豊後国府内、戸次屋敷。
吉継にお義父様と呼ばれても赤面しないようになったある日のこと。
俺は屋敷の主殿に呼ばれて、その部屋に訪れていた。
「ご足労いただきありがとうございます、雲居殿」
「戸次様の屋敷で世話になっている身です。この程度のこと、礼を言われるまでもありませんよ」
俺の言葉ににこりと相好を崩す道雪殿は、あいかわらずお綺麗でありました。
「そう言っていただけると助かります。わたくしから出向こうかと思ったのですが、少々表では話しづらいことですので……」
ほう、と思わず道雪殿の顔を一瞬だけ凝視してしまった。
そしてにこやかに告げる。
「『吉継殿とは上手にやっていますか、お義父様?』……とか仰るつもりではございませんよね?」
「……あら、なんのことでしょう?」
「いえいえ、違っていたのなら結構です。お答えになるまでの間が何なのかはあえて問いますまい」
「ご配慮感謝します、と言うべきでしょうか」
「それはそれがしが答えるべきことではないと存じます」
あははおほほと笑いあう俺と道雪殿。我ながら何やってんだか。
しばし後。
こほん、と咳払いした道雪殿が表情を改めて口を開く。
「冗談はこのくらいにしておきましょう」
「承知いたしました」
その眼差しに真剣なものを感じ取った俺は、姿勢を正して道雪殿の言葉を待ち受ける。
「それでは――」
思わずこちらが怯みそうになるほどの深い黒の瞳に、俺の顔が映っている。
知らず息をのんだ俺に、道雪殿は真剣そのものの調子でこう言った。
「お義父様と呼ばれることには少しは慣れまして、お義父様?」
……この時、俺が懐の鉄扇で道雪殿の頭を叩きたくなったとしても、一体誰がそれを責められようか?
「帰っていいですか?」
「駄目です」
いろんな意味で脱力した俺がじと目で言うと、道雪殿は輝くばかりの笑みを浮かべた上で、首を横に振る。なんかもう悪戯が成功した子供のようで「我が事成れり!」と顔に書いてあった。
確かあなた、俺より年上ですよね、鬼道雪様?
「それではあらためまして――」
「一応申し上げておきますが、次に同じことをしたら無言で席を立たせていただきますからね」
「ご安心を。わたくしは引き際を心得ぬ猪武者ではございません」
「たしかに。そして奇襲が大の好物なんですね」
わかります。
ふん、と俺がそっぽを向いていると、道雪殿はさすがに少し困ったように首を傾げていた。
少々からかいすぎたと反省したのか、それとももう十分からかって満足したのかは不明だが、今度はまっすぐに本題を切り出してきた。
「京へ向かう船の支度がととのいました。おそらく数日のうちに上方へ発てるでしょう」
それは俺にとって吉報と称するに足る知らせだった。
元々、大友家は将軍家と緊密な関係を保ってきたから、そのための準備も対して時間はかからないだろうとは考えていたが、やはり早い。
これでようやく東に向けて旅立つことが出来る――そう浮かれて良いところだったが、俺は浮ついた気持ちにはならなかった。なれなかった、と言った方が正確か。
眼前の道雪殿が湛える厳しい表情が、これが単なる報告ではないのだと言外に告げていたからだった。
俺は小さく息を吐く。
「これでようやく東に帰れる……というわけにはいかないのでしょうね」
その言葉に、道雪殿は頷いた。
「はい。寸前で、わたくしは宗麟様に此度の使いは取りやめるよう申し上げるつもりですから」
「たしか、それがしが先の戦に協力する条件に、此度の件もはいっていたはずですが」
「わたくしもそう記憶していますが、それで採る行動がかわることはないでしょう」
いっそ無造作に言ってのけた道雪殿の顔は、常になく硬かった。
破約を公言しているのだから、それも当然であろう。俺はここで大声をあげて道雪殿を罵っても許されるだろうし、道雪殿もそれは覚悟の上だと思われた。
だが。
「……少々、勝ちすぎましたか」
俺の呟きに、道雪殿の表情がかすかに緩む。それはほっとしているようで。あるいはどこかで俺がそう口にするであろうと予期していた表情とも見て取れた。
「それは違います。雲居殿が講じた策は、この上なくわたくしの意図に添ったものでした。その戦果に感謝こそすれ、不平を唱えるなどありえません。ただ……」
そこまで口にして、めずらしく道雪殿はため息を吐いた。
「わたくしの見通しが甘かったと言うしかありませんね。宗麟様があのような沙汰を下すとは、正直なところ考えておりませんでした」
道雪殿が口にした沙汰。
それは先の『大友家他紋衆の乱』における首謀者である小原鑑元に対する処分である。
鑑元は切腹して果てた。それ自体は問題ではない。主家に叛旗を翻した時点で、鑑元自身も覚悟していたはずである。
だが、宗麟はそれに先立って慈悲を示してしまった。
鑑元が南蛮神教に改宗し、神のもとで懺悔するならば、此度に限っては許しましょう、と。
宗麟は堂々と宣告したのである。
鑑元たち他紋衆が主家に叛乱した理由を、自分はまったく理解していない、と。
それは慈悲という形をとった、死刑宣告だった。むしろ鑑元の散り際の誇りを奪い去るという意味において、謀反を責めて切腹を申し付けるよりもはるかに性質が悪い。
これを耳にした時の鑑元の心中を思うと、敵であったとはいえ、俺は鑑元への同情を禁じえなかった。面識などろくになかったが、その死を汚した宗麟に義憤すらおぼえたほどだった。
俺ですらそうなのだ。他の大友家の家臣たちがどう思ったのかは想像に難くない。
今回、戸次勢がすみやかに豊前の地を押さえたために、鑑元に同調して蜂起した者はいなかった。だが、あの戦がもっと長引いていたら、各地で蜂起したであろう者たちは確実にいただろう。そう考えたからこそ、道雪殿はすみやかに門司城を陥とすことを望んだのである。
そんな彼らが。
今回は戸次勢の武威に屈する形で矛をおさめた彼らが、この宗麟の措置を知った時、何を思うのか。
一時は怒りに蓋をされた。それゆえにこそ、溜まった怒りはより以上の勢いで噴出するだろう。
もはや、その怒りを遮ることは誰にもかなうまい。
「鑑元殿を制すれば、しばらく――そう、少なくとも一年は時が得られると、わたくしはそう考えていました。それだけの時があれば、あるいは元を断つことが出来るかもしれません。それがかなわずとも、最悪の事態に備えることは出来る。そう思っていたのですが」
道雪殿の表情が翳る。その声はこれまで聞いたことがないほどに苦い。
「このままでは、一年どころか半年……いえ、それどころか――」
下手をすれば、この冬が訪れないうちに再び叛乱が起こるかもしれない。それは俺が言葉によらず察した道雪殿の胸中であった。
「……遠からぬうちに起こるであろう叛乱に際して、今一度力を貸せと。それが言を翻し、それがしを府内に留めおく理由でございますか?」
「恥を知らぬやりようだということは重々に承知しています。承知した上で、伏してお願いいたします。どうぞ大友家にお力添えを。類まれなるその智力、一臂なりとお貸しくださいませんか。もしお望みであれば、戦終わりし後、この首を献じても――」
「豊前で……」
道雪殿の言葉を断ち切るように、俺は口を開く。道雪殿は伏せかけた頭を止め、姿勢を戻して俺を見つめてくる。
「先の乱についてお話しいただきましたね。もっと大友家のことを知ってもらいたいと、そう仰せでした」
「はい」
「吉継との縁を取り持ってもいただいた……まあ、やり方に物申したいところはありましたが、それはさておき、そういった行動は、これすべてそれがしの意を大友に向けるためのものであった、とそう考えてよろしいのか?」
「はい、と言いましたら、どうされますか?」
また、と道雪殿はひっそりと続ける。
「違います、と答えたら信じていただけましょうか?」
その言葉を最後に、室内に静寂の幕が下りた。
息がつまるような重苦しい沈黙。これまで道雪殿と話をしていて、こんな空気に包まれたことはない。そして硬く強張った道雪殿の端整な顔――能面のような無表情の道雪殿の顔も見たことはなかった。
はあ、と。
俺は深々とため息を吐いた。それはもう盛大に。
そして右手を頭にのせ、乱暴に頭を掻く。
「まったく、 なんと意地の悪い……」
そういって、俺はじっとこちらを見据える道雪殿に苦笑を返した。
「それがしごときをそこまで評価していただいたのは光栄の至りというものですが、それでもその仰りようは反則です。そんなお顔で、そんなお声で、そんなお優しい言葉をいただいたら、応えざるを得ないでしょうに」
「雲居殿……」
俺の言葉に、能面のようだった道雪殿の表情がかすかに緩んだように見えた。
俺はなおも言葉を続ける。
「大友は九州探題に補任されるほど将軍家と近しい関係。であれば、使者の往来はこれまで幾度もあったでしょうし、外交にそれを利用したこともあったはずですね」
俺の問いに、道雪殿は小さく頷く。
「それはつまり、今回もそうするであろうことは容易に予測がつくということ。当然、毛利とて大友がそうすると予期しているはずです」
「……将軍家への使者を襲撃などすれば、周辺諸国すべてを敵にするようなものですよ?」
「瀬戸内の海賊の多くは毛利の息がかかっているのではないですか。その連中に伝えればよい。積荷はすべてくれてやるから、大友の船を襲え、と。いえ、直接伝えずとも、噂という形で流すだけで金目当ての賊は動くでしょう」
そう。別に道雪殿は俺を引き止めるために将軍家への使節を阻もうとしているわけではない。
とはいえ、戦が終わった後にその使節の船に俺を乗せる、という話は確かにあったわけで、破約という事実は残る。俺が腹を立てて席をたつ理由はあるわけだ。
石宗殿の恩に背を向ける理由。
大友家臣である吉継に対し、大友から離れることを主張するには十分な理由に違いない。
つまり、道雪殿はわざわざ俺に背を向ける口実を与えた上で、どうか力を貸してほしいと頭を下げようとしたのである。
これを意地悪といって何が悪いのか。
俺がじとっとした眼差しを道雪殿に向けると、道雪殿はおとがいに手をあて、困ったように首を傾げて見せた。
「困りました。わたくし、精一杯誠意を尽くしてお願いしたつもりなのですが……」
「ええ、ええ、そうでしょうとも。しかし、これで俺が道雪様に腹を立てて席をたっていたら、赤っ恥もいいところですよ? しかも話し方から表情にいたるまで、俺が断りやすいようにしてましたよね? これを意地が悪いといわず何と言えばよいのですかッ」
言葉を連ねているうちに段々腹が立ってきた俺は、いつの間にか口調が乱暴なものにかわってきていた。
そんな俺の憤慨を見て、道雪殿がくすりと微笑む。
花が香るような笑みだったが、俺はあえてしかめっ面をしてみせた。ふん、そう何度も色気と笑顔に誤魔化されるものか、と内心で身構える俺に、道雪殿は今度は困ったように微笑みながら、口を開いた。
「しかし、すでに雲居殿には一度越後に戻ることを思いとどまってもらっているのです。これ以上引き止めることは、さすがにわたくしといえどためらってしまいます。それでも雲居殿の御力は是非とも必要、けれどそれはわたくしどもだけの都合であり、雲居殿には関わりなきこと。ゆえに、あなたの言葉を借りれば『背を向ける口実を与えた上で』お願いいたしました。それがわたくしに出来る精一杯の誠意だったのです。気分を害されたのでしたら、幾重にもお詫びいたします。しかし、決して悪意をもってそうしたわけではないことだけはご理解くださいませ」
「無論、悪意があるなどとは言いません。おれ……ではない、それがしが申し上げたいのは、頼むのであれば率直にそういってほしい、とそれだけです。こちらの事情を慮っていただいたのは感謝しますが、越後の皆とて、俺がここで道雪様たちの苦境を見て見ぬふりをして帰ったところで……」
喜ぶはずはない。それどころか、かえって叱責されるのが落ちだ。
そう言おうとして。
俺は口をつぐんだ。
――待て。今、道雪殿はなんといった?
「……越後、と仰いましたか?」
驚愕に震える俺の問いに対し、道雪殿はいっそ軽やかと評したくなるほどあっさりと頷いてみせた。
「はい、言いました」
「……東に、とは申し上げたが、地名を出した記憶はないのですけれど」
「たしかに、あなた様から聞いた記憶はありませんね、雲居筑前殿」
それとも、と道雪殿は俺の緊張を溶かすかのように微笑み、こう続けた。
天城筑前守颯馬殿。そうお呼びした方がよろしいですか、と。
◆◆
平静を取り戻すためには、お茶二杯が必要だった。
俺は三杯めの茶を口に含み、それを飲み込んでから呟くように声を出す。
「そうですか。石宗殿から……」
俺の呟きに、道雪殿はゆっくり頷く。
「はい。己が死期を悟られていた石宗様は、わたくしにも書を遺してくださいました。その内容を詳細に語ることはできませんが、大友家という枠組みを越え、九国全土を見渡す視野の広さをもって、様々なことが書き記されていました」
そう言って、道雪殿は語調をととのえるために小さく息を吐く。
「……石宗様は、大友加判衆筆頭たるこの身を案じてくださったのでしょう。そして、その書の最後に、ただ一行、あなたのことが記されていたのです。おそらく、書自体は以前から用意されていたのでしょう。その最後の部分だけが、新しい墨で色鮮やかに記されていましたよ」
道雪殿はてずから筆を執り、さらさらと字を記していく。
『奇瑞、紅瞳に映れり』
道雪殿が書き記した文字は、これだけだった。
俺はそれを見て、目を瞬かせた。率直に言って、これなんぞ? という感じだった。
なので、率直に問いかける。
「あの、これは……?」
これのどのあたりが俺についてのことなのだろうか。
いや、紅瞳、というのが吉継を指すことはわかる。奇瑞、という言葉も知ってはいるが、ここからどうやって越後の天城颯馬まで辿りついたというのだろうか。
俺が疑問で目を白黒させていると、道雪殿が苦笑まじりに説明してくれた。
「奇瑞とは天がしらしめす瑞祥のこと。紅瞳とは吉継殿のことです。ここまではわかりますね?」
「はい。吉継が瑞祥を見た、と。しかし、これだけでは何のことやら……」
「確かに、これだけではわかりません。しかし、石宗様が今際の際にあえて書き足した言辞です、何の意味もないはずはありません。わたくしはこの言葉を心に留め、石宗様の墓前を訪れました。そして、そこには吉継殿の傍らにあなたがいた」
俺を見る道雪殿の目は真剣で揺らぎなく、自分にも他人にも誠実な為人がはっきりとあらわれていた。
「言葉を交わし、行動をともにし――短くともわかりましたよ。東方、越後の国にあって軍神と謳われし聖将上杉謙信。その傍らにありて、その王業を補佐したる天の御遣いの名は、天城颯馬。すなわち、石宗様が見た奇瑞とはあなたに他ならないのだ、と」
ちょっと待ったァッ!
今、なんかすごいこと言われなかったか、俺?!
「……天の御遣い、天城颯馬?」
俺が震える声で問いかけると、道雪殿はきょとんとした顔で逆に問い返してきた。
「あら、ご存知ないのですか? すでにこの噂は京にまで届いているのですけれど」
「ご存知ありませんッ! というか、言われたことすらないですよ、なんですかそのこっぱずかしい称号はッ?!」
などとわめいても、道雪殿は首を傾げるばかりである。まあ、当然だが。
で、改めて聞いたところによると。
無論というべきか、豊後の大友家に、遠く越後に至る情報網などあるはずがない。代わりに、京に繋がる太いパイプならあった。
室町幕府が衰退したとはいえ、やはり京は日の本の中心、各地から伝わる情報はきわめて多いそうな。無論、情報といってもすべてが有用なものではなく、玉石混交というべき代物だったが。
で、そんな情報の中に、越後からの情報も含まれていたらしい。京から見れば越後や甲斐など田舎もいいところだが、かつてその二国が上洛した際の振る舞いは、いまだに京でも語り草となっており、基本的に京の人々は上杉や武田に好意的であるらしい。
必然的に、その噂はよく人の口の端にのぼる。誇張された俺の功績、氏素性の知れない人間が筑前守に補任されたという事実、そして不審な失踪。そういったもろもろのことが重なったとき、誰からともなく大陸の伝説を口にした者がいたらしい。
曰く。人の世が乱れた時、天より下る者あり。其は御遣いなり。
実際、唐の歴史にはそういった人物が幾人かいるらしい。
確かに、あの別れの時、謙信様もその言葉を口にしていた。だからその言い伝え自体は事実なのだろう。
しかし、だ。
なんでよりにもよって、俺がその御遣いになってるんだッ?!
謙信様……は、こんなことを言い出したりはしないだろう。内心でそう思っていたとしても、それを公言したり、あまつさえ噂として他国に流して俺の存在と自らの業績を喧伝しようなどと考える方ではない。
そして、そんな謙信様に仕える人たちが、こんなけれんみたっぷりな策を嬉々として実行するはずが……はずが……
「……いかん。実行しそうな心当たりが、それも喜んでやってそうな人たちが結構いる」
ほら、政景様とか段蔵とか、ちょっとひねって信玄とか。
いや、落ち着け俺。よし、競馬風に書いてみよう。
◎政景様 ○段蔵 △信玄 ×兼継
ちなみに大穴にエントリーした人物の動機は、面倒ごとを丸投げして姿を消した俺へのあてつけである。
「うわ、めちゃくちゃありそうで怖いわぁ……」
思わず頭を抱える俺。いや、本気でありそうなんですけど。というか、まさか全員グルになってやってるわけではあるまいなッ?!
などと嘆いていると。
不意に軽やかな笑い声が俺の耳朶を揺らした。
誰か、などと確かめるまでもない。俺の醜態を目の当たりにした道雪殿がさも楽しげに笑い転げているのである。
それも結構本気でツボにはいったらしく、あの道雪殿が目に涙まで浮かべているではないか。
無論、俺にとっては恥の上塗りである。
言い訳することも出来ず、恥じ入って顔を伏せるしかない。
すると、ようやく笑いをおさめた道雪殿がこんなことを口にした。
「取り澄ました御姿ばかりを見ていましたから、若いに似合わず奇特な方と思っておりましたが……ふふ、それが本来のあなたの姿なのですね」
「い、いえ、本来といいますか、これはあくまで予期せぬ出来事にあって取り乱していただけでですね――!」
「その割にはとても楽しげに見えましたが? そう、まるで――」
道雪殿はそう言うと、少し考えてから、こう続けた。
――まるで、ようやく自分の家に帰ってきたとでも言うような様子でしたよ。
◆◆◆
越後、春日山城の一室にて。
「はっくしゅッ!」
派手なくしゃみをした政景は鼻をこすりながら、城の外に目を向ける。
「ああ、もう。誰よ、私の噂してるのは」
「おそらく守護代様の机に山と積まれた書類の決裁を待っている文吏たちでは?」
「あのね段蔵。その現実から目を背けるために話題を振ったのよ。そこは察してくれないと。というより察しなさい」
「察した上で、現実に目を向けていただくために申し上げたわけですが――くしゅ」
めずらしく、はっきりそれとわかるくしゃみをした段蔵に、政景は目を瞬かせた。
「風邪でもひいたの? めずらしいわね」
「私も人間ですから、くしゃみくらいします」
「案外、あんたも誰かに噂されているのかもよ。私と一緒に。なにせあんたもずいぶんと綺麗に――」
「私と守護代様を同じ話題に乗せるような人は、ごくごく限られますね。たとえば守護代様の机の上に山と積まれた――」
同じことを繰り返そうとする段蔵に、政景はこれは取り付く島がない、と降参して両手をあげる。
「はいはい、ちゃんと仕事するわよ。今日は妙につっけんどんね、あんた」
「どうしても手が足りないからと、半ば無理やり私を連れてきた人は誰ですか。言っておきますが、私はこの後も片付けねばならないことが山積みなんです。一分一秒でも早く、守護代様には己が責務を果たしていただきます」
「あれ、なんだったら守護代権限で他の人に振ろうか?」
政景の言葉に、段蔵はいわく言いがたい顔で首を左右に振った。
「……早くひ孫の顔が見たい、という祖父の愚痴を聞きつつ酒を飲むという苦行です」
「……ごめん。そりゃ代われないわ。あれ、でもあんたの祖父って軒猿の長じゃなかった?」
「そのとおりですが、何か?」
「……大変ね、あんたも」
「はい、大変なんです。だから守護代様はささっとご自身の仕事を片付けてください」
「りょーかいです」
そう言って、ようやっと筆を執る政景。
まさか本当に二人のことを話題にしていた者が九国にいたとは知る由もない二人だった……