――豊後を本拠として、九国最大の勢力を誇る大友家。戸次氏はその大友家の臣であり、同時に庶流のひとつでもあって、代々の当主は加判衆(家老格の重臣)の一角として大友の治世に重きをなしてきた。
しかし、栄枯盛衰は世の常である。大友氏が他国に勢力を伸ばすにつれ、大友家内部でも新興の者たちが力を揮い始め、先代親家の頃には、戸次家の権勢は明らかな衰えを見せていた。
名門戸次氏も、戦国の世の理にならい、凋落の一途をたどるのみか。
大友家中で囁かれていたその声は、戸次氏の今代当主が家督を継いだ頃に一際大きくなり、半ば公然と語られるようになっていた。
その理由は、戸次氏の家督を継いだ戸次親家の娘鑑連(あきつら)にあった。
若くして戸次氏の当主におさまったこの少女、幼き頃、落雷に遭って両の足を雷神に奪われていたのである。
家運の傾き甚だしく、勢力減退著しい今この時、人もあろうに、よりにもよって不具の娘に家督を継がせるとは。
そんな声がそこかしこから聞こえる中、戸次家を継いだ鑑連は、しかし焦りも怒りも見せることなく、むしろ悠然とした面持ちで当主としての道を歩き始めたのである。
そして、それから数年。
戸次家は往時を上回る勢いでその勢力を増大させており、豊後大友家の躍進に不可欠な存在となりおおせていた。
傾きかけた家運を建て直し、主家の隆盛をも導いた戸次鑑連の名は九国中に鳴り響き、その勇名を慕う者は数知れず、輿に乗って戦場で采配を揮う姿は凛々しさと猛々しさを兼ね備え、時として雅にさえ映る。そんな鑑連に大友家の将兵は尊敬と憧憬に満ちた視線を送るのであった。
向かい合う者の内奥を見通してしまいそうな澄んだ眼差し。
穏やかでありながら威を感じさせる佇まい。
たおやかな容貌に微笑みを浮かべれば、士卒の末端に至るまで感奮せざるはなく、一度号令を発すれば、その軍勢は怒涛となって敵陣を覆い尽くす。
それが戸次鑑連という人物であった。その鑑連は、先年、名を改め、戸次鑑連改め戸次道雪と名乗っている。その武威を恐れた周辺諸国は、昨今、道雪を指して『鬼道雪』とよびならわし、他国の将士はその雷名を恐れること甚だしかった。
◆◆
火災によって焼け落ちた寺の境内に、南蛮神教の者たちが居丈高に現れた時、焼け跡の復興にあたっていた者たちが、彼らといさかいを起こしたのは、ある意味で当然のことであった。
ただ、当初のそれは、住職の薫陶を受けた僧侶たちの自制によって、一度は確かに鎮まったのである。
しかしその後も、集まった人々はその場を離れようとせず、焼け跡を無造作に片付けていく南蛮神教側の行動をじっと睨み続けていた。
この地の住民にとって、ここにあった寺は日々の信仰の対象であり、生きる支えでもあったのだが、南蛮側にとっては唾棄すべき異教の建物に過ぎぬ。彼らの態度や言動の端々には、この場所への軽侮がはっきりと感じられ、そういった言動が示されるたびに、人々の口から抗議の声があがる。
そういった一つ一つの小さな諍いの積み重ねが、いつか再び両者の対立に火をつけてしまったのかもしれない。
あたりには騒ぎを聞きつけて馳せ集まった者たちがあふれ、境内は先刻にもまさる騒然とした雰囲気に包まれようとしていた。
そんな一触即発の空気が長く続くはずがない。臨界はすぐに訪れた。
にらみ合う両者が、静から動へ、怒号と共に移ろうとする、その寸前。
涼やかな、それでいて思わず背筋を正してしまうような威厳がこもった声が、場の空気を一変させる。
現れたのは、遠く漢の世につくられたとされる車椅子に乗った妙齢の女性であった。
艶やかな髪は漆黒と呼ぶに相応しく、凛とした双眸、形良く整った容姿は明眸皓歯の例えそのままである。
微笑すれば誰もがその姿を記憶に焼き付けるであろう佳人は、しかし、今、激しい憤りにその身を委ねているように思われた。その内心を映すかのごとく、瞳には雷光が閃き、口から発される言葉は、語調こそ緩やかであったが、身の竦むような厳格さが感じられた。
「――領内において不穏の振る舞いを為すは、大友の家に仇なすこと。あえてそれを為さんと欲するのであれば、己が命を賭す覚悟を持ってもらわねばなりません」
車椅子が進む都度、境内にしきつめられた砂利が鳴る。
両者の間に割り入る佳人の後ろには、甲冑姿の将兵が続いていたが、たとえこの佳人一人であったとしても、この場にいる人々を承伏せしめることは可能であったろう。
それだけの威と力を感じさせる人物であった。
一時、突然の闖入者に鎮まりかえっていた境内は、この新たな人物の登場によって三度騒然となった。だが、それは先刻の騒ぎとは一線を画する。寺社側と南蛮神教側とを問わず、この場にいたほとんどすべての人間が、突然に現れたこの人物が誰であるかを知っていたのだ。
それほどまでに、その姿は大友領内において隠れなきものであった。
「……ありゃ戸次様ではないか?」
「ほ、本当だ、鬼道雪様だ。加判衆筆頭ともあろうお方がなしてこんなところに」
囁かれる声は驚愕に満ち、誰一人として動くことが出来ぬ。それは南蛮神教側も同様であった。彼らは主君フランシスの絶大なる信用を得て、その威光を背景に行動してきたのだが、それが通じぬ相手も存在する。
戸次道雪は、まさにその一人であったからである。
戸次道雪は、うろたえ騒ぐ民に向かって口を開く。大友軍にあって、万を越える将兵を叱咤する道雪の声は、決して大きくはないが、不思議なほどに良く通り、人々の心に染み入るように広がっていった。
「突然の災禍に遭い、皆が平静でいられないことはわかります。しかし、だからといってこの上騒擾を起こし、この地に眠る祖先の安寧を乱して何とするつもりですか。どのような理由があろうとも、乱が正当化されることはありません。皆、妻もあれば子もいるのでしょう。一時の短慮で法を犯し、家族を悲しませること、この道雪が断じて許しません」
その言葉に、場はしんと静まり返り、しわぶきの音一つ聞こえなかった。
大友家にあって不敗の名将として名高い戸次道雪。その為人は義を嗜み、財を軽んじ、兵と民とを慈しむ心に篤い徳望の人である。
その道雪が、どうして『鬼』と呼ばれ、恐れられるのか。その由来は、ただ戦場での果敢な戦いぶりだけに求められるのではない。今代の戸次家当主は、領内の治安を乱す者、戦場で軍律を犯す者に対しては別人のごとく峻厳な態度を示し、容赦ない罰を加えることでも知られているのである。
道雪は他界した角隈石宗と並び、隆盛著しい南蛮神教の勢力に対抗できる大友家中で無二の人であると思われ、また実際にそのとおりであった。それゆえ、寺社側にとっては味方も同然と思われていたが、寺社側の行動が大友の家法に背くものであった場合、雷神の怒りは、科人(とがびと)の信じる教えを問うたりはしないであろう。
道雪の威に撃たれ、静まり返る境内。
その状況に、今、新たに二人の人物が姿をあらわした。
一人は角隈邸から駆けつけた住職である。住職はにらみ合う者たちと、その間に立ちはだかっている道雪の姿を見て、たちまち状況を察した。
「御仏の教えに、暴によって為しえるものは一つとしてありはせぬ。皆、落ち着きなされ」
住職は穏やかに、しかしはっきりと訓戒の意を込めて、寺社側の者たちを制そうとする。
「和尚様、し、しかし」
「罰当たりな物言いであるが、寺が焼けたならば、また建て直せば良い。その形と所が違おうとも、うちにやどる教えは何もかわりはせぬだろう。だが、それはここにいる皆があってこそ。今、皆が罪もて裁かれてしまえば、どれだけ立派な寺を再建しようと、何の意味があろうか。心の昂ぶりに流されず、大切なものを見据えてくだされよ」
そういって誠心で人々を教え諭す住職。
その後、住職は道雪の下に歩み寄り、恭しく頭を下げた。道雪もまた礼をもってそれに応え、周囲はそんな二人の姿を粛然と見守るばかり。さきほどまで激昂していた者の中には、赤面して俯く者も多かった。
そのまま時が移れば、事態は落着したに違いない。
だが――
「これはこれは、トール殿。奇妙な場所でお会いしますね」
それを望まぬ者もまた、この場には存在した。
カブラエルである。
◆◆
カブラエルの姿を見て、露骨に顔をしかめたのは、道雪を守るように傍らに立つ偉丈夫であった。
この人物、名を小野鎮幸(おの しげゆき)という。
年齢は三十代半ばというところか。彫り深く、精気のあふれる容貌の持ち主で、顔といわず身体といわず無数の戦傷が刻まれており、大友家中でも屈指の猛将として知られている。
その容貌や言動はときに粗暴に映る時もあるが、見かけだけのことである。兵書に親しみ、政にも長じ、部下を思う心も厚い。豪放磊落な気性は目上からも、また目下の者からも好かれ、近年では智勇兼備の将帥としての令名を確立しつつある人物であった。
そんな鎮幸であるが、平素の性情は直線的であり、感情を包むということをしない。カブラエルの姿を見て、はっきりと不快を示したのがその証拠である。
だが、鎮幸がその表情を浮かべた途端、傍らにいた人物がほとんど間髪いれずに鎮幸の足をおもいっきり踏みつけたため、鎮幸の表情から侮蔑の意思はたちまち霧散してしまった。
「……こ、惟信?」
鎮幸が顔をひきつらせて小声で声をかけると、かけられた側の人物は澄ました声で応じた。
「どうかされましたか、鎮幸殿?」
「い、いや、その、足をどけてくれると助かるのだが」
「ならば、その無思慮な表情を引っ込めることからはじめてくださいな」
そう言って、咎めるように鎮幸を見上げた女性の名を由比惟信(ゆふ これのぶ)という。鎮幸と同じく戸次家の将の一人であり、鎮幸が猛将であるならば惟信は知将と目される。
年齢は惟信の方が、鎮幸より十以上も若いが、鎮幸曰く「とてもそうは思えん」というほどに思慮に富み、沈着な為人で、その冷静さは彼ら二人の主君からも高く評価されていた。
だが、今のやりとりを見てもわかるように、惟信はただ冷静で穏やかなだけの人物ではなかった。
体格的に自分の倍もあろうかという鎮幸に対しても、時に容赦せずに苦言を口にし、軍令に違反する者への呵責なさは、主である道雪を越えるとさえ言われていた。
豊かな黒髪を無造作に背に流し、惟信が陣中を歩けば、荒くれ者の兵でさえ姿勢を正す。女性らしい優美な曲線を描く肢体は、鎧甲冑を身に着けていても衆目を惹きつけるに足るものだった。
その惟信は、一度戦場に立つと、鎮幸も顔色ないほどの勇戦を示すことがしばしばあり、鎮幸などは、惟信のたおやかな容姿と、その奮戦ぶりの落差は幾度見ても慣れることがない、と嘆息することしきりであった。
そんな『戸次の双璧』のやりとりに、しかしカブラエルは気付かない。より正確に言えば気にしない。カブラエルが相手とするのはあくまでも道雪であって、その配下の者たちにまで一々注意を向けてはいなかったのである。
「……お役目ご苦労ですね、司祭殿」
「いえいえ、私にとってフランシス様の命を果たすことは何よりの喜びです。苦労などと思ったことは一度としてありませんよ」
言いながら、カブラエルは意味ありげな視線を住職の方に向け、しかる後、道雪へと視線を戻す。
「しかし、実に良いところに来てくれました。この地の民の反抗には困惑を隠せずにいたところなのです。彼らはフランシス様の命だと言っても納得してくれず、私もいましがた、そこな和尚に彼らへの説得を頼んできたばかりなのですよ。トール殿、大友家の法では主君の意向に背いた者たちはどのように罰されるべきなのでしょうか?」
道雪は小さく首を傾げながら、問いを放つ。
「それは南蛮神教に被害が出た、ということでしょうか?」
「ええ、そのとおりです。怪我人が出たわけではありませんが、この地に一日でも早く新たな教会を。その着工が半日遅れたのは、偉大なる主の威光を傷つけ、フランシス様の御意思を損なう無道な振る舞い。戦で例えれば、砦を築く作業を妨害されたに等しいのです。たとえ人が傷つかずとも、物は失われずとも、これは大きな被害と申せましょう。トール殿はそのような振る舞いをした者を無罪放免になさろうというのですか?」
カブラエルの言葉に、静まりかけていた周囲の空気が軋んだ。
この時、カブラエルの言葉は多少の誇張こそあれ、偽りではない。放火の証拠がない以上、罪は不法に南蛮神教側を妨害した者たちにあると考えられる。
そうすれば、道雪は望むと望まざるとに関わらず、カブラエルの言葉を諒として、寺社側に裁きを下さねばならなくなるのである。
これは寺社側にとって大きな打撃であることは言うにおよばず、同時に戸次道雪という人物の徳望に瑕をつける効果もあると考えられた。
カブラエルは主君の威光を盾に道雪を苦境に立たせつつ、長年の怨敵である寺社側の動きを掣肘しようとしたのだが、実のところ、本当の狙いはもっと別のところにあった。そして、それを達成するために、カブラエルはより直接的な手段を用いようとしていたのである。
◆◆
懐に隠し持った短筒の感触を確かめながら、その女性は何気ない風を装って人波を潜り抜けていた。
『何も難しいことはありません』
金の髪を持つ彼女の神父は笑いながら言ったのである。
『私がトールに声をかけた後、合図をしたら群衆の間からそれを撃てばいいのです。使い方は、狙いを標的に向け、ここの引き金を引くだけ。簡単でしょう?』
女性は、とある商家の一人娘だった。発展著しい府内の街は、比例して商いの争いも激しく、あちらこちらで金銭と財産を賭した興亡が繰り返されている。
女性の生家はその争いに敗れ、身代を丸ごと失った。父母は失意のうちに世を去り、残された娘は無一文で路頭に迷うところであった。そこに救いの手を差し伸べてくれたのがカブラエルだったのである。
命を救われ、さらに南蛮神教の教えに感銘を受けた女性は、新たな人生を与えてくれたカブラエルに心酔し、その言うことであれば、無条件で従うつもりであった。
『神の敵を討たんとする者には、神のご加護が宿ります。くわえて渡した短筒はわが国の技術の粋を凝らした最高級品です。至近から狙えば、いかに雷神といえど討ち取ることは出来るでしょう』
そういって、カブラエルは女性の髪に手を伸ばし、撫でるように動かす。
女性の目元が赤らんだところを見計らって、その手が腰にまわされ、さらにその下へと伸びていく。
かすかにこぼれた女性の歓喜の声に耳をくすぐらせながら、カブラエルは囁くように、いくつかのことを言い含めると、最後にそっと女性の胸に伸ばした手を蠢かせながら、頼まれてくれますね、と微笑んだ。
女性は法悦にも似た表情を浮かべながら、しっかりと頷いたのである。
カブラエルは考える。
フランシスの意を背景に、この地の民を道雪に処罰させるよう持っていく。その時、群衆から道雪を狙う矢玉が向けられれば、それは処罰されることを恐れた民が道雪の命を狙ったということになるだろう。
道雪を討ち取ることが出来ればそれでよし。南蛮神教にとって目障りな二人が、まとめていなくなり、カブラエルらの道を遮る者はなくなろう。
だが、討ち取ることが出来なくても、それはそれで構わない。人望篤い道雪が狙われたとなれば、フランシスはもとより、他の家臣も黙ってはいない。この地の寺社を力ずくで潰しても、非難の声があがることはないだろう。角隈石宗がなした愚行への罰は、その配下の者たちが甘受することになるであろうし、件の銀人形を強引に連れ去ったところで咎めようとする者もいまい。
誰に言われるまでもなく、これが場当たり的な計画であることをカブラエルは承知していた。ただ、この奇貨は、見過ごすにはあまりにも惜しかったのだ。
もし道雪が少数で来たならば、もっと大勢を動かし、万全を期したであろう。だが、道雪が戸次家の精鋭を引き連れてきている以上、下手に大きく動いて、失敗したときが面倒である。くわえて、府内にいるはずの道雪が、騒ぎが起きてほとんど間もないにも関わらず、ここに現れた。これは何を意味するのか、それを確かめる意味もあったのである。
問題は失敗した場合だが、その時は一信徒の暴走として処理すれば良い。道雪らが黙っていないだろうが、この地で起きた騒ぎを見逃すことと引き換えであれば、もみ消すことは可能であろう。
なに、向こうが納得しなければフランシスに訴えれば良いのだから、楽なものだ。
女性はそんなカブラエルの内心を知る由もない。
つとめて何気なさを装いながら、緊張に高鳴る鼓動をなだめつつ、憑かれたように歩を進めて行く。
道雪の両脇には護衛の将兵がいるため、短筒で狙うためにはどうしても正面に行かねばならない。敬愛する人物の期待に添うためにも、何としても成功させなければ。
その一念で少しずつ進み続けた女性は、間もなく道雪を視界に入れる位置に達することが出来た。
だが、まだ女性と道雪の間には幾らかの人がいる。ここで短筒を撃っても、道雪までは届かないかもしれない。
もう少し、と考えた女性の耳に、道雪に向かって話しかけるカブラエルの声が聞こえてきた。同時に、周囲の人々から怒りとも怯えともつかない声が発されていく。
これがカブラエルの言っていた機だと悟った女性は、急がなくてはと慌てて懐に手を伸ばす。そして、与えられた短筒を取り出し、狙いをつけようとした。
だが、その途端。
「待たれよ」
近くから呼びかける声が、女性の動きを制したのである。
◆◆
吉弘紹運がその女性に気付いたのは、少し前のことだった。
そもそも紹運が粗末な衣服をまとって群衆に紛れ込んでいたのは、警戒のために他ならぬ。
『まさか、とは思いますが……あの宣教師ばかりは、どのような行動をとるのかわからぬのです』
そんな義姉の言葉に頷いた紹運はつとめて何気ない風を装いながら、周囲の者たちの様子を窺い続けた。精鋭に周囲を守られた義姉に害を加えようとするなら、正面に位置するこのあたりまで来なければならない。
そう考えていた紹運が、憑かれたような眼差しで、ゆっくりと、しかし確実にこちらに向かって来る女性に目をとめるのは当然であったろう。
その身ごなしを見た限り、武人とは思えない。外見だけを見れば、平凡な村娘であると思われたのだが。
――紹運は無言で動いた。
ちらと垣間見た娘の、どこか恍惚とした眼差しに寒気を覚えたのだ。仮にあの娘が害意を持っていたとして、飛び道具もないままに義姉の前に飛び出たところで、義姉にかすり傷一つつけることは出来ないとわかってはいたが、何故かあの娘を見ていると、肌に蟻走感を覚えてしまう。
戦場を往来すること幾十度。ただの一度として怯んだことのない吉弘紹運が、動かざるを得ない何かがあの娘には感じられた。
だが。
あと数歩でその肩を掴めるというところで、その娘と紹運の間に、一人の娘が割って入ってきた。年の頃は先の女性よりも若く、おそらく年端もいっていまい。
その少女は、意図して紹運の前に立ちはだかったというわけではなく、ただ自然に前に進み出て、結果として紹運の手を妨げたという感じであった。その証拠に、少女の視線は紹運の方にはまったく向いていない。
紹運はそう考え、やや早口でその少女に声をかけた。
「すまない、そこを通して――」
通してくれ、と言いかけた紹運は気付く。
振り向いた少女の眼差しが、先の女性とまったく同じものであることに。そこに宿る奇妙な恍惚に。
「どうしたの、お姉ちゃん?」
そういって、紹運を見上げてくる少女。
無邪気なはずのその視線に、粘つくような厭わしさを感じるのは、決して気のせいではなかった。
咄嗟に少女を避けて進もうとした紹運だったが、少女はまるでその意図を悟ったように紹運に手を伸ばす。
この場にいたのが紹運と少女の二人であれば、鍛えた身のこなしで苦もなく避けることが出来たであろう。だが、今、周囲には幾多の人々がおり、紹運が躊躇を示したその隙に、少女の手はしっかと紹運の服の裾を掴んでいた。
「す、すまない、離してくれないか」
「だめー」
にこにこと笑う少女に邪気は感じられない。
ただ、この状況で見も知らぬ相手にここまで付きまとう理由も感じられなかった。
果敢であることを第一義として戦場を駆ける紹運は 名だたる武将と武芸を競った時も、多勢の敵兵に包囲された時も、恐怖やためらいを感じたことはない。
しかし、今、眼前にいる虚ろな笑みを宿す少女の存在は、戦場で殺気だった敵兵と対峙するのとは次元の異なる怖気を紹運に呼び起こした。
まさかとは思うが、この少女も――
「……しまったッ?!」
目の前の少女に気を取られていた紹運は、はっと我に返ると先刻の女性の姿を捜し求める。
その姿はすぐに見つかった。女性はなにやら懐から短い筒状のものを取り出している。それを見た瞬間、紹運はうめきにも似た声を出してしまう。
「短筒、か。くッ!」
鉄砲が伝えられて数年。すでに各地では量産と、改良の動きが起こり始めている。
女性が持っているのはその中の一つ、軽さと取り扱い易さを追求し、馬上でも扱えることから、別名を馬上筒とも言われる鉄砲の一種。
いかな鬼道雪といえど人である。鉄砲に生身で対することは出来ない。
何故あのような女性が、まだ量産もされていないはずの新式の鉄砲を持っているのか。そんな疑問を覚えつつ、紹運は懐から礫(つぶて)を取り出す。
印地――石を投擲に用いる戦闘技術であり、紹運はこれに熟達していたのだ。紹運の技量をもってすれば、ただの礫といえど、四肢の骨を砕くほどの威力を発揮する。
咄嗟にそれを投じようとした紹運は、しかし、ほんの一瞬ためらってしまう。
手加減できる状況ではない。だが、手加減しなければ、あの女性はこの後の生を片手で過ごすことになるだろう。おそらくはこの絵図面を描いた相手に利用されているだけの女性に、そこまでの傷を負わせることに、紹運はわずかに迷い――
「だめッ!」
その迷いが消えないうちに、今度は眼前の少女が抱きつくように紹運の動きを妨害しようとする。
戦塵で鍛えた紹運ゆえに、少女を振り払うことは容易かった。だが、力ずくで押しのけることに、またも紹運はためらいを覚えてしまう。
ここが戦場であれば、たとえ女の将兵を相手にしたとしても、ここまで不覚をさらす吉弘紹運ではない。だが、今の状況は紹運にとって何もかもが異質であった。
少女の叫び声で周囲の者たちも異変に気付いたようで、戸惑いとざわめきが此方に向けられるが、逆にそれが短筒を構えようとしている女性への視線をそらすこととなってしまう。
かくなる上は、と紹運は腹に力を込めた。
大事になってしまうのを覚悟の上で義姉に呼びかけようとした、その時。
紹運の視線の先で、短筒を構える女性の前に不意に一人の青年が立った。
「待たれよ」
その言葉と共に、魔法のように伸びた若者の指先が、女性の構えた短筒の、その筒先に差し込まれ。
「……え?」
戸惑ったような声をあげる女性の手から、青年はもう片方の手であっさりと短筒を奪いとってしまった。
それを見た紹運は、思わず呆気にとられてしまう。
そして、自分と同じように呆然としている女性の姿を見ると、つい先刻まで、自分を捉えていた蟻走感が霧消していくのを感じた。
青年は手の中の短筒を見て小さく肩をすくめると、不意にまっすぐに紹運の方へ視線を向けた。
まるでそこに紹運がいることがわかっていたかのように、戸惑う様子もなく近づいてくる。
そして。
「戸次殿の配下の……」
と、そこまで言いかけた青年は、紹運の顔を見てわずかに首を傾げた。
「……いえ、朋輩の方とお見受けいたす。この短筒、お預けしたいのですが構いませんか?」
唐突な物言いであったが、紹運は青年の眼差しを見て、反射的に頷いていた。
「うむ、お預かりしよう」
「ありがとうございます。では――」
そう言って紹運に短筒を渡すと、青年はひざまずいて、先刻まで紹運を悩ませていた女の子と目線をあわせた。といっても、別に何を語るでもなく、というより何を言えば良いやらわからない様子で、じっと互いに視線をあわせるだけであった。
少女はそんな青年の様子に戸惑ったように、視線をきょろきょろと動かしていたが、やがて脱兎のごとくその場から駆け去ってしまう。
その後ろ姿を見送りながら、青年は頭を掻いていたが、すぐに自らもこの場を離れようと動きかける。
そんな青年に、紹運は思わず声をかけていた。
「――お待ちいただきたい」
その声に怪訝そうに振り向いた青年の顔を、紹運はじっと見つめる。
「それがし、豊後大友が家臣吉弘鑑理(よしひろ あきまさ)が娘、吉弘紹運と申す者。よろしければ、尊名をうかがいたい」
紹運の名乗りに、青年は記憶をたどるようにわずかに目を細め、ほどなくして、なにやら納得したかのように深々と頷いた。
「なるほど。道理で衆に優れた稟質を感じるはずですね。俺、いえ、それがし、あ――」
「あ?」
「あ、ああ、その、雲居筑前と申します」
何故だか慌てた様子で、青年はそう名乗ったのである。
「雲居、筑前殿……」
その名を耳に馴染ませるように、紹運は小さく呟く。
そして、もっとも気にかけていた問いを放とうとした。
「雲居殿は、何故――」
何故、あの女性の動きに気付いたのか。何故、短筒の前に躊躇なく身を晒せたのか。何故、紹運がここにいることに気付いていたのか。いくつもの何故が脳裏を横切り、咄嗟にどれを口にしようか紹運は迷ってしまう。
だが、雲居は勝手にその先を判断したらしい。かすかに表情を曇らせながら、口を開いた。
「この地の事情に、余計な口をはさむつもりはなかったのですが……これ以上、故人の安息を乱すことは許せなかったのです。分に過ぎた真似をしたことは申し訳なく思っております」
「故人――もしや、雲居殿は角隈石宗殿と?」
「はい。短い間ながら屋敷で世話になっていたものです」
そう言って、会釈して場を立ち去る雲居の背に、紹運は奇妙な既視感を覚えた。
だがこの時、それが何に由来するものか、思い出すことはなかったのである。