〔ケンの月(10月)フレイヤの週(第1週)ユルの曜日(2日目)〕-トリステイン王国 王都トリスタニア ミラボー伯爵邸-
トリステイン王国元老院副議長という大層な肩書きの持ち主であるミラボー伯爵は、それに似つかわしい体型の持ち主である。外見を取り繕う人間は多いが、この壮年貴族は自身のそれを利用した一種のイメージ戦略とでも言うべきものを行っていた。太鼓腹とまではいわないまでも適度に肥えたその体は、彼の風貌や気取らない言動と合わさって親しみやすい印象をトリスタニア市民に与えていた。無論市民が元老院の選挙権を持っているわけではないが「貴族の府」として不人気の元老院内にあって、ミラボー伯爵は市民の人気を背景に家柄以上の発言力と政治力を有している。
ミラボー伯爵の一日はベットの上から始まる。何を当たり前のことをと言う声が聞こえそうだが、寝覚めの悪い-おそらく低血圧の伯爵は起きてからが長い。面倒な時はそのままベットの上で朝食をとることもあるぐらいだ。とはいえさすがにこれではいけないと、最近はメイドに持ってこさせた濡れタオルで顔を拭いて、強制的に目を覚まさせることにしている。
「今日は一紙だけか」
「左様でございます」
ミラボー伯爵は家令に使い終わったタオルを渡すのと引き換えに新聞を受け取ると、ベットから上半身だけを起こした姿勢のまま読み始めた。われながら無精だと思わないでもないが、幼少からの癖というものはそう簡単に直るものではない。いつもならもう少し頭が覚醒してから目を通すのだが、大衆紙ならその必要もないだろうとミラボーは半ば寝ぼけた頭のまま記事に目を通す。今ミラボー伯爵が読んでいる新聞は貴族のスキャンダルやアングラ記事が主になりつつあると言う典型的なタブロイド紙だ。内容が内容であるだけに検閲から逃れるために記事の多くが伏字になっているが、記事の内容と爵位だけで大体誰のことが推察できるという寸法である。はっきり言って読みにくいが、かえってそれが読者にうけているというのだから何が幸いするかわからない。
ふと、ミラボー伯爵の常日頃眠たそうな目がある記事で留まった。その記事は最終欄4面の中段、いわゆるベタ記事の欄に記載されていた。
「・・・なんだこれは」
突如呻く様に言葉を発したミラボーに、白湯を用意していた家令はぎょっとしてベットの上の主人を見た。いつも飄々とした表情を崩さない主人が、僅かではあるが動揺をあらわにしている。このような主人を見るのは長年伯爵家に仕えてきた家令も経験したことがなかった。ミラボーは白湯の入ったコップを引っ手繰るようにとって飲み干すと、新聞をひざの上に広げて眉間を揉んだ。
「やれやれ、参ったねこれは」
そう口癖を呟くミラボーは、早くもいつもの飄々とした表情に戻っていた。ミラボーはもう一度記事に視線を落とす。4面の中段、右から4つ目。そこには短くこう記されていた。
-○○○○○王女殿下におかれてはハノーヴァー王国クリスチャン王太子殿下とのご婚約が内々に決定したり-
ミラボー伯爵は新聞を畳みながらもう一度呟いた。
「参ったねこれは」
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ハルケギニア~俺と嫁と時々息子~(発覚)
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〔ケンの月(10月)フレイヤの週(第1週)マンの曜日(4日目)〕-トリステイン王国 王都トリスタニア トリスタニア城-
「ジョセフ・アルチュール・ド・ゴビノー、陛下のお召しにより参上致しました」
トリステイン高等法院長のド・ゴビノー伯爵が、その痩身を杖で支えながら謁見の間に現れた瞬間、フィリップ3世は確かに自身の血が沸騰する音を聞いた。よくもぬけぬけと私の前に顔を出せたものだ。そのとりすました顔を右手に持った王錫で殴りつけたい気持ちを抑えながら、英雄王は出来るだけ平静を心がけながら労いの言葉をかけた。
「足労をかけたな」
「もったいないお言葉、恐れ入ります」
ゴビノー伯爵はその痩身を折り曲げながら深々と頭を下げた。既に10年以上も高等法院長の座にある老人は、宮廷貴族の陰湿さと弁護士のいやらしさ、そして官僚の悪癖である組織の権益に敏感という-要するに「英雄王」が大嫌いなタイプを全て兼ね備えている。こみ上げてくる不快の念と怒りを押し殺しながら、フィリップ3世は口を開いた。
「さっそくだがゴビノー法院長。今日は卿に尋ねたいことがあって来てもらったのだ」
「恐れながら英明なる陛下が私のような非才の人間に何をお尋ねになるというのでしょうか。それに私のような年寄りに尋ねなくとも、陛下の御側には若く、優秀な人材がそろっておられるではありませんか」
高等法院長は王座の斜め前に立つ魔法衛士隊隊長のラ・ヴァリエール公爵にちらりと視線を送った。ピエールはピエールでゴビノー伯爵と視線を合わせようとしない。思う処は多々あるが、今ここで挑発に乗って反応を示せば陛下に恥をかかせることになると心の中で自分自身に言い聞かせていた。
ラグドリアン戦役において多くの貴族が戦死した後、フィリップ3世は空席となった軍の中堅幹部や省庁の幹部に、若手貴族を中心に抜擢人事を行った。彼らの多くは旧エスターシュ派や魔法衛士隊出身の王の側近であり、明らかに王個人の影響力の拡大を目的としたものであった。一方でフィリップ3世はエスターシュ大公の進言を受け入れ、大臣や次官には従来の帯杖貴族を据えてバランスを取った。それでも一部の貴族からは不満が噴出するのは避けられなかった。ゴビノー伯爵もその一人であるが、この老人は直接的に人事を批判するような真似はしない。
「若者には力があり、老人には知恵がある。卿よ、私は今知恵を必要としているのだ」
「この非才の老人がわかることでしたらお答えいたしましょう」
「うむ・・・」
王錫を持つ手に力をこめるフィリップ3世。
「卿に尋ねる。高等法院の仕事とは何かね?」
「我ら法院に連なるものは法をもって杖となし、王国と陛下にお仕えします。大きな事を言わせていただくなら、我がトリステイン王国の公正と公平、ひいてはそれに基づいて治安を守ることでございましょうか」
「卿と法院の忠節と忠勤はよく承知しておる。しかし今はそのようなことを聞いているわけではない。私の質問が拙かったな。具体的な職務を尋ねておるのだよ」
静かに言葉を重ねる王の態度は逆にその怒りの深さを表しているようにピエールには見えた。何時爆発しても可笑しくないフィリップ3世の様子にも関わらず、老伯爵は顔色を変えず、柔らかく微笑んだままである。
「なるほど、そういうことでございましたか。一言で申し上げるのは難しいですが・・・乱暴を承知で申し上げますなら、王国のあらゆる司法行政、陛下の立法作業の輔弼、そして流言飛語を取り締まる検閲。この三つでございましょうか」
このうち2番目の立法の輔弼が曲者であり、法律解釈権を持つ司法権とならんで法院の権力の源となっている。輔弼と言いながら事実上は法院の大審議会が認可しなければどのような些細な法律も施行出来ない仕組みになっている。戒厳令や勅令は国王が独自に発令できるが、それでも高等法院長の認可を受けなければそれは無効となる。それゆえ元老院と違い、王といえども法院を無視することは出来なかった。法院が「国家の中の国家」と呼ばれる所以だ。フィリップ3世は法院の最高責任者である老人の言葉に頷いた。もとよりそのような事を聞きたかったわけではない。ここからが本題だ。
「・・・『トリスタニア・テレグラフ』という新聞を知っているな」
「トリスタニア・テレグラフ、ですか?」
鸚鵡返しに聞き返すゴビノー伯爵。顎に手を当て首をひねってから「ああ、思い出しました」と答え返した。
「よくある低俗なタブロイド紙でございます。かつては『トリスタニア・エコノミカル』に並ぶ週刊の有力経済紙でしたが、数年前に経営者が変わってからは見る影もありません。内容はいわゆる平民の好きそうなものばかりでございます。貴族のスキャンダルに悪口、そして風刺絵と。恐れながら陛下の風刺画を書いたこともある不届きな新聞です。法院検閲局が何度も停刊処分を下しているのですが、蛙の面になんとやらでして」
フィリップはゴビノー伯爵がなおも続けようとするのを手で制した。ハルケギニア大陸では紙の原料となる草が豊富で、公文書を中心として羊皮紙からの切り替えが進んでいる。新聞はそうした中から、いわゆる出来損ないの質の悪い紙を使って今から50年ほど前に生まれた比較的新しいメディアだ。新聞と言っても我々の想像する日刊のものはなく、どんなに早くても週刊が限界である。地域コミュニティの壁新聞から、大衆紙、経済新聞や業界紙とピンからキリまである。今話題に上がっている『トリスタニア・テレグラフ』は週刊発行の大衆紙(タブロイド紙)のひとつだ。ゴビノー伯爵が既に述べたようにこの新聞は貴族のゴシップやアングラ記事で人気があり、そのために何度も高等法院検閲局から発行停止処分を受けている札付きの新聞である。お世辞にも貴族が目を通すようなものではない。ゴビノー伯爵もその点を匂わせながら聞き返した。
「陛下がタブロイド紙をご存知であることにも驚きましたが、その大衆紙がいかがなさいました?」
「卿は流言飛語を取り締まるのも法院の仕事だといったな。検閲官の目は節穴かね」
白髪だらけの眉が跳ねたが、ゴビノー高等法院長の示した反応はそれだけであった。
「何かお気に触る記事でもございましたか」
「法院長、余は」
「陛下、恐れながら申し上げます」
ゴビノー伯爵はフィリップ3世の発言を遮った。高等法院長の不敬罪とも取れる対応に、ピエールがその顔に怒気を浮かべる。しかしフィリップはそれを目で制した。するとゴビノー伯爵はその場にゆっくりと片膝をつき、正面で両の手を組んだ。そうするとまるで始祖像に祈りをささげている聖職者のように見えなくもない。この老人はそうした仕草が一々様になっていた。
「発言を許す。何か言いたいことがあるのか?・・・それとも何か思い出したか?」
精一杯意地悪く尋ねた王に、法院長は頭を下げて答えた。膝をつき、頭を下げて王に対する敬意を示しているはずの高等法院長からは、残念ながら肝心の敬意の念だけは全く感じられない。
「恐れながら申し上げます。法院検閲局は先月より一部職務を、『具体的』に申し上げますと新聞検閲を停止しております」
「・・・初耳だな。余は何も報告を受けておらんぞ」
「今始めて報告しましたゆえ」
人を食ったような答えに、再び全身の血が煮えくり返りそうになるフィリップ3世。視線を下げたまま、ゴビノー伯爵は続けた。
「従来陛下は芝居や新聞への検閲を和らげるようにと仰せでした」
歯噛みをしているのかフィリップ3世の唇は歪んだ。確かにフィリップは即位以来、法院に対して口酸っぱく検閲の緩和を要請していた。王座につくはずのない気楽な立場の王族として市中に出て市民と交わることを好んだ彼は、法院参事官の検閲が市民から批判されていることをよく知っていた。また個人的にも歌劇好きのフィリップ3世は、検閲などという無粋なものが芝居の質を落としている事が許せなかった。人気取り政策と個人的な実益が合わさり、フィリップ3世は法院に対して検閲の緩和を打診したが、高等法院はなんだかんだと理由をつけてそれを拒否した。それが急に検閲を緩和したという。高等法院長は顔を挙げ、いかにも困ったような表情で言った。
「本年度予算で法院は予算削減と言う結果になりました。法院と致しましても経費削減には取り組んでおりますが、犯罪や裁判と言うものはどうすることも出来ません。更に本年はチェルノボーグ監獄の改修もあり、予算が底をつきかけております。そこで試験的措置としまして、従来陛下が主張されていました検閲の緩和を行ったというわけです」
「・・・」
フィリップ3世は何も言わない。今何か言えば、そのまま目の前の老人を殴り殺してしまいそうだったからだ。
「何かお気に触る記事でもございましたか?」
「・・・いや、そんなものはない」
「申し訳ございません。人員も予算も限りがある中でやっておりますので。監獄の改修工事にいたしましても、裁判にしましても手を抜くわけには行かないのです。公平・公正なる裁判の維持こそ、治安維持の要でございます」
再び頭を下げた法院長から視線を外すと、フィリップ3世はたまったものを少しずつ吐き出すかのように長く息を吐いた。
「・・・ご苦労だったゴビノー高等法院長。卿の変わらぬ忠誠に期待する」
ゴビノー伯爵は入室したときと同じように深々と頭を下げると、杖で体を支えながら退出した。そして砂漠で行き倒れたミイラを思わせるその痩躯が完全に見えなくなるのを確認してから、フィリップ3世は王錫を床に叩き付けた。
「あんのクソ爺ィ!!」
*
「やられたな」
「ああ、やられたよ」
トリステイン王国財務卿のルーヴォア侯爵の言葉を否定するものを、もしくは反論するものを、宰相のエギヨン侯爵シャルル・モーリスは持ち合わせていなかった。ここ数日で急に濃くなった隈。下顎全体を覆う髭が乱れているのは、身だしなみを気にするほどの余裕すらなかったということだろう。宰相執務室の椅子に力なく体を預ける侯爵を、ルーヴォア侯爵はどこか醒めた視線で見ていた。
「君は知っていたのか?」
「・・・宰相閣下が何を指して尋ねているのかはわからないが、王女と王太子の一件についても、王太子の所在も私自身は把握している」
「そうか、知っていたのか」
エギヨン宰相は力なく呟いた。亡きフランソワ王太子の側近として第1次エスターシュ政権崩壊後に辣腕を振るった貴族政治家の面影はそこにはなく、ただの疲れた初老の貴族がそこにいた。それがルーヴォア侯爵を苛立たせた。
「しかし嫌われたものだなリッシュモン(外務卿)も。同じ法服貴族だろうに、ゴビノー高等法院長も惨いことをする」
「あの男は国を売ったのだ!大逆罪で縛り首にしてやる、私の首をかけてもいい!」
ゴビノーの名が出た瞬間、エギヨン侯爵は目を見開いて怒鳴った。怒髪天をつく、大変な剣幕である。どうやら完全には腑抜けたわけではないようだと心の中で笑みを浮かべたルーヴォア侯爵だが、しかし彼は同時にクリスチャン王太子との一件が破談となった時点ですでにエギヨン政権は死に体であるとみなしており、すでに辞任カードは政治的にもましてや政局的にも価値をなさないものと考えていた。さすがにそれを口に出すことはしなかったが。
「証拠はないのだ。軽々しく決め付けて言わないほうがいい」
「ならば君はあのたわ言を、金がないから新聞検閲だけを止めたと言うあのふざけた物言いを信じると言うのか?」
「そうは言わないが・・・」
「法服貴族出身のリッシュモン伯爵が法院に批判的であったことは誰でも知っている。わざと検閲をパスさせたに違いないのだ!」
机を拳で殴りながら言うエギヨン侯爵。ここ数日の心労と不安が一挙に爆発したようだ。そしてその推察は恐らく正しいのだろうとルーヴォア侯爵も考えている。法服貴族-法院参事官や司法官を始めとする高等法院の高級職を事実上世襲する貴族である。外務卿のリッシュモンは法服貴族出身だったが、検閲を始めとした法院のあり方に批判的であったため外務省に入省し、外務卿にまで上り詰めた。そんな彼を法服貴族が嫌っていることは知らないものがいないほど有名な話だ。
「この椅子が欲しいならいつでもくれてやる。しかし、マリアンヌ王女と、陛下と、ひいてはトリステインの名誉が甚だしく損なわれる危険性がありながら、あの爺は私怨でそれを見逃したのだぞ?!そんなことが許されていい道理はない!」
「・・・君の言うことはすべては状況証拠でしかない。確たる証拠はないし、ゴビノー高等法院長の言い分は筋が通ったものだ」
元々フィリップ3世が検閲に批判的だったのは事実だ。それを出されればエギヨンやルーヴォア侯爵も批判出来ない。今のトリスタニアにあってゴビノー高等法院長ほど強かな、面の皮の厚い人間はいないだろう。ゴビノー伯爵は法院の最高意思決定機関である大審議会議長時代、経済失政により財政危機を招いたフィリップ3世の弾劾決議案をほのめかせ、第1次エスターシュ大公政権の成立に貢献した。ところが高等法院長に就任するや否や、エスターシュの法院改革(権限削減)にはサボタージュを決め込んだ。そして今度は大公派と貴族派(反大公派)の対立を巧みに利用しながら、ある時は大公と協力し、またある時には反対するという虚々実々の駆け引きを繰り返しながら法院予算を吊り上げた。無論その間には法院内での反対派を絞り上げ、院内での自身の勢力を確固たるものにした。まったくもって手に負えない老人である。
-それにしても
ルーヴォア侯爵は薄ら寒い思いがした。国家の中の国家、王の暴政を防ぎ、相手が王であろうと王政府であろうと「駄目なものは駄目」と突きつける高等法院という強固な組織が監視していたからこそ、トリステインは今まで決定的な腐敗や暴政、そして失政がさけられてきた。しかし何時までもその構図が成立するわけではない。法院の権限縮小は国家の危機につながると考えるのは、法服貴族としてはもっともなことだが、それが組織と権益を守るだけのものだとすればとてつもない腐臭を放つのだろう。
もし仮にゴビノー高等法院長が意図的にあの記事をパスさせたとするなら、これは一種の自爆テロだ。エギヨン政権は法院改革の一環として、法院の立法輔弼権を元老院へと移管しようとしており、それに反対する法院を予算で締め上げていた。財務卿であるルーヴォア侯爵はそうした強攻策を心配していたのだが、予感は悪いほうに的中してしまった。今回の件で法院は、古巣が同じでありながら法院に批判的なリッシュモン外務卿を潰し、エギヨン政権とフィリップ陛下に強烈な意趣返しを行ったことになる。それによってトリステイン王国の権威が傷つくことをわかっていながらだ。そこからは腐臭しか漂ってこない。
「まあゴビノー伯爵も歳が歳だ(69歳)。あと10年や20年も生きるわけではないだろう。それよりも今はこちらのほうが問題だ」
ルーヴォア侯爵は鞄から件の新聞記事-『トリスタニア・テレグラフ』ケンの月(10月)フレイヤの週(第1週)号を取り出して広げた。エギヨン侯爵の目に赤いインクで囲まれた記事が飛び込んでくる。ここ数日何度も睨み返し、内容はもとより一字一句覚えてしまった。
-○○○○○王女殿下におかれてはハノーヴァー王国クリスチャン王太子殿下とのご婚約が内々に決定したり-
何度見ても変わらない。○が5つあるだけだ。しかしその○に何が入るかなどいまさら言うまでもない。
「記事の中でわざわざここだけ敬語だからな。伏字の意味がない。市中では既に噂になっていると聞くが、どちらにしろ情報というのは遅かれ早かれ漏れるものだ」
「しかし今は時期的に不味い」
「あぁ、王太子の一件が片付いていない現状では特にな・・・問題はこの情報がどこから漏れたかだ。ハノーヴァーにザクセン、我がトリステインとアルビオン。どこから漏れても可笑しくないが、どこからも漏れそうにない」
机の上に置かれた新聞記事を忌々しげに見つめているエギヨン宰相に、ルーヴォア侯爵は元老院副議長から得た情報について話し始めた。情報は確かに武器になるが、何でもかんでも抱えこんでいればいいというものではない。
「この新聞社、トリスタニア・テレグラフ社だが5年前に身売りされている」
「確か元々は経済紙ではなかったか?」
「前の経営者はトリステイン第三国立銀行を中心とした金融グループだったからな。それが経営陣が代わってから大衆紙として紙面を刷新したらしい。いまでは経済紙の見る影もないが。それで今の経営陣だが-」
「どこの誰だ?」
「筆頭株主はハンブルグのストックマン商会だ」
「・・・北部都市同盟か」
エギヨン侯爵は腕を組んで唸った。ハンブルクと言えば旧東フランク地域の経済圏を支配する北部都市同盟の同盟参事会が置かれている都市。そして貴族への出資を通じて、ハノーヴァー王国を牛耳っていることは、知る人ぞ知る事実だ。トリステインとの接近を嫌ったハノーヴァーの親ガリア派が仕掛けたということか?いや、あの都市同盟のことだ。独自のルートで情報を得たのかもしれない。ハノーヴァー国内における経済的特権が失われることを恐れて・・・様々な可能性と選択肢を頭の中に並べて考え始めたエギヨン宰相だが、ルーヴォア侯爵の次の言葉で更に選択肢が増えることになる。
「都市同盟とて一枚岩ではないかもしれん」
「・・・まさか、あの都市同盟が」
「ハンブルクと他の都市の経済利益が常に一致するとは限らないだろう。まあ、あくまで可能性だがな」
エギヨン侯爵は再び腕組みをしながらうなった。
*
〔ケンの月(10月)ヘイルダムの週(第2週)ユルの曜日(2日目)〕-トリステイン王国 王都トリスタニア チクトンネ街 『魅惑の妖精亭』-
王都トリスタニア最大の繁華街であるチクトンネ街は日が昇る頃に眠りにつき、日が沈み始める頃に目覚める。昼夜が逆転した生活サイクルは、酒場や賭博場、そして色町が集中する夜の町ならではのものである。そのため昼間は多くの店は「準備中」の札がかけられている。
『魅惑の妖精亭』もそうした夜に生きる酒場の一つである。この店は一見するとただの居酒屋だが、チクトンネ街の中でも有名な店であった。この店は女性店員にそろいの可愛い制服を着せて接客させている。しかし女性店員に接客させる店はここチクトンネ街では珍しくともなんともない。ならば何故有名なのかと言うと、女性店員の身持ちの堅さが有名なのだ。往々にして酒場が売春宿を兼ねる例は珍しくないが、妖精亭は安宿も経営しているがそうした副業に一切手をつけていない。
自称王都一の美男子という貴族がこの店を評して曰く「この店のいけない娘ちゃん達は、させそうでさせない破れ傘さ」だという。男性客に気のあるような態度を見せながら、最後の一線は決して越えさせない。しかし多少のセクハラはさせてくれるため、男性客は「もしかしたら」という淡いスケベ心を消すことが出来ない。そうした男性客からいかさず殺さず搾り取るのが、この店のモットーである(ある意味もっとも性質が悪い)。そのために妖精亭は他の店に比べて店員の教育に力を入れていた。開店一時間前ともなると、妖精亭からは恒例となった発声練習の声が聞こえてくる。
店中には体格のいい若者がいた。年の頃は17,8.マッスルと言う言葉がピッタリくる。ボディービルダーのような逆三角形の体に、服の上からもわかる見事な胸筋。力を入れれば服が破れてしまいそうなほどのボリュームだ。男性ホルモンの塊のような若者は、女性店員に接客を教えていた。
「いらっしゃいませお客様、はい!」
「「「「いらっしゃいませお客様!」」」」
「お客様は神様です!」
「「「「お客様は神様です!」」」」
「飲ませて食わせてふんだくれ、ばふぇ!」
「スカロン!オマエは何をくだらねぇこと言わせてるんだ!」
スカロン-そう呼ばれた若者は、突如厨房から飛んできたお玉で出来たコブをおさえながら反論した。
「な、何するんだ親父!」
「馬鹿野郎!」
今度は鍋のふたが飛んできた。慌ててよけるスカロン。シュールな光景である。中央広場でやれば金が取れそうだ。
「そういうことは思ってても言うもんじゃねぇ!腹の底に収めておくもんだ!」
「な、なるほど!やっぱりすげえよ親父!」
「あたりまえだ!もっと俺を褒めろ!敬え!」
「親父い!!」
親父!息子よ!という、暑苦しいことこのうえない親子の愛の劇場が繰り広げられるが、女の子達も慣れたもので眉一つ動かさない。女の子達は換気をするため窓や戸を空けた。
正面入り口にまわった女性店員が扉を空けると、店の前には一人の男性が立っていた。店員がこの気の速い客に準備中であることを知らせようとしたが目線が合うと男性は軽く頭を下げた。店員も慌てて頭を下げ返す。
「お客様、大変申し訳ありませんが」
「いや、客ではない」
客ではないと名乗った男性を女性店員は見返した。初老に差し掛かったと思われるその男性の灰色掛かった髪は、どうやら元々は黒髪であったのが白髪が混じって灰色に見えたらしい。トリスタニアでは珍しい黒髪に驚きながらも、女性店員は男性の精悍な顔と鋭い眼差しに「ちょっと年上だけどタイプかも♪」と思った。
「娘さん。スカロン君はいるかね」
「はい、あちらに」
祖父ほどの年齢の人が孫ほどの自分に丁寧に尋ねたことに驚きながら、女性店員は厨房を指差し-そして後悔した。相変わらず視線の先では「親父!」「息子よ!」というよくわからないやり取りが続いている。それを見ると男性は軽く眉間を揉んだ。
「スカロン君」
「親父!」「息子よ!」
「スカロン君」
「親父!」「息子よ!」
「スカロン!!」
突如男性は店全体が揺れるような声で一喝した。開店準備に追われていた同僚の女性店員は何事かと振り返り、あれだけ自分達の世界に熱中していた店長達も驚いてこちらを見ている。スカロンは男性が誰であるかを確認すると、まるで上官に呼び出された下士官のように慌てて駆け寄った。
「--さん、トリスタニアにいらっしゃっていたんですか」
「近くまで寄ったものでな」
さきほどまで男性の相手をしていた店員は、モップで床を磨いていた同僚に尋ねた。
「ねえ、あのダンディーなおじ様は誰なの」
「何、あんたおじ様趣味なの?」
「そういうわけじゃないけど、ちょっとかっこよくない?」
「あーわかるわそれは」
布巾で机を拭いていた同僚が口を挟む。
「渋いもんねあの人。着てる物は田舎の服だけどセンスはいいし。どこか影があるのも魅力的よね」
「それで誰なのあの人」
「あ、そうか。あんたはしらなかったわね。今度スカロンさんがタルブ村からお嫁さんを迎えるでしょう」
「ああ、ワインの仕入れに行って一目ぼれしたっていう」
「そう、エドワーズさん。その人のお爺さんだって」
「え?お爺さん?」
店員達はスカロンと話す男性を見た。スカロンの後ろでは息子以上に暑苦しい体格をした店長が直立不動で立ち尽くしている。身長は160サントぐらいだろうか?しかしただ立っているだけなのにもかかわらず、男性は実際の身長以上に大きく見える。貴族でもあそこまで堂々とした立ち振る舞いのできる人間はそうはいない。人格の高潔さとでもいうべきものが内面からにじみ出ていた。
「若いわね」
「あれならありね」
「むしろありね」
「ちょ、ちょっと!私が先に目をつけたのよ!」
「ほらほら皆!」
騒いでいるとスカロンがパンパンと手を叩いた。
「開店時間が迫っているぞ!さぁ働こう!」
スカロンの言うとおり、直に開店時間となりお客で店は一杯となった。女の子に渋いと騒がれた男性は、カウンター席で一人ちびちびとエールを飲んでいる。肴は未だ熟していない大豆を房ごと収穫して塩水で湯がいた「エダマメ」。男性が発案したと言うこのつまみはシンプルながら美味いということで妖精亭の看板メニューになっている。
「おい、あれ見たか?」
「ああ、先週のトリスタニア・テレグラフだろ。名前は伏せてあったが、ありゃマリアンヌ様のことだよな。法院命令で発行停止処分になったし、間違いないだろうな」
同じカウンター席に座った兵士らしき二人組みの会話が聞こえてきたが、会話を盗み聞きする趣味のない男性はそれを聞き流していた。
「馬鹿野郎、そりゃ先週の話だろ」
「あ?なんだって?まだ何かあるのか」
「今週のトリステイン・タイムズだよ」
「お前、あんな高い経済紙を購読してるのかよ」
「そんなわけないだろ。隊長のをかっぱらってきたんだよ。あの馬鹿最近株にはまっているから・・・いや、それはいいんだ。それでだな、これによると王政府はクリスチャン王太子とマリアンヌ様を結びつけることで、ハノーヴァーとトリステインを一緒にしようと考えてるらしい」
「は?お前何言ってんだ?」
「お前は酒飲むと頭の回転が遅くなるな!まぁ飲んでなくとも遅いけど。簡単に言うとだな、トリステインとハノーヴァーが結婚して同じ国になろうってことだ!」
「はあ?!何だそりゃ?」
酔いも合わさって兵士の声は大きいが、それでも兵士の声は酒場の雑音の中ではさして目立つものではない。男性も兵士達を咎めるようなことはしなかった。酒場は楽しむところであり、周囲の客の迷惑にならない程度なら騒いでもいい場所である。
「あの日和見野郎の腰抜けといっしょになろうってことか?」
「そういうことらしい。ほらここだ。ベタ記事の最終欄のところだ。いいか、読むぞ?『青きマンティコアと白百合が同じ籠に入ろうとしている。馬鹿なことなり』、どうだ?」
「・・・なんだそりゃ」
「お前何にも知らないのな。青いマンティコアっていえばオルデンブルグ家(ハノーヴァ王家)の紋章で、百合は-」
「そんな事は俺でも知ってるさ。俺が言ってるのはそれだよ、その記事だよ。謎賭けじゃあるまいし、なんだってそんな回りくどい言い回ししてるんだよ」
「そりゃ検閲にひっかからないためだろう」
「でもそれじゃ何書いてるか殆どわからねぇぞ」
「違いねぇ!!」
兵士達は顔を合わせて笑った。彼らが帰ると、厨房で兵士の話を聞いていたスカロンがエダマメのお代わりを差し出しながら言った。
「聞きました、さっきの話?」
「・・・」
「ここ最近城下はあの話で持ちきりなんです。以前からマリアンヌ様のお相手探しは色々と噂されてたんですけど、ここ一月の間に色んな話が一気に出てきまして。といっても殆ど根も葉もない噂なんですけどね。やっぱり有力なのはハノーヴァーの王太子みたいです」
黙ってエダマメを房から出しながら口に運ぶ男性にたいして、スカロンは濡れた皿を拭きながら職場で仕入れた噂話を得意になって披露する。
「さっきの兵隊さんもですけど、最近はどこでも新聞が飛ぶように売れてるんですよ。法院の検閲にひっかからないように隠語で情報が隠されているとかいう噂が広がったんで。中には新聞屋が新聞を売るためにでっち上げたデマだなんていう人もいますが。それで・・・」
3杯目のエールを飲み干してカウンターにコップを置くと、それまで黙っていた男性が始めて口を開いた。
「スカロン」
「なんでしょ・・・あいてッ!」
突如立ち上がった男性に拳骨で殴られ、頭を抑えるスカロン。ワイン作りで鍛えた腕力は厨房で鍋を振るう親父とは比べ物にならないぐらい硬くて重い。涙目になりながら見返すと、男性は不機嫌そうな表情を崩さずに言った。
「噂話をしたい気持ちはわかる。酒場と言うのは噂話の坩堝だからな。聞き流すのも限度がある。しかし真偽の定かでない噂話を真実のように語るな・・・下らん噂話をしている暇があるなら働け。噂話に現を抜かすような人間にエドワーズはやれん」
男性の言葉にスカロンは顔を赤くして俯く。エドワーズの祖父に対して見栄をはろうとした先ほどまでの自分を恥じ入るばかりだ。すると再び後ろから親父に頭をはたかれた。
「すいませんタケオさん。本当なら親である私が言わなければならなかったのに」
タケオと呼ばれた男性は黙って席に座ると再びエールを口に運び始めた。タルブ村一番の働き者は、同じく村一番の酒豪でもある。もとより口数の多い人物ではない。だがこの日は珍しく、本当に珍しく6杯目となるエールを空けると、ポツリと呟いた。
「・・・陛下」
この国で陛下と呼ばれる人間はただ一人。英雄王フィリップ3世陛下だけだ。しかし黙って食器を拭いていたスカロンには、男性の漏らした「陛下」という言葉が何故か国王陛下のことではないような気がした。