筑前国 立花表 毛利軍本陣
「おしえてください。貴殿が大友家の行く末に何を見ているのかを。雲居――いえ、たぶん、天城颯馬どの」
隆元が口にした言葉を理解するまで少しだけ時間がかかった。
理解した後は、どう答えるかを決めるまでさらに時間がかかった。
いましがたの隆元の台詞(今正成、越後の瑞雲)からして、向こうは天城颯馬が上杉家に仕えていたことは知っていると考えられる。
くわえて、天の御遣いという言葉も知っているなら天城颯馬が越後から姿を消したことも知っているはずだ。あれは俺がいなくなった後に広がったものだから。
ということは、ここで俺が天城颯馬であると認めてしまうと、俺が自分の意思で越後を出て、てくてく歩いて九国に渡り、名をかえて何年も大友家に仕えていた、という解釈が成立してしまう。というか、傍から見ればそれ以外に考えようがない。
実際は越後から離れたのも、九国に放り込まれた(?)のも俺の意思とは関係ないわけだが、それは口にしても信じてもらえないだろうし、俺としても言うつもりはない。
しかし、俺が口を緘しても向こうは問いただしてくるに違いない。俺が九国で隠棲していたならともかく、大友家に助力して何度も毛利家の前にたちはだかった。くわえて、今回の戦いでは謙信さまが動いてくださり、俺に勅使としての立場を与えてくれた。
どうして越後の人間がそこまで大友家のために尽くすのか。上杉家の目的は何なのか。これらを追求されるのは不可避といえる。
この二つを問われたとき、俺はなんと答えればいいのか。
俺が九国に来たのはただの偶然であり、そこで縁を結んだ人たちのために大友家に力を貸し、その過程で南蛮の野心に気づいてこれを退けるために働き、そんな俺の行動を詳しく知らなかった謙信さまは、それでも俺を信じて遠くから手を差し伸べてくれました――――なんだろう、一つも嘘はついていないはずなのに、どうしようもなく漂ってくるこの胡散臭さは。
越後上杉家にあって従五位下筑前守に任じられた天城颯馬である、と認めてしまった後でこれを口にしても毛利家は絶対に信じないだろう。何か口にはできない秘めた目的がある、と疑われるに決まっている。そんな怪しげな人物が持ち込んだ交渉を承諾する気も失せてしまうに違いない。
それは避けなければならない。
では、天城颯馬であることを否定するか。
これは難しいことではない。雲居筑前と天城颯馬が同一人物であると証明できる人は秀綱どのしかおらず、俺が隆元に否定すれば秀綱どのも追随してくれるだろう。
ただ、気になるのは隆元がなにやら確信を持っているらしいことだ。天城颯馬についての知識もある様子だし、ここで俺が否定してもはいそうですかと納得してはくれないかもしれない。
証明のしようはないから、隆元の追求をすっとぼけることはできる。だが、隆元がそんな俺に欺瞞を見るようであれば、やはり交渉は打ち切りとなってしまうだろう。
先刻、城交換を承諾する際に隆元は言った。『その前に一つ――いえ、二つ、貴殿にお訊ねしたいことがあるのです』と。お訊ねしたい、という言葉の中に「正直に答えてくれれば」という条件が含まれると考えるのは当然のことであった。
とつおいつ考えるに俺が天城颯馬であることは肯定も否定もできかねる。いっそ南蛮の動きを警戒した謙信さまの命令で大友家にやってきました、とか言った方が理解が得られるかもしれない。こうしておけば島津家での行動もある程度は説得力をもたせることができる。
しかし、急ごしらえの嘘をついて、それがバレたら大変だ。その後であわてて言い繕おうとしても相手にされないだろう。つい先刻、吉川元春にハッタリを見抜かれたばかりの身としては、そんな危険を冒す気にはなれなかった。
(さて、どうしたものか)
冷静に考えてみれば、隆元の質問の主題は俺が大友家の将来に何を見ているかであって、俺が天城颯馬か否かというのは、いわば三つ目の疑問である。訊きたいことが二つあるといったのは向こうだからして、ここで天城颯馬という呼びかけに確たる反応を返さなかったからといって文句を言われる筋合いはない。
ないのだが――うん、面倒事を後まわしにしてもろくなことにはならんだろう。
俺は覚悟を決めた。
「――承知しました。それがしの考えについて申し上げます。ただその前にひとつ、隆元さまにお伺いしたい」
俺の問いかけに隆元はわずかに首をかしげた。
「なんでしょうか?」
「仰るとおり、それがしの本当の名前は天城颯馬です。しかし、それを知る者は大友家の中でもごくひとにぎりしかおりません。いかに貴家が諜報に長けていようと探り出せるものではないはずです。にも関わらず、隆元さまはあらかじめそれがしの正体の見当をつけていたように見受けられます。何故おわかりになりました?」
訊ねつつ、俺が視線を向けたのは隆元ではなく、元春と隆景の方だった。
二人は俺が天城颯馬であると認めるや、警戒をあらわにする――ことはなかった。どちらかといえば戸惑っている様子である。天城颯馬が何者であるかを知っていれば、こんな反応はしないだろう。
うむ、これが普通の反応だよな、と俺は内心でうなずいた。
安芸は九国よりも京、越後に近いとはいえ、所詮は遠国の臣の話である。俺の名も、事績も、そうそう知っているはずがない。
こうなると、ますます隆元の知識の出所が気になってくる。
そう思って隆元を見ると、毛利家の後継者は小さくかぶりを振って応じた。
「妹たちから、先の戦で雲居どのが果たしたであろう役割については聞いていました。その才知に警戒もしました。けれど、あらかじめわかっていた、なんてことはありません。私が確信したのは、今日この場であなたと顔をあわせてからです。もっといえば、上泉秀綱どののお名前を知った時です」
「秀綱どのの?」
「時を同じくして九国の地にやってきた剣聖と勅使。その剣聖を従えてあらわれたあなた。私は越後上杉家と将軍家に深いつながりがあることを知っています。上泉どのが上杉家に属していることも、天城颯馬どのと交誼を持っていることも知っています。そのことに、妹たちから聞いたあなたの智略が重なったとき、もしかして、と思いました」
そういったあと、隆元はくすりと微笑んだ。
「そう思ってあらためて見れば、雲居筑前どの――その名前はあまりにも天城颯馬どのを想起させます。なぜ越後の臣であるあなたが九国にいて、大友家に仕えているのかはわかりません。上杉家と大友家の繋がりについては、なおのことさっぱりわかりません。ですが、たとえば今回の勅使の件はこう考えることができます。上杉家には大友家を救う義理はなくとも天城どのを助ける理由はあった。将軍家には天城どのを助ける義理はなくとも大友家を救いたい理由はあった。そんな両家の思惑が重なった結果、上泉どのが九国に遣わされることになったのでは、と」
あくまで想像ですけどね、と隆元は恥ずかしげにいう。
その仕草は普通に可愛らしかったが、俺にそれを愛でている余裕があるはずもなかった。
ただの想像でここまで真実に肉薄されてはたまったものではない。笑うとほんわかした雰囲気が漂う人だが、もしやあれか、松永久秀の同類か、この人?
すべて承知した上で、たおやかに笑いながらこちらの弱いところをゲシゲシ蹴ってくる、みたいな。
俺は動揺が顔に出ないよう注意しつつ、慎重に口を開いた。
「隆元さまは、どうしてそれほど東国の事情に通じておいでなのですか? 上杉家と将軍家の繋がりはともかく、それがしと秀綱どのに交誼があったことなど、そうそう知る者はいないはずです」
秀綱どのが正式に越後上杉家に加わったのは俺がいなくなった後のことである。だから、そこから俺と秀綱どのの交誼を探り当てたとは思えない。
それ以前、謙信さまが山内上杉家を救援するために上野に兵を出した際、当時は長野業正に仕えていた秀綱どのと俺は共に北条家と戦った。だが、あれは関東での局地戦、遠く中国地方の毛利家が詳しく知っているわけがない。
実際、吉川元春も小早川隆景も、この戦いはもちろん俺の名前さえ知らなかった。なのに隆元は知っている。
考えれば考えるほど顔が強張ってくるのが自覚できた。隆元の舌が蛇みたいにしゅるしゅると伸びてきても、今の俺はさして不思議に思わなかっただろう。
そんな俺の様子を不思議に思ったのか、隆元が戸惑ったような視線を向けてくる。ますます強張る俺の顔。気分はもう蛇に睨まれた蛙である。
と、隆元はハッと何かに気づいた様子で慌てて口を開いた。
「あ、ごめんなさい! 私がどう考えたかじゃなくて、そう考えるに至った根拠は何かってことですよね!?」
どうやら隆元は、自分の見当違いの答えに俺が苛立っていると判断したらしい。
慌てて立ち上がると、陣幕の隅においてある大きめの手文庫から一冊の書物を取り出し、俺のところへと持ってきた。
「ちょ、隆姉!?」
それまでわけがわからず首をかしげているばかりだった隆景が、この時ばかりは慌てて立ち上がった。
念のためにいっておくと、俺も後ろの剣聖ふたりも武器をたずさえたままである。毛利家の後継者にして遠征軍の総大将たる隆元は、そんな俺たちの近くに無防備に近寄ってきたのだ。俺たちがその気になれば、この瞬間に隆元を斬り殺すこともできる。隆景もそう考えたからこそ制止の声をあげたのだろう。
元春や警護の兵も腰を浮かせており、俺の後ろからは秀綱どのと長恵が応じる気配がたちのぼる。
陣幕の中に走る緊張は、しかし、次の瞬間に霧散した。
俺が軽く手をあげて後ろの二人を制したからである。
この時、俺の意識は隆元の命にはなく、隆元が手にしている書物にあった。
手に持った書物を俺に差し出しながら、隆元は自分がそれを手に入れた経緯を口にする。
「先日、博多津の島井宗室どのから譲り受けたものです」
「島井どのから?」
大友家の御用商人が毛利軍を訪れたと知り、俺は一瞬眉をひそめた。
だが、毛利軍が攻め寄せてきた以上、博多津を焼き払わないようにご機嫌伺いに行くのは当たり前のことである。
御用商人は大友家の家臣ではない。大友家から特権を与えられ、そのかわりに大友家のために金銭や兵糧、時には兵を集めたりする。大友家が筑前を失おうとしている今、宗室に一方的な忠義や奉仕を求めるのは筋違いというものだろう。
そんなことを考えながら、俺は隆元が差し出してきた書物を受け取る。
そして、その表題を見た瞬間、何故だかわからないが猛烈に嫌な予感を覚えた。
『鬼将記』――本の題名は、まあいい。たぶんどこかの鬼武将さんの物語なのだろう。東国にはたくさんいるしな、鬼柴田とか、鬼美濃(馬場美濃守信春)とか、鬼義重とか、鬼真壁とか。
隅に小さく著者の名前が記されている。『猿鳶(さるとび)』――ふむ、どこぞの十勇士にいそうな名前だな。まあこれもいいだろう。所詮はペンネーム。紫式部や清少納言みたいなもので、ここから本名にたどりつくことはできまい。ちょっと考えると色々とわかりそうな気もするが、きっと気のせいに違いない。
問題なのは――俺に嫌な予感をおぼえさせたのは題名でも著者名でもない。いや、その二つにも微妙に嫌な予感をおぼえはしたが、それよりももっとはっきりと俺に訴えかけてきたのは、この書物を記した人間の筆跡だった。
この時代、印刷術はあるにはあるが本格的な普及にはほどとおい。なので、巷の本の大部分は写本、つまり誰かの手で書き写したものだった。
当然、そこには否応なしに書き手の特徴が出る。
そして、俺はこの本を書いたであろう人物の筆跡に見覚えがあった。繊細でありながら美しい、精妙ともいうべき字。それこそお手本にしたいほど綺麗な字で、忘れようと思ってもそうそう忘れられるものではない。
が、俺がこの筆跡を覚えている理由はそういうこととはちょっと違っていた。この字で記された報告書やらなんやらを、山のように処理した記憶が脳裏にこびりついて離れないのである。 これもまた気のせい、とそう思いたいところなのだが…………うん、そろそろ現実逃避はやめようか、俺。
これ、段蔵の字だろう、間違いなく。
東国の鬼武将? ずっと俺の傍にいてくれた子もそうだった。
猿鳶? 軒『猿』の『飛び』加藤ですねわかります。
なんで段蔵が書いた本が九国にあるのか、いや、それ以前になんで段蔵がこんなものを書いたのか。色々と疑問は尽きないが、なにはともあれ中身を確認しなくては始まらない。
嫌な予感を押し殺し、おそるおそる頁をめくった俺の目に、物語の序文が飛び込んできた。
『小島弥太郎貞興。
強兵で知られる越後上杉家にあって、なおその武勇は群を抜く。越後国内はおろか、遠く京にまでその名を鳴り響かせ、軍神と謳われる上杉家当主謙信もまた手放しでその剛勇を称えている。
誰が知ろう。上杉家中にあって『鬼』の名を冠する豪傑の士が、その実、花も恥らう乙女であろうとは。
春日山城下の貧しい農家の娘として生まれた小島弥太郎が世に出たのは、およそ四年前。時の越後守護代長尾晴景と、現上杉家当主、当時は栃尾城主であった長尾景虎の間で起きた内乱にまで遡る。
内乱初期、越後七郡にかなう者なしといわれた猛将柿崎和泉守景家は、晴景の本拠地である春日山城を直撃するために軍を進めた。
この柿崎軍を迎撃する晴景軍の中に、小島弥太郎貞興の名が見て取れる。敗色が色濃く漂うこの戦が、戦国乱世にその名を刻む『鬼小島』が誕生する契機となろうとは、敵味方を問わず誰一人として想像すらしていなかっただろう。
諸人の注目は、この時、晴景軍の指揮官に任じられた天城筑前守颯馬にあてられることが多い。著者もまたその功績を否定するつもりはない。
しかし、彼が稀有な幸運に恵まれたことを諸人は想起するべきだろう。もしこの時、天より贈られた比類なき女傑を初陣で指揮するという幸運が天城に与えられなかったのならば――晴景軍に小島弥太郎の名がなかったならば、後に東国を震撼させる天城筑前の神算はついに発揮されることなく、春日山の露に成り果てていたに違いないのだから……』
「…………ぐ、ぬ」
思わず、うめき声をあげていた。
まだ序文だというのになんたる破壊力。この時点で本を閉じたくてたまらない。
いや、弥太郎に関する部分には何の異存もない。むしろもっと書けと言いたいが、しかし「後に東国を震撼させる天城筑前の神算」ってなんぞ? 他の人がどう見るかは知らないが、段蔵が書いたとわかる俺にとっては、これは間違いなく誉め殺しの類である。
しかも、隆元が今正成とか、越後の瑞雲とか、天の御遣いとかいう単語を知っていたということは、当然この後にそういう話が出てくるわけで……ああ、読み進めるのが怖い。
しかし、ここで読むのをやめるわけにもいかない。というか、読まなければ読まないで気になってたまらない。
俺は我慢して、我慢して先を読み進めていった――
物語は基本的に弥太郎視点で進むので、上杉家の機密に関することにはほとんど触れていない。越後の外から見ればわかることばかりで、これならば兼続あたりの検閲がはいったとしても「まあいいだろう」という結論に落ち着くはずだ。このあたりは上手いといわざるを得ない。
精緻な文章、テンポの良い展開、そして主人公(弥太郎)と主(俺)の会話から無駄にあふれでるリアリティ。
その場にいなきゃわからないよね、というところをことごとくさらっているこの作者は、間違いなく俺たちのすぐ近くにいた人物に違いなかった。
「……だんぞー」
読み終わったとき、俺がじと目で著者を非難したことを誰が責められようか。いや、誰もできないに違いない。
しかも、である。内容も大概だが、この本、まだ全然終わっていないのである。隆元たちがいるからかなり読み飛ばした部分もあったが、それでもこれだけはわかる。
これは鬼将記の第一巻だ。
「……あの、隆元さま」
「は、はい?」
「この話、全部で何巻あるかご存知ですか?」
「はい。ええと、第一部が越後内乱、第二部が竜虎上洛、第三部が関東出陣、第四部が東国擾乱、第五部が最後で越甲同盟ですね。一部三冊で構成されてますから、全十五巻です」
「…………また微妙にうまくまとめてるなあ」
それくらいならば職務の片手間に書くこともできないわけではない。
一連の争乱のすべてを記すわけにもいかないし、弥太郎視点ということを考えれば、それくらいが妥当なのだろう。
島井宗室の手を経たとはいえ、九国まで広がっているということは、この鬼将記、もうかなり出回ってしまっているとみていい。
弥太郎の武名や上杉家の評判を広める意味ではこういう手もありだとは思うし、俺に文句を言う権利がないことはわかっているが、それにしてもこれは勘弁していただきたい……
俺が力尽きたようにうつむき、それを見た隆元がおろおろしている。
周囲の人たちは、何がなにやら、という顔で互いに顔を見合わせるばかり。
この沈黙を破ったのは小早川隆景だった。
「ええと、隆姉。事情がさっぱりわからないんだけども、どういうことか聞いてもいい?」
隆景が戸惑いがちに声をかけると、隣で元春が同意するようにうなずいた。
秀綱どのと長恵はおおよそのところはわかっているので、さして動じてはいないようだが、長恵は俺が持っている鬼将記に興味津々の様子である。
立花山城と古処山城の交換を申しいれにきた場で、どうしてこんなことになってしまったのやら。
俺は遠く越後からはるばるやってきた書物の表紙を軽く撫ぜ、小さく溜息を吐いた。
◆◆
この後、俺たちは全会一致で休憩を挟むことになった。
俺は平静を取り戻すために、毛利側(おもに元春と隆景)は天城颯馬とは何者かを確認するために、それぞれ時間を必要としたのである。
俺たちは別の天幕に案内され、周囲を毛利兵に囲まれながらお茶なぞすすっていた。おそらくこの間、毛利の次女と三女は鬼将記を読み、隆元と情報を共有しようとしていたのだろう。長恵は肝心の本が読めずに残念そうだったが、まあこれは余談である。
そうして少しの休憩を挟んだ後、交渉は再開した。
俺は隆元たちに九国に来てから今日までのことを語る――と、一昼夜かけても話が終わらないので、今回の戦いでの南蛮の動きに焦点を絞って説明をした。
二階崩れの変をはじめとした大友家の内部事情をぺらぺら吹聴するわけにはいかないし、そも俺が語るまでもなく毛利家はそのあたりの事情は把握しているだろう。小原鑑元や立花鑑載、高橋鑑種といった重臣たちの言葉に、俺が付け足すことなどありはしない。
となると、毛利家にとって貴重な情報となるのは、降臣や豊後の協力者がつかめていない事実――南蛮国や南蛮艦隊といったものになる。
南蛮の動きを説明することは、俺が大友家をどう見ているかについても密接に関わってくる。さらにいえば、海の外からの脅威については、妙な思惑抜きで毛利家にも承知しておいてもらいたいという考えもあった。
もっとも、これについては余計な心配だとすぐに教えられたが。
隆元は早くから南蛮の危険性について承知しており、今回の大軍勢はムジカの件を聞いた隆元がなんとしても大友家の蛮行を食い止めんとして組織したものだという。それを聞いた俺は思わず隆元をまじまじと見つめてしまい、隆景からきつい一瞥を浴びせられてしまった。
ともあれ、そういったことを語り続けること、およそ二刻(四時間)あまり。
かくかくしかじかとすべて語り終えた時、日はすでに大きく西に傾いていた。
語る俺も疲れたが、聞いている毛利家の姉妹たちはもっと疲れただろう――と思っていたが、眼前の三姉妹は別段疲労した様子を見せていない。まるでこの程度の長話は日常茶飯事です、と言わんばかりであった。
隆元にいたっては、なんだか目を輝かせているような気さえする。
誰か身内に話好きな人でもいるのかしらと内心で首を傾げながら、俺は話を終わらせにかかった。
「――今、それがしが口にしたことに偽りはございません。南蛮艦隊が侵攻してきたことも、島津軍がこれを討ち払ったことも、そして宗麟さまが南蛮との関係を見直そうとしていることも、すべて事実です」
これに応じたのは三姉妹の中でもっとも俺を警戒していると思われる小早川隆景だった。
「はいそうですか、とぼくたちがうなずけないことはわかってるよね?」
隆景の眼差しがとっても胡散臭そうに見えるのは、たぶん気のせいではないだろう。
俺は苦笑しつつうなずいた。
別に隆景を煽るつもりはない。これが普通の反応だよなと思い、隆元との違いがおかしかったのである。ある意味、俺は隆元よりも隆景の方が話しやすかった。向こうにとっては迷惑な話だろうが。
「はい。それがしとて他者から同じ話を聞かされたらまず信じません。それを口にしたのが大友家に付いている者とあらば尚のことです。ですので、それがし以外の者、そうですね、先ほど隆元さまが仰っていた島井宗室どのあたりに確認をとるのがよろしいかと。島井どのは大友家の御用商人ですが、それ以前に博多津の富を司る豪商です。こと交易に関しては南蛮とは競合関係にある。ムジカの動静は細大漏らさず集めているでしょうし、南蛮艦隊の侵攻についても無知ではありますまい」
竜造寺の陣に赴いた際、鍋島直茂は南蛮艦隊の噂は肥前にも届いているといっていた。そこまで広がっている噂ならば、博多の豪商が耳にしていないということはありえまい。 南蛮軍の侵攻は博多津の商人たちにとっても他人事ではない。おそらく、今ごろは必死になって情報をかき集めているだろう。
俺の言葉に、隆景はふんと鼻息を荒くした。
「なるほど、道理だね」
「恐れ入ります」
「ただ、それがわかっているなら、もうひとつのこともわかっているよね。君の言ったことに嘘があれば――ううん、仮にすべてが事実だったとしても、ぼくたちが兵を退く理由にはならないよ」
「もちろん承知しております」
俺と隆景は短いやりとりの間に、互いの考えを読み合った。
今回、毛利軍は隆元の主導で大友家を食い止めるために兵を発した。
南蛮軍が追い払われ、宗麟さまが南蛮との関係を改めようとしている今、毛利軍が戦う理由はなくなったのだろうか?
むろん、そんなわけはなかった。
第一に、俺が大友家のために虚偽を言っている可能性がある。この場合、俺の口車に乗せられて退却を決めてしまえば、それは毛利軍にとって致命的な失態になってしまう。
第二に、俺の言葉が事実だったとしても、宗麟さまが再び妄動しないという保証はどこにもない。それに対処する意味でも、毛利家としては豊前、筑前を完全に確保し、いざという時に豊後本国に再侵攻できるようにしておきたいところだ。この二国をおさえることができれば、大友家から交易の利を奪うこともできるわけで、経済的に大友家を掣肘することもできる。
第三に、他家、つまり毛利にしたがっている国人衆に配慮する必要がある。今ここで毛利が兵を退けば、残った反大友の国人衆が大友軍に狩り立てられるのは明白である。これは味方してくれた者たちに対して甚だしく信義にもとる。
つまるところ、今回、毛利軍が大友家を止めるために兵を発したのは事実だが、そのためだけに兵を動かしたわけでは決してない、ということだった。
上記以外にも、毛利家として勢力を拡大するという目的も当然のように存在する。南蛮軍が追い払われ、宗麟さまが南蛮への傾倒を改めたといっても、即座に撤兵することはできないし、その意思もない。隆景が言いたいのはそういうことであろう。
この毛利の態度は十分に予測できたことであった。
隆元の考えを知ったのはついさっきのことだが、それを聞いた俺が毛利と講和できると考えたかといえば、答えは否である。
ただ、一つの安心を得たのは確かだった。
というのも、隆元たちが大友家と南蛮との関係が改められたと知れば、今回の両家の戦いは常の戦――領土、権益を求めるそれに移行することになる。
隆元たちにしてみれば、大友家の売国をとめるこの戦いは絶対に負けられないものであり、よほどの大敗を被らない限り兵を退くつもりはなかっただろう。
だが、この戦いが単純な領土争いに立ち戻ったのならば、撤兵する条件は大幅に緩和される。それは大友家からみれば、和睦、講和の条件が探りやすくなったことを意味する。
毛利軍に相応の打撃を与えることができれば――あるいは、兵を退くに足る利益を与えることができれば、この戦いを乗り切ることができるのである。
……ただ、そのためにはおおよそ五万対一万くらいの戦いに勝つか、最低でも互角の形勢を維持する必要があるのだが。しかも相手は毛利隆元、吉川元春、小早川隆景が揃った毛利軍主力の皆さんである。思わず天を仰ぎたくなる素敵な戦況というべきであろう。
まあ、こちらはこちらで道雪どのと紹運どのという大友家の二大名将がそろい踏みなので、勝算がないわけではないというのが救いである。
ともあれ、互いがそう認識している以上、さらに言葉を重ねる意味はない。
城交換に関しては当初の隆元の言葉どおり承諾をもらえたので、これに関わる実務的な話し合いを終えた俺たちは、間もなく毛利軍を辞すことになった。
ただ、この時点で俺はあることが気になっていた。
毛利側が「越後の天城颯馬が大友家のために尽力する理由」について問いただしてこなかったのである。俺が口にしたのは、あくまで俺が九国でとった行動の一部であって、越後上杉家の意思に関してはまったく話をしなかった。
実際にそんなものはないので、話をしたくてもできなかったというのが正確なのだが、そんなことを知る由もない毛利家が俺の沈黙を看過する理由はない。まさか色々ありすぎて忘れてしまったわけでもないだろう。
最後に俺は隆元にその点を確かめてみることにした。やぶへびになるかも、という危惧はあったが、相手の考えがわからないままに戦うのも落ち着かない。
これに対する隆元の返答は実にさっぱりとしたものだった。
「あなたがとった行動を見れば、目的は聞くまでもなく明らかだと思います。そのあなたを助けた上杉家の意思も同じです」
遠からず戦うことになる相手からほわっとした笑みを向けられ、俺は理由もなく焦ってしまう。
もう隆元と久秀が同類だ、とは思っていない。
俺が冷や汗をかかされた隆元の知識は段蔵が書いた書物によるものだった――ちなみに隆元は、書物の内容がかなり正確に東国の情勢を記したものであることを島井宗室から聞いていたそうな。
つまり、隆元は書物の知識をもとに俺と話していただけであって、別段俺をもてあそぶ意図はなかった。そのことはもうわかっているのだが、一度身体に植えつけられた恐怖、もしくは苦手意識はなかなか抜けてくれなかった。
と、向かいあう俺と隆元の間に隆景が割り込んできた。
「君の言ったことが嘘ならその嘘ごと叩き潰すだけだし、事実だとしてもどのみち戦って屈服させる相手だからね。交渉の内容はぼくたちにも利があることだし、強いて突き返す必要はないでしょ。わかった? わかったら、ほら、もう話すことなんてないんだから、さっさと立花山城に行きなよ。ちゃんと陣中は安全に通れるようにいってあるから」
「こ、こら隆景、失礼でしょう!?」
「間違ったことはいってないよ、ぼく!」
「確かに間違ったことは言っていないが、礼にかなっているともいえまい、末姫どの。姉上と天城どのが親しげに話しているのが面白くない、と顔に書いてあるぞ」
「なにあッ!? な、なんのことかな、春姉!?」
「も、元春? そ、そんな親しげに見えた?」
「楽しげ、と言い換えるべきかもしれませぬが。件の書、大変に面白いと仰っておられましたし、実際に登場人物にあえて浮き立っておられるのでしょう? 天城どのが本人だとわかった途端、呼びかけが『貴殿』から『あなた』にかわっておりましたよ」
「そ、それは……うん、そうかもしれない。もちろん、戦わないといけない人だっていうのはわかっているんだけど」
「むろん心配はしておりませぬ。しかし、甘えん坊の末姫どのには、姉上と天城どのが楽しげに話す姿が面白くなかったのでしょう。まったくこまったものです」
「こまってるのは間違いなくぼくの方だよッ! よりにもよって当人の前で言うことないでしょッ!?」
俺をそっちのけで、なにやら盛り上がっている毛利家の姉妹たち。
別れの挨拶を切り出すタイミングを見失い、どうしたものかと首をひねる俺に長恵が小声で話しかけてきた。
「ずいぶんと面白い方々ですね、師兄」
「だな」
隆元たちも長恵に言われたくはないと思うが、おおむね同意であった。
正直、戦いたくない人たちである。戦力の上からも、能力の上からも、そして為人の上からも。
しかし、事ここに至れば戦を避ける術はない。たくさんの物事に決着をつけるためにも、ここは戦わざるをえないのだ。たとえ相手がどれだけ戦いたくない人たちであっても。
意を決した俺は、毛利姉妹に辞去を告げるべく口を開いた。
◆◆◆
大友軍と毛利軍が激突したのはこの日からおよそ半月後のこと。
立花山城と古処山城の交換ならびに城兵の送還をつつがなく終えた両軍は、あたかも示し合わせたように決戦の地として一つの戦場を選び出す。
多々良浜(たたらはま)。
立花山城の南を流れる多々良川流域に広がるこの地は、遠く建武の世において、足利将軍家の祖である尊氏が再起を懸けて死闘を演じた地でもある。
毛利家が九国に確固たる足場を築くのか、あるいは大友家が勢力挽回を成し遂げるのか。
両家がそれぞれの家運をかけて激突した戦い。
雲居筑前あらため天城颯馬にとって九国最後となった戦い。
そして、当事者たる両家も含め、これを注視していた竜造寺や島津といった諸大名が誰ひとりとして予期しえなかった理由で終結したこの戦いは、後に『多々良浜の合戦』と呼ばれることになる。