『お前は俺の敵か?』
旧王城シャンゼリゼ宮殿の一室で、少年が自分に問うている。自分と同じ髪の色-ガリア王族特有の青い髪を持つ少年は、触れれば崩れてしまうような脆さを感じさせる。護衛の騎士達の屈強な体格と比べるのは酷というものだが、色白の肌と相まって少年のひ弱な体が一層際立って見える。ろくに王宮から出たことがないと容易に想像がつくし、実際にそうであった。
当時ガリアは貴族の反乱が相次いでおり、王太子である少年は父親である国王と並んで暗殺リストの最上にあった。腹違いとはいえ実の弟である自分と彼との初めての会談の時にも、警護の騎士や侍従たちが同席させるほどに厳重な警護を少年は受けていた。警戒の視線を周囲に送る騎士達や、自分を値踏みするかのような視線を送っていた侍従達、そして異常なまでに傲慢な態度とは裏腹に怯えた視線を自分に送っていた兄-後の『太陽王』ロペスピエール3世も、今はこの世にいない。あの場に立ち会った人間の中で生きているのは、おそらく自分だけであろう。
60年以上も前の事だが、現実として自分が体験した事だ。その後の自分の人生を決めたあの会談を、一日たりとも忘れたことはない。忘れられるはずが無い。なのに思い出せない。『お前は俺の敵か?』と怯えた目で問うた少年に、自分が何と答えたのかが。兄の服装や髪型、一緒に食べた菓子の味は克明に思い出すことが出来るのに、そこだけが頭の中に靄が掛かったかのようで-
『お前は俺の敵か?』
もう一度そう問うた兄は、老いさらばえた晩年の姿へと姿を変える。杖無しには立ち上がることすら出来なくなっていたはずだが、夢の中の兄は力強く自分の足で立ち上がっていた。頭骸骨に皮膚だけが張り付いたかのような病に冒されたやつれた顔の中で、落ち窪んだ眼窩の奥の眼だけが異様に輝き、ぎょろりと自分を睨んでいる。その眼の奥に潜む感情は、怒りか、悲しみか。それとも
『お前は俺の敵か?』
あぁ何と答えたのか?その後、何十年にも亘ってこの男に仕え、この男の為に働き、この男を助け、この男に振り回され、この男に怯え続けることになる事を知らない幼い自分は。
『答えろ、ルイ・フィリップ・ド・ヴァロア。お前は俺の敵か?』
そこで老人の意識は覚醒した。
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ハルケギニア~俺と嫁と時々息子~(外伝-ノルマンの王)
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「・・・夢か」
そうひとりごちた老人は、かすかに首を上げて目線を周囲にやった。窓の外はいまだ深い闇に包まれており、日の出までにはかなり時間があることがわかる。夢という名の記憶の再生が終わったことをようやく認識した老人は、枕の下から杖を取り出した。
ランプに火が灯り、淡い光が辺りを照らして老人の姿を浮かび上がらせる。眼を凝らせばかろうじてそこに人がいることを識別できる程度の明るさでも、その髪と下顎を覆う髭の色だけはすぐに認識できた。ガリア王族の象徴である青い髪は、国王に血が近ければ近いほどその鮮やかさを増し、年齢を重ねると次第に薄くなるという。現国王シャルル12世の叔父であるこの老人もその例外ではなく、かつては見る者に息をのませた鮮やかな青髪は、すすけた水色がかっている。老人はふと杖を握る自分の手を見た。手は如実にその人を現す。杖の忠誠を50年以上も兄に誓い続けた自分の手は、髪と同様に受け入れがたい老いの現実を自分に突きつける。
ノルマンディー大公ルイ・フィリップ7世。先代のガリア国王『太陽王』ロペスピエール3世の存命するただ一人の弟にして、現国王であり甥のシャルル12世に対して反乱を起こした首謀者とされている人物である。億劫そうに上半身を起した老人は、寝違えたのか、それとも年のためか、肩に張りを感じて首の後ろを撫でると、唐突に苦笑を漏らした。
(この皺首一つに、1万エキューとはな)
自分にかけられた懸賞金を思い出して、老人は笑った。何でも自分の首に懸賞金をかけるように動いたのはパンネヴィル宰相だとか。内務卿時代に兄の怒りをかって失脚しかけた際にとりなしてやった事は、どうやら侯爵の記憶からは消えているようだ。高額の懸賞金をかけられるだけ大物になったのだと考えると悪い気はしないが。
自らの死を意識せざるを得ない状況にあって、そう自嘲するだけの精神的なゆとりが、この老人にはあった。子供じみた自分の考えに自嘲の笑みを浮かべ、もう一度眼を閉じる。たが、どうにも寝つきが悪い。再び杖を振るって枕元の鈴を鳴らした。部屋の主である老人同様、古くて厳しいつくりのドアを押し開いて入室した侍従のユーグ・ド・リオンヌに「水を」と一言命じる。
水差しを待つ間、老人の思考はやはりあの夢の内容になる。
ルイ・フィリップはブリミル暦6142年、ガリア国王シャルル11世(現国王シャルル12世の祖父)の4男に産まれた。当時、ガリアは不穏な空気に包まれていた。シャルル11世はガリアの王権強化(中央集権化)を目指しており、既得権益を奪われる貴族層の反乱が相次いでいたためだ。王都リュテイスでさえその例外ではなく、毎週のように暗殺事件が発生。経済顧問だったジャン・ディドロやジョセフ王太子がその犠牲となった。シャルル11世は次男のロペスピエールをすぐさま王太子に据えると、それ以外の子息をリュテイスから遠ざけた。王家(自身)の血筋を守り、むようルイ・フィリップも産まれて直に母方の実家であるアルトーワ伯爵家に預けられる。
アルトーワ伯爵家で養育されたルイ・フィリップが、兄である王太子ロペスピエールと始めて対面したのは7歳の時。ここ最近、何度も見るあの夢の会談がそれだ。初めて訪れたリュテイスの華やかさに心躍らせながら、シャンゼリゼ宮殿に足を踏み入れたルイ・フィリップは、その生涯で初めての『恐怖』を覚える事になる。
『お前は俺の敵か?』
後年、ロペスピエール3世はリュテイス郊外にヴェルサルテイル宮殿を建造し始めると、移転を進める家臣の進言を無視し、忌まわしき記憶の象徴であったこの宮殿を徹底的に破壊させた。ジョセフ王太子が暗殺されたのはシャンゼリゼ宮の鏡の間。当時3歳だったロペスピエールは、兄が毒物の入った紅茶を飲んで吐血し、痙攣しながら死んでいく様を見せ付けられた。王太子となったロペスピエールは、弟達とは違い王都-シャンゼリゼ宮殿に留まる事を命じられる。跡継ぎを手元で守りたいというシャルル11世なりの配慮だったのかもしれないが、当然のように次の王太子の暗殺も企てられた。人一番感受性の強い少年は人知れず傷ついた。
いつしか人を疑うことが自然となり、峻厳なまでに敵と味方に区別することで自分を守ることを覚えたロペスピエールには、初めて出会った弟もその例外ではなかった。母方の実家で伸び伸びと育てられたルイ・フィリップには、自分と大して年齢の変わらない少年がそう考えていることが純粋に恐ろしかった。その瞬間から「ルイ・フィリップ・ド・ヴァロワ」の中で、ロペスピエールは「兄」ではなく「仕えるべき主人」として認識されることになった。
恐怖による忠誠心は、実際の行為によって、より深く彼の心に刻み付けられた。ロペスピエールには、ルイ・フィリップ以外に二人の弟がいた。自分にとっては兄と弟に当たる彼らが、即位してロペスピエール3世と名乗った兄に謀反の疑いをかけられて粛清されたのだ。
その知らせを聞いた瞬間、ルイ・フィリップは「次は自分だ」と覚悟した。ところが彼の元にはいつまでたってもその命令は下されず、その代わりに、このノルマンディー大公家を継ぐようにと命令された。ルイ・フィリップが王家や中央政府への反抗心が強い「ノルマン人」に受け入れられたのは、その態度が誠実で大公領の統治に熱心であったからだとされる。しかし当の本人は、いつ兄に粛清されるかわからないという恐怖だけがあった。不必要な人間だとして切り捨てられないためには「使える人間」と思わせなければならないが、猜疑心の強い『太陽王』に仮初にも警戒されてはならない-そんな状況の中で、彼は必死に働いた。ただそれだけの話だ。
兄弟二人と自分の生死を分けたものが何だったのか-太陽王が死んだ今となっては確かめるすべもない。ルイ・フィリップは、兄が死んでもその呪縛から逃れる事は出来なかった。この問いの答えを見つけなければ、自分はおそらく死ぬまで、そして死んでからもあの男の呪縛から逃れることはできない。
単なる偶然や兄の気まぐれでは理解出来ない。50年以上もあの男に仕えてきた自分だからこそ断言できる。粛清するなら3人まとめてした方が楽に決まっているし、物であれ人であれ欲しいものは必ず手に入れ、自分のプライドを満足させることを何よりも優先した兄なら、そう命じたほうが自然だ。ましてや自分を生かすことに政治的価値を見出したとは思えない。自分の母方の実家であるアルトーワ伯爵家は王家の分家とはいえ、ふけば飛ぶような存在。取り込む価値すらない。
となれば考えられるのはただ一つ。
『お前は俺の敵か?』
この質問に、7歳の自分が返した答え。それがあの男が自分を生かした全ての理由であり、自分が彼に仕え続けた答えのはず。奇しくも『太陽王』がこの世を去った年齢と同じ71歳を迎え、人生の終焉が現実のものとして迫っている今だからこそ、その答えが知りたい。
「・・・何と答えた?なぁ、兄さん」
答えを知る兄はこの世にはいない。上半身を再びベットに横たえたルイ・フィリップには「ガリアの柱石」とまで言われた昔年の冴えは見つけ出すことは難しい。ここにいるのはガリアの王族でも、太陽王の弟でもなく、人生の黄昏を迎えた今もなお、自らを縛る鎖と兄の呪縛から懸命に逃れようともがく、ただの老人だった。
部屋の片隅では、水差しを持った老侍従が主の思考を邪魔しないように静かにたたずんでいた。
***
ガリア北東部ノルマン地方の中心都市ルーアン。人口約9千人、規模で言えば決して大きくはないこの都市の北側『旧市街地』と呼ばれる地区の中心に、町全体を見下ろすかのようにルーアン大聖堂が聳え立っている。ノルマンディー大公家領の政庁にして住居であるルーアン城よりも、大聖堂のほうがよほど城らしい造りだ。それもそのはずで、この大聖堂はブリミル暦3201年にガリアがブリミル教を国教に定めた時に司教座が置かれたという重要拠点。規模こそロマリア市の聖フォルサテ大聖堂に劣るが、その重厚な佇まいは見る者に神と始祖の偉大さを思い起こさせるのには十分であり、独自の土着信仰が根強かったノルマン人の意識を変革させるのに役立ったとされる。現在でもルーアン司教管区を含む8つの司教区を統括する、ガリア北東部の信仰と教会権力の要である。
その大聖堂の主の姿は、保護を求める商家や難民達であふれる聖堂内にはなく、ルーアン城にあった。ルーアン城は長年リュテイスと争い続けてきた大公家の本拠地らしく、ガリアの様式美にこだわる建築ではなく、純粋に要塞としての機能が重視されている。重厚な城壁などに見られるアルビオン様式は、大公家と白の国との隠然たる繋がりを示していた。しかし、それも最早過去の話。これまで常にノルマン大公家の反乱の後ろ盾として暗躍しながら「厳正中立」を謳っていたアルビオンだが、今回はルーアンからの援軍要請を黙殺し、親ガリアの外務次官主導でガリア中央政府への「強い支持」を表明。期待していたトリステインやグラナダ王国の参戦も無く、ノルマン大公家は孤立無援の戦いを強いられている。
ノルマン大公家を取り巻く周辺状況と比例するかのように、戦況も急速に悪化した。ルイ・フィリップ7世の長男であるジャン・フィリップ公子が決起宣言書『ルーアン宣言』を高らかに宣言してから僅か1週間ばかりで、ガリア中央政府はノルマン地方の物流の拠点カーンを攻略(第1次カーン攻防戦)。焦ったジャン・フィリップが大公軍を率いてカーン奪還を目指したが(第2次カーン攻防戦)敗退。ジャン自身も戦死するという大敗北を喫した。これで流れは決定的に中央政府に傾き、大公領の領主や貴族が雪崩を打って離反。カーンをおさえたガリア軍はノルマン地方全体を兵糧攻めにし、都市や町を一つずつ確実に切り崩す作戦を取った。
第2次カーン攻防戦から4ヶ月、ウィンの月(12月)フレイヤの週(第1週)ユルの曜日。ベル=イル公爵率いるガリア軍4万6千は、満を持してルーアンへの進軍を開始。今はガリア軍の先鋒はルーアンまで三日の距離にまで進んできている。私財のある市民達は家財道具を積み込んだ馬車や家族を連れて城門へと向かい列を成していた。逃げ出すことも叶わない避難民や貧しい市民達は、当然のように弱者の権利を主張して教会に庇護を求めた。そのため、大聖堂は今や壮大な炊き出し場の態をなしている。
「おかげで臭くてたまらない。冬とはいえ、何日も風呂に入っていない人間が雑魚寝しているのだ。衛生的にも精神的にも良くないに決まっている・・・だからと言って、今更追い出すわけにも行かないが」
赤い法衣とマントに身を包んだ枢機卿は、この城の主であるルイ・フィリップに背を向けたまま不機嫌そうに呟いた。ルーアン城の最上階の窓から町を見下ろす彼の視線の先には、ルーアンから逃げ出す市民の列がある。
エルコール・コンサルヴィ枢機卿。ガリア出身の枢機卿で59歳。法衣を着ていなければ、どこかの大学の教授にも見える知的な雰囲気を漂わせたこの聖職者は、現教皇ヨハネス19世の右腕であるとされる人物である。ノルマンディー大公ルイ・フィリップ7世の友人であるエルコールは、反乱発生直後からリュテイスと大公の和解のための努力を続けていた。だが事ここに至っては、彼の調整力と影響力もってしても調停は不可能であるということを、他ならぬ彼自身がよく理解していた。
逃げ出す市民の列を見おろしたまま「沈む船から逃げ出す鼠のようだな」と吐き捨てるエルコール。宗教家としては決して褒め言葉ではない『現実主義者』と綽名される現教皇の側近らしく、エルコールは手堅く慎重な言動で知られている。だがそれは自分を必要以上に理性で縛りつけていたため。そうでもしないとこの男は、内心の燃えたぎるような激しい激情を抑えつけることが出来なかった。『人が万物の霊長と名乗るのであれば、それにふさわしい気高き理想を持ち生きるべきだ』とする美意識の持ち主である枢機卿からすれば、ルーアンから逃げ出す兵士や市民達の行動は、到底納得できるものではない。
「かき集めても精々2千というところか」
2千対4万6千-子供でもわかる計算だ。逃げ出す鼠が増えても無理はないとため息をつきながら、エルコールは振り返って大公を厳しい表情で見た。謀反人とはいえガリアの王族たるノルマンディー大公に対して不敬とも取れる態度で接し、それを大公が平然と受け入れているのは、一枢機卿と大公という表向きの関係以上に、二人の関係の近さをあらわしていた。
「ルーアンに留まる市民や義勇兵を入れても4千に届くかどうか。傭兵など寄り付きもしない。勝ち目など到底ないぞ。ここまで兵力差が開くと敵に一矢報いる『名誉の戦死』も不可能だ」
「そうだな」
どこか心ここにあらずという友人の態度に苛立ちを募らせながら、エルコールは教会の権威と権益を守るために、この地方の教会を統括する枢機卿としてブリミル教徒が無用な戦渦に巻き込まれることを防ぐために、そして何より一人の友人としての責任を果たすために、大公の説得を続ける。
「最早組織的抵抗は不可能だ。無条件で降伏するなら、国王陛下も貴方を無碍には扱わないだろう。幽閉か監禁はされても、命まではとらないだろう。何せ貴方は・・・」
シャルル12世を国王に擁立した立役者なのだからと続く言葉を、エルコールは意図的にぼやかす。甥の温情にすがって命乞いをしろと友人に告げるのは、さすがに憚られた。現国王シャルル12世は30年近く王太子の座にあったが、国政からは意図的に遠ざけられてきた。ラグドリアン戦争中の『太陽王』の突然の崩御に、戦時下ということもあり、政治的に未知数な王太子よりは人望も実績もあるルイ・フィリップをショート・リリーフとして国王に推す声は強かった。だが彼はそれを固辞し、シャルルの国王即位への流れを作った。いわば現政権の「産みの親」といっていい。恭順の意思さえ示せば、過去の功績から命まで奪われることは無いだろうと言下に仄めかす友人に、自身の命運に関する事柄にも拘らず、やはり関心が薄いのかルイ・フィリップは気のない声で答える。
「大逆罪には例外は無い。むしろ王族だからこそ厳しく適応されてきた」
死を平然と受け入れるどころかむしろ望むところだとでもいわんばかりの友人の態度は、彼の美意識に適ってはいたが、それは冷静に事実を受け入れたというものではなく、圧倒的な何かを前に全てを諦めた者のそれに似ているように思える。生を諦めることは、望んでも適わなかった多くの魂への冒涜に他ならず、それはブリミル教の大罪の一つ『自殺』となんら変わりはない。
だが、エルコールの口から発せられた言葉は、彼の思考とは全く正反対のものであった。
「・・・ならば、私はもう貴方に言うべきことは何も無い。戦場で骸を晒してジャン公子の後を追われるなり、毒を飲んで領主として最後の役目を果たすなり何なり、好きにすればいい。最早貴方の命にはそれぐらいの価値しかないのだから」
「これは手厳しい。聖職者の言葉とは思えないな」
初めて愉快気に笑みを浮かべたルイ・フィリップに「ふざけている場合か」と鋭い視線を投げつける。美意識を人に強制するほど頑迷ではなかったが、無意識にそれを他人に求める傾向があることは自身も自覚している彼の悪癖である。しかし今はそれ以上に、目の前に差し迫った破局に向けて進もうとする友人の行動が苛立たしく、今やそれを止めるすべの無い自分の非力が呪わしかった。
そんなエルコールの心情を知ってか知らずか、ルイ・フィリップはあえて明るく笑いながら話しかけた。
「苦しいときに真の友がわかるという。他のものは皆、蜘蛛の子を散らすように逃げ去り寄り付きもしないが、君だけが以前と変わらず私と接してくれる。君には感謝している。自身の立場が危ういのに、私のために奔走してもらって」
「降り掛かった火の粉を払ったまでの事。礼を言われる筋合いは無い」
感謝の言葉を遮るように言いながから(それに、謝らねばならんのはむしろ此方だ)と心の中で続けるエルコール。選帝侯家出身のフェデリーコ=ゴンサーガ・ネヴェル枢機卿が、シャルル12世に反感を持っていたジャン・フィリップ公子を煽り立てて反乱を起こさせた事は、彼の耳にも入っていた。
『太陽王』崩御後、リュテイスで語られたルイ・フィリップの緊急登板は、本人が頷きさえすれば「ルイ・フィリップ7世」として即位する段取りまで付いていた。実績が無く無口で無愛想、何を考えているのかわからないと評判の悪いシャルル王太子よりも、「難治の地」ノルマン人の住む大公領を良く治め、国政の調停役としての実績もあり、閣僚や議会からの人望も篤い王弟を擁す声が、戦時下という状況下で多数派を占めたのは、ごく自然な流れであった。ルイ・フィリップがシャルルを推さなければ、実際彼は王になれなかったであろう。
ジャンにはそれが気に入らない。本来であれば、今国王の座にあるのは自分の父親であったはず。シャルル12世はその座を預けられているに過ぎない。ましてや「無能」と評判の高いシャルル12世の長男ジョセフが王太子であるのが、彼にはどうしても耐えられなかった。反乱の正当性を列挙した『ルーアンの宣言書』でも、暗にジョセフの件について触れているぐらいであるから、その鬱屈と不満は相当のものだったのであろう。
ジャンに目を付けたという点では悪くないが、聖フォルサテの血を受け継ぐ若き枢機卿の過ぎたる火遊びに、エルコールは自らが仕える気難しい老教皇と同様に激怒すると同時に、ガリア国内の教会権力どころか、ロマリア連合皇国という枠組みすら揺るがしかねない事態に顔を青ざめさせた。「大公とリュテイスとの仲介交渉のため」というお題目の元、エルコールは証拠隠滅に奔走した。幸いにして公子とその側近は第2次カーン攻防戦で戦死し、当の枢機卿も「病死」したため、当事者の口から語られる事は無い。あとは尻拭いに走り回った自分達が黙ってさえいれば、深層は永遠に闇の中に葬られるだろう。
目の前の、この世の全てを-自分の生ですら諦めたかのように見える友人がこの事実を知れば、一体どのような反応をするだろうかという、一種のいたずら心にも似た好奇心と、彼とその一族を破滅へと追いやる片棒を担いでいるという罪悪感がエルコールを押しつぶそうとする。神の身元で裁きを受けるまでは『原罪』として背負い続けなければならない業だとは覚悟していたつもりだったが、本人を前にすればさすがにそれも揺らぐ。聞き届けられる事の無い説得工作は、自身の罪悪感を紛らわせるためだったのか。冷たく、どす黒いものが心の奥底に渦巻くのをエルコールは感じていた。
「それにしても親より先に死ぬとは、ジャンも親不孝な男だ。せっかちなのはわし譲りだったのか・・・それはともかくだ。ここまで早く追い詰められるとは思わなかったというのが正直なところだな。1年から2年は暴れてやるつもりだったのだが」
友人の沈黙をどう捕らえたのか、ルイ・フィリップは話題を変えた。『太陽王』の死後、目の前の大公は眼に見えて気力が衰えた。ノルマン領の実権はすでに老人の手にはなく、息子であるジャン・フィリップと周囲の側近達の手に移っていた。そして今回のリュテイスに対する反乱-後世、歴史家達に『最後のノルマン大公の乱』と呼ばれることになるそれも、彼らが中心となって計画したものであった。計画が後戻りが出来なくなった段階で聞かされた大公は、ただ一言だけ「そうか」と答え、それ以上は何も言わなかったという。
たとえ今の状況が、現実と虚構の見境の付かない若者が火を付けた『過ぎたる火遊び』だったと知っても、彼は眉一つ動かしそうに無いように思える。諦めたというよりは、生きる意志そのものが消えてしまっているかのようだ。
息子である公子ジャン・フィリップとその側近が絵を描き主導した反乱。勝てるとは思わなかったが、それでも1年から2年は持ちこたえることが出来るだろうとルイ・フィリップは考えていた。リュテイス陸軍士官学校を次席で卒業したというジャンの立てた戦略はそれなりに見るべきものが多かったし、過去ノルマンディー大公家が起こした反乱ではいずれもその程度の時間を稼いでから降伏していたからだ。
ジャンの立案した計画は、ある意味教本通りの面白みの無い基本に忠実なものであった。
ラグドリアン講和会議に国王シャルル12世が赴くと同時に挙兵、国王不在のリュテイスを制圧。ルイ・フィリップがノルマンディー大公に養子入りしてから中央政府は伝統的な大公家の備えを解いている為、リュテイスを落とすことはそう難しくない。シャルル12世がオルレアン大公(現オルレアン大公ガストンはルイ・フィリップ7世の娘婿)を警戒して帰国できない間に、リュテイスで他の大公家や貴族に呼びかけを行う。王への忠誠心が強い西南方諸侯や南部の常備軍に関してはグラナダ王国で牽制させ、後は日和見を決め込むであろうから、少なくとも5分に持ち込むことは可能である-王家への反乱という大それた事を考えておきながら、計画は実に堅実で面白みがないのは、他ならぬ自分の息子だからか。ルイ・フィリップは妙にそれが可笑しかった。
だが、教本通りの反乱戦略は瞬く間に覆された。リュテイス攻略に必勝の大勢で臨むために攻略軍の編成に掛かりきりだったジャン・フィリップとは対照的に、国王不在のリュテイス留守を預かるパンネヴィル宰相は、即座に動員可能な4千の軍を大公領のカーンに進軍させた。指揮するベル=イル公爵の巧みな差配もあってカーンは殆ど無血で討伐軍に降った(第1次カーン攻防戦)。そしてその狙いは直に明らかとなる。カーンはノルマンディーを含むガリア北東部の物流の拠点であり、陥落と同時にルーアンでは食料品を中心とした生活必需品の値上がりが始まったのだ。大公側の動員は大幅に制約され、リュテイス攻略どころではなくなった。
二枚貝の様に重く口を閉じた友人に向かって言うとでもなく、ただ出来事を淡々と列挙しながら、ルイ・フィリップは『血は水よりも濃い』という言葉の意味を真の意味で理解し、その面白さに口の両端を吊り上げた。
「果断な決断と行動。万事に慎重で口の重いシャルルの事だから、逡巡してラグドリアンで地団太を踏むとジャンは考えていたし、私もそうだと考えていた」
「ですが実際には違った」
静かに頷くルイ・フィリップ。義弟のガストンの性格からして、反乱に組することはないと見たジャンは、逆に大公を利用することを考えた。オルレアン公ガストン・ジャン・バティストはルイ・フィリップ7世の娘婿であり、また先のラグドリアン戦争には水の精霊の怒りを買うとして最後まで反対したことから、反乱に組する可能性は十分に考えられる-慎重な性格のシャルル12世に疑心暗鬼を起させ、リュテイスへの期間を遅らせることがジャン・フィリップの作戦であった。
ところが当のシャルル12世は、反乱の知らせを聞くと講和会議に従事した閣僚や軍高官達はトリステイン側のラグドリアン湖畔に残したまま、オルレアン大公領に殆ど護衛らしい護衛もつけずに入ったのだ。ガストンはその知らせを聞くと「負けた」と呟いたという。ここでシャルル12世を殺すことは簡単だが、閣僚や軍高官が健在であればガリアの官僚機構や政府は揺るがない。そして王殺しはトリステインに侵略口実を与えるようなもの。そこまで計算した上で、自らの命を張った大博打を打って見せたシャルル12世に、オルレアン大公ガストンは杖の忠誠を改めて誓う。大公の軍勢を引き連れた国王は、リュテイスに堂々と凱旋した。
この間、6日間。ニューイの月(6月)ティワズの週(第4週)ダエグの曜日に、ジャン・フィリップが『ルーアンの宣言書』を高らかに宣言して挙兵してから、僅か6日である。シャルル12世が王都リュテイスに帰還するまでには最低でも2週間は掛かり、それまでに王都を攻略しようと考えていた大公側の戦略は完全に破綻した。焦ったジャン・フィリップは軍勢をかき集めてカーン奪還に動いたが(第2次カーン攻防戦)待ち構えていたベル=イル公爵率いるガリア軍に大敗。完全に大勢は決まった。
「誰も想像しなかっただろうな。あのシャルル陛下があのような大胆な行動に出られるなど。ガストン(オルレアン大公)の驚く顔が眼に浮かぶわ。果断なる決断と行動。何者をも恐れず、そして怯まずに自分の信じたものを押し通す強い意志と、それを実行に移すだけの常人とはかけ離れた行動力。まるで・・・」
(兄上の生き写しだ)そう続けようとしたルイ・フィリップは、何故かその言葉が口を突いて出てこなかった。偉大なる『太陽王』、ガリアの全てを支配した兄ロペスピエール3世。「神に愛された王」といささかのためらいも無く公言し、欲しいものは全て手にいれ、神と始祖以外の全てを自分の上の権威として認めなかった男。その男と、あの万事に慎重で口が重く感情を表に表さないシャルル12世が似ている。それを認めるのに妙な引っ掛かりを覚えた。
違和感をとりあえず棚に上げ、ルイ・フィリップは続けて言った。
「ジャンにしてもそうだ。あやつはもっと血気にはやった男だと思っていたのだが」
「ジャン・フィリップが決起と同時にリュテイスを突いていれば、間違いなくノルマン朝ガリア王家が始まっていただろう」と評価する歴史家は少なくない。国王個人への権限集中という中央集権化策をとっていたガリアは、裏返せば国王不在となれば何も出来ないことを意味していた。しかし彼はそうしなかった。機密保持のために事前の行動をある程度制約されていたこともあるが、王都攻略には万に一つの失敗も許されないと考えていたジャンは、必勝の大勢で臨むために攻略軍の編成や傭兵の雇用契約などに走り回った。彼の考えでは国王不在のリュテイスは身動きがとれず、オルレアン公の去就が不明なために身動きのとれないシャルル12世は帰還が遅れる。その間にトリステイン王国やグラナダ王国などが国境を脅かし、時がたてば立つほど大公側に有利になると。
結果論を全ての判断基準に置く事は、必ずしも公平ではない。しかし、大きな判断材料の一つである事に間違いはない。そして結果が全ての世界に生きていた彼にとって、敗死という結果だけをもってして、強大なガリア王家に愚かにも挑んだ道化役として扱われる。そして彼の父親も、血気にはやる我が子をとめることが出来なかった「無能」というレッテルを貼られる事になる。
「正直に言えば私はシャルル陛下を侮っていた。私だけではない。パンネヴィルもポルポンヌも、議会も官僚も、皆がだ。しかしあの男だけが、自分の息子の事を理解していた」
今になってみればわかる。何故あの男が執拗なまでに自分の息子を国政から遠ざけたか。中央集権化を王個人に集中させるためなどでは断じてない。月とは違い、太陽は二つ並び立たない。あの男は知っていたのだ。自分の息子が自分と同じ存在であることを。自分の命を張った大ばくちを顔色一つ変えずにやって見せるその度胸と決断力。さすがは『太陽王』の息子という他は無い。それを解っていたからこそ、ロペスピエール3世は息子を政治に関わらせなかったのだ。
「それに引き換え・・・ジャンはやはり私の子供だ。兄上はジャンを可愛がってはくれたが、それは私と同じように都合が良かったからなのだろう」
ロペスピエール3世が息子である王太子を差し置いて、甥であるノルマン大公家のジャン・フィリップ公子を後継者に据えようとしていたという噂は、リュテイスでは真実味を持って語られていた。一人で沈思黙考し人に腹のうちを見せないシャルルとは対照的に、活発で社交的であり、尚且つ聡明な性格のジャンのほうが、いかにも『太陽王』の好みに合っていた。ジャンが太陽王の後継者には自分こそふさわしいと考えたのも無理はない。
しかし、それらは全て思い違いだ。親の欲目ではないが、ジャンはそれなりに優秀な男だ。陸軍士官学校を優秀な成績で卒業し、政治的センスもそれなりにある。だがそんな男はガリアには幾らでもいる。普段は強気な事を言っておきながら、その本質は自分と変わらない「守り」の人間だ。あの男は、甥を使い勝手のいい駒としてのみ愛した。息子のように恐れる必要が無かっただけ、気安く接する事が出来ただけなのだろう。
「失敗を恐れるばかりでいざという時の踏ん切りがつかない。私の様な補佐役で満足できる人間ならそれでいいが、ジャンはそれでは満足できなかった。それがあれの命取りとなった」
「・・・何を他人事のように」
眉をひそめて不快感を表すエルコール。息子の死にも、自身に迫り来る終焉でさえにも、彼があれだけ心を砕いてきたノルマン領民の将来ですらも、今となっては目の前の男の心を動かすものではないようだ。例えようのないもどかしさと同時に、まるで死人と話しているような不快な気分になる。そんな友人の態度に構うことなく、ルイ・フィリップは僅かの時間を惜しむかのように話を続けた。
「ジャンの側近どもは、最後は私に頼れば何とかなると考えていたようだが・・・それは所詮、権力というものを知らない者の発想だ。『権力』を持つものがそれを許すはずがない。ましてや、そんな輩が権力という魔物の心を支配出来るはずが無いのだ」
「魔物、か」
「そう、魔物だ。多くのものは権力を握ると、今度はそれに支配される。人の運命を支配するという魅力に囚われるからな。兄はその魔物を支配できた。だからこそ『太陽王』と呼ばれたし、そう呼ばれる資格があった」
ロペスピエール3世は間違いなく一大の傑物だった。諸侯軍を削減し、常備軍を強化し、逆らう貴族を根こそぎ滅ぼし、言葉を統一した。身内であろうと外戚であろうと逆らうものは決して許さず、自身の見栄とプライドを満足させるためだけの戦争を繰り返し、国家財政を危機的な状況にまで悪化させた。ガリアを名実共にハルケギニアの大国に押し上げたカリスマの持ち主-それを可能としたのは、兄が権力という魔物を完全に自分の支配下に置く事が出来たからだ。多くのものは、権力の持つ魅力と腐臭に取り込まれ、道を誤る。あの男は、それを根拠の無い自信と圧倒的な自己愛によってねじ伏せた。だからこそ『太陽王』と彼が自称しても、誰も疑問に思うものはいなかった。
その兄をしても、絶対的な権力の腐臭によって心身を蝕まれることは避けれなかった。死の間近のあの男は、完全に権力の奴隷と貸していたといっていい。ルイ・フィリップが王座を固辞したのは、甥に遠慮したからではない。あの男ですらそうだったのだ。ましてや逆立ちしてもあの男にはなれそうにない自分が。手を伸ばせば届くまでの位置に王座が近づいたとしても、とても手を伸ばす気にはなれなかった。
「・・・やはり貴方は生きるべきだ」
それまで黙って話を聞いていたのが、呻く様に言葉を搾り出したエルコールに、ルイ・フィリップは始めて視線を合わせた。この正直者は、相変わらずこの世に対する希望を失わない。世を渡る上での手練手管を覚えても、人を愛し神と始祖を信じるという彼の信念には微塵の揺らぎも無い。今でもこうして、最後まで自分を翻意させようとしている。例えそれが、ジャンと枢機卿の事への後ろめたさから出た動機による行動であったとしても、反逆者である自分の友人であることも止めようとしないのは、彼自身の意思によるものだ。
「犬死と名誉の戦死は違う。殿下の死ぬ場所はここではないはず。今、貴方のお話を聞いて、改めて確信した。権力と自分を知る人間は少ない。まだこの国には貴方の力と支えが必要だ」
最早自分の言葉がこの男に通じない事はわかっている。しかしエルコールは言葉を尽くす事は止めようとはしなかった。
「謀反人の支えが必要なのか?」
自嘲の笑みを浮かべながらそう言った大公に、エルコールは半ば怒鳴りながら反駁した。
「そう、貴方は謀反人だ。始祖の血を引く王家に弓引き、多くの領民を泣かせたハルケギニアのどこにも身の置き所の無い大逆人だ。その罪は例え貴方が始祖の血を引いていたとしても免れるものではない。だがその謀反人の貴方によって、この国の土台は緩んでしまった。ならばそれを立て直すのは、土台を揺るがせた者の責任。それを甥とはいえ他人に押し付け、自分は安易な死を選ぶのは余りにも卑怯ではないか」
「卑怯、か」
それまで顔色を変えずに聞いていた大公の顔に、一瞬だが感情の揺れが走った。
***
ルーアンは町の北側のルーアン大聖堂を中心とした旧市街地と南のルーアン城を基点にして放射線状に広がる新市街地に分かれる。旧市街地の高級住宅街を抜けると、そこから新市街地までの間には共同住宅や下級官吏達の宿舎が立ち並ぶ。いつもなら人通りと子供の声の絶えないそこも、今では行きかう人もまばらだ。多くの家は窓やドアに板を打ち付け、さながら嵐に対する備えのようにガリア軍に備えている。
ルーアン大聖堂に戻る馬車の窓から人通りの少なくなった町並みに視線を向けていたエルコール・コンサルヴィ枢機卿に、ジュール・マンシーニ=マザリーニは、この青年には珍しく相手の様子を伺うような視線を向けていた。ラグドリアン講和会議に随行した彼はノルマン大公の反乱発生を受けて、そのまま枢機卿に随ってガリアに足を踏み入れた。他の者には任せる事の出来ない証拠隠滅作業の他にも、反乱を契機に修道院領の没収を検討するリュテイスとの交渉、教会に駆け込んできた避難民への対応、正規軍と大公軍双方への教会領の中立化交渉等々・・・仕事に追われるエルコールを、マザリーニは良く補佐。エルコール自身、この神学生の仕事の飲み込みの良さと処理の早さに、実際の秘書官よりも重宝してどこに行くのにも付き随わせていた。
「何が良くて、何が悪いか。それは神が裁かれることだ。我らはただ与えられた責務をこなすだけでいい」
大公との会談を終え、いつもの口癖を呟いたエルコールは口を真一文字に結び、険しい表情を崩そうとしない。その表情からはマザリーニの目にもそれとわかる迷いと悲しみを見る事が出来た。枢機卿が『何か』に悩み、それが自身の政治的失脚の危険性をはらみながらも、自ら大公を説得するために直接交渉を行わせる動機となっている事は、この聡い神学生はなんとなくではあるが理解していた。ガリア軍の侵攻速度などを勘案して時間的に考えると、今回がおそらく説得の最後の機会。その結果がどうなったかは、枢機卿の表情が全てを物語っている。
居た堪れなくなったマザリーニは視線を同じく外に向けた。馬車の窓から覗くルーアンの町並みは、日に日に人数が減っていくのが眼に見えて確認できる。今この瞬間も荷物を背負い、子供の手を握り締めた家族と何組かすれ違った。馬車に目を向ける者は少なく、目を留めたところで教会の馬車であることに気が付くと、軽く一礼して通り過ぎていく。
唐突にそれまで黙り込んでいたエルコールが口を開いた。
「マザリーニ、良く見ておけ。あれが死を意識した人間の顔だ」
その言葉にマザリーニはすれ違う人の顔を一層注意深く観察した。だが彼の目には荷物を背負い、家族の手を引く避難民と、武器を磨く大公軍の兵士達との間にこれという差を見つける事は出来なかった。自分の至らなさを恥じながらそれを正直にエルコールに伝えると、枢機卿は微かに笑いながら答えた。
「君は一つ勘違いをしている」
「とおっしゃいますと?」
球帽を外して頭を撫でながら、エルコールは独り言を言うような調子で、むしろ自身の考えを整理するかのようにゆっくりと喋った。
「生と死の間に大きな違いは無い。それはちょうどコインの裏表の様なものだ。人は生まれた限りは必ず死ぬ。多くの人間はそれをあえて意識しないように生きているが、死はいつでも、どこでも、そして誰にでも起こりえるのだ。病気・事故・災害、そして戦争と原因は様々だが。唯一ついえるのは、人は必ず死ぬのだ。必ずな」
エルコールは馬車の窓を開けた。ウィンの月(12月)に入ったというのに、生ぬるい風が流れ込んでくる。特段今年が暖冬というわけでもなく、ましてや雨の前の湿った空気でもない。ただただ、生ぬるい。呼吸をするのさえはばかるような風。これが戦場の空気というものなのか。マザリーニはその首筋にじんわりと汗が流れるのを感じた。
「この町に満ちているもの、それは『死』だ。避難民は強盗や傭兵崩れ、軍紀の乱れたガリア軍の略奪に自身と家族の命の危機を感じている。逃げる事さえ出来ない平民は、攻め込んでくるガリア軍が自分達も殺すのではないかと恐れている。そして大公と共に死ぬ事を選んだ兵士や市民達はどのように死ぬかを考えている」
聖職者になるより役者にでもなったほうが似つかわしいであろう端正な顔をした神学生が眉を寄せたのを、エルコールは見逃さなかった。
「貴様のいいたいことは分かる。いかに死ぬかと、いかにして生き延びるべきかを考えているのでは、天と地ほどの差があるといいたいのであろう。だが死の危機に直面し、それから逃れようとする人間は。目の前の死と正面から向き合わなければならない。それは、いかに死ぬかについて考えているのと本質的には変わらないのだ」
納得するのは難しいだろう。いかに頭が切れるとはいえ、未だ15歳の神学生。若いがゆえに『死』と言うものを無意識に軽視する傾向があるのは、何もマザリーニに限った事ではない。かつての自分もそうであった。
「よく解りかねますが・・・この町の住民がどのように考えているのかについては理解しました」
本当は自分も含めた聖職者の誰も、死と言うものについては理解していないのだ。一回きりの片道馬車。帰ってきたものは誰もいない。それなのに堂々と天上(ヴァルハラ)を語る教会とは、いかに滑稽な存在か。だがそれも必要悪だと考えれば、そうは腹は立たない。人が闇を恐れるように、何の手がかりも無く、目隠し耳栓をして歩いていくよりは、でたらめでも予備知識があったほうが安心できるというものだ。
(これでは、マザリーニ君を笑えんな)
自嘲しながら呟いていると、再度マザリーニが尋ねてきた。
「恐れながら、大公殿下の態度は為政者としては正しき姿勢なのでしょうか?」
「正しいかだと?」
ためらいがちではあるが、それでも自分の疑問を正面から尋ねる。青年らしい真っ直ぐで迷いの無い目は、思わずそらしたくなるほど澄んでいた。
「今この時期に至り、反乱の正当性を論議してもせん無き事です。しかし、今の大公殿下の行動は為政者としてはいかがなのでしょう。敗色が決定的となっても降伏することなく、かといって勝利のためにあがくわけでもなく、無為に時を過ごしておられます。あれでは戦場で散っていった兵士達は浮かばれません・・・例えご本人にその気が無くとも、大公殿下の行動は無為に民を戦の戦火に巻き込むものでしかありません」
思いつめたように言葉を連ねる青年は、かつての自分を見ているようだ。光の国の闇を見て、この世のすべてを厭世的に見るようになったかつての自分と。この男はどうだろう。堕落に染まり、そうした疑問を持っていたことすら忘れてしまうのか。目と耳を塞ぎ、世捨て人のように信仰に生きるのか。泥の中を歩み、その手を汚しながらも教会の中を歩むのか。
「正しい、それは正義という事か?」
「そう表現してもよろしいかと。貴族として、領主として、枢機卿猊下は殿下の行動をどのように考えられますか?」
「さて、どう考えるか。判断の基準にもよるが・・・」
銃を担いだ大公軍の若い兵がこちらに向けて見事な敬礼を送っているのが目に入った。若いというより幼いといったほうがいいだろう。あの兵士達や、その横を駆けていく避難民も、間もなくたった一人の男の決断如何によって戦渦に巻き込まれることになる。
「裁かれるのは神の仕事。我らはただ目の前に与えられた責務をこなすだけだ」
友人との最後の会話に思いをはせながら、エルコールは再びルーアンの町並みに視線を向けた。
**
「シガーケースか?」
「それ以外の何に見えるというのだ」
からかう様に言うルイ・フィリップに、エルコールはため息を漏らした。見せたいものがあるというので「形見分けならいらないぞ」と言ったことへの仕返しらしい。彼の兄はヘビースモーカーで有名だったが、目の前の男はタバコ嫌いで知られている。その彼が煙草入れを持っているとは思わないのが普通だろう。
わざわざハンカチをテーブルの上に広げてから置かれたシガーケースは木製の手彫り。相当腕のいい職人が彫ったのだろうことは素人目にもわかる。タバコをすわないこの男がなぜこんなものを持っているのかと首をかしげたエルコールは、その表面に彫られた紋章に気がついた。
「これは・・・」
「そう。私の生家-ガリア王家の紋章だ。あの男が私にこの家を継ぐよう命じた時、ただ一つ持たせてくれたものでな。臣下がいい顔をしないだろうから、いつもこうして持ち歩いている」
楡の木をくりぬいて作ったと思われるそれは、常に持ち歩いているという言葉を証明するかのように、角が取れて丸みを帯びていた。それを除けば、一度も本来の用途として使われたことがないため木の香りがしそうなほどに新しく見える。
「確かにこれは、この城ではおおっぴらに見せれないな」
自らを「ノルマン人」と名乗るほど郷土愛の強いノルマン地方の住民は「王家何するものぞ」という意識が強い。海賊や傭兵を多数輩出したという血気盛んな土地柄でもあり、何度もリュテイスに対して反乱を起こしてきた。『太陽王』の長きに渡る治世を経ても、王家の旗を掲げる代わりにノルマン大公家の紋章である青薔薇の旗を掲げて反骨心を示すほどだ。その大公家の主であるルイ・フィリップが王家の紋章つきの小物を持っていると知られては、確かに都合が悪いだろう。
「王家の誇りを忘れるなと言って、これを投げてよこした。後にも先にも、あの男からもらったものはこれだけだよ」
ルイ・フィリップは、どこか昔を思い出すような目つきで話す。「あの男」と「兄」という表現を無意識に使い分けているのは、兄であり、国王であり、恐るべき絶対権力者であったロペスピエール3世に対する複雑な思いを表しているのだろう。そう受け取ったエルコールの前で、太陽王の弟はシガーケースの紋章を人差し指でなぞる様に撫でた。よく見れば、紋章の部分だけが磨り減っている。王家の出身者として色眼鏡で見られ、臣下に味方もなく、一人考えにふける時にはこうしてシガーケースを触り、精神を落ち着けたのだろうか。
ガリア現王家ヴァロア朝の紋章である交叉する2本の杖。これは『大分裂』の時の双子の王子を弔うためだとされている。最後のフランク国王コンスタンティヌス1世(370-440)には双子の王子がいた。兄のコンスタンティヌス2世と、弟のテオドシウス2世である。二人の父親である王は、この王子を平等に愛し、ともに国を治めるように命じた。すなわち兄コンスタンティヌス2世には東フランク総督に、弟テオドシウス2世には西フランク総督となし、共同統治を行わせた。
コンスタンティヌス1世の死後、フランク王国の貴族たちはどちらか一人を後継者にすることを目指して争い、王国は分裂(450)。二人の王子はそれぞれ東フランク王国(現在の旧東フランク領域)と西フランク王国(在のガリア王国)の建国を宣言。第一次大陸戦争の最中、二人の王子は同じ戦場で合間見え、そして刺し違えた。以降、ガリア王族では双子は忌子となった。その原因となったこの悲劇は、多くの劇局や小説で語られ、ハルケギニアでは知らないものはいないほど有名な物語だ。実際にはそれが旧東フランク領を統一する意欲を現したものであったとしても、交わる二本の杖は、何らかの感慨をハルケギニアの民に与えるものであった。
「しかし実際には二本の杖は交わる事は無いのだ。中々、意味深な事だとは思わないかね」
「自分の意地の為に祖国を危機と混乱の坩堝に陥れ、領民を戦乱に巻き込むことを理解しながら、自分の息子の暴走を止めなかった貴方が言うと真実味があるな」
相変わらず「正直」な男だ。ルイ・フィリップは苦笑いを浮かべながら一度シガーケースに視線を落とした。再び顔を上げると、その顔に浮かべていた微笑は消えていた。
「そうだ。私は卑怯で、臆病で、自分の息子すら抑える事の出来ない無能だ。領民が焼け出され、財産と家族と友人と、そして生命を失うであろう戦を止めなかった」
悔いるでもなく、恥じ入るでもなく、ルイ・フィリップはただ事実を淡々と述べた。その態度は、エルコールの美意識に到底かなうものではなかった。
「初めから勝敗の見えた戦だ。私がこれまでこの地方を治めてきた実績を、私の人生の全てを否定するのと同じ事でありながら、何故ジャンを止めなかったのか・・・私もその理由が解らなかった。止めさせようと思えば、幾らでも出来たはずだ。私が一言「やめさせろ」と言えば、あれを命を賭けて止める人間もいただろう。しかし私は動かなかった」
枢機卿は湧き上がる怒りの感情を何とか理性で押さえつけた。目の前の男の襟首を掴み上げ、怒鳴りつけても事態は好転しないと必死に自分に言い聞かせる。ノルマン地方4万人の命運を握る立場にありながら何もしなかったと、他人事のように自分を論評して見せた事に怒りを覚えながら、その一方で自分の責任に過剰なまでに勤勉だったこの男らしくないとも思いながら、無言で続きを促した。
「危機に直面してその人物の本質が白日の下に晒されるように、こういう立場になったからこそわかることは多くてな。あの男がなぜシャルルを国政から遠ざけたかも、こういう事態になって始めて知った」
「それが今の貴方と何の関係があるというのだ」
老大公はシガーケースの紋章を、人差し指の腹で撫でた。
「私は今の今まで、あの男の弟として生きてきた。その生き方にはある程度は満足していたし、人に恥じる行為はしてこなかった。例えそれが、恐怖から来るものだったとしてもな」
悲劇の双子は、巷間言われているように貴族にそそのかされてなどいない。互いを思いやり、戦を避けていたなど、笑止千万。あれはただの「兄弟喧嘩」だ。ルイ・フィリップは先ほど感じた引っかかりの理由を-シャルル12世と太陽王が似ている事を容易に認めがたかった理由を今唐突に理解した。あの甥を太陽王の再来と認める事は、怯えながら兄の影として生き続けた人生を、また繰り返す事に他ならない。そのような事は、最早到底容認出来ない。
「人生の最後ぐらい、私は行きたいように生きる。太陽王の弟でも、ガリアの王族でも、ノルマン大公でもない。ただの『ルイ・フィリップ』として生きたいのだ」
「・・・それが領民や家臣を戦火の炎で焼き尽くす事になるとわかっていてもか。これまで貴様が人生の全てをかけて治めてきたノルマン地方を戦渦に巻き込もうとも、貴方は自分のわがままを貫き通すというのか」
怒りと失望で顔を震わせながら、今にも杖を抜かんばかりの枢機卿に対して、ルイ・フィリップは何がおかしいのか、口に手を当てて笑いながら言った。
「兄上はガリアを使って、ハルケギニア全土で生きたい様に生きた。その兄に比べれば、私の『わがまま』など対した事ではあるまい?」
エルコール・コンサルヴィは絶句した。目の前にいるのは十数年来の付き合いで、互いにそれぞれの趣味趣向を知り尽くし、好きなワインの銘柄や曲を語り合う友のはずだ。だが、今は彼の言う言葉が何一つ理解できない。目の前に鎮座しているのは『ノルマンディー大公ルイ・フィリップ7世』の皮をかぶった、別の何かだ。それとも、これがこの男の本質なのか。今まで自分は、この男の何を見てきたのだ?
凝視する事が出来ずに、自身の膝に視線を落とす。怒りを静めるために握り締めた両の拳が震えていた。怒りではない。恐怖からだ。なんとか言葉を発しようとするが、喉が渇いたようにかすれて声が出ない。椅子に座り込んでいると、急にルイ・フィリップが立ち上がった。
「エルコール。君の誠意は嬉しく思う。この事態になっても、聖職者ではなく一人の友人として行動してくれた君と出会えた事が、私の人生の中でもっとも幸せな事だったと思う」
その乾いた声の調子は、何かを決意した者だけが発する事の出来るのもので、エルコールは慌てて顔を上げ、そして自分が友人に感じた失望を少しだけ修正した。ルイ・フィリップはいつもの彼と同じどこか疲れた、それでいて充実した顔をしていた。それは、ここ2年余りは見る事のなかった表情だ。『太陽王』の暴走とわがままに呆れながらも、それの尻拭いに走り回る時の顔だ。
(・・・何が一人の「ルイ・フィリップ」として生きてみたいだ)
甥を兄と重ね合わせ、一世一代の兄弟喧嘩をしたいだけではないのか。市中の匹夫の雄ではあるまいし、領民や兵士には申し訳ないとは思わないのか。貴様はそれでも始祖の血を引く、誇り高き青髪をもつガリアの王族か。恥じるところが無いのか。頭の中で玉のように罵倒の言葉が連なったが、その一つとしてエルコールの口を付いて出る事は無かった。
不快な表情を隠そうともせずに見せ付けるエルコールに、ルイ・フィリップは宮廷貴族達に向ける口だけで作った笑みではなく、友人への感謝を表す純粋な笑みを浮かべながら、別れの言葉を言った。
「君の友情は決して忘れないよ。ありがとう」
伸ばされた手を、エルコールはとっさに握り返す。そして直に気が付いた。
(震えてやがる)
ルイ・フィリップの手の振るえに気が付いたエルコールはそれまでの厳しい表情が嘘のように笑った。領民や兵士の損害など、兄に比べれば少ないものだと嘯きながらも、この男はその僅かな犠牲と戦禍に怯えている。口とは正反対のその小心さ。エルコールはほんの少しだけだが救われたような気分になった。やはりこの男は、自分の知るルイ・フィリップだ。小心で臆病で繊細で、兄に怯えながらも嫌いになりきれないお人よしの、ルイ・フィリップだ。
エルコールの笑いに、恥ずかしそうに頬を染めた後、ルイ・フィリップは馬鹿な叔父のわがままに付き合わせることになる甥への伝言を、この友人に頼んだ。
「ご苦労だったエルコール・コンサルヴィ枢機卿。陛下に伝えてくれ。『咎はこの身にあり。領民には格別のご配慮があらん事を』と」
***
友の最後の言葉を思い出しながら、エルコール・コンサルヴィ枢機卿は、マザリーニに向き合った。おそらくこの男は、教会の中で自分と同じように泥にまみれながらも、その中で一粒の真実を-『正義』を探し出そうとするだろう。見つからなくてもいい。見つけ出そうとするその姿勢こそ、聖職者にとって必要なのだ。
「これは、あの男なりの甥への就任祝いだ」
不謹慎とも受け取れる言葉に顔を顰めるマザリーニ。その若さをうらやましく思いながら、エルコールは言う。
「ルイ・フィリップが後を継いで、多少はノルマン地方の王家への姿勢は和らいだが、それでも『ノルマン人』の中央への反発と独立の幻想は根強い。今はいいが、あと2代か3代もすれば、また元に戻ってしまうだろう。反乱しては降伏し、反乱しては降伏しの繰り返しだ」
「・・・それは!いや、しかしそのような!」
マザリーニはエルコールの言わんとするところを察したのか声を張り上げた。すぐさま自分の非礼に気がつき詫びたマザリーニに「いいかね」と確認してから続ける。
「幻想など起せないほど、徹底的に叩き潰す機会が必要なのだ。徹底的に負けた経験が無いから『勝てるのではないか?』という幻想で何度も反乱を起こす」
「・・・大公殿下はそこまで考えた上で?」
エルコールは手を振った。
「最初から自分の命を張って国のために尽くすほど、あの男は国家への忠誠心はないさ。ただ、どうせ捨てる命なら、有効活用しようということだろう」
ケチな男だからなと笑おうとしたエルコールだが、すぐに険しい表情に戻る。あの男にそうさせたのは、結局はロマリアの一枢機卿がしでかした火遊びのため。最終的に決起に賛成したとはいえ、息子によってガリアと自身の治めるノルマン地方の領民を戦渦に巻き込んだ事への責任は人一倍感じているに違いない。
(あの男に、人身御供として自分を差し出す決意をさせたのはこの私にも関係のあることだ)
悪人になり切ろうとしてなり切れない、あの気のおけない友人を。それを思えば、どうして笑う事が出来よう。ろくな死に方はしないだろうと覚悟はしているが、今は自分に与えられた役目を果たすだけだ。あの男も、自分の役割を果たそうとしているのだ。それが、自分があの男の友人として出来る最後の事である。
「神よ」
気付かぬうちに呟いた枢機卿の言葉に、ただの神学生でしかないマザリーニは静かに頷くほか無かった。
***
枢機卿が退出した後も、ルイ・フィリップは応接室にひとり腰掛けていた。その手には、あの古ぼけたシガーケースが握られている。
(せめて、煙草ぐらい入れてくれればいいものを)
存外にケチであった兄を思い出して一人笑っていると、ユーグ・ド・リオンヌ侍従がハーブ茶の入ったカップを差し出した。皺と節だらけのその手と、白い磁器のカップが対照的である。
「ユーグ、貴様私に使えて何年になる?」
「さて・・・かれこれ50年にはなるでしょうか」
ノルマン大公家に代々仕えるユーグの家は、今回の反乱でも一族郎党の誰一人欠けずにルーアンに留まっている。自分がこの家を継いでから、この無口な侍従はただ静かに仕え続けてくれた。ただ黙って側に使えてくれる彼の存在が、0から信用を築かねばならなかった自分をどれほど助けてくれた事か。
独特の癖と匂いの強いハーブ茶は、好き嫌いがわかれる飲み物だ。ルイ・フィリップはこの飲み物が好きではなかったが、ノルマン人が好んで飲むお茶を自分が飲まないわけには行かないため、常習的に飲むよう心がけた。その成果もあってか、この匂いにも慣れ、いつしか本当に好物となった。
(気付かぬうちに、私もこの土地に染まっていたのだな)
反乱を抑えるために送り込まれた自分が、その首謀者になるなど。笑い話としては悪くない。とりとめもない事を考えながらもう一度カップを口に運んでいると、ルイ・フィリップはふと自分と同じようにこれが好きだという王太子のことを思い出した。
『太陽王』ロペスピエール3世が、目の前で毒殺された自分の兄の名前を付けた王子。ジョセフ・ド・ヴァロワ王太子。兄上は産まれたばかりのジョセフ王子の顔を見て、すぐさまシャルル陛下にこの名前を付けるように命令した。あの男には、あの甥が自分の兄の生まれ変わりに見えたのだろうか。弟のシャルル王子と仲良く遊ぶ姿を、兄が眼を細めて見ていたのが印象的だった。二人の弟を殺し、自分だけを生かしたあの男は、一体その後継に何を感じたのか
「あの二人には・・・」
シガーケースの表面に彫られた紋章を撫でる。叶う事なら、あの二人には交わるのではなく、支えあう存在になって欲しい。自分のように絶対君主として恐れるのではなく、真に心から支えあう存在に。自分がそれを願うのは、傲慢というものだろうか。
「お代わりはいかがなさいます?」
「いただこう」
慣れた手つきでカップに注ぐユーグ。ふと、この老侍従に疑問をぶつけてみたい欲求に駆られた。
「逃げたければ逃げていいのだぞ」
その言葉に、一瞬だが手を止めるユーグ。多くの予想に反し、第2次カーン攻防戦で大公側の敗北が確実となっても、大公が降伏する事は無かった。目端の利く者はこのルーアンから逃げ出す準備を始めているが、ルイ・フィリップはそれを止めるつもりはない。生き抜くことこそが人に課せられた使命と信じるならば、それを全うすることは何も悪くない。ましてやこの老体のわがままにつきあう義理などはない。
(偽善だな)
一度は自身のわがままを押し通す決意をしながら、いざとなれば巻き込む事に怖気づくとは。身の回りの親しいものだけを逃がしたところで、すでにこの戦で失われた生命や財産は戻ってこない。偽善どころか、ただの自己満足ですらない。薄汚い自己弁護だ。
ユーグはそのささくれた手でハーブ茶をカップに注ぎ終えると、それを主人の前の机に置いた。付しがちな視線を主の手の中にあるシガーケースに向けながら、この老侍従は静かに口を開いた。
「私は殿下に50数年以上の長きにわたりお仕えしてきました」
自らの生涯を振り返るように、ユーグはゆっくりと語る。思えばこの老侍従と雑談を交わした事は殆ど無い。主ではあったが、それ以上でも以下でもなかった。
「おそらくこの戦いで、我らがノルマン人の独自性は完全に否定され、ガリアの一地方として扱われる事になるのでしょう。ならば、我らは『ノルマン人』として生き『ノルマン人』として死にたいのです」
「『ノルマン人』として生き『ノルマン人』として死ぬ、か」
誇り高きノルマン人。反骨心は火龍山脈より高く、郷土愛は浮遊大陸より高い。何物にも屈せず、何者も恐れず、何者にも怯まず。怖いものは母ちゃんのフライパンだけという、どこか憎めないこのノルマン人気質。ルイ・フィリップはそれが嫌いではなかった。
「ですから殿下。お気になさらないでください」
不意を突かれた。全く予想だにしない侍従の言葉に、ルイ・フィリップは顔を勢い良く上げた。面食らったような表情のまま、自分を見つめる主人に向かって、いつもと変わらぬ感情を表さない表情でユーグが言う。
「私は殿下をお側で見続けてきました。殿下がいかに前国王陛下を恐れながら、兄としての親愛の情の間で迷われた事、シャルル陛下への複雑なお気持ち、一人の個人として振舞いたい感情など、側にいればお見通しですよ」
「な、なな・・・」
目を白黒させて絶句するルイ・フィリップ。何だこいつ、こんなに茶目っ気のある言い方が出来る男だったのか。いや、そもそも必死に感情を隠していたつもりの私の苦労は何だったのだ等々、様々な感情が勢い良く頭を駆け巡り、思考が全くまとまらない。
そんな主の姿をどこか楽しそうに見つめながら、ユーグは続けた。
「まぁ、よろしいのではないですか?殿下はこれまで我らが『ノルマン人』にいじましいまでに気を使われてきました。前国王陛下に遠慮し、領民に配慮して50年。最後ぐらいは好きに振舞われても罰は当たりますまい。我らも好きに振舞いますゆえ」
「・・・貴様らは」
がっくりと肩を落とすルイ・フィリップ。この老侍従がこういう性格だったのかという驚きよりも、自分の全てが傍目から見ればお見通しだったというほうの衝撃が大きかった。まるで幼少期の日記を読まれたような恥ずかしさだ。頭を抱えてベットに逃げ込みたい。
「それに殿下は、われわれ『ノルマン人』を対等に向き合ってくれました」
先ほどまでとは違い重々しく言う老侍従に、ルイ・フィリップは気恥ずかしさをとりあえず捨て、視線を合わせた。
「これまでの「出向者」は王家の威光を嵩に来て我らを見下すのが常でした。ですが殿下は『ノルマン人』になろうと務められました。我らから見れば多少物足りないものはありましたが、それでも我らと同じ目線で、我らと同じ言葉で、我らと同じ会話を交わしてくださいました」
ルイ・フィリップ以前も、ガリア王家は独自性の強いノルマンディー大公への支配を強めようと度々養子を送り込んだ。しかしノルマン人は彼らを「出向者」と呼んで反発し、対立構造は解消されなかった。ルイ・フィリップはリュテイス流を押し付けず、地元の文化や風習を尊重しながら、制度面を中央に合わせるという穏やかな統一化政策を行った。『太陽王』の強硬な言語統一政策など、一昔前では間違いなくノルマン人は反乱を起していただろうが、大公の治世下では一件の反乱も暴動も起らなかった。
「当たり前のことをしただけだ。大体貴様らは新教徒でもないのに、貧乏の癖にやたらにプライドが高いときている。扱いにくい事にかけては、リュテイスの宮廷貴族といい勝負だな」
ノルマン人が最も怒るはずの悪口を軽く聞き流すユーグ。その顔には笑みすら浮かんでいる。この男、こんな笑顔も見せるのか。もっと早く話しておけば・・・いや、それは言うまい。
「殿下でなければ、我らは当の昔に貴方の首をリュテイスに差し出して降伏していましたよ」
「そうか、首を・・・って、おい」
いい終えてから、何がおかしいのかルイ・フィリップは高い声で笑った。思えばこんなに笑ったのは前国王陛下の崩御以来あっただろうか。ユーグもつられた様に笑い出した。
ひとしきり笑いが収まると、ユーグは侍従の顔に戻り報告する。
「殿下、将軍達が二の塔広間に集まっておられます」
「そうか・・・何人残った?」
誇るでもなく、ごく当たり前のことを言う調子で老侍従は答えた。
「全員です」
その言葉に彼はあきれたような表情を浮かべた。全く、どいつもこいつも馬鹿ばかりだ。それだけでは何の価値も生み出すことのない「ノルマン人の誇り」のためだけに戦おうとする彼らは、間違いなく馬鹿だ。自分が失脚するかもしれないのに説得に来た枢機卿も馬鹿だし、この期に及んで自分と心中しようとしているルーアン市民も馬鹿だ。
そして何より、老侍従の報告に笑みを浮かべた自分が、一番の大馬鹿だ。
ひとつ大きなため息をつくと、ノルマンディー大公ルイ・フィリップ7世は力強く歩き出した。
「さぁ、答えを聞きに行こうか」
答えがわからなければ聞きに行けばいい。
待っていろ、兄貴
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ブリミル暦6213年ウィンの月(12月)ヘイムダルの週(第2週)虚無の曜日。ルーアンから1リーグばかり離れた平原で、ノルマン大公ルイ・フィリップ7世率いる反乱軍3千と、ベル=イル公爵率いるガリア軍4万が激突した(ルーアン会戦)。10倍以上のガリア軍に対し、大公軍は一歩も引かず、ガリア軍に戦死者1500名、負傷者3000名という大損害を与えて『全滅』した。この戦いでの死を恐れない勇猛果敢なノルマン人の戦いぶりは、伝説としてガリア陸軍史に残される事になる。
会戦後、ルーアンはエルコール・コンサルヴィ枢機卿の尽力により無血開城。これにより多くの避難民と市民の命が救われた。内乱終結後、中央政府はノルマン地方を直轄領に組み込み郡県制を敷く。敗れたノルマン人は異議を唱えることなくこれに従う。また「最後のノルマン大公の乱」の後、この地方で反乱が発生する事は無かった。
数十年後、ジュール・マンシーニ=マザリーニ枢機卿は再びルーアンに足を踏み入れ、最後のノルマンディー大公ルイ・フィリップ7世に対して、ノルマン人が畏敬と尊敬の念をこめた呼び名を知る事になる。
すなわちそれは
『ノルマンの王』