日向国佐土原城。
伊東家第十代当主 伊東義祐(いとう よしすけ)は『三位入道』の呼び名で知られていた。
これは義祐が朝廷から従三位に叙任されたことから付けられた名称であるが、義祐自身がみずから口にして広めていったという一面も持っている。
従三位という位は、たとえば隣国の豊後大友家の当主である宗麟であっても遠く及ばないほどの高位である。みずからがその従三位であるという事実は、義祐の自尊心を満たすに十分な要因だったのである。
ただ、それは同時に義祐の不満と鬱屈の裏返しでもあった。
伊東家は日向の雄なる勢力の一つではあるが、日向全域を制しているわけではない。
その地位を保つために、大友家と友好関係を保ちながら――より正確に言えば、その下に属することで勢力を広めてきたのである。
自尊心の強い義祐にとって、女である宗麟に従うことは憤懣やる方ないことであった。
また義祐は仏教に深く帰依しており、都から職人を招いて大仏殿を造り、さらには金閣寺を模した寺社を建立するなど、精力的に自身と仏教の権威を拡大しようとしてきた。
その義祐にとって、南蛮神教に傾倒する宗麟に従うことがどれだけの屈辱であるかは言を俟たない。いずれ時が至れば、大友家の麾下から離脱せんとの思いは揺るがぬものであった。
では、その『時』とは何時を指すのか。
その答えは、日向南部の要衝たる飫肥城および要港たる油津を、島津家から奪取した時、であった。
領内に良港を持たない伊東家にとって、薩摩島津家が押さえる飫肥城の奪取は累代の悲願といっても良い。飫肥城と油津の港をめぐる両家の戦の始まりは、義祐がこの世に生を受ける前まで遡るのである。
飫肥城を陥とし、油津の港を得ることが出来れば、伊東家の国力は飛躍的に増し、同時に重要な収入源を奪われた島津家は国力を大きく損なうことになる。
そうなれば、大隅国の肝付家、肥後の相良家を語らって島津を潰すことは容易い、と義祐は考えていた。そして島津という後顧の憂いさえなくなれば、忌わしい大友家と正面から戦うことが出来る、と。
伊東家と大友家、両家の国力は天地の開きがあるように見えるが、大友家に従っている義祐は、大友家内部で起きている相克を察知しており、そこをうまく衝けば勝算は十分にあると踏んでいたのである。
だが、そんな義祐の思惑を嘲笑うかのように事態は急変する。
動いたのは南北の強敵の中の南側、薩摩島津家。
島津家は先代当主貴久亡き後、後を継いだ義久の無能と凡庸ゆえに、薩摩と日向の自領を守るのに汲々としていると思わていた。
義祐はこれを好機と捉え、島津家に使者を向けて威圧し、また、盟友である肝付家とはかって薩摩に手を伸ばすなど、その勢力を殺ぐことに務めてきた。先年、薩摩南部の国人の一つ、頴娃家が叛乱を起こしたのも義祐の扇動によるものであった。
現在の島津家は宗家の四人の姫が中心となって動いているという。しかも末姫はまだ童といっても良い年齢である。つまりは、それほどまでに現在の島津家中は人材が払底しているということ。頴娃家もそんな島津を見限って叛乱に踏み切ったのである。
だが、頴娃家の叛乱は思いもよらない早さで鎮圧されてしまう。それどころか、南部の叛乱を片付けるや、島津家はその余勢を駆って、突如として薩摩北部へ兵を向けたのである。
その第一報を聞いたとき、義祐は鼻で笑った。小娘共が、一度の勝利で図に乗ったか、と。
しかし、島津の動きは十全の準備と、高度な戦略に基づくものであった。
薩摩統一のために必要となる戦力と、それを支える国力。この二つを、他国に悟られぬよう時間をかけて養ってきた島津家は、今こそ薩摩統一の好機と捉え、宗家の四姫がみずから前線に立つ一大攻勢を開始、この島津軍の猛威の前に北薩に割拠していた反島津の国人衆はひとたまりもなく蹴散らされ、また援軍として薩摩に入った相良家、肝付家の軍勢も大敗を喫する。
その報告を受けた義祐は、しかしそれを偽報と信じて疑わず、当然援軍を向けようともしなかったのである。
あの柔弱な義久と、それに従う腑抜けたちが、報告にあるような見事な戦の冴えを見せるはずがないではないか、と。
その伊東家の狐疑逡巡とは対照的に、島津家の行動は迅速を極めた。
薩摩を制圧した島津は、さらに兵を展開。飫肥城の防備を固めて伊東家に備えると同時に、日向、大隅間の連絡を絶ち、孤立した大隅国へ侵攻する気配を見せたのである。
肝付家の当主 肝付兼続(きもつき かねつぐ)は、島津家の先代貴久や、先々代忠良らと幾度も矛を交えてきた古豪の武士であり、領内の整備にも意を用いる有能な君主だった。
しかし、その兼続といえど、勢いに乗った島津軍の攻勢を孤軍で支えることは不可能であった。
くわえて、すでに北薩における戦いで少なからぬ損害を被っていた兼続は、腰の重い義祐に援軍を求める使者を差し向ける。
肝付家の使者は途中、島津家の軍勢に発見され、手勢の半ば以上を討たれるも、自身はかろうじて戦場を離脱し、佐土原城へとたどり着くことに成功する。
その使者の口から、一連の報告がすべて真実であると知った義祐は、驚きと怒りのあまり、しばらく口を開くことさえ出来ずにいた。
それでも、過去、勇猛を誇る薩摩隼人を相手に、一歩も引かずに戦い続けてきた伊東家の当主は、我に返るや、配下に対してただちに兵を集めるように命じる。
同時に、豊後の大友家に対し、島津討伐のための援軍を求める使者を向けようとした。
大友家に援軍を請うなど業腹だが、背に腹はかえられぬ。それに大友家と島津家が相撃てば、兵法の理にもかなうというものだ――それが義祐の考えであった。
だが、その使者が城を発つ寸前のこと。土煙と共に北方から一騎の使者が佐土原城の門を潜り抜ける。
日向北部の県(あがた)城主 土持親成(つちもち ちかしげ)から遣わされたその使者は、血相をかえて義祐に報告した。
豊後の大友宗麟、突如、兵を催して国境を突破。
南蛮宗徒を中心として、その数、おおよそ三万。口々に南蛮神教の聖句をとなえながら、各地の寺社仏閣を打ち壊しつつ軍を進めており、その勢い当たるべからず。速やかなる援兵を請う。
さらに使者は、血を吐くような表情で報告を続けた。
「大友軍は此度の侵攻を先の南蛮宗徒虐殺に対する報復とし、我が国の寺社勢力およびそれに与する者たちの殲滅をうたっており、降伏を認めず、捕虜も取らぬと言明! すでに十を越える城砦が陥落し、五ヶ瀬川以北は地獄と化しておりますッ!」
「……待て、ひとまず待て。虐殺に対する報復とは、何のことだッ?!」
「そ、それが判然とせず……大友家からの一方的な通達によりますれば、豊後と日向の国境にあった南蛮神教の寺院が異教徒によって焼き討ちにされた、と。付近の大友軍が駆けつけた際には、寺院と、寺院があった村がすべて灰と化しており、わずかに生き残った者たちの口から出た下手人の正体が……」
「日向の者だったとでも言うのか?! ばかな、濡れ衣もはなはだしいわッ!」
義祐の怒号に、使者は身を縮めてかしこまる。
「は。無論、我が殿も大友家の使者に対し、その旨を伝えたのですが、あやつらは聞く耳もたぬとすぐに城を去り……殿はただちに重臣たちを集め、対策を練ろうとしたのですが、使者が城を出て一刻と経たぬうちに、国境より大友軍襲来の報告が……ッ!」
義祐は息をのむ。その大友軍の行動が意味するものは――
「問答無用というわけか……宗麟めがッ!」
怒声をあげる義祐。
だが、この場で大友家の悪辣をののしっても始まらぬ。
義祐は、この大友軍の奇襲が、こちらの心底――島津を片付けた後、大友から離反する――を見抜いたゆえの先制攻撃だと考えた。
してやられたことは否定できぬ。ここから戦況を巻き返すのは難しいが、しかし手段がないわけではない。現在の大友軍が疲弊しているのは、隠しようもない事実なのだから。
「大友軍は三万といったか? 今の大友に、それだけの兵を集める余力があるとは思えぬ。現にやつら、筑前に大軍を差し向けて間もないではないか。一体どうやってその数を確かめた?」
「前線から逃げ延びてきた兵や民、くわえて各地に出した斥候の報告をまとめた上での判断です。しかし、すでに五ヶ瀬川以北は大友軍の支配下にあり、情報を得るのも容易ではありませぬ。豊後からの援軍が加わっていれば、あるいはさらに敵の数は増すやもしれませぬ」
義祐は舌打ちをしてから、さらに問いを続ける。
「南蛮宗徒を中心に、といっておったな。すると訓練された大友武士ではないということか?」
「御意にございます。おそらくはろくに訓練も受けておらぬと思われる雑兵が大半です。しかし、いずれも武具は立派なもので、それらが犠牲をものともせずに雲霞のごとく攻め寄せてくるため、多くの城が成す術もなく――」
使者は唇を噛む。だが、まだ伝えなければならないことがあった。
その凶報を口にする。
「しかも南蛮勢力が前面的に合力しているらしく、信じられぬ数の鉄砲に加え、海上から南蛮船が砲撃を加えてきております。そのため、我が軍の将兵の中からも怖気をふるう者が続出しており、このままでは一戦まじえることすら出来ずに退くしかない、というのが殿のお言葉でございます……」
南の島津。北の大友。
いずれか一方だけでも厄介な敵である両家が、時を同じくして攻め寄せてくる。
はたしてこれは偶然なのか、との疑問が義祐の脳裏をよぎるが、今は事の真相を確かめている暇はない。身体にかかる火の粉は払わねばならないが、二正面作戦をするほどの余裕があるわけはない。
であれば、まず戦うべきは――
「……兼続からの使者は、まだこのことを知らぬな?」
その問いに、別の家臣が頷いた。
「は、一室で休んでもらっておりますので、ご存知ないかと」
「よし、大友の件は伝えるな。援軍が来ぬとわかれば、凌げるものも凌げなくなろう」
「承知仕りました」
そう言って家臣が去るのを見届けるや、義祐は土持家からの使者に向き直った。
「役目大儀であった。聞いたとおり、すぐにでも兵を集め、県の救援に赴くであろう。そなたはこの城で休むが良い。代わりに我が配下を親成に遣わそう」
「有難き仰せですが、城では朋輩たちが生死を賭して戦っておりましょう。それがしも共に戦いたく存じまする」
「……そうか。ならば止めまい。県城で会おうぞ」
「ははッ!」
「殿、馬廻り衆を含めて三百ほどはすぐ出せますが、いかがなさいますか?」
南北双方の使者が城から去った後、側近からそう問われた義祐はあっさりとかぶりを振る。
「急ぐ必要はない。何日かかろうと、現状で集められるだけの兵をこの城に集めるのだ」
「……は? し、しかし県城への援兵はいかがなさるのですか?」
「言ったであろうが。援兵が来ぬとわかれば、凌げるものも凌げなくなる、と」
一瞬、主君の言った言葉の意味をはかりかねた側近だったが、すぐにその意を察した。
義祐は肝付家だけでなく、県城へも援軍を向けるつもりがないのだ、と。
――それはつまり、県城を捨石とする、ということであった。
「県城を攻撃するためには五ヶ瀬川を越えねばならぬ。渡河の最中ならば、大軍相手でも付け入る隙はあろう。城に攻め込まれたとて、あの城は『千人殺し』の石垣もある。そうたやすくは陥ちまいよ。その間に、情報を集め、しかるべき手を打つ。それがもっとも親成の助けになろう」
「御意にございます」
主君の意を察した側近は心得たように頭を下げる。
だが、それは主君の非情の決断に納得したというよりも、目に浮かぶ非難の色を読まれないためであった。
◆◆◆
日向国五ヶ瀬川河口付近。
南蛮船の艦上にあって、カブラエルは渡河を果たしつつある大友軍を――聖戦に従う十字軍を遠目に見て、満足そうに幾度も頷いた。
通常、困難を伴う大軍の渡河だが、南蛮船からの砲撃を恐れた土持勢は県城から出ることはなく。
万を越える大軍が川を渡った時点で、事実上、南蛮神教の勝利は確定したといってよい。
「――勝ったな。まあ所詮は異教徒、我ら神の使徒の軍勢が負けるなどありえぬが」
その声はカブラエルのすぐ後ろから聞こえてきた。
振り返れば、そこには金髪碧眼の美丈夫が、カブラエルと同じように県城の方角を見据えている。
不遜なほどに自信に満ちた顔と言葉は、現在のゴア総督を想起させるが、今、カブラエルの眼前にいる人物は、カブラエル自身よりなお若い。この人物はあのアルブケルケではありえなかった。
その一方で、この若者は確かにアルブケルケであった。
その意味するところは――
「しかし、まさかフランシスコ様が直々に参られるとは。御父上がよく許されましたね」
カブラエルの問いに、フランシスコ・デ・アルブケルケは苦笑じみた表情を浮かべる。
「なに、カブラエルよ、貴様が送ってくるこの国の民に、ちと興味を覚えてね。まあおかげで父上から余計な任も受けてしまったわけだが」
「ドールの件は私の不手際。ご迷惑をおかけして申し訳なく思っております」
「謝罪は直接、父上にすることだ。まあ今回で片付ければ、お怒りもしずまろうさ」
そう言うと、インド副王の息子は彼方の光景から視線を外すと、カブラエルに声をかけることもせず、そのまま踵を返して船室へと戻っていってしまった。
そんな自侭な王子の後姿に、カブラエルは苦笑まじりに頭を下げる。
と、その時、もう一つの視線が自分に向けられていることにカブラエルは気づく。
先刻から影のように佇んでいた一人の女性騎士。亜麻色の髪と青色の瞳を持つその騎士の顔は、どこか険があるように見て取れた。
その理由を知るカブラエルは小さく肩をすくめて、その騎士に呼びかける。
「トリスタン殿、まだ私をお疑いですか?」
「……疑ってはいないわ。ただ都合が良すぎると思っているだけ。戦いを知らぬ信徒を戦に駆り立てる準備が整い、殿下がこの地に着くのを待っていたように、同胞たちが敵の手にかかって殺されるなんてね」
トリスタンの鋭い眼差しに、カブラエルはかぶりを振る、
「それは不幸な偶然であると何度も繰り返しお話ししたと思いますが? 私はこの地に住まうようになってから、多くの信徒を導いてきました。彼らはみな、私の子のようなものです。我が子を陰謀の犠牲にするなどという暴挙を、神がお許しになるはずがないでしょう?」
「……ええ、その言葉が真であれば、本当に良いのですけどね」
そう言うや、トリスタンもまた踵を返す。
カブラエルは特に引き止めるでもなく、その背に視線を向けていたが、すぐに興味を失ったように再び県城へと視線を戻した。
県城は南北を川にはさまれた天然の要害であるが、万を越える軍勢にひた押しに寄せられれば、数刻ともつまい。
城を陥とした後は、この地の異教を徹底的に撲滅し、聖都の建設に取り掛かる。
古来より、文明は水と共にあった。新たな南蛮神教の拠点として、ここより相応しい場所は見当たらぬ。
この地に関しては、すべてがカブラエルの計画どおりに進んでいるといえた。
――そう、この地に関しては。
カブラエルはその思考に引っかかりを覚え、わずかに眉をひそめた。
そして、すぐに違和感の正体を探り当てる。
「問題は高千穂の方ですか。宗麟が妙なことを言っていましたが……」
天孫降臨の地とうたい、日の本の民の崇敬を集める高千穂には、当然のように多くの神社が立ち並ぶ。高千穂地方は峻険な山脈に閉ざされており、足を運ぶのも容易ではないのだが、高千穂をおとずれる者が途絶えることはなかった。
日の本の人々にとっては尊重すべき霊所。
しかし、南蛮神教を奉じるカブラエルにとっては唾棄すべき異教の総本山に等しい。これを撃滅するに、髪の毛一筋の葛藤も感じるものではない。
当然、そちらにも十字軍の一部を向けてはいるのだが……
「救世主、ですか。宗麟も愚かなことを。このような蛮夷の地に、神の使徒が降るはずがないというに」
宗麟が見出したという「大友の救世主」に対し、カブラエルは侮蔑もあらわに吐き捨てる。
救世主という言葉は軽々しく扱われるものではない。常のカブラエルならば宗麟にそう聡し、ただちに改めさせたであろう。むしろ我が手で、その人物の化けの皮を剥がしてやろうとしたかもしれない。これまでも異教の神や仏の名をもって宗麟に近づいてきた者たちを、宗麟の眼前でことごとく――否、角隈石宗ただ一人を除き、論破してきたカブラエルであったからだ。
だが、今回に限り、カブラエルは件の「救世主」の排斥を口にしなかった。より正確に言えば、出来なかったのだ。
その救世主を戸次誾に仕えさえる、という自身の考えに、宗麟が固執したからである。
カブラエルは宗麟の過去をことごとく把握していた。
宗麟自身が口にしたからであり、単純に知識だけでいうなら、大友家中の誰よりも宗麟に近しいといえる。
その知識と神の愛をもって宗麟の心身を篭絡し、思うが侭に布教を推し進めてきたカブラエルに対し、宗麟は基本的に服従の立場を貫いている。宗麟に向けられたカブラエルの言葉を覆すことが出来たのは、角隈石宗と戸次道雪くらいであろう。
角隈はすでに死に、戸次道雪改め立花道雪は筑前に赴いた。
今のカブラエルの言葉を否定できる者は大友家中には誰もいない――しかし、ただ一つ、宗麟自身がカブラエルの言葉を越える意思を見せる事柄があるのだ。
戸次誾、洗礼名イザヤという人物。あの少年に関することだけは、宗麟はいまだ強い意志を示す。
宗麟の過去を知るカブラエルは、宗麟があの少年に拘る理由を察していた。南蛮神教への信仰と、亡き親友の子に対する愛情。この二つが競合したとき、宗麟がどうなるのかは、カブラエルといえどわからない。
だからこそ、これまでそういう事態は避けるべく務めてきた。カブラエルが戸次道雪の本格的な排除に動かなかった理由のひとつは、あの少年にあったのである。
救世主とやらの存在は片腹痛いが、ここであえて異見を掲げれば、誾に対して救世主を付け、その安全と武運を祈ろうとしている宗麟がどう反応するかが読みきれなかった。まさかいきなりカブラエルに反抗するとも思えないが、なにがしかの不審を抱かれる恐れはある。
カブラエルにとって、聖都が完成するその時までは、大友家の力は有用なものである。無論、大友家無しでも事は成就しえるが、今この時、あえて宗麟との間に隙を生じさせる必要はない――カブラエルはそう判断したのである。
それゆえ、戸次誾を総大将とする別働隊に関してはカブラエルの意が及んでいない――というよりも、正確に言えば、カブラエルはあえて何もしなかった。
別働隊の主力は南蛮神教の信徒たちであり、カブラエルが何もせずとも、虐殺された同胞の報復の念と、異教に対する敵愾心は滾り立っている。だから、あえて動く必要を認めなかった、という点が一つ。
もう一つは相手の狙いを見定めるためであった。
雲居とやらいう男は、宗麟が渡した褒美の委任状をその場で焼き捨てたという。その行動に宗麟はいたく感じ入り、救世主への信を積み上げていた。
カブラエルにとっては最後の仕上げともいうべきこの時期に、突如あらわれた救世主――ただの道化なのか、それともそれ以外の何かを秘めている人物なのか。この戦の結果次第で、相手の狙いも見えてくるだろう。
とはいえ、カブラエルにとって、それは大事の前の小事、自称救世主の三文芝居など本来ならまったく見る必要もないのだが……その相手が、ゴア総督執心のドールと共にあるならば、話は別だった。
ドール――大谷吉継に関しては、いつでも手にいれられると思えばこそ、これまでとくに注意を払っていなかったのだが、今の段階で吉継を確保しようとすれば、雲居なぞはどうでも良いとしても、雲居が仕える誾を敵にしかねない。そして誾に手出しをすれば、その影響は宗麟にまで及んでしまう。
先刻、フランシスコに詫びた不手際とは、その現状を指していた。
「……もっとも、最終的に大友家も潰す以上、手にいれるのが早いか遅いかの違いしかないのですがね。しかし、あまり遅れれば閣下のお怒りに触れてしまいます。まったく、面倒なことをしてくれますね、救世主とやら」
カブラエルは忌々しげに舌打ちをする。
とはいえ、雲居が何を企んでいようと、もはや流れは止められない。今回の戦いで醜態を晒せば良し、晒さぬならばしかるべき手を打つだけのことだ。
カブラエルはそう考え、その考えに満足して、それ以上の手を打とうとはしなかった。
この時、カブラエルは気づいていなかった。
自身が以前、件の救世主と顔をあわせていることに。
さらに言えば、たとえ誰かにそのことを指摘されたとしても、カブラエルは雲居の存在を思い出すことは出来なかったかもしれない。
角隈屋敷で吉継の名代として出てきた相手。今も吉継と共にいる相手。その共通点があってなお、カブラエルは雲居筑前の顔を思い出せない。
それほどに角隈屋敷での雲居の印象は淡く、薄く、カブラエルはひとかけらの警戒心も抱かなかったのである。
当の相手が、そうあれかしと望んだとおりに……
これより一刻の後、県城主 土持親成は城を捨てて退却、県城は陥落した。
これにより、日向の北部沿岸はことごとく大友領となり、九国探題たる大友家はさらにその勢威を広げることとなる。
しかし、それは同時に、あまりに大きくなりすぎた大友家に対する警戒と脅威の念を育むことでもあった。
戦に先立つ虐殺と、それに対するあまりに速やかな大友軍の報復行動、さらには日向北部の寺社仏閣がことごとく焼き払われた事実。それらが九国全土に伝わるや、伝え聞いた者たちは等しく大友家にこれまで以上の警戒心を抱き、ある一つの結論に達することになる。
だが、彼らが足並みを揃えるまでには、今しばらくの時が必要であり。
ゆえに、南蛮神教の猛威をさえぎるものを国外に見出すことは、今の時点では出来なかったのである。
◆◆◆
日向国 大友軍別働隊本営。
高千穂方面の制圧を命じられた大友軍内にあって、別働隊を率いる戸次誾は苛立ちを隠しきれずにいた。
一軍の将たるもの、勝って騒がず、負けて動じず、常に冷静沈着であれ、とは義母から繰り返し叩き込まれた将としての心得であったが、頭で理解することと、それを実践することは天と地ほどに違う。
そのことを、誾は心の底から実感していた。
「十時殿、雲居殿はまだ来ませんか?」
「……は、いまだ。先刻出て行かれた時の言葉では、間もなく戻られるかと思いますが」
「総大将である私に何も言わず、一体、何をしているのかッ」
みずからが発する言葉に、現在の戦況に対する焦りがにじみ出ていることを感じた誾は、唇をかみしめて内心の苛立ちを押し殺す。
誾にとって、今回の戦ははじめから不本意の連続であった。否、戦に先立つ諸々も含めて、すべて不本意だと断言しても良い。
宗麟の命令で戸次家を継いだ――継がされたことも。敬愛する道雪、紹運から引き離されたことも。この戦う意味さえ定かではない戦の、一方の指揮官に任ぜられたことも。そして、氏素性の知れない人間を側近として押し付けられたことも、何もかも。
だが同時に、そのうちの幾つかは誾自身が望んで選択したものでもあった。
それゆえに、こぼれ出る不満と不安に蓋をしなければならぬ。だが、ただそれだけでさえ容易ではない。
道雪の下で九国最高とも謳われた戸次勢、その新たな当主としての初陣に七千を越える大軍を預けられ、ともすれば暴走しようとする麾下の将兵をしずめながら、峻険な山脈を踏破していく――年端もいかない少年にとって、課せられた責任はあまりにも重い。
そんな年少者の焦りに気づかないほど、戸次家の家臣の質は低くない。低くないのだが――
「…………むう」
十時連貞は表情こそ変えていなかったが、その目にはわずかに困惑の色が漂っていた。
南蛮宗徒の過剰な戦意を押さえつけることならば可能だが、年少の主君の心のひだをすくいとるような言動は連貞には難しい。
本来ならば、こう言った時にこそ弁が立つ雲居が誾の傍にいるべきなのだが――
『ばれると、後々、色々と面倒になるのですよ。それがしであれば何とでも言い抜けられますが、戸次家に仕える連貞殿では弁明も容易ではありますまい。ここは黙って行かせてくだされ』
そう言って、少数の兵を引き連れてさっさと陣を出て行ってしまった雲居の姿を思い起こし、連貞は小さくため息を吐いた。
「なにが知略縦横の士か。こんな泥沼のような戦いをふせぐことも出来なかったのに」
自信に満ちた宗麟の言葉を思い出し、誾は知らずそんな不満をこぼしてしまう。
だが、それが八つ当たりであることは、誰に指摘されるまでもなく誾もわかっていた。
南蛮神教の寺院が、日向の武士に焼き払われたという報告が府内に届き、その報復として信徒を中心とした大軍が編成され、日向への侵攻が始まる――その一連の流れはあまりに速やかであり、一家臣がどうこうできるような状況ではなかったからだ。
あるいは道雪であれば、出陣を止めるが出来たかもしれない、と誾は思う。
だが道雪は筑前を離れることが出来ず、さらに言えば、仮に道雪が府内に駆け戻ったところで、本当に今回の出兵を防ぐことが出来るか、と再度自問すれば、答えは容易に出なかった。
それほどまでに、現在の豊後は狂騒的な状況にある。
南蛮神教の信徒は無論のこと、信徒以外の民でさえ、無辜の村人たちを血祭りにあげた隣国を討つべしとの声を高めており、慎重論を唱える者はそれだけで排斥された。聞けば、私刑じみた行いが横行しているとの噂さえある。
この城下の声は、大友館の内部にも影響した。なにより大友館の主が、城下の民と同じ感情に支配されており、虐殺の真偽や、南蛮神教の早すぎる対応に不審を覚える者たちも、口を噤まざるを得なかったのである。
だが、それでも誾は宗麟を諫止しようとした。
少なくとも、虐殺に関する情報が間違いがないと確認できるまでは兵を動かすべきではない、と。
道雪であれば、きっとそうしたに違いない。誾はそう考えたのである。
しかし。
『なりません』
誾を止めたのは、雲居筑前であった。
その顔はやや青ざめていたものの声は明晰であり、その明晰さを保ったまま、雲居は誾にとって忌むべき進言を行ってきた。
それは要約すれば、この戦は止められない、というものだった。
あまりに早い事態の進行は、背後で糸を引く者の存在を無言のうちに知らしめている。彼らが、おそらくは何年もかけて準備してきたであろう今回の戦いを、今の段階から声を張り上げたところで、止めることは不可能だ、と雲居は口にしたのである。
当然のように誾は反論した。
ならば、このまま手をつかねて傍観していろというのか、と。
すると、雲居は――
◆◆
「傍観しろなどとは申しませぬ。賛同なさいませ。日向の怨敵を討つは今この時である、と」
「なんだとッ?!」
それまでかろうじて保持していた相手への礼儀を、この瞬間、誾は手放した。
「ふざけるな、こんな戦に賛同しろだと?! 戸次家の、義母上の名に泥を塗れというのかッ?!」
そう言った途端、誾は右の手にかたい感触を感じた。それは刀の柄。無意識のうちに、腰の刀に手を伸ばしていたのである。
そんな誾の動作に気づいていないはずはないだろうに、雲居はあっさりと首を縦に振る。
「しかり。それが今、戸次がうてる最善の手でございましょう」
「……それが、救世主殿の進言か? 宗麟様に媚を売り、南蛮神教に膝を屈して生きろと? それが戸次家当主たる私がとれる最善の手だというのかッ?! 答えよッ! 返答次第ではただではおかないぞ、雲居筑前ッ!」
そう言って激昂する誾を前に、雲居は冷静を保ったまま――はっきりと頷いてみせた。
抜刀から斬撃まで、かかった時間はごくわずか。もしこの場に丸目長恵がいれば、誾の剣術の切れ味の鋭さに賛嘆の意を示したであろう。
ほんの一呼吸の間に、雲居の首筋には刀が擬されていた――否、刃ははっきりと雲居の首に食い込み、血がにじみ出ていた。しかし、雲居は眉一つ動かさず、誾をじっと見据えている。
誾の口から、うめくような声がもれた。
「……説明しろ」
「このままでは、多くの犠牲が出ます。敵にも味方にも。兵にも民にも」
それは豊後を覆う狂騒ぶりを見れば、誰の目にも明らかであった。
ことに同胞を殺された南蛮宗徒たちは、口々に報復の大義を唱え、卑劣な異教を滅ぼす聖戦を渇望している。
それが何者かによって導かれた狂熱であるとしても、一度燃え上がったそれを鎮めることは不可能に近かった。大友軍の進路に位置する村や寺社、町や城は、人と建物とを問わず、ことごとく焼き払われるであろう。
「そんなことはわかっている! だから、なんとしても止めないといけないんじゃないかッ! なのに、どうして賛同しなければいけないんだッ?!」
「戸次家がひとり反対を唱えたところで、止めることはかないません。それは誾様もわかっておられましょう? 吉弘や臼杵などの諸家と語らって諫止しようと、宗麟様が思いとどまることはありますまい。さらに言えば、仮に宗麟様が思いとどまったとしても、南蛮宗徒たちは止まりませぬ。大友という枠すら越えて、南蛮神教が日向に侵攻してしまえば、それこそ事態は取り返しがつかないものとなってしまいます」
いまだ冷静さを保つ雲居の表情と言葉は、誾にとってこれ以上ないほどに忌々しい。忌々しいが……その内容は誾にも頷けるものであった。
そして。
誾は雲居の最後の言葉に違和感を覚えた。
ここでようやく刀を引きながら、雲居に問いを向ける。
「南神宗徒が暴走すれば取り返しがつかなくなる……? それはつまり、まだ今の段階ならば取り返しがつくということか?」
「取り返しがつく、という言葉にどれだけの意味を込めるかにもよりますが……少なくとも、これを大友家滅亡の端緒にさせるつもりはありません。その意味でいえば……」
と、ここで雲居は何かを口にしかけたのだが、小さくかぶりを振ってその言葉をのみこんだ。
無論、誾は怪訝に思い、問いかけようとしたのだが、雲居が構わずに言葉を続けたため、その言葉は飲み込まざるをえなかった。
「さきほども申し上げましたように、誾様はただちに宗麟様に対し、此度の戦が正当である旨、言上なさいませ。その上で、みずからがこの征伐軍を率いたいと望まれるがよろしいかと」
「なに……? それはどういう……」
「この戦は止められずとも、戦で生じる被害をおさえることは可能です。そのためには、他の諸将や南蛮神教をおさえられるだけの権限が必要。征伐軍を率いる立場に立つことが出来れば――」
その雲居の言葉に、誾はわずかに息をのむ。それは、誾が考えてもいなかった方策であった。
しかし、雲居はみずからの言葉にかぶりを振って見せる。
「無論、そううまくは運びますまい。ことに此度の動乱の影で糸を引く者どもが、他者に主導権を渡すとは考えにくい。ですが、誾様の言葉であれば宗麟様も無下にはできませぬ。本軍の指揮が無理なのであれば、高千穂へ向かう別働隊の方を。おそらくこれならば拒否されることはないでしょう」
「……そうすれば、少なくとも別働隊に関してはいらぬ戦禍を撒き散らさないように出来る、というわけか」
「御意」
頷く雲居の顔に視線を向けつつ、誾ははじめて進言を真剣に検討した。
なるほど、確かにここで反対を唱えて戦から遠ざけられるよりは、進んで賛成を口にして、征伐軍の主要な地位を得た方が被害を少なくすることは出来る。
吉弘家をはじめとした同紋衆の多くが沈黙を守る中、戸次家を継いだ誾が真っ先に賛成すれば宗麟の心証も良くなろう。くわえて言えば、あまり考えたくないことだが、宗麟が誾に特別な感情をもっていることも、この推測を補完する材料になる――いや。
(……そうか、はじめからそれを計算にいれての進言か)
宗麟が執心する誾であればこそ、影で糸を引く者――十の内、十までが南蛮神教であろうが――の思惑を越えて、宗麟に働きかけることができる。連中のたくらみにこちらの考えを割り込ませることが出来るというのが、雲居の考えなのだろう。
だが、それが可能であるならば、戦そのものを止める術もあるのではないか。どうしても誾はそう考えてしまう。
そんな誾に対して、雲居は――
「宗麟様を説得する術が仮にあったとしても……さきほども申しあげたとおり、南蛮神教は止まりますまい。此度の戦の主力は間違いなく彼らの宗徒。戦力だけを見れば、大友軍など不要なのです」
聖戦を唱えて各地から集結しつつある南蛮宗徒の数は三万を越え、さらにいまだに数を増やしつつある。もしやすると四万を越えるかもしれない。
そんな彼らに対し、カブラエルらは豊富な武器糧食を提供しているのだ。その資金と兵糧の充実振りは、もはや一国に匹敵する。
彼らは宗麟が意思を翻し、戦を許可しないといっても勝手に出撃して勝手に勝ってしまうだろう。
「……そうなれば、南蛮神教はもはや大友家の下にとどまってはいますまい。彼らは彼らの国を日向につくってしまうでしょう。そうなれば九国の他の勢力は、間違いなくその排除に動きます。大友家もまた、南蛮神教に与するものとして、四方八方から攻め込まれることになるでしょう」
この時、うまく立ち回って南蛮神教に対する包囲網に加わることが出来れば、それが最善なのだが、これまでの大友家の国歩を見れば、南蛮神教と袂を分かちましたと宣言しても誰も信じないであろう。かりに信じてもらえたとしても、それで諸国が大友家に向ける敵意が減じるわけでもない。
大友家が南蛮の力を背景に、周辺諸国を威圧して勢力を伸ばしてきたことはまぎれもない事実なのだから。
「……それは、そう、貴殿の言うとおりかもしれない。でも、このままの状態でも、結局は同じことになるのではないですか?」
雲居の意図を知った誾は、先刻手放した礼儀を再び拾い上げ、雲居に問いかける。
なるほど、たしかに南蛮神教が暴走すれば、大友家は危機に瀕する。だが、大友家と南蛮神教が今の関係を続けていっても結果はかわらないのではないか。誾にはそう思えるのだ。
そんな誾の考えに、雲居は頷いてみせる。
「そのとおりです。南蛮神教が独立しようが、あるいは大友家が形の上では彼らの上に立っていようが、他国から見れば脅威であることに違いはないですからね。遠からず、大友家は窮地に立たされることになる――いえ、もうすでに窮地に立っていると考えるべきですか」
「……なッ、それでは……」
それでは意味がないではないか。そう口にしようとした誾に対し、雲居はなおも言葉を続ける。
「色々と言い立ててしまいましたので、整理しましょう。要は、今の段階で南蛮神教の目論見を砕く手段はない――少なくともそれがしには見出せません。猶予はないとは思っていましたが、まさかこういう手で来るとはね……」
そこで、はじめて雲居の表情が苦々しげに歪むが、その表情はすぐに消え去った。
今はそんな感情に拘っている時ではない。そのことを自身と誾に知らしめるように。
「その事実に立った上で、可能なかぎり被害を減らし、悪評を食い止め、時間を稼ぐ――それが、今できる最善の手だとそれがしは考えます。そのためには――」
◆◆
(そのためには、戸次誾という人物が動かなければならない、か。好き勝手を言ってくれる)
そう考えたものの、誾は結局のところ雲居の考えにそって動いた。
戸次家の家名に泥を塗ることになるかもしれない。その恐れはあったが、それでも蚊帳の外で、したり顔で危惧を訴え続けるよりはどれだけましであるか知れない。そう考えたのだ。
しかし、実際に兵を率いてみれば、その労苦は想像を絶していた。
誾に預けられた兵力は七千。戸次勢が千、田北、佐伯家らの軍勢が千、それ以外――つまり五千近くが南蛮宗徒なのである。
報復と異教排斥の熱に浮かされた彼らは、みずからの数を頼んで誾の命をまともに聞こうとしない。それどころか、なるべく無駄な血を流すまいと努める誾に対して、敵であり、異教徒である相手にどうして情けをかけるのか、それが神の使徒を率いる者のすることか、と抗議してくる者さえいる有様だった。
すでに誾が率いる大友軍は、高千穂四十八塁と称される敵の備えの三つまでを抜き、高千穂へと足を踏み入れている。
それでも、まだこのあたりは豊後との国境に近く、砦以外は寒村がところどころに点在するくらいであったから、誾はかろうじて自軍をおさえることができていた。
しかし、これから高千穂の中枢に進んでいけば、当然、人の数は増えていくし、寺社も多くなってくる。このままでは、まず間違いなく報復に名を借りた放火略奪が行われてしまうだろう。
神霊の地である高千穂を焼き討ちしようものなら、どれだけの悪名を被ることになるか、想像するだに恐ろしい。
ゆえに、そんな事態を回避すべく、この戦況を現出させた人物に知恵を出してほしいのだが……
「当の本人がいないとはどういうことなんだ、ほんとに……」
「……はあ、それは……」
誾の呆れたような呟きに、連貞はなんと言ってよいやらわからず、適当に相槌を打つしかなかった。
だが、次の瞬間、その表情は鋭く引き締められる。
それは誾も同様だった。
祖母山の山間に響く、連続する破砕音。彼らの耳が捉えたその音は、疑いなく鉄砲の射撃音であった。それも一つ二つではない。
山の面に反射してはっきりとは聞き取れないが、その数、おそらく十を下回ることはない。
いずこからか「敵襲ッ!」との叫びも聞こえてくる。
「十時殿ッ」
「承知」
迎撃を指示された連貞がその場を離れる。
その姿を見送りながら、誾は自らの迂闊さに歯噛みする思いだった。
大友家のことばかり考えていて、今現在の敵に対する備えを怠った。高千穂の敵勢は大友の大軍の前に居竦んでいるとばかり考えていたのだが、この峻険な山脈は彼らにとっては庭のようなもの、奇襲をかける場所に事欠くことはないだろう。
その程度のことにさえ考えが及ばなかった悔いを、しかし誾は意思の力で押さえつける。今はそんなことを考えている場合ではない。
そう考えた戸次家の若すぎる当主は、みずからの目で敵を確認するために、足早に歩を進めるのだった。