豊前国門司城。
刻は黎明。関門海峡を見下ろす古城山に築かれた山城を、東の空から昇る朝焼けの光が照らし出していく。
山々を彩る緑が陽の光を映して美々しく輝き、見る者が等しく嘆声をこぼすであろう優麗な景観を織り成していく。
山全体が刻一刻と明るさと輝きを増していく様子は、山野に萌える草木が、人々に一日の始まりを優しく告げているかのようであった。
そんな自然の妙なる声は、しかし、今、人の手で空しく汚されようとしていた。
夜闇をついて城に肉薄していた軍勢は、景観に見向きもせず、頃はよしとばかりに城内に向けて数百の矢を射掛けたのである。
突然の敵襲に城兵は乱れたった。
降り注ぐ矢と響く喊声。
見張りは何をしていたのかと問う声は、この際、なんらの意味も持たないと考えた兵士の一人が城壁の上に駆け上り、城に迫る一軍を見て声を失った。
そこに翻る軍旗を知らない者などいるはずがない。大友軍に属していたのならば尚更に。
『抱き杏葉』。九州探題たる大友家の家紋としてあまりにも高名なそれが、攻め寄せる敵軍の各処に林立していた。
小倉城の陥落から、まだ幾日も経っていない。大友軍がここまで攻め寄せて来ているということは、小倉城を陥としてから、ほとんど日をおかずに軍を動かしたことになる。
しかも――と兵士は敵軍に林立する軍旗を改めて見やる。
大友宗家から杏葉紋を下賜された家を同紋衆と呼ぶ。いずれも九国に知られた名家ばかりだが、攻め寄せてくる軍は、その同紋衆の中でも特に名高い『あの家』ではないのか。
そう見て取った兵士は、その事実を城内に知らせるため、力の限り息を吸い込んだ。
だが。
「敵は大友軍だッ! 大友軍の戸次……お、鬼道雪だァッ?!」
兵士が叫ぶよりも早く、城内から絶叫にも似た声があがる。それも、一つ二つではない。
兵士は再び、声を失う。直接、敵軍を目の当たりにした者しかわからないはずの敵指揮官の情報を、どうやって城内にいる味方が知りえたのか。
その疑問の答えは、城内に射込まれた矢にあった。
すべての矢には一片の紙が結ばれており、それに気付いた城内の兵士が中身を確認したところ、中から一つの文があらわれたのである。
すべての矢文に共通するその文は――
◆◆
「『参らせ候 戸次伯耆守道雪』――なんだ、これは?!」
差し出された紙片を見た城主の口から、荒々しい誰何の声が発される。
その眼前で跪いた武将は、顔面を蒼白にしながら城中の様子を報告した。
「敵軍から射込まれてくる矢文です! その文で戸次勢の襲来を知った将兵は動揺著しく、一刻も早く立て直さねば大手門が破られる恐れも……ッ!」
「矢文ごときで城門が破られるはずなかろうがッ!」
城主は叱声を放つが、配下の表情は変わらない。また、今も城内各処から響いてくる混乱と恐慌に塗れた叫びを聞けば、配下の報告を一蹴することも出来なかった。
苛立たしげに床を蹴りつけながら、城主は更に問いを向ける。
「敵の数はッ?」
「は、混乱のためはっきりとはわかりかねますが、兵の報告ではおおよそ二千ほどかと!」
「二千、だと?!」
その数は城内の守備兵と等しい。
城攻めには守備側を凌駕する兵数が必要になるのは兵家の常識である。孫子などは、相手に十倍する兵士を有していたとしても、城攻めは最後の手段であると説く。
門司城ほどの堅牢な山城に立て篭もる相手に対し、同数の兵数で攻め込むなど無謀以外の何物でもなかった。
あの雷将、戸次道雪ともあろうものがこのような下策を採るとは信じがたい。あるいは――勝利を確信する別の要素が潜んでいるのであろうか。
そもそも、戸次勢は叛旗を翻した小原勢の主力部隊を挟撃するため、小倉城から東へ向かったのではなかったか。
小倉城の敗兵が口にしていたその情報が偽りであり、大友軍が小倉城を陥とした後、まっすぐに北上してきたのだとすれば――だが、それはあまりに無謀な用兵である。
なにしろ、門司城には二千の守備兵の他、毛利の援軍三千がおり、その後ろには精強な毛利水軍が控えている。二千程度の兵数では小揺るぎもしないことは誰の目にも明らかであり、大友軍とてそれは承知していよう。それでもなお軍を進めてきたということは、大友軍にはそれをするだけの勝算があるということであった。
城主は、小倉城から逃げ延びてきた兵士たちが口にしていた大友軍八千という数字が急に現実味を増したように思えた。
しかし、大友軍にそこまでの動員が可能なのか。
叛乱軍の多くはつい先ごろまで大友家に仕えていた者たちであり、現在の大友家の内情を知り尽くしている。この戦況で、千や二千ならともかく、八千もの大軍を動員できるはずがないのである。
であれば、大友軍は多くても二千という寡兵で進軍してきたことになる。
城主は脳裏に戸次道雪の姿を思い浮かべた。たおやかな外見に似合わぬ剛毅苛烈な戦ぶりを披露する方ではあるが、それは十分な勝算があった上でのこと。こんな一か八かの博打じみた戦をよしとする方ではないはずだ。
そう考えると、大友軍の勝算とは兵力以外の何か、ということになるのだが……
そこまで考えたとき、不意に城主は敗兵たちが口にしていたもう一つの情報を思い起こした。
『小倉城でこんなことを言う奴がいました。毛利の軍船から大友軍が出てきた、と』
まさか、と思った。
取るに足らない、戦場の混乱が招いた妄言であろう、と。
だが、もし毛利軍がこちらを裏切り、大友家に与したのなら、寡兵で攻め寄せてきたことも頷ける。こちらが頼りとする毛利の後詰は、そのまま大友家の後詰となり、叛乱軍は孤立し、なす術なく敗北するしかなくなるだろう。
あるいは、もう毛利軍が至近まで攻め寄せてきている可能性も……
と、そこまで城主が考えた時であった。
不意に、これまでに数倍する喊声が城中に響き渡り、城主は考えを中断させられてしまった。
「何事だッ!」
かしこまっていた武将が慌てて確認のために駆け出していく。
だが、それよりも早く、一つの報告が城主の下にもたらされた。報告というより半ば悲鳴に近いそれは――
「も、申し上げますッ! 内部からの手引きによって大手門が破られました! 戸次勢、突入してきますッ!!」
「なッ?!」
あまりに呆気ない勝敗の帰結を告げるものであった。
◆◆◆
道雪殿が城門をくぐった途端、周囲から幾度目かの勝ち鬨があがった。
その声に応じて道雪殿が右手をあげると、歓声は更に高まっていく。戸次勢は主の姿に尊崇の念に満ちた視線を送り、降参した門司城の将兵は驚愕と畏怖がない交ぜになった顔で敵将である道雪殿を見つめていた。
そんな中、進み出た配下の顔を見て、道雪殿は穏やかに微笑んでみせる。
「ご苦労でした、鎮幸、惟信。共に大友の名に恥じぬ見事な戦ぶりでしたよ」
『は、ありがたき幸せ』
異口同音に応じ、跪く由布惟信と小野鎮幸の両名。
その言葉に異論はない。あえて付け加えるなら、両名だけでなく道雪殿自身の指揮も剴切の一語に尽きた、ということくらいか。まあ今さら言うまでもないことではあるが。
鎮幸が内から城門を開き、惟信が先頭に立って突入。道雪殿は輿に乗った姿を敵味方の目に晒しつつ、全軍の進退を司る。
この三将に指揮された戸次勢の勇猛は瞠目に値した。
大手門を突破した段階で大友軍の優勢は動かぬものになったのだが、俺としては城を陥とすまでには、もう一山二山あると考えていた。あにはからんや、日が中天に達するまでに勝敗が決するとは。
無論、門司城の奪還は、この場の奇襲や武勇だけによるものではない。
この戦に先立ち、小倉城を一日の間で陥としたことは門司の城兵に少なからぬ動揺を与えた。それがなければ、俺が策略を仕掛ける余地もなかっただろう。
そして、敵軍が動揺から立ち直る暇を与えない強行軍。戸次勢が小倉城を陥としてから、まだ何日も経っていないのである。将兵の疲労は相当のもののはずだが、道雪殿に率いられた戸次勢は一人の脱落者も出さず、果敢な戦意をもって門司城を攻撃した。
あるいは、その時点で勝敗はすでに明らかだったのかもしれない。
惟信と鎮幸の後ろで同じように畏まりながら、俺がそんなことを考えていると、輿の上から道雪殿の声が降って来た。
「雲居殿」
「はッ」
声に促されるように顔をあげると、道雪殿はじっと俺を見つめていた。屋敷で見かける姿とかわりない様子を見ると、本当にここが戦場であるのかと疑いたくなってしまう。
しかし、よく見ると道雪殿はわずかに眉根を寄せている。
その視線は俺の右腕――血止めの布に向けられていた。
この傷は、俺たち潜入組が大手門を開ける際に負った傷だった。
俺が正面の敵兵と切りあっていたところ、横で戦っていた味方が倒れ、その敵がそのままこちらに突きかかって来たのである。
攻撃自体は袖(甲冑の肩部分にあるビラビラである。肩鎧ともいう)に阻まれ、穂先が上腕部を抉る程度で済んだのだが、体勢を崩したところで正面の敵が斬りかかってきた時には背に氷塊を感じたものだった。
幸い、鎮幸がすぐさま駆けつけてくれたので、事なきを得たのだが、下手すれば今頃は首だけの姿になっていたかもしれない。
実のところ、それ以外にも所々に手傷を負っていたりする。
考えてみれば過去の戦の時には、本営で采配を揮うか、前線に出ても頼りになる配下に護衛してもらっていた。
自分よりも格上の相手と斬りあった時もあるが、その時も状況としては一対一だった為、集団戦で一兵士として戦ったことはほとんどないと言ってよい。
特に今回は小倉城攻めの時と違い、周囲は敵兵だらけという状況で城門を開けなければならなかったので、結構危ない場面が多かったのである。
とはいえ、それは戦であれば当然のこと。俺以上にひどい手傷を負った者、戦死した者も少なくないのだから、俺などはむしろ幸運の部類に入る。
それゆえだろう、道雪殿も負傷のことに触れようとはせず、ただ一言、ご苦労でした、とねぎらいの声を発しただけであった。
俺は深く頭を下げる。その一言で、十分すぎるほどであった。
「道雪様、城内の抵抗はほぼ潰えましたが、いずこかに敵兵が潜んでいないとも限りません。いま少し兵をお連れくださいませ」
惟信が道雪殿に進言する。
見れば道雪殿は輿を担ぐ兵士の他、数名の兵士しか連れていない。彼らはいずれも戸次家でも有数の使い手なのだと思われたが、さすがに無用心の観は拭えない。
惟信の言葉に、鎮幸も同感だというように頷いていた。
輿の上に座す道雪殿は、その容姿や威厳もあいまって、敵味方の目を惹かずにおかない。物陰から弓や鉄砲で狙われたなら避けようがないのである。
勝敗は決したとはいえ、城内が完全に落ち着いたわけではなく、戸次家の家臣は、そういった事態を避けるためにも、当主には出来れば本陣で指揮を執ることに専念してほしいと考えているようだった。
実のところ、惟信や鎮幸は、過去、幾度もこの手の進言というか諫言を行っているらしい。
しかし、将兵の士気を高めるためには自身が前線に姿を見せることが必要だ、というのが道雪殿の言い分であり、それは確かな事実でもあった。実際、道雪殿が陣頭に立てば、大友軍の戦意は三割増す、とまことしやかに語られているほどなのである。
そして道雪殿が姿を見せることで、敵軍に与える影響も無視できない。鬼道雪の雷名は敵対する軍勢の士気を確実に削ぐことが出来る。その事実が端的に明らかになったのが、今回の城攻めであった。
これらの事実を前にしては、戸次家の家臣も前線に出るのを控えるように、とは口にできない。だが、それならそれで、せめてもっと大勢の護衛を引き連れて下されと口を酸っぱくして進言するのだが、道雪殿は配下のそういった意見はにこやかに受け流してしまうのが常である――とは、昨日、ふとした拍子に聞いた鎮幸の愚痴だった。
そして。
今日も今日とて、道雪殿は惟信の進言に頷こうとはしなかった。
「それよりも戦況の報告が先でしょう、惟信?」
ほらほら、と言わんばかりに報告を急かす主君の姿に、おそらくは内心でため息を吐きつつ、惟信が口を開いた。惟信の背に哀愁が漂っているように見えたのは、はたして俺の気のせいなのだろうか。
「本丸の一部でいまだ抵抗している者たちがいますが、そちらには十時殿があたっておりますゆえ、間もなく制圧できるでしょう」
続いて鎮幸が口を開く。
「城中の兵も大半は降参いたしました。これは軍議で決められたとおり、武装を解いた後、解放いたしまする。ただ、大友家への帰参を望む者も少なからずおりましてな、その者たちはどういたしましょうか?」
鎮幸の言葉に、道雪殿はゆっくりと口を開く。
「兵たちは自ら望んで叛旗を翻したわけではありません。大友家への帰参を望むのであれば受け入れてかまわないでしょう。しかし、それは後日のことです。今は各々の家に戻り、家族を安堵させるように伝えなさい」
御意、と応じた後、鎮幸は再度口を開く。
「士分の者たちはいかがなさいますか? 十名ほどが返り忠を申し出ております。いずれも小原鑑元殿に迫られ、仕方なく叛旗を翻したとのことで……」
言いつつも、鎮幸は不快そうに口元を歪めていた。
門司城の速やかな制圧は、彼ら城側の士分の者たちの降参、裏切りが大きく関与している。降参すれば命まではとらぬと呼びかけたのは大友軍であるが、それにあっさり応じた者たち――裏切りを裏切りで糊塗しようとする者たちに好意的でいられるはずもない。
それは俺も同様ではあるが、この段階で降伏した者には使いみちがある。
俺はそのことを口にしようと顔をあげかけたが、それに先んじて道雪殿がこんなことを言ってきた。
「それに関しては軍師殿らにも相談しなければならないでしょう。一人はなにやら策がおありのようでもありますし」
主君の言葉に、惟信と鎮幸の二人がくるりと振り返り、俺を見る。
口を開きかけていた俺は、咄嗟に何か言うことも出来ず、ぱくぱくと口を開閉させるのみ。
そんな俺の姿を見た二人は、主君と同じ見解に達したのか、元の姿勢に戻ると、再び声をそろえて、御意、と畏まる。
……時折、思う。軍師を手玉にとる人に、軍師なんて必要ないんじゃないかなあ、と。
◆◆◆
「そのことに関しては全面的に同意いたします……」
門司城、軍議の間。
遅れて入城したもう一人の軍師である大谷吉継も、俺の道雪殿軍師不要論に同意してくれた。
だが、連日の強行軍が響いたのか、その言葉に力がない。しかし、疲れ果てているにしては動きは機敏である。その声から力を奪っているのは疲労というよりは、困惑、だろうか。顔を窺えないのではっきりしたことはわからないのだが。
心配になってたずねてみたのだが、当人が「な、何でもありませんッ」とややむきになった様子で口にする以上、あまりつっこんで聞くのもためらわれた。
そんな俺と吉継のやりとりを見ていた道雪殿が微笑みつつ、上座で口を開く。
「雲居殿」
「は、なんでしょうか?」
「吉継殿は悩んでいるのですよ。父と兄、どちらを選ぶべきかと……」
「べ、戸次様ッ!!」
なにやら口にしかけた道雪殿の言葉を、吉継の甲高い声が遮った。
突然のことに、俺は驚いて吉継に視線を向ける。あの吉継が、目上の人間の言葉を遮るという無礼を行ったこともそうだが、その声が――なんというか、吉継らしからぬ『女の子』の声だったのである。
当の吉継も、すぐに自身の行いに気付いたのだろう。なにやら呆然とした様子で、口元を押さえている。
「吉継殿……?」
「は、い、いえ、なんでも。そう、なんでもありませんッ、戸次様、大変失礼いたしましたッ!」
吉継が勢いよく頭を下げる。道雪殿はその姿を見て「お気になさらぬように」とにこにこと笑いながら、何故か楽しそうに俺に視線を向けてくる。
何が何やらわからない俺は、道雪殿へ問いを向ける。
「あの戸次様、父と兄というのは……?」
しかし、俺の問いに応じたのは道雪殿ではなく、吉継だった。
「雲居殿!」
「はッ?!」
そうして、再び響く甲高い吉継の声。
「我が軍は門司城攻略という目的は達しましたが、戦はまだ終わっていません。否、むしろここからが本番であるといえるでしょう。違いますかッ?!」
「そ、そのとおりであると思いますが、あの、吉継殿、何をそんなに慌てて……」
「慌ててなどおりませんッ。これよりの相手はあの毛利軍。小原勢などとはくらべものにならない難敵であると心得ます。ゆえに一分一秒が勝敗を分けることになりましょう違いますか?!」
「そ、それもそのとおりですが……」
なんか明らかに吉継の様子がおかしい。一体、何が吉継をこれほどまでに追い詰めているのだろうか――いや、まあ、多分、上座に座ってる人の仕業だろうというのはわかるのだが、一体、何を言えばあの吉継がこうまで動揺するんだろうか?
吉継の勢いに半ば呆気にとられながら、俺がそんなことを考えていると、それを察したのか、吉継の舌鋒がさらに勢いを増した。
「ならばッ!」
「はいッ?!」
「向後の手立てを一刻も早く練って動くべきですというかどうせもう練ってあるのでしょうからささっと策を示してくださいよろしいですかよろしいですねッ?!」
「か、かしこまりましてございますッ。ではまず降伏した者の話によれば毛利の援軍が長門の勝山城に到着したとのことですのでこれを利用してですね?!」
勢いに押されてかしこまる俺。
なにやら周囲でにやにやしている(にこにこ、ではない)人たちの視線なんぞ気にしていられない。
俺の脳裏では、先ほどから同じ言葉が右往左往(?)していた。
――おのおの方! 乱心でござる吉継殿が乱心でござる!