6214年アンスールの月(7月)より以前-すなわち例の事件以前におけるフレデリック・クリスチャン・オルデンブルグ=ハノーヴァーの評価は非常に高いものがある。幼少より聡明で知られ、長じては自ら望んでブレーメン大学に進学して魔法科学史を修めたクリスチャン王太子はガリア語を始めとした4ヶ国語を巧みに操り、公式会談や外交交渉の場においても通訳を必要としなかった。また同時代人からも信仰心に篤く、謙虚であり信義を重んじ民を愛すること限りなしという聖人君子の様な評価を受けている。次期国王に対して否定的な評価をするはずがないという点を差し引いたとしても、少なくとも彼がハノーヴァーの次期国王として相応しき人格と能力の持ち主であると見られていたことは間違いない。
だがそれらの同時代人の肯定的評価は、某重大事件における彼の(無責任とも言える)行動を知る我々を混乱させるのである。一連の行動に関して「クリスチャン王太子(当時)は王族としての責任を放棄した」という批判を免れないのは確かである。とはいえ「王太子としての責任感が欠如していた」という意見にも素直には頷きがたいのだ。事件前と事件後のクリスチャンの政治行動や発言からは、彼が実利的な思考の持ち主であり、感情的に安定した冷静沈着な人物であることを証明している。それゆえ6214年における彼の洞察力の欠如が際立つのである。そのため外的要因に王太子の言動の理由があったのではないかという意見もある。当時より「ハノーヴァー・トリステインの同君連合を嫌った北部都市同盟が暗躍した」「ガリア王シャルル12世(当時)が次男(後のオルレアン公シャルル)をトリステインに送り込もうと考えていたため王太子に圧力をかけた」などという噂はあったが、それら陰謀論者の論拠は弱く説得力に欠けたものでしかない。
この事件を知ったアルビオン王弟カンバーランド公爵のヘンリー・テューダー(当時)は「恋愛は男女がそろって馬鹿になることだ」と嘆息したという。この言葉こそがブレーメン某重大事件の本質を突いている。フレデリック・クリスチャン・オルデンブルグ=ハノーヴァーの二つ名は「業火」。火のスクエアの使い手として知られた彼に相応しい呼び名は、事件を挟んでなんとも皮肉なものへと趣を変えた。二つ名の呼び名通り、クリスチャンは自身の「業」に呑み込まれたのである。
(-ハノーヴァー王国史第21巻より-)
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ハルケギニア~俺と嫁と時々息子~(ブレーメン某重大事件-4)
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(トリステイン王国王都トリスタニア タニアリージュ・ロワイヤル座)
タニアリージュ・ロワイヤル座はトリステイン王国が誇る王立歌劇場である。『魅了王』アンリ3世(在5810-5850)の「我が王都に余と同じ美しさの歌劇場を!」というよくわからない命令により、金と時間を湯水のごとく費やして建築されたのがこの王立歌劇場だ。平民と貴族が(座席こそ隔てられていても)同じ場所で舞台を観覧できる歌劇場がつくられたことにより、王侯貴族や特権階級のものであった歌劇やオペラは庶民にも開放された。現在ではトリスタニア市民の娯楽として定着し、親しまれている。莫大な借金と2ダースの子供という御家騒動の種を撒き散らした魅了王は「ロマリア人かガリア人に産まれたかった」というのが口癖で、それまでは農業国家でしかなかったトリステインに文化風俗の大改革を巻き起こした。もしもアンリ3世がいなければ、トリスタニアはリュテイスやロマリア市には遠く及ばない、文化の香りとは無縁な田舎くさい都市のままであっただろう。こと政治家の評価というものは難しい。
これもアンリ3世の遺功の賜物といえるのかどうかはわからないが、トリスタニア市民-タニアっ子は演劇や舞台に関しては一家言の持ち主が多い。やれ度の役者は拙いだの、やれどの劇作家は質が落ちただのという演劇批評をさせれば、プロの批評家も裸足で逃げ出すという厳しさだ。そして当然ながらタニアっ子が最もやり玉に挙げるのが、ほかならぬこの王立歌劇場の演目である。ここでは芝居に「検閲」などという無粋極まりないものを持ち込む法服貴族はゴキブリ以上に嫌われている。高等法院参事官の検閲に掛かれば、いかなる名優や評判の舞台も素人役者の演技に早変わりしてしまうという具合ではそれも当然だろう。片言節句をとらえて「この台詞は王国に対する侮辱である」「これはブリミル教の教えに反する」とネチネチやられれば、名優と呼ばれる役者ほど「ふざけるな!」とへそを曲げる。結果、出し殻のような空疎な台詞が二流・三流の役者によって演じられることになり、その前(検閲前)の舞台を知るタニアっ子にボロカスに叩かれるわけだ。
-それにしても酷いものだ
劇場2階の貴族専用のボックス席でよくもまぁこんな拙い芝居で金をとれるものだと、トリステイン元老院副議長のミラボー伯爵オノーレ・ガブリエル・ミケティはあきれていた。演目は正歌劇『湖上の美人』。東フランク王国時代の北部部族の反乱を題材に、反乱軍の盟主の娘と、お忍びで身分を隠して湖にやってきた東フランク国王との許されぬ恋愛を描いたものだ。ロマリア市で上演されて評判となり、先月からこのタニアリージュ・ロワイヤル座でも公演が開始された。前評判が高かったこともあり、連日連夜観客が詰めかけたものだが、法院参事官の検閲後は客足が遠のき、空席が目立っている。それも無理はない。検閲官の態度にキレた主演俳優が降板し、後に座ったのが顔のいいだけのル・キャボタン(大根役者)。噂では主演女優も相手役のあまりの下手さ加減に腹を立てて降板を申し出ているとか。ここから見ていても女優の機嫌の悪さとやる気のなさが伝わってきそうだ。ミラボー伯爵がこの不愉快さを誰かと共有したいと思い始めたのを見計らったかのように、ボックス席に待ち合わせをしていた人物が現れた。
「お待たせした」
トリステイン財務卿のルーヴォア侯爵ミシェル・ル・テリエ卿は舞台から視線を外さずに言う。若いながらも元老院の実力者として知られるミラボー伯爵をこの場に呼び出したのはこの老人である。ボックス席を借り切って密談の会場にするなど、財産と地位を兼ね備えた大貴族でなければ出来ない荒業だ。
「いや、ちょうどよい頃合です。このままではあまりの退屈さに寝てしまいかねないところでした」
体の大きいミラボー伯爵が肩をすくめる。何をしてもどこか滑稽さを滲ませる人物であるが、同じように何をしていても隙が無い。何時如何なる時でも感情を宿らせることのない垂れ気味の目を財務卿にちらりと向けて伯爵は口火を切った。
「本日はお誘いいただきありがとうございます。それでこの私にいかなるご用件でしょうか?」
「王太子が見つかった」
「王太子といいますと、どちらの王太子でしょうか」
「・・・伯爵、そういうことはやめてもらおうか」
じろりと睨みつけるルーヴォア侯爵に、ミラボー伯爵がこれまた大仰に肩をすくめた。
「失礼いたしました。それでクリスチャン王太子はどちらに」
「アルビオンだ」
「ほう、ならばカンバーランド公爵はそれを伝えるために?」
ミラボー伯爵が垂れ気味の目をスッと細めた。どこか抜けた印象を人に与える伯爵の顔が、冷たく無機質なものへと変わる。ハノーヴァーの王太子の存在を伝えるために王弟を派遣してくるとは、空の人間も随分と義理堅いことだ。王宮から消えた王太子の行き先が浮遊大陸ということは予想できた事態であり、それほど驚きはない。昔から政争に負けた王侯貴族の落ち着く先は浮遊大陸のアルビオンか、地方の修道院と相場は決まっている。アルビオン王政府がクリスチャン王太子の身柄を確保しているならば、例のマリアンヌ王女との婚約について何らかの情報を得ていると見るべきか。そうなると多少厄介なことだ-ミラボー伯爵の意識は既に舞台にはなく、頭の中で目まぐるしく打算と計算を繰り返していた。だがそれらは侯爵の次の言葉で激しい動揺へと一変する。
「ザクセンの伯爵令嬢が一緒だそうだ」
「・・・まさかッ」
驚きを隠せずにミラボー伯爵はルーヴォア侯爵を見つめ返した。滑稽なる仮面を脱ぎ捨てた元老院の副議長に対して、王国の財務卿はその眉をかすかに上げるだけで答えた。
「詮索は無用だ、副議長」
「・・・これはとんだ失礼を」
侯爵の言葉にミラボー伯爵はいつもの滑稽な仮面を再びその顔に貼り付ける。ルーヴォア侯爵の視線は相変わらず舞台に向けられていた。下の席から見上げれば、舞台を見に来た老貴族が出来の悪さに臨席の人物に対して不平を言っているようにしか見えないであろう。
「ヘンリー殿下によると、現在ハノーヴァーとザクセンの間で交渉が始められたという。パーマストン外相(アルビオン外務相)が乗り出すのであれば、落とし所を含めて上手くやるだろう」
「アルビオンもいい迷惑ですな・・・ところでマリアンヌ王女殿下と-」
「一体何の話だね」
「ええ、ですからクリスチャン王太子とマリアンヌ王女の・・・」
そこまで口にしてからミラボー伯爵はハッとしたような表情になり、その先の言葉を呑み込んだ。
-なるほど、そういうことか
ミラボー伯爵は「いや私の勘違いです」とその額を手でピシャリとたたく。白百合の次期継承者が駆け落ちされた婚約者とあっては話にならない。そんな単純な事実に気が付かないとは、自分もまだまだ詰めが甘い。だがこの頑固な侯爵が自分に何を期待しているかがわからないほど鈍くはないつもりだ。
「世上の噂で侯爵閣下のお耳を汚してしまいました。元老院副議長として、そのような根も葉もない『噂』が蔓延らぬ様にしっかりとしなければなりませんな」
そう言って頭を掌で撫でたミラボー伯爵に、ルーヴォア侯爵はにこりとせずに頷いた。
舞台では若い俳優が控えめに見ても上手とは言い難い演技を続けている。相手役の女優は既に投げやりで、どこか俳優を馬鹿にした雰囲気すらある。当然のことながらそんな舞台には客席から少なからぬ野次が飛んでいた。
「あの役者、ウベルトでしたか。実力も伴わないのに顔だけで選ばれたとあっては、多少気の毒だと思わないわけではありませんが」
「そう思うかね」
批評家としても知られるルーヴォア侯爵の言葉に、ミラボー伯爵は意外そうな表情を浮かべた。
二人の視線の先では若い俳優が声を張り上げて必死に演技を続けている。自らの芸だけが頼みの役者の世界は社交界以上に生存競争の激しい世界だという。かつての名ソプラノがチクトンネ街の場末の酒場で喉を枯らし、昨日までの無名役者が一回の舞台で誰もが知る名優に成り上がる。あの役者もこの機会を何としてものにして這い上がろうと必死なのだろう。たとえ顔だけが理由で選ばれたのだとしても、結果を出せばよいのだ。逆に結果がでなければ、その全てが否定される。
「この王立歌劇場で野次の洗礼を受けずに一人前になった役者などいない。罵られ、物を投げられ、嘲られ、それでも自らの芸を磨きつづけたものだけが、真の名優になれるのだ」
「なるほど、それは道理ですな。叱られずに一人前になったものなどいません」
私などは今でも叱られっぱなしですよと自分を笑ってから、ミラボー伯爵は水を向けた。
「ところで結果の出せない役者はどうなるのです?」
「・・・さてな」
それが何を、誰を指すのかをルーヴォア侯爵は理解していたが、あえて言葉を濁した。
*
-ヴィスポリ伯爵ヨハン・ウィルヘルム(ハノーヴァー王国前首相)の日記-
〔ニイドの月(8月)フレイヤの週(第1週)虚無の曜日(1日目)曇〕
休日にも関わらず、首相官邸より呼び出しを受ける。体調優れず辞退を考えるも王太子殿下のことかと考え無理を推して赴く。前首相たる自分を呼ぶとは余程のことならん。嫌な予感ほど当たるものなり。出席者は以下の如し。ホルン首相(アルヴィト・ホルン伯爵。首相)、ビョルネボルグ伯(伯爵。内務大臣)、ハッランド外相(ベルティル・ハッランド侯爵。外務大臣)、ハンス・ヴァクトマイスター陸軍大臣、トルステンソン元帥(オルラタ伯爵レンナート・トルステンソン。ハノーヴァー陸軍元帥)
冒頭、ハッランド侯(外相)より説明あり。予想通り行方不明の王太子に関する議題なり。「駐在アルビオン大使のフェルセン伯(アクセル・フォン・フェルセン伯爵)よりアルビオンがクリスチャン王太子の身柄を確保したるという知らせを受けたり」という外相の言葉に自分も含めた出席者は一様に不可解な表情を浮かべたり。その意味するところを解せざる所以なり。ヴァクトマイスター陸相「アルビオンが誘拐したるか」と訊ねたのも的外れにあらず。それほど理解しがたき事態なり。ハッランド外相は首を横に振り事情を説明したる。
クリスチャン王太子殿下がザクセン外務省伝令官のゾフィー・ホテク嬢と駆け落ちをしたという。我が耳を疑い、手に持ったカップを落としたり。駆け落ちしたるという事実を聞かされて信じろという方が無理な話なり。誰しも言葉を発するのを躊躇う中、トルステンソン元帥「よりにもよってザクセン人!」と激昂したる。ゾフィー・ホテク嬢という名に聞き覚えはなきも、ホテク伯爵の名には聞き覚えあり。ザクセンとハノーヴァーとの関係は今更言うに及ばず。自分が首相在任中、エルベ川南方地域の国境線交渉において何度も激しいやり取りを繰り返したザクセンの大使がホテク伯なり。ホテク伯は現在ザクセン外務省条約局長にして次期外相の呼び声高し。よりにもよってそのホテク伯の令嬢と・・・
ホルン首相は狼狽してなすすべを知らず、王太子を罵る言葉を連ねるのみ。以降の議論はハッランド侯(外相)が主導する。
ビョルネボルグ内相「トリステインはこの事態を把握せざるや?」
ハッランド外相「アルビオンとトリステインとの関係を考えると既に伝わっているものと考えて行動すべき。先月末のカンバーランド公(ヘンリー)のトリステイン来訪も恐らくそれが目的なり」
トルステンソン元帥「問題はザクセンなり。ドレスデン(ザクセン王都)は如何に?」
ハッランド外相「アルビオン外務省からの情報により事態を把握している。すでにカウニッツ大使(駐ハノーヴァー大使)より会談の申し入れと事態収拾に向けた協力要請を受ける」
ビョルネボルグ内相「外相としてこの事態を如何に考えるか」
ハッランド外相「王太子殿下については宮内省の問題ゆえ発言は控える・・・現状は極めて危険な状況なり。トリステインとの同盟関係の更なる冷却化は避けられず。マリアンヌ王女との婚約交渉は当然ながら、同君連合構想は完全に破綻したものと考えるべき」
ヴァクトマイスター陸相「されどこれは内密の話しにして公の話にあらず。クリスチャン王太子殿下でなくともよいのではないか(第2、第3王子を王配候補として交渉を続けるべきという考えか)」
トルステンソン元帥「それは内輪の理屈なり。トリステインには通用せぬ。大体どの面を下げてそのようなことを言えるというのか」
ハッランド外相「同意する」
ホルン首相「されどリッシュモン卿が賛成すれば・・・」
トルステンソン元帥「如何にリッシュモン伯(トリステイン外務卿)といえども、顔に泥を塗られてもなお、ハノーヴァーから王配を送り込むことは難しからん」
結果、トリステイン、ザクセン両国との交渉は外相のハッランド侯爵に一任すること、クリスチャン王太子の取り扱いについては後日日を改めて相談すべきこと、王太子殿下の即時引渡しをアルビオンに要求することで合意。
首相官邸より退出時、雷鳴が轟く。ホルン首相「これからどうなるのだ」と呻く。これからの政権運営についてか、自身の名声と地位の心配か、それともこの斜陽の祖国のことか。あのクリスチャン王太子がこのような事態を引き起こすとは誰しもが想像せず。自身と祖国の将来に対する不安を誰しもが感じているのか、誰もが黙して語らず。
〔ニイドの月(8月)フレイヤの週(第1週)ユルの曜日(2日目)曇〕
ハッランド侯(外相)来訪。ドロットニングホルム宮より呼び出しを受ける。馬車の中で外相から昨晩のカウニッツ大使(ザクセン大使)との会談内容について聞く。日頃から「文弱の輩」と我らハノーヴァー人を馬鹿にするザクセン人も、さすがに罰が悪いのか協力的という。野蛮なるザクセン人と協力せねばならぬ事態は面白からざる事態なるも、ハルケギニアに恥を晒すよりはましならんと自分に言い聞かせたり。
ドロットニングホルム宮殿内の宮内大臣執務室に通され、ユーレンシェナ宮内相(ヨーハン・ユーレンシェナ伯爵。宮内大臣)と対面。国王陛下(クリスチャン12世)よりこの件に関する全権を委任されたると言うユーレンシェナ伯は、口角を引き、口をへの字に曲げて憤懣やるかたないという態度。伯はクリスチャン王太子に期待をかけており、それだけ「裏切られた」という思いが強からん。それゆえユーレンシェナ伯が「王太子を廃位すべし」という意見を述べたのも驚くにあたらず。
*
(アルビオン王国 南部ロサイス 王立空軍ロサイス軍港)
アルビオン王立空軍はアルビオン本国艦隊、大洋艦隊、北東海艦隊の3艦隊からなる。本国艦隊は王都ロンディニウムの玄関港であるカンタベリー港を母港とし、浮遊大陸の沿岸警備隊のような役割を果たしている。北東海艦隊は北部のエディンバラ、大洋艦隊は南部のダーダネルスを本拠地に、通商空路や空賊に対する警戒を行っている。ここロサイスは本来なら大洋艦隊の担当空域であるが、プリマスやサウスゴータといった大陸南部の大都市に通じる交通の要所であることから本国艦隊=ロンディニウムの空軍司令部の直轄港である。
ロサイス軍港司令部からは、ドックと停泊する艦船が一望できる。そんな絶好のロケーションにあって、この馬鹿が黙っているわけがなかった。
「ロサイスよ!私は帰ってきた!」
「・・・はぁ」
第一王位継承者の突然の奇行に、アルビオン外相のパーマストン子爵ヘンリー・ジョン・テンプルはあっけにとられていた。噂には聞いていたが、これは想定の範囲外、いや想像以上だ。トリステインから帰還したという意味ならたしかにそうだが、何故それを叫ぶ必要がある?そして何故誇らしげなのだ?
「男子として生まれたからには一度は言っておきたい台詞だよな。ロしか合ってないけど、文字数は同じだし、いいだろう」
「・・・はぁ」
一体何を言っているのか、この老練なる外交官の経験と知識を持ってしても一文字たりとも理解出来ない。果てしなくわきあがる疑問に頭を抑えるパーマストン外相とは対照的に、ヘンリーは実に満足感に溢れた顔をしている。この男、恥という概念が希薄なのか、それとも瞬間的な自分の欲求に忠実なのか-恐らくその両方なのだろう。やりたい放題だ。そして問題解決能力に優れると評される老外相はヘンリーに椅子を勧めながら、その言葉の意味するところを考えるのを放棄した。長年の経験から、おそらくこの王弟が言ったのは「考えるな!感じるんだ!」という意味合いのものなのだろう。ならばそれを理屈で考えようとするのは、無粋というものだ。粋な老人である。
「お疲れのところ申し訳ないのですが」
「かまわないさ。これが仕事だからね。それで何から聞きたい」
「そう言っていただけるとこちらとしても助かります」
この老人は誰に対しても丁寧な態度を崩さない。たかが言葉遣い、されど言葉遣い。相手国はもとより、国内で何かと外務省と対立する王立空軍と無用な諍いを避けるという外交官としての習慣が身についている。
「さっそくですが、トリステイン側は」
「これだよ」
外相の質問に言葉にヘンリーは両手の人差し指を立ててこめかみの辺りにつけた。怒っているといいたいのだろうが、どうにも緊張感に欠ける。
「どうもこうも、顔に泥を塗られたんだ。いくら温厚な人物であっても怒らないはずがないだろう。ましてやトリステイン貴族ではな」
「リッシュモン卿(トリステイン外務卿)は」
「完全にこの件から外された。少なくともタウンゼント大使(駐在トリステイン大使)はそう見ている」
「タウンゼント大使なら確かでしょう、彼は自分の憶測や願望を報告に混ぜない男です」
マリアンヌ王女とクリスチャン王太子の「例の件」に関して、トリステイン側における旗振り役がリッシュモン卿でしたと、パーマストンは言う。ヘンリーはその口ぶりに、もしやこの老人とリッシュモン卿の間で何らかの相談が交わされていたのではないかと疑ったが、その信義を問いただしたところで自分では体よくあしらわれるだけだろうと考えて自重する。これを自分の器をわきまえていると見るか、問題の先送りと見るかで評価の分かれるところだろうが、どちらにしろ事前にパーマストン外相がリッシュモン卿からマリアンヌ王女の件を聞いていたとしても、それ自体はたいした問題ではない。
「向こうで会えたのはエギヨン宰相、エスターシュ大公(前宰相)、それに財務卿のルーヴォア侯爵だ」
非公式会談とはいえ、それだけのメンバーをそろえたことにトリステイン国内におけるアルビオンの外交的優先順位の高さと、次期王位継承者の問題にトリステインがどれほど神経を使っているかが伺える。
「エスターシュ大公はたしか」
「ヴァリエール領の田舎から態々出てきたといっていたが、おそらくフィリップ陛下に呼び出しをうけたのだろう。本人もそのようなことを匂わせていた。3人の中では無役ということもあって大公が最もざっくばらんに話してくれた」
「先のリッシュモン卿がこの件から外されたというのは」
「おそらく大公の入れ知恵だろう。マリアンヌ王女の件は大公曰くリッシュモン-エギヨン宰相のラインの話だそうだ。驚いたのは-」
ヘンリーは一旦話を切って、水差しからコップに水を注いだ。
「リッシュモン伯爵はハノーヴァーとの同君連合構想を考えていたそうだ」
「ほう、それは・・・剛毅ですな」
かすかに眉を寄せるだけでたいした驚きを見せないパーマストン外相に、ヘンリーは子爵が事前にリッシュモンと彼が連絡を取っていたと確信した。
「ハノーヴァーからの王配でも揉めることは間違いないのに、同君連合とはちょっとにわかには信じられないな。大体始祖以来の名門トリステインが、ハノーヴァーのような種馬と一緒になろうなど、国内が納得するはずがない」
「まったくですな。リッシュモン卿の考えだとはにわかには信じられません」
全く王子のおっしゃるとおりと頷く出目金外相の顔を見ながら、ヘンリーは「嘘つけこの野郎」と腹の底で悪態をつく。煮ても焼いても湯がいても食えない出目金爺め。ヘンリーはコップに注いだ水を飲むのも忘れて、右手に持ったままだ。
「それよりもウィリアムのほうはどうなった」
「・・・どうとおっしゃられますと?」
この糞爺、まだとぼけるか。
「王太子の説得だ。トリスタニア駐在のハノーヴァー大使とも会談したが、ブレーメン(ハノーヴァー王都)もクリスチャン王太子には怒り心頭だ。トリステインとの関係を考えると、何らかの処分は避けられないようだ」
ウィリアムの曇る顔が目に浮かぶようだ。予想していないわけではないだろうが、処分という言葉を聞くとさすがに感じるものがあるだろう。ましてやその対象が長年の知友とあっては尚更だ。パーマストンは間を空けることなく、両の人差し指を胸の前でクロスさせた。
「芳しくありませんな。殿下の身柄がサウスゴータ太守の屋敷に移送されてから、断続的にモード大公殿下とクリスチャン殿下は会談を重ねられたようですが、件のザクセンの伯爵令嬢と関係を断つことは断固として拒否されるそうです」
「まぁ、あの王子様はそのために遥々アルビオンまでやってきたのだからな」
さすがに渋い顔を隠せないヘンリーに、相変わらず表情を変えないパーマストン外相が言う。
「殿下のご不在中に駐在ザクセン大使らとも会談を重ねたのですが、一つ案が出てきました」
「何だ?まさかザクセン人がゾフィー嬢をどうにかするといってきたのではないだろうな。そんなことをすればあの王子様は伯爵令嬢を道連れに屋敷に火を着けかねないぞ」
「いえ、そういうわけでは」
老外相はヘンリーの言葉を苦笑いして否定する。
「まさか、ここはアルビオンですぞ」
「わからんぞ、あのザクセン人ならやりかねない」
「仮にザクセンがそのようなことを企んだとしても、私が許しません」
そう言い切ったパーマストン子爵。決意表明や虚勢ではなく、単に事実を述べたとでもいわんばかりだ。本当にいい性格しているよとヘンリーは呆れた。まぁそうでもなければ20年も外相の椅子に座っていられないのだろうが。そのパーマストンは-おそらくこの老人が発案したであろう解決策の説明を始めた。
「クリスチャン王太子の身柄はそのままアルビオンが預かります。サウスゴータなら長期療養という名目が立ちますゆえ」
「・・・そのまま病気により廃嫡というわけか」
ヘンリーの反応の早さに、老外相は満足げに頷く。
「最低でも半年から一年の『療養』の後、ハノーヴァー宮内省は王太子殿下が『病によりその責務を負えず』と退位を発表されるというシナリオです」
「自発的な退位の申し入れか。だが、そうするとあの伯爵令嬢はどうするのだ?」
「ブレーメン大使館からサウスゴータ領事館付きということにします。王太子には退位さえすれば伯爵令嬢との関係はどうとにでもなると説得するつもりです。無論、それまでの身柄の安全に関してはアルビオンが全力を持って責任を持つと」
アルビオンから出た後の身の安全は保障出来ないというわけか。確かに出国後のことまでは責任をもてない。だが逆に言えばアルビオン国内に留まるのであれば、二人の身柄、特に伯爵令嬢に関しては護衛に対して責任を持つとも受け取れる。
「そんなところだろうな」
事実上の亡命に、事実婚か。下手なことをすればあの王子様は伯爵令嬢と心中しかねないとあっては、下手な強攻策は取りにくい。ましてやクリスチャン王太子は火のスクエア-抵抗されれば火傷どころではすまない。ヘンリーは解決策について以前「三方一両損」しかないと言ったが、これでは四方一両損である。本音と建前の使い分けと言うか、ここまで露骨なのも珍しい。だが戦争をするよりも、事が公になって恥をかくよりもましというわけか。
「しかし大臣。病気による自発的退位など、そんな嘘が通用するのか?」
「殿下。少しだけの嘘なら直にばれますが、大きな嘘は逆にばれにくいものです。それに嘘を包む布は華やかなほうがいいのです」
「何故だ?どちらにしろ嘘には変わりないのだろう」
首を傾げるヘンリーに、パーマストン子爵はその理由を口にする。
「より大きく、より美しく、より華やかに・・・嘘が大きければ大きいほど、それを聞くものは些細な違和感には気がつかなくなるものです。そして嘘をつく人間は、その嘘を自分自身が信じなければいけません。口先だけの嘘では直に見抜かれます。ですがこれがなかなか大変でしてな。嘘は所詮虚構の産物。それを口にする人間には心理的な負担になるのです。虚構であるとするならば、その虚構の世界だけでも美しいほうがいいとは思いませんか?」
老外相は自嘲するかのように、口角を吊り上げただけの、どこか疲れた笑みを浮かべた。
「芝居と同じですな。役者は自身の人気のために、外交官は国益を守るために虚構と嘘をつくのです・・・平和は戦争と戦争の間の儚い夢といいます。ならばそれに巻き込まれた我らにできることは、その虚構を盛大に飾り付けてやることだけですよ」
*
-ハノーヴァー王国宮内省発表-
「クリスチャン王太子殿下におかれては、過度の蓄積の疲労による発熱が続き、御体調に未だ改善の兆し見られず。そのため王太子殿下はアルビオン王国南部サウスゴータにおけるご静養に入られる。期間は未定」
ニイドの月(8月)エオローの週(第3週)初頭に発表されたこの宮内省声明に首をかしげたブレーメン市民は多かった。それまでは王太子殿下の病状や容態に関して、その理由や医師団の個人名まで挙げていたのにもかかわらず、今回は僅か数行ですまされていたからだ。だがその直後にハノーヴァー空軍の戦列艦『グスタフ・アドルフ1世』が厳重な護衛の下にリューベック港を出航したことから、王太子の静養自体を疑うものはいなかった。ブレーメン駐在の外交官も多少の疑問を持ってこれを見たが、当事者以外にその真偽が判明するはずがなかった。
なかったはずなのだ。