ドーマ帝国千年の歴史と、帝国人は言う。
しかし、『帝国』としては実のところ六〇〇年ほどの歴史しか有していない。
ドーマ帝国の前は、共和制ドーマであり、さらにその前はドーマ王国であった。
故郷を追い出された男たちが、自分たちの場所として現在のドーマ帝国首都に住み着き。周辺から嫁として女をさらい、蛮人王ロムルスが王国として名乗りを上げたのがドーマの起源とされている。
続く、凡人王ユニウスの時代に緩やかな拡大と内政の充実が行われ、三代目の暴虐王ルキウスの時代に暴政に耐えかねた民衆による王の追放が行われる。
ドーマへの王の帰還は、暴虐王の息子。奪還王パドゥースの時代になって実現し、その天下は暗殺によって三日で終わる。そうして王国としてのドーマは終わりを迎え、元老院の統治による共和制ドーマへと移行する。
その奪還王には、性格を異にする弟がいて。弟は、ドーマの奪還でなく先祖に習い新国家の建設を目指して従うものを引き連れて北の辺境へと旅立っていた。
「その弟が建設した国家が、ここセレウコス王国らしい。ここより北に国はなく、蛮族と異族が住む蛮域が広がり。南にはドーマ帝国が覇を唱え。さらにその南には、アテナイ人たちの都市国家群があるらしい」
地図も無く、伝聞ばかりの情報だから精度は当てにはならないがと口にする智也の頭を丁寧に、シャンプーを泡立てながら頭皮までしっかりと洗いながら美琴は気になっていたことを訊ねる。
「それで……みんなの手がかりになるようなお話は?」
隙間の多い素人が建てました感の強い小さな小屋。そこは、いわゆる五右衛門風呂の鉄の浴槽が設置された小さな風呂場。美琴に背を向け、小さな椅子に腰掛けて気持ち良さそうな表情で髪を洗われながら智也は問いに答える。
「残念ながら、ない。朝霧さんのインパクトのある外見なら噂になってても不思議じゃないと考えていたが、触手系モンスターも普通にいるらしいよ、この世界」
言われて、美琴はこの村に来るまでに抜けた森で出会った生き物の姿を思い返す。
そう言えば、川に近づいたら肉の紐に牙の生えた蛇の頭をつけたような触手の群れに襲われたと思い出し。あれは、首がたくさんある生き物だったのか、口が付いた触手の群れだったのか、どちらにせよあんなのがいっぱいいるのなら、多少変な姿でも目立ちそうに無い気がした。「そうですね」と呟いて、智也の頭にゆっくりとお湯を注いでシャンプーを洗い流していく。
「そういうわけで、朝霧さんもそういったモンスターの情報にまぎれているかもしれないせいで詳細不明。噂になるような目立つ行動を取っているヤツがいたとしても、ここは北の辺境の国の、そのまた辺境の村で情報に乏しい。村に取引に来る商人たちに話を聞いた方がいいとさ」
「明日か、明後日あたりに……来るんでしたっけ?」
髪になじませるように丁寧にリンスをしながら教えてくれた男たちのことを思い返す。
キラキラとした憧憬のまなざしを向けていた子供はともかく、「我が姫」などと智也に格好をつけていたりした宿屋の主人などのオヤジたち。
魅了をかけたとか言っていたけど、ちょっと引くものを感じて小さく息をつく。
ミディアンとは何か?
夜の闇を蠢く、人に似た姿を持った人にあらざる者たち。
悪魔、淫魔、吸血鬼。その他諸々をまとめて放り込んだ極めて大雑把な概念、らしい。
智也が支配下に置いたオヤジ三人衆から引きずり出した情報をまとめるとそういう事になる。他にも、オークやゴブリン。エルフやドワーフなどの亜人種族の存在など、この世界に生きる生物の情報を色々と聞き出せたのは大きい。
しかし、それが迷信なのか現実なのかを検証できない。
それでもいくつか把握できたことがある。
魔法とかのファンタジーな要素を取り除いてみれば、テクノロジーに見るべきものはないこと。インフラが整っておらず、王や貴族が幅を利かせている封建制の社会であること。
そして、魔法の恩恵は限られた者だけが享受していること。
早い話が、智也たちが世話になってる辺境の村だと地球の中世や古代の田舎とあまり代わりがなくなってくる。
水道がないから、水はいちいち汲みに行かねばならず。ガスや電気がないから、夜は暗く。冷暖房なんて、当然ながらない。
怪我や病気は、薬師や祈祷などで対応し。衛生などという概念は存在しない。
清潔快適な現代日本で暮らしていた女の子にとっては、いささか以上に不満のある環境といえ。美琴が積極的に能力を使ってまで、生活環境の改善を図ったのも頷ける。
改善を図った結果。この村どころか、この世界でもかなり高い水準の生活環境になってしまってるのは、把握した限りの常識ではマズイ気もするが、自分も恩恵にあずかってるから気にしない事にする。
変に目立てば、権力者とかから目をつけられて面倒なことになりそうな気がするからその対策は考えなければいけないだろうが。
「そういえば。その……トモくんは吸血鬼なんです……よね?」
頭のてっぺんから爪先まで、美琴に綺麗に現れてほややんと気持ちよく弛緩した状態で美琴と一緒に湯に浸かりながらのんびりと今後のことを考えていた智也に小さく声がかけられる。
「そうだけど?」
目を瞑り、すっぽりと美琴の腕の中に納まったまま何をいまさらと言わんばかりに言葉を返す。
「だったら、血を……吸わなくて大丈夫なんですか? それとも、あの人たちの血を……」
あの人たち?
一瞬の疑問は、魅了したオヤジたちのことだろうと思い当たるとすぐに消え。オヤジどもから血を吸ってるのかと、おずおずと訊ねる美琴へともたれかかり、ささやかな膨らみを背中に感じながら身を預ける。
「渇きに襲われるとかは、まだない。おそらく、消耗しない限りは大丈夫。オヤジ連中は……その、なんだ。臭くて口をつける気に……」
血の匂いにそそられることはあったが、その程度でいろんな作品でみられるような吸血衝動やら渇きやらに悩まされたことはない。
最近は妙に喉が渇くようになってきていて、このままでは時間の問題だろうという認識はあるが差し迫った問題でもない。
魅了したせいで下僕状態の人間を手に入れたが、好き嫌いをする程度には余裕がある。
垢じみて臭う中年オヤジに、何を好き好んで噛みつかねばならないのか。同じ噛みつくなら、美琴のほうが美味しそう――ではなくて。
「お風呂……入ってる様子、ないですからね」
耳元で囁かれると、吐息がかかってくすぐったい――ではなくて。
「……水道もガスもないなら、風呂に入るのもひと苦労だからな」
最近、美琴のスキンシップに流されてる気がするなと内心で溜息をつきながら言葉を紡ぐ。
スイッチひとつで、後は沸くのを待つだけなどという便利さはない。浴槽を満たす大量の水を運び、その水を沸かすための燃料をかき集め、火の管理をしながら沸かすと手間がかかるのがこの世界の入浴だ。
つまり、わりと面倒で贅沢な行為。風呂は風呂でも蒸し風呂のほうが普及しているらしいの当然だろう。
「まあ、風呂に入る習慣が無いだけだろう。風呂に入らない習慣があるのよりはマシだ」
「……入らない習慣、ですか?」
不思議そうに呟きを漏らす美琴に、小さく肩をすくめてみせる。
「キリスト教の影響で、中世ヨーロッパじゃ風呂に入るのはよろしくないという風潮があったのさ。皮膚の常在菌が洗い流されるとか、そういう衛生学的思想も影響してたらしいが……。来ていたシャツが腐るほど、ずっと着っぱなしとかしていたらしい」
「それは……」
絶句。
返すべき言葉が見つからないのか、美琴が沈黙する。
とりあえず。この世界が、わざと不潔を目指してるとしか思えない中世ヨーロッパ的な世界だったら、このまま田舎に腰をすえて都市部に出ないほうがいいかも知れない。
ふたりの脳裏によぎった思いは、多少の差異はあったがほぼ同じものだった。
そうやって、ふたりの少女がのんびりと湯に使っていたのと同じ日。
五十年ほど前の先王の時代に北蛮侵攻によりセレウコス王国から失われ、人の法が及ばないがゆえにあらゆる悪徳が栄える無法都市と化したタウリン。
法に変わってこの都市を支配するのは弱肉強食という古来よりのシンプルな法則。
すなわち力が全て。
そして、法はなくても暴力と恐怖によって練り上げられた秩序が存在し、その秩序の頂点に君臨するのは三者。
数こそ少ないが、文字通りに都市の闇に君臨し夜を支配するミディアンたちの《夜会》。
主に人間で構成され、暴力と悪徳に酔いしれる荒くれ者たちが作る盗賊ギルド。
北蛮侵攻の際に、略奪を終えた後もそのまま居残りいついたオークを主体とする異族たちとそれを統率するダークエルフ。
その三者が不要な衝突を避けるための意思疎通の場として定期的に開く連絡会が、タウリンの最高意思決定機関として機能していた。
今夜もその連絡会は開かれていた。
「やつらを叩くべきだ!」
娼館に併設された見るからに派手で金がかかってそうな内装の、どこか成金的な雰囲気の酒場。
その一角で、テーブルに拳を叩きつけ。声を荒げて主張するのは頬に刃物で切られた傷跡が残る強面の男。テーブルには他に二名の者が席についており、周囲には剣呑な雰囲気を纏う護衛たちが、互いに睨みあっている。
「放置していたのを今になってた叩く、その理由は?」
優雅に脚を組んだ姿勢で、物憂げにも見える落ち着いた態度で問い返すのはダークエルフの女。
「本物だったから、だろう」
性別が判然としない声で淡々と告げる最後の一人は、フード付きの黒いローブにすっぽりと身を包み、白い仮面で顔を隠して欠片ほども肌を見せない小柄な人影。
「魔術を使うと口にする者は多い。神の加護を口にする者も多い。たいていは、口にしているだけか使えてもたいした事がない。しかし、連中は本物だ」
「たんに魔神を崇めてるだけの頭のおかしいだけの連中ならともかく、本当に魔術を使う本物なら喧嘩を売るのは躊躇うというわけね」
無感情に事実を口にする言葉に、嘲笑の響きを宿す声が続く。
「やかましい! やつらが、最近になってクスリを流し始めているのは知ってるだろう。俺らに断り無くだ」
「だが、我々には関係ない」
「あんたらは、クスリは扱ってないからな。だが、俺らを無視してクスリを流してるって事は、俺らの面子に泥を塗ってるのと同じだ。舐められてる」
「そうね。舐められるのはいけないわ。それに、彼らのクスリには興味があるし、持っている知識にも興味があるわ」
「攻撃をするというのなら、するがいい。だが、我々は手を貸さない」
「つまり、手を貸さないが邪魔もしないということだな?」
「《夜会》の意志として、肯定する」
仮面の奥から響く声が確約すると、男は視線をダークエルフの女へと向ける。引きこもりの《夜会》が行動に参加しないのは予定通りだ。邪魔さえしなければ、それでいい。
「こちらの利益は?」
視線に参加を前提にした問いかけが返ってくる。
「さっき欲しがってた知識はこちらも頂く。独占は無しだ。もちろん、クスリの利益もだ。知識も利益も共有。分け前は半分ずつ」
「あら、それじゃ夜会の取り分がないわよ?」
「協力しないなら、分け前も無しだ」
じろりと不機嫌そうに一瞥をしながらの短い言葉に、仮面はそれでいいと無言で頷き同意する。
「それじゃ、それでいいわ」
ダークエルフの女はそのやりとりを見て、艶めいた笑みを浮かべ頷く。
「話はまとまったな。それじゃ、善は急げだ。お前ら、さっさと兵隊を揃えろ」
男は取り巻きに手を振りながら命令を下す。命令に応じて、伝令に何人かが酒場を抜け出していく。
「あなたたちも、準備をなさい」
ダークエルフの陣営もまた、指示に従い襲撃に備えて準備をすべく伝令が走り出す。
「それじゃ、今夜も話がまとまったことを祝って乾杯だ」
テーブルの上の杯。上物の酒を満たされたそれを、三人は同時に手に取り打ち合わせる。
「俺は部下どもの様子を見に行くが、あんたらは楽しんでいってくれ」
「言われなくても、ゆっくりと楽しませてもらうわよ」
ぐいっと一気に杯をあおって飲み干した男は口元を拭うと、そのまま席を立ち護衛を引き連れて去っていく。それを視線も向けずにひらりと手を振って返事をしながら、舐めるようにゆっくりとダークエルフの女は酒を味わう。
「それで……連中はどこまで本物だと思う?」
「何かを喚んだのまでは確かだ。それも、かなり強力なのを」
盗賊ギルドの連中が姿を消したのを確かめて、秘密の睦言を囁くように仮面へと顔を寄せて囁かれた問いかけに平板な声で返事が返される。
「そう。そちらも、感知してたのね。気づいてないのは、筋肉で考える馬鹿ばかりなわけね」
くすくすと笑いながら、投入するのは失っても惜しくない捨て駒にするかと頭の中で選別を始める。
今では落ち着いているが、しばらく前に精霊達が騒いだ時期があった。その頃から、何かの気配を街の北。今夜の連絡会の議題になった魔神崇拝結社の連中が根城にしている一角から感じている。
そして、こういうことには敏感な《夜会》の連中の証言。
結社の連中が今も活動しているということは、手に負えないものを喚び出したというわけではないだろう。媚薬と麻薬を足して割ったような強力なクスリを流し始めた時期から考えたら、喚び出した何かがそれに係わっているのは確かだ。
魔術を扱う者ならば、魔の気配には敏感でなくてはならない。
気づいていない盗賊ギルドの頭を内心で嘲笑う。本気でクスリの製法を狙ってるあの男の襲撃が成功すれば、自分達にも利益が出る。結社の連中が、魔神召喚に成功するような本物ならば、返り討ちにあって失敗するだろうが、それは戦力を削られた盗賊ギルドより自分達が優位に立つことを意味する。
自分達の利益を犯されない限り《夜会》の連中は、こちらに口を挟まない。勢力が均衡している自分達と盗賊ギルドの力関係が、こちらの優位になれば自分達がこの都市の事実上のトップだ。
結社への襲撃は、成功よりも失敗の目が大きい。そう踏まえて疑われぬ程度にはまともな、それでいて失ってもかまわない程度の兵隊編成を考えながら、自分達の栄光を夢見てダークエルフの女は口元に笑みを刻んだ。
《夜会》の仮面はいつの間に姿を消したのか、ふと気がつけばテーブルには自分ひとり。
方法は不明ながら、自分に気づかれずに姿を消した事実に浮かれていた心がひやりと冷える。
気づかれずに姿を消せるのなら、気づかれずに傍らにまで来ることもできるだろう。命を刈り取ることができるほどに、すぐ近くにまで。
本気でこの都市の支配を目指すのならば、やはり《夜会》の排除も視野に入れておくべきかと口もつけずに残された杯を不機嫌に睨むと、自分も立ち去るべく腰を上げる。
結社への襲撃が行われたのは次の日の夜。
その結果は、第四の勢力が都市に君臨する支配者達に事実上のトップとして加わる結末となった。
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吸血行為って、相手の肌に直接口づけ。
不潔な相手の血は吸いたくないでござる。