聖イシュトヴァーンの王冠-初代国王のイシュトヴァーン1世(2950-3002)より受け継がれたベーメン王国の王権の証。旧東フランク諸侯の一人に過ぎなかったイシュトヴァーン1世だが、智勇兼備の名将にして人格者、なおかつ類まれなる魔法の才能の持ち主というおよそ完璧な君主というに相応しい人物であったため、王国崩壊後の動乱の中で周辺諸侯の支持を受けてベーメン王国の建国を宣言した。歴代のベーメン王はイシュトヴァーンの名を冠したこの王冠にふさわしい王たらんと振る舞い、貴族や民もそれを王に求めた。「ベーメンに暗君なし」といわれる所以である。とはいえ歴代国王の個人的な素質だけをその理由とするには難がある。建国の経緯からして(王家が始祖の直系子孫ではない旧東フランクの諸王国全体に言える事だが)王権は強いものではない。またベーメン国内は新教徒と宗教庁勢力が平民・貴族問わず入り乱れて勢力が拮抗しており、その調停役である国王には王個人としての教養や素質、何より政治手腕が求められた。「王の器足らず」とみなされれば、有形無形の圧力で王冠は取り上げられた。在任期間の短い王が多いのはそうした背景がある。
現在、その聖イシュトヴァーンの王冠を被るのは女王エリザベート8世。歴代の女王が男子王族が成人するまでの中継ぎであったのとは異なり、彼女は25歳で即位してから25年もの間、王冠の主であり続けている。その治世下は決して平坦なものではなく、老女王は幾多の政治危機に直面したが、その全てを乗り越え、ベーメン王国はマクシミリアン4世(5030-5100)以来とも称される政治的な安定と繁栄を謳歌している。それは王都プラークがエリザベート在位25年を祝う祝賀ムード一色であることからもわかる。行政府が積極的に音頭をとっていたこともあるが、それだけではこの盛り上がりを説明できない。プラーク市民がこの安定をもたらしている存在が誰であるかを知っていたからであろう。
明日は祝賀行事の本番(メインイベント)。各国の王族や大使を招いた晩餐会がヴィシェフラト城で開かれることになっており、忙しくその準備が進められている。市民たちは華やかなる宴の空気に酔い、明日の祝日-丁度即位25周年目にあたる-を前にしてすでにお祭りムードとなっていた。カレル大通りには市民が詰め掛け、ヴィシェフラト城へ向かう貴族や王族の隊列を見物している。中でもひときわ注目と歓声を集めたのは、やはりこの国であった。
「おお!ユニコーンだぞ」
「ということはあの馬車は、そうか!トリステインのマリアンヌ様か!」
「白百合の姫様だ!」
「おい貴様ら、下がれ、下がらんか!」
警備の兵が必死に下がらせようとするが、お祭り気分で浮かれたプラーク市民には厳しい警備兵達もその辺のでかい兄ちゃんぐらいのものにしか感じられない。それに市民達は祝いの場で揉め事を起こしたくないという兵士達の足元を見透かしていた。何よりあの白百合の華が見られるという機会を逃してなるものか。
マリアンヌ・ド・トリステインが馬車の窓から顔をのぞかせるたびに大変な歓声が沸きあがり、手を振ろうものなら「トリステイン万歳!」が飛び交う。ユニコーンが牽引する馬車の前方には、愛馬に騎乗した『英雄王』フィリップ3世が意気揚々と市民に応えていたが、その歓声は愛娘と比べると明らかに小さい。
どこの世界にもミーハーはいるものである。
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ハルケギニア~俺と嫁と時々息子~(結婚しないでいたまえ-君は後悔するだろう)
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「結婚はするべきです。えぇ、するべきです。何が何でも結婚しなさい」
開口一番、いきなりこう宣言したベーメン女王エリザベート8世に、マリアンヌは時勢の挨拶や祝いの言葉も忘れて思わず問い返した。
「・・・あの叔母様。私はまだ何も」
「ちょうど私があの王冠をかぶせられたのは今の貴女と同じ年頃でしたからね。考えていることぐらいわかりますよ。国内から王配を迎えては不満が出る、かといって国外の王家から迎えては『操り人形』という批判が出かねない。それなら自分を犠牲にしてでも国内の安定を優先する-こんなところでしょう」
「違うかしら?」と首を傾げるエリザベート8世だが、その口調には有無を言わさない響きが混じっている。幼い頃に母クロードと死別したマリアンヌにとって叔母であるエリザベート8世は母代わりのような存在であると同時に、頭のあがらない存在でもある。第一次エスターシュ政権当時、大公への不満を口にしたマリアンヌに「貴女が王女でいられるのは誰のおかげですか」と叱責されたことがあった。身内である気安さからか、とんでもない失言をしたものだと今思い出しても冷や汗が出る。表に出ていれば、ただでさえ難しい関係を強いられていた父とエスターシュ大公との関係はより緊迫したものとなったであろう。
細身の、いかにも神経質そうな顔立ちのエリザベート8世がその切れ長の目を細める。マリアンヌは心底を見透かされるような気分になり、その身を強張らせた。
「貴女はフィリップ陛下の娘であると同時に、トリステイン王家で最も若い王族なのですよ。貴女亡き後、いったい誰が白百合を継ぐというのです?」
「・・・ブラバント大公やヴァリエール公爵、ロタリンギア公爵など王家の血を引く貴族から後継者を立てることを考えています」
叔母様がなされたようにとマリアンヌは続けた。新教徒や宗教庁勢力、貴族に王族といった国内のどの諸勢力とも結びつかないことによって、エリザベート8世は超然とした立場で国内問題の調停者でいることが出来た。自身の権威を背景にエリザベートは王族の中から後継者を選ぶことに成功している。暗にそれを仄めかすマリアンヌに、エリザベートは首を横に振ることで答えた。
「血が繋がっていればいいというものではありません。確かに貴女が今名前を挙げた貴族にも王位継承権はありますが、所詮妾の子供とその子孫。彼らに白百合を背負う権威があるとお思いですか?」
「貴族は貴族に生まれるのではなく貴族になるといいます。確かに難しいでしょうが、彼らが王位継承権を有するのは間違いないこと。それに誰もが納得するだけの能力と素質があるのであれば-」
再び首を振るエリザベート。
「貴女は重大なことを忘れています。マリアンヌ、貴女は英雄王の娘だから権威があるのではありません。始祖の子にして建国王ルイ1世以来、6000年以上続いてきたトリステイン王家。その歴史が貴女の体に流れる血の一滴一滴に宿っているからそこ、貴女は『マリアンヌ・ド・トリステイン』たりえているのですよ」
血の論理と尊貴を説くエリザベートの言葉にマリアンヌはかすかな反抗心を覚えたが、その言葉を飲み込んだ。奇しくもフランソワ王太子の死によってエリザベートと同じ立場に立たされたマリアンヌには、この叔母の言わんとする事がおぼろげではあるが理解できたからだ。若年ということで不安を与え、知識がないことで馬鹿にされ、経験がないことで侮られ、そして「女」である事が理由のない優越感を相手に与える。今でこそエリザベート8世は聖イシュトヴァーンの王冠の主に相応しいと貴族や平民に認められているが、始祖の血を引かないベーメン女王である叔母がその名声を手に入れるまでには、それに倍する屈辱を味わい侮辱にまみれてきたであろうことは想像に難くない。エリザベート8世はそれを口にしないが、英雄王の娘であり始祖の直系子孫であるという恵まれた立場にいる自分が、それに疑問をつけるとはなんと贅沢な悩みか。エリザベートが許しても、マリアンヌ自身のプライドがそれを許さない。
エリザベートは噛んで含めるように、ゆっくりと言った。
「あなたの体に流れるその血。始祖ブリミル、トリステイン建国王ルイ1世、そして英雄王と同じ血があなたの体に流れています。血筋の権威とは誰もがそれを認めるからこそ成り立つのです。しかし血筋の権威はその秩序が崩れ、一度疑問符が付くと取り返しが付きません。貴族は王家に対する疑問を口にするようになり、言葉は杖となります」
東フランク王国がそうであった。最後の国王バシレイオス14世の死後、叔父であるザクセン大公のアルブレヒトが国王即位を宣言したが、庶子であったために正当性に疑問符がついた。異議をとなえる貴族の言葉は杖となり、言葉の数だけ杖が交わされた。旧東フランクを受け継いだ諸侯は、その支配の正統性の裏づけに苦心し、逆説的ではあるがそれが旧東フランク諸国全体に合理主義的精神を根付かせる事になる。空理空論を弄ぶよりも、杖を一振りしたほうが容易に物事が片付く事に気が付いたからだ。しかし杖で権力を獲得したものは、同じく杖の論理で倒される。そのため旧東フランク地域に戦禍が耐えることはない。
「私は王族から選びました」とエリザベートは本題に切り込んだ。独身で子がいないエリザベートは、次の聖イシュトヴァーンの王冠の主になる皇太子に従兄弟のスラヴォニア大公フランツ・ヨーゼフを選んだ。何のことはない、エリザベートとその父レオポルト3世から最も近い王族であり王位継承順で言えばもっとも妥当な人選といえた。しかしその妥当な人選をするためにエリザベートは25年の歳月を費やす必要があった。
貴女にそれが出来るのか、その覚悟はあるのか-マリアンヌは自分が詰問されている気分になった。安易に覚悟と呼んだ自分の中にあるそれが、恥ずかしいものの様に思えてくる。
「いいですか?王族は王家に籍を置くもの。王族と貴族、そこには初めから一線が引かれています。ですが貴女の場合は貴族から選ぶことになるのですよ?貴族から王を選ぶ-エスターシュ大公がなぜあれほど嫌われたのか、わからないとは言わせませんよ」
エスターシュ大公が挫折したのはその政治目的が、自身が王になるためのものではないかと疑われたからだ。初めから一線が隠されている王族とは違い、分家した大公家の当主といえども貴族の間では同格だという意識が強い。昨日までは同じ杖の忠誠を誓う立場であったのが、今日からはその忠誠を誓う存在になることを「はいそうですか」と受け入れることは簡単ではない。
「エスターシュ大公家は政治的に無理でしょう。今貴女の上げた三つの家-ブラバント大公、ヴァリエール公爵、ロタリンギア公爵なら大公家が最も家柄で言えば自然ですが、大公家には確かヴァリエール公爵家から養子が入っていますね」
マリアンヌは小さく首を傾げた。
「よくご存知ですね。確かに3代前にヴァリエール家からブラバント大公家は養子を迎えています」
「昔あの家から私の王配を迎えようという話がありましたからね。それはともかく、ただでさえ庶子の子孫であるという点で難しい上に、それでは継承順に明確な差はありません。そんな状況で-例え貴女が個人の能力で選んだと言ったところで、選ばれなかったものはそうは受け取らないでしょう」
エリザベートはいったん言葉を切った。マリアンヌは緊張した面持ちでこちらを見ている。フランソワ王太子亡き後、白百合の後継者として扱われるようになったことで何らかの心境の変化をもたらしたのか。少なくとも昔は自分の意見や主義主張を持つような性格ではなかったはずである。意見を持つ事自体は悪いことではないが、ひとつの考えに凝り固まっては見えるものも見えなくなる。
「初めから選択肢を絞ってはいけません。貴女はまだ若いのですから、どこにご縁があるのかわからないものですからね。外から迎えてもいいわけですし・・・貴女だってまるで興味がないわけではないのでしょう?」
「お、叔母様!」
いつの間にかお節介な身内の表情となって、いたずらっぽく笑いかけたエリザベートにマリアンヌは顔を赤らめた。名と実が一致しない旧東フランクの大国の主である女王からすれば、白百合の王女様をからかう事などなど赤子の手をひねるようなもの。トリステインが旧東フランクへの進出に失敗したのもむべなるかなである。
ひとしきり姪をからかうと、エリザベート8世は再び目を細めた。刺す様な眼光の鋭さに晒されながらも、マリアンヌはどこか安堵していた。厳しさの中にある感情に、亡き母クロードを重ね合わせていたのかもしれない。
「早急に答えを出す必要はありません。それに貴女の気持ちがどうであれ、そうした事が決まる時には、いつのまにか環境が整えられているものです・・・人に決められた道を歩くのは嫌いですか?」
マリアンヌは少し考えてから言った。
「・・・同じ歩くのであれば、自分で道を切り開きたいと思います。結果がどうであれ、それが自分で選択した事であれば納得できるでしょうから」
エリザベート8世は、この人には珍しく声を上げて笑った。
***
男もそうであるが、貴族の女子は社交界に出る前にまずドレスコードを叩き込まれる。端的に言えばTPO(Time-時間、Place-場所、Occasion-場合)をわきまえた服装をするということだ。宴の趣旨や主催者の性格、会の規模や会場に時間帯といった様々な状況を勘案し、それに相応しい服装に身を包む。これが出来ないと如何に名門貴族の子女であっても「この程度のことも出来ないのか」と嘲りを持って見られる。いったん生まれた悪評は社交界でついて周り、結果的には本人の将来すら決めてしまうことすらある。
TPOにだけ注意していればいいというものではない。その家柄に相応しい格好というものもある。要するにここでも「血筋の論理」が顔を出す。たとえは同じ伯爵家でも誰それの家の先祖は王家の出であるからとか、何代前にどこそこの公爵から婿を取っているとか。そうしたことで上下の差がつく。誰しも自らが人に劣るとは思いたくない。ましてやそれは自分たちにはどうしようもないことだ。過去にあった些細なことで競い合い、優越感と敗北感を味わう-それもまた貴族である。
血胤の尊さ-結局自分はそれに振り回されてきたのだとエリザベートは思う。イシュトヴァーン1世は確かに偉大な人物ではあったが、その子孫というだけでは貴族を従わせるには十分たりえなかった。自分だけではない。東フランクの王家に連なるものであれば、誰もが一度はそれを感じたことだろう。「なぜ自分は始祖ブリミルの子孫ではないのか」「何故自分はただの貴族に生まれなかったのか」と。貴族達が血胤を誇る事の何とほほえましいことか。醜さはあってもそこに罪はない。
エリザベートの視線の先には、義兄にあたるトリステイン国王フィリップ3世がワイングラス片手に貴族たちに囲まれて談笑していた。人をひきつけるのが英雄の素質というのであれば、今のフィリップ3世は「英雄王」という呼び名に相応しい。華美も過ぎれば下品となるが、どれほど派手な服であってもフィリップ3世が身に着ければ、それが彼のために作られたのではないかと思わせてしまう。見た目や引き締まった体もそうであるが、何より彼には華がある。マリアンヌとは違う、そして彼女にはない華が。古今東西、英雄の嫌いな人間はいない。幾多の戦場を駆け抜け、杖をとれば一騎当千、軍勢を率いれば常勝無敗。そしてあのラグドリアン戦争とセダン会戦-国の存亡をかけた戦いに自ら杖を取り戦ったことはハルケギニアで知らないものはいない。その光に人は集まる。「太陽王」ロペスピエール3世も、その光に魅せられた一人だったのかもしれない。
いつの頃からか英雄は自分が英雄である事を知った。フィリップ3世は彼らの望む「英雄」として振舞う。それが戦争で傷ついた白百合の威信を高めることにつながり、いずれ自分のあとを継ぐことになる娘の後ろ盾となることがわかっているからだ。英雄である事の責任-無責任な民の期待にこたえる義務はないのに、彼はそれを自分に課している。単に自己のプライドを満足させるためだけでは続かないだろう。
エリザベートの視線に気がついたのか、フィリップ3世はバイエルン王国のルードヴィヒ王太子に断りを入れてから歩み寄ってきた。自信にあふれた力強い足取り。彼が歩けば道が出来る。彼の行くところに道がある。それが英雄ということなのだろうか。だとすればあの姪は間違いなく英雄王の娘だ。そうでなければ20かそこらの小娘があんな言葉を吐けないだろう。
「さすがは英雄王というところですか。おもてになりますわね」
「男にもてても嬉しくはありませんぞ」
そう言って笑うフィリップ3世。仕草のひとつひとつが実に様になっている。本人に自覚はないのだろうが、彼は生まれ持っての役者なのだ。自分に自信のなかったコンプレックスの塊のような「太陽王」とは違い、この男は英雄となるべくして、そういう星の下に生まれたのだ。
フィリップ3世はトリステイン王アンリ6世の3男として生まれた。後世の歴史家は時の巡り会わせで彼が王となり、一時水の国は深刻な経済危機に陥った原因は、彼が帝王学という王としての教育ではなく、軍人としての教育しか受けなかったことに原因があると批判した。しかし仮に彼が王太子として厳しく帝王学を躾けられたところで「英雄」の持つ天性の気質とぶつかり、いい結果はもたらさなかっただろう。とにかくフィリップ3世は比較的自由な環境でのびのびと育ち、英雄としての気質を身につけた。お忍びでチクトンネの悪所にも通い、兵士や町のゴロツキと酒を飲んで喧嘩をした。そうした若いころの夜遊びが、王としての人格の幅をもたらしたともいえる。本来なら眉をひそめられるエピソードですら、英雄の経歴を飾るものとなった。
ところでその傾向は娘であるマリアンヌにも受け継がれた。ある時、お忍びで出歩く王女に困り果てた宮廷貴族がフィリップ3世に諫言したが「あれは余の娘だから」というフィリップ3世の言葉に苦笑いを浮かべるしかなかったという。
閑話休題
当然というべきか、そんな王弟に嫁ぐ女性というのも相当なもので-それがエリザベート8世の姉で、今は亡きマリアンヌの母クロード王妃である。その名を聞けば今でも多くのベーメン貴族が「あぁ、あの・・・」と誰しもがどこか遠い目をする彼女は、その美貌と同時に「自由奔放」が人の形を取ったような性格で知られていた。気が強く男勝りで負けず嫌い。「男であれば」と父のレオポルト3世も嘆いたが、残念ながらクロードは正真正銘の女であった。修道院にでも入るか、それとも学者にでもなるかと思われていたが、たまたまプラークを訪れたフィリップと出会ったことでその運命は大きく変化した。
その時の姉の様子を、エリザベートは今でも克明に思い出せる。彼女は頭が良すぎた。魔法の才でもその他の教養でも圧倒的に抜きん出ており、そのうえ王族だ。男としてはどうしても気後れしてしまう。期待と失望を繰り返し、いつしか「つまらない」が口癖になっていた姉が頬を紅潮させ恋する乙女になったのだ。それもたった一度の邂逅で。昔の感情豊かな姉に戻って欲しいと願っていたエリザベートも最初は喜んだものだが、そのうち口から砂糖を吐きそうになった。毎日毎日「殿下が殿下が殿下が…」。関○電力か!仲○工事か!という謎の言葉が浮かんできたが、あれは一体なんだったのか。それはともかく、姉がその時まだ王弟であったフィリップ3世に嫁いだ時にはようやくこれで開放されると清々したものだ。その姉がいなくなったおかげで、貧乏くじを引かされる羽目になったのだが。
エリザベートの懐古は、そのフィリップ3世によって妨げられた。
「女王陛下、感謝いたします」
「さて、何のことでしょうか。急にお礼を言われてはなんだか怖くなりますよ」
「マリアンヌですよ」
フィリップ3世はちらりと愛娘の方向に視線をやった。サヴォイア王国のカヴール外相一行とにこやかに談笑している。ここ最近仮面のように張り付いていた緊張感や、ガチガチに固まっていた肩の力が抜けている。
「最近はあれを厳しく仕込んでいましてな。ようやくものになってきたのですが、若さゆえの気負いが目立ち始めまして、どうしたものかと悩んでいたのですが。どうやら女王陛下のお陰で良い感じに肩の力が抜けたようです」
「あらあら、英雄王ともあろうお方が娘の教育にお困りとは」
皮肉っぽく笑ったエリザベート8世に、フィリップは頭をかいた。娘のマリアンヌもそうだが、義兄であるはずのフィリップ3世も彼女には頭が上がらない。義兄と義妹という関係ではあるが、エリザベートのほうが3歳年長なのだ。
「いや、お恥ずかしい。娘がこんなに難しいものだとは思いもしませんでした。男ならまだ自信がありますが、どうにも女という生き物はわかりません」
普段の厳しい顔つきからは想像も出来ないが、フィリップ3世は笑うとなんとも愛嬌がある。色々と面倒な性格だったが、根は単純だった姉はきっとこれにやられたのだろう。でれでれになってフィリップ3世のことを自分のように自慢するクロードを思い出す。今となっては聞く事は叶わない、口から砂糖を吐きそうになるあの惚気けを。
「・・・私など真似なくとも、彼女はいい女王になるでしょう」
「世辞だとしても嬉しいものですな」
破顔したフィリップ3世にエリザベートが表情を崩さずに言う。
「世辞ではありません。彼女と話して私が感じた評価をそのまま言っただけです」
「それは、それは」
照れくさそうに鼻の下をこする英雄王。自分の英雄談は飽きもせずにいくらでも並べることが出来るのに、娘の事となるとただの父親の顔となるのが不思議だ。その感情は、自分には一生味わうことの出来ない感情であろう。
政治環境が許さなかった-それは嘘だ。エリザベート自身にも女王即位以降、そうした話は何度もあった。そのほうが政治的には望ましいであろう縁組もあった。しかし自分は「政治的中立」を理由にそのすべてを断った。
怖かったからだ。
自分の運命を一部でも人に任せる-いつ退位させられるかという恐怖におびえながら結婚という人生の伴侶を選ぶ博打を打つ。その決断が自分には出来なかった。女王であるという立場に甘え、それを押し通した。
その結果がこれだ。一人で寝るベッドの広さにはもう慣れた。しかしそれが人生の終焉まで続くであろう事を考えたときには、全く異なった感情が胸を支配する。人生の折り返し地点はもう当の昔に過ぎた。後悔はしない。しかし自分と同じ寂しさを、あの姪には味あわせたくはない。仕事に疲れ、倒れるようにベッドに身を投げ出した時に感じるあの気持ちを知るのは自分だけでいい。それにあの娘に、マリアンヌにそれは似合わない。野に咲く一輪の白百合も見事なものだが、それだけではいかにも寂しい。
そうでしょう・・・姉様?
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「それでは私はこれで」
「ええ、どうぞよいひと時をお過ごしください」
プラーク駐在のトリステイン大使エノー伯爵の紹介を受けながら、マリアンヌは自分のもとに来る貴族や大使と次々に挨拶を交わしていた。不思議なもので、昔は嫌で嫌で仕方がなかった表面だけの挨拶や世辞が最近苦にならなくなってきた。自分はやはりあの父の子ということなのだろう。
「・・・お披露も楽じゃないわね」
「楽な仕事などこの世にはありません」
至極最もなラ・ポルト侍従の答えにマリアンヌは苦笑を浮かべる。父が最近何かと自分を表に出すのは後継者として自分をお披露目するためであろうと彼女は認識していた。それゆえ、どこか視線を伏せがちにこちらにやって来る一行にもすぐに気がついたし、侍従のラ・ポルト子爵が嫌なものを見たとでも言わんばかりに視線をそらしたことに、視線で注意することも出来た。エノー伯爵は官僚らしく感情を表さずに淡々と説明を始めた。
「ハノーヴァー王国使節団です。向かって右側がハッランド外務大臣。次期首相の有力候補の一人です。斜め後方がオルラタ伯爵レンナート・トルステンソン元帥。先の戦役ではトリステインに味方すべしと主張され-」
「白百合贔屓の面々ということね」
エノー伯爵はマリアンヌの言葉に静かにうなずいた。ラ・ポルト子爵などは忌々しげに顔を背けている。一般的にいえば子爵の反応がトリステインにおける対ハノーヴァー感情を表しているといっていい。淡々とした態度のエノー伯爵にしても、親族がラグドリアン戦争で戦死している。含むところは多々あるだろう。
ハノーヴァー人は世評で言われるほどの悪人ではない-そうマリアンヌが口にしたら彼らはどんな反応を示すだろう。当事者であるはずのマリアンヌだが、彼女はむしろこの長年の同盟国の事を客観的に見ていた。もし彼らが本当の悪人だとすれば、今頃トリステイン王国はハノーヴァーとガリアの一地方となっており、自分は今ここにいない。無論、憤りはある。しかしマリアンヌは思考と情念が昔ほど直結してはいなかった。
ラグドリアン戦役でハノーヴァーは水の国を見捨てた-これは事実だ。国境線を閉鎖し、物流の流れを断った。それゆえトリステインはガリアの大軍相手に孤軍奮闘の戦いを強いられ、国土の南部と軍に甚大な被害をこうむる。しかしハノーヴァーは超大国ガリアと北部都市同盟の圧力を前にしても、同盟破棄には踏み切らなかったとも言える。どう見ても勝ち目のない同盟国と心中はしたくない。かといって長年の同盟関係を完全に切り捨てることは出来なかった。2つの外圧の後押しがあったとしてもだ。トリステインと正面から戦うことを恐れ、周辺諸国の評価を気にしたため、その決断が出来なかった。だから完全にガリアと歩調を合わせることはせず、厳正中立で戦後に太陽王に責められることがないようにお茶を濁した。ハノーヴァーからすれば、最低限の義理は尽くしたという思いなのだろう。彼らなりに苦心と苦悩を重ねて出した決断にもかかわらず、ハノーヴァーは「日寄った」と受け止められ、その名声を大きく落とすことになる。英雄王の評価が上がった事とは対照的だ。世間はわかりやすいものを好きになる。ハノーヴァーの行動はいかにも判り辛いもので、世間の納得を得ることは難しかった。善良で気の小さい常識人は自分たちに向けられる白い視線に耐えていた。
白百合の後継者としての責任の重さをその肩に感じ始めていたマリアンヌは、むしろ彼らに同情した。納得はしない。フランソワ王太子を始めとした多くの見知った顔が、マリアンヌと近しい人々がセダンの地に消えたことを思い出す度に、彼らの日和見的な行動を許しがたく感じる。納得しろといわれても無理な話だ。しかしその善良な隣人を前にして、マリアンヌは罵ることはなかった。その種の感情を表す言葉が彼女の中に存在しなかったからかもしれない。それ故、マリアンヌは伸ばされた手をためらいなく握り返すことも出来た。
「ハノーヴァー王国王太子のフレデリック・クリスチャン・オルデンブルグ=ハノーヴァーです」
「トリステイン王フィリップ3世が娘のマリアンヌ・ド・トリステインです」
その光景は、宴に出席していた各国大使の耳目を集めることには十分なインパクトを秘めていた。