時を少し遡る。
ほぼ当初の計画どおりに門司城を陥とした大友軍は、勝利の喜びに浸る間もなく篭城の準備にとりかかった。
怪我人の手当てをし、城門や城壁の損傷具合を確認し、城内に敵兵が潜んでいないかを確かめ、武具糧食を点検し――やるべきことはいくらでもあった。早ければ明日にも毛利軍が城へ押し寄せてくる以上、時間はあまり残されていない。すべてを迅速に進めなければならなかったのである。
だが。
案に相違して毛利軍が押し寄せてくることはなかった。
当初、関門海峡を渡っていた毛利軍は三千。こちらの兵力がその半分に満たないことは解きはなった捕虜の口から知らされているはずである。くわえて、大友軍は豊後を発してよりこの方、小倉城、門司城と敵地を長駆して連戦したため、重い疲労を抱えており、この地で鋭気を養っていた毛利軍との戦いでは不利を免れない。
にも関わらず、毛利軍の指揮官である吉川元春は動かなかった。調べてみると、毛利軍は新たに到着した毛利隆元率いる八千の援軍の渡峡を厳重に守備しているという。
関門海峡は対岸を目視で確認できる程度の幅しかない。だが潮流の速さと、日に幾度も流れが変わる複雑さが、渡峡の難度を跳ね上げていた。まして八千の大軍を、水軍の力を借りずに渡すとなれば、一日二日で為せるものではない。大友軍の奇襲を防ぐ意味でも元春は動けなかったのだろうと思われた。
連戦の疲労を癒し、守備を固める時間を得られたという意味で、この毛利軍の判断は大友軍にとって僥倖であると考える者もいたし、実際、その通りではあった。
だが、俺はそれを素直に喜ぶことが出来なかった。得られた時間よりも、毛利軍が示した慎重さこそが恐ろしかったからである。
正直なところ、俺としては元春に攻めかかってきてほしかったくらいであった。彼我の戦力や状況を考えれば、元春麾下の三千のみでの城攻めという手段は決して無謀なものではない。むしろ、こちらが城を陥とした間際こそ、もっとも奪還が容易であると断じても良いだろう。
そうして戦に引きずり込んでしまえば、敵の対応も予測しやすい。だが、あえて捕虜を解放して、こちらの内実をさらけ出して見せたにも関わらず、毛利軍は動かなかった。
あるいは、少し手の内を晒しすぎたか、と俺は小さく嘆息する。
度重なる奇襲、そして鬼道雪がみずから軍を進めてきたことを知った毛利軍が性急な攻撃をためらうのは、ある意味で当然のことかもしれない。
だが、ただでさえ八千もの想定外の援軍が加わった毛利軍に、冷静に構えられてはこちらが付け入る隙がなくなってしまう。というか、口からでまかせで出した八千という数字が、本当に敵方に加わるとはさすがに予想だにしていなかった。
なにより一番まずいのは――
「これは小倉城の方も見抜かれたかな?」
無論、今の段階で断定はできない。陸兵が門司城を攻めるのはほぼ確定だが、水軍の方がどう動いたかまではわからず、あるいは今頃、こちらの思惑通り小倉城を攻めるために周防灘から関門海峡に向かっているという可能性もないことはないのだが……海峡付近に布陣する毛利軍の、磐石さを絵に描いたような陣構えを聞くに、水軍のみがこちらの期待通りに動いていると考えるのは楽観のそしりを免れないと思われた。
――利に惑わず、策に頼らず、正攻法をもって大軍を動かす毛利軍。
先日吉継に話した、俺が予測しえる戦況の中で最悪のもの。それが、どうやら現出してしまったようだった。
策に頼らざるを得なかった大友軍と、策に頼る必要のなかった毛利軍。それは端的に現在の大友、毛利、両家の勢力の差を示すものでもあったろう。
そこまで考えて、俺は苦笑をこぼす。
「まあ、俺が言って良いことじゃないな」
道雪殿に請われ、大友軍の策を考えたのは俺なのだ。その策が毛利軍に阻まれたからといって、責任を大友家に転嫁するようなことを考えるのはさすがにみっともない。
となれば、ここは軍師らしく策によって状況を打開するしかあるまい。
最悪の状況。俺は現在の戦況を指してそう言ったわけだが、それはつまり毛利軍が今のように動くかもしれない、ということを一応予測していたことを意味する。
当然、そうなった場合に採るべき手段も考えてはいた。
地力で優る毛利軍に対しては手出しが出来ない。必然的に策を仕掛けるのは叛乱軍ということになる。
こういう場合のセオリーは、やはり頭立った人物を押さえてしまうことか。叛乱の首魁である小原鑑元さえ除けば、代わりに叛乱軍を率いることが出来るような人物は見当たらず、叛乱は終息するだろうと考えられた。
まずは松山城に降伏を勧告する使者を出す。
問題は向こうがこちらの使者を城内に迎え入れるか、という点であるが、これに関しては、門司城陥落の際にこちらに降伏してきた連中が役に立つ。彼らは末端の兵ではなく、士分の者たちであり、鑑元もその顔を知っている。彼らを連れて行けば、門司城が陥ちたという事実の証明となり、鑑元もこちらの話を聞かざるを得なくなろう。
その際、鑑元が降伏を肯えば良し、それがかなわなかった場合、捕らえるなり、あるいは殺すなりするしかない。
とはいえ、それが容易なことではないのは当然である。城内に入れたとしても鑑元の周囲には部下がいるし、こちらの武器は入り口で取り上げられるに決まっている。身柄を押さえるためには、素手で鑑元やその側近を制圧しなければならないわけだが、負傷した今の俺にそんな真似は不可能である。無論、負傷していなくても不可能だが。
では、どうするか。
それを考えたとき、俺の脳裏に浮かび上がったのは、いつぞや南蛮神教の女性から取り上げた短筒であった。鉄砲が普及してきたといっても、あれはまだ量産にも至っていない最新鋭の技術の塊。怪我で身体のあちこちに布が巻かれている今の俺ならば、隠す場所には事欠かないし、向こうも俺のような無名の若造をそこまで警戒することはないだろう。
鑑元を押さえてしまえば、その隙に強襲をかけて松山城を陥とすことは不可能ではないはずだった。
だが、この考えは早い段階で捨てた。
理由は言うまでも無く成功の確率が低いからであるが、この策の成否以前に降伏勧告にも影響が出そうだったから、ということもある。こういった謀略を秘めて相手に対すれば、降伏を勧める言葉に実が伴わない。向こうとて戦乱の世を生き抜いてきた武将である、こちらの狙いを見透かすことは出来ずとも、語る言葉に誠意や真情が含まれていないことは察してしまうだろうと思われたのだ。
くわえて言えば、仮に成功したとしてもこの方法では間違いなく後に禍根を残す。無論、失敗すれば俺の身がどう処されるかなど考えるまでもなく――脳裏によぎった、柳眉をつりあげ、あるいは涙を滲ませて此方を見つめる人たちの顔が、この策を採ることを俺にためらわせたのである。
ではそれ以外の策を考えたのか、と問われれば、実のところ首を横に振らざるを得なかった。何故といって、道雪殿が『その必要はありません』と静かに断言したからである。
当然、俺はその言葉に対して疑問を投げかけた。
最悪の状況に陥ってしまった時、それを打開するための策が必要ないとはどういうことか、と。
漫然と状況に流されていては、毛利軍の圧力に磨り潰されるのを待つばかりだ。そんなことは道雪殿も承知の上だろうに。
だが、道雪殿は穏やかに微笑むばかりで確たる返答はくれず、俺は追求しそこねてしまった。
まあ、そもそも最悪の状況などと言っても、そこに到るまでには小倉城への奇襲、門司城への強襲など綱渡りの連続なのである。そんな先の先のことを考えている暇があったら、もっと至近の難問について考えるべきだ、と道雪殿は言いたかったのかもしれない。
俺はそう考え、一旦、疑問を封印したのである。
◆◆
そして今に至り、俺は無策で最悪の状況に対面することになってしまったわけである。無論、道雪殿のせいだ、などというつもりは微塵もない。あの時点で何をどう考えたところで、今の戦況に即した名案が思い浮かんだはずもなし。というか、この戦況をあっさりと覆すことが出来るのなら、俺はそれだけで飯を食えるだろう。
しかし、さて、本気でどうしたものか。座り込んで腕を組む。こうすると――
「ポクポク……チーン、と名案が思い浮かぶ――わけないか」
我ながら妙なことを考えてしまった。やはり疲れているのかな、と首を傾げると、不意に背後から声がかけられた。
「これは軍師殿。このようなところにお一人で、何を考えていらっしゃったのです?」
「わッ?! と、これは戸次様」
振り返れば、そこには車椅子に掛け、微笑を湛えた道雪殿の姿があった。俺は足を組みなおし、慌ててかしこまる。
その慌てぶりがおかしかったのか、口元に手をあてて笑いをこらえる道雪殿。その姿は、俺の目には常といささかも変わらないように映ったが、無論、そんなはずはなかった。
道雪殿には俺と違って一軍の指揮官としての責務がある。度重なる移動と戦闘に俺以上に身心に疲労を抱えているのは間違いない。にも関わらず、眼前の佳人の表情や態度にはそういったものが欠片も感じられないのだ。指揮官が焦燥や苛立ちを面に出せば、麾下の将兵が動揺する。それをわきまえた道雪殿の振る舞いは、実に見事なものと感心するしかなかった。
しかし、それはそれとして、いつぞやもそうだったが車椅子で音も無く背後に忍び寄るのはやめてほしいのですけれど。
俺が控えめにそう口にすると、道雪殿は小さく首を傾げた。
「これは異な事を。わたくしは普段と同じように雲居殿に近づいただけですよ。気がつかなかったのは、そちらが他のことに気をとられていたからではありませんか?」
にこやかにそう言われてしまえば、返す言葉がない。というか、もしかして――
「あの、戸次様、いつからそこに……?」
「今しがたですが、それがなにか?」
「い、いえ、特に何かがあるというわけではないのですが……」
もしや今のぽくぽく、ちーんという独り言、思い切り聞かれてしまっただろうか。それはさすがに恥ずかしすぎる。
かといって、聞いていましたかと確認をとるのも躊躇してしまう。道雪殿の耳に入っていなかった場合、追求は避けられないだろうし、聞かれたらどう説明していいかわからん。
よって、ここはささっと話題を変えて誤魔化してしまうべし。
「ところで戸次様、何かわたしに御用がおありだったのでは?」
「朝餉の用意が整ったとのことなので、皆で共に、と思いまして。今後のこともあります。食べられる時にしっかりと食べておきましょう」
その言葉に、俺は目を瞬かせる。いや、言っていることはまったくその通りなのだけれど、それをわざわざ一軍の指揮官が伝えに来るのはいかがなものか。
「それはそのとおりかと思いますが、わざわざ戸次様ご自身でお越しにならずとも……」
傍仕えの一人にでも頼めば良いのに、と俺が言うと、道雪殿はいきなり表情を曇らせ、悲しげに俯いてしまった。
何事か、と俺が戸惑っていると、道雪殿は何かを堪えるように唇をかみ締めて――
「戦がはじまってこの方、雲居殿と言葉を交わす機会をなかなか得られず、顔をあわせたとしても血なまぐさい話ばかり。ならばと、ほんの短い間でもお話がしたいと思い、惟信の制止を振り切ってわたくし自ら参ったのですが……雲居殿にはとんだご迷惑だった様子。申し訳ありません……」
「うぇ?! あ、いや、迷惑などということは……」
「しかし、今わたくしの顔など見たくもないと」
「言ってませんがなッ?!」
どれだけ曲解したら、そういう結論に達するのか。
思わず声を高めて否定する俺の顔を、道雪殿は伏し目がちにちらと見やった。
「……では、わたくしが参ったとしても構わないのですか?」
「もちろんですッ! ただ、戸次様ほどのお方が小姓のような真似をなさる必要はないと申し上げただけで、むしろ戸次様と顔をあわせるのは私も望むところ……」
自分でも良くわからないうちに、良くわからないことを言い募る俺。今しがたも思ったが、ここ数日、戦況や今後の展開などを考え詰めだったので、少なからず疲労が積もっていたのかもしれない。
一方の道雪殿は、俺の言葉を聞いた途端、嬉しげに顔を上げ、ぱちんと両手を打ち合わせた。
「それを聞いて安堵いたしました。では、今後も何か事あった時にはわたくし自らが雲居殿に伝えに参りましょう。雲居殿のご希望とあらば、惟信も納得してくれるでしょう。よろしくお願いしますね」
「は! もちろんでござ……」
言いかけて、俺は唐突に口ごもった。
……おや?
それはつまり、事あって道雪殿が動く都度、俺が惟信に睨まれるということではありませんか?
「……あの、戸次様。由布様にはきちんとせつめ――」
「それはそれとして」
追求への手蔓を、笑顔を浮かべつつ容赦なく断ち切る鬼道雪。マジパネェです。
「先の問いを繰り返しますが。このようなところで、怖いほどに真剣な顔で何を考えていらしたのです、軍師殿?」
渋面を浮かべていた俺は、その道雪の言葉におもわずはっと表情を改める。道雪殿はことさら態度や口調をかえたわけではなかったが、その眼差しは明らかに先刻までとは異なる真摯な色が浮かんでいた。
俺が答えを返さないうちに、道雪殿はみずからの言葉を否定するようにかぶりを振って続けた。
「いえ、愚問でしたね。先日、あなたが仰っていた最悪の事態。今の戦況は、それよりもさらに悪しくなったといっても過言ではありません。そのことを考えておられましたか」
「は、仰るとおりです」
道雪殿の言葉に、俺は頷く。
毛利隆元の参戦に代表される、俺の予想を大きく上回る毛利家の動き。今、勝敗の天秤がどちらに傾いているかと問われれば、間違いなく敵方だろう。このままでは間違いなく手詰まりになるが、かといって簡単に打開策が出るような状況でもないのは、繰り返し考えたとおり。
だからこそ、俺はいまだ対策を講じかねているわけだが――
と、俺が表情を曇らせると、それを見た道雪殿がほぅっと息を吐く。そして、どこか困ったような微笑を浮かべた。
「そこまで考える必要はないと申しましたのに。その様子では随分と心を悩ませていたようですね。申し訳ないことをしました」
その道雪殿の言葉に、俺は怪訝な表情を浮かべる。
あるいは道雪殿には何らかの腹案があるのかもしれない、とは考えていたが、道雪殿自身が口にしたように、戦況は俺が考えていたよりも悪い方向に傾いている。生半なことでは事態の打開は難しいはずなのだが、道雪殿の様子を見るに、どうもそのあたりのことを大して気にかけていないように見えたのだ。
そんな俺の疑問を察したのだろう。道雪殿はゆっくりと口を開いた。
「『門司を陥とし、他紋衆の叛乱がこれ以上拡がらぬうちに食い止める』こと。石宗様のお屋敷で助力を請うたわたくしに、あなたはそう言ってくださいました。そして、今、あなたの言葉どおり、門司城は大友家の手に帰りました」
一旦、言葉を切った道雪殿は、俺を――というより、俺の身体のあちこちに巻かれた布に暖かな眼差しを向けつつ、さらに先を続けた。
「大友家に仕えているわけでもないあなたを戦場に連れ出し、その智に頼った。今でさえ、わたくしはあなたに返しきれない恩があるのです。これ以上の成果を求めては、望蜀も甚だしいというもの。わたくしはそこまで浅ましくはありませんよ」
そう言うと、道雪殿は繊手を伸ばし、俺の額を人差し指でつんと突付いた。
突然のことに、目を瞬かせる俺を見て道雪殿は楽しげに微笑んだが、すぐに表情を改め、言葉を続けた。
「心配はいりません。門司が陥ちた今、毛利家はともかく、鑑元殿はこれ以上の戦を望まないでしょう」
ひとたび本拠地を失ったことで、鑑元の権威は大きく衰えた。たとえ毛利の力をもって奪還することが出来たとしても、取り返された門司城は鑑元の物ではありえない。失墜した発言力は戻らず、これまでのように対等に近い立場で毛利家と駆け引きをすることは出来なくなり、鑑元は実質的に毛利家の与力に成り下がる。
鑑元の目的が自身の権力、あるいは大友家への恨みだけであるのなら、毛利家の下につくことになっても問題はないかもしれない。だが――
「大友宗家、そしてわたくしども同紋衆への恨みや憎しみがないわけではないでしょう。しかし、あの御仁は大友家を滅ぼすことも、それに成り代わることも望んではおりません。毛利の誘いに乗ったのは、主家を案じるゆえにこそなのです」
そして言う。だから、門司城が『小原鑑元』の手から失われた段階で、彼の将の抗戦の意味は失われたのだ、と。
その道雪殿の言葉に、俺は首を傾げざるを得なかった。
毛利が鑑元に手を差し伸べた理由は幾つもあろうが、もっとも大きなものは関門海峡の支配権を欲したからであろう。門司城を押さえる鑑元が、そこに目をつけて毛利軍を引き出し、その力を利用しようとしたというのはおおいに有り得る話である。
そして、大友軍が門司城を奪回した今、鑑元の手からその切り札は失われたというのも理解できる。
しかし、鑑元の目的が大友家を滅ぼすことではなく、糾すことであり、門司城を失っただけで抗戦を断念するというのは、いささかならずこちらに都合が良すぎる考えであろう。
毛利軍が叛乱軍から手を引き、独自の動きをはじめたというならまだしも、その確認もとれないうちに、どうして道雪殿は断言できるのだろうか。
俺はそんな疑問を覚えたのだが、道雪殿には深い確信があるようだった。その確信の理由は俺にはわからない。おそらく大友家に仕える者だけが知る何かがあるのだろう、とそう思う。
それならそれで、もっと早くにひとこと欲しかったと思うが、よくよく考えてみると、俺は敵将である小原鑑元の為人をろくに確認しようとしなかった。
武名の高い他紋衆が、加判衆を辞めさせられた末に毛利家と手を結んで謀叛を起こした――ただこれだけで、大方の鑑元の人柄は把握したつもりになっていたのである。
その意味で、責は俺にもある。
まあ実際、事前に鑑元の目的を知っていたとしても、門司城を陥とさなければならないという状況に変わりは無かったわけで、俺の策に影響が出ることはなかっただろう。無論、道雪殿はそのあたりも考えた上で口を緘していたのだろうし、そうせざるを得ない理由もあったのだろう。
そんなことを考えていると、ふと道雪殿がじっとこちらを見つめていることに気付いた。
優しげな眼差しと真正面から見詰め合う形になり、俺は気恥ずかしくなって慌てて視線を逸らす。こちらの心のヒダまですくいとってしまうこの眼差し、ほとんど凶器ではなかろうか。
「雲居殿」
穏やかな声音が、俺の耳朶をくすぐるように間近から発せられる。
「本来、あなたと大友家とは何の関わりもない身。此度の戦も、参加しなければならない謂れはあなたにはありませんでした。にも関わらず、あなたはわたくしの請いを容れてくださった。そのことは心より感謝しています」
ですが、と道雪殿は表情を曇らせつつ、言葉を続ける。
だからこそ、伝えずにおいたことがある、と。
それは大友家にとって秘事であり、禁句。
大友家の先代当主義鑑(よしあき)、現当主の宗麟、そして道雪殿や紹運殿、さらには今現在の敵手である小原鑑元を含めた多くの大友家臣たちを混迷の淵に叩き込んだ大乱。
家中で語ることさえ憚られている出来事を、容易く外様の人間に話せるわけがない。それは大友家の秘事を晒すことであり、それを話した者はもとより、聞いた者さえどのような災禍に巻き込まれるか知れたものではないからである。
「此度の乱の淵源はそこにあります。鑑元殿が何故に此度の乱を起こしたのか、その理由も。安易に口にするべき事柄ではありませんし、間もなくこの地を離れるあなたにとっては知る意味は少なかろうと、これまでは口を閉ざしてきたのですが……」
そこまで言って、道雪殿は一転、悪戯っぽく微笑んだ。
「率直に言って、わたくし、少々欲が出てしまいました」
「欲、ですか?」
どういう意味だろうと首を傾げる俺に向け、道雪殿は例の眼差しを向けつつ、ゆっくりと口を開いた。
「雲居殿が知る大友の臣は、わたくしと紹運、鎮幸や惟信といった者たちです。そして遠からず、吉弘鑑理殿や、わたくしの養子である誾の顔を知ることになるでしょう。しかし、それだけではなく他の臣たち――味方ばかりでなく、今は敵となっている鑑元殿ら他紋衆の者たちを含めて、大友家と、大友家に仕える者たちのことを、もう少し雲居殿に知って欲しくなった――そういう意味です。もちろん、知ったがゆえに厄介ごとに巻き込まれる危険もないわけではありませんから、無理にとは申しませんが」
いかがでしょうか、と小首を傾げて問いかけてくる道雪殿。
――はい、その視線と仕草だけで断るという選択肢は一瞬で消滅しました。
もちろん、道雪殿の薫るような色香に惑わされただけではなく(惑わされたこと自体を認めるのに吝かではない)、大友家にとっての秘事――おそらく他者に知られることは出来るかぎり避けたいであろう出来事を話してくれるほどに、道雪殿が俺を信用してくれたことが嬉しかったという理由もある。
そこまで考えた時、ふと気付いた。
もしかしたら、このために道雪殿はひとりで俺のところに来てくれたのかもしれない、と。
かくて、俺は道雪殿の口から、一つの乱を聞くに至る。
古く鎌倉の時代まで遡る長い長い大友家の歴史の中で、血文字をもって記されるであろう悲劇。
あの戸次道雪をして、思い返すことさえためらわせるその大乱の名を『二階崩れの変』といった……