トリステイン王国は「建国王」ルイ1世以来、大規模な内乱や政変を経験したことがない。先のエスターシュ大公の失脚や、貴族の反乱等はあったが、国を真っ二つにするようなお家騒動などは未だかつてない。「水の国」と呼ばれるように、水資源に困らぬ豊かな国土が、無用な争いを避ける気質を育てたのか、南にガリアという大国と国境を接し、内乱や政争に熱中することを許さなかったのか。おそらくその両方であろう。
ところが、その王家に仕える貴族-特に閣僚クラスとなると「100年(3代)王宮に出仕することが出来れば名門」とみなされるほど、移り変わりが激しい(モンモランシ伯爵家は例外)。「500年では成り上がり」という一昔前のガリアとは正反対だ。封建領主として続く貴族は掃いて捨てたいほどいるが、王政府の閣僚や宰相を何人も輩出したという政治的名門は数えるほどしかいない。まさに「ゆく河の流れは絶えずして」である。
こうした一定の政治的流動性が確保されたからこそ、水の国は、ガリアやアルビオンの様な「王朝交代」という大掃除を経験することなく、『トリステイン朝トリステイン王家』が6千年の長きにもわたって続くことができた。
エギヨン侯爵家は、そんなトリステインで数えるほどしかない政治的名門貴族である。現当主にして、内務卿のエギヨン侯爵シャルル・モーリスは58歳。ずんぐりむっくりとした体の上に載った丸い顔に、白いものが混じった顎鬚は、短く整えられており・・・簡単に言うと年を取った「ルネッサ~ンス」の男爵である。ワイングラスを持たせれば、そっくりだ。
いわゆる「旧い貴族」の代表格であるこの老侯爵は、その柔和な風貌とは異なり、内務省一筋のたたき上げの官僚でもある。第1次エスターシュ大公の政権下では、内務次官として地方制度改革でその手腕を振るった。同時に「旧い貴族」の知恵として、急進的なエスターシュとは微妙に距離を置くことを忘れず、失脚後もその地位を宮廷内で保持した。
そうした「バランス感覚」と、大公派と「旧い貴族」の両方に顔が利くという点を評価され、エスターシュの後任として宰相に就任することが決まっていたエギヨン侯爵は、目の前の「猿芝居」の観客としてつき合わされていた。
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ハルケギニア~俺と嫁と時々息子~(旧い貴族の知恵)
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「アルビオンはヴィンドボナの領事館を再開致します」
「トリステイン外務卿として、再開には断固抗議します。ヴィンドボナ総督家が、我がトリステインの領土を不法占拠している現状で、領事館の再開は、ゲルマニア王国の支配を認めるようなもの」
「総督家が実効支配している地域がトリステイン領とおっしゃるなら、何の問題もないはず。貴国の領内の領事館を再開することに、何の問題があるというのです?」
口角泡飛ばす激しいやり取りを繰り広げているのは、親子ほども年の差がある二人の男性。アルビオン王弟カンバーランド公爵のヘンリー王子と、我がトリステインの外務卿アルチュール・ド・リッシュモン伯爵である。
リッシュモン伯爵家は、もともと司法官僚を輩出する法服貴族の家である。当代のアルチュールは「人の恋文を覗き見したくない」という、なんともキザったらしい理由から、外交官を志したという。皮肉屋で、ジョークや小話を好む彼の性格は「法律解釈」という名の、議論のための議論を生業とする司法官には向いてはいない。しかし、閣僚会議での隙のない国際法解釈を聞くと、やはり法務貴族の血は争えないという思いに駆られる。
大柄なリッシュモンが、その身を乗り出しながら、論理立てて語るその様は、最近城下で問題になっているという「押し売り」を思わせるものがある。だが「変わり者」で「数字と交渉ごとにはめっぽう強い」と評判のアルビオンの王弟の言葉の節々からは、断固として跳ね除けるという決意がにじみていていた。
「アルビオンは『覚書』をお忘れになったのか?それとも我が国よりもゲルマニアとの関係を重視するとでもおっしゃるのか」
「貴国がそう受け取られるなら、それで結構。それ以上抗議するとあれば、外務卿の申し入れは、アルビオンへの内政干渉に当たると見なさざるを得ません」
その言葉に、やたらに大げさな身振りで首を振るリッシュモン。
「これは異なことをおっしゃる!内政干渉とはどちらのことか?『ゲルマニア王国』を名乗る反乱分子を『覚書』に反して黙認しようというアルビオンのほうこそ、内政干渉として責められるべきではありませんか?」
しばしの沈黙の後、ヘンリーが先に視線をそらした。それはリッシュモンに根負けしたというわけではなく、この猿芝居の幕引きを知らせるものであった。
「なかなかの役者っぷりでしたよ」
そう言いながらかかかと笑うリッシュモンを恨めしげに睨みつける。「観客がいないのが残念ですな」と言うヘンリーに「エギヨン卿がいらっしゃいます」と答え返す外務卿。名指しされたエギヨン侯爵はと言うと、面白くもないといわんばかりに鼻をならした。
***
現在ゲルマニア王国(トリステインは承認せず)の領地であるザルツブルグ地域一帯は、かつてその名のとおりザルツブルグ公国が治めていた。東フランク崩壊(2998年)後、ザルツブルグ公国は200年余りこの地域の主であったが、ブリミル暦3200年頃に台頭していたハノーヴァー王国と同君連合を組む。しかしながらハノーヴァーも確固たる支配権を確立することが出来ず、国勢が衰えると、この地域はすぐにロマリアのように各都市や諸侯が乱立することになる。
ブリミル暦3500年代、ここに進出してきたのが、東方進出を悲願としていたトリステインだ。ハノーヴァーと軍事同盟を組んだトリステインは、ザルツブルグ一帯を統治下に置き、東方進出の拠点とした。その際、建設されたのがヴィンドボナ-現在のゲルマニア王国王都である。ところがトリステインの東方進出政策も、長きに渡った内乱を収拾して再統一を果たしたガリアによって頓挫を余儀なくされた。本国が脅かされると、この地域に駐屯していた軍を引き上げざるを得なくなったのだ。
[東フランク王国⇒ザルツブルグ公国⇒ハノーヴァー王国⇒トリステイン王国⇒]と、まさに猫の目のように入れ替わる支配者のもとで、着実に力を蓄えたのが、ヴィンドボナ建設の際に力を尽くしたホーエンツオレルン家、現在のゲルマニア王家だ。トリステインは、ザルツブルグ支配維持のためには、このヴィンドボナ市の有力者の力に頼らざるを得ず、ホーエンツオレルン家もそれを見越して、水の国の機嫌を伺いながら、その権勢をバックに、この地域での支配権を確立していった。
両者の関係はブリミル暦4200年代、トリステインが完全にこの地域の実行支配権を喪失した後も続いた。ホーエンツオレルン家にすれば「トリステイン」の看板は、まだまだ利用価値があるものであった。トリステインはこの頃、アルビオンへの干渉戦争(四十年戦争、またはアルビオン継承戦争。4544-4580)や、ガリアとの関係に掛かりっきりであり、ホーエンツオレルン家の行動を苦々しく思いながらも、追認せざるを得なかった。ホーエンツオレルン家は、その行動の正当性を「トリステインのため」と公言していたため、その正当性に異議を唱えることは、トリステインのザルツブルグ支配の正当性に、自ら疑問符をつけるようなものであったからだ。
ブリミル暦6170年には、当時のトリステイン国王アンリ6世(『英雄王』フィリップ3世の父)から「ヴィンドボナおよび周辺6都市の総督」の称号を与えられるなど、ホーエンツオレルン家は「トリステイン」ブランドを最大限活用して、勢力を拡大。独立への歩みを進めていた。
これでトリステインが「ゲルマニア王国」の独立を笑って祝福することが出来るほど『英雄王』は安いプライドの持ち主ではなかったし、たとえそれを承認せざるを得ないとわかっていても、国民がそれを許すはずがなかった。
まぁ、簡単に言うと
「あのボケなめ腐ったまねしやがってからに!ひさし貸して母屋取られるとはこのことや!!百合の代紋につば吐きかけた落とし前はきっちりと(中略)んでもって、ケツの穴から(以下自粛)」
とはいえ、いくらトリステインが憤慨しようとも、ホーエンツオレルン家が1000年以上かけて築いて来たザルツブルグでの支配が揺るぐはずがなく、そして水の国が武力介入を口にはしても、南にガリアを抱えた現状ではそれが不可能なことを、誰もが見透かしていた。その上、ゲルマニア王国の建国は、ロマリア宗教庁と、教皇聖ヨハネス19世のお墨付きを得ている。たとえそれが金で買ったものだとわかっていても、宗教界の最高権威の承認はやはり重い。各国は、トリステイン大使の抗議に、判で押したように「ロマリアが承認しましたから」と繰り返して、ゲルマニア王国を承認。元々、いつかは独立するだろうと思われていたため、ヴィンドボナには領事館が集中しており、各国はそれを「大使館」に昇格させた。
ただひとつの例外-アルビオンを除いては。
アルビオンとトリステインの協調関係は、200年ほど前に締結した「アルビオン王国とトリステイン王国の両国の相互理解に関する覚書」というくそ長ったらしい覚書に始まる。俗に「アルビオン・トリステイン協商」と呼ばれる(これでも長い)覚書で、アルビオンとトリステインは相互の領土を承認し、白の国は大陸への、水の国は空中国土への領有権主張を放棄した。この時点では、文字通り単なる「覚書」でしかなかった。それが、ラグドリアン戦争で、アルビオンがトリステインの後方支援を行ったことを契機に、両者の関係は急接近。これにより「覚書」の占める位置が上がり、両国の同盟関係の基本とみなされるようになった。しかしながら、正式に相互攻守の軍事同盟を結ぶことは、ガリアを刺激しかねず、水面下での「暗黙の」同盟関係というものにとどまっている。
アルビオンが、ゲルマニアを承認できないのは、この覚書が原因である。より正確に言えば、互いに、空と大陸への領有権を放棄することを確認した「相互の領土を確認する」という条文の解釈にある。
トリステインは「これには東方領(ザルツブルグ地域のトリステインの名称)も含まれる」と見なしており、アルビオンは「これはトリステイン本土を指すのであって、東方領は含まれない」と考えている。アルビオンの解釈で言えば、ゲルマニア王国を承認しても何の問題もないが、トリステインの解釈で考えれば、それは明確な内政問題となる。
アルビオンのゲルマニア承認は、下手をすれば「協商」そのものを揺るがしかねない危険性をはらんでいるのだ。
「だからといって、ゲルマニアのために、アルビオンとの関係を悪化させたくはない」というのが、トリステインの本音。いくら駄々をこねても、もはやゲルマニアの承認は時間の問題。しかしながら、これをアルビオンに、何の根回しもなくごり押しされると、国内でアルビオンへの感情が悪化しかねない。
リッシュモンとヘンリーが先ほど交わした口論は、トリステイン国内への「アリバイ作り」である。「これだけいったのに、アルビオンが強行した」「トリステインはしぶしぶ承認した」という筋書きに沿った、一種の「出来レース」だった。あとは「観客」のエギヨン侯爵が、この「事実」を吹聴して、反ゲルマニアの強硬派と、現実主義派のバランスに立って、宰相に就任することですべての芝居は完結する・・・
「どこまでも手間のかかることを・・・!」
どこの手品師ですかあなたは
***
リッシュモンから再び煙草を受け取ると、ヘンリーは恥ずかしさを誤魔化すように、やたらと大きく息を吐いた。顔を赤らめ「わざわざ芝居をする必要があったのか?」とぶつくさ文句を言うことも忘れない。リッシュモンは宥めるように、ヘンリーのくわえた煙草に杖で火をつけながら「一種の通過儀礼ですよ」と答える。
「誰も見ていなくとも『やった』という事実が必要なのです。これで国内的にも、対外的にも嘘はつかなくてすみます」
「下手な嘘よりたちが悪いがな」
再びため息をついたヘンリーは、エギヨン侯爵に視線を向ける。
「とにかくこれで、『覚書』の解釈については追認するということでよろしいですね」
「えぇ。既成事実さえ出来れば、頑迷な高等法院も反対論は唱えにくいでしょう」
アルビオンのヴィンドボナ領事館再開⇒ゲルマニア承認というプロセスを踏むことにより、「国際社会で孤立する」という論法でトリステインの反ゲルマニア強硬派を説得するという筋書きが、こうして両者の間で確認された。見返りに「覚書」でアルビオンの解釈をトリステインに飲ませることが出来るとはいえ、お家事情に付き合わされるほうのヘンリーからすれば、たまったものではない。だが、これも同盟関係を維持するためと自分に言い聞かせた。
トリステイン高等法院は、司法権と立法権を有し「国家の中の国家」と呼ばれるほどの権限を持つ。「駄目なものは駄目」という立場から、歴代国王の歯止め役として働いてきたことも確かだが、万事の例に漏れず、組織のための組織となっている傾向があることも否めない。特に、法務貴族の中でもきわめて優秀なものが就任することになっている「法院参事官」は、弁も立つ上に、誰も反論できない「正論」を滔々と述べるため、エスターシュ大公や『英雄王』も手を焼いているという
「法務貴族」出身のリッシュモンが、苦々しげに言う。
「確かに参事官の言う内容は正論です。ですがそれを通すためには「力」が必要だということが、あの馬鹿共にはわかっていないのです。劇曲の台詞にケチをつけるばかりで、視野狭窄になっているのですな」
ヘンリーは「仕方がありませんよ」と苦笑する。どこの国でも一つや二つ、足を引っ張ることが目的の勢力が存在するものだ。むしろ反対勢力がなく、国論が一本化しているほうが危うい。「親亀こけたら皆こけた」で、国内に補完勢力がないため、国そのものが危うくなりかねないからだ。
「ショーケンだったかな?」
「・・・は?」
「いや、なんでもありません」
ヘンリーは「それでエスターシュ大公についてですが」と話題の転換を図ってごまかした。
「アルビオンが正式にゲルマニアを承認した直後に辞任を表明する運びになります」
自国の宰相の辞任という一大事にもかかわらず、リッシュモンが何でもないことのように答える。
***
ラグドリアン戦争は、トリステインに大きな傷跡と影響を与えたが、その中でも「トリスタニアの変」で失脚したエスターシュ大公の再登板による第2次エスターシュ政権の発足ほど、トリスタニアと周辺諸国に驚きをもって受け止められた事はない。「謀反人にもう一度政権を託せざるを得ないほど、トリステインは人材が欠乏しているのか」という観測は、半分は当たっており、もう半分は外れていた。
そもそも第1次エスターシュ政権の成立は、経済危機による政治的混乱により、高等法院から国王の退位論まで噴出する中で、フィリップ3世が打った窮余の一策であった。時期宰相確実といわれた財務卿のロタリンギア公爵が推薦したエスターシュ大公ジャン・ルネ6世の宰相就任。大公家の、しかも若干21歳という若い宰相の登場に、周辺国だけではなく、トリステイン国内からも不安の声が出たが、結果は見事に経済危機を乗り切ってみせた。
しかしながら、やはり「慣習」にはそれなりの理由があった。「外戚や大公家を閣僚には就任させない」という慣例を、フィリップ3世は「非常時である」として押し切ったのだが、皮肉にもエスターシュの手腕が評価されるに従い、「慣例」の正しさが証明されることになった。
すなわち「エスターシュ大公を時期国王に」という運動が起こったのだ。そもそも経済危機を引き起こしたのは、フィリップ3世の親政によるものであることは、衆目が一致するところであり、その経済危機をわずか数年で立て直した大公の待望論が出てくるのは当然ともいえた。
これがただの貴族であれば問題はなかったのであろうが、王位継承権を有する大公であることが、事態をより深刻化させた。エスターシュ自身にも、王座への意欲がなかったかといえば嘘になる。というより、むしろあった。それは貴族や高等法院-ひいては広い国民の支持を得て、戴冠するという形を想定していた。エスターシュとフィリップ3世には10歳以上の年齢差があり、実績を積み重ねていけば、王からの「禅譲」を期待出来たし、フィリップ3世も無碍に否定することは出来なかっただろう。そのためには、最低でも10年以上は宰相を続け、自身の権力基盤を王宮内に築くというのが、エスターシュの考えであった。
ところがエスターシュも予期しない運動が起こった。若手貴族-中でも「改革派」と称する中下級貴族から「フィリップ3世の即時退位と、エスターシュ大公の即位」を求める動きが、公然と現れたのだ。この運動は、エスターシュの人事改革で、徴税官などに取り立てられた貴族を中心に起こったものであり、それ自体には何の背景もなかった。彼らは「エスターシュ大公が国王に即位してこそ、真の改革が行われる」と信じていたし、それでこそ自分たちの未来が開けると確信していた。
エスターシュと、フィリップ3世、そして大貴族達は、それぞれが苦々しげにその運動を見ていた。
禅譲を狙うエスターシュからすれば「改革派」なる中下級貴族の運動は迷惑千万であり、むしろ禅譲の動きに水を差すもの以外の何者でもなかった。国王フィリップ3世が、そんな運動が面白いはずがないのは当然である。そしてそれに付け込んだのが、エスターシュの改革に反発する貴族たちであった。確かに、エスターシュの進める徴税機構の改革にしても、軍事指揮権の統一にしても、この中小国であるトリステインにとって、王権の強化が必要なことは、彼らも理解はしていたし、多少の自分たちの権限縮小は受け入れるつもりであった。国あってこその貴族であり、その逆がありえ無いことが理解できないほど、水の国の貴族は馬鹿ではなかった。そうでなければ、トリステインははるか昔にガリアに飲み込まれていた。
しかしながら、それらが全てエスターシュ自身が国王になるための布石とあれば、話は異なる。経済危機を引き起こした張本人とはいえ、フィリップ3世は「国王」であり、エスターシュは大公とはいえ、所詮自分たちと同じ「家臣」でしかない。それが「王」として自分たちの上で振舞うことを、はいそうですかと受け入れるはずがなかった。
そして起こった「トリスタニアの変」
貴族たちはエスターシュの致命的な失点を逃さず、こぞって足を引っ張った。結果、エスターシュは失脚。両者から等距離であるとみなされ、実際にそのように行動していた国事尚書のブラバント侯爵が宰相に就任した。
エスターシュ失脚後、水の国の内には深刻な対立が残った。すなわちエスターシュの失脚に尽力した「貴族派」と、その改革に理解を示し、支持をした「大公派」である。中立派のブラバンド侯爵は、両者の対立の上に立ち、政権運営を行なった。しかし両者から「中途半端な改革だ」「大公時代と何も変わっていない」という批判を受けることは免れなかった。
ここで話はセダン会戦に戻るが、この戦いではブラバンド侯爵を初め、フランソワ王太子、ヴァリエール公爵などの軍事・政治の中心人物が戦死。トリステインの屋台骨は大きく揺らいだ。しかしながら「大公派」「貴族派」の中心人物や強硬派も戦死したことにより、フィリップ3世の親政の下、両者の対立は収まるであろうと考えられた。ところが、中心人物がいなくなったことにより、対立はより細分化した。戦後の外交政策をめぐる「ガリア強硬派」「講和派」「対ゲルマニア武力制裁派」「ガリア・ゲルマニア両面での強硬派」「現状の追認」と入り混じり、余計に収拾がつかなくなった。
頭を痛めたフィリップ3世が再び呼び戻したのが、トリスタニアで謹慎させられていたエスターシュ大公である。この混乱を鎮め、国論を「ガリアとの講和」で一本化させるのには、このいけ好かない大公の政治手腕に頼るしかないと考え、同時に、国内の反ガリア感情のスケープゴートとしての役割も期待したものであった。
そしてエスターシュは、与えられた役割を見事に果たし、ガリアとの講和を成し遂げた。
そして今や、トリスタニアでは「売国奴」と同じ意味を持つエスターシュが、フィリップ3世に申し出た最後の仕事が「更迭される」という人事カードであった。アルビオンのゲルマニア承認-当然国内で巻き起こるであろう責任論を、自分を切ることで乗り切ることを進言したのだ。
これまでの経緯があるとはいえ、講和に尽力した宰相を切り捨てることに気が引ける『英雄王』に対して、エスターシュは、あのいやらしい笑みを浮かべてこう言ったとされる。
「杖は杖として、貴族は貴族として使いきられてこそ、その役割を果たすのです。ご遠慮なさらずに」
「・・・ただの嫌な奴ではないようですね」
ヘンリーのつぶやきに、エギヨン侯爵が素っ気無く答える。
「そうでなければ、私が寝首を掻いていましたよ」
この半年後、アルビオンはゲルマニアを承認。
同時に辞任したトリステインの宰相のことは、すぐに人々の記憶から忘れ去られた。
「旧い貴族」が、また一人、表舞台から下りた。