大友軍の日向侵攻からおよそ一月。
日向国内は、現在、奇妙な静寂に包まれていた。
当初、日向北部を瞬く間に席巻し、日向でも雄なる勢力の一つであった県城の土持親成を鎧袖一触蹴散らした大友軍の猛威の前に、日向の他の国人衆は震え上がった。
彼らは戦勝の勢いに乗った大友軍が、すぐにも中南部への侵攻を開始するものと考えたのだが、ここで大友軍は大方の予測を裏切って進軍を停止、五ヶ瀬川及び南の大瀬川の線を厳重に固めるや、県城の城郭部分を取り壊し始める。
この作業に携わったのは、今回の大友軍の主力というべき南蛮神教の信徒たちである。三万を越える彼らが、昼夜の別なく働き続けた結果、県城が地上と地図から消えうせるまで半月とかからなかった。
だが、この宗麟の行動には、大友軍の諸将はもちろん、同胞の報復に燃える信徒たちからも疑問の声があがる。今この時期、城一つを消し去ることに何の意味があるのか、と。
この声に対して宗麟は、戦に先立って殺害された信徒たちの鎮魂のために大聖堂を建設すること、さらにそれを建てるに相応しい場所こそ県城であることを説明した。
同胞の鎮魂のためと言われては、信徒たちが反対を唱えることは難しい。ゆえに反対を唱えた者の多くは、南蛮神教から距離を置く大友家の家臣たちであった。
彼らの主張は日向の諸勢力――ことに伊東家が反撃の準備を整える前に軍を進めるべき、というもので、この主張は相応の説得力を有していた。 ゆえに宗麟はあえて彼らを翻意させようとはせず、言われるがままに大瀬川以南の伊東家の諸城の攻略を命じたのである。
だが。
宗麟が意図したか否かは定かではなかったが、この決定により、この遠征において少数ながら存在した反南蛮神教派の家臣は宗麟の身辺から遠ざけられた形となり、大友軍の本営は南蛮神教一色に染まることになる。
そして、その状況を待っていたかのように、信徒たちの間である噂が囁かれるようになった。
南蛮神教の、南蛮神教による、南蛮神教のための国。信徒たちにとっては夢の中にしか存在しえぬ理想郷を、この地に建設することこそ、大友軍の真の目的である、というそれは噂であった。
この話は瞬く間に大友軍内を駆け抜け、信徒たちは事の真偽を求めて上位の者や宣教師たちの下に殺到する。彼らの期待が熱と光をともなって膨れ上がるのは必然であり、放っておけば、それは熱狂という名の暴走に繋がりかねない勢いであった。
かくて、事ここにいたり、大友フランシス宗麟ははじめてその言葉を公の場で口にする。
聖都ムジカ。
その名が宗麟の口から発されたとき、九国を覆う戦乱は新たな段階を迎えることになるのである。
◆◆◆
日向国県城址。
大聖堂建設のために忙しげに立ち働く人々を、トリスタン・ダ・クーニャは黙然と眺めていた。
五ヶ瀬川を遡り、海から吹き寄せてくる潮風がトリスタンの亜麻色の髪をそよがせる。乱れる髪を左の手で押さえつつ、トリスタンは内心の驚きを素直に口にした。
「これほどの人数が労役に従事していながら、不満の声もあがらず、反抗の一つも起きようとしない。この国の民の勤勉さと従順さは聞きしに優るわね」
その呟きは風にまぎれ、誰の耳にも届かずに終わるかと思えたが、少し離れた場所で配下の宣教師に何事か命じていたカブラエルの耳には届いたらしい。
宣教師たちに命令を伝え終えるや、カブラエルは顔に笑みを湛えながらトリスタンの方へ歩み寄ってきた。
「私もこの国に来た時は驚きました。邪教を奉じ、殺し合いに明け暮れる蛮人の国と聞いていたのですがとんでもない、みな驚くほどに速やかに神を理解し、その教えを受け入れてくれるのです。そんな彼らを目の当たりにして、私は確信したのですよ。この国こそが、東方諸国に我らが神の教えを広める拠点となるだろう、と」
カブラエルの言葉を聞き、トリスタンはほんのわずかに目を細める。
「それが真であれば、あえて武を用いる必要はないように思えるがな。布教長らの努力次第で、この国を平和裏に教化することは可能なのではないか?」
「さて、生憎と総督に救いを求めたのは私ではありませんのでね。薩摩のコエリョ殿は、この国の民について私とは異なる考えがあったのでしょう」
「この国の布教に関して、全権を委ねられた人物の言葉とは思えないわね。コエリョもあなたの指図を仰ぐ者のはずだけど?」
「ふふ、残念ながら教会にも派閥というものがありまして。私とコエリョ殿は互いに相容れぬ間柄、というやつなのですよ。聖騎士殿であれば、そのあたりの事情は推察できるのではありませんか?」
その言葉にトリスタンは言葉を詰まらせる。
南蛮神教と一口にいっても、その内側は決して一枚岩ではない。東西両教会、さらにはそれぞれの内部でも様々な種類の信仰が成り立っており、それはカブラエルやトリスタンにとって今さら確認するまでもない当然の認識であった。
しかし、布教する地にこの認識を持ち込むことは避けなければならない。唯一の神による絶対の教え――単純にして明快なその事実こそが、姿形から言語まで異なる異邦の民と布教者たちを結びつける一本の糸であり、これを断ち切ってしまえば布教そのものが立ち行かなくなってしまうからである。
巧妙にトリスタンの批判を封じたカブラエルだったが、その表情はあくまでも穏やかなままである。
にこやかに微笑みながら、カブラエルは言葉を続けた。
「とはいえ、私がコエリョ殿よりも恵まれていたことは確かですがね。フランシスと出会えなければ、十に満たぬ年月で、これほどまでに教えを広めることは出来なかったでしょうから。これもまた神のお導きによるものでしょう」
「……コエリョにはその導きがなかった、ということか?」
「まさか、そのようなことは言いません。コエリョ殿は懸命に励まれた――ただ残念なことに、あの地の者たちはコエリョ殿の言葉に耳を傾けなかったのです。神の存在を知らぬのならばいざ知らず、知ってなお教えを拒むは傲慢というもの。今、彼らに必要なものは手を差し伸べる慈悲ではなく、その驕りを砕く懲罰の剣。そう考えたゆえに総督は動かれ、トリスタン殿はそれに従っている。そうではありませんか?」
カブラエルはそう言うや、不意に何事かに気づいたように恐縮して頭を下げた。
「いや、これは失礼。神の軍勢の先頭に立たれるトリスタン殿には、今さら申し上げるまでもないことでしたな。無用の言を呈しました、お許しください」
トリスタンは厭わしげにかぶりを振った。
「それこそ無用の謝罪だよ、布教長。それに私の剣の腕など、布教長の舌の滑らかさに比べればまだまだだ。主の栄光を広めるため、布教長のますますの精励を期待している」
「御言葉、ありがたく頂戴します。ところで、フランシスコ様はやはりいらしてはいただけませんでしたか? フランシスなれば、殿下を上席に据えることに否やは言わぬのですが」
「ああ。殿下は旗艦で朗報を待つとのことだ。ろくに言葉も通じぬ者たちにかしずかれても面倒なだけと仰せだった」
カブラエルは神妙な表情で二度ばかり頷いた。
「殿下らしい御言葉ですね。まあ率直に言ってそうなるのではないか、とは予測しておりました。トリスタン殿がいらして下さっただけでもありがたいことです」
その言葉に、トリスタンはやや眉をひそめる。
「しかし、フランシス殿はこの国の王に等しい身分なのだろう? 私ごときを殿下の名代として認めてくださるのか? それに他の臣らも、みずからの王が侮辱されたと思うのではないか」
「それについては問題ありません。すでにフランシスの周囲は信徒たちしかおりませんからね。教会より正式に聖騎士に任じられた方がおいでになると伝えたのですが、皆、感激に目を潤ませていましたよ」
「……ならば良い。大聖堂とやらに案内してもらおうか」
「承知いたしました。もっとも、まだ本殿は建設にとりかかったばかりゆえ――」
そこまで言いかけたカブラエルが不意に口を閉ざした。その顔には怪訝そうな表情が浮かんでいる。
トリスタンは表情こそ変えなかったものの、何やら人々が沸き返る声には気づいていた。おそらくどこかの戦場から勝報でも届いたのだろう。そのことにはさして興味のなかったトリスタンだったが、カブラエルの表情にめずらしく困惑の影を見出したので、あえて口を開いてみる。
「勝報でも届いたのではないのか」
「さて、南はすでに兵力が先細りの状態であるため、援軍を求めて進軍を停止しているはず……」
兵力の大半がムジカ建設に携わっている以上、伊東家を攻める兵力に不足が生じるのは当然だった。
南に兵を押し出した諸将からは執拗に援軍を求める使者が派遣されてきたが、無論、宗麟もカブラエルも、この要請を受け入れるつもりはない。援軍を求めてきた諸将には占領した地域の防備に務めるように命令してある。
ゆえに今この時、勝報が届くとは考えにくいのだが――そこまで考えた時、カブラエルはようやくもう一つ、別の戦場があったことを思い起こす。
「高千穂の戦況に変化が生じたのかもしれませんね。ともあれ、トリスタン殿、大聖堂に参りましょうか。フランシスもそこにいるはず、詳しい話を聞くことも出来るでしょう」
トリスタンは言葉に出さず、ただ小さく頷くと、律動的な歩調で歩き出した。
その身を包む西洋式の甲冑は、日本のそれとは異なる造りをしているようで、トリスタンが歩を進めても甲冑から音がこぼれることはなかった。それだけトリスタンの動きに無駄がなく、また甲冑自体の造りも精巧なのであろう。
陽光を映して白銀色に輝く女騎士の姿を見た者たちは、半ば呆然としながら、そのしなやかな歩みに視線を注ぐ。
彼らの多くは南蛮神教の信徒たちであったが、今この時に限っては、彼らの目は布教長たるカブラエルではなく、騎士であるトリスタンの方に注がれていた。
大聖堂、とカブラエルは口にしたが、本殿の方は基礎工事に着手したばかりであるため、宗麟が起居しているのは臨時につくられた仮殿の方である。
仮殿とはいっても、数千、数万の信徒が献身的に立ち働いてつくりあげた建物は、短時日で完成したとは思えないほどに大きな造りをしていた。さすがに府内の教会には及ばないが、それでも九国でも屈指の規模であることは疑いない。
信徒たちの恭しい挨拶を受けながら、仮殿に入ったカブラエルは自身の推測が外れていなかったことを知る。
この時、本陣に訪れた使者は高千穂の別働隊からのものであり、高千穂東部の要衝である中崎城の陥落を知らせるものだったのである。
侵攻開始から瞬く間に日向北部を制圧した本隊に対し、別働隊は高千穂を治める三田井家の頑強な抵抗に遭ったらしく、はかばかしい戦果を挙げることが出来ずにいた。このため、別働隊を率いる戸次誾の采配に疑問を抱く者も少なくなく、宗麟はそのことを気に病んでいたところであった。
そこにこの勝報である。宗麟が喜ばないはずがなく、カブラエルの前には喜色満面という言葉そのものの宗麟の笑顔があった。
カブラエルはそんな宗麟に祝辞を述べたが、これはただのご機嫌伺いというわけではなかった。
この勝報は宗麟のみならず大友軍、そして南蛮神教にとっても朗報であったからだ。
というのも、別働隊が制圧した中崎城がある高千穂東部は五ヶ瀬川の上流部にあたり、下流に位置するムジカの安定のためには是が非でも確保しなければならない場所だったからである。
土持家や伊東家を恐れていた高千穂の三田井家が、あえて大友家と南蛮神教に反抗するとは思えなかったが、川の上流から毒でも流された日には被害は甚大なものとなってしまうだろう。カブラエルが高千穂侵攻を唱えた理由の一つがここにあった。
別働隊はムジカ建設を知らされておらず、その意図を知る由もないはずだが、元々、県城は日向北部の要衝であり、大友本隊の第一の攻略目標でもあった。その支配を確実なものとするため、誾がはじめから高千穂東部の制圧を目論んでいたとしても不思議はない。
別働隊は北部から急激に矛先を転じて中崎城を急襲、これに対して中崎城の守将である甲斐宗摂は懸命に防戦するも、あえなく城は陥落する。
彼我の戦力差が大きかったこと、また不意を衝かれたことによる将兵の動揺も否定できず、三田井家にその人ありと知られた甲斐宗摂も夜闇に紛れて城を落ち延びるのが精一杯であったという。
やってきたカブラエルに対し、宗麟はそのことを告げ、嬉しげに言葉を続けた。
「イザヤは高千穂北部の攻略に手間取っていると思われていましたが、きっとはじめから東部の攻略を念頭においていたのでしょう。若年とは思えない見事な采配ですわ」
そう言ってから、宗麟は湧き出る歓喜を自身で制し、表情を沈痛なものに変える。
「これで大聖堂の建設を滞りなく進めることが出来ます。無法にも異教徒に命を奪われた者たちの魂も、きっと安らぐことが出来るでしょう……」
「フランシスの言うとおりですね。彼らの魂が安らかならんことを私も祈りましょう」
カブラエルはそう言って右手で十字を切る。宗麟もそれに倣った。
しばし後、カブラエルは真摯な眼差しで宗麟を見つめ、口を開く。
「フランシス、私たちは彼らの無念を晴らさなければなりません。同時に、二度と同じことが繰り返されないよう努めなければなりません。そのために何をしなければならないか、あなたはすでにわかっていますね?」
「もちろんですわ、カブラエル様。彼らの魂が眠るこの地に、大いなる神の栄光に満ちた新しき国をつくりあげてみせます。それが私の贖罪であり、神の使徒としての使命。道ははるかにして険しいですが、神の教えを広める礎となって散れるなら本望というものです」
「良くいってくれました。けれど、散るなどと口にしてはいけません。フランシスにいなくなられては私が困ってしまいます」
そう言って、カブラエルは宗麟の頬に手を伸ばし、優しく撫でる。
宗麟の頬がたちまち朱に染まる様を微笑んで見つめながら、カブラエルはゆっくりと続けた。
「心配はいりません。我らは神に守られ、同胞に支えられているのです。困難はあれど、不可能なことなど何一つありませんよ。共に歩んでいきましょう、フランシス」
「……はい、カブラエル様」
宗麟は潤んだ瞳でカブラエルを見つめ、感極まったように頷いてみせた。
「ところで、フランシス」
宗麟が落ち着きを取り戻したと見たカブラエルは、先刻の知らせの詳細を聞き出そうと口を開く。
宗麟としても我が子とも思っている誾の活躍である、喜んで語りはじめた。
その話の中で、カブラエルは一つの事実に反応した。
「……そうですか。イザヤ殿は中崎城で冬を越すつもりですか」
「はい。北と東を制したことで、三田井家の家中にも動揺が見られるとか。信徒たちに無駄な血を流させないため、冬の間は兵を休めつつ、調略によって敵を切り崩すつもりである、と書状には記されていました」
「ふむ、それでフランシスはそのことを許可したのですか?」
「ええ、流れる血は少ない方がよろしいでしょう? それに雲居様もイザヤの考えに賛同しているとのことですし……」
カブラエルの表情にかすかな険が浮かぶ。それは宗麟に気づかれる前に意思の力で拭い去られたが、宗麟はカブラエルのわずかな沈黙に気づいたようだった。
「……カブラエル様、どうかなさいまして?」
「いえ、例の救世主殿はなんと言っているのかと思ったのですよ」
「それならばイザヤと同意見である、と。書状によれば中崎城を急襲するという案を最初に口にしたのも雲居様であるとのこと。大聖堂のことも、聖都――ムジカのこともご存知ではないのに、わたくしたちを守るように動かれる……やはり、あの方は大友家を守護するために神が遣わしてくれた御方に違いありませんわ」
嬉しげに両手を叩く宗麟の顔は無邪気なもので、カブラエルや南蛮神教に対して含むところがある様子はない。それに先刻の態度からしても、カブラエルへの依存が薄まったわけではないだろう。
しかし――
(フランシスはこの国の王。王が臣下に様付けをするなど聞いたことがない)
その一事でもって、宗麟の内に占める救世主の価値がわかる。より正確に言えば、誾と、それを補佐する救世主の価値、と表現すべきであろうか。
カブラエルは胸中で思案する。宗麟が誾と南蛮神教を天秤にかけるような事態を避けるため、あえてこれまで手出しは避けてきたのだが、あるいはそろそろ対処すべき刻なのかもしれない。
(どのみち、ドールを手中にするために動かねばならなかったところ。であれば、早い方が良いでしょう。殿下に対しての釈明にもなりますしね)
内心で頷くと、カブラエルはいつもの笑みを湛えながら口を開く。
「フランシス、一つ提案があるのですが、イザヤ殿をムジカに招いてはどうですか?」
「イザヤを? けれど、イザヤは別働隊を率いて戦っている最中ですが……」
「冬に大きな動きをとれぬは敵とて同じこと。トール――道雪殿の部下たちであれば、イザヤ殿が不在の間もうまく事を処してくれるでしょう。みずから望んで聖戦の先頭に立ったイザヤ殿に報いる意味でも、聖都に招くのは当然のこと、誰も苦情を申し立てたりはしないでしょう。それに、フランシスもイザヤ殿に会いたいのではありませんか?」
カブラエルの心遣いに、宗麟は嬉しげに微笑みながら頷く。
だが、布教長の言葉にはまだ続きがあった。
「それにもう一人、吉継殿も招きたいと思っているのです」
「吉継を?」
不思議そうな顔をする宗麟に、カブラエルはその理由を説明する。
「ゴアの総督閣下がフランシスのために派遣してくださった船には、軍人だけでなく医者も乗っているのですよ。本国の進んだ医療を学んだ彼らであれば、あるいは吉継殿の悩みを解決することが出来るかもしれません」
その言葉が、吉継の髪と瞳のことを指しているのは明らかだった。
「実はすでに話だけは通してあります。医者が言うには、みずから診察しなければはっきりしたことは言えないが、おそらく治療は可能だろうとのことでした」
「まあ! それでは、吉継が世を忍んで顔を隠す必要がなくなるのですねッ」
「そのとおりです。元々、吉継殿は病の身として知られていますから、医者に引き合わせたところで不審には思われません。とはいえ、今の時点ではあくまでも可能性。高千穂を占領し、別働隊の方々が聖都に来られた折にでも伝えようかと考えていたのですが、幸い吉継殿は、今イザヤ殿と陣を同じくしています。戦況が落ち着いた今、共に招くのに支障はないのではありませんか」
誾ほどではないにせよ、吉継もまた宗麟にとっては気にかけている存在である。このカブラエルの提言に否やを唱える理由は存在しなかった。
「すばらしいですわ、早速、中崎城に使者を……」
「っと、少し待ってください、フランシス。実はもう一つ提案――というよりは、私からのお願いがあります。救世主殿も呼んでほしいのですよ」
「雲居様はイザヤの補佐役ですし、吉継の義理のお父様でもあります。おそらく来てくださるでしょうが……カブラエル様は、どのような御用がおありなのですか?」
不思議そうに問いかけてくる宗麟に、カブラエルはにこりと微笑んでみせる。
「府内では信徒たちの動揺を鎮めるのに忙しく、ろくに話も出来ませんでしたからね。いずれ改めてゆっくりとお話したいと考えていたのです。それに――」
言いつつ、カブラエルは部屋の隅に視線を向ける。
その視線を追った宗麟は、ようやくそこに立っているトリスタンの存在に気がついた。もっとも宗麟がいたのは、仮殿の中でも最も奥行きのある祈りの間であり、トリスタンは入り口から入ってすぐのところで他の従者や宣教師たちと共に控えていたため、宗麟がその姿に気づかなかったのは致し方ないことであった。
しかし、ひとたびその姿に気づけば、トリスタンがただの従者や武人でないことは誰の目にも明らかであった。
「カブラエル様、あの方は?」
「トリスタン・ダ・クーニャ。女性の身ながら、ゴアの総督閣下の部下の中でも随一の剣の使い手です。ドゥイス・エスパーダ……この国では剣術に優れた者を剣聖と言うそうですが、今の言葉は本国でそれと同じ意味で用いられている称号です。くわえてトリスタン殿は剣の腕のみならず、信仰心も大変に篤く、教会から聖騎士の称号をも与えられている、まさしく真に神の刃と呼ぶべき武人なのですよ」
その言葉に宗麟は驚きを隠せなかった。それほどの人物がどうしてここに、という宗麟の内心を察したカブラエルは小さく笑う。
「ご子息であるフランシスコ様の護衛として総督閣下が派遣された。それは事実ですが、それだけではありません。総督閣下はフランシスがこれまでいかに布教に力を尽くしてきたかを知っておられる。そしてその精励に感じ入ってもおられるのですよ。だからこそ、フランシスを守るために掌中の珠を遠く東の果てのこの地にまで遣わしてくださったのです。フランシスは、本国でそれだけの評価をされているのですよ」
「それは……光栄ですわ。本当に……」
宗麟は胸の前で両手を組み、そっと頭を垂れる。感激のためか、宗麟の目尻には透明な雫が溜まっていた。
宗麟が感激する有様を見やりつつ、カブラエルは言葉を続ける。
「それでフランシス、東の地でうまれた救世主殿と、西の聖騎士殿を引き合わせたいと思うのです。出来れば殿下にもね。その上で雲居殿に洗礼を受けていただければ言うことはありません。フランシスが神の遣いと信じる人物が、いまだ洗礼を受けていないというのはおかしな話でしょう?」
「それは……はい、たしかにそうですわ。わたしもそう考えておりました。府内では落ち着いて話すことが出来ませんでしたから、いずれ折を見て、と思っていたのですが」
「ですから、イザヤ殿や吉継殿と共に雲居殿にもお越しいただこうではありませんか。東の地でうまれた神の使徒が、新たに誕生する東の聖都で洗礼を受ける……これもまた神の導きというものでしょう」
穏やかに微笑むカブラエルの言葉に、宗麟が反対する理由は存在せず――ムジカより高千穂に向けて使者が発ったのは、それから間もなくのことであった。
◆◆◆
日向国中崎城。
甲斐宗摂が立てこもったこの城は五ヶ瀬川の上流部に位置し、地図で見れば、五ヶ瀬川のすぐ近くに城があると記されている。実際、城から五ヶ瀬川の川面を見ることは容易だった。しかしその逆、つまり川面から中崎城を眺めるのはかなりの困難を伴うだろう。
どういう意味かといえば、中崎城は切り立った断崖絶壁の上に築かれた拠点なのである。正確に測ったわけではないが、比高は優に百メートルを越え、川面からどれだけ視線を上に向けたところで、目に入るのは崖の斜面くらいのものであった。
当然のように崖側からの攻撃は不可能であり、大友軍が城を陥とした際は他の方面からの力押しという強攻策を採らざるを得なかった。
守将である甲斐宗摂は五百名の兵で守りを固めたが、大友軍は七千という大軍を利して、部隊を幾つにも分け、昼夜の別なく城を攻め立てた。
彼我の戦力差から、すぐにも陥落すると思われた中崎城だが、その防戦は苛烈をきわめるものであった。
元々、三田井家との確執で孤立していた甲斐軍の士気は芳しいものではなかったはずだが、その窮状がかえって将兵の底力を引き出したのかもしれない。無論、大友軍に対する侵略者憎しの憤激もあったであろうし、戦に先立って大友軍が周辺の村落はおろか神社や寺まで焼き討ちにしたという事実から、南蛮神教を奉じる大友軍に敗北すれば高千穂がどのような目に遭うかも容易に推測できたに違いない。
そういった種々の要素があいまって、城兵の抵抗は苛烈を極めた。攻め寄せる大友軍の頭上からは岩や丸太が降り注ぎ、城壁にとりついた兵士には熱した湯や油が浴びせられ、大友軍の被害は加速度的に膨れ上がっていった。
しかし、城攻め開始から三日も経つと、戦況に明らかな変化が生じた。
城側が不眠不休で戦っているのに対し、大友軍は交代で休みをとって英気を養うことが出来る。時が経てば経つほどに、両軍の士気に差が生じるのは必然であったろう。
……まあ個人的なことを言えば、この間、俺も誾も城側の将兵と同じように不眠不休であったのだが。
というのも、ともすれば作戦を無視して強攻しようとする南蛮神教の信徒たちの手綱を、常に引き締めていなければならなかったからである。
結局、中崎城は城攻めが始まってから七日後に陥落したのだが、もう少し長引いていたら、冗談抜きで俺も誾も倒れていたに違いない。
そして、甲斐宗摂と三田井家の間の確執がなく、三田井家が中崎城に援軍を向けていれば、天険を利した堅城がわずか七日で陥落するということはありえなかった。その意味で、確かに俺たちは幸運であったといえるだろう。
ただ、城を陥としたところで、大友軍が内包する問題は何ら解決されるわけではない。
それどころか大友軍の戦い方は、高千穂の人々に対し、これ以上ない形で敵愾心を植えつけてしまっており、城が陥落した後も心を落ち着ける暇などかけらも存在しなかった。誰を恨みようもない、それが大友軍の現状であった。
「痛ッ……吉継、出来ればもう少し優しくお願いしたいんだが」
城内の一室。傷の手当てをしてくれている娘に、俺はそう言ってみたのだが、応じる声はかえってこなかった。
それでも、わずかに軟膏を塗る手つきが優しくなったような気がするから、聞こえていないわけではないのだろう。
右の眉の少し上あたりに出来た傷なので、吉継は俺の正面に膝立ちになって手当てをしてくれている。そのため、吉継の表情(傷をよくみるために頭巾はとっている)がよく見て取れるのだが、その顔は固く張り詰めたまま、先刻からほとんど変化を見せていなかった。
もっといえば、中崎城攻めが始まる以前――城攻めの手始めとばかりに大友軍が周辺の寺社を焼き払ったあたりから、吉継は凍りついたように表情を変えていなかった。
敵を攻めるにあたって、周辺の村落を焼き討ちするのは常套手段である。さらに今回の大友軍の遠征には、高千穂の寺社を掃滅するという任も含まれている。
ここに至るまで、誾と俺は出来るかぎり村や寺に手出しをさせなかった。無論、それは無用の被害を出さないようにするためなのだが、そうと口にしては真っ向から大友軍の軍略の根幹を否定することになってしまう。ゆえに「こちらの軍の動きを敵に悟られないため」という理由付けをして、友軍の動きを掣肘していたのである。
しかし敵の城を前にすれば、その言い分はもはや通らない。
それはあらかじめわかっていたことでもあった。侵攻当初の勢いを失っているとはいえ、南蛮神教の信徒たちの数は五千を越える。対して戸次軍は一千、他家の力を借りたとしても二千……信徒たちを力づくで抑え込むことは不可能である。これ以上、確たる理由のない制止を続ければ、信徒たちの不満はたやすく不審に結びついてしまうだろう。そうなれば、本隊の宗麟やカブラエルあたりに報告がいくのは間違いない。それは避けなければならなかった。
結果、大友軍は中崎城周辺の掃滅を開始し、周囲は炎で包まれることになる。
七千を越える大軍が動いたのである。多くの家屋が焼け落ち、神社や寺はしらみつぶしに襲われ、瞬く間に灰と化していった。
しかし、不思議なことに住民や僧の姿はほとんど見えなかった。すでに彼らの多くが、難を避けるために周辺の山野に隠れ潜んでいたからである。これは大友軍が襲来する何日も前から、何故かその襲撃と暴虐を示唆する噂が中崎城周辺に満ちていたためであるのだが、無論、大友軍はそれを知る由もなく、宣教師たちは苛立たしげに首を傾げるばかりであった。
ただ、これで被害が少なくなったと口にすれば、冬の最中、ろくに準備も出来ずに野山に放り出された人々の憤怒で心身を焼き尽くされることだろう。彼らの中には年老いた者や、逆にうまれて間もない赤子も少なくないのである。
くわえて信仰心の篤い高千穂の人々にとって、彼らの尊崇を集める寺社を焼き討ちにした俺たちの所業はそれこそ悪鬼に等しく映ったに違いなく、大友軍への敵愾心は膨れ上がる一方であった。
中崎城の攻防が苛烈を極めた理由の一つもここにある。大友軍の蛮行に憤激した城兵の多くが降伏を拒否し、死を決して戦い抜いたのだ。
最終的には五百名にのぼる城兵のほとんどが討ち死にし、一方の大友軍の死傷者は彼らの三倍を数え、あるいは四倍に達するかもしれないほどの甚大な被害であった。当然、その被害の中には戸次軍の将兵も含まれる。
そして人々の抵抗は城が陥落しても止むことはなく、今、俺が吉継に治療してもらっている怪我も、麓の町を歩いている時に物陰から投じられた石片によって負わされたものであった。ちらっと見ただけだが、多分、あの石を投げたのは年端もいかない子供だったろう。
「……まあ侵略した側が、侵略された側に友好を求めるほどおぞましいことはないわな」
俺が傷口にそっと指を触れさせながら口にすると、治療を終えた吉継がこくりと頷いた。そしてほとんど唇を動かさずに言葉を紡ぐ。
「これが、今後も続くのですね、お義父様……このままであれば」
「そうなるな」
吉継の問いに、おれはそう答えざるをえない。今回の戦の傷が癒えるまで大友軍はしばらくここを動けないし、ここで冬を越すという案を宗麟が認めれば、その期間はさらに伸びる。それでも大友家が今のやり方で南蛮神教を奉じる限り、今後もこんな戦が続いていくのは間違いないことだからである。
――ただし、それには一つの条件がつく。
――いみじくも吉継が口にした。俺たちがこのまま何も動かなければ、と。
高千穂という日向の一地方、その東の一拠点を潰すだけでもこの有様である。たとえ南蛮勢力の助力が得られるとしても、大友家が九国を制覇するのは至難の業だ。仮に成功したところで、それは砂上の楼閣、地に満ちる不満と憎悪はたやすく大友家の支配を覆すだろう。それは大友家にとっても、あるいは心ある南蛮神教の信徒にとっても避けなければならない事態であろう。
こんなやり方が長続きするはずはない。そのことを宗麟に納得させなければならない。
言うは易し、とはこういう時に使う言葉なのかもしれない。あの石宗殿や道雪殿が果たせなかった、あるいは今なお努めて果たせないことをやろうというのだから。
それでも成し遂げる――成し遂げられると考えたからこそ、俺は今ここにいるのである。
方策は胸にある。ただ問題は、最も重要な核心部分が俺の推測に過ぎないという点にある。
幾つもの情報と知識から、ほぼ間違いないと考えているのだが、その点について確報がほしい。それがなければ、島津家の姫たちを説くことは難しいだろうから。
その端緒を得るためにも、本隊に送った使者には色々といい含めておいた。予定どおりならば、そろそろ帰ってくるはずだが……
「さて、鬼が出るか蛇が出るか」
おそらくは今この時も懸命にこの城目指して駆けているだろう使者の到着を、俺は今か今かと待ち続けるのだった。