アルビオン東部カンタベリー。南西部のプリマス、北部のダーダネルスと並んで、アルビオンの物流を支える港湾都市である。中でもこの都市は、中央を流れるテムズ川が、王都ロンディニウムに繋がることから、主要な港湾施設を抱えていない王都の玄関港的役割を果たしている。
同時にこの都市のカンタベリー大聖堂は、アルビオン国内の司教区を統括するカンタベリー大司教座でもあった。そのカンタベリー大司教は、代々ロマリア教皇自らが叙任することになっている。
カンタベリー大司教は、ロマリア宗教庁が主導して叙任することの出来る数少ない大司教である。ガリアやトリステインの叙任では、両国政府の意に沿った人物を内示してからでないと、任命出来ない事になっているのは周知の事実であり、連合皇国内でも、独自性の高いサヴォイア王国などでは、同じ傾向が顔をのぞかせつつある中、カンタベリー大司教叙任に関する、宗教庁の独自性は際立っていた。
これはアルビオンが、四十年戦争(アルビオン継承戦争。4544-4580)以降、反王家勢力のジャコバイトと結びついた新教徒対策で、宗教庁からの情報を必要としたためである。宗教庁としても、数少ない独自性を発揮できる場所として、カンタベリー大司教の叙任式を最大限に利用していた。
極めて政治的ショーの色濃い叙任式ではあるが、「光の国」を治めるロマリア教皇を一目見るいい機会であるとして、アルビオン各地から人が集まっていた。警備当局によると、その数およそ3万人。とはいっても、2年前のジェームズ1世の戴冠式(8万人)に比べると、少ないといわざるを得ない。「ジャコバイトのこともあるからなぁ。歓迎一辺倒とは行かないさ」とは、アルビオン王弟の言葉ではあるが、それでもこれだけ多くの人が集まっているのは確かである。気難しい老教皇の機嫌は良かった。
老教皇とは対照的なのが、地元のカンタベリー市長を初めとした現地の警備担当者である。王族を警護する近衛魔法騎士隊との折衝に始まり、ジャコバイトによるテロの警戒、スリなどの軽犯罪取り締まり、突発事故を避けるための人の流れの規制、果ては迷子の親探しまで、幅広く対応を強いられた挙句、教皇を出迎えるアルビオン王弟の警護にも人手を借り出され、その神経をすり減らしていた。
そんな警護対象の一人であるアルビオン王弟カンバーランド公爵のヘンリー王子は、王立空軍の巡洋艦「サウスゴータ」に乗船し、テムズ川に着水しようとしている教皇御召艦「聖パウロ号」を見上げていた。
「それにしても大きい。大きさだけなら、うちの『キング・ジョージ7世』よりも大きいんじゃないか?」
「190メイル近くはあると聞いたことがあります。まぁ、軍船ではありませんからね」
傍らに立つ侍従のエセックス男爵に、暢気に呟くヘンリー。エセックスも、同じように御召艦を見上げながら、相槌を打っていた。集まった野次馬も、テムズ川の川べりで、ヘンリーと同じように教皇御召艦の威容に歓声を上げているので、特段ヘンリー達がどうこうというものではないのだが、ほとんど寝ずに警護計画を練っていたカンタベリー市長が見れば、2、3本、頭の線が切れそうな光景だ。
教皇御召艦は、その名の通り教皇が乗船するという前提から、必要最低限の武装以外は配備していない。しかし、この船は、周囲の全てをひれ伏させるような、圧倒的な存在感を放っている。巨大な船体に似合わず、静かに着水した「聖パウロ号」に、「サウスゴータ」を接舷させて、タラップをかけて乗り込んだヘンリー達は、その存在感の中心にいる老人に、出迎えの挨拶を行った。
「ご無沙汰いたしております、教皇聖下。カンバーランド公爵のヘンリーでございます。若輩ながら、大聖堂までお供させていただきます」
「ご苦労」
ニコリともせずに答えた老教皇に、ヘンリーは内心苦笑しながら手を差し出した。
見た目どおりの、聖職者らしからぬ、ごつごつとした手であった。
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ハルケギニア~俺と嫁と時々息子~(義父と婿と)
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新たにカンタベリー大司教に就任したのは、トマス・アランデル司教。ぽっちゃりとした体格で、押せば転がっていきそうだ。それはともかく、アルビオンのアランデル伯爵家に生まれた彼は、ナザレン神学校卒業後、ソールズベリー司教を長く務め、司教区内の修道院を数多く立て直したことで知られる。前任のマシュー・ハットン大司教が、司教枢機卿に選任されたのを期に、昇格した形だ。
ロマリア宗教庁の枢機卿は、教皇選出会議の投票権を持つ高位聖職者であり、教皇を補佐し、行政・外交をつかさどる行政官兼外交官でもある。また同時に、出身国と教会を繋ぐ「政治的パイプ」の役割を担っている。そのため枢機卿の選任には、選挙での論功行賞や宗派別の割り当てだけではなく、出身国が偏らないといった配慮がなされている。枢機卿の出身国比率を見れば、国際情勢のパワーバランスが解るといわれる所以にもなっている。
宗教庁も、ただ世俗国家へ配慮して選任していたわけではない。元々、連合皇国を構成する国家や都市間での諍いの仲介で培った交渉術から「ロマリアは外交上手」として知られていたが、各国とのパイプを仲介交渉に生かすことにより、一層その評価を高めた。しかしながら、交渉の場で何かと「教皇の権威」だの「教皇の威光により」と、教皇の権威に結び付けるやり方は、どの国家も辟易としており、先のラグドリアン講和会議でも、ロマリアの仲介が疎まれる一因ともなった。
「外交で点数稼ぎするのは勝手ですが、自分の手柄を振りかざされてはたまらないってことですかね」
「ほうほう、なるほど」
叙任式に出席した後、ヘンリーは大聖堂の一室で、ヨーク大公チャールズ・ハロルドと向かい合って座っていた。カンタベリー大聖堂は、王族が泊まるための居住スペースがあり、二人は大公に与えられた一室にいる。ヘンリーがヨーク大公に挨拶に来たのだが、会話が自然と世間話の流れになったのだ。世間話の内容としては、如何にも生臭いが、他に話すこともない。
「どこも大変ですなぁ」と、ヘンリーに輪をかけたような、のん気な声で呟くヨーク大公チャールズ・ハロルドは66歳。ヘンリーの夫人であるキャサリンの父、つまりヘンリーにとっては義父に当たる。鳥類の研究-特にアルビオンと大陸を往来する渡り鳥の分野の第一人者として、学会でも一目置かれる研究者であり「鳥の大公様」として、貴賎問わずに親しまれている。
この鳥の大公様は、体の弱い公子リチャードに代わり、娘婿であるヘンリーに、大公家と大公領を継承させるつもりであったが、当のキャサリンが「大公家が統治が出来なくなったのであれば、王から頂いた領地は返納すべき」と進言した事により、心変わりをした。ペンヴィズ半島南部のプリマスを含むヨーク大公領の内、屋敷や別荘などをのぞく領地と施政権を、名目上はヘンリーに相続させながら、王家に返還したのだ。
約3千年の長きにわたり、ペンヴィズ半島南部を治めた大公の大胆な決断は、アルビオン中の貴族の耳目を集めたが、大公は何も娘の意見に従っただけではない。元々、ヨーク大公家はその政治的独自性の高さから、何れ独立するとの噂が絶えず、大陸との物流の拠点であるプリマスを領有する大公家の動向には、中央も目を光らせており、絶えず政治的緊張関係にあった。
ヘンリーとキャサリンの婚姻は、中央との緊張関係を和らげる事に寄与した。しかし同時に、愚鈍でも無能でもない大公は、王家との結びつきが強くなることは、外戚として他の貴族からの無用な敵愾心を集め、否が応でも、その政争に巻き込まれる事を意味してることを理解していた。それは、宮廷での権力闘争や、政争にはトンと関心がなく、むしろ嫌悪していた大公にとっては、耐えられないことであった。
(ならば、政治的リスクを減らせばいい)
そう考えた大公は、娘の提案に従った。大公は持ち前の真摯さで、よき領主になろうと務めたし、実際にそうであったが、研究に打ち込みたい彼としては、領主の仕事はわずらわしいと思っていた事も事実であった。
政治的保身と、自らの欲求を満たすために行動するあたり、意外とこの岳父と娘婿は似ているのかもしれない。
閑話休題
義理の父親を前にして、馬鹿話を出来るわけもなく、ヘンリーはロマリアの話を続ける。大公は相変わらず宮廷の情勢には疎く、その手の話題を振れば食いついてくるので、話題には困らない。関心がないとはいえ、大公家を無用な政争から遠ざけるためには、そうした話題に敏感にならざるを得なかったヨーク大公は、ヘンリーの話に相槌を打ちながら、話を聞いている
「この度、わが国出身のランケ枢機卿が引退されます。代わってマシュー・ハットン大司教が、司教枢機卿に選任されましたが、今度から彼がロンディニウムと宗教庁のパイプ役となるわけです」
「ほうほう、なるほど。それで引退されるランケ枢機卿は、どのような御仁なのですかな?」
「パーマストン外務卿からの受け売りですが、ランケ枢機卿は、聖職者よりも外交官になりたかったそうですよ。外務卿も、かの人がアルビオンにいれば、今頃自分は外務卿ではなかったと公言しておられますから」
「なるほど、宗教庁とのパイプ役としてはぴったりだっだわけですな」
「そうです」
机の上のカップに手を伸ばすヘンリー。大公が聞き上手であるため、ついつい自分ばかり話してしまった。この、人に警戒心を与えない義父は、こうして宮廷内の情報を集めて生き残ってきたのだろう。もっとも、鳥の大公に専門的な話しをされても、困るのだが・・・
冷めた紅茶に口をつけながら、ヘンリーがそんなことを考えていると、今度はヨーク大公が、尋ねてきた。
「どうだね、うちのわがまま娘は」
「え、えぇ・・・それは・・・」
言葉を濁すヘンリーに、大公が追い討ちをかける。
「中々、面白いコミュニケーションをとっているそうだね」
「え、えぇ・・・」
「『拳で語る』だったかな?」
わかってて聞いてやがるなこの爺と、ヘンリーが恨めしげに見つめ返す。殴られる理由は、十中八九、ヘンリーが悪いのだが、そんなことはどうでもいい。大公は愉快気に、娘の思い出話を語る。
「あの娘は昔から腕っ節が強くてね。兄のリチャードとよく喧嘩したものだが、口喧嘩ではあの子の方が弁が立つから、すぐに取っ組み合いの喧嘩になるんだが・・・いつも泣かされていたのはリチャードだったよ」
「そ、それは、なんとも」
「これは身内の欲目として笑ってくれるとありがたいが、あの子は妙に早熟でね。言葉を覚えるのも、魔法を使うのも、人より早かったよ」
「・・・そ、それは」
危なっかしいことこの上ない。ヘンリーは暑くもないのに汗をかいていた。
「まぁ、意地っ張りなのは変わらないが・・・そうだろう?」
「えぇ、それはもう。前世でも・・・」
「ぜんせ?」
「いえいえいえ??!・・・えーと、そ、そうです!『ぜん・せー・で・もー』、です!東方の賢人のことわざだそうですよ?!」
手足と首をばたつかせる婿に、大公は首をかしげた。
***
ふ ぇ っ く し ょ ん ! ! !
「キャサリン公女、お風邪を召されましたか?」
「(ズズッ)・・・多分違うわミリー。これは、あの馬鹿が噂してるのね」
「は、はぁ・・・」
ううううんん・・・
「あ、アンドリュー。御免ね、起こしちゃった?」
***
「アンドリュー王子は」
「相変わらずですね。すぐに熱を出しますし」
息子の話になると、ヘンリーは顔を曇らせた。
ヘンリーとキャサリンの一粒種であるアンドリュー王子は、今年で2歳。虚弱体質なのか、頻繁に熱を出して、二人をやきもきさせている。特にキャサリンは、前世での息子が、やたらに体「だけ」は丈夫だったこともあり、ほとんど始めての経験で戸惑うばかりだ。医者も「5歳ぐらいまではよく熱を出すといいますが、王子は多いですね」と言ったものだから、キャサリンは気が気でない。
無論、ヘンリーも心配なのは変わらずに、毎日のように息子の部屋に顔を出している。しかし、こればかりは、体質的なものなので、どうにもならない。
「医者が言うには、なんでもアンドリューは偏頭痛持ちだそうで」
「偏頭痛ですと?喋れないのに、解るのですか?」
「えぇ。時折、頭を抑えるような仕草をしますし。水メイジが、体の血の巡りを調べたところ、頭部の血管が拡張しているようで、それが原因ではないかと」
「それは、また、難儀なことですな・・・」
黙り込んだヘンリー。悩んでどうにかなるのなら、幾らでも悩めばいいが、どうにもならないことを悩んでも仕方がない。大公は話題を切り替えた。
「そういえば、メアリー王女の婚姻は」
「うちのメアリーですか?」
「えぇ、殿下の妹君のメアリー王女です。婚約延期とはいえ、破棄ではないのでしょう?ガリアとトリステインの講和が成立した今は」
「あぁ、それがですね・・・」
ヘンリーは、うんざりした表情で、トリステインから帰国した直後に、キャサリンと交わした会話を思い出していた。
***
これより数日前。ヘンリーが『キング・ジョージ7世』にワインを積み込み、チャールズ・タウンゼント大使から冷たい目線を向けられていた頃、空の上の国のハヴィランド宮殿では、カンバーランド公ヘンリー王子夫妻の住むチャールストン離宮の一室で、お茶会が開かれていた。
その出席者の一人である王女が、惚気とも愚痴とも付かぬことをブツブツ呟いている。
「会うたび会うたび、歯の浮くよく台詞だけは、掃いて捨てるほど言うくせに、別れ際には『また後で』『また今度』『またいずれ』、またまたまたって、こればっかり!その結果がこの様ですよ!そんなに「また」が好きなら、母親の(ピー)に戻ればいいのよ!!」
・・・喋っているうちに、ボルテージが上がってきたのは、メアリー・テューダー王女-現アルビオン王ジェームズ1世の王妹にして、社交界で「水の精霊の様な神秘さがある」と称賛される王女は、亡き父王譲りの美しいブロンドの長髪を振り乱し、下町の酒場の町娘でも使わないような言葉を使い、アルビオン大陸から流れ落ちて、空中国土の周囲に虹と雲を作り上げる川の様な勢いで喋り続けている。
「大体、デリカシーがないのよ!どうでもいい事は、もう、ペラペラペラ-そのくせ、いざという時には「また・また・また」!肝心要の言葉は言わないくせに・・・彼も私の気持ちがわからないって言うわけじゃないのよ?気持ちがわかっていて、それで言わないんで、・・・げふ、ごふっ!!」
唾が器官に入ったのか、唾がなくなって喋れなくなったのか、メアリーは咳き込んだ。
「の、飲み物を」
王女の愚痴とも惚気とも付かぬ独演会を、相槌を入れながら、一生懸命に聞いていたモード大公夫人のエリザが、紅茶の入ったカップを差し出す。喉が渇いていたメアリー王女はそれを一気に飲み干し、一瞬慌てた後、驚く。
「あっ!・・・つくない」
首を傾げるメアリーに、独演会につき合わされて痛もう一人が、冷たい声色で告げる
「それは、貴方が惚気ていた間に、冷めたからよ」
うんざりとした表情で答えたのが、この離宮の主でもあるキャサリン。ヨーク大公家出身の王弟ヘンリー夫人にして、ヘンリーとは前世からの腐れ縁である。最初こそ、エリザに丸投げして、我関せずを決め込もうとしていた彼女だったが、いつまでたっても終わらない義妹のノロケに、頭痛を覚えだしていた。自然と、メアリーへの対応も冷たいものとなる。
当のメアリーはというと。キャサリンの発した「惚気」という単語を聞くと、一瞬ぽかんとした後、我に返って、再び顔を真っ赤にした。
「ななぁあ!何言ってるのキャサリン!私は、ののの、ノロケて何かいないわよ!」
「お義姉様とお呼びなさい、お義姉様と」
ヨーク大公家の公女であったキャサリンは、先王エドワード12世のただ一人の娘だったメアリーと年齢が近かった事もあり、王女の遊び相手に選ばれた。キャサリンは幼い頃から王宮に出入りしていたため、二人の関係は幼馴染と言うより、仲のいい姉妹といった感じである。
メアリーは、自分が2歳年下にもかかわらず「自分がキャサリンのお姉さん」という意識が強く、キャサリンがヘンリーと結婚して、本当の姉妹になった後も、彼女のことを「お義姉様」とは呼ばない。口では何だかんだ言いながら、キャサリンもこの関係を楽しんでいる。
それに
(この子、からかうと面白いのよね)
大人気ないという点では、どっちもどっちである。
「わ、私が、いいい、いつ惚気たって言うのよ!」
「今までずっとよ。言っておくけど、今だけじゃないわよ。ラグドリアン戦役から2年間、ずっとよ、ずっと!恋に恋した、乙女の甘ったるい話を延々と聞かされるこっちの身にもなりなさい。大体24にもなって・・・」
一瞬、ウンウンとうなずきかけたエリザ。2人の視線に気が付いて、慌てて首を振り、あいまいな笑みを浮かべる。どうやらメアリーの話に相槌を打ちながら、キャサリンと同じようなことを考えていたらしい。
額に青筋を浮かべながら、頬を引くつかせるメアリーを見れば、彼女が延々と、愚痴と惚気を続けていた「彼」こと、サヴォイア王国皇太子のウンベルト・サヴォイアでなくとも、それこそ百年の恋も冷めようというものだ。
メアリーとウンベルトが始めて出会ったのは、先代アルビオン国王戴冠20年の園遊会。一目惚れしたウンベルトが、猛烈なアタックを繰り返したことがなれ初めの始まりである。メアリーも年頃の女の子、言い寄られて悪い気がするわけもなく、婚約が成立したのが8年前の事。
ところが、そこから先が全く進展しない。
男兄弟が、どんどん自分を追い越して結婚していく現状に、焦ったメアリーが、ウンベルトと会う機会ごとに、それとなく話題を切り出すと、ウンベルトは話をそらし、誤魔化して、一向に本題に入ろうとしない。最後の1手まで追い詰めておきながら、キングが逃げ回っているのだ(追い詰めたのは向こうなのに)。「まさか他に女が」とも考えたが、そんな様子はまるでない。恋多きロマリア人には珍しく、ウンベルトはくどき文句こそ豊富だが、意外と純粋で、一度、恋愛関係でからかったら、舌を何度も噛みながら、真っ赤な顔で否定したくらいだ。
いろんな可能性を一つずつ検証していった結果、メアリーは、キングが逃げ回っている理由に思い至り、愕然とした。
「男の癖に、マリッジブルー?!」
怒り狂ったメアリーは、それこそ半ば関係者を脅すようにして、一昨年末にようやく結婚式の予定を立てるところまで追い詰めた。ここまでくれば、ウンベルトもいい加減腹をくくるだろう・・・と思っていたら、ラグドリアン戦争の開戦で、まさかまさかの婚約延期。
最初、結婚式の延期を侍従長のデヴォンシャー伯爵から知らされた時、メアリーは、呆然として言葉もなかった。メアリーが「婚約破棄」と勘違いして、取り乱すと考えていたデヴォンシャー伯は、うつろな顔で呆然とする王女の姿に、慌てて事情を説明した。曰く「停戦条約が成立したばかりの現状で、ガリアと国境を接するサヴォイア王国と、トリステインと同盟関係にあるアルビオンが結ぶ事は、ガリアを刺激するため望ましくない」と。
メアリーとて、初心な女子ではない。王族である自分の結婚が、すべからく政治的意味とメッセージを持つということは理解している。だからこそ、延期を聞かされて、激しく怒った。
さっさと私を迎えていれば、こんな間抜けな事態にはならなかったのに!!
同情する余地がないわけではないため、キャサリンはいつもその愚痴に付き合い続けた。しかし、飽きずに2年も不満をいい続けるという事は、本質的には惚気と変わりない。
メアリーを宥めるように、キャサリンが言う。
「それが男って言う生き物よ。山に登る前は、より高く、より大胆な計画を立てるくせに、いざ実行となると、途端にしり込みする」
「・・・それで?」
「それを誠実だと言うの」
エリザは、口をつけたばかりの紅茶を噴出した。
一通り笑った後、目元の涙を拭きながら、メアリーはキャサリンに向かって言う。
「貴女、昔からたまに、妙に大人びたこと言うのよね・・・」
「アハハハ・・・」
硬い、乾いた笑みで返すキャサリン。ヘンリーがここにいたら、生きた心地がしなかっただろう。全く、夫婦そろって、危なっかしいことこの上ない。
そして、言わずもがなの事を言うモード大公夫人。
「・・・おばさんくさ(ギュー)」
「な・に・か?」
「いふゃい(痛い)」
「何やってるのよ・・・」
メアリーやキャサリンは勿論、今ここにはいない皇太子妃カザリンも含め、今、頬を引っ張られて間抜けな顔をしているエリザも、ガリア王家出身の祖母譲りの青い髪と、スレンダーな体型、そして儚い雰囲気で、アルビオンの社交界で人気がある。
今のこの惨状を見れば、そんな評判も儚く消えてしまいそうだが・・・
~~~
「・・・ということがあったのよ」
「・・・あのさ。俺は仕事を終えて帰ってきたんだよ」
「それがどうしたのよ」
なんだか泣きそうになるヘンリー。せっかく、お土産も買って来たのに・・・
「あのね、貴方。誰の代わりに、メアリーの惚気に付き合っていると思っているの?あ・な・たの妹でしょうが!」
さすがに2年間も惚気を聞かされ続けて、キャサリンには色々思うところがあるようだ。精神衛生的にもよろしくないだろう事は、ヘンリーにでもわかる。
だからって、帰ってきて早々、愚痴らなくても
「あのねぇ!!貴方はあの場所にいないからそういう事が言えるのよ!大体、貴方は・・・」
***
「・・・という具合に、薮蛇でしてね。その後延々、説教されましたよ」
「はははッ、それはそれは」
「笑い事じゃないですよ。まったく、どうして女の話は、ああ周りくどいのでしょうかね」
娘婿の愚痴に、延々と付き合うヨーク大公。この人も妙な役回りである。その様子を、部屋の端で見ていたエセックス男爵は、やってきた神官と2,3言話すと、ヘンリーに告げた。
「殿下。教皇聖下が出立されるそうです」
「あぁ、わかった。すぐに行く」
「この後はロンディニウムでしたな」
「えぇ、兄上・・・ではなくて、国王陛下主催の晩餐会に出席されるために」
アルビオン国王は、カンタベリー大司教の叙任式には出席しないことになっている。国内において、ロマリアに人事権を認めざるを得ないアルビオンが出来る、唯一の嫌がらせであった。その代わりに、第1王位継承権を有する王族(今回の場合はヘンリー)を国王代理として出席させることで、教皇とのバランスをとっている。
「まったく、兄上も案外子供っぽいところがあるから」
「・・・それを君が言うかね」
ヨーク大公は、肩をすくめた。
***
(・・・き、気まずい)
テムズ川を上る教皇御召艦『聖パウロ号』の船中央に設けられた、教皇の船室で、ヘンリーは、何の因果か、癇癪持ちの気難しい老教皇と二人きりという、拷問の様な環境に耐えていた。
船の中とは思えない、およそ40畳ほどの広い部屋の床には、ロマリアの職人が腕によりをかけて編みこんだであろう絨毯が引かれてあり、その上に飾り彫りが美しい机と椅子、そして部屋の隅には本棚が置かれている。部屋の広さの割には、調度品が少ないように見えるが、それはこの部屋の主の性格であろう。
そして部屋の主である教皇聖ヨハネス19世は、立ち尽くすこちらを見もせず、椅子も勧めずに、自分だけ椅子に座り、祈祷書らしき分厚い本に、羽ペンで注を入れている。
「癖でな」
何もしていないのに、悪いことをしているかのような気まずい雰囲気に陥りかけていたヘンリーにとって、老教皇の一言は、その小さな金玉を縮み上がらせるのには十分すぎた。大体、王都へのお供を命じられたのは仕方がないとしても、教皇に呼び出しを受ける筋合いは微塵もない。それなら呼び出しを断ればいいだけの話なのだが、断れなかったのは、それがヘンリーだからである。
胸を押さえて顔を強張らせる、いかにも小心者がびびりまくっている態度のアルビオンの王弟を一顧だにすることなく、ヨハネス19世は続ける。
「こう見えてもわしは理屈っぽい性格でな。それが幸いしたのか、災いしたのか、旧東フランクの教区を回された後は、教理省にまわされた」
教理省という言葉に、反応するヘンリー。教理省はブリミル教の唯一の正統解釈者である教皇に代わり、教義の専門解釈を行う部署であり、宗教庁で最も忌み嫌われている部署である。かつて異教徒とそうでない者を解釈するのは、教理省の神官の匙一つとされ、中には袖の下を送って、火あぶりから逃れたものもいたという。当然、新教徒達もこの組織を忌み嫌い「教皇とは対話できても、教理省とは話す言葉が違う」とまで言い切る。
ヨハネス19世が、宗教庁内でもいわば日陰者の部署であるこの省の長官を務めていたことは、ロマリア市民なら誰でも知っており、それがこの老教皇がロマリア市民に人気がない一因となっていた。
老教皇は、祈祷書から視線を上げずに言う。
「何十年もこの仕事をしていたからな。今でも暇があると、こうして祈祷書を開いてしまう」
何かの話の前ふりだということは想像がつく。だが、それが何かがわからない。
「・・・好きでこんな仕事をしていたわけではない。嫌われ者を好き好んで演じるほど、わしは奇特な人間ではない」
「だがな」と言葉を切って、老教皇は顔を上げた。刻み込まれた皺は深く、落ち窪んだ目にそげた頬は、長年風雨に晒された始祖像を思わせる。神学校を卒業し、司祭に叙階されてすぐに、ザクセン王国の従軍司祭として、魔法と砲弾飛び交う前線で、自ら治癒魔法をかけて廻ったという若者は、光の国を治める立場に上り詰めた。その間に見聞きし、経験した事の全てが、顔の皺に刻み込まれているように、ヘンリーには思えた。
「誰かがやらねばならんのだ。疎まれようと、恨まれようと、罵倒されようと、石を投げられようと・・・誰かが汚れ役をしなければ」
「おっしゃることは、わかります」
老教皇の視線が一層鋭くなる。目をそらさなかった自分を褒めてやりたい。
「何がわかるというのだ?」
「・・・奇麗事だけで、国が運営できないことが、です」
不快げな表情をして、下あごを撫でるヨハネス19世。ごつごつとした手は、聖職者というより、鍛冶職人のようだ。
「君はジャコバイトと理解し会えると、本気で思っているのか?」
全く予想していなかったかといえば、嘘になるが、ヘンリーは老教皇の言葉に思わず黙り込んだ。この老人に通じないとはわかってはいるが、ヘンリーは皮肉を言って場を繋ぐ。突きつけられた問いに、すぐに答えることが出来なかったからだ。
「・・・さすがに、耳がお早いですね」
「誰がジャコバイトの本拠地を教えてやったと思っておる」
ジャコバイト-アルビオンの新教徒の異称となりつつある、反王家勢力。その拠点がトリステイン西沿岸部、アングル地方(ダングルテール)にあることを掴んだのは、誰あろうロマリアであった。トリステインも持て余しているこの新教徒に対して、ヘンリーはトリステイン内務教のエギヨン侯爵に「穏便」な対応を要請した。
ラグドリアン講和会議で要請してから、未だ半月もたっていないのに、すでにロマリアがそれを把握していることに、ヘンリーは、純粋な恐怖に近い畏怖の念を覚えた。
「傷口は切り開いて消毒するのが一番だ。切り開くのは痛いが、膿んで手足を切るよりはましだ。長引けば、アルビオン・トリステイン両国に碌な事にならんぞ」
「・・・そんな事は、貴方に言われなくてもわかっています」
答えになっていないことはわかっていたが、ヘンリーは、いつもの彼らしくなく、感情の赴くままに言い返した。
「ジャコバイトはわが国の内政問題です。アルビオン人の不始末は、アルビオン人がつけます。一方の当事者であるトリステインならともかく、聖下と言えども、口出しする筋合いはないはずです」
ヘンリーは教皇を睨んだまま、目線をそらさなかった。それがこの小心者に出来る、精一杯の抗議であった。
「・・・いいだろう。確かに王子の言う通りだ。これはあくまで、トリステインと貴国との問題。わしの目の黒いうちは、ジャコバイトに関して、宗教庁に口は出させん」
老人の「ジャコバイト問題については、しばらく静観する」という意味の言葉は、ある意味始祖の予言よりも信憑性があった。この老人が「させない」と言えば、それは必ず実現されるであろうということぐらい、ヘンリーにでもわかる。
「だが・・・アルビオンの王子よ。今、自分の言った言葉を忘れるなよ」
ヨハネス19世は目線を祈祷書に下ろした。にもかかわらず、ヘンリーは目の前の老教皇に気おされていた。視線を外されたことで、むしろ、この世のすべてを見透かしたような老人の態度が、急に恐ろしくなったのだ。
「聖職者の端くれとして忠告しておく。貴様が何を考えているかは知らんが、問題はいずれ誰かが決着をつけなければならんのだ。小僧、それを覚えておけ」
ヘンリーは、何も言わずにヨハネス19世を見つめ返した。その拳は、爪が白くなるまで握り締められていた。