「人間はすべて善であり悪でもある。極端はほとんどない。すべてが中途半端だ」
アレキサンダー・ホープ(1688-1744)
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ハルケギニア~俺と嫁と時々息子~(主役のいない物語)
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(トリステイン王国南東部 アントウェルペン トリステイン宗教庁)
トリステイン王国南東部。延々と広がる長閑な田園風景の中に、突如としてそれは現れる。王都トリスタニアが水の国の政治・文化の中心であるとするなら、アントウェルペン-人口4千人程度のこの都市はトリステイン国内のブリミル教信仰の中心だ。トリステイン宗教庁の白亜の荘厳な建造物が、アントウェルペン市外のみならず、この地域全体に侵し難い厳粛な気配をもたらしている。
トリステイン宗教庁長官であるマーカントニオ・コロンナ司教枢機卿と、宗教庁官房長のデムリ伯爵エドゥアール・ル・テリエについて述べる前に、トリステイン宗教庁について触れないわけにはいかないだろう。トリステイン国内の聖職者叙任権を持つこの機関は『始祖の墓守』ロマリア教皇を筆頭とする宗教庁と、始祖の直系子孫であるトリステイン王家-王政府との対立の歴史の中で生まれた「忌子」である。
大王という実の伴わない称号を捨てた『始祖の盾』聖フォルサテの子孫であるロマリア教皇が、ハルケギニア諸国に強い影響力を及ぼす事が出来たのは『始祖の墓守』という宗教権威をブリミル教という新たな衣で覆う事に成功したため。当然、世俗権力からすれば面白くない。聖戦華やかなりしブリミル暦3000年代が終わり教皇権の衰えが見え始めると、ハルケギニア諸国は国内からの宗教庁の影響力排除に動き始めた。中でも熱心だったのはアルビオン・トリステイン・ガリアだ。旧東フランク諸国が『始祖の盾』の子孫という世俗権力としての権威と『始祖の墓守』という新たな宗教権威を前に国家支配の正統性を打ち出すことに苦労したが、先にあげた3国の場合はその心配がなかった。要するに「盾だか墓守だか知らんが、こちとら始祖ブリミルの子孫だぞ」という実にわかりやすいシンプルな論理があったからだ。しかしこの3国が辿った経緯はそれぞれ全く異なる。反王家勢力ジャコバイトと結びついた新教徒の反乱に悩んだアルビオン王国は宗教庁と結びつく事でそれに対抗する道を選んだ。ハルケギニア1の大国ガリアは、国内の修道院領や管区内での教会の自治は認め、叙任権(司教や修道院長の人事権)にも干渉しなかった。一方で国政レベルでは徹底的に宗教庁の影響力を排除し、聖職者の公職兼任も禁止した。
この2国と比較した場合、トリステイン王国とロマリア教皇のそれはなんともわかりにくいものであった。トリステインは国内における宗教対立に、国内の一部を除き無縁であった。実践主義という考え方が、穏健な保守的国民性に合わなかったからであろうし、広大なガリアに比べて国家としてのまとまりが取れやすい領土だったこともある。しかし水の国には水の国の悩みがあった。国内における教会領が国家としての統一性を危うくしかねないまでに拡大したためだ。歴代のトリステイン王が熱心なブリミル教徒であったことに着目した貴族達は、開墾した領地を次々に教会に寄進。教会領とすることで軍役や賦役を逃れようとした。貴族の負担逃れに危機感を募らせたトリステイン王フィリップ2世(4010-4078)は叙任権を主張する事で教会領への影響力を確保し、貴族を牽制しようとした。時のロマリア教皇は聖エイジス27世(在位3980-4041)。新教徒の先駆けである実践主義を唱えたウィリアム・ロード司祭を破門、火焙りにした教皇である。これ以上の政治的失点を防ぎたい聖エイジス27世はフィリップ2世を破門にしようとしたが、すでに教皇にそれを実行に移す力はなく、また枢機卿達や聖堂議会も始祖の血を引くフィリップ2世が破門を無視すれば宗教庁の権威が完全に失墜すると見てこれに反対した。
両国の関係は冷え込んだまま膠着状態に陥る。事態が再び動き始めるのは聖エイジス27世崩御(4041)を待たねばならなかった。エイジス27世崩御後、失墜した教会権力を立て直すため、聖フォルサテの子孫である七選定侯家以外から次期教皇が選出された。それがトリステイン出身のパウロ枢機卿-グレゴリウス1世(在位4041-62)である。もともと水の国と光の国の関係は悪くない。トリステインはガリアのように公職と聖職者の兼任を禁止しておらず、国内の新教徒の数が少ないため教徒対策でも宗教庁と歩調を合わせることが容易であった。何より始祖の血をひく数少ない宗教庁側の勢力である水の国を敵に回すのは好ましくないという、聖職者ではなく政治家としての判断をすることができたグレゴリウス1世(出身国ということも影響したのだろうが)はトリステイン王政府との間で折衝を重ねた。結果、アントウェルペンに設置されたのが「トリステイン宗教庁」だ。トップである宗教庁長官はロマリアから派遣されるが、修道院長の選任を初めとしたトリステイン国内の叙任に関しては水の国から派遣される事務次官や参事官を通してトリスタニアの意向が反映された。王政府は人事権を梃子に国内の再編や貴族の引き締めを図ることに成功。ロマリアも始祖の子孫を決定的に敵に回す事態を避け、水の国に対する一定の政治的影響力を確保したことである程度妥協する道を選んだ。
つまりトリステイン宗教庁長官はロマリアの聖職者にとって態のいい名誉職-上がりのポストなのだ。歴代の長官の何人かはトリステイン王政府に出仕して世俗での権威を極めたが、それは宗教庁での出世を諦めたことを意味している。実際このポストに就任した者の中でロマリア本国に戻れたものは数えるほど。教皇に即位したものはいない。マーカントニオ・コロンナ枢機卿は宗教庁での出世をあきらめておらず、官房長という事実上の秘書官であるデムリ伯爵はこの才気と野心に溢れる枢機卿の機嫌を取り結びながら、監視するという役目をトリスタニアの父-財務卿であるルーヴォア侯爵ミシェル・ル・テリエから命じられていた。
デムリ伯爵は自分を凡人であるという。このあたりにこの人の狡さがある。ルーヴォア侯爵家というエギヨン侯爵家に並ぶトリステインの政治名門家系出身でもある彼がただの人-凡人であるはずがない。しかし彼は自分をことさら凡人だという。凡人という衣が「名門」という出自を覆い隠せることを知っていたからだ。愚鈍は嫌われるが、愚直な人間は嫌われない。デムリ伯爵は愚直を装った。装ったといえば語弊があるかもしれない。彼がどちらかといえば不器用な人間なのは確かだ。仕事は確実だが早くはなく、政策に独自性があるわけでもない。だが、それが自分の武器になることを彼は理解していた。例えばエスターシュ大公の様な、見るからに才気に溢れた人間は本人にその自覚は無くても人のコンプレックスを刺激する。生意気だと嫌われる。敵視され、足を引っ張られ、そして大公は失脚した。
-賢すぎる人間は嫌われるのだ。
エスターシュはいわば荒波の中に隆起した岩のようだ。いかなる時代や環境であっても、その才は抜きん出ている。あの政治危機の中で、21歳の若さで国政の全権を任されたのももっともな事だ。だが、岩は荒波に削られ、風雨に晒されることと何れは海中に没する。彼がその才と天運を使い果たした後に残ったものは、彼への嫌悪感だけであった。デムリ伯爵は第2次エスターシュ大公政権末期、王宮内で見たエスターシュ大公の後姿を今でもよく覚えている。栄光と栄誉という羽をもぎ取られながら、孤独な才子は周囲に媚びる事も諂う事もなく胸を張って歩いていた。
この人はどうだろうか。自身の能力への絶対の自信と自負にありふれた傲岸な笑みを浮かべるコロンナ枢機卿の前に立つたびに、デムリ伯爵はどうしても大公と枢機卿を比べてしまう。大公はラグドリアン戦争という国家の危機を前に再び返り咲く事が出来た。ならばコロンナ枢機卿がもう一度聖フォルサテ大聖堂の大理石の床を歩けるかと聞かれれば、デムリ伯爵は首を傾げざるを得ない。
-要するにこの人には運がないのだ。
運も実力のうちだ。ついているやつは何をしてもついているが、ついてないやつは何をしてもついていない。エスターシュ大公とて平時であれば宰相になれるはずが無かった。非常時だからこそ彼は宰相として国家の命運を任される事になり、その傑出した才能が国政の中心でまばゆいばかりの光を放った。「トリスタニアの変」というよくわからない政変で失脚、一度政治的に死んだ彼がラグドリアン戦争という非常時に再び国政の経綸を任された。ついている・・・といえば語弊があるかもしれないが、二度も宰相の印綬を帯びるのは何らかの天命があの人にあったからだろう。
一方でコロンナ枢機卿だ。彼は宗教庁内の保守派フランチェスコ会に属するが、フランチェスコ会はここ最近の教皇選出会議(コンクラーベ)で敗戦続き。当然フランチェスコ会の教皇候補に挙げられるコロンナ枢機卿は人事の主流から弾かれるのだが、それでも49歳という異例の若さで「陸の孤島」と揶揄されるトリステイン宗教庁長官に押しやられたのはよほどのことではない。現教皇ヨハネス19世-バルテルミー・ド・ベルウィックが外務長官時代、宗教庁聖職者省長官(教会財産を管理)だったコロンナ枢機卿はとにかくそりが合わないことで有名で、明らかな報復人事と言う声が出たほどだ。当然その声は当人の耳に入っている。グレゴリアン大学を歴史に残る好成績で卒業し、宗教庁でエリート街道を歩いてきた自分がなぜこんな陸の孤島の主に甘んじているのか-その不満はわからないでもないが。
デムリ伯爵は軽く咳きをしてから、コロンナ枢機卿の執務室の戸をノックした。
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トリステイン宗教庁最上階の長官執務室からはアントウェルペン市街地がよく見渡せる。しかしマーカントニオ・コロンナ司教枢機卿の視線はその向こうにあった。アントウェルペン周辺には都市らしい都市は存在しない。在地領主の館と農村、そして長閑な田園風景が延々と広がるのみ。「陸の孤島」とはよく言ったものである。その風景を見るたびに彼の中で老人への怒りが湧き上がる。他者に指摘されるまでもなく、コロンナ枢機卿はこの人事は自分へのあてつけであることは理解していた。
「あのくそ爺が」
コロンナ枢機卿は口に出して呟いていた。
ヨハネス19世の顔を思いだす度に心底で憤懣や激情が激しく渦を巻き、苦いものが口の中一杯に広がるのを感じる。情のまま、感じるがままに動くのでは獣と変わらない。万物の霊長たる人間は理性でそれを整理し、世の中の理と自ら積み重ねてきた知識に基づいて行動に移すべきであると彼は固く信じていた。それに引き換えあの老人は、気の赴くままに人を怒鳴り散らして憚るところが少しもない。この間など、ロマリア市の食料局長と口論した挙句に激情して水をぶっ掛けたというではないか。まったく持ってふざけた話だ。あんな爺が始祖の墓守では偉大なるブリミルも安心して眠ることができないだろう。
「そうは思わないかね伯爵」
「私にはわかりかねます」
デムリ伯爵が首をかしげるのを見て、コロンナ枢機卿は鼻を鳴らした。27歳という年齢に似合わず落ち着いていると-口さがないものに言わせれば年寄りくさいと評される。ルーヴォア侯爵家というエギヨン侯爵家に並ぶトリステインの名門家系出身でもある彼は何かと色眼鏡で見られやすいといえばその通りだが、確かに年齢に似合わない分別臭さの持ち主ではある。しかしそれだけの男でもない。
「ノルマン大公の反乱でようやく私にも運が巡ってきた」
笑いながらコロンナ枢機卿は言った。運がないという自覚はあるらしい。ノルマン大公の反乱は、ヨハネス19世を支えるイオニア会とガリア派の下で、冷や飯を食わされていた非主流派・反主流派を歓喜させた。ノルマンディー地方を管轄する司教枢機卿のエルコール・コンサルヴィ枢機卿はガリア出身で勿論ガリア派。ヨハネス19世の右腕として先のラグドリアン講和会議でも活躍したが、同時に反乱を起こしたルイ・フィリップ7世との公私にわたる親交も有名であった。非主流派・反主流派は「枢機卿に反乱関与の疑いあり」として聖堂議会で攻撃を始めた。ただでさえヨハネス19世はその角張った言動で人気がない中での反乱に、ガリア派と共に主流派の一角を占めるイオニア会は頭を抱えた。
そして何より結束を誇ったガリア派に分裂の兆しが見え始めていたことが、コロンナ枢機卿の感情を暗い喜びで満たした。「太陽王」の下では積極的な外征のお墨付きを得るためにリュテイスから豊富な資金源が送られていたガリア派だが、現在のシャルル12世は父の残した負の遺産の処理のために内政に専念する姿勢をとった。当然、政治献金の額は減らされ、金がないとなると同じ派閥でいる必要性はない。ガリア派の分裂はもはや確定事項としてロマリアの外交筋は語っている。そうなれば次の教皇選出会議(コンクラーベ)はどうなるかわからない。ガラガラポンの政界再編だ。
「上手くいけば私も主流派に戻れるというわけだ」
「それはおめでとうございます」
「めでたいものか」
突如はき捨てるような口調になった枢機卿にも、デムリ伯爵は変わらずに接した。この程度で動揺していてはコロンナ枢機卿の官房長は務まらない。
「あの爺が死ぬまではここにいることに変わりはないのだ。それでは中央に戻っても軽く扱われる。敗者であることを受け入れた者に未来はない」
敗者であることを受け入れた者か-デムリ伯爵は一人ごちた。負け惜しみに聞こえなくもない。そう自分に言い聞かせたところで陸の孤島の主であることに代わりはないのだ。しかしその精神は確かに重要だ。何度叩き潰されて敗北しようとも、再び頂点を目指して這い上がろうとするだけの貪欲なまでの意思-ただのエリートにそれはない。
「手柄がいるのだ。手柄がな・・・伯爵のことだ。想像はついているのだろう」
「猊下のお考えは凡夫たる私には想像できません」
「相変わらず狡い人だ、貴方は!」
何がおかしいのかコロンナ枢機卿は愉快そうに手を叩いた。人に対する好悪の感情が激しいという世評通りの人物だが、デムリ伯爵はなぜかその当人に気に入られている。そう言えば自分に向かって「狡い」といったのはこの人が始めてだ。そう言われて怒らない自分の感性も不思議だが、初対面の人間に向かって「狡い生き方をしているな」と堂々とのたまった枢機卿も相当なものだとは思う。人の情というものに疎いのかもしれない。
「・・・事は極めて重大です。下手をすれば猊下は陸の孤島の主ですらいられなくなりますが」
「何だ、やはり気付いておったのではないか」
コロンナ枢機卿は目で笑いながらからかった。デムリ伯爵はあいまいな笑みを浮かべながら、妙な人物に好かれたものだと内心ため息をつく。デムリ伯爵自身は噂が事実であることをつかんでいたが、その細かな内容までは察知していなかった。国王陛下ですらご存知かどうか。リッシュモン外務卿の独断専行である可能性も捨てきれない。
「終戦からまだ2年です。仮に噂が事実として、それで交渉が纏まったとしても国内は納得しません。リッシュモン伯爵(外務卿)にしても国内の感情が沈静化するまでは表に出すつもりはないようです。噂に過ぎない段階で軽々に動かれますのは危険かと」
「それは確かにそのとおりだ。しかしエルコール枢機卿が身動きの取れない今、この機会を逃しては二度とチャンスは巡ってこないのも事実だ」
小さくうなずきながら言うコロンナ枢機卿。49歳-若くはないが後戻りができる年齢でもない。ましてや引退生活を送るのには早すぎる。その焦燥感は凡人であるところのデムリ伯爵の目にも明らかであった。ふと、デムリ伯爵の脳裏に、人を食ったような顔をした外務卿の大柄な顔が思い浮かんだ。
-リッシュモン伯爵も焦っておられるのかもしれない
ラグドリアン戦争当時もリッシュモンは外務卿であった。長年の同盟国からは見捨てられ、周辺諸国はすべてトリステイン滅亡後を視野に置いて行動し始めていた-その中で彼は奔走した。自国の置かれた立場や国力というものを誰よりも痛感したはずだ。祖国の未来に対する不安と焦燥感、それがあの話の背景にあるとすれば納得できる。
「失敗を恐れて縮こまっていては何も解決しない。現状維持は敗北と同じなのだ」
「そういうものですか」
「それに、これではあの爺に私が敗北したことを認めることになる」
それは耐えられないと口にしてから、コロンナ枢機卿は何かを言おうとするデムリ伯爵を手で制した。
「リッシュモン外務卿の邪魔をするつもりはないし、伯爵を巻き込むつもりもない。ただ君にはここに来てから世話になった。これだけは言っておきたいと思ってね」
コロンナ枢機卿はひとつ息をついてから、強い視線でこちらを見据えてくる。彼は理性こそ人間のあるべき姿であるというが、デムリ伯爵の見るところ、それは彼自身が理想とかけ離れた人間である事の裏返しに過ぎない。人間そのものが粘っこいのだ。陰湿でないのが救いだが、そんな人間からの好意は重苦しい。
「あのくそ爺に敗けをみとめるぐらいなら、私は死んだほうがましだ」
短く吐き捨てたコロンナ枢機卿に、デムリ伯爵は思うところを飲み込んで静かに頷いた。
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(トリステイン王国 王都トリスタニア ガルニエ宮-元老院議会)
トリステイン元老院-内政・外交における国王の顧問機関という厳しいそのお題目とは裏腹に、その権限は脆弱である。元々トリステイン王国は王権が強く、国内の主だった人事に予算や外交に至るまで、司法権を除く殆どをその独断で専決できる。強すぎる王権は先のラグドリアン戦争のような国家の緊急事態には有効だが、時に暴走した。高等法院が王権の監視役として時に王権の暴走を食い止めてきた一方で、元老院が何をしてきたかというと-何も出来なかったというのが実情だ。訪印のように権限があるわけでもなく、いざ戦時となれば貴族が王の意向に逆らうことは難しい。だが元老院は平時にはそれなりの影響力を国政に持つ。貴族や聖職者から選出される元老院議員は名誉職的な扱いをされることも多いが、法服貴族以外の貴族の意見を代弁する場所なのは間違いない。当然そこで交わされる議論は行政府のみならず市場もある程度注視せざるをえないというわけだ。それゆえトリスタニア市民から元老院の評判は芳しいものではない。元老院の置かれたガルニエ宮殿を指して「杖の倉庫」と呼ばれることからもそれがわかる。
しかし元老院の存在が貴族と行政府を結ぶ線となっているのも事実だ。高等法院参事官になれる貴族はごく一部。幼少時から試験勉強に専念できるだけの環境と法院へのコネが必要である現状では、元老院議員は大学進学の資金を賄う事の出来ない、または学力に乏しい大多数の貴族達にとって重要なキャリアアップの手段であった。また出世レースに敗れた官僚が議員として席を暖め、再び政界に返り咲くのも珍しくない。現在壇上で通貨問題についての演説をしているエヴェール伯爵も元は財務庁通貨局長という肩書きを持つ。しかしここではそれは何の意味も持たない。
「-通貨こそ国の力を示す重要な物差なのです。それが今ではどうでしょう?先月のリュクサンブールの貨幣レートを例に挙げましょう。トリステインのエキュー金貨1枚に対して、ガリアのスゥ銀貨は75枚から70枚で取引が行われています」
通常金貨1枚に銀貨100枚が交換レートの目安であることを踏まえ、ガリアの通貨がここ数年貨幣の含有率に手をつけていないことを考えると、明らかにトリステインの金貨が通常より安く扱われている通貨安であることを示していた。
「確かにガリアとわが国では国力に確固たる差があります。しかし4年前まではレートは85枚から90枚でした。10パーセント以上の為替安、これは異常としか言いようがありません。ラグドリアン戦争から早2年、いまだに為替相場が復帰しない原因は明らかであります。すなわちわが国内の一部に見られる通貨の切り下げを唱える声が、市場に無用の不安と混乱を・・・」
もたらしていると続けたかったであろうエヴェール伯爵の言葉は、怒号と野次で掻き消された。「経済オンチはすっこんどれ!」「財務庁の回しもの!」はまだいい方で、中には口にするのもはばかるような人格攻撃も混じっている。財務庁出身の硬骨漢で鳴らすエヴェール伯爵は声を張り上げながら演説を続けるが、野次への野次、それに対する再反論も飛び交ってもはや何を言っているのか聞き取るのも困難だ。真面目だけがとりえのようなデュカス公爵が最上段の議長席で顔を青くしながら「静粛に、静粛に」と鈴を鳴らすが、喧騒は一向に収まる気配を見せない。元老院議長の肩書きが鼻紙ほども役に立ってはいない。
しかしそれでいいのだ。この喧騒こそが自分の価値を高め、エヴァール伯爵に自分のおかれた立場を思い知らせることになる。その巨体を狭い席に無理に押し込めながら、ミラボー伯爵オノーレ・ガブリエル・ミケティは自らが引き起こした喧騒を冷ややかに見つめていた。
彼は正真正銘のトリステイン貴族である。しかし全く持ってトリステイン貴族らしからぬ風貌だ。がたいが良すぎるのか、それとも単に太っているのかわからない体。たれ気味の大きな目にしても、小さく引き締まった口や綺麗な放物線を描いている眉にしてもそれぞれパーツだけでみれば整っているのに、顔の上に載るとどうにもバランスが悪い。気さくな雰囲気を漂わせながら屈託なく笑うその様は、貴族というよりも大商会の主といった感じだ。弁護士の肩書きも持つ元老院副議長こそが、この喧騒の支配者である。マリアンヌの前で見せたどこか滑稽な表情はそこにはない。
-これでいい
ミラボー伯爵は再び繰り返した。トリステインの通貨切り下げは第1次エスターシュ政権(6200-6210)が経済危機克服の為に断行した切り札だった。「財源が足らなければ金銀含有率を下げても貨幣を発行すればいい」というエスターシュ大公の主張に、安易に含有率に手をつけては市場の信用が失墜すると慎重論を唱える財務官僚に、国の信用を貶めると反対した高等法院、賛成派の内務省や元老院とトリステインは真っ二つに分かれた。結果、エスターシュ大公は反対する財務卿を更迭して自らが兼任する事により、通貨切り下げを断行した。その成否は大公への政治的評価も相まって未だに定まっていない。通貨を切り上げて旧通貨に戻せと主張する財務官僚や、逆にもっと切り下げろと主張する元老院議員などが今に至るまで延々と論争を繰り広げている。
通貨の切り下げが正しいのか、それとも切り上げをすべきなのか、または現状の維持でいいのか。そんなことは自分にはわからない。しかし神学論争を続けていても意味がないことはわかる。第1次エスターシュ政権が断行した通貨の切り下げ以来、財務庁や法院参事官、国内外の金融業者に商会も巻き込んで延々と続くこの論争が、この議会で決着を見るぐらいなら苦労はしない。それにラグドリアン戦争の戦禍から完全に立ち直ったとはいえないトリステインが実際問題として通貨をいじることなど出来ようはずがない。そんなことをすれば市場で格好の投機の的として扱われるのがオチだ。そんな出来もしない過程の話をわざわざ今する必要はどこにもないのだ。その点に関して、市場の不安定化を恐れる宰相のエギヨン侯爵とミラボー伯爵の意見は一致を見た。
「いずれ直面する問題に関しまして、今、ここで逃げてはなりません!」
「できもしないことを言うな!この無責任男!」
どちらが無責任か。ミラボー伯爵は野次を飛ばした若い男爵のほうを見ながらひとりごちた。確かにいずれ通貨問題については決着をつけなければならない。そのためにはエスターシュ大公個人への好悪の感情を超えて現状の問題点を調べ上げ、切り下げと切り上げた場合の両方の利点と問題点を忌憚なく議論する必要がある。しかしそれは元老院の仕事ではない。財務庁のテクノクラートがやればいい仕事だ。ミラボー伯爵はエヴェール伯爵の発議を事前に妨害せず、むしろ時間を割り当てた。議論が成立しなければ発議しても意味はない。市場も見向きもしないだろう。回りくどいとエギヨン侯爵は不満げだったが、言ってもわからない者には一度顔をひっぱたく必要がある。エヴェール伯爵はいまだに財務庁通貨局長の気分が抜けていないのだ。議論すること自体は正しいが、時と場所をわきまえなければ惨めに敗北する-ミラボー伯爵は演壇で誰も聞いていない演説を続けている伯爵に身をもってそれを学ばせているのだ。
-そう、まだ早い。早すぎる
ミラボー伯爵は顎をなでた。すでに目の前の喧騒のための喧騒に興味はない。茫洋とした表情のままその頭は忙しく回転していた。伯爵は独自のルートでエギヨン宰相とリシュモン外務卿が内密に進めている計画を掴んでいた。もしそれを自分が元老院で問題にすれば、現政権は間違いなく吹っ飛ぶだろう。しかし自分もただではすまない。知識という武器も使いどころとタイミングだ。切るタイミングを失敗すれば今のエヴェール伯爵どころではない。
ネームプレートに彫られた自分の名前をなぞりながら考えにふけるミラボー伯爵。振りかざすばかりが武器の使い方ではない。「知っている」-それだけでいいのだ。それこそが自分の最大の武器になる。目的さえはっきりしていれば、何も恐れるものはない。リッシュモンめ、それがわからない男ではなかったはずだが。
「・・・策士策に溺れるか、それとも救国の士となるか。政治家とは因果な商売だな」
「副議長閣下、今何と?」
「独り言だ、気にするな」
笑ってばかりもいられない。人も家も商会も国家も-拡大するのは簡単だが維持し続ける事は難しい。リッシュモンよりも自分が優れているとすれば、その一点を知っている事だろう。どちらが愛国者かと聞かれれば無論彼だろうが、愛国者が必ずしも成功するとは限らない。自分の様な「政治屋」の出番はない方がいいに決まっているが、そうもいかないだろう。ミラボー伯爵はその独特の政治的嗅覚から、何れ自分の出番が望むと望まざるとに関わらず周り巡ってくるであろう事を予想していた。
「参ったねこれは、いや参った参った」
さて、どうしたものかね?