ラグドリアン湖畔を出発して、グリフォン街道を馬車で北上することおよそ2日。王都トリスタニアから20リーグに、荒涼とした平原が広がっている。街道に沿って3リーグばかり続くその平原には、街道沿いにあってしかるべきの宿場町どころか、羊小屋すら存在しない。
かつてそこに人の営みがあったことを、かろうじて証明しているのは、ぽつぽつと草の中から顔を出している、朽ち果てた柱のみ。夜になると、狼の遠吠えが響くという荒地で野宿するのを避けるため、旅人や隊商は足早に次の宿場町へと急ぐという。
(・・・ひどいものだな)
馬車の中からその荒れ果てた光景を見ていたヘンリーは「まるで墓場だな」と呟いた。同乗する駐トリステイン大使のチャールズ・タウンゼントも、重々しく頷く。
セダン-それがこの荒涼とした平原と、この地にあった町の名前だった。
西フランク王国とトリステインの最前線であったこの地に築かれたセダン要塞は、ブリミル暦1000年代の様式を残す、数少ない古式城郭である。王都から近いという地理的要件もあって、観光客を相手とした宿場町で賑っていた―――2年前までは。
「セダン会戦」
「ラグドリアン戦争」の行く末を決めたとされる、ブリミル暦6000年代に入ってからは最大級の会戦。セダン要塞の攻城戦の準備を始めたガリア2万の大軍に、「英雄王」フィリップ3世率いる8千の軍勢が奇襲を掛け、ガリアを一時退却に追い込んだ。双方合わせて、6000近い戦傷者を出したこの戦いにより、セダンは廃墟と化した。
そして町には-「死」が残った。会戦後、セダン要塞に籠もったトリステイン軍を、態勢を立て直したガリア軍が包囲。ロペスピエール3世の死まで3ヶ月間の篭城戦が続いたが、その間も休むことなく、遺体の処理が行われていた。従軍司祭だけでなく、近隣の教会や修道院から集められた聖職者が、祈りの言葉も早々に、遺体の腐敗を防ぐため「固定化」の呪文を掛けて廻った。それでも手が足らず、両軍の水メイジまで借り出したほどに。故郷のあるものは、無言の帰還を果たし、帰る場所のないものは、そのまま埋葬された。
戦後、廃墟と化したこの町に、復興の鎚の音が響くことはなかった。セダンの平原にしみ込んだ血の穢れを忌み嫌い、多くの住人がこの地を捨てたのだ。
「停めてくれないか」
「は、しかし・・・」
「頼む、公爵」
警護責任者の魔法衛士隊長は、未だ20の半ばだと聞くが、年齢に似合わぬ落ち着きを感じさせた。さすがにトリステインの精鋭が集まるという魔法衛士隊の隊長を任されるだけのことはある。ヘンリーの唐突な申し入れにも、戸惑いを見せず、モノクルのチェーンをいじりながらしばらく考えたあと、右手を挙げ「止まれ」という命令を出す。
急な命令にもかかわらず、混乱もなく行軍を停止したその動きに、タウンゼント大使が感嘆の声を上げるが、魔法衛士隊の錬度の高さを知るヘンリーはこれといった関心を見せない。町娘に扮した王女様の警護に比べれば、楽なものだろう。
そのトリステインの精鋭部隊の視線や関心が、警護対象の乗った馬車に集まる。予定にない行軍停止が、誰の意思によるものかは明らかだ。(では何のために?)まさか、セダン要塞を観光したいというわけでもないだろう。
警護対象者-アルビオン王弟カンバーランド公爵ヘンリー王子は、馬車から降りながら「すまない」と礼を言う。警護対象者からの感謝の言葉に、少し驚きを見せた公爵だが、すぐに「仕事ですから」と答えた。
しかし、その時すでにヘンリーの関心は彼には無く、セダンの荒野にあった。
荒れ果てたセダンの平原とセダン要塞-2年前、自国が存亡の危機に陥ったことを、トリステイン人は貴族も平民も、意図的に忘れようとしていた。だが、この地に立つと、その事実に向き合わざるを得ない。かつてはここに人の営みがあった。そして今、廃墟と化したこの地の下には、帰る場所のない、名も無き兵士達が眠っている。焼け焦げた黒い柱が、まるで墓標のようだ。
その柱の一本に手をやりながら、ヘンリーは思った。
彼らがどんな気持で死んでいったか、死の瞬間に何を考えたか-自分にはわからない。想像することは出来る。国のため、家の名誉のため、故郷のため、友人家族恋人のため・・・しかし、それらはすべてヘンリーの独りよがりな考えに過ぎない。一度死んだ身とはいえ、それは寝ている間の話。「死んだ」という実感が無いのだ。今でも、この世界にいる「自分」は、覚めない夢の中にいるのではないかという気持ちにさせられることがある。
そんなあやふやな自分が、他者の「死」について考えることなど-死者への冒涜でしかない。
知らず知らずのうちに、『前世』の癖が出た。
トリステインの将兵は、警護対象の見慣れないその仕草-両の手を、胸の前で合わせるというそれに、首をかしげたが、それが「祈り」の仕草だと気付くのに、時間はかからなかった。
トリステイン魔法衛士隊隊長のラ・ヴァリエール公爵は、その後姿を、微動だにせず見据えていた。
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ハルケギニア~俺と嫁と時々息子~(加齢なる侯爵と伯爵)
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「政治パフォーマンスとしては満点ですな」
エスターシュ大公ジャン・ルネ6世の露骨な言葉に、ヘンリーは不快感をあらわにした。
同盟国の王子が、トリステインの存亡を掛けた戦場で、戦死者の鎮魂を祈った-それがトリステインでどう受け止められるか。それがわからないほど、ヘンリーは馬鹿ではない。実際、王政府-エスターシュからのリークで、新聞が「追悼」を報じたことにより、これを知ったトリスタニアの平民達は、ヘンリーをこぞって賞賛した。曰く「白の国の王子は、民の痛みがわかる」「貴族だけではなく、平民の兵士も含めて祈られたそうだ」「かの王子こそが、真の王子だ」「神官どもの見せ掛けだけの祈りの言葉なんぞクソ食らえ」etc・・・
国と国との同盟とは、王家の婚姻や、国の都合だけで成立するものではなく、互いの国民の支持があってこそ、初めて効果的に機能する。ヘンリーの追悼を、新聞を通じて宣伝することは、トリステイン国民全体を「親アルビオン」へと向けさせるためには、格好の材料だった。同盟関係の基盤強化は、確かに必要なことだ。しかしヘンリーは、自分が誉めそやかされることに後ろめたいものを感じ、エスターシュの行為を「政治家」として理解した自分自身に、生理的な嫌悪感を覚えていた。
セダンの荒野に降り立ったヘンリーに、政治パフォーマンスの考えがなかったかといえば嘘になる。だがそれでも、あの時衝動的に行った「祈り」は、ヘンリー個人として、あくまでも鎮魂のために行った行為。
(・・・くそったれ)
それは、エスターシュへの怒りではない。いつの間にか「人の死」に疑問を感じなくなっている、そしてそれを平然と利用しようとしていた自分自身への怒りであった。
キャサリンとアンドリューの為と言いながら、俺は一体何をやっているんだ?
「偽善でもいいではありませんか。追悼の行為事態は、何も責められるようなものではありません」
「・・・ここは『リークして申し訳ありません』という言葉が先にあってしかるべきだと思うのだが」
「謝ってほしいのですか?」
薄く笑みを浮かべながら言うエスターシュに、ヘンリーは首を横に振る。
「いや・・・つくづく自分が子供だと思ってね」
まったく、王族になんぞ生まれるものではない。一応はトリステインの王位継承権を有するエスターシュ大公は、肩をすくめる。
「子供は自らの未熟さに気がついた瞬間、大人になるといいます」
「それに気がつかないまま、図体だけは大きくなる者もいますが」と続けるエスターシュは、黒い僧服も相まって、神学校の教師に見えなくもない。
「慰めているのか?」
「褒めているのですよ」
そう言って、トリステイン王国の『現』宰相は笑った。
***
「嫌なやつでしょう」
トリステイン王国外務卿アルチュール・ド・リッシュモン伯爵の言葉に、危うくうなずきかけたが、慌てて首と手を振って否定するヘンリー。その様子をニヤニヤしながら見るリッシュモン。まったく、油断もすきもあったものではない。
講和条約に調印が行われたまさにその日、ガリアで内乱が勃発したという知らせを受けて、ラグドリアン湖畔にいた各国使節団は、蜘蛛の子を散らすように本国へと帰国していった。ロンディニウムに帰るべきはずのヘンリーが、わざわざトリスタニアを訪れたのは、セダンの戦没者追悼でも、水の国の観光でも、ましてやトリステインのワインを買いあさりに来たわけでもない(最後の点に関してはすでに手配済みだ。抜かりはない)。
トリステインが国境を接しているのは、南のガリアだけではない。北東の北部都市同盟とハノーヴァー王国、東のゲルマニア王国、南東のヴェルデンベルグ王国と、5つの国家と都市同盟と国境を接している。
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(ハルケギニア大陸北西の地図-6214年)
北
部
都
市
同 ザクセン
盟
ハノーヴァー
トリステイン
ゲルマニア
クルデンホルフ ヴェルデンベルグ
ガリア
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2年前のラグドリアン戦争を境に、トリステインを取り巻く環境は一変した。大陸一の陸軍国家が、本気で水の国に侵攻したと考えた周辺諸国は、手のひらを返してトリステインから距離を置き始めた。ヴェルデンベルグ王国は、元々トリステインと国境線を巡る対立関係があったこともあり、厳正中立を宣言。圧倒的なトリステイン不利の状況下での中立は、ガリアに味方するということに等しい。
ヴェルデンブルグの対応は予想されたことであったが、トリスタニアに衝撃を与えたのが、2000年にも及ぶ同盟関係にあったハノーヴァー王国の「裏切り」である。ウィルヘルム首相以下の王政府は、トリステインの悲鳴の様な援軍要請を黙殺。それどころか、国境の閉鎖して、物資の流れを断った。この判断には国政の実権を握るハノーヴァー王国議会に絶大な影響力を持つ北部都市同盟の意向が影響したという噂も流れた。それが事実とあれば、北部都市同盟も水の国を見限ったということである。まさに「四方八方敵ばかり」。そんな状況下でも、トリステインは国内での持久戦に持ち込み、ロペスピエール3世の死により、なんとか停戦にこぎつけた。
ほっとしたのもつかの間、その1ヵ月後には「ゲルマニア王国」の建国宣言である。踏んだりけったりとはこの事だ。
ハノーヴァーの裏切りに憤慨し、ゲルマニアの足元を見るような言動に激昂しながらも、フィリップ3世は、エスターシュ大公をスケープゴートに仕立てて、ガリアとの講和にとりくんだ。いくら「英雄王」といえども、周囲を全て敵に回して勝てるはずがない。
「ラグドリアン講和会議」でようやく講和に持ち込んだガリアが内乱に突入した今、トリステインはどうするのか-ヘンリーはそれを確認に来たのだ。
「断じて、ワインのためではないのだよ」
「・・・は?」
首をかしげるトリステイン内務卿のエギヨン侯爵シャルル・モーリスに「独り言だ」と真顔で答えるヘンリー。嘘はついていないが、全てを語っていないのも確かだ。マリアンヌ王女主催の夕食会で、再びトリステイン料理に舌鼓を打った後、本来ならばワインの飲み比べでもしたいところを我慢して、リッシュモン外務卿の招きに応じた。そして今、へンリーは王宮内の宰相執務室の豪華なソファーに腰掛けている。仕事がなければ、断固として断ったはずだ。そうでなければ、なんでこんな加齢臭薫るオヤジどもと・・・
「で、どうするんです?」
いきなり本題に切り込んでくるアルビオンの王弟に「相変わらず、ぶしつけですな」と苦笑するリッシュモン。「回りくどいことは嫌いでね」という王子に、シガーケースを勧める。前世からの愛煙家であるヘンリーは、ありがたく受け取った。
「殿下、火を」
「ありがとう」
軽く杖を振り、ヘンリーの加えた煙草の先端に火をつけるリシュモン。神聖な魔法で、教会が口すっぱく禁煙令を出している煙草に火をつけるなど、口うるさい神官に見つかったら、数時間は説教を受けることが確実な光景だが、そんなことを気にする2人ではない。
「神官で思い出したが、エルコール・コンサルヴィ枢機卿の訪問が取りやめになったとか」
「ええ、ノルマンディー地方は枢機卿の管轄区ですから。今はリュテイスで釈明の為にてんてこ舞いだそうで」
ラグドリアン講和会議で、ハノーヴァー王国外務大臣のハッランド侯爵が、エルコール・コンサルヴィ枢機卿を通じて、トリステインへの接触を試みているという情報は、ヘンリーも得ていた。というより、それをけしかけた当事者である。空中国家のアルビオンにとって、大陸の同盟国であるトリステインが不安定では困る。ヘンリーは、兄のジェームズ1世とも相談の上で、シェルバーン財務卿を通じて、ハッランド侯爵に枢機卿を紹介した。エルコール・コンサルヴィ枢機卿は、現教皇ヨハネス19世の右腕とされる人物で、その交渉能力の高さは、外交上手とされるロマリア宗教庁の中でも、群を抜くものがある。彼ならば、ハノーヴァーとトリステインの仲介をうまくやってくれるだろうと。
ところが、当のエルコール・コンサルヴィ枢機卿自身が、ガリアの内乱の影響をもろに受けてしまった。司教枢機卿のエルコールは、ガリアで8つの教区を管轄しているが、反乱軍が本拠地とするノルマンディー地方は、そのうち3つの教区が含まれており、特にルーアンは、かつて大司教座がおかれていた、ガリア北西部の教会機構の中心地である。そのうえ反乱の首謀者とされるノルマンディー大公ルイ・フィリップ7世と、エルコール自身が、公私にわたる親交があったことはリュテイスではよく知られていた。戦後「反乱を幇助した」として、修道院や教会領が没収される危険性は十分にあった。
自分の家に火がついているのに、人の家の喧嘩の仲裁をしている場合ではない。エルコールは、あわててリュテイスに入り、自身と教会の潔白を主張しながら、何とか大公を説得しようと奔走しているという。自身の基盤が危ういとあっては、力の入りようも違うだろう。
枢機卿がしばらく動けないとあっては、仕方が無い。ここは自分の腕の見せ所・・・と勇むところであるが、ヘンリーのモチベーションは上がらない。
「いつまで焦らすのですか?」
表向き、トリステインは『ハノーヴァーとの関係を修復するつもりは無い』という態度を示していた。だが、それを声高に叫んでいるのが、エスターシュだの、リッシュモンだのという、言っている言葉と、腹の中が全く違う人種とあれば、額面どおり受け取るわけにはいかない。リッシュモンは、その見事な白髪に手をやりながら「さて何のことでしょうか」とトボけてみせる。ヘンリーはこめかみに青筋を浮かべたが、それではいかんと、自身を落ち着かせるために、深く煙を吸い
げほげほがはははっげは!
むせた
***
ハノーヴァー王国が、長年トリステインとの同盟関係を結んできたのは、東の強国ザクセンに対抗するためである。オルデンブルグ家を盟主とする同君連合の色合いが濃いハノーヴァーは、王権が弱い。したがって軍は、文字通り諸侯軍の寄せ集めであり「ハノーヴァーは弱兵」と呼ばれる原因となっていた。勇猛果敢なザクセン兵と対抗し、諸侯の離反を防ぐために、ハノーヴァーはトリステインの軍事力を頼るという選択肢を選んだ。
そのトリステインが滅亡の危機に至ると、ハノーヴァーはガリアに乗り換えた。「余りにも無節操だ」との批判を受けたが、水の国と心中するつもりは無いブレーメンは、トリステイン滅亡後の「ガリアと連携し、ザクセンに対抗する」という青写真まで書いていた。それは文字通り「取らぬ狸の皮算用」となったわけだが、苦しい状況の中、国の生き残りのために「恩知らず」と罵られようとも、長年の同盟国トリステインの切捨てという決断を下したウィルヘルム首相以下の判断は、責められるべきものではない。
トリステインに、独力でガリアの干渉を撥ね退けるだけの「力」がないことが悪いのだ。
外務卿として、始祖の血を受け継ぐ祖国が-いまやハルケギニアに幾つもある国家のひとつでしかないということをリッシュモンは認識していたつもりであった。だが、ラグドリアン戦争は、そんな自分の認識がまだ甘いものであったということを、明確に突きつけた。
(ガリアがその気になれば、トリステインなど吹けば飛ぶような存在でしかない)
「力なきは罪」なのだ。その点、自身に「力」が無いことを認識していたという一点に限れば、ハノーヴァーはトリステインより優れていたのかもしれない。
ならば自分は、それに学ぼう。『生き残るためには何でもやる』という姿勢を。何物にも変えがたい「自由と独立」を守るために。
「二度と逆らえないようにすること、これが我が国の望みです」
『ハノーヴァーを属国化する』というに等しい同盟国の外交責任者の言葉に、ヘンリーは息を呑んだ。同席するエギヨン侯爵―次期王国宰相の表情にも、驚いた様子は見られないので、これがトリステイン首脳部の「総意」であると受け取っていい。
「また、思い切った決断をしましたね」
「そう突飛な発想ではありますまい。ハノーヴァーも、何の見返りもなしに同盟関係が継続するとは考えてはいないでしょう」
淡々と返すリッシュモンに、ヘンリーは煙草をふかしながら尋ねる。
「それで、担保は何ですか?私には領土の割譲か、人質ぐらいしか思い当たりませんが」
同盟とは、互いが互いを助け合い、補完しあってこそ成り立つ。リッシュモンが言うように、一度「裏切った」ハノーヴァーとしては「誠意」を見せないことには、トリステイン国内も収まらない。それを説き伏せるためには、ラグドリアン戦争の時のようにハノーヴァーが日和見を決め込まないと納得させるにたる「担保」が必要である。「信用」はすでに使えない。ではその代わりになるものは何か?
リッシュモンは一言だけ答えた。
「何も」
「何も?」ヘンリーは思わず尋ね返した。
「人質も、領土も求めないということです」
「・・・何を考えている?」
真意のわからない言葉ほど、気持ちの悪いものはない。今更ハノーヴァーの『善意』を根拠にしているわけではないだろう。では一体何を「担保」にするというのだ?どうやってトリステインの国内を同盟意地でまとめるというのだ?言い様のない、薄気味悪い予感が、じわじわとヘンリーを襲う。
そしてリッシュモンの返答は、ヘンリーの予感の正しさを証明していた。
「ザクセンと手を組めば、ブレーメンは5日と持ちません」
「・・・・・・・なッ」
ヘンリーは行きあったりばったりのちゃらんぽらんな性格に見えるが、実は事前にしっかりと準備しておくタイプである。それは性格が緻密で繊細・・・というわけでもない。準備がないと不安で仕方が無い小心者だからだ。そんな性格であるため、ヘンリーは毎日ありとあらゆる事態を想定し、一人で熟考する。小心者であるだけに、どんな些細な可能性でも見逃さない。困難な事案であろうとも、事前に準備しておけばどうにでもなる。パターンに応じて、事前に何十何百と想定しておいた台本通りに進めればいいだけの話。それに相手より心理的に優位に立てる。
当然ながら、このやり方では、事前の自分の想定を超えた事態-突発的な事件や、事前の想定を超えた問答には弱い。
そして今、ヘンリーはまさに「事前の想定を超えた」回答を理解することが出来なかった。そしてその言葉の真意を察した途端、煙草を持った右手を襲った震えを、しばらく止めることも出来なかった。
ザクセン王国―エルベ川を挟んで、ハノーヴァーと国境を接する。旧東フランクの盟主を持って自認する、誰もが認めざるを得ない強国。その軍の強さは「ザクセンの平民銃兵で、ガリアのドットメイジに匹敵する」という、ハルケギニアの常識では考えられないほどの評価を得ていた。ハノーヴァーの「仇敵」であるこの国は、その同盟国であるトリステインの東方進出にも立ちふさがり、水の国とは何度も杖を交えてきた。お世辞にも関係が良好とはいえない。
そのザクセンとトリステインが組む-ハノーヴァーにとっては、まさに悪夢の様な事態だろう。西のトリステイン、東のザクセンに攻められれば、「ブレーメン(ハノーヴァーの王都)は5日と持たない」というリッシュモンの言葉は、けして大げさなものではない。むしろ3日もつかどうかだ。
ようやくの思いで震えを止めたヘンリーは、強張った顔に、何とか苦笑を浮かべて、皮肉を口にする。
「・・・ずいぶんと、えげつない事をしますね」
ヘンリーは、ハノーヴァーの駐アルビオン大使に同情した。ようやくのことで接触できたトリステインの外務卿の口からこれを聞かされたとき、彼は自分のようにハッタリすらかますことが出来るかどうか。ショックの余り気絶するのではないか?そしてブレーメンは、自らが払った代償の大きさに、恐れおののくだろう。
「確かに、二度と逆らおうという気にはならないでしょうね」
ヘンリーの皮肉に、リッシュモンはにこりともせず答える。
「褒め言葉として受け取っておきましょう」
これでトリステインに逆らおうという事になるのであれば、ハノーヴァーもたいしたものだが、そんな気概があるはずがない。ウィルヘルム前首相以下の決断は、確かに見事であったが、それは所詮「ガリア」頼みであるとも言える。
自分の国の運命を、一部でも他者にゆだねた時点で、ハノーヴァーは「外交の独自性」を失っていたのだ。
「独立を維持する為には何でもする」というリッシュモンと、彼の背後にあるトリステインの執念に気圧されて、しばらく沈黙していたヘンリーだが、何かに気付いたのか、ふと顔を上げた。
「では何故存続させるのです?」
「・・・殿下、貴方は」
リッシュモンは正真正銘呆れた。先ほどまでは自分達の判断を「人ではない」とでも言うかのように非難しておきながら「それならハノーヴァーをさっさとザクセンと山分けしてしまえ」と言うヘンリーがわからない。一体、どういう神経をしているのだ?
「大義名分は何とでもなるでしょう。『盟邦を見捨てた裏切り者を討つ』と言えば、誰も文句はつけにくい」
(・・・こいつは)
馬鹿なのか、それとも大馬鹿なのか、もしくはアホなのか?
(アホが一番しっくり来るな)と、とんでもないことを考えているリッシュモンに代わり、エギヨン侯爵が答える。この老侯爵は、ガリアとの講和を望む英雄王の意を受けて行動し、国内の不満を一身に背負ったエスターシュ大公の後任として、宰相に就任することが、内々ではあるが決まっていた。
「二つ理由があります。まず王家であるオルデンブルグ家」
ハノーヴァー王国を治めるオルデンブルグ家は、旧東フランクの侯爵家時代から、婚姻政策や養子縁組で勢力を拡大してきた。王国崩壊時(2998)には、旧東フランクは数百もの諸侯に分裂したが、その殆どに相続権を有していた。ブリミル暦3200年代にはザクセンと旧東フランクを二分するまでに成長したのも、それが理由である。そしてその縁戚関係の広さは、今に至るまで続いている。「オルデンブルグ家と縁戚関係にない貴族はもぐりだ」というジョークが流行るほどだ。
元々外交とは、王と王、王家と王家、貴族と貴族という、個人的な友人関係や縁戚関係を頼ったものであった。今でこそリッシュモンの様な「職業外交官」が認知されるようになったが、程度の差こそあれ、王制国家が主流のハルケギニアに、その傾向があることは否めない。綺羅星のごとき系図をほこるオルデンブルグ家を取り込んでおくことは、それだけで価値があるのだ。
「それに、力で押しつぶすことが出来ても、どこから領有権が主張されるか解ったものではありませんからね」
オルデンブルグ家が領有権を持つということは、逆も成り立つ。一種のパンドラの箱を開けた状態となり、旧ハノーヴァーを巡る争いが勃発する可能性もありえる。
「そして第二に、我が国は占領コストに耐えられません」
戦争に勝った!領土を広げた!めでたし、めでたし・・・とはならない。占領地の治安維持を行い、新しい領主が決まるまでの行政機構を代理し、税率や法律はハノーヴァー時代のものを維持するのか、トリステイン式に切り替えるのか、領土の配分はどうするのか、ザクセンとの国境はどうやって策定するのか・・・そしてそのどれか一つでも失敗すると、全てがパーだ。
「領土を広げて、国がつぶれたでは本末転倒です」
エギヨン侯爵の言葉に、ため息を付くヘンリー
「上手くいかないものですね」
「最初から成功が約束された物事などありません。我々が意思を持って行動すれば、結果は我々が望むようになるのです」
そう言いきったリッシュモンに、ヘンリーは視線を合わせた。元気な爺さんだよ、本当。もう一度ため息をつきたい気持ちをこらえ、もう一つの案件-ゲルマニアについての話題を切り出す。
「アルビオンはヴィンドボナの領事館を再開いたします」
爺×2とヘンリーの夜は、まだ続く・・・