その日、豊後の戸次屋敷に一人の来訪者があった。
供を連れておらず、いかにも身軽な様子でふらりと立ち寄った態を装っていたが、その人物の顔を確認した家人は仰天のあまり声も出せずに立ち尽くす。
年の頃は四十半ばといったところか。鋭い面差しは歴戦の風格を漂わせ、しかしその一方で表情、挙措は穏やかなものであった。
ただ、その穏やかな表情の奥――頬に刻まれた深い皺と、年齢に似ず半ば以上が白に染まった頭髪が、この人物が重ねてきた煩悶の年月の長さを思わせた。
転げるようにやってきた家人の報告を受けた戸次道雪は、ほんの一瞬だけ目を見開くと、すぐに客室に案内するよう告げ、ついでにもう一つだけ言付けてから、みずからの身体を車椅子に乗せる。
「……そこまで……」
自室を出る時、道雪は何事かを小さく呟いたが、それを聞く者は道雪以外、誰もいなかった。
◆◆
「お久しゅうございます、鑑載殿。こうして顔をあわせるのはいつ以来になるでしょうか」
「貴殿が加判衆筆頭となられた時以来ゆえ、かれこれ二年ぶりかな。壮健そうでなによりだ、道雪殿」
そういって筑前立花山城城主、立花鑑載(たちばな あきとし)は、にかっと骨太に笑って見せた。
西の大友。
立花家はそう呼ばれるほどの大家であり、その当主である鑑載はその名に恥じない実力と名声の持ち主である。筑前の城主であるため、大友家の政務を司る加判衆には加わっていないが、能力だけで言えば加判衆に連なる資格を十分に持っていた。否、おそらく道雪の代わりに筆頭を務めたところで問題なくつとめ上げてみせるだろう。
そんな人物が、今この時期、供もつれずに戸次屋敷を訪れる。
鑑載は北九州の大友軍の中心人物であり、今回の叛乱による影響を最小限にとどめるために府内まで出向いてきていることは、道雪も知っていた。だが、その機を利用して、ただ久闊を叙しに来ただけ、というのは考えにくかった。
「まずは此度の急な来訪を詫びねばなりませんな。先触れの者もつかわさず、失礼をいたした」
鑑載はそう言って頭を下げる。
「頭をおあげくださいませ。鑑載殿がそうしたのなら、そうせざるを得ないだけの理由があったのでしょう。一々詫びるには及びません。まして大友家の家臣としてはあなた様の方が先達なのですから」
「そう言ってもらえるとありがたい。それに、あまり長居しては互いに面白くないことになるであろうし、早速本題に入らせてもらおう」
そう言うと、鑑載は表情を変えぬまま、眼光だけを鋭いものにして道雪の顔をじっと見据えた。
「率直に聞こう。道雪殿、貴殿、此度の仕儀、どう考えておられる?」
「此度の仕儀、とは具体的に何を指しているのでしょうか?」
道雪の反問に、鑑載はわずかに目を細める。その口から出たのは、直接的な答えではなかった。
「……他紋衆の不満、鑑元の謀反、それらがただ毛利の調略によるものではないことは明らかだ。したが、事敗れた者たちへの宗麟様の指図を見るに、あの方はそのことに気づいておられぬ様子。南蛮神教の宣教師どもの蠢動はあるにせよ、すべてが彼奴らの責であるとは、わしには思えぬ」
その顔に浮かぶ苦々しい表情は、意識してつくったものではないだろう。道雪はそう思う。
だからこそ、問題なのだ。
北九州の大友勢力を支える重鎮は、過ぎし日を振り返るようにゆっくりと続けた。
「宗麟様が先代の後を継がれて、もう幾年が経ったか。大友家は宗麟様の精励と、多くの家臣たちの努力により、空前の版図を得た。それは確かだ。だがそれは、巣食った白蟻を放置していた期間でもある。大友家の屋台骨を支えているのは貴殿を筆頭とした加判衆だが、実質的には貴殿が大友家を支えてきたこと、大友の内外に知らぬ者はない。いや、ただ一人、角隈殿は貴殿と共に重責を担えていたな。だが、その角隈殿が亡くなられた今、貴殿はこれまでのように大友家を支えることができるのか? いや、今なお支えるつもりがあるのだろうか? 主家を案じるあまり、謀反に踏み切らざるをえなかった家臣の誇りを踏みにじった、あの暗く――」
「そこまでにしてください、鑑載殿」
ぴしゃり、と。眼前で扉を閉じるかのごとく、道雪は鑑載の言葉を遮った。
鑑載ははっとして口を噤む。話している間に感情が昂ぶっていたことに気づいたのだろう。
「それ以上を口にすれば、いかに鑑載殿といえど看過できません」
「む……すまぬな。年を考えずに張り切りすぎてしまったようだ」
苦笑しつつ、茶をすする鑑載の姿を道雪はじっと見つめる。
立花鑑載が何をしにここに来たのかは、その来訪が知らされた時から察しはついていた。
そして鑑載もまた、道雪が察していることを察していた。
ゆえに、二人に多言は必要ない。今の短いやりとりでも言葉が過ぎたほどだった。
「……思えば、これはこれで悪くない。どちらが勝とうと、大友宗家を思う人材は残るのだから」
「……大友宗家の当主は、宗麟様ですよ」
「本当にそうかな? わしの目には、今の大友家の主は、あの十字の旗であるとしか映らぬ。それを憂えた者の思いが届かぬことは、先の乱で証明された。宗麟様がかの教えを捨てるつもりがない以上、真に大友宗家を救う術を、わしは一つしか知らぬ」
無論、と鑑載は苦い笑みを浮かべて続けた。
「貴殿の在りようが間違っているとは言わぬ。否、それを言えば宗麟様とて正しいと信じた道を歩いておられるのだろう。あの異教の者たちとても、西海を切り開いてこの地までやってきたのだ。それをするに足る、あれらなりの正義があるのだろうな。わしには到底理解できぬが、それを否定するつもりはない。そして――」
鑑載は、深いため息をはく。
「鑑相も、鑑元も、己が正しいと信じたことを為した。それらの結果として、今の大友があり、わしと貴殿の道が分かたれたというのなら――道雪殿。わしらは、どこで何を間違えたのだろうな?」
そこまで言ってから、鑑載は何かを思い切るように首を左右に振った。
「いや、これ以上は繰言だな。すまぬ、埒も無いことを口にしてしまった」
「埒もない、ということはないでしょう。ただ、その答えを知ることが出来るのは、わたくしたちの孫や、その子供たちでしょうね」
「ふむ、どれだけ才能に恵まれ、権勢を握ろうと、人の身では出来ることと出来ぬことがある、というわけか」
「だからこそ、わたくしたちは懸命に今を生きるしかありません。誰もが納得する正しさなどないゆえに、自らが信じるものにすがりながら」
戸次道雪と立花鑑載。
大友家にあって、雄なる二人の視線が正面からぶつかりあう。
たちまちのうちに室内の空気が張り詰める。
だが。それが限界に達する寸前、二人は視線をそらせた。ほとんど同時に。
「では、さらばだ道雪殿。できればこうなる前に、今一度、貴殿と戦場を共にしたかったが」
「鑑載殿からその言葉をいただけたことは、わたくしにとって生涯の誇りとなりましょう……御武運をお祈りいたします」
道雪の言葉に苦笑を返すと、鑑載は席を立つ。
その足音が完全に消え去るまで、道雪は一言も口にせず、ただじっと室内に座したままであった。
◆◆◆
「……そろそろ事情の説明を求めてもよろしいですかね、道雪様?」
「それはかまいませんが、とりあえずこちらにいらしてくださいな」
俺が襖越しに声をかけると、道雪殿が同じく襖越しに声を返してきた。
俺は頭をかきつつ、立ち上がって隣室に向かう。襖を開ければ、そこには道雪殿がいつもとかわらない佇まいで座っていた。
ついさきほどの話の影響か、その表情は多少強張っているように見えたが、俺に笑いかけてきた時には、その強張りも綺麗に消えていた。
吉継と戦戯盤で勝負していると、顔見知りの侍女がやってきて道雪殿がお呼びだという。なにやら急ぎの様子だったので、勝負をきりあげて(劣勢だったのでちょうどよかった――吉継は不満そうだったが)指定された部屋に来てみれば、そこには誰もいない。
で、これから来るのかと思って座って待っていたのだが。
何故か隣室で洒落にならない密談が始まってしまった時には、どうしたものかと冷や汗を流してしまったよ。まあすぐに道雪殿の狙いは察したのだけれど。
立花鑑載は後世に残るような派手な軍功こそないが、大友家中における影響力の大きさは五指に入るだろう。あるいは三指にしても入るかもしれない。
今回の豊前での戦いにおいても、筑前方面からの敵襲がなかったのは、立花山城の立花鑑載や、宝満城の高橋鑑種らの存在によるところが大きい。
そんな大物が単身で護衛も連れずに戸次屋敷を訪れる。そこに込められた意味を考えれば、平静を保つことは難しいのだろう。普段は主の為人を反映して落ち着いた雰囲気の戸次屋敷も、今は少しばかり騒がしかった。
そんな家人の慌てぶりに苦笑しながら、道雪殿は俺に問いを向ける。
「それで筑前殿、いかがでしたか?」
「事情の説明を求めたそれがしの問いは、どこに置き去りにされたのでしょうか?」
「必要ないように見受けましたので」
平然と切り返してくる鬼道雪。説明した方が良いですか、とちょっと首を傾げる仕草が、こっちのプライドを刺激してやまなかった。
俺はほぅっと息を吐いてから、率直に感想を言った。
「声を聞いただけですから、あてにはならないと思いますが、一言でいえば一生懸命な方でしたね」
俺の倍以上を生きている人に対して、失礼な物言いかもしれないが。
「一生懸命、ですか?」
はい、と俺は頷く。
俺は鑑載の顔すら見ていないが、その声だけでも十分に伝わってきた。
自分の士道を貫くために。大友宗家を守るために。南蛮神教を排するために。道雪殿を味方にするために。そして――
「道雪様を、討ち取るために」
俺のその言葉に、道雪殿はかすかに目を伏せる。それだけで、俺の言ったことを道雪殿がとうに察していたことがわかった。
「やはり、鑑載殿はその気なのだと思いますか?」
「はい。それがしが聞いた言葉が偽りであったとは言いません。しかし、いずれも今更なことであるのは確かです。おそらくは、今回の件で道雪様が心変わりをしているのではないか、とわずかな期待をこめてやってきたのではないでしょうか?」
それがどれだけ可能性が低いとわかってはいても。
鑑載が最後に口にした言葉は、心底からのものだろう。
同時に。
道雪殿が宗麟にこれまでとかわらず仕え続けるのならば、筑前に向かう大友軍を率いるのはまず間違いなく道雪殿になる。
鑑載が本気で行動している以上、これに勝つための布石を考えないはずがない。
真情を口にしてみせたところで、道雪殿が手心を加えるはずもないし、立花家の当主ともあろう者が相手の情けを期待して事を起こすとも考えにくい。
くわえて言えば、道雪殿の忠誠を確かめるなら、他にもやりようはいくらでもあるわけで、当主みずからがああも思わせぶりなことを言う必要はない。あれでは、自分を疑ってくれというようなものだろう。
道雪殿であれば軽挙はしないと信用していたにせよ、あえて立花家の動向を知らせたのは何故か。
それはおそらく、まもなく起こるだろう蜂起に際しての牽制のため。
道雪殿は常に立花家の向背に注意を払わねばならず、その分、行動が掣肘されることになる。噂の一つも流せば同じ効果は得られるだろうが、当主みずから訪れたということは、それだけはっきりと道雪殿に知らしめておきたかったのだろう――立花家にのみ道雪殿の注意をひきつけるために。
「実直に行動しているように見えて、なかなかに策の多い方です。もっともその程度の剛腹さがなければ、この戦乱の世で家を保つことは難しいのでしょうね」
俺の言葉に、道雪殿はしごく真面目な顔で頷いた。
「立花山城は博多津を見下ろす筑前の要です。その当主ともなれば、並大抵のことで務まるものではありません。これまで大友家が筑前の雄たりえた功の多くは鑑載殿に帰するのです」
「――であれば、機先を制するというのも難しいですね。まあ、そもそもまとまった数の兵が府内を出れば、どれだけ急いだところで筑前に着く頃には万全の備えで待ち受けられているでしょうが」
「立花家の名声、鑑載殿の人脈を考えれば、ろくな証拠もなしに攻めかかれば、窮地に陥るのはこちらでしょう。それに――」
そこで道雪殿は一度言葉をきり、しばしためらった末、力なく続けた。
「なにより宗麟様が許可なさらないでしょうね。あの方は実際に叛かれてもなお家臣を信じる御人柄ですから」
宗麟のそれは、人を信じるというよりは、単に現実を見ていないだけだと俺には映る。
だが、そんなことは道雪殿とて承知していることだろう。いまさら俺が口にするまでもない。
そんな風に考えて黙っていると、道雪殿は意外そうに口を開く。
「……てっきり苦言を呈されるものと思っていたのですが」
その言葉に、俺は頬をかきつつ応じる。
「はあ、まあ大友家の当主殿にはいろいろと思うところもありますが、そのようなことは道雪様も承知しておられるでしょうし、他の方々からも耳にたこができるほどに言われているのではありませんか? いまさら俺――ではない、それがしが何を言ったところで意味はないでしょう」
俺がそう言うと、道雪殿は不思議そうに首を傾げる。俺の態度が気になったようだ。
「いかにも確信ありげなお言葉ですが、筑前殿には何故おわかりに?」
周囲からの突き上げに関しては、直接道雪殿から聞いたことはないし、その場を見たこともない。それでも容易に想像できたのは――
「……昔、一時ではありましたが、道雪様と似たような立場に立ったことがありまして。その際、周囲からいろいろと言われたのですよ」
はじめて仕えた主のことを思い起こす。評判が良くない方だったから、その人物に仕えていることで周りからいろいろと言われたのである。露骨にそそのかしてくる者もいれば、真摯に越後の将来を憂えている者もいたが、その言うところは基本的に同じだった。
――つまりは過ぎた忠誠は時に盲信となって、国に害を及ぼす、というのが彼らの主張の根拠だった。
それはある意味で真実なのだろう。しかし、あの時の俺に、その言葉は何の意味も持たなかった。それが正しいか否かは別として、世評がどうあれ、人に仕える理由は十人十色、他者がしたり顔で正理を諭してくることほど鬱陶しいものはなかったのである。
無論、俺と道雪殿では為人も違えば立場も違う。同列に並べられては怒られてしまいそうだが、ただひとつ、世評や内実がどうあれ、主に対する忠誠を枉げないという一点において、俺と道雪殿は等しいはず。
であれば、ここで賢しらぶったことを言っても道雪殿を不快にさせるだけだろう。かつての俺がそうであったように、だ。
俺がそういったことを説明すると、道雪殿は興味深そうに聞きいり、幾度も頷いていた。
そして、くすりと俺に微笑みかけてくる。
「はじめてお会いした時から、妙に馬が合う御仁だとは思っていたのですが、ふふ、同じ立場にあった者同士、知らずに惹き合っていたのかもしれませんね?」
「…………さて、それはどうかと」
歯切れの悪い俺の返答に、道雪殿がわずかに頬を膨らます。
「あら、冷たいですね。恥ずかしさを押し隠して、親しみを言葉にしたというのに」
「それがしの記憶が確かならば、これまでの道雪様との会話の半ば以上は一方的にからかわれただけのように思うのですが……?」
馬が合う、という表現には違和感を覚えざるをえないのですよ。
「気心の知れぬ方に、からかいの言葉など向けません。それこそ親愛の表現の一つではありませんか」
「できればもっと違う表現に変えていただけると嬉しいのですが」
「善処しておきましょう」
「それは一応考えてはみるけど変えませんという意味ですよね?」
「おほほ」
「露骨にごまかされた?!」
どうやら今後とも道雪殿にからかわれる未来は確定してしまっているらしい。
「道雪様」
「なにか?」
「府内で一番高い山ってどのあたりですか?」
胸の奥から湧いて出る何かを振り切るためにも、ちょっと遠乗りしてこようと思うのです。
◆◆◆
立花鑑載は、戸次屋敷から戻ったその足で大友館に赴き、宗麟に出立の挨拶をした。
小原鑑元亡き後の北九州の統治について、おおよその話し合いはすでに終わっており、これ以上府内に滞在する必要はなかった。また、いつまでも居城を留守にしていては差し障りがある。
鑑載が口にする理由に不審を覚える者はいなかった。
大友館を辞して、しばし後。
鑑載は側近の一人を招きよせた。
「では殿、それがしはただちに宝満城へ赴けばよろしいのですな?」
「そうだ。そして鑑種殿に伝えよ、宗麟様は南蛮神教を捨てるつもりはない、とな」
「御意」
返答と共に、立花家の家臣はすぐさま馬をはしらせる。手形は持たせているから、途中で引き止められることもあるまい。
部下の後姿を見送ると、鑑載は後方を振り返る。
そこには南蛮様式の奇妙な形状の大友館がそびえたっている。かつての大友館とは似ても似つかないその姿に、鑑載は言い知れぬ不快感を覚える。
今日だけの話ではない。府内に来て、あのいびつな建物を見る度に、ずっとそう感じていたのである。
「……まったく、よくもあのような悪趣味な館で起居できるものだ。その図太さだけは大したものでござるよ、宗麟様」
鑑載が小さく吐き捨てると、傍らの家臣が声を低めて注意をうながす。
「殿、そのようなことを往来で口にしては……」
「かまわん。たとえ何者かが注進したところで、わしが否定すれば宗麟様は疑わぬよ。まあ注進したのが宣教師であれば別だが、あの南蛮人どもがこのような場所にいるはずもない」
それよりも、と鑑載は続ける。
「賽は投げられたのだ、これから忙しくなるぞ」
「それは我らも望むところでございます。このままでは、いずれ大友家は他家の軍勢に踏みにじられてしまいます」
「そのとおりだ。道雪殿に同心してもらえなかったは厄介だが、所詮は厄介というだけのこと。ただ一人で、しずみゆく船を支えることはかなうまいよ」
鑑載の言葉に、部下も表情を曇らせる。
「しかし、戸次様ともあろうお方が、どうして暗愚の君に仕え続けようとなさるのでしょうか」
「信じておるからだろう。いつか、宗麟様が克目してくださる、とな。わしらがかつてそう信じていたように。だが、もはや待てぬし、幾年待ったところで、あの方は変わるまい」
重い口調でそう呟いた後。
立花鑑載は何かを振り切るように口を噤むと、その場を後にしたのであった。
◆◆
大友館の一室。
去り行く立花家の一行を見下ろしながら、宣教師の一人が口を開いた。
「……よろしいのデスカ、布教長? 今ならバ、まだあの者ども、捕らえることもできマスが」
「かまいません。好きにさせておきなさい」
部下の不安を一顧だにせず、カブラエルはあっさりと頷いた。
「神にまつろわぬ者同士、殺しあってくれるならば重畳というものです」
「しかし、トールが敗れれば、あやつらが我々に敵対してクルことは確実でスガ」
「そうですね、博多からの報告によれば、かなりの物資が動いている様子。都からの書状にあったとおり、ずいぶんと大規模に動くようです。あるいはトールとて敗れるかもしれません」
「なラバ」
宣教師たちは、なにも道雪の心配をしているわけではない。道雪が倒れることで、大友家が揺らぐことを案じているのである。南蛮神教にとってもっとも厄介な相手は、その実、南蛮神教を布教するための強固な壁でもあった。
皮肉なものだ、とカブラエルは薄く笑う。
宣教師たちにとって、もっとも都合が良い結末は大友軍の辛勝である。負けてもらっては困る。だが、勝ちすぎてもらっても困るのだ。道雪らの力が強まれば、いずれ宗麟の命令にも従わなくなるかもしれないから。
もっとも現在の状況を鑑みれば、次の戦いにおいて大友家が勝つ可能性は極めて低い。むしろ大敗を喫する恐れさえある。
今から使者をたてたところで、本国からの増援が着くまでは何ヶ月とかかる。道雪を破った敵軍が府内になだれこんでくれば、宣教師たちを守る盾は存在しないのである。
これが故郷の戦いであれば、神に仕える者を殺すような蛮行は行われないだろう。しかし、この地は神を知らず、あるいは知ってなお信じない蛮人たちが闊歩する土地である。それが宣教師たちの不安の源だった。
だが。
「繰り返しますが、好きなようにさせておきなさい。神を信じず、互いに殺しあうような蛮人どもの相手をしている暇はないのです」
カブラエルの言葉に、不安を訴えていた宣教師が何かに気づいたように口を噤んだ。
カブラエルの言葉が意味することを察したのだ。
「……もしヤ布教長」
「はい――聖戦の準備が、まもなく終わります」
おお、と室内にいる宣教師たちのうち、半分の口から驚きと興奮の声が広がった。
残りの半分はカブラエルの口にした『聖戦』の準備をしていた者たちであり、その顔に驚きはない。だが、いよいよだ、という意味での興奮は感じられた。
「幸いにも石宗は死に、トールは北部に釘付けでした。おかげで準備を滞りなくすすめることが出来たのですよ」
「邪教を排し、真なる神の栄光をしらシメス第一歩ですネ」
「そのとおりです。兵団の中心は神の教えを奉じる信徒たちですから、大友軍を動員する必要もなく、トールらも気づかぬでしょう。そして日向の異教徒たちも、トールらが北に出向いたことを知って油断しているはず。今年の万聖節は、日本の信仰史に永劫に語り継がれる神の祭典となることでしょう」
微笑を浮かべて語ったカブラエルは、室内のすべての者たちにおごそかに告げた。それこそ神の託宣のように
「聖なるムジカ建国まであとわずかです。その栄光を我々の手で導くために、より一層の働きを皆には期待していますよ」
日本布教長カブラエルの言葉に、南蛮神教を奉じる者たちは一斉に頭を垂れ、神の栄光のために邁進することを誓約したのである。
◆◆
宣教師たちを下がらせた後、カブラエルは自室の机から二通の手紙を取り出した。
一つは墨で染めたかのような黒い筒に収められており、京の都から送られてきたものだ。そこには北九州における様々な情報が記されており、カブラエルら南蛮側でさえ知らないような情報も列挙されていた。
この京からの情報と、みずから集めた情報を照らし合わせれば、今回の北九州――それもおそらくは筑前国で起こる動乱を予見することは、カブラエルにとって難しくなかった。
そしてもう一通。これは西洋でごく普通に用いられる書状だった。
先刻、カブラエルはこう考えた。今から本国に使者をたてても、援軍が来るまで数ヶ月はかかる、と。それはまぎれもない事実である。だが――
「……さすがは我らが軍神、素早いものです。あるいは薩摩のコエリョあたりから、とうに泣き言がいっていたのかもしれませんね。ともあれ、こうなればドールの確保も急いだ方が良さそうです」
カブラエルはそう言うと、手紙を引き出しに戻し、三重に鍵をかけてからゆっくりと立ち上がる。
「そろそろ、フランシスのもとへ行く時間ですね。さて、今日はどのように神の栄光を教え込むとしましょうか」
すべては順調に進んでいる。そして、これからも順調に進むだろう。
なにしろ、すべては父なる神のおぼしめしなのだから。
カブラエルは神妙な顔で十字をきると、これから始まる悦楽を思い、わずかに口元を緩めるのだった……
◆◆◆
雲居筑前は、じっと彼方を見据えていた。
山、というよりは丘陵といった方が良いかもしれない。戸次道雪から教えられたこの場所で、無心に馬をはしらせて汗を流した後、おりよく景観の良いところを見つけることが出来たのだ。
その場所で、何をするでもなく、雲居筑前はただじっと見据えていた。
――彼方に見える、大友館を。