筑前国休松城。
九国で生まれ育った種実さえも記憶にないような強烈な風雨が吹き荒れる中、秋月軍は密かに休松城に接近していた。
種実の傍らに控えるのは腹心の深江美濃守である。
もう一人の腹心である大橋豊後守は、すでに別働隊を率いて城の裏手にまわっていた。
大友軍は連日の筑前衆の度重なる攻勢を受け、疲労も限界に達しているはず。嵐を裂いて、そこを衝くのが種実ら秋月軍の目的だった。
しかし。
寄せ手の総大将秋月種実は、今、内心の苛立ちと困惑を隠すのに苦心していた。
「……どういうことだ?」
知らず、口をついて出た疑問に、しかし老練な深江美濃守も答えを返すことが出来ない。
目の前に広がるのは深い闇と吹き荒れる風雨。
そして。
おりしも稲光が視界を純白に染めた、その彼方に、開ききった休松城の城門が映し出されていた。
◆◆
現在、大友軍が篭る休松城は、元々は種実の父である文種が、古処山城の出城として建てた秋月家の持ち城だった。当然のように、種実はその特徴を熟知している。
休松城は、安見ヶ城山、大平山という二つの低山に拠る形でつくられた山城であり、本城である古処山城や他の出城と緊密な連携を保てば、出城として十分な機能を発揮する。
逆に言えば、ただそれだけの城だ。古処山城のように孤立しながら大軍を迎え撃てるほどの堅牢さは備えていない。
くわえて言えば、種実は大友軍を迎え撃つ際、各地の出城、支城の物資をことごとく古処山城に集めさせており、城内には大友軍が府内から持ち込んだ武具や兵糧しか残っていないはずだった。その物資にしたところで、大友軍の半ば以上が立花山城に向かった今、城内に豊富に残っているとは考えにくい。
にも関わらず。
大友軍は数え上げれば七度に及ぶ筑前衆の攻勢をことごとく撃退してのけたのである。
もっとも、主力というべき秋月軍が動いたのは七度のうちわずか二度だけ。
それ以外は他の国人衆に命じて行わせたものであり、夜討ち朝駆けを主としたその攻勢は、城を陥落させるためというよりは、大友軍の士気を挫くための作戦行動といえた。
だが、それとて決して生易しい攻撃ではない。それも当然で、大友軍と、その指揮官である戸次道雪を討ち取るという武勲は誰もが欲してやまぬところ、攻撃を仕掛けた諸将はいずれも本気で攻めかかったのだから。
それでもなお、城は陥ちない。
鬼道雪の将帥としての威令は知らぬ者とてなく、戸次勢が精鋭であることも隠れない事実だが、それにしてもこの粘りは種実の予想を超えていた。
まるで、この事あるを予期して、十分な備えをしていたかのようだ。
城の堅牢さに、種実の胸中にそんな考えが浮かんでくる。だが――
「……ありえない」
それはつまり、毛利元就の策略を見抜いていなければ不可能なことだからである。
しかし、元就の策略を見抜き、立花、高橋らの謀叛を察していたのなら、種実らが挙兵する前にとうに両家に兵を遣わして制圧しているはず。
大友軍の動きを見る限り、彼らは立花、高橋の叛意に気づいていなかったとしか思えない。必然的に、休松城で種実らに取り囲まれることを予期できるはずがない。
ならば、何故いまだに城は健在なのか――
「つまりは、これが鬼道雪の底力ということかな」
戦陣に臨んだ数で言えば、今の種実は道雪の足元にも及ばない。道雪から見れば、種実など卵の殻をつけたひよこに過ぎないだろう。
机上の計算など、実際の戦ではなにほどの役にも立たない。あの城から、道雪はそんな風に種実を見下ろしているのかもしれない。
そう考えると腸が煮えくり返る思いだが、戦場にあって感情に身を任せる愚かさは元就や三姉妹たちから繰り返し説かれたところだ。くわえて父と兄を殺され、古処山城から落ち延びてもう二年近く。感情をねじ伏せるのは慣れたものだった。
一際強い風が吹く。
軍旗が激しくはためき、急造の陣屋が音をたててきしむほどの勢いだ。その風にあおられるように、ここ数日降り続いていた雨もますます激しくなりつつある。
種実は予測されていた嵐が間もなく到来であろうことを悟り、苦い笑みを浮かべた。本来なら、これが来る前に城を陥としておきたかったのだが、そこはやはりみずからの見通しの甘さを認めるしかないだろう。
「机上の計算にしがみついた小僧っこだと嘲笑されてもやむをえないね。けど――」
それでもなお勝ちの目は動かない。
種実は声をあげて部下を呼ぶと、秋月軍を含めた筑前衆全軍を麓の陣営に戻すように命令した。
これ以上、風が強まれば仮ごしらえの本陣が吹き飛ばされかねず、それ以外にも本格的な嵐が到来するまえにやっておかねばならないことは幾らでもある。また筑前衆は寄せ集めの軍勢ゆえに、危急の事態に脆い。嵐に乗じて山中で攻撃を受ければ、下手をすると同士討ちになりかねないからでもあった。
総攻めは風雨が去った後。
諸将にそう伝えた種実は、そのすぐあとに腹心の二将を呼び寄せる。
連日連夜の攻勢に晒されていた大友軍にとって、ようやくおとずれた休息である。警戒の念を解くほど愚かではあるまいが、間違いなく注意力は失われるだろう。
そこを衝く。
そのためには他の軍は邪魔であり、秋月軍は味方すら気づかないほどに速やかに軍を動かし、休松城を奇襲しなければならなかった。
◆◆
そして――
自ら軍を率いて夜闇を潜り抜けてきた種実の視界に映ったのは、開かれた城門だったのである。
大友軍が出入りするために、わずかに開かれているというわけではない。文字通りの意味で、完全に開放されていた。あれでは仮に大友軍が隠れ潜んでいたとしても、敵勢が押し寄せるまでに城門を閉じることは不可能だろう。否、それどころか――
「美濃、門扉が見えるかい?」
「……見えませぬな。容易に信じられぬことですが」
老練な深江の声からも、明らかな不審と驚愕が感じ取れた。
そう。敵兵の侵入を拒むための分厚い門扉そのものが取り外されているのである。たしかに連日の攻勢で門扉も大分傷ついており、戦が終わった後には修復しなければならなかっただろう。
だが、敵を前にして門扉をはずす理由があるはずもない。まさか嵐に備えての一時的な退却を、総撤退だと思い込んだわけでもないだろう。
あるいは、この嵐の間に門扉をつけかえるつもりなのだろうか。だが、そんな急造の門で自軍に数倍する敵軍を防げるはずがない。それに作業をしている大友軍の将兵の姿も見えないではないか。
考え込む種実に、いち早く驚愕から立ち直った深江が声を励まして告げる。
「しかし若、敵の思惑はどうあれ好機には違いございませぬ」
「だが、間違いなく大友の罠だよ」
「罠なれば食い破れば良いだけのこと。どんな罠をしかけていたところで、我が軍が城門を押さえるという一手を省けることは確かでござろう」
深江の言葉には一理あった。城門をこじ開けるという最初の難関を、向こうがあえて開いてくれたのである。ここで躊躇してしまえば、いつまで経っても城を陥とすことはできないだろう。
「くわえて、ここで逡巡してしまえば豊後殿が孤立してしまいましょう」
「……確かにそうだな。これまで真っ向から反撃してきた大友が奇策に出たということは、それだけ追い詰められているということでもある。ここは正攻法で押し切るべきか」
「御意。拙者が隊を率いて門をおさえます。若は後詰をお願いいたしまする」
「わかった。美濃、頼む」
「はッ」
かしこまった深江は、みずからの言葉どおり自隊を率いて休松城に接近、警戒しつつ城門を越える。
だが、そこには予期していた罠はなく、城壁上から大友軍の矢石が降り注ぐこともなかった。
城内に少し入ったところには、木と桟を幾重にも重ね合わせた分厚い門扉が重ね合わせに置かれていたが、その周囲にも大友軍の姿はなかった。
その時、不意に深江の視界に慌しく駆け寄ってくる複数の兵士の姿が映った。
すわ大友軍か、と深江と麾下の兵士たちは迎え撃とうとしたのだが――
「朝!」
そんな声がかけられ、深江は思わず叫び返していた。
「夜!」
それは秋月軍の合言葉だった。嵐の中での戦いになるということで、あらかじめ定めていたのである。そのやりとりを聞いた周囲の兵からも殺気が失われていく。
それは相手も同様だったようで、近づいてきた部隊の長がどこか呆然としたように声をかけてきた。
「やはり、美濃殿か」
「これは豊後殿であったか。ご無事で何より」
「美濃殿もな。もっとも敵兵がおらぬ以上、無事も何もないのだが」
その大橋の言葉で、深江も事情を察した。裏手から回り込んだ大橋の隊も、敵兵に遮られることなく、ここまで侵入してきたのだろう。
「ごらんのとおり、門扉そのものがはずされておる。落とし穴などもなく、城壁に兵が潜んでおる様子もなし、だ――狸にばかされておるようだわ」
「こちらも同様。決死の覚悟で乗り込んでみれば、歩哨の一人も立っておらぬ。城の中には明かりさえ灯っておらず、まるで無人の城だ。門をあけるために急いだゆえ、まだ詳しくは調べておらぬが」
「山中に逃げ込んだのでござろうか。いやしかし、十や二十ならともかく、千を越える人数が隠れ潜むことなど出来るはずもなかろうし……」
深江はわずかに考え込んだが、すぐにかぶりを振って意識を切り替えた。
今は城を制圧するのが第一義である。敵が城内に潜んでいる可能性もまだ十分に残っているし、敵が逃げたのだとしたら、無用の時を費やせば、その分敵が遠くまで逃げてしまう。まあ二千近い人数が、包囲を抜けられるとも思えないが……
そんなことを考えつつ、深江と大橋は種実率いる本軍を城内に呼び入れたのである。
◆◆
そして。
種実率いる秋月勢本隊はほどなく休松城を制圧した。
城壁上には秋月家の旗指物が立ち並び、嵐が去れば誰の目にも勝敗は明らかとなるだろう。
本来ならば、ここで勝どきの一つもあがるはずだったが、しかし、煙のように姿を消した大友軍の行方が知れない以上、そんなことをする余裕が秋月軍の将兵にあるはずもなかった。
休松城、城主の間。
おそらくはつい先刻まで戸次道雪が使っていたはずの部屋で、種実は苛立たしげに軍配をもてあそんでいた。嵐はいまだ去らず、種実の耳には雷鳴と風雨の音が絶えず飛び込んでくる。その音が、ただでさえ落ち着かない胸中をさらに騒がせ、種実は知らず奥歯をかみ締めていた。
それでも、なんとか声を震わせることなく、深江に確認をとる。
「……まだ知らせは来ないのか?」
「は、いまだ」
さきほどと変わらない答えを受け、種実は舌打ちをこらえる。
もっとも使者が戻ってくれば真っ先にここへ通すように命じている以上、答えがかわるはずもない。そのことは種実も承知していた。それと知って、なお確認してしまうということは、要するに自分が落ち着きを失っているからだ。
種実は誰に言われるまでもなくそのことを理解しており、その自覚がまた苛立たをかきたてるのである。
深江の隊が城門を確保した時点で、種実はすぐに麓に布陣する筑前衆に使者を出した。
大友軍が城中にいないとなれば、当然、城を出たことになる。このあたりの山は標高が四百にも満たない低山であり、千を越える人数が山中に隠れ潜むことは不可能だ。
であれば、大友軍はおそらく嵐を衝いて包囲を破りに出るはずだった。というより、それ以外に考えようがない。
問題はどちらの方角に逃げるか、ということだった。
もし道雪が高橋の裏切りに気づいていないのならば、立花山城に赴いた本隊と合流しようとはかるだろう。あるいは宝満城に逃れ、城の高橋勢の助力を得てから、改めて反撃してくるつもりかもしれない。
そうなれば、高橋勢は切り株につまずいた兎を得るような容易さで鬼道雪を討ち取ることが出来る。種実にしてみれば、到底許容できるものではない。
ゆえに本来ならば即座に追撃に出たいところなのだが、もしかすると大友軍が豊後に戻ることも考えられるのである。
大友軍二万を討ち破ったとしても、戸次道雪を逃してしまえば画竜点睛を欠くというもの。完璧な死地に追い落としながら、道雪を取り逃がした秋月種実の無能ぶりは九国中に知れ渡る。
それもまた種実にとって受け入れられない結末であった。
そのいずれも避けるためには、まずは大友軍がどの方面に逃げるつもりなのか、それを確認しなければならない。
種実は筑前衆に包囲の輪を広げるように命じ、大友軍を発見したら即座に知らせるように厳命した。
無論、その知らせがあり次第、全軍をもって追撃し、道雪の首級をあげるためである。
だが、その知らせが来ないのだ。
確かに使者を出してから、さして時が経ったわけではない。あるいは今なお大友軍は嵐の山野を進んでいる最中なのかもしれない。
だが、万一にも包囲の隙をついて密かに抜け出られていたら、と思うと種実は落ち着いていられなかった。
これまで年齢に似合わぬ泰然自若とした振る舞いをしていた種実だったが、事ここに及ぶと、内心の激情を制御することは難しかった。
そんな年若い主君の様子を見て、深江や大橋といった家臣たちは無理もない、と内心でつぶやく。二年近く、耐え続けた悲願がかなうか否かの瀬戸際である。長く生きてきた自分たちでさえ落ち着いてはいられないのだから。
「……若」
いっそ、今のうちに麓に向かってはどうか。深江はそう進言しようとした。
現時点で休松城を占拠しておく必要はない。まさか大友軍が引き返して襲ってくることもあるまい。であれば、知らせを受けてすぐに追撃に移れるようにしておくべきではないか。
深江の進言を聞き、種実は一瞬だけ呆然とした。
深江の言うことはもっともであり、そんなもっともなことに気づかなかった自分に愕然としたのである。
「美濃の言うとおりだ。どのみち、知らせが来れば麓までおりねばならないのだから、今のうちに……」
種実がめずらしく慌てて言い募り、勢い良く立ち上がった、その時。
「も、申し上げますッ!」
その場にいたほとんど――否、すべての人間が、その使者が味方の陣営からの知らせだと考えた。
大友軍の行方がわかったのだろう、と。
無論、種実もその一人。それゆえ、種実は余計な前置きはせずにまっすぐに問いかける。
「大友軍はどちらの方角に逃げたんだ?!」
だが――
それを聞いた使者は答えなかった。その顔には、驚愕と困惑がありありと浮かんでいた。報告すべき言葉さえ呑み込んで。
その使者の表情をいぶかしく思った種実は、同時にもう一つの事実に気づいた。
嵐の中を駆け抜け、濡れ鼠のようになったその使者は、先刻、種実自身が麓に送り出した者ではなかったか――?
奇妙に重苦しい沈黙は、長くは続かなかった。困惑から脱した使者が、内心の疑問を脇に置き、なにはともあれ報告せねばと声を張り上げたからである。
「も、申し上げます、麓に布陣していた宗像、原田、筑紫らの諸勢の軍が、大友軍の奇襲を受け壊乱! 皆々、陣を保つこともかなわず、すでに潰走をはじめた部隊もいた模様ですッ!」
「……なんだと?」
「嵐の中のこととて、それ以上の詳しい情勢は知りようもありませんでしたが、すでに使者の役割を果たせる状況にないと判断し、取り急ぎ報告せねばと立ち返った次第でございますッ!」
――最初に口を開いたのは深江だった。搾り出すように確認をとる。
「待て、何を言っている? 大友軍の奇襲? 豊後から援軍が参ったのか?」
だが、使者はその問いに困惑を見せる。
「確認できたのは杏葉紋のみゆえ、しかとはわかりかねますが、おそらくは戸次勢ではないかと……」
城の大友軍がうって出た。戦況を単純にそう考えていた使者にとって、深江の問いは意味をなさないものだった。
そして、この使者の考えは的をはずしていない。そう、状況を考えれば戸次勢が城を捨てて麓の軍勢に攻め込んだのだろう。深江もまたそれ以外に、現状を説明できる言葉をもてない。
だが、それはすなわち――
はじめて。
「……そんな」
種実の声がひびわれる。
種実が他の国人衆を退かせた段階で、道雪は兵をまとめ、密かに城を出る。
種実がひそやかに自軍を引き連れて休松城に攻め上っていたとき、道雪は逆に麓の筑前衆を指呼の間に捉えていたのだろう。
筑前衆にしてみれば、参戦以来、ずっと有利な戦況だった。おまけにこの嵐だ。警戒など形ばかりだったろう。かりに真剣に警戒している軍があったとしても、百や二百なら知らず、二千の大友軍が雨中をさいて奇襲してくれば持ちこたえられるはずがない。
そして、一度崩れてしまえば、そこは烏合の軍の悲しさ、再び陣を立て直すのは至難の業だろう。
何故、その知らせが種実のもとにもたらされなかったのか。知らせが来ていれば、即座に軍を転じて後背から大友軍を討ち破ることも出来たのに。
――答えは明瞭だ。彼らは知らせようにも種実の居場所を知らなかったのだ。種実は武功を独占するため、孤軍でこの奇襲に臨んでいたから。
主力である秋月軍の不在、嵐の中の奇襲、率いる将は戸次道雪。これだけの要素が絡めば、むしろ持ちこたえられたら奇跡だろう。使者が麓に赴いた段階で、諸勢が壊乱の兆しを見せていたのも不思議ではなかった。おそらく、大友軍は掌を指すように筑前衆の動きを見切っていたに違いない。
否、それどころか――
「殿! 急ぎ山を下り、大友軍を討つべきでござる!」
驚愕の表情を張り付かせて押し黙る種実を見た大橋豊後守が声をはげまして告げる。
大橋とて動揺していないわけではないが、長く戦乱の世を生き抜いてきた秋月家の宿将は勝ち戦と同じ程度に負け戦を経験している。策が破られ、窮地に陥ったことは一度や二度ではない。
こんな時、もっとも避けるべきは躊躇して竦んでしまうことである。将のためらいは、即座に士卒に伝播し、動揺をうむ。ここは無理やりにでも声を励まして、大友軍へ討って出るべきだった。そうすれば、将兵の怖気心も戦の昂揚に打ち消されよう。
それに、と大橋は幾ばくかの余裕をもって考える。
まだ、秋月軍が大友軍に優る兵力を有していることは確かなのだから、と。
だが。
次の瞬間、種実の口からは弾けるような叱声が飛び出し、大橋のみならず深江も驚きを隠せなかった。
「何を言っているッ?! 豊後、急ぎ兵をまとめてくれ! かなう限り急いで城門を守れ! くそ、この嵐じゃあ鐘をうっても聞こえないし、合図をしようにも……ッ!!」
「わ、若、落ち着きめされ。いまだわが軍は大友軍に優っております。たしかにしてやられはしましたが、挽回の機はいくらでもございましょうぞ」
深江は、種実が策を破られて一時的に混乱していると思ったのだ。
だが、種実はそんな深江の言葉に、苛立ちもあらわに口を開く。
「美濃までも何を呆けたことを! わからないのか?!」
「わ、わからぬか、とは……?」
「あの道雪が、寸刻を争うときに、どうしてわざわざ門扉を外して出撃したと思っているッ?! ただ城を捨てるだけなら、そのような手間をかける必要はないだろうッ! 空城計で時を稼ぐつもりだったにしても、なにも門扉自体をはずすことはない。門を開いておけばそれで済んだんだ! くそ、城中の兵は、大友軍をさがすために分散させてしまったし……くそッ、ぼくは何を呆けていたんだッ! 兵をまとめるように指示を出しておくくらい、もっと早くに出来たのにッ!!」
半ば叫ぶような種実の声。
おそらく、種実は言葉にしながら、自分の内心の考えをまとめてもいるのだろう。その声は深江らに説明するというよりは、焦慮をそのまま形にしたものだった。
それでも、深江、大橋の二将は、種実が言わんとするところを理解した。理解して、蒼ざめた。
だが、彼らが何事かを口にするよりも早く。
「申し上げますッ!!」
それはついさきほどとまったく同じ報告の言葉。
だが、そこにこめられた驚愕と苦痛は、比較にもならない。
すでに朱に染まった甲冑を身につけたその兵士は、悲鳴にも似た声で告げた。
「大友軍の奇襲ですッ! すでに城門は突破され……ぐ、お味方は懸命に防いでおりますが、敵の勢いは凄まじく……ぐ、く」
びしゃり、と紅い液体が、その兵士の口からこぼれ出る。よく見れば、その背には三本の矢が深々と突き刺さっていた。
「……間もなく、こちらまで押し寄せて来るかと、思われます…………種実、様」
搾り出すような兵士の声に、種実は奥歯をかみ締めつつ、無理やり声をつむぎ出す。
「……なんだい?」
「……どうか、御武運を……筑前を、我らの……手……」
「承知した。君は下がってやすんでいてくれ……なに、大友軍ごとき、すぐに討ち破ってみせようから」
種実は、最後の言葉が兵士の耳に届いたどうかを知ることは出来なかった。
深々と頭を下げた兵士は力なく横たわり、そっと傍らに歩み寄った深江が、兵士の両目を静かに閉ざす。
わずかに室内に落ちた沈黙は、次の瞬間、嵐さえ裂いて響き渡る喊声によって討ち破られる。思いがけないほどに近い。
「……美濃、豊後」
兵士の言葉が、種実の狼狽をかき消したのだろうか。その声は静かだった。
「御意。お任せを、若」
「……最後に無用の言を呈してしまいもうした。お許しくだされ」
「最後などではないよ、豊後。ぼくたちは勝つのだから……勝たなきゃいけないんだから」
軍配を握り締めた種実の声に、二将のみならず、その場にいた全員が頭をたれた。
最後まで主君に付き従うことを無言のうちに誓約するために。