王国の北に広がる深い森。
通称、黒の森。
幾つものオークとゴブリンの部族が縄張りを築き、無数の魔物が住まう危険な森である。うかつに踏み込めば、生きては出られない。そんな評判がついて回る危険地帯。
だが、森の住人にとっては住み慣れた土地に過ぎない。
どこに何が住み着いているのか。どんな生き物がどんな行動をし、どんな危険を秘めているのか。森で生まれ育った者ならば、そんな事は身に刻みつけている。
できなかった者は死んでいく。
例えば、吸血蔦に絡みつかれて血を吸い尽くされて死ぬ。例えば、狼の群れに襲われ貪り食われる。例えば、オークに襲われ比喩的にも直接的にも喰われる。
「……どんなバケモノだ」
それらの危険を当たり前のように踏み潰して通り過ぎていく怪物の痕跡が目の前にある。
部族のシャーマンが数日前からおかしな様子を見せ、怯えていた理由が目の前に突きつけられている。
自分たちの縄張りに何かが踏み込んできたのは知っていた。何の儀式か、森の木々を血のように赤く染め上げてうろつく何か。
正体を確かめるべきだと主張し、残された痕跡の後を追って夜の静けさに沈む森の中を進み、最初に見つけたのは引きちぎられた吸血蔦の切れ端。熊ですら絡めとり餌食にする吸血蔦が、雑草を処分するように無造作に引きちぎられていた。
森の住人であれば、吸血蔦には近づかない。気づかないような間抜けは、肌を吸血根で穴だらけにされて血を吸い尽くされた死体をさらす。
だが、この痕跡を残した何かは間抜けにも引っかかっておきながら、暴れる熊すら逃さない強靭な吸血蔦を引きちぎり抜け出している。
続いて見つけたのは、狼の死体がひとつ。
ひしゃげた頭をさらすそれは、頭を一撃で叩き潰されている。そこには争った痕跡すらない。森で、残されたわずかな痕を手がかりに獲物を探し、狩りを行う自分にはわかる。
狼を殺した何かは、抵抗も逃亡も許さずに一撃で殺している。
逃げるところを追いかけて殺したのなら、逃げる狼を追いかけて痕が残されて無ければならない。折れた木の枝や、踏みしだかれた草。そういった痕跡が残っていない。抵抗があったのなら、同様にその痕跡がないとおかしい。戦いと呼べる争いがあったのなら狼の身体にはもっと傷がついていないとおかしい。
なのに、綺麗に一撃で頭を潰されたとしか思えない死体と現場。
探して見つかった痕跡は、他にも狼がいたらしい足跡と落ちていた毛。
そして、今見ているのはオークたちの残骸。
そう、死体でなく残骸。圧倒的暴力が吹き荒れた事を無言で語るオークの残骸である。
木の枝に引っかかって垂れ下がっているのは臓物だ。腸がずるずると生き別れた上半身と下半身を繋いで木の枝に引っかかっている。地面や木々にどす黒くこびりついているのは流れた血の跡。
へしゃげた頭部が胴体にめり込んだ死体があり、その死体には腕が無かった。切り裂かれた腹部から絡まりあったハラワタをはみ出させている死体には首が無かった。
圧倒的な暴力で無惨に破壊された肉体が無数に転がる死地が広がっていた。
むせ返るほどに濃密な死臭がそこには漂っていた。
肥満体にも見えるオークの体は、柔軟な皮膚と分厚い脂肪に覆われて半端な攻撃では通らず平気な顔を見せる。大柄な体格で腕力に恵まれ、ただ武器を振り回すだけの攻撃でも下手に受ければ骨を持っていかれる脅威の一撃だ。
食欲と性欲だけで動く馬鹿に見えても、侮れば返り討ちにされる危険な連中だ。
それが、ただ一方的に屠殺されていた。
死体があまりばらけていないのがそれを物語っている。ろくに逃げる間もなく皆殺しにされたのだ。
何に襲われたらこんな死体を残せるのか。棍棒で殴り潰されたような傷があり、大きな爪で抉られたような傷がある。その傷のすべてが致命傷。ときおり森に入ってくるヒトではない。
連中は確かに群れを成してオークを狩る事もあるが、ここまで一方的に殺したりはできない。それ以前に、こんな傷を死体に刻むことなどできない。
シャーマンが怯えていたのが、いまさらになって納得できてしまう。
どんな魔物が森に入り込んだのか。オークの死体を検分しながら、そんな事を考えていた彼の背中にぞくりと悪寒が走る。
見られている。
殺気のようなものは感じない。だが、見つめてくる視線には友好の気配も感じられない。
どこからだ?
心臓が早鐘を打つのを感じながら、ごくりと喉を鳴らしゆっくりと周囲をうかがう。
わからない。
肌をなぶる風がふわりと甘い匂いを運んでくる。
風上にいる。その匂いを知覚すると同時に、弾かれたように風上へと視線を向け目にしたのは長い髪を風になびかせるヒトの姿。片手で木の枝に半ばぶら下がるようにして、幹に脚をつけて体を支えているヒトが樹上から見下ろしている。自由な片手はぶらりと下げられ、月光を照り返して光る刃物を握り締めている。
本能的な恐怖が氷のように体の芯を冷やしていく。
アレは絶対的な殺戮者だ。教えられるまでも無く悟る。アレが森を騒がせている怪物だ。敵対することすらおこがましい、怪物だ。
見られてるというだけで恐怖に身が竦む。
アレがその気になれば、逃げることすらできずにオークたちのように無惨に殺される。アレが手にしている刃物で切り裂かれるのか、華奢に見える手足で叩き潰されるのか。
恐怖のあまり、目をそらすこともできずに身じろぎひとつせずに見つめ返す。
どれだけの時が過ぎたのか。
こちらへの興味をなくしたのか、不意に視線を外すと木の幹を蹴りつけてアレが風のように木々の間を抜けて遠ざかっていく。
「た……助かった……のか……」
姿が見えなくなってからしばらくしてから、ようやく安心してその場にへたり込み深く息をつく。
帰ったらシャーマンに謝らないといけない。
腰抜けと言って悪かったと。ゴブリンの面汚しと言って悪かったと。
アレは自分たちの手に負えるような相手じゃない。怯えるのも無理は無い。しかも、アレと同じようなのがまだ他にいるのだ。
シャーマンは言っていた「大いなる魔がふたつ」と。
自分たちにできることは、それが縄張りの中を通り過ぎるのを息をひそめてじっと待つことだけだ。下手に触れれば、オークどもと同じ末路を辿る。
部族の者たちに言い聞かせねばと、彼は夜の森を村へと逃げるように急いだ。
設問:特典つきで異世界に放り出されました。どうなるでしょう?
解答:地理がわからないので、道に迷って遭難します。
「なんというか、遭難している実感がわかないな」
「わたしの能力、かなり便利です……よね」
カセットコンロで牛乳を温めながらぽつりと智也が漏らし、美琴が呟き返す。
どことも知れぬ森の中。何の準備も無く放り出されれば、普通は死ぬ。
食べ物を確保できるかどうか以前に、飲み水を確保できるかどうかも怪しく。人間、水を飲まないと三日で死ねる。
だが、美琴の能力はその心配を抱く必要が一切無い。
必要な時に、必要な品を作り出せばそれで問題は解決するのだから。むろん、限界や制約はあるがどことも知れぬ森の中での遭難生活がのん気なキャンプ生活の雰囲気になるほどに便利な能力だった。
「悪いね。考え無しに、森の中に突っ込んで。早いところ、人里に出たいところだけど……」
「いえ、助かっただけで……十分です。それに、守ってもらってますし」
蛮族か盗賊の襲撃の真っ最中の村から逃げ出した時の事を思い出して溜息をついた智也に、気遣うように美琴が声をかける。
美琴の能力で、花火を作る際にその材料に小屋の裏手の壁を使う。ただそれだけで、音も無く壁を壊して脱出口が開ける。そうやって作った打ち上げ花火や、ロケット花火を小屋の壊れた扉の隙間から打ち出して注意を引く。
人間の視覚――というか、動物の視覚は動いているものに注意を引かれる性質がある。カエルなどでは、動いている物しか見えないくらいだ。扉から飛び出す花火の閃光やロケットは盛大に音を響かせる事もあって間違いなく注意をひきつける。
同じ見つかるのなら隠れ潜んで見つかるのを待つのでなく、あえて見つかってしまえという発想で花火で注意を扉にひきつけてから裏手から飛び出し逃げる。
口で言えば簡単だが、成功する保証は無い。
だが、周囲の気配を確認することで様子をうかがえた。飛び出してみたら、すぐそこで待ち構えていたなどという事態は避けられた。
花火で注意を引いて、男たちが何事か言いながら近寄ってくるのを感じると同時に開けた脱出口から美琴を抱えて飛び出し、逃げ出したのだ。
その後の事は、はっきりとは記憶に残っていない。
ただ、少しでも早く遠くに逃げようと必死に足を動かしていたことだけが記憶に残っている。
気がついたときには、どことも知れぬ森の中。
人の気配もなく途方にくれたその日から、人里を目指して森の中を彷徨う日々。
幸いにして、美琴の能力のおかげで水も食糧も確保でき、森の中を歩くにふさわしい衣服と、寝起きをするテントも確保できて衣食住の不安はまったくなし。
程よく温もった牛乳をマグカップに注いで美琴に渡す。
「それじゃ、これを飲んだらゆっくりと寝るといい」
「……毎晩、すみません」
「気にしなくていい。だいたい、夜の方が調子がいいし」
申し訳なさそうにする美琴に、ひらりと手を振り。くの字型に内反りの大ぶりの刃物を手元に引き寄せる。ククリナイフか、その類似品かは知らないが恐らくはキャンプ用品だろうそれは、森の中を行くに際して邪魔な下生えや木の枝を刈るのに実に役に立つ便利な刃物。
そして、夜闇に乗じて襲ってくる獣たちを狩るのにも実に役に立つ。
ホットミルクを作った後片付けを終えると、そっと目を閉じる。
目の前の獣除けの小さな焚き火が奏でるパチパチと爆ぜる音。テントの中で美琴の奏でる規則正しい呼吸音。森の中の木々が風に梢を揺らす音。鳥か獣かが夜闇に響かせる鳴き声。
目を瞑り瞑想するように意識を静かに落ち着けていきながら、周囲の気配へと感覚を研ぎ澄ませていくにあわせて周囲の情報が自然と読み取れて行く。
森の中を彷徨ううちに、雑貨や食品を造り出して自分の能力の使い勝手を美琴が確かめ、認識を深めていったように智也もまた、森の中を彷徨い襲ってくる獣などを警戒し、撃退しているうちに自分の能力に対して認識を深めていった。
夜は自分の領域だ。
夜の訪れとともに、制約を解かれたように感覚は爆発的に鋭くなり、内部からエネルギーが湧き立つように五体に力が溢れる。
自分たちを付け狙う狼の群れに気づいたのも、このおかげだろう。どうすべきか迷ってるうちに、目の前に姿を現し襲ってきたのでとっさに頭を殴りつけたら、べちんと派手に狼は地面にへばりつき、その頭は潰れていた。
それで、狼たちは警戒したのかしばらく様子をうかがったあとにそのまま退散してほっと安堵したのは一週間ほど前。
それ以前にブービーとラップのような奇妙な蔦に絡みつかれて吊り上げられたこともあり、この森には危険な生き物がいっぱいいそうだと常に武器を手元に置くようにしたのはそれからだ。
その警戒は正しく報われたのが、それから三日後。
近づく気配に気づいて様子を見に行けば、豚面の肥満体の人間というべき連中が蛮族めいた格好で現れた。自分を指差してゲラゲラと笑い、股間をおっ立てて武器を突きつけてきたらどういう連中かは言葉が通じずともよくわかる。村を襲っていた連中と同様の思考回路だろう。
犯して奪い、そして殺す略奪者。
陵辱されて殺されていた無惨な女性の死体が脳裏によみがえる。
すうっと心が冷えていくのを感じ、自分の性能を確かめる相手にしようとナイフを手に取る。そこから先の展開は一方的だった。豚面の連中が弱いというよりも、夜の自分の性能が圧倒的なのだろう。
武器の扱いは素人の自分が、ただ反応速度と腕力だけで武器を振り回し、一方的に殺戮をしてのけた。なんと脆い肉体なのだろうと思うほどに、連中の肉体を簡単に破壊できた。
さすがに暴れすぎたと思うほどに無惨な光景になったのは、途中で血に酔ったような状態になったせいだろう。
記憶を振り返りながら周囲へと警戒を続ける。
豚面以外に、子供くらいの体格の亜人を見かけた事もある。様子を見に行くと、こちらに気づいて撤退したところからして警戒心が強いのだろう。この森には他にもこちらを襲ってきそうな動物や亜人や蛮族がいるかもしれない。
こうして、夜は智也が警戒し。日が昇れば、美琴をつれて森の中を進む。途中、目印代わりに赤のカラースプレーを木に噴きつけながら進む。日が高くなる日中は、自分が昼寝する。
日中でも人間離れした身体能力を保持しているおかげで、森の中を進むのには苦労はない。難所に出会っても、美琴を抱えて突き進める。
問題は、人里に出たいのに近づいてるのか遠ざかってるのかすらさっぱりわからない状況だ。ひとりだったら、きっと精神的におかしくなっていた。美琴は頼もしい護衛を確保し、智也は文明的な生活を確保する。そういった能力の相性以上に、言葉を交わせる他者が側にいるというのが孤独を癒して精神的に助かっていた。
そっと目を開き、梢の隙間からのぞく満天の星空を見上げる。
「みんな、どうしているんだろうな……」
自分たち以外にもこの世界に来ているはずの、他のクラスメイトに思いを馳せてぽつりと呟きを漏らす。
その呟きに応える者もなく、音もなく静かに夜風が智也の長い髪をなびかせ吹きぬけていく。
ぱちりと、焚き火の中で薪が爆ぜて火の粉を散らす。
夜の闇と静けさだけをともに、今夜もまた夜が更けていく。
「もてもてね」
「嬉しくないわよ!」
怪しげな石造りの祭壇で交わされる言葉。
薄暗い室内には香がたかれ、揃いのローブに身を包んだ男たちが平伏し彼らの魔を讃える祝詞を詠唱し続けている。
揺らめく蝋燭の明かりに照らされて踊る影は、異形の姿。祭壇の上に座すのは、触手をうねらす異形の存在。それと言葉を交わすのは、祭壇に腰掛けて捧げ物の果物を齧る野性的な風貌の巨躯の男。
鋼をよりあわせたような強靭な筋肉に包まれたその肉体は、祭壇の上で蠢く悪夢の産物のような異形に劣らない存在感を漂わせていた。
朝霧翔子と倉本菜月は、どこぞの秘密結社で崇められていた。