都市国家と大陸国家のどちらが強いかと聞かれれば後者である。国の広さと人口は必ずしもイコールではないが、一都市と国家の戦力は比べ物にならない。北部都市同盟とハノーヴァーとの戦争が始まった時、誰しもが青い獅子の勝利を予想した。
しかし国力は経済力とイコールではなかった。北部都市同盟はその前身である東フランク国王直轄の自治都市の頃からその経済力は一目置かれており、国王から都市参事会や市議会による自治を認められたほどである。王国崩壊後、自治都市は連合を組んでその経済力を政治的影響力として独立と経済的自立を保とうとした。長きに渡るハノーヴァーとの戦争(ブレーメン戦争。3291-3321)において、北部都市同盟はその重要拠点であるブレーメンこそ明け渡したものの、ザクセンやトリステイン-果てはガリアや宗教庁にまで手を伸ばした外交戦を展開。停戦に持ち込んだうえで旧王国時代の様々な経済的特権をハノーヴァーに認めさせるという外交的勝利を収めた。ハノーヴァーとしてもエルベ川を挟んだザクセンとのにらみ合いが続く中、北部都市同盟が完全にザクセンに味方されるよりも、取り込んだほうが得策だとソロバンを弾いたためだ。そのためには経済的特権を認めるぐらいは安いものだ-
そのツケは高くついた。オルデンブルグ家による同君連合という色合いの強かったハノーヴァー王国の国力が衰えるに従い、経済の主導権は完全に北部都市同盟に握られることになった。領地経営に苦しんだ貴族たちは都市同盟参事会を通じて商会や銀行の出資を受け、今ではその助けを借りなければ経営が成り立たないまでになっている。当然そうした貴族達は出資先の意向を伺うようになり、都市同盟の意向が議会に反映されるようになった。保護貿易関税を唱えたハノーヴァー王国財政顧問のジャン・ディドロ(6070-6120)が追放されたのも、彼の構想が北部都市同盟の既得権益を侵すとみなされたからだ。ディドロはその後、ガリアのシャルル11世に請われて経済財政顧問に就任。経済構造改革の理論的支柱として、ガリアの中央集権化政策に尽くした。それゆえ彼のガリア行きは後世の歴史家に「ハノーヴァーの最大の失策」と言わしめることになる。
この「ハノーヴァーの最大の失策」という表現は、ブリミル暦6210-12年にハノーヴァー王国の首相を務めたヴィスポリ伯爵ヨハン・ウィルヘルムの言葉である。首相退任後も外務大臣や副首相を歴任した王国の重鎮は、28歳で家督を相続してから没するまでの40年間、日記をつけ続けた。それゆえ彼の日記はハノーヴァー王国史を調べる上で欠かす事の出来ない史料であるとされる。その内容は「退屈」の一言に極まる。無味乾燥にして面白みはまったくない。家族との私的な会話からその日読んだ本の内容、同僚と交わした雑談は言うに及ばず、市井や宮中での噂話に至るまで、うんざりするほど執拗に詳細に記録している。日記を記録として見るならこの病的なまでに記録に徹したヴィスポリ伯爵の日記こそ日記の名に相応しい。ヴィスポリ伯爵は公私共に非常に口が重かった事で知られる。詳細な記録に残す事で、彼は国政の重責を担う自身の精神的安定を保っていたのかもしれない。
以下はブリミル暦6214年アンスールの月(7月)の フレイヤの週(第1週)とヘイムダルの週(第2週)の初頭までの10日間の日記(記録)である。
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ハルケギニア~俺と嫁と時々息子~(ヴィスポリ伯爵の日記)
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〔アンスールの月(7月)フレイヤの週(第1週)虚無の曜日 薄曇所により雨〕
流感(風邪)未だ直らず。熱は下がるも喉の痛みとれず。ホルンシュタイン男(男爵。医者)往診。休養の必要性を説かれたり。明後日に迫りたるメッソナ党役員会議への出席が出来るかが気掛り。午後まで静養。この日来客の予定はなきも、突如ベルティル・ハッランド侯(侯爵。外務大臣)来訪。彼は自分の内閣において外務次官を務めたり。ラグドリアン戦役ではトリステインに味方すべしと強固に主張した彼の意見を自分は退けたる。返す返すも惜しまれる。そのことを口にすると彼は苦笑したり。
「あの時太陽王(ロペスピエール3世)が崩御しなければ、我らが戦勝国だったでしょう。首相としての伯爵の苦渋の決断が間違いだったとは思いません。ただ我らには運がありませんでした。つまりはそういうことなのでしょう」
慰めとしても嬉しきものなり。しかし直に虚しい気分になる。これまで私は判断を悔いた事はあるも恥じた事はなし。しかし太陽王崩御の知らせの時ほど、自らの運命を切り開いた「英雄王」をまぶしく感じた事がないのも事実なり。そのとき初めて、自分が祖国の命運を他者の手に委ねていた事に気が付いたり。辞職を決意したのもそれが原因である事等々を語ると、ハッランド侯は静かに聞き入る。何か話があったようであるが、彼は黙して語らず。自分も尋ねず、そのまま別れたり。
〔アンスールの月(7月)フレイヤの週(第1週)ユルの曜日 晴れ〕
静養に専念。来客あるも断りたり。
窓より外を見れば、遠くに王国議事堂が見えたる。北部都市同盟に属すブレーメンが我が国の軍門に下ったのはブリミル暦3330年。対ハノーヴァーの最前線としてたびたび都市を包囲されたブレーメンの市参事会が、これ以上都市同盟にとどまり続けることをあきらめたゆえなり。直後にクリスチャン1世(在3290-3326)はブレーメンへの遷都を宣言。内陸国家である我が国にとって海への玄関口を手に入れることは長年の悲願であり、リューベック港を確保することに成功したる。この頃がハノーヴァーの絶頂期とするのも自然なことなり。
ハノーヴァー王国議会議事堂はブレーメン市参事会が置かれていた建物なり。降伏前日、徹底抗戦を唱えたる者と降伏恭順派の間で喧々諤々の激論が交わされた議場は、今や都市同盟の代弁者の巣窟なり。メッソナ党やハッタナ党という党派あるも、両者の根は地下で繋がる。ヒモ付きの日和見主義者ばかりなり。メッソナ党を率いる自分も、他ならぬガリアや北部都市同盟といった「ヒモ付き」なるが。
〔アンスールの月(7月)フレイヤの週(第1週)エオーの曜日 晴れ〕
歳はとりたくないものなり。病気は治りにくく、肩と腰の痛みはとれず、目が霞む。メッソナ党役員会議の延期を伝えたり。
昼食時にクロイツ伯(伯爵。前外務大臣)来訪。グスタフ家令に命じて至急もう一人分の用意をさせたり。トリステイン大使とハッランド外相が頻繁に面談したるという話を聞く。現大使はリッシュモン卿(伯爵。トリステイン外務卿)の側近なり。先日のハッランド侯の様子といい、妙なきな臭さを感じる。クロイツ伯はガリア大使と面会するべきであると執拗に主張。ラグドリアン戦役で対トリステインへの宣戦布告を主張したのも伯なり。臆病ではないが、声の大きな者に靡く癖あり。自ら状況を作り主導権を握るという考えは毛頭なし。性格か。
〔アンスールの月(7月)フレイヤの週(第1週)マンの曜日 晴れのち曇〕
首相官邸より呼び出しを受けたり。気が進まず病を理由に固辞することを考えたるも、ハッランド侯自らが来たとあってはそうも行かず。促されるまましぶしぶ馬車に乗る。案の定「ろくでもなき」内容なり。
クリスチャン王太子殿下とマリアンヌ王女(トリステイン王女)との婚約が内密に進められていることをアルヴィド・ホルン首相(伯爵)より直接聞かされたり。このとき自分は始めてあの噂が事実であることを知りたる。噂とは2ヶ月前のベーメン女王即位式の一件なり。ハノーヴァーの王太子とトリステイン王女が握手と会話を交わしたることは、各国大使の耳目を集めたる。自分のところにもガリアやザクセン大使からの問い合わせあれども、そのとき自分は何も知らず答えに窮したり。クリスチャン王太子殿下もおそらく知らず。随行したハッランド侯を初めとした親トリステイン派が既成事実を積み上げようとしたためか。思わず舌打ちしたり。
ホルン首相に訊ねたる「国王陛下(クリスチャン12世)にはクリスチャン王太子殿下以外に、グスタフ・アドルフ殿下(ヴェステルボッテン公爵)カール・フィリップ殿下(セーデルマーランド公爵)の二子あり。されどトリステインにはマリアンヌ王女以外直系王族なし。トリステインの跡継ぎ問題に巻き込まれる危険性は無きにしもあらず。それを何故王太子殿下なのか」同席するハッランド侯曰く「誠意を見せるため」とのこと。「次期国王たる王太子殿下を人身御供とする気か」という問いに「貴様の後始末だ」とホルン首相は答えたり。不穏な空気になるも、ハッランド侯がとりなす。
ホルン首相率いるハッタナ党は伝統的に親トリステインを標榜せり。我が率いるメッソナ党はクロイツ伯に代表するようにガリアに近きもの多し。しかし両者はその根っ子で繋がる同じ穴の狢なり。ハノーヴァー政府はメッソナ党とハッタナ党の「談合」により運営せる。メッソナ党の代表たる自分が首相府に招かれる事がその例なり。談合の世話役は北部都市同盟。北部都市同盟は貴族の領地経営に出仕する事で領地貴族の首筋を押さえたる。そうした貴族は両党に普遍的に存在せる。わが国の外交方針は伝統的にハッタナ党主導なるも、先のラグドリアン戦役では長年の同盟国を見捨てる決断にもハッタナ党の多数は反対する事なし。北部都市同盟の意向なり。ラグドリアン戦役において首相であった自分は、人の情としては忍びなきも、それも祖国が生き延びるためであると自分を納得させたる。そのために汚名をかぶる覚悟はあり。トリステイン滅亡後はガリアを後ろ盾にザクセンと対抗する筋書きを立てたのはクロイツ伯。自分もそれを承知せり。冷徹なる北部都市同盟がガリアの勝利と予測した上で、トリステインに肩入れする選択は自分には出来ず。閣内のハッタナ党系の閣僚もそのほとんどが明確には反対せず。
しかし戦役の結果は「太陽王」の死で決着せり。それゆえ自分は首相職を辞職したる。その後を受けたのがハッタナ党のホルン伯爵なり。実に嘆かわしき事なるも、わが国の兵ではザクセン兵に対抗できず。ガリアとトリステインの停戦が成立した今、トリステインとの関係修復が急務なり。自分が辞職した政治的要因もそれにあり。されど王太子を人質としてトリステインに差し出すという考えは自分の中にはなし。そもそもトリステイン貴族が納得するか否かは甚だ疑問なり。ハノーヴァー内とてそう簡単には収まらずということを言う自分に、ホルン首相「これはトリステインよりの申し入れなり」と答え、さらに驚く。
ホルン首相に協力を求められたり。ひとまず回答を保留し、官邸を辞する。これ国家の一大事なり。空を見上げれば厚い雲で覆われており、気が重くなりたり。わが祖国の未来を暗示するか。
〔アンスールの月(7月)フレイヤの週(第1週)ラーグの曜日 雨〕
朝より体調優れず。ホルンシュタイン男(男爵。医者)往診。自宅静養を続けることを進めらる。
昨日の話を確かめるためにビョルネボルグ伯(伯爵。内務大臣)との面談を取り付けたり。伯はメッソナ党の一員にして現内閣の内務大臣を務めたり。閣僚の一員となれば交渉の経緯を知りたると考えた故なる。クロイツ伯の同席を考えるもやめたる。伯に言うことはすなわちリュテイスに通じることなり。
〔アンスールの月(7月)フレイヤの週(第1週)イングの曜日 雨〕
昨日からの雨はいまだ止まず。天候に比例するかのように自分の頭痛もやまず。まったく、歳はとりたくなきものなり。
午後にビョルネボルグ伯(伯爵。内務大臣)来訪。話を聞き、ますます頭痛を覚えたり。伯爵曰くこれは交渉とは言えず。目を瞑りながら握手をするような話なる。クリスチャン王太子殿下が王配なのか、それともトリステインの共同統治者なのかも両国の間で合意出来ておらず。トリステイン内におけるハノーヴァー感情を考えれば内密に進めざるを得ない話ゆえ仕方なしと答える。されど共同統治による同君連合をリッシュモン卿が打診したることを聞き、自分はおもわず頭を抱えたり。
同君連合は一人の君主が複数の国の王を兼任するということなり。組織を統合せず、一人の王の下にぶら下がる形なり。ハノーヴァー王家のオルデンブルグ家がまさにそれなり。歴代のハノーヴァー王は縁戚関係を生かして周辺諸侯を取り込み、領土を拡大したり。短期間で領土を拡大するには有効な手段なる。されど「対等な国家の結婚」を謳ったところで、その実は一方による吸収合併なり。ハノーヴァーは領土拡張のためにブレーメンへの同化を遅らせた結果、今のような貴族諸侯の力が強き国になる。国内をひとつにまとめることに苦労している我が国が、トリステインという始祖以来の伝統ある国と同君連合を組めば、その混乱は想像を絶したるものになる事は明らかなり。
トリステインとハノーヴァーが同君連合を組む場合において、主導権を握るは間違いなくトリスタニアなり。オルデンブルグ家の華麗な閥歴も、始祖の子孫というブランドに勝てるはずなし。臣従を強いられるハノーヴァーの貴族が納得するとは思えず。不平不満を抑えつけるだけの武力があれば問題なきも、それを実行に移すだけの決意がトリスタニアにあるかは甚だ疑問なり。また同君連合の将来像も不明確なり。トリステインがハノーヴァーを吸収するのか、それとも組織統合は行わず、同盟強化策の一環として一代限りで解消するのか。両国の王位継承権を有する王子王女はどちらで育てるのか等々、詰めるべき点は多々あるにもかかわらず、あまりにも曖昧模糊たる抽象的な話に聞こえたり。将来像なき結婚は、海図なき航海の如し。
何よりトリステインの国内意見が到底それを認めるとは思えず。ビョルネボルグ伯曰く、同君連合の申し入れは明らかにリッシュモン卿の独断である可能性高し。慎重なリッシュモン伯爵らしからぬことと疑問に思うも、事実なると言う。トリステイン国内が一枚岩でこの話を進めるというのであれば考えなくはなきも、前提となるクリスチャン王太子殿下とマリアンヌ王女の婚姻ですら国内合意が簡単に出来るとは到底思えず。同君連合などは、よほど慎重に進めぬ限りは幻想なり。ハッランド侯はクリスチャン王太子殿下の王配入りは賛成なるも、同君連合には慎重なり。閣内ではホルン首相が同君連合の旗振り役なるを聞く。まずは閣内の意見を統一すべしという自分の意見に、ビョルネボルグ伯は頷きたり。
〔アンスールの月(7月)フレイヤの週(第1週)オセルの曜日 雨〕
雨やまず。体調回復せず。静養を続けたる。
ハーシェル卿の『ハノーヴァー王国史』7巻、8巻を読む。かつて祖国は旧東フランクの北の王者として君臨せり。王国崩壊後(2998)、婚姻政策と養子縁組を活用して周辺諸侯を次々に併呑、グスタフ2世(3201-3290)の時代には、ザクセン「豪胆王」オットー1世(3250-3303)と二分するまでに成長せり。オルデンブルグ家の紋章である金の楯に青き獅子は燦然たる輝きを放ち、誰もが仰ぎ見たり。
華やかなる栄光は過ぎ去り、今やこの本のように活字となり歴史となる。初代国王のグスタフ・アドルフ1世が「自由・不屈・真実の象徴である」と喝破した青き獅子は色あせて久しい。政治的凋落と国際的地位の低下は隠せず。経済は北部都市同盟の内にあり、外交は周辺国の顔色を伺うばかりなり。王は名ばかりの存在にして、議会は既得権を維持することに汲々として恥じることなし。建国以外のしがらみが絡み合い、誰しもが身動きできず。されどその精神までが衰えたわけではあらず。数多の学者や作家を輩出せるのも「真実」を求める土壌あってのことなり。かの実践主義の祖であるウィリアム・ロード司祭もわが国出身なり。自分は新教徒ならずも、あの不屈の精神は見習うべきところ多し。考えたることをそのまま日記に記す。
〔アンスールの月(7月)フレイヤの週(第1週)ダエグの曜日 曇り後晴れ〕
アルベルト・シュバルト夫妻(シュバルト商会代表)来訪。シュバルト商会は大陸で1・2を争う大商会なり。首相在任中に「影の王」たる彼に頭を下げたのは一度にあらず。シュバルト商会はブレーメンがハノーヴァーの王都となってから勃興した商会にして、北部都市同盟の息はかかっておらず。この商会なければ、我が国は完全に北部都市同盟の奴隷となっていたことは間違いなし。
アルベルト氏の夫人の噂はかねがね聞きたるも、対面してみると改めて複雑な気持ちになりけり。年齢を聞くと27とのこと。44歳のアルベルト氏にはいかにも不釣合いなり。周囲の嫉妬を買うのも最もな事なる。17も年齢の離れたアルベルト氏の夫人に対してやっかみを言うものの気持ちが多少ながら理解出来たり。
夫人退室後、アルベルト氏に近況を聞く。ここ数年のシュバルト商会の躍進は目覚しきものあり。「水力紡績機」なる代物で紡績のスピードを格段に速め、かつて大陸の毛織物製品の値段を一手に決めていたガリア毛織物ギルドを解体寸前にまで追い詰めたるのはその一例に過ぎず。シュバルト商会はギルドを離れた職人を雇用し、同じ製品を大量にこしらえさせ、それにより製品価格の引き下げに成功せり。価格を武器に、アルビオンで昨年末に発足した治安機関の制服受注に成功、ガリア陸軍の制服も受注する可能性ありと語るアルベルト氏の鼻息荒し。うらやましき限りなり。シュバルト商会はアルビオンの「公共事業財団」なるものにも出資せりと聞く。浮遊大陸への資本投資にはいかなる意図があるかと聞くと、アルベルト氏はなんとも表現の難しい妙な顔をしたる後、苦笑いを浮かべたり。自分は首を傾げるばかりなり。
アルベルト氏は婚約の噂について尋ねたり。油断ならず。こちらも笑って誤魔化したり。
〔アンスールの月(7月)ヘイルダムの週(第2週)虚無の曜日 晴れ〕
自宅で静養を続けたる。この日は来客なし。
〔アンスールの月(7月)ヘイルダムの週(第2週)ユルの曜日 曇り 深夜より雷雨〕
ドロットニングホルム宮殿より呼び出しを受けたる。体調いまだ完全ならずも、馬車を呼ぶ。ドロットニングホルム宮殿はブレーメンの郊外にあり。元は離宮のひとつなるも、2代前の国王グスタフ18世陛下が王宮を移したり。王族が王都にいないほうが都合がよいとして政府は反対せず。杖の忠誠を誓って間もない自分が衝撃を受けたことをよく覚えたる。
国王陛下(クリスチャン12世)はグスタフ18世の孫なる。オルデンブルグの王は政治の実権を失ってより「文」以外の存在を許されず。植物学者である陛下は国政に関心を示さず。研究一筋という姿勢を崩さぬが故に、典型的な「左様せい様」という文弱の徒であると考えられたり。されと陛下は武の人なるという。これは自分の言葉にあらず。オルラタ伯爵レンナート・トルステンソン元帥の評価なり。歴戦の軍人たる老人の言葉を否定するだけのものを当初自分は持ち合わせておらず。書類にサインをする際の陛下のお顔も、なにやら激情を押さえるような表情にも見えたり。
陛下に見舞いの言葉を頂き、感謝の意を表す。恐懼にたえず。貴族は妙な生き物なり。普段は王を軽んじながらも、その存在を本質的に軽んじることは出来ない存在なり。自分の性格ゆえか、それともこれが杖の忠誠という儀式の効果なのかはわからず。曰く言葉にしがたいものが「忠誠心」の正体ならん。
陛下は先月ヴェルデンベルグ王国を公式訪問されたり。その際、ヴェルデンベルグ王カール5世陛下より「例の話」について訊ねられたとの事。カール5世は多少軽率なところがあると評される方なり。気になられた事を思ったままに訊ねられただけであり、その背後に政治的意図は感じられずと。自分も同意見であることを申し上げる。「何か知らぬか」とのご下問に、王太子殿下とマリアンヌ王女との婚姻の申し入れがトリステイン側よりあったことだけを申し上げる。ホルン首相が乗り気の共同統治者による同君連合構想は秘したり。陛下は黙って頷かれたる。そのご様子からはホルン首相からは聞いておられない様であるが、その事に対する不満は述べられず。
御前より退出後、宮内大臣のヨーハン・ユーレンシェナ伯爵と会談。ユーレンシェナ伯爵は同君連合に否定的なり。何ゆえ国王陛下や当事者たる王太子殿下に図らずにはなしを進めたのかと詰られたり。自分はこの話を聞かされたのは一週間ばかり前のことであり、それまで自分は預かり知らなかったこと、陛下に秘したのはホルン首相かハッランド外相の判断であることを得々と説いたり。ユーレンシェナ伯爵「後で話が違うとなっても遅いのだ」と吐き捨てらるる。確かに当事者に話をしないのは妙な行き違いを起こす危険性あり。本日よりハッランド侯はガリアとアルビオンへの外遊に出発。リューベック港への見送りに赴くつもりなれば、その際に忠告しようと考えり。
帰宅後、眩暈を覚え昏倒。ホルンシュタイン男の往診を依頼。歳は取りたくないものなり。気力はあれども体が言うことをきかず。三日ほどの静養が必要と告げられる。完治前に無理をしたためか。ハッランド侯の見送りは諦めたる。
この日深夜より激しく雨降る。妙な胸騒ぎを覚える。
(ここより殴り書き。おそらく後日に書き足されたものであろうと推測される)
これ我が人生-ハノーヴァー最大の失策なり