筑前国 立花表 毛利軍本陣
大友軍の使者 雲居筑前が訪れた際、毛利軍の中ではこれを受けて多少の悶着が起きた。
戦場で機会があれば、真っ先に毛利隆元を狙う――先の戦いで雲居がそう口にしたことを『毛利の両川』吉川元春と小早川隆景は克明に記憶しており、その雲居と隆元を対面させることを警戒したのである。
両川に警戒を強いたのは雲居の言動だけではない。
雲居が連れて来た二名の供を見た一部の兵士が、顔色を蒼白にして騒ぎ立てたのだ。あの二名こそ宝満城襲撃の先頭に立ち、お味方を斬って斬って斬りまくった猛者たちである、と。
『城を焼く炎に照らされ、舞うがごとくお味方を斬り散らす姿は夜叉に似て、しかもそれが二人。自分はただただ逃げまどうことしかできなかった』
宝満城から落ち延びてきた兵士のひとりは声を震わせて元春に注意を促した。
この兵士の話を聞いた元春は、当初、大げさに過ぎると内心で眉をしかめていた。戦で不覚をとった者が敵を称揚することで失態を取り繕おうとするのはめずらしいことではない。
しかし、元春の目から見ても兵の怯えは本物に見えた。多少形容が過剰であったとしても、件の供の者たちが宝満城攻めで奮戦したことは事実なのかもしれぬ。
考えをあらため、念のためにとみずからの目で確かめにいった元春は、兵の言葉が偽りではないことを知るに至る。
「夜叉かどうかはさておき、少なくとも私が一対一で勝てる相手ではないな。あの二人によって斬り倒された者は両手両足の指をつかっても数え切れぬ、と兵たちは言っていたが、なるほど、それくらいはやってのけるだろう。人品骨柄も卑しからぬ。今の大友にあのような人傑がいるとは思わなかった」
本陣に戻ってきた元春が姉妹に報告すると、妹の方が噛み付いてきた。
「何をのんびり感心しているのさ!? 春姉が勝てないってことは、家中に勝てる人がいないってことだよ。機会があれば隆姉を狙うって言ってた奴がそれだけの手練を二人も連れて来た。どう考えたって危険でしょッ!」
「むろん危険だ。会う会わないは姉上のご判断次第だが、会うにしても供の者は遠ざけ、雲居のみを招くべきだな。むろん腰の大小はとりあげて、だ」
かつて元春と隆景が大友軍を訪れた際、敵将である道雪は二人の大小を取り上げずに本陣に招き入れた。そのことを思えば、これはいささかならず情けない物言いである。元春はそのことを重々承知していたが、たとえ毛利の威厳に傷がつこうとも、ここは慎重に事を処す必要があると考えた。
相手は仮にも九国探題の使い、交渉の席で無謀な行いをするとは思えないが、もしもここで隆元を失えば、この合戦はもちろんのこと、毛利家そのものが暗雲に包まれてしまう。念には念を入れるべきであった。
隆景もまた元春と同じ憂いを共有していたが、隆景の出した結論は元春よりもさらに徹底していた。
そもそも大友家の使者と会う必要などない、と隆景は主張したのである。
「どうせ戦うしかない相手なんだし、変に耳を貸したりしないで一気に叩き潰すべきだと思う。使者をとらえたり、討ち取ったりすれば、それは毛利の恥になるけど、追い返す分には何の問題もないでしょ。『当方は南蛮の言葉など解さぬゆえ、お引取り願おう』とか言えば、皮肉もきいてて良い感じじゃない?」
隆景の本音をいえば、隆元を狙うと宣言した相手なぞここでまとめてひっとらえるか、いっそ数に任せて(鉄砲でも可)鏖殺してしまいたいところである。
だが、さすがにそれは外聞が悪すぎる。現在、毛利に従っている国人衆の間に動揺がうまれるだろうし、これから先の統治にも悪しき影響を及ぼしてしまう。
ゆえにそこまではしないが、だからといってここで隆元を危険に晒す必要もない。
さっさと追い返すにしかず、と隆景が主張する所以であった。
元春と隆景の主張はそれぞれに理があった。普段の隆元ならばどちらかの意見を採ったであろうし、たとえ二人と異なる決断を下すにしても、二人の意見を等閑にすることはなかっただろう。
むろん、この時も隆元は二人をないがしろにしたわけではない。真剣に二人の話を聞いたし、内容もうなずけるものばかりと感じていた。
だが、結論だけを見れば、隆元は妹たちの意見を真正面から蹴飛ばした格好になる。
すなわち、雲居と供の者たちを本陣に招き入れるように。武装もそのままでよし。それが隆元の出した結論だったのである。
さすがにこれは予測できなかったのか、元春も隆景も唖然とした。
隆景は大慌てで反対を唱え、元春は慌てこそしなかったが姉に再考を促した。が、隆元は頑としてうなずかない。二人に理由を訊ねられた隆元は、次のように応じた。
「私が知りたいのは、今、大友の軍略を司っている人が南蛮のことをどう考えているのか、そこなんだ。雲居どのがその人なのかはわからないけど、今ここで姿を見せたってことは、たとえ彼自身がそうではないとしても、大友軍の中心にとても近いところにいる人なんだと思う。だから、どうしても話を聞きたい。もっといえば、腹を割ってお話がしたい。武士から刀を取り上げるなんて手足を縛りつけるようなもので、手足を縛り付けておいて『腹を割って話しましょう』なんていっても笑われるだけでしょう?」
たしかに危険はあるけど、でも大丈夫。こう見えてもあなたたちのお姉ちゃんなんだから。
隆元はそういって、妹たちの不安を払うように笑いかけたのである。
◆◆
隆元さまがお会いになる。
毛利兵からそう伝えられた俺はおもわず首をひねってしまった。
「ひと悶着あるものと覚悟してたんだけどな」
九国に侵攻してきた毛利軍の総大将は毛利隆元。そして、俺はその隆元を毛利家中でもっとも危険視している旨を両川に言明してしまっている。
その俺が使者として訪れたのである。最悪、門前払いされる可能性さえあった。というか、俺が毛利軍にいたら間違いなくそうするよう主張していただろう。
しかし、現実は予測とは正反対。多少待たされたのは確かだが、それも四半刻程度のことで、現在の大友と毛利の関係を考えればほぼ即決といってよい早さで俺は本陣に招きいれられた。秀綱どのと長恵も一緒で、しかも腰の刀はそのままいいという破格の扱いである。
毛利軍には宝満城から落ち延びた兵もいるはずで、二人のことは伝わっているはずだ。それでなくても、多少なりと腕に覚えがある者であれば、この二人の腕前は容易に推し量ることができるだろう。
にも関わらず、この扱い。
「豪胆なのですね、毛利の方々は」
秀綱どのの囁きに俺は深くうなずく。まったくもって同感であった。
九国に来てからの秀綱どのは俺のやることに口を差し挟まず、頼んだことはほぼ無条件ですぐに受け容れてくれた。
その秀綱どのがはじめて希望を口にしたのが今回の同行である。
実を言うと、俺ははじめから秀綱どのに同行を頼むつもりだった。毛利との交渉では京とのやりとりを証し立てる必要が出てくるかもしれず、その証人として秀綱どの以上の人はいないからである。
ただ、前述したように俺は間違いなく毛利軍――なかんずく両川に敵視されているはずなので、今回の使いが危険であることは言をまたない。そのため、俺は秀綱どのにどう切り出したものかと頭を悩ませていた。断られるかもしれないと案じたのではない。その逆だからこそ、かえって頼みづらかったのだ。
あにはからんや、向こうから同行を望んでくれるとは。
――秀綱どののことだから、もしかしたら俺が考えていることを察した上でそうしてくれたのかもしれない。
以前、稽古をつけてもらったこともあり、謙信さまや政景さまとは違った意味で秀綱どのに頭があがらない俺だが、今後、ますますその傾向に拍車がかかりそうな気がする今日このごろである。
と、俺がそんなことを考えているすぐ後ろでは、長恵が楽しげに師の言葉にうなずいていた。
「噂にたがわず、というところですか。楽しみなことです」
世評に名高い毛利一族の顔を見られるとあって長恵は嬉しそうである。周囲ことごとくこれ敵兵なり、という状況でニコニコしている長恵は、きっと毛利一族とおなじくらい豪胆であろう。
そういえば、と俺は以前長恵から聞いた話を思い出す。
島津家久に敗れた長恵は、当初は毛利家に参じるつもりであったという。先の筑前での戦の趨勢を見て考えを改めたそうだが、これから行く先に長恵が待ち構えているという未来もありえたわけで、それを思うと不思議な気分になる。
まあ長恵がいなければ、今日この場に俺が立っていられたかどうかも怪しいので、その意味では無意味な仮定であるわけだが。
そうこうしている間に俺たちは目的の陣幕にたどり着いた。
俺たちの到着を告げる声に応じて「お通ししてください」という声が返ってくる。
力みのない、穏やかな声。それでいて、しっかりとした芯が感じ取れる。俺は両川の声を知っているのだが、ふたりのいずれでもない。となると、これが毛利隆元の声か。
そんなことを考えながら、俺は陣幕の中に足を踏み入れた。
◆◆
陣幕の中は驚くほど静かだった。
というのも、毛利側には三姉妹と警護の兵以外、ほとんど人がいなかったからである。毛利の諸将や国人衆がずらりと居並んでいるところを想像していた俺にとっては、やや予想外の光景だった。待たされた時間は諸将の召集に要したものかとも思ったが、どうやらそういうわけではなかったらしい。
ざっと周囲に観察の視線をはしらせた俺は、視線を陣幕の中央に向ける。
そこに座すのは吉川元春と小早川隆景の両名。
豊後方面に展開しているはずの隆景がどうしてここにいるのか、と俺は疑問に思ったが、すぐにその疑問を振り払って最後のひとりに注目した。
――失礼を承知で忌憚のないところを言わせてもらうと、隆元に対する俺の第一印象は、なんか地味な人だな、というものだった。
これは隆元への軽侮が招いた感想ではない。
俺は元の時代の知識や、これまで見聞きした毛利家の動静から、隆元に関しては元就と同じか、それ以上に注意を要する人物だと考えている。
だが、そんな俺の目から見ても、この三姉妹が並べば妹たちに目を向けざるを得ない。
元春からは衆を圧する威厳が感じられる。
隆景からは腹の底まで見透かされそうな怜悧な視線が注がれている。
この二人と並べば、隆元は明らかに影が薄かった。牡丹と百合とタンポポが並んで咲いていれば、大抵の人は牡丹か百合に目を引かれるのではあるまいか。
ただ、上記の感想はあくまでもぱっと見の第一印象である。
あらためてよく見れば、隆元もまた一個の人物であることは明らかだった。
長く艶やかな髪、形良く整った目鼻立ちに桜色の唇。優しげな顔立ちとあいまって、綺麗、美しいという表現よりも可愛いという方がしっくりくる。
長女ということを考えると隆元としては微妙な評価かもしれないが、とにかく器量良しであることは間違いない。
そして、此方を見据える眼差し。
元春や隆景のような鋭さは感じられない。かわりにあるのは落ち着きと、それを支える意志の強さだった。
温和な人ではあるだろう。だが、決して温和なだけの人ではないと、そう感じられる。たぶん、この人は必要とあらば陣頭に立つことも、策略で敵を陥れることもためらうまい。落ち着いた物腰の奥に、誰にも譲り得ぬ堅い意志を垣間見ることができた。
その隆元の口がゆっくりと開かれ、さきほど耳にした声音が再び耳朶を震わせる。
「お初にお目にかかります。私は毛利隆元と申します」
簡潔な挨拶はこちらに対する警戒心のあらわれか、それとも単にそういう性格の人なのか。
ぺこりと頭を下げる隆元を見るに疑いなく後者であるような気がするが、ともあれ俺も隆元にならって頭を垂れた。
「お目にかかれて嬉しく思います、隆元さま。大友家臣、雲居筑前と申します」
言い終えて顔をあげると、こちらをじぃっと見つめる隆元の視線とぶつかった。
敵意は感じない。かといって、好意的なものではもちろんない。何かを見極めようとしている眼差しだと思えた。
しばし見詰め合う形となった俺と隆元。
すると、隆景がなにやら唸るような咳払いの音を響かせた。
「うー、げふんげふん! ぼくと春姉の紹介は必要ないよねって言いたいところだけど、はじめて見る顔もあることだし、一応はしておくよ。ぼくは毛利家三女、小早川家当主 隆景。以後よろしく」
「同じく、毛利家次女、吉川家当主の元春だ。よしなに」
毛利家の次女と三女はそういうと、黙ってこちらを見やる。
秀綱どのと長恵の紹介を求められているのは明らかであり、こちらがそれを拒む理由はなかった。ここまで礼をもって接してくる相手に非礼で返すのは心苦しい。どの道、交渉の進み具合によってはこちらから口にする予定だったことだし。
俺がうなずくと、はじめに口を開いたのは秀綱どのの方だった。
「上泉秀綱と申します。わけあって大友家に助力しています」
「丸目長恵。お師様と同じく大友家に助力している身です」
秀綱どのに続いて長恵も簡潔に自分の名を口にする。
この剣聖ふたりの言葉に対し、返って来た反応は『無』であった。
たぶん出てきた名前があまりにも予想外すぎて、驚きを通り越して呆然としてしまったのだろうと思われる。
もし今の段階で毛利家から塚原卜伝や伊藤一刀斎が出てきたら、俺も似たような反応をしてしまうだろう。それを思うと、三姉妹の反応を笑う気にはなれなかった。
やがて、隆景の口から奇妙に平静な声が押し出された。
「……ぼくの記憶が確かなら、二人とも大層な異名を持つ剣士だったと思うけど。丸目どのは大友に近しい相良の家臣だからわからないでもないけど、上泉どのはどうして九国にいて、しかも大友にくみしているの?」
「必要とあらば申し上げますが、今はまだその時ではないと心得ます」
すべては使いの口上を聞いてからのことにしていただきたい。秀綱どのが言わんとするところを悟ったのだろう、隆景は不承不承うなずいた。話している間に常の調子が戻ってきたようで、隆景の声や表情に張りが戻りつつある。
その傍らでは、こちらも調子を取り戻したらしい元春が、やけにしみじみとした様子で嘆息していた。
「タダ者ではないと思っていたが、まさか剣聖であったとは。宝満城が落ちたのもやむなしか。問題はすべてを承知した上での助力なのか否か、というところだが――」
そういって元春は姉に視線を向ける。
その視線の先では、隆元が凝然と、あたかも彫像か塑像であるかのように固まっていた。
それほど秀綱どのたちの名乗りに驚いたのだろう――と思うのだが、奇妙なことに隆元の視線は秀綱どのでも長恵でもなく、俺の顔に据えられている。
それこそ顔に穴があいてしまいそうなほど見つめられ、俺は戸惑わざるをえなかった。
「隆元さま?」
怪訝に思った俺の呼びかけを受け、隆元はハッと我に返ったようだった。
「――あ!? す、すみません。不躾なことをしてしまいましたッ」
「いえ、別にかまわないのですが……」
隆元の態度が気にならないといえば嘘になる。だが、俺は追求できる立場ではないし、そもそもそんなことをしている時間もなかった。
俺が毛利軍にやってきたことからもわかるように、道雪どのの軍勢はすでに宝満城に到着している。
俺は道雪どのに預かっていた雷切を返し、自分の策を説明して後のことを委ねた。このとき、吉継を道雪どのの傍に残したのは俺の代理としてである。今の吉継であれば、俺がいなくても俺の考えを理解して適切な進言ができると考えてのことであった。
吉継自身は俺との同道を望んだのだが、今回の使いはこれまで以上の危険が予想された。毛利軍に捕らえられ、陣中を斬り破るようなことも起こりえる。その際、吉継の腕では足手まといになってしまう。
こちらには剣聖がついているが、ただでさえ俺という足手まといがいるのだ。このうえ吉継もかばわねばならないとなると、いかにも苦しい。そんなわけで吉継は城に残ってもらうことにしたのである。
これとほぼ時を同じくして、宝満城に豊後からの使者が到着した。
この書状の主は朽網鑑康(くたみ あきやす)という人物で、もともと古処山城を預かっていた老練な武将である。
先に高橋鑑種の手で宝満城が陥落した際、鑑康は古処山城に篭城しては敵の攻勢を支えきれないと判断し、城を放棄して豊後に退却した。それ以後、鑑康は国境で秋月家をはじめとする筑前国人衆の豊後侵攻に備えてきたのだが、今回、宗麟さまの命を受け、援軍の第一陣として三千の兵を率いて筑前に再入国したのである。
この三千という数は、もともとの鑑康の手勢一千に、毛利の別働隊と対峙している『豊後三老』吉岡長増、吉弘鑑理らが苦心して割いた二千の兵力を加えたものだった。
率直にいうと、三千という数は援軍として少なすぎる。最低でもあと五千はほしいところだが贅沢はいっていられなかった。
豊後は毛利軍の直接的な圧力をうけており、さらに奈多家と田原家を中心とした反抗勢力の説得に手間取っているようで、今のところはこれが精一杯であるとのこと。よって、俺たちは今いる兵力だけで戦況を覆さねばならない。その意味でも今回の交渉は非常に重要だった。
立花山城にたてこもっている立花勢は五千あまり。これが加われば、大友軍の兵力は一気に倍増する計算になる。もちろん激しい篭城戦を経ている以上、即座にすべての兵を戦いに投入できるはずもないが、たとえ半分であっても貴重な戦力だ。特に鎮幸や惟信をはじめとした道雪どのの股肱が加わるのは数以上の力になる。もちろん誾もそのひとりである。
「隆元さまに申し上げます」
俺は居住まいを改めると、隆元に向かって立花山城と古処山城の交換を持ちかけた。
これに伴い、すでに相応の数の大友軍が古処山に集結していること、先の古処山城主であった朽網鑑康がその軍勢に加わっていることも付け加えておく。
まあ相応といったって実態は道雪どのと朽網鑑康のそれをあわせて五千程度、しかも鑑康と彼の手勢はまだ国境付近にいるわけだが、それは正直にいう必要もないことだった。
俺の威迫まじりの提案を聞き、吉川、小早川の両当主は一様に厳しい表情になる。
毛利家にとって――というより、毛利の三姉妹にとって、秋月種実の身命が秋月家の当主以上の価値を持っていることは、先の戦いの顛末を見れば明らかである。そこを突かれたのだから、彼女らが顔色を変えたのは当然のことであろう。
とはいえ、極端な話、毛利軍が兵を二分して、その一方をこちらに叩きつけてきたら古処山城の包囲は簡単に解かれてしまう。向こうも大友軍の全貌をつかめていないはずだから、そこまで思い切った手は打たないと思うが、種実を救うために博打に出る可能性はゼロではない。
情報に優る俺たちと、戦力に優る毛利家。
ここから両者の長い長い駆け引きが始まるものと俺は考えていた。
だが、しかし。
「わかりました。その提案、お受けします」
眼前で毛利隆元が実にあっさりと首を縦に振る。
俺は思わず目を瞠った。この承諾を得るためにここまでやってきたとはいえ、まさか隆元が一考にも及ばず即断してくるとはさすがに予想していなかった。
そして、そんな俺と同じか、あるいはそれ以上に驚いたのが隆元の妹たちである。
「ちょ、隆姉!? そんなあっさり決めちゃっていいの!?」
「姉上のご判断であれば従いますが……事を決するのは、今すこし話を聞いてからでもよろしいのではありますまいか。これ以上の流血なしに立花山城を得ることができ、さらに種実の身命を救い得る。こちらにとっては願ったりといえますが、大友には大友の思惑がありましょう。まことに大友軍が古処山城を包囲しているかどうかも定かではありませぬ」
そういいながら、元春がじろりと俺を一瞥する。
さすがはかつて俺の演技を見破っただけのことはある。こちらのハッタリは早くも見抜かれてしまったらしい。
まあ道雪どのが古処山城に赴いているのは事実だからして、一から十まですべて虚偽というわけではない。その分、俺の動揺も以前よりは少なくて済んだ。
隆元は妹たちの言葉にうなずいたが、自分の意見を翻そうとはしなかった。。
「元春と隆景のいうこともわかるんだけど、ここはわたしに任せてもらえないかな?」
姉の言葉に妹たちは顔を見合わせる。
たぶん二人は、隆元が種実を案じるあまり決断を急いだのではないか、と案じたのだろう。しかし、隆元を見るかぎり、そんな気配はつゆ感じられない。
隆元がしっかりとした思慮にもとづいて判断したことなら、あえて反対を唱えるつもりはない。姉の言葉にこくりとうなずく元春と隆景からは、そんな信頼が確かに感じられた。
「今も申し上げましたように、姉上のご判断であれば従います」
「もちろんぼくも」
「ありがとう、二人とも」
隆元は妹たちに笑いかけた後、あらためて俺に向けて口を開いた。
「改めまして、雲居筑前どの。この隆元、ただいま貴殿が仰った大友家からの申し出をお受けしたいと思います。ただ、その前に一つ――いえ、二つ、貴殿にお訊ねしたいことがあるのです」
唐突な隆元の言葉を怪訝に思ったが、この場でうなずく以外の選択肢が俺にあるはずもない。
「それがしが答えられることでしたら、なんなりと」
「ありがとうございます。それではお訊ねしますが――」
隆元の背筋がすっと伸びる。その目に浮かぶ硬質の光を見て、俺は無意識のうちに姿勢を正していた。何故だかわからないが、今の隆元を前に気を抜いているのはまずい、と直感したのである。
隆元は明晰な口調で話し始めた。
「この場に妹の隆景がいることから、すでに予測はしていらっしゃるかもしれませんが、私たちは大友家と島津家が勅使によって講和した旨、すでに聞き知っています。ですが、知っているのは講和したという事実のみ。その詳細はまだ掴むには至っていません。そこで雲居どのにお訊ねしたいのです。勅使はどなたがいらっしゃったのですか?」
その隆元の問いは、俺のみならず元春と隆景の予測も外していたらしい。
俺たちは期せずして同時に怪訝そうな表情を浮かべたが、隆元の表情はかわらなかった。
「大友宗麟どの、島津義久どの、いずれも他国にまで名の轟く方々です。いかに講和が公方さまのご意向であったとはいえ、書状のひとつやふたつ届いた程度で矛をおさめたりはなさらなかったでしょう。公方さまの意を受けた御使者が両家の言い分を聞き、その上で調停なさったからこそ講和は成ったのだと私は考えています」
隆元はそう言うと、視線を俺から秀綱どのに移した。
「ここからは伝聞をもとにした私の想像になりますが――剣聖として名高い上泉どのは遠く坂東の将であったはず。その方が何故か九国の地にいて『わけあって』大友家に助力しているといいます。丸目どのはさきほど上泉どのを指して『お師様』と呼んでいましたから、主家の命令で大友に助力する丸目どのを助けるため、上泉どのもこの戦いに参じた。そう考えれば、一応の辻褄は合うでしょう」
ですが、と隆元はさらに続けた。
「これでは坂東で主を持っている上泉どのが九国にいることの説明ができません。今が戦乱の世でなければ物見遊山の旅もできましょうが、残念ながら今の日ノ本はそうではありません。わけても九国は激戦の地。上泉どのがたまさかそこを訪れ、たまさか苦難に直面していた丸目どのを助けようとした、というのはいささか奇異に映ります。丸目どのにしたところで、島津家の勢力伸張にともない、今、主家の相良家は大変な状況にあるはずです。私が相良家の当主であれば、この戦況で天下に聞こえた名刀を他家に貸したりはいたしません」
隆元の言葉を聞くにつれ、俺の中では警戒心がぐんぐんと高まっていく。
どうしてこの状況で勅使の名を訊こうとするのか。秀綱どのと長恵がこの場にいる理由を解き明かそうとしているのはどうしてなのか。
俺には隆元が何を言わんとしているかがまったくわからなかった。
そんな俺にかまわず、隆元はさらに推測を連ねていく。
「上泉さまがいつごろ九国の地を踏まれたのかはわかりませんが、これまで名を聞かなかったことを考えると、まださして日は経っていないと推測できます。先の筑前での戦よりも後、此度の戦が始まるよりも前……いえ、それならばもっと早くに噂のひとつも聞こえてきたはずです。となると戦の最中、おそらく豊後に勅使の噂が広がり始めた頃だと考えられます。勅使と剣聖、東方からのまれびとが時期を同じくして九国の地を踏みしめる。この二つの出来事を結びつけるのは私の早計なのでしょうか?」
隆元の言葉は問いかけの形をとっていたが、それは他者に答えを求めてのことではなく、自分の考えを整理するためのものであったらしい。
隆元は自分の問いに自分で応じた。
「そうなのかもしれません。しかし、上泉どのと丸目どのは共に公方さまの御前で剣技を披露したことがあると聞いています。そして剣聖としての令名は安芸の山城にまで届くほど天下に響き渡っている。勅使といえど身の安全は保証されない世の中ですが、剣聖と称えられた方であれば、戦乱のただ中にある九国の地に赴いても無事に戻ってこられることでしょう。以上のことから、公方さまが『大友家を救う』という大任を上泉どのに授けることは十分にありえることだと考えられます。公方さまの命令とあらば、上泉どののご主君も否とは言えないでしょうし――」
ここで、不意に隆元が苦笑した。
「公方さまのご意向に従わなかった私が言っても、あまり説得力はないと思いますけど――それはともかく、今も言ったように私は勅使とは上泉どのご自身ではないのか、と考えました。けれど、上泉どのが勅使であるのなら、供としてこの場に現れる理由がありません。勅使は公方さまに復命する義務があります。その義務を持っている方が、危険であることは言をまたず、交渉事に口を出す権限も持たない役割を自らに課すはずがありませんから。そうすると、考えられるのはひとつだけです。上泉どのは勅使ととても近しい関係にあり、その方を守る役割を担っている。そう考えれば、不審に思える様々なことに説明をつけることができるのです」
そういうと、隆元は静かに俺と視線をあわせてきた。
今、秀綱どのが守っている俺を。
「雲居筑前どの。教えていただけますか、勅使の御名を」
◆◆
その時、俺の背筋に走った感覚を何と呼べばいいのだろう。
おそらく、もっとも正確な表現は悪寒――ではなく、違和感、だろうか。
なんというか、俺には隆元の洞察力がちょっと異常に思えたのだ。先刻からの話の運び方を見るに、最初に結論があり、そこにいたるために言葉を積み重ねているように思えてならない。
おそらく、隆元はとうに勅使の名を知っている、もしくは推測している。その上で俺と勅使の関係を疑っているのではないかと感じられた。
隆元に俺の正体を暴かれること自体は、正直たいした問題ではない。
そもそも勅使が天城颯馬であることは別段隠し事でもなんでもなく、隠すべきは天城颯馬=雲居筑前という関係性のみ。そして、今となってはこれとて絶対の秘事ではなくなっている。
なにしろ大友家と島津家の上層部はほぼ全員がこのことを知っているのだ。今さら毛利軍がこれを突き止めて騒ぎ立てたところで、俺が大友家を追放されることも、大友と島津の講和が台無しになることもないだろう。
俺が気になったのは、俺や秀綱どの、それに長恵と今日はじめて顔をあわせた隆元が、どうしてここまで鋭い洞察ができるのかという点だった。
たしかに四方の情勢を把握していれば気づける点も多いが、しかしそれにしたって推測を組み立てるのが早すぎる。実は眼前の人物、毛利隆元ではなく毛利元就だったりしないだろうな?
半ば本気でそんな疑念を抱きつつ、俺は口を開いた。
前述したように、勅使の名前自体は別に隠しているわけではない。
「勅使の名前は天城颯馬さまです」
自分の名前に様を付ける羞恥に内心でもだえそうになる。
だが、隆元の呟きがそんな羞恥を一瞬で押し流した。
「今正成 天城筑前。越後の瑞雲、天の御遣い……やはり、そうでしたか」
「やはり? いや、それより今のは……」
なにそのこっぱずかしい称号の数々。まあ、今正成も瑞雲も天の御遣いも知ってはいたけど、並べると破壊力がとんでもないことになるのは今はじめて知った。
いや、それ以前にどうして隆元がそんなことまで知っているんだ?
秀綱どののことを話していた時も少し思ったが、東国の事情に詳しすぎないか、この人?
そんな疑問が頭をよぎったが、今のところ俺=天城颯馬と判明したわけではないので、へたに問いただすとやぶへびになる恐れがある。
それに、はじめに隆元はこう言った。
二つ、訊ねたいことがある、と。
勅使の名がそのひとつだとすると、もうひとつは何なのか。
そんな俺の心を読んだわけでもないだろうが、続けて隆元はこう言った。
穏やかに、それでいて強い意志を感じさせる声で。
「おしえてください、貴殿が大友家の行く末に何を見ているのかを。雲居――いえ、たぶん、天城颯馬どの」