では、参ります。
その一言と共に長恵が構えを取る。
八相の構えにも似た独特のその姿勢は、長恵と出会ってから一月の間に幾度も目にしているもの。目新しさはない。
目新しさはないが、真剣を持って向かい合ってみれば、おのずと普段とは異なる感情――恐怖とか畏怖とか勝てるわけねーという諦観とか――が胸の奥から湧き上がる。この構えから繰り出される長恵の得手、相手を袈裟懸けに斬って捨てる剛速無比の斬撃を幾度も目の当たりにしていれば、それも致し方ないことではなかろうか。
くわえて言えば、袈裟斬りはあくまでも得手なだけであって、それ以外の長恵の攻めが技術的に劣るわけではない。俺から見れば、長恵の繰り出す鋒鋩は、得手だろうが何だろうがどれも等しく必殺技にしかみえんかった。
その長恵に対し、俺は中段に構えをとる。
説明不要の基本形。その構えをとって、長恵の顔を見据えた。
刀を抜いてからの長恵の顔は、俺の目にはどこか茫洋として映る。真剣で、と言ったわりには、こちらが居竦まるような殺気と敵意とか、その手の威圧は皆無であった。
こちらを見る目にも常の闊達とした光は見て取れず、まるで霞みに包まれたかのようにとらえどころがない。
――だからこそ、恐ろしい。
どう攻めるのか、いつ打ち込むのか、様子を見るのか、そういったことが何一つ読み取れないのだ。
真剣で、と口にした長恵の意図は今もって定かではない。
決着はいずれか、もしくは双方の死のみ――などというわけではあるまいが、互いに真剣を持っている以上、すでに命懸けの仕合ではあるのだ。彼我の力量差を見た場合、勝敗の行方は明らかであり、長恵の手加減を期待するしかないわけだが、それでは長恵が口にした『本気』の意味が薄れてしまう。
確かに真剣を持てば常よりも緊張感は増すが、それを言うなら木刀だって、持ち手の意思一つで真剣にまさる武器になりえる。長恵の手加減が前提ならば、何も真剣で向き合う必要はないのである。
もっとも意図がわかったところで、今この場での仕合には何の役にも立たない以上、あまり深く考える意味はないのかもしれない。なにより剣聖を前にして、余計なことに意識を割くような余裕があるはずもなく。
俺は、視線を長恵の目ではなく、全身に据え、一挙手一投足を見逃さないように注意を払う。
決してこちらからは仕掛けない。
先手必勝などという言葉が通用するのは、相手に優る力量を備えている場合であり、格上の相手にそんなことをすれば確実に反撃をくらう。まして新陰流は相手の動きを利す剣術である。突っかかったところで、飛んで火にいる羽虫以上のものにはなりえない。
かといって、ひたすら守りを固めても確実に崩される。力、技、いずれも自分を上回る相手に守勢にまわっても勝ち目はないことは、謙信様や秀綱殿との稽古で何度となく思い知らされたことだった。
ならばどうすれば勝てるのか――自問。
自答――そんな方法はない。
当然といえば当然だった。大した疲労もない五体満足の剣聖に対し、こうすれば勝てる、などという都合の良い方策は存在しない。
だからこそ、極小の――それこそ針の先ほどの勝機であっても見逃さないように心を落ち着ける。湧き出る恐怖と諦観に蓋をする。
それを可能とするのは過去の経験――主に先の二人にこてんぱんにのされた記憶――であり、二年間たゆまず続けた稽古の感触。
真剣と木刀の違いはあれ、この構えを日常の一部としたことが、今この場にあって平静を保つ一助となるのである。
発されたかすかな呼気。
気がついた時には、長恵の長刀が迫っていた。
息をのむ暇さえない。咄嗟に左肩をかばう形で刀を寝かせると、間髪いれずに耳元で激しい擦過音が鳴り響き、柄を握る両の手に異様なまでに重い衝撃が伝わってきた。
長恵得意の袈裟斬りである。その攻撃を十二分に予期していたにも関わらず、俺は圧された。
謙信様たちもそうだったが、どうやったらこんな細い身体から、これだけの重みを持った一撃を繰り出せるのだろうか。
しかもこれほどの鋭鋒も、まず間違いなく手加減しているに違いないのである。剣の才と、才を伸ばすために費やした歳月の密度はどれほどのものなのか、想像するだけで震えが走りそうだった。
しかし、のんびりとそんなことを考えている暇はなかった。
後ずさった俺に対し、長恵はわずかに息を吐き出した後、再び刀を振るってきた。今度は先ほどとは逆、右肩から左腋までを両断せんとする一閃である。
左肩をかばった形で後ずさった直後であるだけに、右肩をかばうために刀を置く余裕はない。どうする、と考えるよりも早く、足は地面を蹴っていた。
華麗なバックステップ――というわけには、残念ながらいかなかった。この場合、たたらを踏む、という表現が適切かどうかは定かではないが、倒れて尻餅をついたりしないようにあぶなっかしく数歩後退する。
咄嗟の判断にしては上出来だったはずだが、それでも長恵の斬撃を避けるには至らなかった。右肩から胸のあたりまで、着ていた戦袍には一条の太刀筋が刻まれている。
紙一重で身体には届かなかったようだが、それが果たして此方の動きによるものか、それとも長恵の配慮によるものか、この時点では判然としなかった。
人気のない山中に連鎖する刃鳴り。鋼と鋼がぶつかりあう澄んだ残響音は、その実、一つ一つが冥府への片道切符となりえる猛威の象徴であった。
冬の寒気すら両断する勢いで繰り出される長恵の斬撃に、俺は防戦一方に追い込まれる。
もとより、この仕合が攻めの長恵、守りの俺、という形で推移していくことは覚悟していた。その中で相手の隙をうかがうというのが俺の基本姿勢だったわけだが――
(どこを探しても隙が見当たらん場合はどうしたものか)
というか、隙を探そうとすれば、それが俺の隙になってしまうのである。
結果、俺はただひたすら長恵の重く、鋭い斬撃を受け続けるしかなくなっていた。
白刃が煌く都度、必死に刀をそちらに向かわせ、間に合わないとなれば、その場から飛び退る。
ここまではかろうじて長恵の斬撃に身体がついていっているが、しかし、すでに手はしびれ、息はあがり、集中力を保つことも難しくなってきていた。
かろうじで長恵の攻撃をさばけているとはいえ、それは俺がうまく守っているためではなく、長恵があえて俺が防御している箇所に打ち込んできているためであろうと思われる。
このまま受け続けているだけでは、遠からず押し切られる。だからといって正面から向き合えば必敗、搦め手を使おうにもそんな隙はなく、そもそも俺自身にそんな余裕がない。
それでも、集中力だけは途切れない。途切れさせない。
焦慮も狼狽も押し殺し、ただただ剣聖の打ち込みをはじき返すことに専心する。
一から十まで相手にかなわずに圧倒される感覚は、むしろ懐かしささえ感じるほどだ。二年以上も昔のことが、つい昨日のことのように思い浮かぶ。その感覚に、俺は知らず口元に笑みを浮かべていた。
すると。
まるでその瞬間を見計らっていたかのように、長恵の刀がこれまでと異なる軌道を描く。弧を描くように翻った剣先が、こちらの刀をすくい上げるように右斜め下方から、左斜め上方へと一閃する。
まったく逆向きの斬撃に備えていた俺は、自身の刀に加えられる圧力に抗しきれない。
結果。
奇妙に澄んだ音をあげながら俺の手から刀が離れ、回転しながら夜空に向かって舞い上がった。
◆◆◆
時を少しだけ遡る。
丸目長恵は困っていた。
それは自身の目論見が外れたから、というわけではなかった。事態は長恵が想定していたとおりに進んでおり、その点ではまったく問題はないと言ってよい。
事実、長恵自身に関して言えば、望んでいた成果はほぼ得られたという感触がある。
むしろ思っていた以上の成果が出ているほどで、それが長恵の困惑を招く一因でもあった。
あらためて言うまでもなく、長恵は雲居を斬るつもりは微塵もない。真剣を持ち出したのは、言明したとおり雲居の本気を見るためであり、真剣はそれを引き出すための要素に過ぎない――はずだったのだが。
(ちょっと楽しくなってますね、私。どうしましょう?)
長恵は内心でそんなことを考えていた。
何故、雲居の本気を見たいのか。
これまた言明したとおり、雲居の氏素性を探るためではない。率直に言って、雲居の素性に関しては探ろうと思えばいくらでも探れると長恵は考えていた。いくつもの点と点、それを線で結んで正解にたどり着くことは、おそらくそう難しくはないだろう、と。
しかし、これに関しては長恵は本当に興味がなかった。長恵が興味を抱いたのは、雲居がどこの誰であるかという事実ではなく、その為人を根底で支える何かにあった。
それを知るためにこそ本気で剣を交えたいと考えたのである。
当初、長恵は雲居の動きを見て、内心で頷いていた。
落ち着いた挙措、基本に忠実な動き。なるほど、素人ではない。技巧をまじえずに力と早さで押し込む単調な斬撃を繰り返しているだけとはいえ、長恵の攻撃は簡単にさばけるような代物ではない。 それを、危なっかしいところがあるとはいえ、なんとか防げている時点で、雲居の積んできた経験と修練が素人の域を越えているのは明白であえった。
その一方で、長恵は首を傾げてもいたのである。
なるほど、素人ではない。しかし、それ以上のものでもない。秀綱に新陰流を学んだわけではないと雲居は口にしていたが、その言葉に偽りはなさそうだ、と。
もっとも長恵は、雲居の普段の立ち居振る舞いから見て、実は並々ならぬ実力を秘めている……などという可能性はとうに除外していたから、これは今さらであった。
この程度ならば、あと五、六合ほどで力尽きるだろう。
長恵は先刻、そう考えた。しかし、五合が十合になった今なお剣戟は続いている。
繰り返すが、長恵は手加減していた。
しかし、それを考慮にいれても雲居の粘りは尋常ではなかった。
中でも特筆すべきは、真剣をもって向かい合い、長恵の斬撃を受け続けながら、いまだに平静さを失わず、集中力を保っていることである。この一点に関しては、はっきりと凡庸の域を超えている。
真剣を用いていようと、どうせ稽古なのだから――そんな甘えは、雲居の表情からはかけらも感じ取れない。
決して踏み込んでこようとしないのは、そうすれば勝ち目はないと理解しているからだろう。ひたすらこちらの攻撃を受けつつも、雲居は勝ちの目を探し続けているのであり、だからこそ集中力が続いているのだと長恵は見て取った。
最後まで決して諦めない――口で言うのは誰でも出来る。しかし、真剣をもって剣聖と向かい合い、その斬撃を受け続けながら、なおもそれを実践できる人間がどれだけいるか。
そう考えた長恵は、途中から己の枷を段階的に外していった。雲居の力の篭った眼差しがどこまで続くか、それを試してみたくなったのである。
そして――
(気がつけばなんか楽しくなってますし。これはちょっと予想外)
いつまでも萎えない雲居の視線を感じているうちに、長恵は段々と抑えがきかなくなっている自分に気づいていた。
そのことを自覚し、困惑しつつ、しかし同時に楽しんでしまっている。
というのも、下手に名が知れ渡ったために、長恵は長らく本気で自分に勝とうとする相手と出会っていなかったからである。
相良の家臣や弟子たちは、長恵と向き合っても負けて当然と考えている。名声や名誉のために戦いを挑んでくる相手でも、ある程度長恵と剣を交えれば、彼我の力量差を悟って敗北を認めた。
こと剣の仕合において、これだけ打ち合って、なお勝利への意欲を失わない相手は実に久しぶりであり、それゆえに長恵は楽しい、と感じてしまったのである。
無論、そう感じながらも雲居に対する観察は怠らない。
真剣を用いた剣術の仕合において、集中力が乱れる要因は幾つもあれど、突き詰めていけば命を惜しむ心情が端緒となることが多い。剣術を修めている者であれば、そういった怖気を払う術を身につけているだろうが、剣術を修めていない者であればなおのこと敗北と死への恐れは執拗につきまとうことだろう。
しかし、雲居はあっさりとそれを乗り越え、高い集中力を保っている。それが不思議であった。
自分の命を埒外に置くような真似、普通の人間がしようと思ったところで身体が拒絶する。心身ともに容易くそう出来る人がいるのだとすれば、それはよほどの愚者か、狂者か。
思い返せば、これまでにも似た状況がなかったわけではない。しかし――
(師兄が狂っているわけはなし、かといって愚かというわけでは更になし。まあ親ばかという意味ではばかですが、それはこの際措いておきましょう)
目的のためには手段を選ばない人であることは理解していた。
その手段に、己の命が関わっていてもためらうことがない。意識してその覚悟を定めるのではなく、ごく自然にそれが出来る――出来てしまう。
つまりはそこに至ったときこそが、雲居筑前と名乗る人物の本気、なのだろうか。
――もしその考えが正鵠を射ているのならば、眼前の人物はとても危うい。長恵はそう思う。
(水、急なるに月を流さず。不動の心は得難きものですが、生死の境を容易く踏み越えるそれはむしろ得てはならぬ類のもの……なるほど、だからお師様は術を伝えようとはしなかったのかな)
長恵の視線の先では、雲居が長恵の斬撃をさばきつつ、口元に笑みを浮かべている。
何が理由かわからないが、雲居もまた長恵と同じように楽しいと感じるものがあったらしい。
状況が状況であるだけに、見る者が見れば不気味に思ったであろうその笑みを見て、長恵はむしろ得心した。
同時に、見るべきものは見たと判断し、これ以上の斬り合いは不要であるとして、はじめて明確に勝負を決めるための一撃を放つ。
そこから先は、瞬きの間の出来事であった。
長恵の一撃は技巧をもって雲居の刀を絡めとり、宙へと弾きあげる。
澄んだ響きと共に、雲居の刀が回転しながら舞い上がるのを見て、長恵はわずかに力を抜いた。
――それは多分、一連の剣撃ではじめて見せた長恵の隙であったろう。
勝負が決したという長恵の考えは、まだ早すぎた。刀を失ったら負けなどという取り決めはなく、戦いの幕がおりるには、まだもう一幕必要だったのである。
瞬きの間に、雲居の手に鉄扇が握られているのを見て、長恵も瞬時にそれを悟る。
雲居は長恵に刀を絡め取られるや、躊躇なく右の手を懐に差し込んでいたのである。左手一本では長恵の膂力に敵うはずはなく、雲居の刀は宙を飛んだ。飛んだ瞬間に、雲居は右の手で鉄扇を握りしめ、長恵に向けて振るう。
狙いは刀の柄。刀と鉄扇ではリーチが大きく異なり、雲居の位置から長恵の顔や身体を狙っても届かない。雲居は、長恵の刀を握る手を打ち据え、攻撃の手段を封じてから、もう一歩踏み込んでくるつもりだと思われた。
この時、長恵は雲居の行動を予期してはいなかった。
雲居が常に鉄扇を携えていることは知っていたが、この状況で刀を捨てて扇を取り出すなど予測できるはずもない。
雲居の動きに遅滞はなく、相手の刀を弾きあげた体勢にある長恵では、繰り出される鉄扇の一閃を受け止める術はない。それはたとえ剣聖と呼ばれる者であっても変えられぬ事実であった。
ゆえに、長恵は鉄扇を受け止めようとはしなかった。
無論、黙って打たれるのを待っていたわけでもない。雲居が刀に執着せずに鉄扇を選んだように、長恵もまた刀に執着せず、刀の柄から手を離したのである。
間一髪――いや、半髪の差さえなかっただろう。雲居の鉄扇は狙いあやまたず長恵の刀の柄頭をとらえ、刀は雲居の刀の後を追うように宙高くはねあがった。
剣聖から剣を遠ざけることに成功した雲居。
しかし、得物こそ失ったが、長恵はまったくの無傷である。
これはいかん、と雲居が鉄扇を握る右の手を引き戻すその寸前、長恵の手がするすると伸びてきて雲居の右肘に触れた。
勝負が決したのはこの瞬間。
「うおわッ?!」
くるり、と。そんな擬音が聞こえてきそうなほどに軽やかに、かつ見事な勢いで雲居は宙を舞っていた。そして一瞬後、雲居の身体は勢いよく地面に叩きつけられる。
右手を長恵に掴まれたまま、ろくに受身をとることもできなかった雲居は、自身の体重と長恵の投げ技の勢いを余すところなく己が身体で受け止めることとなり――
「…………きゅう」
丁寧にそんな言葉を残した後、あっさりと意識を手放すのであった。
◆◆◆
「……なるほど、道理で背中が死ぬほど痛むわけだ」
焼けるような背中の痛みで目を覚ましたものの、鉄扇を避けられた後の記憶がなかった俺は、長恵にそのことを訊ね、返ってきた答えに深く納得した。
受身もとれずに背中から地面に叩きつけられたのなら、これだけ背中が痛むのも仕方ない。ついでに意識が飛んだのも仕方ない。
長恵は申し訳なさそうにしていたが、無論、俺は責めたりはしなかった。勝負の一環だから仕方ないし、何よりそれよりも先に訊いておかねばならないことがあったからである。
「……で、それはそれとして、どうして俺は長恵に膝枕してもらってるんだ?」
心からの真剣な問いかけだったのだが、長恵はむしろ俺がなんでそんなことを訊ねるのだろう、という感じで首を傾げた。
「師兄は女子の膝より、固い地面の方がお好きでいらっしゃる?」
「それは断じて違うが、この格好は様々な誤解をはらむと思われるのです」
「姫様は陣でお休みですし、将兵もあたりにはおりません。ご心配には及ばぬかと」
それに、と長恵はやや眉根を寄せて口を開く。
「私がやりすぎてしまったのは事実ですので、この程度はさせていただきたく思います」
仕合をしていたのだから、そこまで気にする必要はないのだが、それを口にしても長恵は納得しそうになかった。こうしていることで長恵の気が済むなら、まあ良いか、と俺は口を閉ざす。正直、背中の痛みがおさまるまではあと少しかかりそうだったので、ありがたいと言えばありがたかったのだ。
とはいえ、やはり気恥ずかしさは隠せない。目を開けていると、上下逆に映る長恵の顔が間近で見つめ返してくるので、俺は目を閉じて痛みが去るのを待つことにした。
……しかし。
目を閉じたら閉じたで、長恵の柔らかい膝の感触がより鮮明に感じとれて、これはこれで落ち着かない。しかも身体を動かした後であるせいか、ほのかな温もりを伝えてくるので尚更である。
そのうち汗のにおいとか意識しだしたら、非常にまずい気がしたので、意識を別の方向へ向けるため、やっぱり口を開くことにする。
「ところで」
「はい、なんですか、師兄?」
「俺としては本気を出したつもりなんだが、剣聖のお眼鏡には適ったのかな、と」
「それでしたら、私としては言うことなしです。願わくばもう一方(ひとかた)もそうであるとうれしいのですが……」
それは良かった、と頷きかけたところで、俺は動きを止めた。
「もう一方?」
だれのことか、と目を開けて長恵の顔をうかがう。
俺の問いを受けた長恵は、しまった、と言わんばかりに両手で口をおさえたが、いまさら誤魔化すのは無理と判断したか、たははと笑いながらもあっさりと企みを白状した。
「んー、実は戸次様に、ここで師兄と戦いますよ、と伝えていまして。ついさきほどまでいらっしゃったんですよ。ほら、剣を交える前にも言ったじゃないですか。『見ているのは草木と動物とお月様だけ』って。人間も動物ですよね?」
「……ええと、訊きたいことや言いたいことは色々あるが、とりあえず一つだけ」
「はい?」
「なんで誾様?」
「今、師兄が一番に頭を悩ませている問題だと推察しましたので。師兄には無理を聞き入れていただき、随身を許していただきました。真に人に仕えるとは、言われて動くのではなく、みずから動くことであるとか。となれば気働きの一つもして見せねば丸目の名がすたるというものです」
そうして考えた結果、俺と誾との仲を取り持とうという結論に達したのだという。
聞けば、長恵は相良家の臣として、大友家の事情をおおよそ把握しており、戸次誾という人物の特異な生い立ちや、その為人――文武に優れた稟質を持つも狷介な人柄――も聞き知っていたらしい。
しかし、筑前で刃を交え、肥前への道中を共にし、さらに府内では新陰流の伝授を請われた長恵は、誾の為人に関する伝聞は、所詮伝聞に過ぎなかったと知ったという。
「戸次様は何故か師兄に敵愾心を抱いておられるようですが、実際は礼も理も弁えた少年。であれば、何か切っ掛けさえあれば師兄との仲も好転するのではないかと思いました」
とはいえ、剣聖たる身にも苦手なものは存在する。人と人の仲を取り持つなど、その最たるものであろう。
しかし。
「先の謀事からこちら、少し戸次様の態度に変化があったようですし、あの方であれば、私と師兄の仕合から感じ取れるものもあるでしょう。師兄の本気を見てもらえれば、少しはお二人の仲も縮まるのではないかと思い、この場にお呼びしたわけです」
「ふむ……? もう陣に戻られたのだよな、何か仰ってたか?」
長恵の気遣いは有難いが、その効果についてはいささか懐疑的にならざるをえない俺だった。
案の定、俺が訊ねると長恵は短く苦笑する。
「特には何も。ただ、地面に横たわる師兄の姿にしばし見入っておられましたね」
「……なんだか醜態を晒しただけに思えるんだが」
「もしかしたら、そうかもしれません」
おいこら、発案者。
思わずつっこみそうになった俺だったが、その視線の先で長恵は苦笑とは明らかに質の異なる笑みを浮かべ、囁くように続けた。
「けど、もしかしたら、そうでないかもしれませんよ?」
その長恵の笑みを見た途端、何故か言葉に詰まってしまった俺は、それをごまかすようにごほんと咳払いする。
「……ま、まあ、呆れられていないことを願うとしよう」
「はい。多分、大丈夫だと思いますけどね」
「その根拠は?」
「特にないです。こんな真似をしたのは初めてのことですから」
そういう長恵は、根拠がないにも関わらず、どこか楽観的に見えた。
俺は呆れながら口を開こうとしたが、しばし考えた後、思い直して口を閉ざした。ここで何を言ったところで誾には届かないし、長恵の気遣いが嬉しかったのは事実である。その一事だけで、ここで立ち合った意味は十分にあったと思えたからであった。