筑前国 岩屋城
俺と紹運どのが最後に顔を合わせたのは、紹運どのが高橋家の当主に任じられて筑前に赴いた時だったから、もう半年近く前のことになる。
立花家と高橋家が叛旗を翻した先の筑前争乱以後、高橋家を継いだ紹運どのが双肩に担ってきた責任の重さを俺は想像することしかできない。だが、それが生半可なものでなかったことだけは間違いないだろう。
それら種々の困難を克服していく過程で武将としての在り方も磨かれていったのか、久方ぶりにあった紹運どのは、これまでにもまして将としての風格が感じられた。以前は、たとえば道雪どのと比べると、あちらの方に一日の長を感じたものだが、今の紹運どのならば義理の姉上と並んでもおさおさ見劣りしないだろうと思われる。
さすがに疲労の色は隠しおおせていなかったが、逆にいえば、それ以外に目だって気になるところはない。大きな傷を負った様子はなく、心気が衰えた気配もない。
戦況からして最悪の事態もありえると考えていただけに、紹運どのの健在ぶりを目の当たりにして、俺はひそかに胸をなでおろした。
それは向こうも同様だったようで、篭城戦の最中にいきなり姿を現した俺の顔をまじまじと見つめた後、紹運どのは安堵したように表情をほころばせた。
「ふふ、どうやら狐狸の類が化けているわけではないようだ。久しいな、雲居どの。元気そうで何より――と、言いたいところなんだが……」
途中で言葉を切ると、紹運どのはいぶかしげに問いを向けてきた。
「先刻、敵の手に落ちた宝満城から火の手があがったという報告を受けた。さらに城を取り囲む竜造寺軍が慌しく動き始めたという。急ぎ、櫓にのぼって確かめてみれば、確かに竜造寺軍がただならぬ動きを見せている。あるいは夜襲を仕掛けてくるかと思い、兵を持ち場につかせたところ、なんと敵軍が兵を退いていくではないか。いったい何が起きたのかと驚いていると、敵の代わりに雲居どのが姿を見せ、のんびりと『開門願う』と呼びかけてくる。十重二十重、敵に囲まれているはずのこの城で、だ」
語るほどに紹運どのの眉間のしわが深くなっていく。それでも凛々しさが褪せないところがすごいなあ、などと思いつつ、俺は素直な感想を口にした。
「率直にいって、わけがわかりませんね」
別にすっとぼけたわけではないのだが、そう聞こえたとしても仕方ないかもしれん。実際、裏面を知らない人間が聞けば、狐か狸に化かされたとしか思えない展開であろう。
紹運どのは苦笑まじりにうなずいた。
「うん、まったくそのとおりた。そんなわけで、ぜひ説明を願いたい。私たちがこの城に立てこもっている間にいったい何が起きたのか。義姉様からの報せでは、貴殿は誾――こほん、飛騨守どのを立花山城に送りこんだ後、島津を説くために薩摩に赴いたということだったが、その貴殿が何故ここにいるのか。なにより――」
紹運どのの視線が、俺の腰の刀に向けられる。
「何故に義姉様の刀が貴殿の腰にあるのか。ただならぬことが起きたと推察するが」
俺は紹運どのの推察を肯定するために首を縦に振った。
「その推察は正しゅうございます。これより説明させていただきますが、ただ、すべてを語るには時が足りませぬゆえ、少しばかり駆け足になることをお許しください」
そういって、俺は紹運どのが篭城している間に日向以南で起きた出来事を必要最小限の言葉数で伝えていった。
櫓の上でこれまでの経緯を語りつつ、同時に紹運どのたちがどのように竜造寺軍と渡り合ってきたのかも聞き取っていく。紹運どのと北原鎮久とのやりとりを俺が知ったのはこの時である。ついでに、その後に木下昌直がとった行動も教えてもらった。
なるほど、俺が竜造寺に申し出た条件、ずいぶんあっさりと承諾してもらえたと思っていたのだが、こんな伏線があったのか。俺としては、今日まで岩屋城を守り続けてきた紹運どのに対して竜造寺軍も相応の評価をしているはず、という予断で話を進めたのだが、俺が考えていた以上に紹運どのは竜造寺側に高く評価されていたのだろう。
岩屋城を破却する件についても了承を得ることができた。
むろんというべきか、紹運どのの顔には苦渋が浮かんでいたが、俺が改めて説くまでもなく、今の戦況でこの城を保持し続けることがどれだけ困難であるのかを紹運どのはよくわかっているのだろう。
俺はこっそりと安堵の息を吐いた。竜造寺の軍中ではああいったものの、実はこの点が一番心配だったのである。紹運どのの口から兵たちに説いてもらえば、事態はスムーズに進むだろう。
一番の懸案を片付けた俺は、さらにこの後の展開についても口にした。これは紹運どのの意見を聞くためでもある。
この後の展開とは要するに対毛利戦である。
立花山城を包囲する毛利軍をいかにして撃退するかについて、俺には一応の腹案があった。
最初の狙いは秋月種実が盤踞する古処山城。
このまま道雪どのと合流し、一気に立花山城の付近まで戦線を押し上げる、という手段がとれれば最善なのだが、今の段階でこれをしてしまうと、秋月勢その他の筑前の国人衆に後背を塞がれてしまう。
宝満城、古処山城を敵に奪われ、岩屋城を放棄するわけだから、豊後との補給線を確立することは容易ではない。俺が種実であれば、まず間違いなくここを狙う。それを避けるために筑後を経由するにしても、あの地の国人衆がどう動くかは不分明であるし、秋月らが筑後川を越えないという保証もない。
毛利の本隊だけでも手に余るというのに、後方を秋月らに撹乱されてしまえば勝機は皆無に等しかった。
とつおいつ考えるに、やはり毛利と戦う前に古処山城の秋月種実を排除する必要がある。
そのためにはどうするべきか――を考える前に、もう一つ気にかけておかねばならないことがあった。肥前に退いた竜造寺の存在である。
竜造寺は岩屋城から兵を退くことは承知したが、島津のように正式に大友と講和を結んだわけではなく、また毛利と断交したわけでもない。
おそらく肥前で兵をととのえつつ、日野江の情勢や、俺が口にした南蛮の情報の真偽を確かめてから今後の動きを決するつもりだろう。当然、再び矛先を大友に向けてくる可能性もある。
筑前がほぼ毛利に牛耳られてしまった今、竜造寺が兵を向ける先は筑後になるだろう。
このため、立花道雪、蒲池鑑盛の両将を同時に対毛利戦に投入することは不可能となる。少なくとも、いずれか一名だけは筑後を守ってもらわねばならず、それには長年筑後を守り続けてきた鑑盛が適任だろう。
しかし、である。
鑑盛ひとりだけで竜造寺に対抗することができるのか。もちろん武将としての鑑盛の能力に問題はないのだが、謀略という点で考えると一抹の不安が残る。道雪どのが筑後を去れば、今のところ大人しくしている反大友の国人衆たちがまたぞろ動き出す恐れがある。直茂あたりは間違いなく彼らを使嗾するだろう。
そういった動きに対応するには鑑盛ひとりでは手が足りないのではないか。かといって、毛利との戦いに道雪どの抜きとかありえない。
となると、必然的に打てる手は限られてくるのである。
「――ふむ、我らを筑後へ、か」
俺の話を聞き終えた紹運どのはわずかに眉根を寄せ、考え込むように腕を組んだ。
「義姉様の代わりに筑後の押さえとなる、ということだな」
「はい」
死闘を繰り広げて間もない高橋勢に対し、休む暇も与えず前線に行ってほしいと頼む――というか命じる。
鬼畜、外道と罵られても仕方ない所業である。
が、俺の中にはある確信が存在した。
当面の間、竜造寺軍は動かない。否、動けない。
竜造寺軍がこの城で受けた傷は決して浅くない。日野江や南蛮の情報は一朝一夕に掴めるものではない。島津軍の動きから推測するにしても、全体の構図を把握するにはかなりの時を要するはずだ。
また、この戦いを経て、彼らの心理にも変化は起きているだろう。
表向き、竜造寺軍は勝者として兵を退くわけだが、それが最初から企図していたものでないことは確かである。そのことを誰より承知しているのは、隆信ら竜造寺の中枢であろう。ヘタに筑後に踏み込んだ挙句、岩屋城の二の舞を演じることになれば、それは武門たる彼らにとって最悪といってよい。
ゆえに、竜造寺が動くとしたら、今度こそ間違いなく勝てる――文字通り必勝の態勢を整えてから、ということになる。
「それだけの用意が整うまでには相当の時間がかかるでしょう」
「その間、我らは筑後で疲れた身体を休めることができる、というわけだな」
俺の言葉にうなずいた後、紹運どのはひとつの懸念を口にした。
「しかし、それは謀略の実行を妨げる理由にはならないだろう。竜造寺の軍師が筑後を荒らす危険は残ったままではないだろうか」
「仰るとおり――と申し上げたいところなのですが、さて、筑後の国人衆の中に、竜造寺軍二万を退けた勇将とまともに渡り合おうという豪の者が幾人おりますか」
「なに?」
しれっと言い放つ俺に、紹運どのは困惑交じりの声をあげた。
竜造寺が兵を退いたのは、これ以上大友と戦い続ければ、たとえ勝利したとしても行き詰る可能性が高いと判断したからである。
とはいえ、それはあくまで可能性の話であり、決断を下す理由としては少し弱い。だから俺は城の破却のほかにもうひとつ、名声について言及した。「ここで敵将(紹運どの)に情けをかけて兵を退いたという形にしておけば、士を知る者として声価を高めることができますよ」と。
その言葉に嘘はない。ないのだが、別にその評判を広げる手伝いまで申し出たわけではないのである。
つまり。
竜造寺は情けをかけて兵を退いたわけではなく、そうせざるを得ないところに追い詰められたこと。
岩屋城の戦いは、二万の敵軍に抗い続け、味方の勝機を手繰り寄せた紹運どのの戦略的勝利であったこと。
このふたつに関して、口を閉ざさなければならない理由は俺にはない。
さすがに大声でこれを触れまわれば二枚舌だと非難されても仕方ないが、味方に対して事実を誠実に報告する分には何の問題もないだろう。
「筑後は大友の領国。当然、その地の国人衆はお味方です。竜造寺が兵を退いた真の理由を伝えたとしても、なんの問題がありましょうや」
「……雲居どのの顔を見ていると、なぜだか前言を撤回したくなってくるな」
「む? 前言とは?」
「『狐狸が化けているわけではないようだ』という、さっきのあれだ。私の目の前には大きな狸がいるように思えてならない」
「この戦が終わったら、宴の席で腹鼓でも打ちましょうか」
俺はそう言って笑った。戦乱の時代とはいえ教養を重視される場面はいくらでもある。歌って(詩歌)踊れる(舞踊)軍師はそうめずらしくないが、腹鼓をうてる軍師はなかなかいないだろう――そんなのに軍配を預けるとか嫌すぎるな、うん。どのみち、吉継が目をつりあげる様が目に見えるので、実現は難しいだろうけれども。
◆◆
「さて、腹鼓の件は後の楽しみにとっておくとして――」
腹鼓を打つ俺の姿を想像していたのか、くすくすと笑っていた紹運どのは、そう言って表情を切り替えた。
「雲居どのの考え、おおよそのところは承知した。しかし、竜造寺に備える以上、筑後の兵の大半はあちらに残しておかねばなるまい。そうなると、義姉様が率いることができる兵は千か、多くても二千を出ることはないということになる。必然的に、古処山攻めの主力は豊後からの援軍ということになるのだが……」
わずかにためらった末、紹運どのはおそらく最も気にかかっていたであろう事を訊ねてきた。
「先ほどの雲居どのの話を聞けば、援軍は宗麟さま御自ら率いられるとのことだった。そこのところは、その、どうなっているのだろう?」
めずらしくはきつかない物言いをする紹運どのだったが、言わんとするところは十分に伝わった。
先ほどの話の中でも、俺はそのあたりは意図的に飛ばした。ことさらもったいぶったわけではなく、口で説明しても宗麟さまの変化の半分も伝わらんだろう、と思ったからである。
なにしろ、あの道雪どのが目と口で三つの○を形作った事態である。どう説明したらよいものやら。
考えた末に、なるべく客観的に事実だけを伝えることにした。
「一言でいえば、お召し物が和服に変わりました」
「………………なんといった?」
ぽかんとする紹運どの。その様子に、あの時の道雪どのの表情を重ねつつ、俺はもう一度繰り返した。
「宗麟さまのお召し物が和服に変わりました」
南蛮神教の修道服から、道雪どのたちが普段着ているような和装になったのである。
道雪どのに聞いたところによると、宗麟さまは南蛮神教を奉じてからこちら、ずっとあの修道服の装いを続けていたらしいので、家臣たちが宗麟さまの和服姿を見たのは実に十年ぶりくらいになるそうな。
この主君のあまりにも唐突な変化に、ムジカの大友家中は一時的に大混乱に陥った。本来はそれをしずめるべき道雪どのも微妙にあたふたしていたので、もしあの時にどこかから敵軍が攻めて来ていたら大変なことになっていたかもしれない。
「……それは、その、親次どののことが原因で、ということなのか?」
迷いつつも問いを重ねる紹運どのにうなずいてみせる。
「それも理由のひとつ、と仰っていました。他にもルイス――これは俺の知己である南蛮の少年なのですけど、そのルイスとも話をして、思うところがあったとのことで」
親次の件で思い悩んでいたところ、たまさかルイスと出会った宗麟さまは、ルイスがかつて尊敬していた宣教師の弟子であることを知った。
二人は色々と語り合ったとのことで、その時にルイスはこんなことを言ったらしい。
相手に信じてもらいたいのなら、信じてもらえるように努力しなければならない。それは決してたやすいことではないが、理解を望む側が望まれる側より多く努めるのは当然のことである、と。
「正確にはルイスではなく、トーレスという師の教えらしいですが」
それを聞いた紹運どのは、何かを思い起こすように目を細める。
「……トーレス。そうか、たしか菊姉さまが慕っておられた方がそんなお名前だったな。私も何度か姉さまと共にお話を聞かせていただいた」
姉さまほどには感銘を受けなかったが、と紹運どのは小さく肩をすくめた。病弱な姉の代わりを務めんと文武に励んでいた幼い紹運どのにとって、南蛮神教の教えはさして興味を引くものではなかったのだろう。
紹運どのは嘆息した。
「そうか……南蛮人の中にもそのように考える御仁がおられたのだな。いつからか、南蛮人、とくに宣教師というのは、皆があの布教長のような者ばかりと思うようになっていた」
「実際、ルイスやルイスの師のような人物はあちらでもめずらしい方々なのだと思います。薩摩のコエリョとやらも布教長の似姿であったようですし」
コエリョとカブラエルは敵対的な関係にあったそうだが、話を聞いたかぎり、実態は大同小異というところだろう。
ともあれ、今回の戦いで南蛮やカブラエルの本心を知った宗麟さまは、ルイスとの邂逅を経て他者に信じてもらえる努力をし始めたのだ、と俺は解釈していた。
もちろん、実際にはもっと複雑な心理的事情があったのだろう。ルイスとの会話はきっかけに過ぎず、それに先立つ多くの出来事があってこその変化だと思う。
しかし、二階崩れの変以後のことを人づてに聞いただけの俺ではそこまで洞察できない。俺にわかったのは、宗麟さまが変わろうとしていることだけであり――それがわかっただけで十分であった。
「ルイスが当然のようにわきまえていることをわきまえていなかった。それが結果として今日の事態を招いてしまった、と痛感なさったのだと思います」
「南蛮神教と袂を分かったというわけではないのだな?」
「服装を改めたといっても、それは当主として働いている間だけのことで、礼拝の時間などはこれまでどおり修道服を身につけて過ごしておられると聞きました」
それを聞いた紹運どのは、ほぅっと息を吐いた。
「――ご自身の信仰はそのままに。されど教えを広めるやり方は改めた、ということか」
「おそらく」
俺が望んでいたように、自身の信仰と当主の責務を明確に区別した、というわけではない。 皮肉な見方をすれば、カブラエルに向けられていた依存がルイスとその師であるトーレスに移っただけともいえる。
しかしながら、当主として他者への強制を改めた、という一事だけでも特筆に値する変化だった。今の宗麟さまは国としての南蛮に警戒心も抱いているわけだから、ムジカ建設の愚行を繰り返すこともないだろう。
大きな一歩、と形容するのはややためらわれる。だが、どれだけわずかな歩みであろうとも、これが大友家にとって前進であることだけは間違いない、と俺は思うのだ。
「まあ、すべてはこの戦いを切り抜けてからの話なんですけどね」
ここで大友家が滅びたらこれからも何もあったものではない。
俺の言葉に紹運どのは大きくうなずき、表情を武将としてのそれに切り替えた。
「そのとおりだな。聞くべきことは聞いた。早急に城を離れる準備にとりかかろう」
「お願いいたします。そろそろ竜造寺が占領した拠点に火を放つ頃合でしょう。宝満城に差し向けた者たちも、それを見てこちらにやってくるはずです」
今、宝満城を攻めている将の名を挙げると、大谷吉継、丸目長恵、上泉秀綱、問註所統景、尾山鑑速ということになる。
名前だけを見れば数千の軍勢でも指揮できそうな面子だが、実際に率いている兵は百数十。この寡兵で城に火を放てたのは流石だが、宝満城を守るのは高橋鑑種――長らく筑前を守ってきた歴戦の武将であり、いつまでも殴られっぱなしということはないだろう。
戦う時間が長引けば長引くほどに、こちらの兵力が少ないことに気づかれる可能性は高くなる。だから、吉継たちには頃合を見て引き上げるようにと命じていた。竜造寺軍が兵を退いたことを知ればこちらにやってくるだろう。
吉継たちと合流した後は、なるべく速やかに南に移動して筑後川を渡り、そこで道雪どのと合流する。その旨は竜造寺との交渉を終えた後で道雪どのに出した早馬で伝えておいた。
合流場所を筑前にしなかったのは、高橋鑑種や秋月種実に捕捉される危険を慮ってのことである。襲撃を受けたばかりの鑑種や、古処山にいる種実がそこまで素早く動けるとは思えなかったが、油断は禁物。拠るべき城もなく、戦いつかれた少数の兵で新たな敵と戦えば全滅の恐れもあった。
その後、紹運どのをはじめとした岩屋城で戦った将兵は柳河城に入ってもらい、俺たちは道雪どのと共に古処山城を攻める。
古処山の攻略方法は豊後の募兵状況によってかわってくるので、今のところは据え置いておこう――この時、俺はそんな風に考えていた。もちろん、募兵がうまくいった時といかなかった時、それぞれについて概略を固めた上でのことである。
だが、しかし。
それらの計画はその日のうちに大幅な修正を余儀なくされる。
なんと、宝満城を攻めていた吉継たちが、城を陥落させてしまったのである。
◆◆
「ご自分で命じておいて『陥落させてしまった』というのはおかしな話ではありませんか、お義父さま?」
「いや、まったくそのとおりなんだが、うん、偽らざる真情というやつでな」
宝満城から報告にやって来た吉継を前に、俺は困じ果てていた。
何の自慢にもならないが、突然の凶報というやつに関して俺はある程度耐性ができている。とつぜん竜造寺軍が矛をさかしまにして襲い掛かってきた、あるいは立花山城を攻めている毛利軍がいきなり姿を見せた、といわれてもここまで驚きはしなかっただろう。
対処できたか、と問われると口を噤まざるをえないが、むやみに慌てふためいたりはしなかったと断言できる。
一方で、予期せぬ吉報にどう対処するべきか、なんてまったくわからんかった。
というか、どうやって百をわずかに越す兵力で城を落としたんだ、君たちは。高橋家の方々が普通に絶句しているんですけど。
吉継が姿を見せたのは、俺と紹運どのが場所を軍議の間に移し、主だった武将たちを集め、これからの方針を説明しようとした、まさにその時だった。
一同を前にした吉継は、淡々とした調子で城を陥落させた経緯を口にしていく。
「はじめは、お義父さまのご命令どおり、城に火を放って退却しようとしたのですが――」
城攻めの兵力の内訳は、百が問註所の兵で、残りは宝満城から落ち延びた尾山鑑速の手勢である。
当然、地形や城のつくりに関しての情報は豊富にある。宝満城は堅城ではあるが、毛利軍に攻め落とされて間もないこともあり、間隙を縫って火を放つことは十分に可能である、と俺たちは判断した。
その判断に間違いはなく、寄せ手は城に火を放つことに成功した。だが、さあ兵を退こうという段階になって、吉継たちは一様に首を傾げたのだという。
「あまりに敵が脆すぎたのです。ほとんど抗戦らしい抗戦もせずに逃げ惑うばかりで、同士討ちさえ起こっていました」
戦乱から遠ざかっていた辺境の城に奇襲を仕掛けたわけではない。宝満城のすぐ近くでは連日連夜、大友と竜造寺が合戦を繰り広げており、それを目の当たりにしていた毛利軍が気を抜いていたはずはない。
いかに奇襲を食らったとはいえ、あまりに手ごたえがなさすぎる。
罠ではないか、という疑いが芽生えるのは当然のことであった。
ヘタに欲を出して踏み込めば殲滅される恐れがある。ここは予定どおり退却するべきである、と吉継は主張し、種速や統景も同意してくれたらしい。
ところが、である。
「……長恵どのが仰るのです。罠の匂いはない。これは千載一遇の好機です、と」
溜息まじりの吉継の言葉に、俺は何故だかその先の展開が予測できてしまった。
「……『罠があるかどうか、自分が踏み込んで確かめてみますので、姫さまたちは少しばかりここで待っていてください』とか、そんな感じか」
「一言一句そのとおりでした。見事なご推察です」
「……お目付け役はどうしてたんだ?」
「ご一緒に踏み込んでいかれました」
「おおう……」
なんという似た者師弟。ぜんぜん目付け役になってねーです。いや、口に出してそう頼んだわけではないのだけども。
まあ冷静に考えてみると、昔、関東で数にして五倍の敵部隊をほとんど一人で食い止めた御方なわけだし、機に臨んで変に応じるのは当然のことなのかもしれん。
吉継はもう一つ溜息を吐いてから、説明を続けた。
「その後のことは、特に語るまでもないかと思います。お二人によって城内の混乱は極まり、過日の戦いで降伏を余儀なくされていた方々も状況を察して蜂起されました。どうやら宝満城を攻めた部隊のほとんどは高橋鑑種どのの手勢であったようで、毛利の精鋭の姿はなく、大半の兵は逃げ去り、残った者も降伏いたしました」
「こちらの被害は?」
「戦死、もしくは戦えないほどの傷を負った者は十二名。それ以外に負傷した者は三十ほどです。返り忠した方々を含めれば、もっと増えますが」
「…………それを考慮にいれても、戦史に残りそうな圧勝だな」
城攻めした結果としては上出来すぎる。剣聖二人を投入したとはいえ、まさかここまでの戦果を挙げるとは。
そう思いつつ、しかし、俺は疑問を拭うことができなかった。
毛利の本隊がいなかったとはいえ、高橋鑑種の手勢とて雑兵ばかりだったわけではないだろう。曲がりなりにも一度は宝満城を落とした敵が、こうもあっさりとやられるというのは解せない。
その疑問を察したのか、あるいは話の流れにそってのことか、吉継はここで大友軍がこれまで知りえなかった情報を口にした。
「敵将の高橋鑑種どのは城にはおりませんでした。虜囚にした兵によれば、しばらく前に城を離れ、立花山城に向かった由。その後を任されたのが、先の戦で裏切りを働いた北原鎮久なる者でした」
吉継の口から北原鎮久の名前が出た途端、それまで黙って聞き入っていた高橋家の家臣たちの口から怒りの声があふれ出た。
敵に寝返り、さらには紹運どのを面と向かって痛罵した人物に対する率直な感情の現れだろう。
吉継が呆れ混じりに言葉を続ける。もちろん、その感情が向けられた相手は高橋家の家臣たちではない。
「この敵将が、戦の最中になんと酔いつぶれておりまして。城兵の動きが鈍かったのはそのせいでもあったのです。敵将は蜂起した者たちの手で捕らえられ、今は宝満城の一室に監禁しております」
「…………こちらとしては、もっけの幸いというべきか」
先刻、紹運どのから聞いた話が思い出される。
意気揚々と降伏勧告にやってきたというのに、紹運どのには言い負かされ、木下昌直には殴り倒され、なんら得るところなく宝満城に送り返された。これまでの進退が進退だけに、ただでさえ他の将兵から向けられる感情は穏やかならざるものがあっただろうに、そこにきて言い訳の余地もない失態である。
酒に手が伸びるのは自然のこと、というべきなのかもしれないが……
「なんか釈然としないな」
「同意いたします。敵将が切れ者であれば、こうまで事がうまく運ぶことはなかったでしょう。こちらの被害も増えていたはずです。その意味では敵が惰弱であったのは幸運だと考えるべきなのですが、どうせ戦うのならば尊敬できる相手が望ましいとも思ってしまいます」
吉継の言葉は過不足なく俺の気持ちを言い表していた。島津や竜造寺の面々とやりあった後だけに、なおさら敵の情けなさが際立ってしまう。もちろん、吉継がいったように今の戦況を考えれば願ってもない幸運ではあるのだが。
まあいい、と俺は軽く頬を叩いて考えを切り替えた。
済んでしまったことより、これから先のことを考えなければならない。
以前、道雪どのから聞いたところによれば、高橋鑑種は誾の父である一万田鑑相の実の弟であるとのことだった。
つまり、誾から見れば鑑種は実の叔父である。鑑種がこの段階で宝満城を空けて立花山城に向かったということは、誾に対して何がしかの働きかけをするつもりであると考えて間違いあるまい。
毛利に降った鑑種の働きかけが何かと考えれば、それはやはり毛利に降るように、ということ以外にないだろう。降伏勧告か、最後通牒か、いずれにせよ毛利軍が勝利に近づきつつあることは疑いない。
動かなければならなかった。迅速に、かつ効果的に。
現時点で宝満城という確固たる拠点を得られたことは、大友軍にとって非常に大きい。これで俺たちはこれまで以上に自由に兵を展開することができ、一方で毛利軍は兵の行動に大きな制限が課せられる。背後の竜造寺に関しても、その行動をある程度は掣肘することができるだろう。古処山城を攻めるに際しても、より効果的に動けるようになった。
問題があるとすれば、短期間で二度も落ちた宝満城が常の堅牢さを維持できるのかという点だが、そこは実際にこの目で確かめよう。
俺は頭の中でいくつかの作戦を組み立てながら、その場で立ち上がった。
◆◆◆
筑前国 立花表 毛利軍本陣
立花山城に攻め寄せた毛利軍は、その数三万とも四万ともいわれる大軍であった。
この大軍を率いるのは毛利宗家の跡継ぎである毛利隆元である。が、隆元は元来、陣頭の猛将ではなく、実戦部隊を指揮するのは隆元の妹 吉川元春の役目になっていた。
その元春が本陣に戻ってきたのは、日が西の彼方に沈んでしばらく経ってからのことである。
そこで元春はなにやら書き物に集中している隆元を見て、不思議そうに首を傾げることになる。
「姉上」
「…………」
「姉上、元春、ただいま戻りました」
「……………………」
いくら呼びかけても顔をあげず、熱心に手を動かし続ける姉を見て、元春は小さく嘆息した。
別段、城の大友軍に不審な動きがあったわけではない。何を書いているのかはしらないが、あえて姉の集中を乱す必要もないか、と思わないでもないのだが、いくら味方の本陣とはいえ、ここも戦場であるのは確かなのだ。完璧な安全などありえない以上、最低限の警戒心は持っていてもらわねばならない。
元春は軽く咳払いすると、さきほどよりも強めに呼びかけた。
「あ・ね・う・え!」
「ふひゃいッ!? ななな、何事ですか!? って、あれ、元春? いつのまにそこにいたの?」
「今しがた戻ってきたところです。何度かお声をかけたのですが」
「え、ほ、ほんとに? ごめんなさい、全然気づいてなかったよ」
「そうだと思いました。お気になさらず――と申し上げたいところなのですが」
元春はそこで言葉を切ると、表情を意識的に厳しいものにした。
「大友家も手段を選んでいられる戦況ではないことは承知しているでしょう。本陣の警備には特に気をつけておりますが、姉上ご自身も常に警戒は怠らないようになさってください」
元春が言うと、隆元は肩を縮めてこくりとうなずいた。
「うん、気をつけます」
「結構です。ところで、ずいぶんと集中なさっていたようですが、何を書いておられたのですか?」
元春は気になっていたことを問いかける。
郡山城の義母や傅役には先日手紙を出したばかりだし(元春は筆まめとは到底いえない性質なのだが、隆元にならって自分も書いた。書かされた、ともいう)、別方面に展開している隆景か、あるいは古処山城の種実に戦況報告をかねて文を送るつもりか、と元春は考えたのだが、隆元の答えは元春の予測とは異なっていた。
「ほら、以前、元春が陣中で太平記を書写して、広爺が感心してたことがあったでしょう? だから私もがんばって軍記物語を書写してみようかと思って」
「ほう。して、何を写しておられるのですか?」
隆元はいざという時は元春さえ顔色ないほどの勇猛さを発揮するが、基本的には文治の人である。太平記をはじめ軍記物語にさしたる関心を抱いてはいなかったはずだ。
その隆元が何を書写の対象に選んだのか、元春は興味をかきたてられた。
隆元は待っていましたとばかりに手元の書物に手を伸ばす。
「この前、博多津の島井宗室どのが持ってきてくれた本でね。元春みたいに強い女の人が主役なの。それで、その人が仕えている人がすっごく頭が良くて、でもちょっと格好悪かったりして面白いんだよ!」
「ほう?」
思い当たる書物がなく、元春は首をひねる。そんな妹を見て、隆元は言葉を付け加えた。
「ああ、元春が知らなくても仕方ないかも。実際に東国であったお話らしくて、まだあんまり出回ってないらしいから。宗室どのも京に行ったときに偶然手に入ったって言ってたよ」
「東国。坂東武者の話ですか」
「位置的に坂東からはちょっと外れているのかな? ええと、題名がね――」
隆元が件の書物を手にとり、書名を口にしようとする。
その寸前であった。
「申し上げます! 隆元さま、高橋鑑種さまがお見えですが、いかがいたしましょうか?」
陣幕の外からかけられた声に反応して、隆元の目に真剣な光がともる。
「高橋どのが? すぐにお通ししてください」
「は、かしこまりましたッ」
兵の足音が遠ざかっていくのを聞きながら、元春は呟くように言った。
「城中へ入る許可を得るためにお越しになったのでしょうな。よほど戸次飛騨を討たせたくないとみえます」
当初、毛利軍は敵将を立花道雪だと考えていたのだが、度重なる合戦にただの一度も道雪が姿を見せないことに不審を抱き、情報をかき集めた。結果、捕虜とした敵兵から道雪の不在と、戸次誾の存在を探り出すに至る。
大友家内部の情報については、かねてより毛利家と気脈を通じる者たちから聞き出しており、高橋鑑種と戸次誾の関係についても承知していた。
「ご令兄の忘れ形見なんだから、高橋どのが気にかけるのは当然だよ」
隆元の穏やかな言葉に、元春はうなずきで応じる。だが、次に発した声には刃の煌きが存在した。
「はい。ですが、戸次飛騨が意を決するまで、こちらが待たねばならない理由はありますまい。長期の攻囲は兵の士気にも関わってまいります。城の水の手を断って半月あまり、幸いにも雨は一度短く降っただけです。城中の渇きはそろそろ限界に達しているはず」
兵糧がどれだけ余っていようとも、人は水がなければ生きていけない。
毛利は領内に幾つもの鉱山を抱えている。元春はそちらから大量の金掘り人夫を動員し、山を削って水の手を断ったのである。
その後も城攻めの手は緩めず、昼夜を問わずに城へ押し寄せ、火矢を放ち、時にはみずから陣頭に立って猛攻を加えた。
大友軍はそれらの攻撃をことごとく防いでのけたが、火を消すにも、傷口を洗うにも、米を炊くにも水は必要である。激戦の後はそれだけ水が多く消費され、城兵は日を経るごとに渇きに苦しむことになった。
総攻撃の機は間もなくであろう、というのが元春の判断であり、それは隆元も了承するところであった。
「――これが最後の機会になるって、高橋どのに伝えないとね」
「御意」
元春は姉の言葉にうなずいた。
戸次飛騨が毛利に降るならばそれでよし。抗うならば、それもまたよし。いずれにせよ、大友家を滅ぼすという毛利の征路がかわることはないのだから。
元春はそんなことを考えながら、姉の傍らで高橋鑑種を待つのだった。