ロンディニウムの中央を流れるテムズ川。アルビオン王国議会の議事堂であるウエストミンスター宮殿はその西岸に位置している。6000年代初頭のアルビオン国王エドワード10世(5980-6020)と議会が対立した際、王がハヴィランド宮殿内にあった議事堂をこの宮殿に追いやる様に移転させて以来、議会はウエストミンスター宮殿を議事堂として使用していた。一種の意趣返しであったのだが、エドワード10世はすぐに「自発的」退位に追い込まれた。
トリステイン高等法院が「国家の中の国家」なら、アルビオン議会は国家そのもの。形式的には国王の大権を補佐する機関とされていたが「王が寝ていても国家は動くが、議会が寝ていてはアルビオンは動かない」といわれるほど、国政への影響は大きいとされる。
その権威の源は、司法権と予算監督権にある。
アルビオン議会は庶民院と貴族院の二院制であるが、庶民院が成立して二院が確立したのがおよそ3000年前。それ以前は議会といえば、貴族と聖職者による「王会」(現在の貴族院)を指していた。王会は「建国王」アーサー(始祖ブリミルの長子)が第三子チャールズ(ウェセックス伯爵家祖)と功臣ノーフォーク侯爵の領地問題を、貴族を招集して審議させた事に始まる。親族と有力家臣の争いに、たとえいかなる判決を下したとしても両者共に収まらず、そのために自身の権威が傷つき建国間もないアルビオンの屋台骨が揺らぐ事態をアーサー王は恐れたのだ。そのため、今でも貴族院議長は代々大法官を兼ね、最高裁判所長官の役割を果たしている。
一方で庶民院は、3000年代最後の『聖戦』となった第4回聖地回復運動(3799-3810)を契機として設置された。国王ロバート10世(3753-3809)が遠征軍の費用を、貴族や聖職者からの増税で賄おうとした事に反発した貴族が、かねてから王の失政を批判していたノース伯爵を指導者として反乱を起こし、王に増税を撤回させたのだ。その際、ノース伯爵が「王の予算執行が適正かどうか監督する」という名目で、ロバート10世に各州や大都市の代表者(平民の有力者も含まれる)を選出して召集させたのが庶民院である。以来、王会は庶民院に対して貴族院と呼称されるようになり、現在に至っている。
国王を議会が監視し、議会を国王が牽制する。両者は互いに補完しあいながらアルビオンを運営してきた。
「相互監視による汚職と圧政の抑制がこの国の伝統というなら、内務省の権限を強化し、財務省と張り合わせようという陛下のお考えは伝統に沿ったものということになるがな」
アルビオン貴族院議長兼大法官のダービー伯爵エドワード・スミス=スタンリーは、年下である庶民院議長フレデリック・ジョン・ロビンソンにぼやいていた。
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ハルケギニア~俺と嫁と時々息子~(二人の議長)
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ウエストミンスター宮殿は、テムズ川の上から見て左側が貴族院、右側が庶民院である。中央の時計塔の鐘は、毎日3回必ず同じ時間に鐘を鳴らすことから、ロンディニウム市民に重宝されていた。貴族院議長室と庶民院議長室はその時計塔の中にあった。
貴族院議長室でヘンリーとシェルバーンを出迎えた部屋の主であるダービー伯爵は、アポもとらずに押しかけた二人に椅子を勧めながら、この場をどう切り抜けたらいいものかと頭を働かせていた。
ダービー伯爵エドワード・スミス=スタンリーは58歳。「再建王」リチャード12世の下で初代財務大臣として辣腕を振るったダービー伯爵エドワード・スミス=スタンリー(同名)はこの人の先祖である。しかしながら当代のダービー伯爵は可もなく不可もないと評判であった。彼の祖父が始め、伯爵家の家業とまで言われた競馬のオーナー業から手を引き領地経営に専念することで、先祖代々の財産を少しだけ増やした。それで満足できるのが当代のダービー伯爵という人物であった。貴族院の伯爵議員として籍を置いた彼は、これといった政治的行動を起こすこともなく真面目に議員を務め、貴族院副議長を経て議長兼大法官に就任。今年で4年目になるが、就任以来これといった懸案を抱えることもなく、議会を円滑に運営することだけに心を砕いてきた。
(その自分が何故こんなことに巻き込まれるのだ)
先日、大法官として出席した閣議で(貴族院議長は行政府の閣議に出席できない)枢密院が提出した省庁再編案をみたダービー伯はひっくり返りそうになった。まさか偉大なる先祖と同じ省庁再編に、自分が巻き込まれることになろうとは。それもよりにもよって「ダービー伯爵エドワード・スミス=スタンリー」が心血を注いで作り上げた財務省を対象としたものに。
枢密院案が発表された後、権限を縮小される財務省は猛反発。大幅に権限を強化される予定の内務省と火花を散らしている。財務省を大蔵省から分離独立させた先祖の苦労を知る伯爵は、意図的に行政府と距離を置こうとしたが、現在の彼の立場(貴族院議長兼任大法官)と、今の財務省を作り上げた偉大なるダービー伯爵の直系子孫で、しかも同じ名前である彼を周囲は放っては置かなかった。毎日のように議長室には財務省の局長クラスがやって来て「偉大なるダービー伯爵の遺功を破壊しようとするものですぞ」と馬鹿の一つ覚えのように繰り返す始末だ。
確かに財務省の権限縮小は、偉大なる先祖を否定されるようで面白くはない。しかしそうした不快感よりも、毎日のように「偉大なる伯爵の御先祖が」と繰り返されては、いくら温厚な老人であったとしても「自分には何の価値もないのか」という不快感の方が優ったのだ。何よりも偉大なる先祖と自分と同じ名前であるということが、この初老の伯爵に、どうしようもない鬱屈したものを積もらせていた。「エドワード・スミス=スタンリー」は、自分とは比べようもない偉大なる人物であったことは、他ならぬその子孫であり、同名であるがゆえに、産まれてから今までずっと比べられ続けてきた自分が一番よく知っている。分かり切ったことを他人に指摘される事ほど、腹が立つことはない。
閑話休題
ともかくそんな政治的に微妙な時期に、省庁再編の発案者であるとされる王弟と、当事者の一人である財務卿がそろってやってくるとあれば、ろくでもないことを押し付けられるに決まっている。シェルバーン財務卿だけなら「議会の中立性」とか何とか理由をつけて追い返すことも出来るが、王族が一緒とあればそうも行かない。アポもない突然の訪問であっただけに居留守も使えなかった。ダービー伯爵に出来たことは、この厄介ごとに巻き込む人間を増やすことだけであった。
ダービー伯爵が道連れに選んだのは、庶民院議長のフレデリック・ジョン・ロビンソン。「人相のいいブルドック」というあだ名の通り、たてと横に恰幅がよく、肉付きのいい顔の頬は軽く垂れ下がっている。二重まぶたの下の細い目は敵と味方を峻別するためか、常に油断なく周囲を見渡しており、低いが大きな鼻は、利権の臭いを嗅ぎ付けるのに役立ちそうであり、まさに「庶民院のドン」に相応しい風貌の持ち主である。
庶民院は一応は選挙の形式をとってはいるが、事前に候補者調整が行われるため、ここ数百年選挙戦が行われたことはない。大商人や大地主などの有力平民だけが選出されているわけではなく、貴族の子弟や次期爵位継承者、退役軍人なども選出されている。現在の議長であるフレデリックは、ゴドリッチ子爵家トーマス・ロビンソンの次男。30代という異例の若さで議長に就任し、現在に至るまでおよそ10年近く議長職を務めている。
ダービー伯爵はフレデリックを内心忌避していた。丁寧な態度で、年長者である自分を立ててはくれるが、50にようやく手が届いた「庶民院のドン」が内心何を考えているのかさっぱりわからないのだ。庶民院議長は8年も続ければ、貴族の子弟であれば一代男爵か分家を許され、平民であれば勅撰議員として貴族院に移籍するのが通例である。それをフレデリックは、どのように根回しをしているのかは知らないが、それらを巧妙に避けて12年にもわたり議長職を続けている。貴族でありながら爵位を望まないというその態度が「自分はそのような器ではありませんから」という謙虚なフレデリックの言葉とは裏腹に、ダービー伯には薄気味悪いものに映っていた。
しかしながら、厄介ごとを持ち込んでくるに違いない訪問者と対峙するには、これ以上なく頼もしい同席者だ。(味方かどうかはわからないがな)と内心自嘲しながら、ダービー伯爵は切り出した。
「それで、ご用件は」
いつもと変わらないのんきな顔をした王弟のカンバーランド公爵ヘンリー王子とは対照的に、財務卿のシェルバーン伯爵は、ハシバミ草を無理やり食べさせられたような顔をしており、部屋の空気を一層重苦しいものにしていた。
「議会の力を借りたい」
いきなり本題を切り出したヘンリー王子に、シェルバーン財務卿の苦々しげな顔の理由を察した。仕えるのは大変だろうにと伯爵に同情しながら、顔が自然と強張るのを感じる。
「・・・いや、それは何といいますか。突然のお話なものですので・・・」
「要するに、我々に枢密院の尻拭いをしろとおっしゃるわけですな」
あいまいな言葉で時間を稼ごうとしたダービー伯爵は、フレデリックの不敬とも取れる言葉に目をむいた。お世辞にも恰幅がいいとは言えない自分とは対照的に、やたらと貫禄のある体型の庶民院議長は、いつも通りのやんわりとした口調ではあったが、何一つ飾ることのない抜き身の刀で、これまでの対応を批判する。
「枢密院の方々も口ほどにもない。無駄に馬齢だけ重ねてこの様とは。話をややこしくしただけではありませんか。行政府の、特にロッキンガム宰相のやり方もいただけません。自身が根回しに動かれた形跡がまるでないとは。そもそも宰相が頭を下げてくるのならともかく、失礼ながら何故殿下が動かれるのです?」
「いや、それはだな・・・」
表向き、省庁再編計画とヘンリーとは無関係であるとされていたため、言葉に詰まる。いい繕おうとする王弟の言葉を遮るようにフレデリックは言葉を重ねる。
「失礼ながら、それは筋違いというものです。本来ならロッキンガム公が頭を下げてしかるべき。それに例えロッキンガム公爵に頭を下げられたところで、行き詰ってから議会に泣きついてくるとは、余りにも虫が良すぎるというものではありませんか?」
『正論』であるためにヘンリーもすぐには反論出来ず、シェルバーンにいたってはその仏頂面をさらに厳しいものとしていた。あっという間に交渉の指導権を握ったフレデリックの交渉術にダービー伯爵は舌を巻き、同時にこの男を同席させたことは正解だったと安堵した。
財務省の再編を中心とした省庁再編案の閣議決定が遅れているのは、ロッキンガム宰相と枢密院書記長官のモートン伯爵に原因があるというのが、ロンディニウムの一致した見方であった。ロッキンガム公爵への批判は「『財務省解体』とも受け取られかねない過激な枢密院案を閣議に出して混乱させておきながら、新設の首相職への自分の就任支持だけを取り付けるとは何事か」というやっかみ混じりではあったが、内容自体には頷けるところが多い。何より、関係省庁に根回しがなかったことが、事態を混乱させていることは明らかであった。前任者のスラックトン侯爵の手並みが余りにも見事であっただけに、ロッキンガムの不手際が目立ったのだ。
「ロッキンガム公爵を擁護するわけではないが」とヘンリーが反論する。
「爺さん-スラックトンのやり方では、大胆な改革案を提示することが出来なかったのも確かだ。あらかじめ根回しをしようとすれば、ある程度の要求を引っ込めざるを得ないからね。ロッキンガムの対応に問題がなかったわけではないが、枢密院案は条件交渉に持ち込むことを前提としたものだったから」
最初に最大限の要求をふっかけてから、次第に条件を引き下げて有利に交渉を進める-どうせそんなことだろうと当たりは付けていたシェルバーンだが、目の前で断言されては、さすがに苦笑いするしかない(顔面を痙攣させていたが)。「やり手の弁護士のようですな」と呆れたるダービー伯爵に、ヘンリーがさらに続けて言う。
「調整型の政治家としてはスラックトン侯爵は間違いなく一流だったが、何事にも向き不向きがある。ロッキンガムのやり方は不味かったが、だからといって公爵以外の人間で彼以上にうまくやった人間がいるとは思えない」
「仮に失敗しても『風見鶏』だから切り捨てても良心が痛まないと?」
フレデリックの皮肉に一瞬ムッとしたヘンリーだが、気を取り直して続ける。
「その点も含めて、根回しを枢密院に期待したんだが、モートン伯爵がな・・・確かに見通しは甘かったと認めよう」
枢密院書記長官として再編案を取りまとめたモートン伯爵は元財務次官。彼は財政規律重視の傾向が強い財務省の中で、商工局一筋の「商工族」であった。それゆえ財務次官時代には、省内のサボタージュで在任僅か2年で辞任に追い込まれた。枢密院書記長官として不遇の時代を過ごしていた元財務次官は、降って湧いた省庁再編計画に飛びついた。モートン伯爵という人物を知っていれば容易に想像できた事態ではあったのだが、ヘンリーは肩書だけを見て「元財務次官であれば、財務省に根回ししてくれるだろう」と安易に考えた。その点に関しては反省しなければならない。
モートン伯爵がとりまとめた再編案は、古巣への憎悪すら感じる厳しいものであり「これでは徴税庁だ」と財務省が反発したのはもっともであった。商工族の悲願である商工局(産業政策)の独立は勿論のこと、金融機関を監督する銀行局を金融庁として独立。通貨発行とその流通を監督する通貨局、予算編成権を王政庁に移管と、まるで財政規律派への嫌がらせの様な再編案に、商工局の独立はやむをえないという意見が大勢であった財務省内の財政規律派の意見は一変した。一部の強硬派は「紙一枚、釘一本たりともやるものか」とシェルバーンを突き上げ、財務卿も不承不承ながら閣議の場で「反対」と主張した。省内の体勢に逆らえば、今度はシェルバーンがモートン伯爵のように失脚しかねなかったからだ。
自分の仕事に誇りを持ち、それ相応にプライドの高いシェルバーンが「部下の顔色を見ながら大臣など続けたくない」と言い出しかねないため、ヘンリーは必死に慰留工作を行っていた。上知令を着実に実行するためには、この坊主頭の能力がまだ必要だったのだ。不機嫌そうな表情を隠そうともしない財務卿に、内心ため息をつきながら、ヘンリーは尚も言う。
「まぁ、今更なんだという気持ちもわかるがね。やらねばならんのだ。このシェルバーンも立場があるから声高にはいえないが・・・『ここに私といる』『私がいる』意味を汲み取ってはくれないか?」
「それは・・・」
ダービー伯爵は語尾をぼやかしながら、ますます面倒になったと頭を抱えた。省庁再編の提案者であるとされる王弟と、最も反対している財務省のトップが共に来たということは、財務省-すくなくとも財務省のトップは、再編自体は受け入れるつもりがあるのだろう。落としどころは「商工省」の独立あたりか。そしてこの王弟が自ら調整に乗り出したという事は「ヘンリーの兄」が、落としどころも含めて暗黙の了解を与えているという事。
(仮病でも使っておけばよかった)と後悔しながら、にんまりと笑みを浮かべる王弟の顔を見ていると、杖でも投げつけてやりたくなる。半ばやけっぱちになりながら、ダービー伯爵はヘンリーを見据える。
「やはりここは議会の力が必要なのだ。かつて5人の王の首を切った議会を見込んで、恥を忍んで言うんだ・・・頼むよ」
「おっしゃる内容は理解しますが、ですが・・・」
戸惑い気味に答えながら、言下に「迷惑だ」というニュアンスを含めるダービー伯爵。「王の首を切った」とは、アルビオンの議会の力を評してよく言われることだが、5人とも失政やスキャンダルで政権が行き詰まり、どうしようもなくなった時点で退場を突きつけただけの話。予算の使い方にケチをつけるならともかく、各省間の対立の調停などが出来るとは思えない。大体、議会議会というが、矢面に立って行動するのは議長である自分ではないか。
困惑が表情に出ていたのか、ヘンリーが付け加える。
「確かに君にも動いてもらわねばならん場面もあるのだろうが、具体的な仲介までは期待していないさ。議会で圧力をかけてほしいのだ」
「圧力、ですか?」
「そう。議会の意思を見せてほしいのだ。議員各位にもそれぞれしがらみがあるだろうから、決議してくれとまでは頼まない。大まかな省庁再編を指示する方向で議会をまとめてくれればいい。そうすれば財務省も露骨な反対運動は起こしにくいだろうから。ねぇ、財務卿」
「・・・そうですな」
シェルバーン財務卿・・・何でこっちを睨むんだ。俺が悪いわけじゃないだろう。頼むから睨まないでくれ。お願いだから。心臓に悪いから。
「で、どうなんだ。やってくれるのか、くれないのか」
さっきまでの低姿勢はどこへいったのか。最初から選択権など与えるつもりはないくせにと、皮肉の一つもいいたくなったが、フレデリックほど心臓に毛の生えていない自分に言えるはずもない。ダービー伯爵はそこまで考えてから、フレデリックはどう考えているのかということに、ようやく思いが至った。
自らの右側に座る男に目をやると、ふっくらとした顔の二重まぶたを閉じ、何かを考えていた。庶民院と貴族院の両院の同意があってこそ、財務省への圧力になる。庶民院のドンが反対するとあれば「両院の協調に反する」とか何とか理由をつけることも可能になるのだが・・・
そんなダービー伯爵の期待は果かなく潰える。フレデリックは反対の理由を考えていたのではなく、交渉受け入れを前提として、自らの利益を要求し始めた。
「よろしいでしょう。庶民院としてはその方向性でまとめてみましょう・・・ですが条件があります。まずポストをいくつかまわしていただきたい。内務省でも財務省でも、新設の商工省でも構いません」
目を白黒させるダービー伯爵と、露骨な要求に不快げな色合いを目に浮かべるシェルバーン財務卿。「商工省の独立が前提かね」と、この人らしからぬ皮肉が口を付いて出ていた。文字通りの厚い面の皮でそれを受け流したフレデリックは「私は出来ないことは引き受けません」と答える。
「だからこそこの地位に10年も入れたのですよ。それがどういうことか、財務卿にはお分かりでしょう」
暗に省内での基盤が弱いシェルバーンを揶揄するフレデリック。額に青筋を浮かばせるが、本当のことであるだけに反論が出来ず、本当のことだけに腹が立つ。ヘンリーはというと、特に反応も見せず「あとは?」と続きを促した。
「それと、もう一つ、これは必ずしていただきたいのですが、モートン伯爵はどのポストにも起用しないで頂きたい」
「ポストというと、行政職という意味かね」
「内閣もそうですが、宮中職も、大使として国外に追放されるのも困ります」
フレデリックの言葉に首をかしげるダービー伯。目で続きを促すヘンリーに頷きながら、何事もなかったかのように、フレデリックは理由を述べる。
「庶民院とはいえ、財務省につながりのある人間がいないわけではありません。枢密院の不手際は、ウィルミルトン伯(前財務卿)が病気がちで調整が十分ではなかった事もありますが、ひとえにモートン伯の私怨によるところが大きいのは周知の事実。かの人が取り立てられては、まとまる物もまとまりません」
「しかしな議長」
今度はヘンリーが困惑の表情を浮かべながら言う。
「毀誉褒貶はあるにしろ、モートン伯が再編案を取りまとめたのは確かだ。それをどのポストにも就けないというのは、いささか片手落ちではないかね?」
「これは言葉足らずでした」
そう言って自らの後頭部を叩くフレデリック。
「片手落ちでなければ困るのですよ殿下。むしろ現在の職務からも更迭してもらいたいのです」
「ロビンソン議長、それは・・・」
言葉が続かず、顎に手をやるヘンリー。さすがに貴族院に比べて議論が白熱しやすい庶民院の議長として10年近く君臨しているだけのことはある。洞察力や駆け引き、何より男の嫉妬に関する理解に関しては、自分など足元にも及ばないと感心していた。
「財務省の反対論は、モートン伯への個人的反感でしょう。自分たちを切り刻んだ挙句、自分だけが出世するのかという。聞けば商工族の間でも伯爵のやり方はまずいと憂慮する声が大半だとか。モートン伯爵の取り扱いさえ間違えなければ、財務省内も商工局の独立で意見がまとまるでしょう・・・違いますか、シェルバーン財務卿」
「・・・ふん」
面白くもなさそうに首を傾げて鳴らすシェルバーン伯爵。解っていることと納得していることはイコールではない。再編案に反対している財務官僚もそうであろう。初代財務卿の偉大なるダービー伯爵が産業政策部門を財務省に統合したのは、小麦飢饉と四十年戦争で荒廃したアルビオンを立て直すためには、財政と産業政策が統合していたほうが効率が良かったためである。復興すれば分離するはずだったのを、権限を手放したくない財務省が理由をつけてずるずると引き伸ばしたのだ。
財政規律重視の財務省主流派と、積極的な産業政策を唱える商工局が同じ省にあること事態が、水と油を同じビンに入れるような話であり、何より風石を利用した帆船が民間で使用されるようになり、経済成長のスピードと規模が爆発的に拡大していくと、経済と財政を一つの省で統括する体制に無理が出てきていることは、財務省主流派も解っていた。これまでの経緯から素直には喜べないのに、商工族の元次官が、省全体を危機に陥れる(と主流派は受け取った)ような再編案を出した事で、両者の対立が感情的な対立へと変化したのだ。
とはいえ子供ではない彼らの多くも、実質的な落としどころがどこにあるかは解っている。議会には財務省に繋がる人脈もある。モートン伯爵に落とし前をつけさせ、それでもあくまで商工局独立に意固地に反対すれば、財務省の不明を天下に晒すようなものである。そしてここまでお膳立てをしてもらいながら省内意見をまとめ切れなければ、シェルバーンもそれまでという事になる。
フレデリックの言葉の背景を理解したシェルバーンは「この野郎」と怒鳴ってやろうとも考えたが、無様になるだけだと思い直した。
フレデリックは尚も意見を述べ続ける。
「何なら議会で引き受けましょう。ちょうど貴族院の伯爵議員枠に空きがあったはずです。ですね、ダービー伯爵」
「・・・貴様」
唐突に、先ほどからフレデリックに抱いていた違和感の正体に気が付いたダービー伯爵は「謀ったな」という言葉を何とか飲み込んだ。この男、どこからか情報を得て今日の会談がある事を知っていたのだろう。そして自分がフレデリックを呼ぶことを前提とした上で、どのように答えれば高く売りつけることができるかをあらかじめ想定していたのだ。見た目どおりに腰が重く言動に慎重なこの男が、ペラペラと話している時点で気が付くべきであった。
これでは、自分はとんだ『道化』ではないか。
睨みつけるダービー伯爵の視線に気が付いたのか、恨みを買うのはなれたものだといわんばかりに苦笑するフレデリック。そのふざけた顔を見た途端、怒りは疲労に変わった。議長室の中で一人だけ元気なフレデリックは、会談の終わりを宣言するかのように言った。
「お任せください。このフレデリック・ジョン・ロビンソン、駄々をこねる子供を寝かしつけるのは得意です」
そう言って拳で胸を叩いた『庶民院のドン』は、どこからどう見ても『道化役』(ピエロ)そのものであった。
***
フレデリック・ジョン・ロビンソンは、ダービー伯爵エドワード・スミス=スタンリー卿と自分を比べ、多くの面でこの老伯爵より自分が勝っていると考えている。同時に、それ以上よりも多くの面で、この老人が自分より優れた人物だと理解していた。
フレデリックの行動原理は単純である。自分より優れた人物に対しては敬意をもって接し、多少自分より劣った人物にはそれに応じた対応をとり、馬鹿には馬鹿に合わせて馬鹿をする。庶民院での数少ないフレデリックの政敵であるスペンサー・パーシヴァル議員が彼を評して「奴は金がほしい奴には金を与え、ポストがほしい奴にはポストを与えただけだ」と言ったように、彼はそうやって庶民院内での勢力を築いた。
そうしたフレデリックの行動原理からすれば、この伯爵に敬意をもって接するのは当然であった。老伯爵には自分にはない美点を数多く持っていた。多くの貴族は競馬のオーナー業から手を引いた彼を「器の小さい小心者」と評したが、フレデリックには「自分の器」を知る懸命な人物と映った。人を評するのは簡単だが、自分を知るのは難しい。この一点だけでも、フレデリックにとって当代のダービー伯爵は尊敬するに値した。
無論、それだけではない。政治的野心が薄く政争から距離を置いてきたこの伯爵は、それがゆえに貴族の間で人望があった。「組みしやすい」と侮られた面も無きにしも非ずだが、そうしたものも含めて神輿に担ぎあげられるのも人望の一つ。伯爵で貴族院議長になったのは、フレデリックの記憶が正しければ数百年ぶりのはずである。そうした人物と親しくしておくことは、自身の庶民院での立場の強化につながるし、なによりも自分の隠れ蓑にもなってくれる。フレデリックはダービー伯爵に対して、同じ議長職として議会運営の助言を行った。伯爵が自分を疎んでいることは百も承知だが、その利用価値は認めているだけで、フレデリックには十分であった。
そのダービー伯爵は、ヘンリー王子とシェルバーン財務卿が退出した後、半ば殺気の混じった視線を自分に向けている。
「きさ・・・ロビンソン議長」
呼び捨てようとしてから言い直したのは、何事にも正確さを求める性格ゆえか、間をおいて感情を和らげるためか。傍に座っていたくないとでもいうかのように立ち上がったダービー伯爵は議長室の窓側に歩み寄り、視線だけを椅子に座ったままのフレデリックに向けて言う。
「どういうつもりだ」
「どういうつもりだとおっしゃられましても、何のことでしょうか。思い当たる話が多すぎまして」
「貴様という男は・・・」
視線を窓の外の景色に向けて、諦めたように息をつく。議長になって4年、この男に助けられたことは両の手を入れても数えきれないが、同じように利用されたことは両足の指を入れても数えきれない。それを受け入れざるを得ない自身の不見識と間抜けさが、つくづく嫌になる。
背を向けたダービー伯爵に、フレデリックが声をかける。
「どうせ受け入れざるを得なかったのです。ならば正当なる労働への報酬は頂くべきです」
「報酬とは、君自身の利益を意味しているのかね?」
フレデリックもこうしたやり取りは嫌いではない。その弛んだ頬を軽く上げながら言う。
「そうともいえますね。議会が円滑に運営できるように、予算が円滑に審議できる環境を作るために行動した結果として私の財が増えていったのは否定しません。今回も殿下の求めに応じて行動しようとすれば、議員へのポストが必要であったというだけの話です」
「君は議員にポストを配り、ますます肥え太るわけかね」
ダービー伯爵の皮肉はいつにもまして痛烈だ。無理もないことだがと内心苦笑するフレデリック。彼としてはダービー伯爵にヘンリーの訪問を黙っていたのは、その方が交渉に有利であったから。隠し事の苦手な伯爵に事前に知らせれば、そこから付け込まれる可能性があった、それだけである。別に伯爵を謀ったわけでもなんでもなく、むしろ伯爵のことを思えばこそだ。
今回の仲介交渉や議会での意見取りまとめに関しても、フレデリックは伯爵を前面に出すつもりはなく、すべて自分で行動するつもりである。「報酬」とは労働の対価として受け取るもの。別に熱心なブリミル教徒ではないフレデリックだが、何もせずに報酬だけを得ることは彼のポリシーに反する。タダより高いものはなく、それはジワジワからだに効く遅延性の毒かもしれないからだ。
仮に失敗しても政治的に傷つくのは自分だけであり、ダービー伯爵は無傷でいられる。リスクを自分で背負ってきたからこそ、フレデリックは庶民院での立場を築くことができた。トカゲのしっぽ切りをしていては、たとえいくら金やポストを配ったところで配下など集まらない。
フレデリックは、懐からシガーケースを取り出しながら、いまだに機嫌が治らないダービー伯爵に向かって言う。
「それに議長閣下としても、此度は動きにくいでしょう。何より今回の対象である財務省は・・・」
「やはり貴様は貴族には向いておらんな」
テムズ川を見下ろしたままの貴族院議長の思いもがけない反応に、煙草をもった手を口に運ぶのを止める。
「さて、どういう意味でしょうか」
「言葉の通りだ。貴族として一家を構えることから逃げている君にはわからないだろうが」
別に逃げているわけではなく、彼なりの考えがあってのことなのだが、あえて否定はしなかった。煙草をシガーケースに戻すフレデリック。
「たとえ先祖の功績であれ偉業であれ、正さねば成らない物を正すのに、何のためらいがあろうか。それで家の名誉がつぶれ没落するなら、我が家はそれだけの家だったということ。根っこに実がなる植物のように、先祖自慢だけが取り柄の家は、さっさと潰れた方が国のためだ。それに」
しわぶきを一つして言葉を続けるダービー伯爵。
「私はダービー伯爵エドワード・スミス=スタンリー。『再建王』リチャード12世に仕えた偉大なるダービー伯爵エドワード・スミス=スタンリーの43代目子孫にして、同じ名を継ぐ者。能力は偉大なる先祖に及ばず、才は貴様にも劣る。だがな・・・」
そう言って振り返った「ダービー伯爵エドワード・スミス=スタンリー」の顔つきは、偉大なるダービー伯爵と見まごうばかりの威厳と態度に満ちていた。
「貴族としての覚悟は、貴様に今更説かれるまでもない。フレデリック、あまり貴族をなめるでないわ!」
一喝してから、ダービー伯爵は再び背を向けた。最後はほとんど吐き捨てるような物言いであった。偉大なる先祖と自分が比べられるのが、よほど腹立っていたのか。窓の外を見下ろしながら「余計なことを言ってしまった」と顔を歪めておられるのは、容易に想像できる。その背中を見つめながら、フレデリックは(やはりこの人は敬意を持って接するに値する人だ)という思いを深めながら、立ち上がった。
「それでは、議会との折衝に関しては、また日時を改めて相談するということで」
相変わらず背を向けたまま、首だけを動かして肯定の意を表すダービー伯爵。フレデリックは議長室を出る際、通常より深く頭を下げた。