筑前国古処山城。
現在は大友家が治めているその城は、先年まで筑前の有力国人である秋月氏の居城であった。
先代の秋月家当主である秋月文種は、当初は大内家に属し、大内家が滅びた後は大友家に属した。だが、毛利元就が大内家の旧領を呑み込み、さらに九国へ勢力を広げてくるに及んで、大友家から離れ、毛利家に従うことを密かに決断する。
しかし、この決断はただちに大友家に察知され、戸次道雪率いる大友の大軍を引き出す結果となる。
秋月家は筑前においては有力な勢力であったが、北九州全域に影響力を持つ大友家とは比べるべくもない。結果、秋月軍は道雪率いる大軍の前に衆寡敵せず壊滅、当主である文種、その嫡子である晴種は共に討ち死にし、ただ一人、次男の種実のみが大友家の追撃を逃れることに成功する。
しかし種実は生き延びたものの、道雪の猛攻によって散々に討ち減らされた秋月軍は、その後に種実を逃すために、先の戦いでかろうじて生き残った家臣たちのほとんどを失い、事実上の滅亡に等しい打撃を被ったのである。
父を失い、兄を失い、さらには生家をうしなった秋月種実は、悲憤の涙を流しつつ毛利家を頼って、遠く安芸国まで落ち延びねばならなかった。
それからおよそ二年。苦労知らずと父や兄に呆れられたこともある秋月家の次男は、見事に臥薪嘗胆に耐えぬいた。
こけた頬と鋭すぎる面差しには、かつて紅顔の美少年ともてはやされた面影は微塵もない。その右目には大友家と鬼道雪に対する復讐の念を、その左目には秋月家復興の思いを秘めながら、秋月種実は再び故郷の地を踏んだのである。
「まさかこうも早くに戻ってこられるとはね。元就様に感謝しなくてはならないな」
彼方に懐かしい古処山城を望みながら、種実は静かに微笑む。
内心には様々な激情が吹き荒れているが、それを面に出すことはしない。浮かべた微笑は、半ば以上、周囲の者たちを落ち着かせるためのものだった。
「さようですな。こうして若と共に戦に臨めるときがこようとは思いませなんだ」
種実の隣に立つ白髪の老将が感慨深げに頷く。
この武将、名を深江美濃守といい、秋月家の旧臣の一人である。秋月の多くの旧臣たちが、内心はどうあれ、大友家に服属していく中で、美濃守は決して大友家に従おうとせず、あくまで旧主に対して忠誠を持ち続けた。
その忠義と武勇を惜しんだ道雪からの誘いも断り、野山に隠れひそみつつ、同志を束ねて秋月家復興の機会を探り続けたのである。
種実は毛利家でかくまわれていた二年の間、無為に徒食していたわけではない。だが同時に命の危機をおぼえたり、飢えに苦しんだりすることもなかった。
みずからの労苦など、美濃守の半分にも達すまい。頭髪の半ば以上が抜け落ち、残った髪も白く枯れはてた家臣の姿に、種実は感謝せずにはいられなかった。
だが、種実がそれを口にしても美濃守は笑うばかりで、己の苦労を口にしようとさえしない。
からからと笑いながら、いつも同じ言葉を返すだけだった。
「拙者が好きで背負い込んだ荷でござる。それを苦労とは申しますまい」
それに、と美濃守は孫を見る祖父のような眼差しで種実を見つめる。
「たとえ苦労だとしたところで、今の若を見ればすべてが報われたと、そう思えまする。たとえこの戦で朽ち果てようと、拙者、亡き殿に胸を張ってお会いすることができもうす」
「ここで美濃に倒れられては困るよ。大友を倒し、あの鬼めを討ち果たし、秋月を復興する。すべて見届けてもらわなくては。いや、その後も父上や兄上に成り代わり、ぼくを叱咤してくれ」
「承知仕った。この老骨がどれだけ動けるかはわかりませぬが、若の望みにそえるよう努めましょうぞ」
美濃守がそう口にした途端、背後から馬の嘶きと、慌しい甲冑の音が鳴り響いた。
「申し上げますッ、大橋豊後守様より伝令、布陣は完了、予定の刻限となり次第、攻撃を開始するとのことです!」
その報告に、種実は大きく頷いてみせる。
「よし、ぼくたちも出るぞ。古処山は天険の城なれど、我ら秋月の軍勢にとっては庭も同様。異教に狂い、日の本を侵す大友軍を殲滅せよッ! 『三つ撫子』の家紋を、再び九国の天地にしらしめすのだ!」
軍配を掲げ、高らかに宣言する種実の言葉に、深江美濃守を筆頭とした三百の軍勢が喚声で応じた。
これより数日の後、府内の大友館に急使が駆け込み、古処山城の落城を伝える。
古処山城を陥とした秋月軍はただちに兵を動かして、旧領を次々に取り戻しており、その勢いはとどまるところを知らず、このままでは遠からず、かつての秋月家の領土すべてが大友家の手から失われるであろうと思われた。
◆◆
古処山城の陥落、秋月種実の帰還を知った大友家はただちに奪還のための兵を集めようとした。
だが、これが思いのほか手間取った。
この時期、すでに収穫は終わり、農閑期に入っているため、その意味で兵を集めるのに支障はなかったのだが、先の豊前の叛乱が終わってまだ二ヶ月と経っておらず、先の乱に従軍した兵たちを除外するとなると、召集できる兵力がかなり限られてくるためであった。
それでも最終的に二万に達する兵力を集めることが出来たのは、大友家の底力というものであったろうか。
とはいえ、初動の遅れは戦況に大きく影響を及ぼす。
筑前では古処山城を取り戻した秋月種実の下へ、かつての秋月の旧臣を中心とした将兵が集い、その兵力は加速度的に膨れ上がっていた。また、他の筑前の国人衆の中にも秋月と手を結ぶ動きが出始めており、それは大友家に従属する者たちとて例外ではなかったのである。
「つまりは速やかに古処山城を陥として、周辺勢力の動揺を押さえなければならないというわけか」
どこかで聞いた話だ、と俺は苦笑する。
そんな俺の表情を不謹慎ととったのか、隣で馬を進めていた吉継が咎めるような響きの声を出した。
「……お義父様」
「なんだ、吉継?」
「お義父様は客将とはいえ、かりにも一軍の将なのです。戦を前に苦笑いなどするべきではありません」
その言葉に、俺は言葉を詰まらせる。
たしかに戦の直前となれば、歴戦の将兵さえ緊張を覚えるもの。そんな萎縮しがちな将兵の士気をあげるために縁起を担いだり、勇壮に演説をぶつことは当然のこと。
まあそれは道雪殿や鎮幸、惟信らに任せるとしても、確かに苦笑などしては兵たちにどう思われるかわかったものではなかった。
「む、確かにそのとおりだな。いかに道雪様から事前に何の通達もなく、開戦間際になっていきなり押し付けられた将の座とはいえ、そんなことは一般の将兵には関わり無いことだしな」
「……そのあたりは戸次様と直接話し合ってください」
何かがにじみ出る俺の声音に、吉継はそっけなく答える。巻き込まれたくない、という心情があらわだった。
「娘よ、やはりここは父子の絆をもって再び鬼道雪をやりこめるべきではなかろーか」
「父よ、益体もない言い争いに可愛い娘を巻き込まないでください」
「うむ、やっと自分が可愛いと認めたか、善哉善哉」
「……ッ、言葉の綾です。誰かさんがしつこいもので」
「事実を事実として主張することに何の不都合があろうぞ」
「ああもう、わかりましたから、真面目にやってください。戸次様の軍を一翼を担うなど、望んでもかなうことではないのですよ」
そう言ってそっぽを向く吉継。顔はいつものごとく白布で覆われているが、おそらくその中では赤面していることだろう。
もうちょっと親子の会話(かどうか知らんが)を続けたいところだったが、さすがに自重する。
吉継の言うとおり、食客の身で五百の兵を統べる役割は大役である。それも徴兵された農民兵ではなく、道雪殿直属の精鋭部隊なのだから尚更だ。俺が預かったのは、おおげさではなく、戦を決することが出来る戦力なのである。
俺の処遇は、新参者の扱いとしては破格もいいところである。当然、面白く思わない者もいる。
といっても、鎮幸はからからと笑って背を叩いて励ましてくれたし、惟信は問題児が増えたとかなんとかで頭を抱えてたが、それでも武運を祈ってくれた。
他の将兵にしても、多くが先の乱で戦った者たちばかりなので、表立って不満を口にすることはなく、むしろ俺がまだ食客なのかと驚く人間の方が多かったくらいである。なんか俺が戸次家に仕えていると思われていたらしい。まあ戸次屋敷に住んでいるわ、道雪殿とはしょっちゅう話しているわ、あらためて振り返ってみれば、そう思われても仕方ないかもしんない。
では、面白く思わない者とは誰なのか、というと。
「……雲居筑前殿」
礼儀正しく呼びかけてくる声に応じて、ゆっくりと振り返る。
そこには今考えていた当の本人が馬上で軽く会釈をしていた。
「伯耆守様(道雪殿のこと)よりの伝言です。まもなく大友軍は府内を進発、第一陣は小野鎮幸様、第二陣に十時連貞様、雲居筑前様は予定どおり第三陣とのことです」
「承知仕った」
そんな予定は聞いてないのだが、この黒髪の戸次家嫡男、戸次誾殿にそんなことを言おうものなら、何を言われるかわかったものではなかった。
何故だか俺はこの子に異様に敵視されているのだ。吉継に聞いたところ、戸次屋敷で俺の素性を尋ねられたこともあるというから、誾から向けられる敵意が俺の気のせいである、という可能性はなかった。
それでは、これにて。
そう口にして戸次誾が駆け去ると、俺は何故だか詰めていた息を吐き出す。
「ううむ、相変わらず警戒されまくってるな……」
おそらくは任務にかこつけて俺の様子を見にきたのだろう。そうでなければ、養子とはいえ一家の嫡男が伝令役などつとめるはずもない。
その俺の呟きに、吉継が白布を揺らして答える。
「客観的に見れば、今のお義父様は氏素性の知れない浪人風情、というところですから。そんな怪しげな人物が道雪様の周囲に侍っているとなれば、家臣としても、子としても、無視できるものではないのでしょう」
むしろ、あれが普通の態度ではないか、と吉継は言っているのである。
そして、言われてみればそのとおりではあった。
仮に、謙信様の傍にぽっと出の男があらわれ、謙信様と親しげに話したり、重用されたりした日には俺とて平静ではいられないだろう。
そう考えれば、誾のあの態度も納得がいく。というか手をうって賛同したいくらいに共感できるというものだった。
「惜しいな、もう少し年が上なら、酒にでも誘うところなんだが」
「……一体、何をどう考えたら、今の話からその結論に達するのかはわかりませんが、とにかくそろそろ動かねば他隊に遅れをとりますよ。軍監の由布様があちらで怖い目をしておられますが」
「はっは、そうそう都合良く――って、ほんとにいるし。これは大変、急いで動くとしようか」
俺が慌てて移動を指示すると、さすがは戸次家の精鋭部隊、すでに俺以外はとうに準備が出来ていたらしく、速やかに移動がはじまった。
戸次道雪率いる二万の軍勢が、筑前国を目指して府内を出たのは、それからまもなくのことであった。
◆◆
そして十日の後、大友軍は秋月種実が立てこもる古処山城を完全に包囲していた。
瞬く間に勢力を広げていた種実であったが、さすがに鬼道雪率いる二万の大軍の前には手も足も出ないようだ――と言いたいところなのだが。
「手も足も出ない、というよりは、あえて出さなかったという感じだな。手ごたえがないことおびただしい」
大友軍の本営、いかにも不満だと言いたげに鎮幸がぼやく。
その言葉に、集まった大友の武将たちがそろって頷いた。敵軍がろくな抵抗もせずに次々と背を向けていく戦況では頷く以外にない。
「陥とした城には武器も兵糧もほとんどなし。明らかにはじめから予定どおりの行動ですね」
惟信の言葉どおり、大友軍は休松城をはじめとして幾つかの城を取り返したのだが、本来蓄えられているべき物資はまるで残っていなかったのである。
ここまで条件がそろえば、秋月軍の作戦が古処山城での篭城だというのは誰の目にも明らかだった。
だが――
「秋月も一時は三千近い数まで膨れ上がったようだが、我らに押されて今城に篭るは精々が千程度、こちらは二万。古処山がいかに要害といえど、勝算はなかろう。それでもなお篭城を選んだということは、だ――」
何かを期するように一旦言葉をきる鎮幸。だが、その続きは鎮幸ではなく、別の人物の口から発された。
「援軍のあてがある、ということですね。それも先の乱とは違う確固としたあてが」
「……惟信、それはわしの台詞ではないか?」
「べつにためて言うほどのことではないでしょ。みんな承知してることです」
寂しげな鎮幸の言葉に、惟信がぴしゃりと言い返す。
いじけたように背を丸める鎮幸だが、生憎とこの場に慰めの言葉をかける者はいなかった。
「問題なのは、それがどの勢力かということです。筑前の他の勢力が合力したところで、我が軍に対抗するのは難しい、その程度は秋月とて承知しているでしょう」
その惟信に応じたのは、これまで黙って軍議に聞き入っていた人物、十時連貞(ととき つれさだ)だった。
「……我が軍に対抗しえる勢力、と考えれば、そう数は多くござるまい」
連貞は戸次家の席次において鎮幸、惟信に次ぐ武将である。
年の頃は三十くらいなのだが、若いに似合わず沈着で、ほとんど無駄口を叩かない。
聞けば連貞の父は、かつてある戦で大友軍が劣勢の中を殿軍を勤め、いまだ戸次家を継いでいなかった若き(いや、今も十分にお若いのだが)道雪殿を守りきって討ち死にした股肱の臣だったそうだ。
連貞は、その父の忠義と武勇を正しく受け継ぎ、寡黙な為人ながら戦場での剛勇は鎮幸に迫り、戸次家、ひいては大友軍の勝利に幾度も貢献してきた。道雪殿の信頼もきわめてあつい。
滅多に口を開かないせいもあるだろう。めずらしく連貞が言葉を発したため、皆が自然とその発言をきこうと口を閉ざし、連貞に注目した。
が、周囲の注目を悟るや、連貞はすぐに口を閉ざしてしまう。困惑したような、またどこか迷惑そうな顔だったが、見る者が見れば連貞の頬がかすかに赤らんでいることがわかるだろう。
それを見て、俺は思った。
『ようは寡黙というより、照れ屋なのですよ、連貞は』
そう言って笑っていた道雪殿の言葉は、まったくもって正しかったのだ、と。
連貞が黙り込んでしまうと、しばしの間、なんとも微妙な空気が流れたが、苦笑した惟信が再び口を開くことで、その空気はたちまち霧散した。
「どの道、古処山城は陥とさねばなりません。敵が何を企んでいるにせよ、乗じられる隙をつくらねば良いだけのこと。各将は周辺の警戒を厳に。また徴用した兵が不埒なまねをせぬよう手綱をひきしめておくように。略奪暴行には厳罰をもって処すが我が軍の法ですから」
軍監の言葉に、一同そろって頭を下げる。
それを見回した後、惟信は主に向かって問いかけた。
「道雪様、他に何かございますか?」
「いえ、特にはありません。皆々、惟信が今申したことを胸に刻み、怠りなく務めてください。それと――」
ここで苦笑を一つ。
「鎮幸、大友家屈指の武将がいつまでもしょげているのはどうかと思いますよ?」
「……く、誰からも相手にされずにいたわしを気遣ってくださるそのお優しさに、この鎮幸、涙を禁じえませぬッ。というわけで軍師ッ!」
そう言うや、鎮幸は不意に俺に視線を据えた。
……って、待てまて。
「……軍師とはそれがしのことですか?」
「他に誰がいるというのかッ」
「……いや、まあそれはともかく、今の話の流れでどうしてそれがしの名が出てくるのですか?」
まるで俺は関係ないと思うのだが。
そう思いつつ、困惑して問い返す。すると、鎮幸は胸を張って、こんなことを言ってきた。
「おぬしの困惑など知ったことではないッ。ここは一つ、お優しい道雪様のために素敵な助言の一つもしてさしあげるのだ、わしの代わりにッ!」
――どうしよう。言いたいことがありすぎて何を言えばいいのかわからない。
「…………由布様、何か理不尽な言いがかりをつけられているような気がするのですが、それがしの気のせいでしょうか?」
助けを求めて惟信を見たが、惟信は「私にふるな」と言わんばかりに目を背けている。
ならば連貞は、と視線を転じたのだが、こちらも首を左右に振るばかり。
道雪殿? 見るだけ無駄だろう。というか、見ないでも大体どんな表情をしているかわかるしなあ。
俺は仕方ない、とため息を吐いてから口を開く。
「……そうですね、では――」
「おう、やはりなんぞあったか。まったく、もったいぶらずにはよう言えばよいものを」
何故か得意げに言う鎮幸を極力意識しないようにつとめつつ、俺は口を開いた。
「まもなく、九国に野分が吹き荒れましょう。皆様方には、準備に怠りなきように、とご忠告いたします」
「ほう、それは吉継殿の見立てかな?」
鎮幸が興味深げに口にする。吉継が天候予測に長じていることは、先の戦いで皆がすでに知っていた。
「それもございます」
「そうか、角隈様の愛弟子の言葉とあらば等閑にはできぬ。皆、聞いたな。いざ戦となった時に兵糧や武具が水浸しでは話にならぬ、今から備えておくのだ!」
機嫌よさげに言う鎮幸だったが、不意に俺を見るとにやにやと笑った。
「しかし、軍師殿、このような時でも父の助けとなってくれるとは、吉継殿はまことに良き娘御だ。大事にせねば罰があたるというものだぞ」
ふわっはっは、と大笑する鎮幸につられたように、周囲からもくすくすと笑い声が零れ落ちる。
中でも一番楽しそうに笑っていたのが誰だったのかは――あえて言う必要もないだろう。
俺はひきつった笑いを浮かべながら、席を蹴立てて立ち去りたい衝動を懸命に堪え続けるしかなかった……
◆◆◆
安芸国、吉田郡山城。
足利幕府第十三代将軍、足利義輝の使者は耳を疑った。
これまで将軍の手足となって、幾度も他国に赴いたことのある練達の士であったが、ここまでにこやかに命令を拒絶されたことはかつてなかったからだ。
「……なんと申された?」
信じられない思いで問い返す。
すると、当主元就の傍らに座したその女性――毛利隆元は再びにこやかに答えを返してきた。
「公方様のお心を煩わせたこと、まことに申し訳なく存じております。しかし、当家は先の乱において、十分な思慮の上で大友家と矛を交えたのです。戦は利あらず、また小原鑑元殿の御心を重んじて一時は和睦もやむなしと考えました。しかし、当家が大友家と戦う理由はいささかも減じておらず、両家が再びぶつかるはもはや避けられぬこと。我が毛利は、この期に及んで大友家と盟約を結ぶ必要を認めません。公方様にはそのようにお伝えください」
隆元の顔に敵意はなく、その言葉は丁寧であり、幕府を軽んじる様子は見受けられない。
しかし、将軍から伝えられた同盟締結を真っ向から否定したのは、まぎれもない事実である。それが意味することは明らかだった。
「……つまり、毛利は上意を拒む、とそう判断してよろしいか?」
「余のことであれば知らず、大友家と結べというのが公方様の御心であるならば、毛利はそれに従うことはできかねます」
「……率直に言わせていただくが、正気でござるか? 武家の棟梁たる将軍の意向に背くことの意味、わからぬとは思えぬが」
威圧するような使者の言葉に、元就の顔がわずかに曇る。
だが、隆元の方は微塵も表情を動かしていなかった。
「京と豊後は遠く離れているとはいえ、使者のやりとりは頻々であるとうかがっております。おそらく此度の使者も、大友の願いを容れられてのことでございましょう?」
隆元の問いに、使者は返答しなかった。
だが「毛利が他国の内乱に介入して不当に得た領土を返還せよ」という使者が将軍家のみの意思で出されるはずもない。
ゆえに隆元は返答を待つことなく言葉を続ける。
「かの地が今どのような状態に置かれているかは公方様もご存知でありましょう? 毛利は鎌倉以来の家柄、日の本の民としての誇りを持たぬ者たちと手を結ぶつもりはございません。無論、宗麟殿が心を入れ替えたというならばその限りではございませんが――くわえて申し上げれば、門司を得たことが不当であるとの仰せでしたが、そも和睦は大友から申し出たことであり、門司の割譲もその一つです。これをつきかえせば、それこそ大友家との仲がこじれるというものではありませんか。使者殿にはそのあたりの事情を今一度公方様にお話しいただければ、と」
毛利隆元の言葉は、穏やかながら断固とした響きを持っていた。
外交に長じているゆえに、使者にはそれが良くわかる。そして、それによって毛利がどれだけの不利益を被るか、それを隆元が理解していることも。
元就が先刻から一言も口を差し挟まないということは、隆元の言葉は毛利の総意であるということ。種々の不利益を理解してなお上意を拒む毛利家の面々と、それを貫くだけの実力に、使者は戦慄を禁じえなかった……
この日、毛利家は将軍家からの調停を真っ向から拒絶する。これによって北九州における毛利、大友両家の争いが不可避になったことが内外に明らかとなった。
そしてほぼ時を同じくして、周防山口城に赴いていた吉川元春、小早川隆景の二将は、筑前の諸勢力の動きを睨んだ上で兵を動かす。
その軍勢はおおよそ一万。先の戦いに比べて大幅に数が減じたのは、戦が終わって間もなかったこともあるが、それ以上に数よりも質を重んじたからに他ならない。
吉川、小早川の『両川』が率いる毛利の精鋭部隊は、ほどなく六百隻を越える船に乗り込み、海上の軍となる。これを止めるべき大友水軍は、まだ先ごろの戦いの痛撃から回復しておらず、毛利水軍を遮る者は海上には存在しない。
それは、毛利軍が好きな時、好きなところに上陸できることを意味した。
その船上で、毛利の次女と三女は、彼女たち姉妹にとって弟のような存在だったある人物について語り合っていた。
「さて、種実君はうまくやってるかな、春姉?」
「やっているだろうさ。種実は一日千秋の思いで、この時を待っていたのだからな。むしろ我らが来るまでに決着をつけようと焦っているかもしれんぞ」
「ああ、隆姉もそれを心配してたよね。種実君が焦りすぎるんじゃないかって」
「姉者は種実を実の弟のように可愛がっていたからな。そしてお前はそれを見てふてくされていたわけだが」
「……若き日の苦い過ちってやつだね……」
「遠い目をしてごまかすな。まあ、いかに隆景でも、そんな幼い妬心で軍の進退を誤るようなことはあるまい?」
「さすがにそれを心配されるのは心外だよ。というかそんなことしたら、ぼくが隆姉に殺される」
ああ見えて怒るとこわい姉の顔を思い出し、隆景は小さく身を震わせた。
そんな妹をよそに、元春は眼差しを伏せて思案する。
今回の種実の蜂起は毛利の後援を得てのものだが、本来ならもっと時間をかけて行われるはずだった。より正確に言えば、元就は種実を戦の真っ只中に送るつもりはなく、毛利軍が筑前を制した後、古処山城に戻そうとしていたのである。
それに否やを唱えたのは種実本人であり、先の小原鑑元の敗北とその後の情勢を睨み、今回の古処山奪還のために勇んで故郷に戻っていった。
あの時、元就も隆元も種実を引きとめたが、元春は黙って見送った。大友家への復讐と秋月家の復興を望んでやまない少年に、これ以上の忍耐は望むべくもないと考えたためだ。
今回の毛利の戦略を知る元春には、勝利は確実であるように映る。
だが、先の戦とて毛利軍と小原軍は優勢だと思われていたのである。だが、その結果は今更語るまでもない。
ならば今回とて何が起こるかわからない。確かにここまでは順調だ。だが、ここからも順調であるとは限らない。だからこそ――
(油断だけはするなよ、種実)
あの弟が同じ思いでいてくれることを、元春は願わずにはいられなかった。