筑前国休松城。
忙しげに、だが整然と宝満城へ向かう準備を整えている大友軍の陣中で、十時連貞はやや戸惑いながら主君に問いかけていた。
「……道雪様、よろしかったのですか?」
その連貞の言葉が、秋月、毛利を見逃した判断のことを指しているわけではないことを、道雪はすぐさま看取する。
「かまいません。可愛い子には旅をさせよというでしょう、連貞?」
道雪が微笑むと、連貞は困惑したように口を噤む。言いたいことは多々あれど、どれを口にするべきか、その選択に悩んでいる様子であった。
無論、連貞が案じているのは、肥前に向かう雲居筑前の案内役として、道雪が戸次家の嫡子である誾をつけたことである。
肥前の竜造寺は毛利の誘いに乗って大兵を動員したという。いわば今回の雲居の使いは敵国へのそれにあたり、それがどれだけ危険なものであるかは言うまでもないだろう。最悪の場合、即座にとらえられて首を刎ねられる恐れさえあるのだ。
おそらく雲居のことだから、そのあたりは十分に配慮するだろうが、それでも危険であることに違いはない。
くわえて言えば、誾という少年の特異な立場が、この件を厄介なものにする可能性がある。大友宗麟が亡き親友の子である誾のことを、特に気にかけているのは夙に有名な話である。一時は、わが子にと宗麟が望んだ人物を、危険な敵国への使者に出したなどと知られたら、道雪に隔意を抱く者たちがどう動くかわかったものではなかった。
さらに連貞が気にかけているのは、このところ誾が示していた雲居筑前への明らかな警戒心である。誾は表に出さないように気をつけていたようだが、物慣れた者たちにしてみれば、誾の内心は掌を指すように明らかであった。当然、雲居も承知していることだろう。
みずからに隔意を示す少年を、雲居はどう見ているのか。さらには、その少年を敵国への案内役につけた道雪の意図をどう考えているのか。
連貞の心配の種はあっちこっちに散らばっており、そのどれもが座視して良いものではなかったのである。
「連貞」
「はッ」
「もう少し肩の力をお抜きなさい。まだ心配性になるような年でもないでしょう。今からその調子では、十も年を重ねた頃には頭髪が寂しくなってしまいますよ?」
「……は、はぁ」
道雪の戯言に何と言葉を返してよいかわからず、連貞はあいまいに頷いて黙り込む。
連貞は元々多弁な性質ではないし、主である道雪への遠慮もある。気の利いた切りかえしなど望むべくもなく、それは連貞自身が自覚するところであった。実のところ、いつも軽妙に道雪とわたりあっている雲居にこっそり尊敬の念さえ抱いてる連貞である。
無論、道雪も連貞がそういう為人であることは十分に理解しているし、またそれでこそ連貞であるとも思っている。
戯言を口にした詫びというわけでもないが、配下の心配を散じるために、道雪は言葉を続けた。
「諸事、目が行き届く連貞のことです、吉継殿の変化には気づいているでしょう?」
「は、それは確かに」
諸事に目が行き届く、は過分な言い方ではあるが、確かに連貞は大谷吉継の変化には気がついていた。
といっても、連貞はことさら吉継と親交があったわけではない。豊前での戦を共にしてから――つまりは一ヶ月にも満たない短い付き合いだ。
だが、そのわずかな期間であっても、吉継の変化は明らかであるように連貞には思われる。
はじめて会った時、吉継の固く張り詰めた雰囲気と寡黙な為人は、連貞に自分と似たものを感じさせたものだが、今では張り詰めた雰囲気などどこへやら、寡黙な為人に至っては夢か幻か、というほどの変貌ぶりである。いっそ姿形が同じ別人だと言われても、連貞は不思議には思わなかっただろう。
連貞の内心を察したのか、道雪は愉快そうに微笑んだ。
だが、すぐに表情を改め、その眼差しに切なげなものを宿す。
「大友は、多くの人々を巻き添えにして陥穽に陥ってしまいました。吉継殿はその一人。どれだけの器量を持とうとも、同じ陥穽に陥った身では救うには限界があります」
だからこそ、あの石宗さえ、本当の意味で吉継を救い上げることはできなかった。それをするためには、なによりもまず大友家の外にいる人でなければならなかったからだ。
無論、本人に這い上がるだけの器量が必要なことは言うまでもない。
「その意味で、誾もまた吉継殿と同様なのです。ただあの子の場合、大友家そのものが身体にまとわりついてしまっています。救い上げるのは容易なことではないでしょう。内から這い上がる者も、外から手を引く者も」
「……道雪様は、雲居殿に外から手を差し伸べる役割を期待しておいでですか?」
「出来ればそうなってほしいとは思っています。けれど、今の誾は陥穽の底ばかりを見つめてしまっている。かりに外から手を伸ばされたところで、それに気づくことさえ出来ないでしょう。まず、あの子が顔をあげねば話は進みません。そこに気づかせてあげるのは、本来、わたしの役割なのですけれど――」
今の道雪は、穴の奥底へと沈み行く大友家を双肩に担う身である。それはつまり、道雪自身もまた誾にとって……
道雪は浮かび上がるその思いを振り切るようにかぶりを振った。
それは、どれだけ考えても詮無いことだったから。かりにそのとおりだとしたところで、道雪が誾に向ける情愛も、そのための行動も、何ひとつかわることはないのだから。
「――外からの風を感じれば、顔をあげる切っ掛けにもなりましょう。そのためには、わずかなりと大友から離れた方が良いのかもしれない。そう思ったのですよ」
「……御意」
その言葉と、内に秘めた道雪の思いを察した連貞は、気の利いたことを口にすることもできず、またしようとも思わず、ただ静かに頭を下げるのだった。
◆◆◆
なんというか、壮絶なまでの仏頂面だった。
誰が、と問われれば、俺はこう答えるしかない――戸次家の嫡子、戸次誾殿が、である。
どのくらい壮絶かというと、配下の将兵がまったく声をかけられないくらいである。
元々、他人と気安く接するような為人ではなかったが、それでもここまで露骨に他者を拒むのはめずらしい、と戸次家の家臣たちは目顔で語り合っていた。
とはいえ、彼らにも、また俺にも誾が不機嫌になっている理由は推測できた。ただ、厄介な点はそれがわかっても問題解決には何の役にも立たないということなわけで……
などと考えていたら、当の誾が声をかけてきた。
「……雲居殿」
「は、な、何でござろうか」
思わず動揺してしまったが、誾は気にかける素振りを見せずに言葉を続ける。
「そろそろ日が暮れます。伯耆守様より肥前への案内を務めるよう申し渡されましたが、それがいかなる用向きかは伺っておりません。ゆえにおたずねしますが、火急の用向きなのでしょうか? もしそうであればこのまま夜行します。しかし、一刻を争う用向きでないのなら、兵を休ませるべきと考えますが」
道雪殿から預かった戸次家の兵は休松城に立てこもった戸次家の精鋭であり、さらに言えばほとんどが俺が指揮した隊から選ばれた兵士である。馬に乗れて、かつ若い兵士が多いのは、強行軍に備えてのことだ。ちなみに馬に関しては、筑前の軍が置いてきぼりにした軍馬をありがたく頂戴したのである。
それらの中から長い騎行に耐えられそうな馬を厳選して発ったわけだが、馬はともかく、それに乗る兵士たちは、若いとはいえ篭城戦の疲労を色濃く残している。そして、戦が終わるや即座に出発させられた彼らの内心は推して知るべしであった。不平不満を表立って口にする者はいなかったが、誾の言うとおり、休める時に休んでおくべきだろう。
無理して走り続けた挙句、疲労困憊のところを強襲されでもしたら洒落にならん。
実際、肥前への使いは急ぎではあっても、一刻を争わなければならないものでもなかったから、俺は誾の提言に頷いた。
それを見た将兵の顔に、明らかにほっとしたものが漂う。口に出さずとも、誾が兵士たちの疲労具合をはかっていたことが良くわかった。
どれだけ俺が気に食わなくても、課せられた責務はきっちりと果たし、さらに(限りなく表面だけとはいえ)相手への礼儀も失わない。それも慇懃無礼に振舞うわけではなく、ちゃんと礼儀を尽くすのである――より正確に言えば、礼儀を尽くそうと努力している様子がありありと見て取れる、というところだが。
つまり何が言いたいかというと、この戸次誾という少年、実に好感の持てる人物なのである。
これが俺への敵意をあからさまにするだけだったり、露骨に不満を示して、こちらの不快を煽ったりするような人物であれば、俺も相応の態度をとるだけなのだが。
懸命に俺への不審と懐疑をあからさまにしないよう努め、かつ義母から受けた任務を誠実にこなそうと務める姿は、微笑みなしには見ていられない。
年に似合わず、私的な感情と公的な役割を切り離すことができるのは道雪殿の薫陶なのだろう。
俺への懐疑はかなり根深いものがあるらしく、戦場を共にした後でも態度に変化は見られない――というか、ますます硬化してしまった観があるのだが、それでも俺がこの少年を嫌いになれない理由はそういったところにあった。
まあ、あからさまに俺が好意を示すと、誾は逆に馬鹿にされたと思い、さらに態度を硬化させてしまいかねないので、距離のとり方に苦労していたりするのだが。
◆◆◆
そして夜になり。
大友軍は数名の夜番を立てて、大半が眠りに就いていた。その中には吉継も含まれている。
やはり先夜来の連戦で相当疲労が溜まっていたらしく、天幕で横になった瞬間、ほとんど一瞬で眠りに落ちていた。
「――というわけで、心遣い感謝いたします、戸次様。私が口にしたところで、あれは頷かなかったでしょうから」
「……別に、貴殿の息女を思いやって口にしたわけではありません。謝辞など不要です」
そう言うと、誾は口をへの字に結んで、また黙り込んでしまった。
そう。何故か俺と誾は同じ時刻の夜番にあたってしまったのである。決して礼を述べるために俺が調整した結果ではない。
ではないのだが、やはりこういう機会は利用すべきだろう。色々な意味で。
(とはいえ、こうも相手が頑なだと、話しかける糸口すら掴めないな)
周囲に警戒の視線をはしらせつつ、夜闇にも明らかな「話しかけるな」オーラを放出する誾の姿に、俺は苦笑を禁じえなかった。
小柄な身体に重々しい甲冑を身につけた姿は、子供が無理して武士の真似をしているようにも見える。やや長めの髪を首の後ろで一つに束ねているので、見ようによっては「子供」の部分を「女性」に変えても可。ただし、どちらにしても、本人にばれたらただでは済むまいが。
そんなことを考えていたら、まるで俺の内心を察したかのように、誾から鋭すぎる一瞥を投げかけられ、俺は慌てて前方の闇に視線を据えなおした。
そうやってごまかしたのは事実だが、それだけではない。実際、いつ大友家に敵対する筑前の軍勢があらわれても不思議ではないので、夜番はしっかり務める必要があったのである。
大方は先の戦いで逃げ散り、もう反抗する気力も残っていないだろうが、例外というのはどこにでもいるものだ。少人数で移動する大友軍であれば、捕捉も撃滅も難しくはないと考える者がいないとは限らなかった。
それから、どれだけの時間が過ぎたのか。
もうすぐ交代の刻限か、と思った俺の耳に不意に奇妙な音が飛び込んできた。
嵐の名残か、時折吹く強い風が木々をざわめかせる音――ではない。夜行性の動物がたてていると思われる草木の揺れる音でもない。
それは――
「笛、か?」
思わず呟いた俺に、誾が不審そうな眼差しを向けてくる。
「どうされたのです、雲居殿?」
「いや、今、笛の音のようなものが聞こえませんでしたか?」
俺の言葉に、かがり火に照らされた誾の顔が顰められたのがわかった。
何を馬鹿な、とでも言いたげに口を開こうとした誾だったが、次の瞬間、その表情が驚きにとってかわられた。誾の耳にも届いたのだろう。
風の悪戯、あるいは動物の鳴き声と間違う可能性はなかった。何故なら、その音には奏者の明らかな意思が感じられたからだ。
時に高く、時に低く。
時雨のように侘しいかと思えば、野分のように猛々しく奏でられる音の連なり。
芸術にはとんと疎い俺には、その曲が何なのかすらわからなかったが、それでも奏者は卓越した技量の持ち主だと確信する。それほどのものが、そこにはあった。
思わず聞きほれてしまいそうになったが、冷静に考えると妙な話だ。
これほどの腕前の持ち主が、戦場からほど遠からぬこの場所でのんきに笛を吹いているものだろうか。
夜襲に先立ち、敵の注意を惹き付けるために音楽を用いることがないわけではない。
「とはいえ……まさかどこで吹いているかもわからない人間を探すために、皆をたたき起こすわけにもいかんしなあ」
俺の呟きに、誾が眉をひそめながら声をかけてくる。
「それでよろしいのですか? 何かの合図である可能性もありますが」
「合図なら、こちらにそれとわからぬような工夫をするのではないですかね。かりに合図だとしても、警戒を解かなければ対処は出来るでしょう」
「……それが将の決断であれば従いましょう」
不服そうではあったが、誾は頷いてそう言った。
正直、誾の心配もわからないではない。
だが――と、俺は上空を仰ぎ見る。そこには煌々と月が輝いている。一見、満月のように見えるが、ほんのわずか欠けている。おそらく、月が満ちるのは明日だろう。
それでも月明かりがあるのは間違いない。音の源を辿っていけば、奏者を探すことも不可能ではないだろうが、夜の闇を裂いて草木も眠るこの時刻にそこまでする必要もないだろうと思うのだ。
そんなことを考えていると、名も知らぬ奏者は一曲吹き終えて満足したのか、笛の音はぴたりと止み、その後、再び吹かれることはなかったのである。
――この日は。
◆◆◆
明けて翌日。
大友軍は筑前を抜け、筑後に入った。
筑後は蒲池鑑盛を筆頭とした大友勢力が支配しているが、先ごろ国人衆の激しい反抗があったところを見てもわかるように、その支配は決して磐石なものではなかった。
従って、案内役である誾は、筑後に入っても警戒を緩めることなく、肥前を目指して最も危険が少ないと思われる経路をとった。
誾が筑後の地理に通じているのは、鑑盛をはじめとした筑後の大友家臣の下へ道雪の使者として幾度も赴いたことがあったからであるが、先の叛乱以降、誾が筑後をおとずれるのははじめてであり、諸勢力の動向には過敏にならざるを得なかった。
出発にあたって、道雪から一応の情報は教えられているとはいえ、その道雪にしたところで筑後の叛乱を鎮めた後は鑑盛に後始末を委ねて帰国した身であり、教えられた情報を盲信するわけにもいかなかったのである。
そんな誾の慎重さが活きたのか、あるいは思った以上に先の叛乱での痛手が大きかったのか、筑後の反大友勢力にぶつかることなく、大友軍は二日目の夜を迎えることが出来た。
この時期、九国といえども夜は冷え込むことが多いのだが、野分が南の暖かい風を運んできたのか、時が二ヶ月ほど戻ったかのように暖かい。
どのくらい暖かかったかというと、調子に乗った雲居筑前が、兵糧を腹に入れた後、兵たちに囃し立てられて近くの小川に飛び込んだほどだった。
小なりとはいえ一軍を率いる将にあるまじき所業であり、誾は言語道断だと激昂する寸前だったのだが、何故だか兵士たちは大喝采で、誾は怒る機を逸してしまった。
あるいは調子に乗ったわけではなく、他に何か理由があったのかもしれない。聞くとはなしに聞いていたところ、自分で飛び込んだわけではなく、彼の娘が突き落としていたとか、いないとか――まあ、誾にとっては心底どうでも良いことなのだが。
当然というかなんというか、小川の水は晩秋の水温のままだったので、雲居は現在寒さに震えて暖をとっている真っ最中である。本当に心底あきれ果てる。
しかし、今も誾と共に歩哨にたっている兵士たちは、笑いをこらえきれずに先刻の有様を話し合っていた。そこにあるのは好意的な感情であり、誾のように怒りを覚えている者は見当たらない。
何故だろう、と誾は困惑を押し隠しつつ、胸中でそう呟く。
それは一言でいって、雲居がすでに戸次家の兵士の信望を得ているから、ということになるのだろう。確かに休松城における雲居の奮戦は目覚しいものであったし、誾にしても雲居を見る目を改めなければ、とも思っている。
であれば、さきほどの行いも所詮は悪ふざけ、一々目くじらを立てるほどではないと受け流せそうなものだが、誾はどうしても兵士たちのように考えることはできそうもなかった。
それが何故なのか。
誾がそのことに思いを及ばそうとした時、不意に先夜と同じ笛の音が響いた。それも、先夜とは比べ物にならないほどの近くから。
それを聞いた瞬間、誾は背筋に悪寒を覚えた。
近くの兵士は昨日の笛を聞いていないか、あるいはここでその音が聞こえる――その意味に気づいていないのだろう。ほう、という顔をしつつ、音の方に視線を向けるだけだった。
無論、誾はそれどころではない。
夜半に響いた笛の音が頭に引っかかっていた誾は、道を先行しつつ後方にも常に注意を向けていた。殿(しんがり)の部隊には追尾する者がいないか、常に気をつけるように頼んでいたのである。
結果、大友軍を追っている者はいないとのことだった。騎馬のみの部隊が、休息をはさみつつもほとんど一日中移動し続けていたのだ。追おうとしても追えるものではない、と苦笑しつつ話す殿の言葉を否定する要素は何もなかった。
にも関わらず。
今、先夜と同じ笛の音を聞いている。その意味は――
そんな誾の考えを遮るように、兵士たちが驚きの声をあげる。
「……ほう、このご時勢に白拍子というわけでもあるまいが」
彼らの視線の先には、笛を口にあてて、ゆっくりとこちらに歩み寄る女性の姿があった。その背には、まるであらかじめ計算していたかのように満月が黄金色の光を注いでいる。
近づくにつれて明らかになる女性の容姿は鮮麗にして、笛を吹くその姿は優美。誾でさえ、一瞬、見とれてしまうほどに美しかった。
だが、さすがというべきか、戸次の将兵は女性の登場に呆けていたりはしなかった。
普段よりは多少鈍い反応ながら、警戒の視線を女性に向ける。それでも、さすがにまだ刀槍を構えている者はいなかった。
すると、笛の音がぴたりと止んだ。昨日と異なり、曲はまだ続いていたにも関わらず。それはすなわち、女性が笛を止めるに足る価値を戸次軍に見出したということであった。
無論、そんな機微を戸次軍がわかるはずもない。
誾が鋭く誰何の声を浴びせる。
「何者だッ?!」
「曲者です」
いっそ軽やかに返答する女性。
誾がどんな返答を予測していたにせよ、これは予測の外だった。
思わず絶句する誾を前に、女性は持っていた笛を丁寧に袋に入れて懐にしまうと、ごく自然な動作で腰の刀を抜き放った。
鎧兜をつけず、あでやかな着物姿のままに刀を構える女性。
普段であれば、こんな相手を前にすれば、悪ふざけはやめろと叱声を浴びせ、きつい灸を据えるところだった。しかし、今、誾も兵士たちも等しく息を呑んで黙りこむしかない。
鬼道雪に従い、数々の戦場を馳駆した戸次家の精鋭にはわかった。わかってしまった。
たとえこの場にいる者たちが束になってかかったところで、眼前に立つ女性にはかなわないのだ、と。
「……くッ」
誾もまた、それを理解した。せざるを得なかった。刀を構えた相手にここまで威圧されたのは、姉と慕う吉弘紹運以来だったから。
ただ、それでも誾が怖じることなく刀を抜き放つことが出来たのは、その経験があったからこそだろう。
そして、その鞘走りの音は、凍り付いていた他の兵士をも解き放つ効果を持っていたのである。
自らの前に連なる刀槍の輝きに、しかし、女性はむしろ満足そうに頷いていた。
「うん、合格です。さすがは音にきこえた大友軍。進軍の速さといい、警戒ぶりといい、実に良い。ここで此方に怖じちゃうようだと減点かなと思いましたが、末端の兵もしっかりと戦意を保っていますね。錬度もよし、と。さて、あとは部隊を率いる将の為人ですけど……名乗った以上、ここはやっぱり曲者らしくいきましょうか」
そう言うと、女性は刀を構えた。
正眼でも上段でも下段でもない、誾が見たこともない構え。八相の構えにも似ていたが、それにしては型が崩れているように見える。
我流か、と誾が考えていると、女性は少し首を傾げつつ、こんなことを言ってきた。
「そうそう、一つだけ忠告を。あなた方なら大丈夫だとは思いますけど、女だと思って甘く見たり、殺さずに捕らえようなんて考えないでくださいね? 死ぬ気でかかってこないと、死んじゃいますよ?」
あっけらかんと言い切る女性に、誾をはじめとした大友軍の将兵は思わず唖然となる。
だが、女性はそんな誾たちの様子を気にも留めず、むしろ言うべきことは言い終えたとばかりに、いっそ清清しささえ感じさせる顔で、大音声に呼ばわったのである。
「それでは丸目蔵人、大友軍を押し通らせていただきますッ!」