のお口添えがいただけないかという次第でして」
台所事情を、文字通り苦しい顔で語り終えたハッランド侯爵は、目の前の枢機卿の様子を伺った。エルコールは、最初と同じように口元に笑みを浮かべていたが、僅かに細めている目の奥には、何の感情も読み取れなかった。一体、自分はどう見られているのか。愚かなピエロか、それとも・・・
エルコールは視線をハッランドからそらし、この仲介交渉を自分のところに持ち込んできた当人に向ける。交渉が成立したわけでもないのに、ドッと肩の力が抜けるのを、ハッランドは感じた。
「シェルバーン卿。アルビオンも同じ考えと見てよろしいのですか」
シェルバーンは、つるりとそり上げた頭を撫でながら「そう考えていただいて結構です」と、口を開く。
「ご存知の通り、我が国は空中国家であります。大陸の拠点たるトリステインが不安定になることは、国家の存立に関わります」
「トリステインではなく、ラ・ロシェールが気になるのではありませんか?」
「中継港が欲しいのだろう」という、生の本音をぶつけてくるエルコールに、シェルバーンは苦笑を漏らなしがら、肩をすくめる。
「港だけあっても仕方がないのです。風石を初めとする航海に必要な物資を補給するためには、ある程度の規模の国家や都市の後ろ盾が必要なのです」
アルビオンにとって、ハノーヴァーとトリステインとの関係悪化は、他人事ではない。アルビオンから大陸に向けて出港する船や、逆にアルビオンに向かう船は、トリステイン南部の港湾都市ラ・ロシェールに立ち寄る。得にアルビオンに向かう商船は、この山岳の港町で補給を受けなければ、航海すらままならないのだ。
地上3000メイルという高度に浮かんでいるアルビオンは、過去何度もガリアやトリステインの大軍の侵攻を受けたが、そのたびに退けてきた。その大きな要因が、侵攻軍の兵士を襲った「空中病」である。船乗りの間では古くから知られていたこの病は、船の高度を急激に上げた場合に発生する。頭痛や眩暈、吐き気に始まり、手足のむくみ・睡眠障害や運動機能の低下と症状が悪化。少なからぬ兵士が命を落とした。
アルビオンの平民は、これを「風の精霊がアルビオンを守っているのだ」として喜んだが、風のメイジたちは「空中病」が、上空と地上の空気が違うことによって発生することに気が付いていた。風のメイジがいれば、船全体に空気の幕を張り、上昇の速度に合わせて外の空気との差を調整させて、フルスピードで自由に船を動かすことが出来る。だが、風メイジ全体の数が限られており、船団全体をカバーすることが出来ない。結果、侵攻軍は、船の速度を落として高度を少しづつ上げていくしかなく、それが作戦の幅を狭めた。
アルビオン王立空軍は、これらすべてが追い風となった。元々高高度の空気には慣れている上、メイジ人口は少ないが、風のメイジの割合は多い。数こそ少ないが、自由自在に船を動かすアルビオン空軍は、数は多いが動きは鈍い侵攻軍と互角か、それ以上の戦いを見せた。
閑話休題。
軍船なら風メイジを乗せることが出来るが、商船となるとそうはいかない。高度を少しずつ上げると、使用する風石も増加する。航海に必要な食料品や医薬品の積み込みなど、補給が必要となる。アルビオンに一番近いラ・ロシェール港が「玄関港」と呼ばれる所以だ。
アルビオンとトリステインの同盟関係は、アルビオンから申し込んだものである。幾ら精強な空軍を持つとはいえ、資源も少なく、大陸に拠点を持たない国は根無し草でしかないことを、白の国はよく知っていた。ラ・ロシェールを持つトリステインと、過去の遺恨はあろうとも、関係を結ぶ道を、アルビオンは選択した。ラグドリアン戦争では、そのトリステインの存続が危ぶまれ、ハノーヴァーとは違った意味で、ロンディニウムは頭を抱えた。ガリアがトリステインを抑えれば、ラ・ロシェールの使用権がどうなるかは解らない。だからといって、アルビオンが加勢したところで、大陸1の陸軍を有するガリアに、トリステインが勝つとも思えない。
ジレンマの中、アルビオンは陰ながらの軍事物資支援活動を行うことでお茶を濁した。後でガリアに抗議を受けても「知らぬ存ぜぬ」をきめ込むつもりで。それでも、日和見を決め込んだハノーヴァーよりも、旗幟を鮮明にしただけ、トリステイン首脳部は、飛び上がらんばかりに喜んだ。苦しいときの情けは、何よりも身にしみるのだ。
エルコールは、目の前の二人の人物が背負う国家の対照的な現状に、運命の皮肉を感じざるをえなかった。もしロペスピエール3世の死が、1ヶ月でも遅れていれば、両者の-両国の運命は正反対となっていただろう。それを考えると、ハノーヴァーの選択を愚かだと笑うことは「正直者」の彼には出来なかった。
「なるほど、白の国の意図は承りました」
ほっとしたような表情を浮かべるハッランドだが、次の瞬間、再び顔を強張らせる。
「それで、何故わがロマリアが、その尻拭いを手伝わなければならないのですか?」
確かに、ロマリアがラグドリアンに出張ってきたのは、ガリアとトリステインの講和を仲介するため。トリステインやハノーヴァーの仲介をするためではない。仲介とは、下手をすると、両国からの批判を浴びる危険性がある。安易に譲歩を求めれば「相手国に肩入れしている」と、痛くない腹を探られかねないからだ。今回の講和会議でも、ロマリアやアルビオンは、条約の交渉に関しては、当事者同志に任せて、口を出すことを控えている。
わざわざ火中の栗を拾う義理が、どうしてロマリアにあるのか?動揺するハッランドに対して、シェルバーンは慌てる様子がない。事前に、こうなるであろうという事を、ある王弟から聞かされていたためである。そして、その際にどう返せばいいかと言うことも、事前に打ち合わせ済みであった。
「ジャコバイトに関して、我が国はトリステインへの申し入れを行いました」
その言葉に、エルコールが机を叩く指を一瞬止める。
ジャコバイト-反アルビオン王家を掲げる新教徒の集団が、トリステインの南西部アングル地方(ダングルテール)に拠点を築いているという情報を、ロマリア教皇大使ヌシャーテル伯爵から得たアルビオンは、トリステインに善処を求めた。その内容が「強制改宗や追放といった強硬手段を伴わない」という条件付のものであることは、エルコールはすでに聞き及んでいる。
「新教徒対策を求めるという、貴国の義理にお付き合いをしたのです。祈祷書には「借りは返すべし」という言葉があったと思いますが・・・」
身を乗り出して、シェルバーンは続ける。エルコールの目には、シェルバーン財務卿と、その後ろにいるアルビオン王弟の顔がかぶさって見えた。
「「今度はロマリアの『誠意』を見せていただきたいのです」」
エルコールは目頭をつまみながら、ため息をつく。もう一度顔を上げたとき、彼の顔には、歪んだ笑みが張り付いていた。
「・・・まんざら、馬鹿というわけでもないようですな」
馬鹿という言葉に、驚くハッランド。そして言われた当人であるはずのシェルバーンは、怒りもせずに、むしろ笑っているのが、彼の疑問を深める。何故、シェルバーンが、枢機卿が笑っているのか、ハッランドに解るはずがなかった。
さも愉快だといわんばかりに、シェルバーンは、その評価を口にした。
「私も未だに分かりません、アレが馬鹿なのか、そうでないのか」
***
結論から言うと、エルコール・コンサルヴィ枢機卿は、仲介交渉役を引き受けた。会議終了後、枢機卿はその足でトリスタニアを訪問。両国の関係維持によってもたらされるトリステイン側の利益を-おもにトリステイン側に説いて、ハノーヴァーとの軍事同盟の維持をとりつけることに成功する。水の国がハノーヴァーに抱いた不信感が消えたわけではない。だが「唇亡びて歯寒し」、トリステインとしても、東の守りであるハノーヴァーとの関係改善は必要であり、ブレーメンからの、そしてエルコールからの申し入れは渡りに船だった。
「トリステインは伝統的に西南の-ガリアに対する防衛を重視してきた。ハノーヴァーのために、東に新たに要塞や城を築く事は、あの国の財政では耐えられまい。ましてやそのためにガリアの正面の軍勢を割くことはあり得ない。本末転倒というものだ」
部屋に戻ったエルコールは、服を緩めながら、ソファーに腰掛けた。急ごしらえで建てたのにもかかわらず、造りに粗いところは感じられない。トリステインがこの会議にかける意気込みが感じられる。深紅のマントを脱いで、秘書に渡しながら、エルコールは「独り言」を続ける。
「トリステインは焦らしているのだ。ハノーヴァーが頭を下げただけでは、国内感情も納得しないが、それだけが目的ではない。トリステインが求めているのが何か-わかるか?」
質問と同時に、観察するような視線を傍らに立つ秘書官に投げかけるエルコール。先ほどまでの「独り言」は、すべからく、この秘書官を教育するためのものであった。
本当のところを言えば、この秘書のような仕事をしている彼は、正規の秘書官ではない。しかも司祭でも助祭でもなく、ロマリアのナザレン神学校の一学生でしかない。
彼は美しかった。見るものが誰しも息をのみ、振り返らずにはいられない容貌の持ち主である彼は、多くのお誘いを受けたが「神と民に仕える神官になる」という決意は、微塵も揺らぐことはなかった。もっとも、彼の容貌が、エルコールが彼をわざわざ身の回りを世話をするために選んだこととは、何の関係もない。古くからの知り合いであるナザレン神学校のヴィンセンシオ・ア・パウロ学長から「ヨハネス枢機卿以来の秀才」とされる彼を「鍛えてやってくれ」と託されたのだ。
目つきの鋭さが、その容貌を損なっていたが、そんなことを気にする性格でもない彼は、しばらくの沈黙の後、すぐに答えを出した。
「同盟関係を、トリステイン主導という形に位置付けるということですか」
確かに、この神学生は優秀だった。1を教えれば2を知り、2を知れば3を答え、10を聞けば、0の概念について尋ねてくる。そんな教えがいのある生徒を、生の教材を基に鍛えることが出来るとあれば、エルコールの頬も緩むというものだ。
「そうだ。ハノーヴァーは『対等の関係』を盾にして出兵を拒否したからな。負い目もあるこの機会を利用して、上下関係をはっきりさせておきたいのだ。ハノーヴァーの弱兵といえども、トリステインと合わせればそれなりの兵力になる。ゲルマニアやガリアへの防衛作戦も立てやすくなる」
「・・・ブレーメンがそれで納得しますか?軍の指揮権をトリスタニアに握られることに」
「何、文民政府とやらは、その日が平穏に過ごせればいいのだ。主権がどうのこうのは、ザクセンからの脅威が和らぐとあれば、議会の大半は納得する。納得しなければ、今までの通りにザクセンに怯える日々に戻るとあれば、反対派も受け入れざるをえまい」
ハルケギニアではガリアやアルビオンにも議会は存在するが、ハノーヴァー王国議会は、他国とは比べ物にならないほど、政治に及ぼす影響は大きい。確かにアルビオンでは、サウスゴータ太守領などの一部の地方自治体レベルなら、議会に政治の実権があるが、国政レベルで議会に実権があるのは、ハノーヴァーぐらいのものである。
ブリミル歴5000年頃、ザクセンとの戦いで、エルベ川東の領地割譲に追い込まれたグスタフ20世(4970-5010)の権威が失墜したことを契機に、貴族層が政治の実権を王家から奪い取り、議会に移譲させたのが、そもそもの始まりである。綺羅星のごとき家系図を誇りながらも、結局は「始祖ブリミルの子孫」ではなく、諸侯の代表として国を治めていたにすぎないオルデンブルグ家は、王家でいるためには、それを受け入れるしかなかった。王権は制限されたが、完全に制限されたわけでもないため、首相の決定や閣僚の選任で、ある程度の意思を表すことは認められており、その時の政治状況により国王、議会、内閣と三者の間でパワーバランスのシーソーゲームが繰り広げられていた。
ラグドリアン戦争では、国王クリスチャン12世は、トリステインへの援軍を出すことを主張したが、閣僚や。議会の大多数から反対されると、受け入れざるを得なかった。これで、ロペスピエール3世の死があと1月遅れていれば、ハノーヴァーは、今のアルビオンのような立場にいたはずだが、実際にはそうはならなかった。
「だからといって、クリスチャン12世陛下の判断が正しかったとはいえない。あの時の客観的な状況から判断すれば、行政府や議会の判断は、それなりに筋の通ったものだ。今それを批判したところで、それは所詮、結果論にすぎない」
「・・・王権の制限は、望ましくないということですか」
「そうとも言えない。ロペスピエール3世の死後、ハノーヴァーはすぐにウィルヘルム首相以下の閣僚を辞任させた。一種の人身御供だな。これが国王に権限が集中するようなガリアなら、閣僚の辞任カードなど、まるで効果を成さない」
「首のすげ替えがきくというわけですか」
露骨な物言いに、エルコールは苦笑した。
「まぁ、そういうことだな。失政のたびに国王のすげ替えをやっていては、王家の-ひいては国家の威信を損なう危険性がある。閣僚なら、その点が緩和される・・・もっとも、あまり頻繁に挿げ替えると、こちらも威信を傷つけかねないが。ともかく嫌われているなら対処のし様があるが、軽蔑されるとどうにもならん」
「『神は侮るべき者にあらず。人のまく所は、その刈る所とならん』ですか?」
「祈祷書第6章の7節だな。どうやら君にはユーモアのセンスもあるようだ」
笑いかけたエルコールに、ニコりともせずに、その言葉を受け流す秘書官。どうやら、そのように受け取られるのは心外だったらしい。だが、仏頂面をしているのは、それだけが理由ではないようだ。
「納得できんか?」
「はい。ハノーヴァーのトリステイン感情はそれほど悪いものではなく、むしろ良好だったと聞きます。確かにあの時の情勢として、トリステインを切り捨てる選択が、あながち間違っていたとは思えません・・・ですが」
「何かね?遠慮せずにいたまえ」
「・・・ハノーヴァー議会では、ほとんど反対論が出なかったそうです。ガリアに怯えたといえばそれまでですが、ハノーヴァーの貴族が全員腰抜けだというだけでは、どうにも納得がいかないのです」
(ほう・・・)
エルコールは、この神学生の政治的センスに感嘆した。今の疑問は単なる秀才では出てこない。人というものを僅かながらも知っているからこそ、出てくる疑問だ。
「・・・君は北に行ったことがあるかね」
「いえ。自分はアウソーニャ半島から出たことは」
答えに興味はなかったのか、エルコールは最後まで聞かずに切りだした。
「北部都市同盟-聞いたことぐらいはあるだろう?」
北部都市同盟。文字通り、ハルケギニア北東部の都市による経済同盟である。旧東フランク王国時代は、王家の直轄都市であったが、王国崩壊後、それぞれが自由都市を宣言して、経済同盟を組んだのは始まりである。各都市の間に上下関係は存在しない緩やかな同盟だったが、ハノーヴァーやザクセンの侵攻にさらされ、次第に政治・軍事連合としての役割を増している。キール、リューベック、ハンブルク、スモレンスクなどが知られており、ハノーヴァーの王都ブレーメンも、かつてはこの都市同盟の一翼を担っていた。
秘書官は首をかしげた。それくらいは神学生である自分でも知っている。だが、それがどうしたというのだ?
「・・・現実というのは、必ずしも書物に書かれている事だけとは限らんのだ。特に、自分にとって外聞を憚ることは、正直には書かない」
エルコールは一つしわぶきをしてから続けた。
「ハノーヴァーの王権は議会に握られているが、経済は北部都市同盟に握られているのだよ」
その言葉に、秘書である神学生は、初めて「驚き」という感情を見せた。
「し、しかし、ブレーメンに本店を持つシュバルト商会などは、独自に販路を広げていると聞きますが・・・」
「大陸有数の大商会といえども、所詮は一商会にすぎない。都市をまたがった経済同盟にかなうわけがない。特にブレーメンは、元々が同盟の一員だけあって、同盟の影響力は強いのだ。そして、貴族が貴族らしく生活をするには金がいる。年々苦しくなる領地経営には商人の力がいる」
再びしわぶきをしてから、エルコールは目の前の神学生を見据えた。
「ハノーヴァーは議会が治め、議会は北部都市同盟の顔色をうかがっておるのだ。今回のハノーヴァーの『失策』は、彼らのミスではない。北部都市同盟の失点なのだ」
金の力で国を動かす商人どもの目論見が外れたと知った時、エルコールは「正直者」らしく、素直に喜んだ。
やはり神はいるのだと。
エルコールが、そう考えることができるようになるまで、十数年かかった。目の前の神学生が、自分とは反対に、社会や世の中のありように対して、若い正義感を燃やすことを、否定するつもりはない。ただ年長者として、またかつて自分も同じ思いに駆られた身として、まんじりともせず、その美しい顔の眉間に、深いしわを刻みながら考え込む彼に、助言することぐらいはするつもりだ。
「わかっただろう。書物だけがすべてではない。自分の足で歩き、目で見て、手で触れなければわからない事が、この世にはあるのだ。多くの神学生は、それを任地で、手痛い経験で知るが、君は同級生より早く知っただけの話だ」
「はい・・・」
「書物の知識は確かに大切だ。だが、それだけにとらわれるな・・・無論、自分の経験にもとらわれてはいけない。要は、自由であることだな」
「・・・神に仕える身として、それでいいのですか?」
エルコールは、神学生の頭を小突いた。
「それは自分で考えることだよ-マザリーニ君」
ジュール・マンシーニ=マザリーニは、不承不承という顔で頷くしかなかった。