筑前国 多々良浜
多々良浜の合戦における十九度目の激突。
この戦闘において白眉となりうる武将を挙げるとすれば、それは大友軍の右翼を率いた立花道雪であろう。
道雪は左翼の戸次誾が川を渡ると時間差をつけてこれに呼応し、猛然と軍を進めた。その勢いのまま正面の小早川隆景を急襲すると思われた道雪は、しかし、待ち構える隆景の部隊の鼻先をかすめるようにして左方向――下流側に位置していた毛利の中軍に矛先を向けた。
この道雪の急激な転進は隆景、元春ら毛利軍の意表をついた。隆景は慌てて追撃を開始するも、足軽隊と騎馬隊の足並みを揃えたまま道雪に追いつくのは至難と判断し、強引に騎馬隊を突出させる。
多少の混乱を覚悟の上で追撃を優先させたわけだが、この即断をもってしても道雪の部隊に追いつくことはできなかった。この時、道雪はすでに毛利隆元、吉川元春の率いる中軍を指呼の間に捉えていたのである。
この合戦の毛利軍の実質的な指揮官は吉川元春である。
毛利隆元は総大将として本陣に座っていたが、基本的に指揮はすべて妹に委ねていた。隆元が自身に定めた責務は、妹から作戦なり移動なりの許可を求められた際にうなずくこと、ただそれだけ。
元春は毛利元就をして「戦においては及ばない」と感嘆せしめる戦の申し子である。鬼と仇名される勇猛さと、義母仕込みの冷静な戦術眼を併せ持つ毛利随一の驍将。隆元も武将として一通りのことは学んでいるし、経験を積んでもいるが、元春には遠く及ばない。 ゆえに、こと戦闘に関しては元春にすべてを委ね、自分は責任をとるために座っていればよい、というのが隆元の考えだった。
「私がしゃしゃり出たら元春の邪魔になっちゃうもんね」
「さて、それはどうでしょう。姉上はもう少しご自分の力量を評価すべきと思いますが」
戦が始まる前、毛利家の長女と次女はそんな会話を交わしている。
ともあれ、隆元から絶大な信頼を寄せられた元春は、姉の期待にこたえるべく合戦に臨んでいた。
だが、さすがにここで立花勢が出現することは予測できなかった。左翼側より杏葉紋を掲げた部隊が接近しつつあるとの報告を受けた元春は、一瞬の沈思の後、小さく呟いた。
「末姫どのが読み違えるとはな。さすが鬼道雪、というべきか」
動揺があったとしても、それは表情に表れる前に押さえ込まれている。
瞬く間に戦況を読み取った元春は、短く、しかし的確に指示を出し、迫る立花勢を迎撃する態勢を整えた。
このとき、毛利の中軍は右翼側で戸次勢を攻撃する準備をととのえながら、左翼側で立花勢を防ぐ構えをとるという、正反対の行動を二つながらに実行していた。
これを遅滞、混乱なしに成し遂げた吉川元春の統率力はやはり尋常ではない。しかもこの時、元春はこの予期せぬ襲撃を奇貨とみなし、次にとるべき行動を定めていた。
(立花勢のすぐ後ろに隆景が続いていることは疑いない。最初の攻勢さえしのげば、かえって鬼道雪を挟撃することができよう)
ただ敵の奇襲を防ぐだけではない。眼前にせまった危機を、かえって敵将を圧殺する好機とみなす柔軟な思考と、これを実行に移せる指揮能力。一身にこの二つを兼ね備えることこそ鬼吉川の真骨頂。
もしも立花勢がこのまま中軍に襲いかかっていれば、合戦の勝敗はこの時点で決していたことだろう。
だが。
待ち構えるのが鬼吉川であるならば、これにかかるは鬼道雪。
共に鬼とあだ名される者同士、しかし戦歴においては道雪に一日の長がある。
立花道雪の狙いは、毛利姉妹が考えるそれよりもさらに一段深いところにあった。
再度の転進。
立花勢は毛利本隊の左側面をかすめるように駆けて行く。先に同じ行動を見た小早川勢であれば、あるいは即座に反応できたかもしれないが、中軍の将兵は立花勢の意図がわからず、咄嗟に動くことができなかった。
そんな毛利兵の眼前で、立花勢はいかにも悠々とした様子で――その実、懸命になって足を動かしている。
文字通りの意味で懸命に。なにしろ前にも後にも敵部隊。しかもいずれも自分たちに数倍する大兵力である。休んでいる暇などどこにもない。わずかでも足を止めれば、たちまちのうちに追いつかれて皆殺しにされてしまうだろう。
「ほれ、みな走れ走れィ! 死にたくなくば足を止めるなよ。敵の将兵、これすべて証文を持った借金取りと心得よ!」
小野鎮幸の叱咤を受け、兵たちから悲鳴交じりの喊声があがる。
それを聞いた由布惟信は、これも兵たちを急かせながら言わずにはおれなかった。
もう少しマシなたとえはないのか、と叱りたいわけではない。
将たる鎮幸が足軽と一緒に駆けていることについて、一言いわずにはいられなかったのである。
今回の戦で肝要なのは武勇ではなく行軍速度――いかに素早く、休みなく戦場を駆け抜けることができるか、という点であった。
惟信は馬に乗っている分、徒歩の足軽よりも楽をしていることになるが、これに引け目を覚えたりはしない。将が馬に乗るのはそれに足る責務があるからだ。
しかるに、鎮幸は馬をおりて走っている。
別段、惟信は鎮幸のしていることを自己満足だと責める気はない。いや、これが鎮幸以外の人間がやっているのならそんな気分も芽生えたろうが、実際、鎮幸が足軽同様に駆け回っていることは立花勢の士気高揚におおいに役立っているのである。これは惟信には決してできないことであった。
とはいえ、足軽同様に駆け回っているということは、足軽と同じ危険を背負っているということでもある。
道雪の下、双璧と称えられて幾多の戦場を共にしてきたふたりは、(主に惟信が)相手を邪険に扱うこともあったが、互いに信頼も敬意も持っている。惟信としては僚将の身が案じられてならなかった。
もっとも、それが士気高揚に役立っている以上、面と向かって注意することもできかねる。そんな惟信の複雑な胸中を見抜いたのだろう、鎮幸は闊達に笑ってみせた。ほとんど息をきらしていないあたり、実に底なしの体力である。
「はっはっは、まあ大目に見てくれい、惟信」
「……まあ、今に始まったことではない、といえばそれまでですね」
鎮幸に対する返答というより、自分自身に言い聞かせるような惟信の言葉であった。
◆◆
一連の立花勢の動きを上空から俯瞰すれば次のようになる。
はじめに小早川勢の鼻先をかすめて左方向に走り、次に中軍の側面をかすめるようにして上方向に駆け、そのまま時計回りに弧を描く。行き着く先は、立花勢を追って後方から追尾してきた小早川軍の右側面であった。
この立花勢の動きはまたしても毛利軍の意表をついた。もっとも混乱したのが横撃を喰らう形になった小早川勢であることはいうまでもない。
整然と陣形を保って追尾していれば対処することもできただろうが、隆景が追撃速度を優先した結果、小早川勢の陣列は乱れたままであった。
そこに痛撃をくらったのだからたまらない。やわらかい獣肉を牛刀で断ち切るような容易さで、小早川勢は両断された。
しかも、小早川勢を切り裂いた立花勢はそれで満足することなく、左右に断ち割った小早川勢の片方――隆景の本陣めがけて更に肉薄していく。
すでにこの時点で彼我の兵力比は劇的に縮まっており、しかも陣営を蹂躙された小早川勢は混乱の真っ最中。この状態で鬼道雪の一撃をくらえば、いかに『毛利の両川』といえど防ぎようがない。
後年、小早川隆景をして「本気で死んだと思ったよ」と嘆息せしめた鬼道雪の猛攻であった。
その述懐からもわかるとおり、隆景はこのまま道雪が襲いかかってくると考えていた。隆景さえ討ち取ってしまえば、毛利軍左翼一万の軍勢は烏合の衆に成り果てる。
毛利隆元を狙うと見せて、実は道雪の狙いは隆景にこそあったのだ――そんな隆景の予測は、しかし、またしても外れてしまう。
実際、ここで隆景を討ち取ることができれば毛利軍の左翼をほぼ無力化できる。それは戦場全体の帰趨を左右する大戦果であり、大友軍が勝利する可能性も大幅に増えたであろう。
だが、道雪が襲いかかったのは隆景の本隊ではなかった。
決死の覚悟で隆景を守ろうとする兵士たちの決意を感じ取り、一筋縄ではいかないと判断したのか。あるいは、それすらも予定どおりであったのか。
立花勢は再び小早川勢の只中に躍り込むと、混乱を煽り立てるように盛んに喊声をあげ、そして激突に備える小早川隆景を尻目に敵陣を縦断してしまったのである。
先に自分たちで切り裂いた敵陣の隙間を逆方向になぞるような進軍。いかにも傍若無人に見えて、その実、徹底して成算を追及した合理的な用兵。
かくて二度にわたって小早川勢を切り裂き、相手を混乱の淵に叩き落した立花勢は、そのまま足を止めることなく次なる標的へと向かう。
この合戦において、いまだ一度も戦闘に加わっていない部隊。
毛利軍の後陣、豊筑の国人衆たちへと。
国人衆たちにとっては慮外の出来事であった。
喊声や銃声から戦闘が始まったことはわかっていた。その規模が今日までの比ではないことも。
しかし、国人衆の部隊と大友軍の間には三万を越える毛利軍が展開している。自分たちが戦に加わることはないだろう。あったとしても、それは毛利軍の要請を受けて大友軍にとどめの一撃を加えるとき。彼らはそう考えていたし、軍議においても三姉妹からそのように伝えられていた。
そんなところに、勢いに乗った立花勢が襲いかかってきたのである。
まさしく鎧袖一触。
立花勢が国人衆を蹴散らしたというより、国人衆の側が望んで立花勢に蹴散らされたかのような一方的な戦いが展開された。
――といっても、実のところ、双方に戦死者はあまり出ていなかった。これは先の小早川勢との戦いも同様である。立花勢は陣形を維持したまま素早く戦場を駆け回ることに注力しており、戦闘の激しさでいえば下流で激突している戸次、秋月のそれの方がはるかに上であったろう。
ただ、敵軍に脅威を与えるという一点において、立花勢は他の追随を許さなかった。
その立花勢が明確な意思を見せて長尾の陣に襲いかかったと知ったとき、中軍の吉川元春と左翼の小早川隆景は同時に舌打ちした。
彼女らはようやく敵軍の意図に気づいたのである。
長尾は多々良川のやや北に位置する地名で、国人衆のひとりである宗像氏貞が布陣している。このあたりは丘状の地形になっており、多々良川北岸を一望することができる。この丘がもう少し多々良川に近ければ、毛利軍はここに本陣を据えていたであろう。
長尾を立花勢に奪われてしまうと、毛利軍の作戦行動がことごとく敵の目に晒されてしまう。その上、立花山城との連絡にも支障を来たしてしまう。さらにいえば、これまで後詰が布陣していた地点に立花道雪にどっかりと居座られてしまっては、どうあっても将兵の動揺は避けられない。
毛利軍としてはなんとしても守らねばならない拠点であった。
長尾を守っていた宗像氏貞はそのことがわかっており、立花勢の急襲に対して奮闘し、簡単に陣を明け渡すようなことはしなかった。
が、宗像以外の国人衆で宗像に呼応したのは筑紫、原田といった少数の筑前衆だけで、大半の者たちは立花勢の矛先を避けて兵を退いた。道雪の強さを警戒したためであり、また兵力の温存をはかる意味もあったのだろう。
結果、宗像勢は奮闘空しく敗退し、長尾は立花勢によって占拠される。
立花勢はここではじめて足を止め、敵の逆襲に備える姿勢を見せた。ここまで戦場を右に左に駆け通しだったので、兵を休ませなければならなかったのである。体力的な消耗はもちろん、敵軍のど真ん中を走り回ったことによる精神的疲弊も無視できない。
もし、この時点で毛利軍が長尾の奪還に乗り出していれば、比較的容易にこの拠点を奪還することができたかもしれない。
だが、吉川元春は大友軍の中軍に備えるため、そして右翼側で起きている戦闘に対処するために動くことができず、小早川隆景は左翼の混乱を立て直すのに精一杯。戸次勢と激戦を繰り広げている秋月種実にその余力がなかったことは言うまでもない。
宗像らを除いた豊筑の国人衆の中に、即座に反撃に出られるだけの余裕と気概を持つ者はおらず、立花道雪はその戦歴に新たな武勲を積み重ねることに成功したのである。
◆◆
本陣の吉川元春の眉間に深いしわが刻まれた。
隆景や宗像らの報告を受け、毛利軍が道雪ひとりにしてやられたことを改めて確認したからである。
だが、狼狽することはなかった。
道雪に長尾をおさえられたことは毛利軍にとって厄介きわまりないが、視点をかえれば、道雪は望んで死地に踏みとどまったともいえる。
なにしろ道雪の手勢は三千たらず。今でこそ毛利軍は混乱しているが、道雪が兵を休めている間に毛利軍もまた態勢を立て直すことができる。
いちど態勢を立て直してしまえば、後に残るのは敵陣深くに取り残された立花勢と、それを取り囲む毛利の大軍という形である。
ゆえに、慌てる必要はない。
元春の考えは、長尾の敵陣から狼煙がたちのぼり、それに呼応して大友軍の中軍が出撃してからも変わることはなかった。
大友軍としては、立花道雪が敵陣を蹂躙し、さらに後背を塞ぐことに成功した今こそ決戦の時、という心積もりなのだろう。
実際、毛利軍としても面倒な状況ではあった。
だが、元春率いる中軍は、左右両翼の戦況に対応して兵を動かしてはいたものの、いまだ敵と矛を交えるには至っていない。一万五千の大軍は健在である。
一方、大友軍の中軍は七千弱。
立花道雪がどれだけ奮闘したところで、二倍以上の戦力差がある事実は動かない。
しかも、この数字はごく一時的なものだ。すでに余力がない大友軍と違い、毛利軍にはまだまだ余力がある。特に左翼の隆景は道雪という当面の敵がいなくあり、かなり自由に行動することができる。隆景のことだから、多少の時間があれば混乱を鎮めることはできるだろう。そうすれば、長尾の道雪を包囲することも、あるいは道雪にならって大友軍の後背を塞ぐことも思いのままである。
寡は衆に敵せず。
そのことを知るがゆえに元春は落ち着きを保っており。
そのことを知るがゆえに元春は落ち着かなかった。
矛盾した物言いであるが、この時の元春の心境はそうとしか言いようがないものだった。
元春は腕を組んで考え込む。
そも、道雪が長尾に陣を据えたのはどうしてか。
たしかに長尾は重要な拠点であり、ここを確保できれば大きい。だが、それは確保できればの話。立花勢は速度をもって毛利軍の左翼と後詰部隊を蹂躙したが、一度足を止めてしまえば、次に待つのが圧倒的多数の毛利兵による包囲殲滅であることは火を見るより明らかである。かたく守ろうとしたところで、味方と切り離された道雪には陣を築く資材さえない。これでは堅陣を築きようもないだろう。まさか陣を築く資材を抱えたまま、あの行軍をしてのけたわけではあるまい。
相手はかりそめにも九国最高を謳われる名将である。
長尾の保持が難しいことは重々承知しているだろう。にもかかわらず、道雪は今なお長尾に留まっている。
兵を休ませる必要があった。それは確かだろう。
毛利兵の動揺をさらに深めるために、あえて敵中にとどまって立花道雪ここにあり、と知らしめている。これもそのとおりだろう。立花道雪が後背を塞いでいる、その事実は決戦における大友軍の勝機となるには十分な要素である。
――だが。
(本当にそれだけなのか?)
寡は衆に敵せず。そんな基本的なことを道雪が知らないはずがない。それでも戦場に出てきたならば、相応の勝算を持っていなくてはおかしい。
元春が考えたのは、もしかしたら道雪は単純に『機』を待っているだけではないのか、ということであった。疲労に示威、一見もっともに思える理由はすべて真の狙いを秘匿する隠れ蓑ではないのか。
実際、大友軍は今日まで守勢に徹して逆撃に転じる機をおしはかり、毛利軍はその鋭鋒を避けそこねて長尾という要地を失ってしまった。
それとまったく同じことを、今、道雪は行っているのではないか。
だとしたら、今回の機とは――この決戦において、数に劣る大友軍が勝利をもぎとるために是が非でも必要なものとは何なのか。
そこに思い至ったとき、元春は至近で雷鳴が轟く音を聞いたように思った。
「いかんッ!」
めずらしく――本当にめずらしく、元春の口から焦慮の声がこぼれおちる。
中軍同士が激突すれば、元春といえど前面に集中せざるをえない。そのとき、後方の立花道雪が長尾から急進して元春の背後を突いてくればどうなるか。
それだけではない。右翼側で戦っている戸次勢が矛先を転じ、剣聖を先頭に押し立てて側面に突きかかってくればどうなるか。
毛利の中軍は前方、後背、側面、三方向からの猛撃を受けることになる。
むろん、それはごく一時的なものに過ぎない。戸次勢が矛先を転じれば秋月勢がその後ろに喰らいつくし、それは立花勢も同様。いかに鬼道雪の部隊とはいえ、豊筑の国人衆も背を向けた相手を恐れはしないだろう。左翼側には隆景の一万が丸々残っているので、大友宗麟の本隊を横から叩き伏せることもできる。
元春たちは少しの間だけ耐えれば良い。それだけで大友軍はたちまち危地に陥る。
――しかし。
毛利の中軍は一万五千。そして大友軍の総数も一万五千。今日までの戦いで両軍には相応の被害が出ているが、それを考慮してもほぼ同数。
そう。ごく一時的なものとはいえ、毛利軍は開戦当初から保ってきた数の優位を失ってしまうのである。五分の立場で――否、三方から囲まれるということを考えれば、不利なのは間違いなく毛利軍の方。
そして、この機に大友軍が狙うのは隆元の命以外ありえない。
失敗した時のことなど考慮の外。どのみちここで負ければ後はない。
昨日までの守勢も、今日の攻勢も、長尾の占拠さえも、数の不利を排して敵将を討ち取るための布石に過ぎぬ。
強引に、無理やりに、ただひたすらに、毛利隆元の命だけを狙うことで勝利をもぎとろうとする、これは大友軍の背水の陣であった。
元春の脳裏にいつか聞いた言葉がよみがえる。
次の瞬間、元春の口元を彩ったのはどこか冷ややかな微笑であった。
「『戦場で機会に恵まれれば』か。笑わせてくれる。必要とあらばその手で機をつくりだしてのける男がいう言葉ではないぞ、天城筑前。芝居の才とは段違いのその智謀、見事というほかない。あの書物の内容もあながち偽りではないのかもしれぬ。だが――」
これ以上、貴殿の思いどおりにはさせぬ。
元春は誰の耳にも届かない声で静かに断言すると、隆元にとある行動の許可を求めた。
それを聞いた隆元は、思わず、という感じでひどく驚いた顔をしたが、元春の顔を見て妹が本気であるとわかったのだろう。説明を求めることもせず、その場ですぐにうなずいて許可を与えた。
これを受けた元春はただちに右翼の秋月勢と左翼の小早川勢に使者を出した。両将の驚愕と反発を予想して、隆元直筆の命令書も添える念の入れようで。
それからほどなくして毛利軍は動きだした。
勝敗を決するための総攻撃に出たのではない。
その逆――すなわち、総退却を始めたのである。
◆◆◆
「……お義父さま、これは、いったい?」
傍らで吉継が目を丸くして驚いている。
手に持った刀も、身につけている鎧も血に塗れており、それは俺も同様であった。
大友軍の左翼部隊はつい今しがたまで秋月勢を相手とした激闘の只中にあり、俺も吉継も勇をふるって何人もの敵兵を斬り捨てていた。
まあ、俺たちは誾の直属部隊にいるので、基本的に味方は多く、敵は少ない。先頭付近にいる秀綱どのや長恵ほどの激しさはないが、それでも敵は多勢であり、危機は何度もあった。また、誾直属だからこそ大将首を狙った部隊がわんさか寄ってくるという弊害もあるので、決して楽をしていたわけではない。
そんな俺たちの眼前から、まるで掃き清めたかのように敵兵の姿が消えつつある。おそらく、いや、間違いなく退却の命令が出たのだろう。
俺たちの視線の先では秋月家の家紋である『三つ撫子』が遠ざかりつつある。荒々しく風にたなびく旗印は、まるで当主の無念をあらわしているかのようであった。
不利を察して一時的に兵を退いた、というわけではない。この戦場での勝利を諦める、という意味での退却である。
吉継が驚くのも無理はない。正直、俺も一瞬唖然としてしまった。
ある予感にとらわれ、視線を川の上流、中軍同士が激突しているはずの方角に向ける。
すると、こちらでも毛利軍がじわじわと後退しているのが見て取れた。宗麟さまと紹運どのがこれを追尾しようとしているが、数に劣る大友軍はいかにも仕掛け辛そうである。
退却する敵への追い討ちは戦の常道であるが、毛利軍の後退が明らかに余力を残したものであるだけに、罠の可能性を慮って動けないのであろう。
視界で捉えることはできないが、この分では小早川隆景の部隊も撤退にかかっているとみていい。
中軍、右翼、左翼がそろって後退するということは毛利軍が敗北を認めた証。つまりは大友軍がこの決戦に勝利した、ということである。
そう思い至った一部の兵士たちが歓呼の声をあげ、それはたちまち全軍に波及していった。
だが、俺はその歓声に同調することができない。それどころか――
「…………やられた。ここで退くのか、毛利隆元」
知らず、うめきにも似た声がこぼれていた。
もしかしたら吉川元春か、あるいは小早川隆景の提言なのかもしれないが、誰の案かはこのさい重要ではない。重要なのは、毛利軍がこの時点で兵を退いてしまった、ということであった。
そんな俺を見て、吉継が怪訝そうな顔をする。
吉継は俺の作戦を知っている。最終的に敵将である毛利隆元を討って勝利を得る、という目的も知っている。この戦いでそれが為せなかったことは事実だが、それでも数に劣る大友軍が毛利軍を押し返したのは間違いない。この成果は、豊筑の国人衆の動向にすくなからず影響するだろう。その意味では大きな意味があったといえる。
「先の狼煙を見れば、道雪さまは長尾の占拠に成功したのでしょう。となれば、大勢として大友軍が毛利軍を上回ったことは事実です。確かに敵将を討つにはいたりませんでしたが、次の戦いはもう少し容易になるのではありませんか?」
もちろん、今日のそれに比べれば、という程度ではありましょうが。
吉継はそう言って俺を見たが、俺は吉継に同意することができなかった。
確かに今日の戦いは相対的に大友軍の勝ちと見ていいだろう。それなりに打撃を与えることもできたはずだ。
しかし、こちらにも被害は出たし、本陣を三方から突き崩すことで隆元を、あるいは元春を討とうとした俺の策は未然に防がれた。大友家にとって貴重きわまりない時間を費やした乾坤一擲の作戦が防がれたのだ。
結果として大友軍は多々良川を渡り、立花山城に向かって距離を詰めることができたわけだが、逆にいえば、今の大友家の全力をもってしてもその程度の成果しか得られなかったということ。
最悪なのは、毛利軍がその気になれば、この成果さえすぐに奪い返されることである。
「それはどういうことでしょうか?」
「毛利軍がどこまで退くかはわからないが、このまま立花山城に立てこもるつもりはないだろう。数ではまだ圧倒的にこちらを上回っているんだ。俺だったら、長尾の少し先あたりにまた陣を構える。それに対峙するとなると、こちらは多々良川を渡って、長尾のあたりに本陣を置くことになるわけだが……」
そう言って、俺は足元の地面を軽く蹴った。
それを見た吉継は俺の言わんとするところを悟ったのだろう、目を見開いて多々良川を振り返った。
「これまでは川を挟んで敵の大軍と対峙していた。今回は川を背にして向き合うことになる。多少距離はあるが、実質的な背水の陣だ」
今回の戦いもある意味で背水の陣だったわけだが、精神的なそれと実際のそれはまったく別物である。
徒歩で渡れる水量とはいっても川幅はけっこうあるし、水量なんて上流で雨のひとつも降れば一夜で変わる。川を背にして自軍に数倍する敵を相手どるのは無謀に過ぎるだろう。
特に、今の毛利軍はこちらの狙いをはっきりと見抜いているはずだ。もう今回のような奇策は通用しない。
「となると、ヘタに川を渡るよりは、もどとおり南岸に陣を構えていた方が安全、ということになる。当然、こちらが南岸に戻れば、向こうは兵を進めて北岸に陣を敷くだろう」
「毛利軍にしてみれば、一滴の血を流すこともなく失地を回復できる、ということですね。一方のこちらにしてみれば、知恵をしぼり、時間を費やし、道雪さまという切り札を投じて得たすべてが奪われてしまう。これではどちらが勝ったのかわかったものではありません。国人衆たちの動揺も期待できませんね」
「そういうことだ。それを避けるために無理をして北岸に留まったところで、毛利軍を討つ手なんてそうそう考えつかんし――」
俺は天を仰いで嘆息した。
まさか数に勝る毛利軍が、中軍同士の激突に先立って退却を決意するとは思わなかった。
おそらく、まだ長尾の道雪どのも動く前だったはずだ。
当然、俺たちも転進の素振りなど見せていない。
その状況でこちらの意図を察し、間を外すことで策を無効化してのけるとは、誰だか知らないが見事というしかない。敵が反撃に出てくる、あるいは隆元を本陣から逃がす、くらいまでであれば対応策を考えてもいたのだが、退却するとか予想外にもほどがある。
そんなことを考えていると、向こうから誾がやってきた。訝しげな顔を見るかぎり、誾も敵の意図を把握しきれていないのだろう。どうやらもう一度説明をすることになりそうだ。
俺は近づいてくる誾の姿を見つめながら、この先どうするかについて考える。
正直なところ、速戦のための策は尽きてしまった。もう戦場で隆元を狙うのは不可能だろう。道雪どのの脅威を思い知った毛利軍が、今日のような失態を見せることもまずあるまい。
どう決着をつけるにせよ時間がかかる。そして、時間がかかれば背後の竜造寺や島津が動き出す。考えれば考えるほど頭が痛かった。
「お義父さま、お顔の色が……無理もないとは思いますが」
「うむ、半分が優しさで出来ている頭痛薬とかないものかな」
「そのような偽薬は存じませんが、少し横になるだけでもずいぶんと違うものです。ご希望でしたら膝枕くらいはいたしましょう」
「誾さま、早急に相談いたしたいことがございます! しばしお時間をいただきたいッ」
「は、はい、わかりましたッ!?」
「……優しさも時に薬となるのですね。偽薬などというべきではなかったかもしれません」
俺は後ろから聞こえてきた吉継の呟きを耳にして小さく笑った。
戦況が非常に厳しくなったのは事実だが、だからといってしかめっ面をしていても仕方ない。多少無理やりにでもテンションをあげて事にあたった方がいいだろう。笑う門には福きたる、というやつである。
――けっして娘から膝枕の申し出をされて有頂天になったわけではないのであしからずご了承いただきたい。
わけがわからず目を白黒させている誾に一通りのことを説明しながら、俺は真剣にこれからの方途について考えをめぐらせた。
◆◆◆
数えて十九度目となる多々良浜での戦闘。
この戦闘は大友家と毛利家が覇を競った『多々良浜の合戦』における最大の激突であり、同時に最後の激突ともなった。
この数日後、両家は和議を結んで互いに兵を退くことになるのである。
戦そのものの趨勢はいまだ決していなかった。
大友軍にせよ、毛利軍にせよ、退けない理由はいくらもあった。
にも関わらず、両軍が兵を退くことになった――退かざるを得なくなった理由は、戦場の外、九国の外からもたされた。
安芸の国主 毛利元就が『一大事』の一語のみを添えて遣わした使者がもたらした報せ。
それは遠く京の都で起きたひとつの変事を伝えるものであった。
――足利幕府第十三代将軍 足利義輝公、京 二条御所にて御討死