活気と喧騒が混じりあうムジカの街並み。その中を、丸目長恵は腕組みしながら歩いていた。
明らかに考え事をしている風情ながら、道行く人の波に埋もれることなく、流れを見極めてすいすいと歩を進めていく。その姿に、露店で野菜を売っていた農夫らしき人物が不思議そうな視線を向けていた。
しかし、長恵はその視線に気づくことなく、なおも腕を組んだまま歩き続ける。その胸中に去来するは、今この時、大聖堂でカブラエルらと相対しているであろう雲居や吉継への思い――ではなかった。
潮の香を含んだ風が通りを駆け抜けていく。長恵は組んでいた腕を解き、たなびく髪を左の手でおさえながら、不満げに呟いた。
「んー。どうもいまひとつ効果のほどが見えません」
何のことかといえば、先日来、長恵が気にかけている雲居筑前と戸次誾、この二人の関係についてであった。
雲居と剣を交え、誾の見聞に供するという一計を案じた長恵が、それを実行に移したのは先ごろのことである。
これは、雲居が口先だけの人間ではないとわかれば、多少なりとも誾の尖った感情をなだめることが出来るのではないかと考えた為であった。無論、長恵自身の思惑もあったことは否定しないが。
そして計略は図にあたり、あれ以降、誾が雲居を見る眼差しには明らかな変化が生じたように長恵には思われた。これまで見え隠れしていた雲居への軽侮――あるいはそれを装った気負いの色が浮かぶことがなくなったのだ、これは大した成果であるといっていいだろう。
しかし、長恵の期待どおりに事が運んだのはそこまでだった。
誾の感情がなだめられれば、後は自然と二人の会話も増え、友好的な関係が築かれていく――長恵はそう考えていたのだが、あいにくとそうは問屋がおろさなかった。
「効果が見えないというか、なんか前にもまして師兄と距離を置くようになっちゃいましたよね、戸次様。師兄も遠慮か気遣いかわかりませんが、距離を縮めようとはしませんし……」
うーむ、と長恵は再び腕を組む。
こういう場合、年長者の方から歩み寄ってくれると助かるのだが、雲居は誾を気にかけつつも、どこか距離を縮めることにためらっているように見える。
はじめは、戸次家という名家の当主への遠慮かと思ったが、聞けば先の当主である道雪とは進んで言葉を交わしていたという。つまり、地位に物怖じしているわけではない。
小野鎮幸や十時連貞といった同性の武将たちとも友好的な関係を築いているところを見れば、男嫌いというわけでもあるまい。なにより、雲居が誾本人に悪い感情を抱いていないことは、その言動から容易に察することが出来た。
もっと気軽に――それこそ吉継と対するような感じで誾とも接すれば良いのに、と思う一方で、このところ長恵の胸には一つの考えがきざしている。
それは、案外、雲居は誾のような年頃の少年との接し方がわからないだけなのかも、というものだった。実際、吉継に話を聞いたところ、親子の杯を交わす前は吉継とも似たような状況だったらしい。少なくとも、今のように気軽に言葉を交わしたことはなかったという。
そこから導き出される解答は――
「師兄は家族という言葉になにか思い入れがあるのかな? 姫様と戸次様では立場も性格も違いますが、ふむ、これは試してみる価値があるかもしれません」
形から入ることも時には必要だろう――そこまで考え、長恵ははてと首を傾げる。
仮に試みが上手くいき、雲居と誾が義理の父子になったとすると、今の誾は立花道雪の義理の息子であるからして……
「この場合、師兄と立花様は義理の夫婦になるのでしょうか?」
それは雲居と誾の関係を考えた場合、なんだか逆効果のような気もする。そもそも義理の夫婦ってなんだろう??
「あるいは、いっそのこと師兄と戸次様に立ち合ってもらいましょうか。言葉ではなく、刀を交えることで見えてくるものもあるでしょうし」
しかし、それだと余計にこじれてしまう可能性もないわけではない。
うーむ、と考えこんでいた長恵は、不意に潮の香りが先刻よりも随分と強まっていることに気づいた。
あれ、と首を傾げてあたりを見回す長恵の視界に、冬の曇天を映し出した鈍色の海が飛び込んでくる。考え事をしているうちに、潮風に手を引かれるように港まで足を運んでしまっていたらしい。
冬の日向灘は、どこか寒々しく、荒涼たる印象を見る者に与えてくる。だが、周囲の人々はそんな陰鬱な印象を吹き飛ばすかのように騒々しい活気に満ち溢れていた。
大友軍はこの地の人々にとって侵略者に他ならないが、生きるためにはそんな彼らですら生活の中に取り込んでしまう。この地に限った話ではない。同じような光景を、長恵は何度も見てきた。
「民とは逞しいものですね。あるいはしたたか、というべきなのかな」
感心したような呟きが、その口から零れ落ちた。
元々、ここ、五ヶ瀬川河口には港があった。しかし、その規模は府内や油津とは比べるべくもない小さなもので、それこそ港というよりは、ただの漁村といった方がしっくりくる程度のものにすぎなかった。
その状況が一変したのは、やはり大友軍が県城を陥落させてからである。
大友軍が県城を取り壊し、ムジカ建設にとりかかるや、そのための資材を運ぶ人や船で港はおおいに賑わうようになったのだ。
港には船の数こそ少ないが(先の北九州戦役で小早川隆景に痛撃をくらったため)大友水軍や南蛮の軍船も停泊していた。それを見て、この地がムジカを守る新たな水軍の拠点となることを察した者たちによって、兵や水夫を相手にする店も軒を並べ始める。
さらに、この港が将来は聖都と海外を繋げる窓口になることは半ば既定のことであったから、先を見据えた商人たちによって港自体の拡充も行われようとしていた。
その賑わいの只中で、長恵は興味深げにあるものに視線を向けていた。
かつて京へと赴いた長恵は、当然ながら往来で船を利用しており、海に関する知識も備えている。
それゆえ港の賑わいに物珍しさを覚えることはなかったのだが、ただ一つ、長恵が見たことのない物がこの港には存在した。
南蛮の軍船がそれである。
ことに国旗を翻した旗艦とおぼしき巨船は、遠目にもその偉容が明らかであり、長恵の興味を惹いてやまなかった。
左右両舷から筍の如く(長恵にはそう見えた)突き出た砲身の数は両手の指では数え切れない。船体自体も大きく、また見るからに頑丈そうでもある。雄牛の角のごとく突き出た船体正面の構造(衝角というものだと後に雲居から教えられた)は、あるいは頑丈さを利して敵船を蹴散らすための武装であろうか。
もし南蛮と戦いになった場合、あれ一隻を沈めるために一体何隻の船が必要になるのか、長恵には推測することも難しかった。
とはいえ、勝ち目がないと考えているわけではない。
「まあばか正直に船戦を挑まずとも、小舟で近づいて鉤をつかって乗り移り、中から制圧してしまえばそれでいいわけですが。けど、あの大きさだとけっこう乗っている人も多そうですし、そう簡単にはいかないかな」
長恵はそうひとりごちる。南蛮との戦に関しては、遠からず現実のものになるかもしれないと思えば、考察にも熱がはいろうというものだった。
ただ、よくよく考えてみれば、あれが一隻だけとは限らない。それこそ、あの巨船が何隻も、何十隻も連なり、波を蹴立てて突進してくるかもしれないのである。そうなれば一隻ずつ制圧していくというわけにもいかなくなろう。
「火矢や焙烙玉を山ほど用意したとしても、あの巨大な船体にどこまで通じるものか……師兄はどう考えているんだろう?」
いや、と長恵はおとがいに手をあてて考え込む。
これまで雲居は南蛮の脅威について語ることはあっても、実際にどう戦うか、具体的な策を口にしたことはなかった。それは用心のためもあろうが、もう一つ、相手の具体的な戦力を把握していなかったから、という理由もあるだろう。
敵を知り、己を知れば、とは古人の説くところ。敵を知らずに策などたてられるはずもない。
そう考えると、雲居がこの南蛮船のことを知らないというのはおおいにあり得る話だ。対抗策を練るためにも、早めに雲居の耳に入れておくべきか。
そう考えた長恵だったが、しかし、その場ですぐに踵を返そうとはしなかった。
どうせならもっと詳しく観察しようと考えたのである。
だが、歩を進めかけた長恵は、すぐにその動きを停止させる。長恵だけでなく、周囲の人々も同様に動きを止め、その場にいた全員が一つの方向に視線を向けていた。
彼らの視線の先では、何やら騒ぎが起こっていた。明らかに異国人とわかる風貌の者たちが殺気だった表情で何やら声をかけあい、道行く人々を乱暴に呼び止めたり、あるいは無理やり顔を覗き込んだりしているのだ。今も髪を引っ張られた女性が苦痛の悲鳴をあげている。
だが、その女性も目当ての人物ではなかったらしく、その一団はさらに手近な人たちを掴まえながらも、少しずつ長恵がいる場所へと近づいてくる。
周囲にいた者たちが、慌てたように足早に立ち去っていく姿を眺めながら、長恵は思案した。
長恵の力量をもってすれば、あの手の連中から逃げる必要はない。女子供を問わぬ横暴な振る舞いは見ていて不快でもある。普段であれば、むしろ進んで連中のところに駆けつけているところなのだが――
現在の長恵の立場からすれば、厄介事に巻き込まれるのは極力避けねばならないのは当然のこと。相手が南蛮の関係者である可能性が高いのであれば尚更であった。
「君子、危うきに近寄らず、と言いますし」
やや残念そうに呟きつつ、長恵は騒ぎに巻き込まれないように手近の路地に身を避けた。
本音を言えば、ここは「虎穴に入らずんば……」の方を適用したい長恵であったが、自分ひとりのことなら知らず、雲居や吉継、誾の立場を不利にしてしまう危険をおかすことは出来なかったのである。
しばらく人気のない路地を進みつつ、さて、軍船を観察しにいくか、それとも屋敷に戻ろうか、と考えながら長恵は周囲を見渡す。
このあたりは港の賑わいを目当てとした人々が無秩序に家屋を増築した一画らしく、何やら迷路にも似た様相を呈していた。
まだ時刻は昼過ぎなのだが、天候が曇りであることもあって、あたりは妙に薄暗い。しかも、何処からかすえたような悪臭が漂い、物陰からは粘るような視線が向けられてくる――とてものこと、妙齢の女性が一人歩きして良い場所ではない。
長恵が表通りから路地に入って、まだ百も数えていない。にも関わらず、すぐにこんな区画にぶつかるあたり、このあたりの治安のほども推して知るべし、と長恵は小さく肩をすくめた。
だが、そんな場所だからこそ、表通りでの難を避けようとする者たちの格好の通り道にもなっていたらしい。
前方の角から飛び出してきた人影が、一直線に長恵に向けて突っ込んできたのはその時であった。
とはいえ、別に相手は害意をもっているわけではないようで、たんに後方をうかがいながら走っているので、角をまがったところに立っていた長恵に気がついていないだけのようだった。
そうと知った長恵は親切心を発揮して、相手に注意を促すことにする。
「そこの御仁、危ないですよ」
その一言は当然のように相手の耳に届き、向こうは慌てて後ろに向けていた視線を前に据え直し、急減速をかける。
まるで覆面のように顔の下半分を布地で覆ったその人物は、長恵を見て警戒するように腰を落とし、背に負っていた刀に手をかける。長恵の目から見ても隙のない動作であったが、そこにはかすかな戸惑いが感じられた。こんなところで大小を差している女性の剣士が、敵かどうか量りかねたのだろう。
その疑問は当然ですね、と長恵は他人事のように考えつつ、採るべき行動について考える。
長恵としては思案のしどころであった。今ならば、そ知らぬ顔でこの場を去ることも不可能ではない。
しかし。
相手が立っている場所からは、今も小さな水音が聞こえてくる。それは相手の服から垂れた水滴が地面を打つ音に違いなく――要するに目の前の相手はずぶぬれの格好なのである。それこそ服を着たまま水風呂に入るか、真冬の海に飛び込みでもしないかぎり、こうはなるまいと思わせるほどに全身びしょぬれであった。
体格的には吉継とさして変わらない。相違は胸の膨らみくらいであろうか、と長恵はこっそり考える。水で服が身体にへばりついており、胸や腰のあたりですぐに女性とわかる身体つきなのである。いや、決して吉継だとちょっとわかりにくいと思っているわけではないのだが……
「それはさておき」
「?」
こほん、と咳払いした長恵がごまかすように口を開くと、相手が怪訝そうな視線を向けてくる。だが、その手は油断なく長刀の柄を握り締めたままであった。
(やはり苗刀)
日本の刀を参考に唐で考案された刀、そしてそれを用いる刀術。
長恵は相手が背負っている長刀がそれであることを確信する。となると、目の前の少女は唐の人間か。先刻見た殺気だった南蛮人たちが誰を追っていたのか、その答えが眼前にあるのかもしれない――瞬時にそう判断した長恵は、すぐに決断を下した。
「事情はよくわかりませんが、窮鳥懐に入る、と言います」
そう言って、長恵は物陰を指し示し、隠れるように促した。
少女は長恵の意図を量り損ねたのか、かすかな戸惑いを見せるが、どの道このままでは追っ手に追いつかれると判断したのだろう。承知した、と言うようにこくこくと頷くと、長恵が示した物陰に身を隠す。
すぐにくずおれるようにその場に座り込んでしまったところを見るに、すでに気力も体力も限界に達していたのだと思われた。
あれでは追っ手とおぼしき者たちを長恵が他所にひきつけたとしても、一人で逃げ出すこともかなうまい。それにここに留まれば、追っ手以外の人間から狙われないとも限らない。
「全員を叩き伏せて、私が担いで帰れば問題はないですけど、状況もわからずに剣を抜くのはまずいです。むー……」
悩む長恵だったが、相手は答えが出るまで待ってはくれなかった。
間もなく長恵の視界に姿を現した追っ手は、屈強な体格をした男たちだった。腕や足の太さは、長恵の倍どころか三倍くらいありそうだ。
手に持っているのは鞭や棒といった刃物を用いていないものばかり。その意図するところは、相手をより長く痛めつけるためであろうか。
人気のない路地で若い女性の姿を見つけた男たちは、驚きと疑念と好色を綺麗に三等分した表情を浮かべながら、ゆっくりと詰め寄ってくる。
そんな男たちを前に長恵は、さてどうやってこの場を切り抜けようか、と真剣に考え込むのであった。
◆◆◆
この機会に、雲居様も是非とも洗礼を。
大聖堂での一幕を終えた後、そういい募る宗麟をなんとか振り切り、宿舎として与えられた屋敷に俺が戻ってきた時、日はすでに大分傾いていた。
この屋敷は元々この地を治めていた土持家に仕える重臣のものであったらしく、戸次家の一行をすべて受け容れても、まだ部屋数に余裕があるようだ――まあ、一行といっても総勢三十名に満たないのだが、それでも十分すぎるほど大きな屋敷であるといっていいだろう。
庭園の手入れも見事なもので、池にはやたらとでかい鯉が泳いでいたりする。元の持ち主は造園に一家言ある人物だったのかもしれん。
そんなことを考えながら門をくぐった途端、何やら香ばしい匂いが漂ってきて、俺の鼻腔を刺激する。
はて、まだ夕餉の時間には早いはずだが、と首を傾げていると。
「あ、師兄、姫様、お帰りなさい」
そう言って姿を現したのは長恵だった。それはすぐにわかったのだが、長恵が割烹着(正確にはそれに似た料理用の服)を着て、包丁を手に持っている理由はさすがにわからなかった。
「長恵殿、どうしたんですか、その格好は?」
俺と同じく、きょとんとした様子で吉継が問いかける。
「久しぶりに料理の腕を揮ってます」
「はあ、それは見ればわかるんですが……」
長恵の答えに、吉継が戸惑いつつ視線を空へと向ける。
日は大分落ちているが、まだ夕餉には早い。なんでこんな時間に、とは吉継だけの疑問ではなかった。
そんな俺たちの表情を見た長恵は、めずらしく困ったような顔で口ごもる。
俺たちの疑問はわかっているのだが、どうやって説明したらいいのやら、と困惑しているように見えた。
「ん、そうですね、とりあえずお二人に紹介したい方が……あ、戸次様はどちらに? 出来れば戸次様にもお引き合わせしたいんですが」
「戸次様はムジカの様子を見てまわってる。日が暮れる前には戻るって言ってたから、急ぐなら探してくるが?」
「いえ、そこまですることはないです。一刻を争うわけではないですから、戸次様に報告するのはお戻りになられてからで大丈夫でしょう」
長恵はそう言うと、こちらです、と俺たちを先導するように歩き出す。
連れて来られたのは、中庭に面した一室だった。
庭園の眺めを一望できるもっとも広い部屋で、おそらくは屋敷の主の部屋だったのだろう。
当然この部屋を使うのは誾になるはずだったが、俺たちはムジカに着き、屋敷に入るや休む間もなく大聖堂に向かったので、どこの部屋を誰が使うのかといった細々としたことは、今のところ一切決まっていない。
それゆえ、この部屋を長恵が使っていても問題はないのだが、しかし、勝手に一番上等な部屋を使うような真似を長恵がするとは思えない。たまに破天荒な行動をとることもあるとはいえ、それは長恵の上位志向や負けず嫌いに触れる場合のみであり、普段の長恵は礼儀礼節をわきまえた人物なのである。
すると、誰か別の人間がこの部屋を使っていることになるのだが、俺にそんな人物の心当たりはない。
不思議に思いつつ、部屋に足を踏み入れた俺は、その場の光景に驚き、立ちすくむことになる。
「山のように並べられた料理の数々を、小さき身体にてかぶりつくように次々と平らげていくその様は、とてものこと人界のものとは思えず、この人物こそ噂に聞く唐の妖怪、牛魔王の化身かと恐れおののきて候」
「誰が牛魔王じゃ、誰がッ?!」
眼前の光景に戦慄を禁じえなかった俺が、身体を震わせながら呟くと、耳ざとくそれを聞き取った人物が憤慨したように叫び返してきた。
おそらくは長恵がつくったと思われる料理を盛大に平らげていたのは、俺が初めて見る人物だった。
黒髪黒目、背格好は吉継とほぼ同じくらいに見える。憤懣やるかたない、と言わんばかりに此方を見据える視線は矢のように鋭いが、晴れ渡った夜空のような瞳からは陰鬱なものは感じ取れない。
端整な目鼻立ちからは人の好さがにじみ出ており、小柄な背格好とあいまって、どこか少年のような雰囲気を漂わせている。綺麗というよりは凛々しいといった方がしっくり来るだろう。
もっとも、リスのようにもぐもぐと食べ物を租借している今の姿を見れば、可愛いと形容しても異論は出ないものと思われた。
「……で、長恵、このリスのような牛魔王はどちらさん?」
「だから誰が牛魔王じゃ?! 可愛らしい形容をしたところで、何の助けにもなっておらんわッ」
「えーとですね、師兄と姫様が聖堂に行っている間に、港の方で知り合いまして。南蛮人に追われていたので、ひとまずここにお連れしたんです。師兄や戸次様の帰りを待って話をうかがおうと思っていたんですが、とてもお腹が空いていると騒がれるので、こうして」
長恵は持っていた包丁を示して見せた。
それを聞き、俺は納得したように深く頷く。
「要するに助けられておきながら、なおかつ食事まで要求した、と。ふむ、その傍若無人なまでの剛腹ぶりはまさしく火焔山の主に相応しい」
すると少女は、こめかみを引きつらせつつ、がーっと吼えた。
「ええい、あくまで吾を妖怪王扱いするかッ! この戚元敬に無礼を働いて、ただで済むと思うでないぞッ!」
怒髪天を衝く、との表現そのままの怒号を浴びせられ、俺は反論のために口を開きかけた。
ちょっと少女の反応が楽しかったのだ。聖堂のやりとりで、思っていた以上にストレスが溜まっていたのかもしれない。
だが、少女の言葉の中に、ふと引っかかるものを感じて俺は口を噤んだ。
何が引っかかったのか、と自問する。答えはすぐに出てきた。
――今、この少女は自分の名をなんといった?
で、しばらく後。
「まったく、純情にして可憐な吾を掴まえて、こともあろうに牛魔王とは無礼もきわまるッ! さすがは倭寇の本拠、礼儀や礼節など期待するだけ無駄ということじゃなッ!」
少女はそう言ってふくれっ面で怒りを示しつつ、一方で箸を動かすのはやめなかった。
よほどに空腹であったらしい。すきっ腹に大量に食べ物を詰め込むのはよくないのだが――
「心配いらぬ。きちんと噛んで、時間をかけて平らげておるわ」
とのことで、余計な心配であったようだ。
「さて」
あれだけあった料理の山を一人で平らげた少女は、何故だか傲然と胸をそらせながら、俺たちを見渡した。
「無礼者にこちらから名乗るも腹立たしいが、一宿一飯の義理は義理。仕方ないゆえ名乗ってつかわそう――言うておくが、牛魔王ではないぞ」
じろりと睨まれ、俺は慌てて頭を下げる。恐れ入ったわけではなく、少女がこれから口にするであろう言葉を早く聞きたいからであった。
そして、少女の口から発された言葉は、俺が予期していたものと寸分違わなかった。
すなわち少女はみずからの名を高らかにこう謳いあげたのである。
「姓は戚、名は継光、字は元敬。北に蒙古を討ち、南に倭寇を破って明軍最強を謳われし戚家軍が長。皇上より大明国きっての勇将と称えられ、民から救国の士と揚げられし武人とは吾のことぞ。わかったら先刻までの無礼を謝すがよいわッ。なお食後の杏仁豆腐を出すならば、吾もそなたらの無礼を許すに吝かではないぞッ」
少しだけ訂正。最後の部分は、さすがに俺も予期していませんでした。
◆◆◆
その夜のこと。
俺は中庭の池で、のっそりと泳ぐ巨鯉に餌をやりながら、しみじみと世の不思議を思っていた。
「なんとねえ……この状況で戚継光が出てくるか」
すでに長恵から事の顛末は聞いていた。
合縁奇縁果てしなし、とは俺に随身を願ったときの長恵の言葉だが、今の俺は心底それに同意できる。長恵がいなければ、俺たちと継光は互いに顔を知ることもなく、この地ですれ違っていたに違いないのである。
まあ、その方が面倒に巻き込まれずに済んだような気がしないでもないのだが、などと苦笑しつつ、俺は先刻の長恵との会話を振り返った。
少女――戚継光からひととおりの話を聞き終えた俺は、すぐに長恵に問いを向けた。
「ところで、この場所は向こうには知られてないのか? 話を聞くかぎり、結構な人数に追われていたみたいだが」
市井の揉め事ならともかく、南蛮船がらみだとすると、ここにいたところで安全であるとは限らない。
そもそも、長恵一人ならともかく、体力が尽きて(というより単に空腹であったらしいが)いた継光を抱えて、どうやって窮地を脱したんだろうか。特に怪我などはないことはすでに確かめていたが、具体的にどうやって切り抜けたのかはまだ聞いていなかったのである。
目の前の佳人は、気分が乗れば単騎で敵陣を押し通るような為人であるからして、その手の輩と相対した場合、穏便に事態に対処する、という図式が想像しにくい。そんな不安もあった。
すると――
「ご安心ください。臨機応変に立ち回り、追っ手の人たちには穏便にお引取り願ったので、この場所は知られてないです、師兄」
「……」
「む、なんですか、その疑わしげな眼差しは。私が穏便に事を処すことが出来ない無作法者だとでも?」
「いや、具体的にどうやってお引取り願ったのかを訊ねてもいいものかどうか悩んでた」
臨機応変、とかどうとでも取れそうな言葉で己の行動を装飾しているあたり、どうにも不安が拭えない俺であった。
「武器を持って追いかけてきていたんだろう? そう簡単に諦めるとは思えないんだが」
俺の内心の危惧を知ってか知らずか、長恵の返答は実にあっさりとしたものだった。
「そうですね、女子には殿方にない武器が幾つもある、とだけ申し上げておきましょう」
「……やたらと艶かしく聞こえるんだが、気のせいか?」
「付け加えると、姫様にはまだちょっと早い方法です、いろんな意味で」
気のせいではなかったらしい。
ぬ、本当に大丈夫だったのだろうか。しかし、あえて追求しにくいように話すところをみるに、何か長恵なりの意図があるのかもしれない。
ちなみに。
「……何故、そこで私を例えに出すのでしょうか、長恵殿?」
そう口にする吉継の声が普段よりも一オクターブばかり低い理由は、俺にはわからなかった――ええ、ほんとにわかりませんでしたとも。
ちょっと身体を震わせつつ、俺は回想から現実に回帰する。
今後の行動について考えを進めることにしたのは、決して怖気を払うためではない。
「島津家に神の尊きを説き、南蛮神教の布教を認めさせよ、か」
それが大聖堂で俺に与えられた命令であった。
宗麟の前で、異教徒への赦しについて熱弁をふるい、その楯となりましょうなんぞと口にしたのだ。それを聞いたカブラエルなり、他の家臣なりが「ではフランシス様のために、当面の難敵である島津を説き伏せてこい」と口にすることは十二分に予測できることであった。
あったが、しかしそれにしてもなんというか、清々しいまでの無理難題である。無論、南蛮神教の側もそうとわかって命じてきたのであろうが。
実際に命令を下した宗麟はといえば、こちらはどうも本心から俺に期待している観があった。俺ならなんとかできるのではないか、と。
とはいえ「使命を果たせずして帰国しても、これを咎めるようなことはいたしません」と口にしていたから、難題であることは宗麟自身も承知しているのだろう。
カブラエルが俺に島津への使者の役割をあてたのは、当然、厄介払いのためであろう。それも大友家から追い払うのではなく、この世から追い払おうとしていることは明白であった。
その点、宗麟の最後の言葉はカブラエルの意にそぐわないはずだが、カブラエルは特に訂正しようとはしなかった。
「口を挟めなかったのか、挟む必要がなかったのか」
俺は首を傾げるが、ま、別にどちらでもいい。正式に島津への使者になれたことは、俺にとって都合が良い。それは間違いないのだから。
それに相手が言い出さなければ、高千穂に戻ってから肥後経由で薩摩に向かうだけのこと、要は正式な使者として赴くか、秘密裏に赴くかの違いだけである。無論、正規の使者となった方が得られるものは大きい。
まず、誰が聞いても無理難題とわかる使いをあっさりと肯ったため、宗麟には良い心証を与えることが出来た。くわえて、当然といえば当然だが、使いに必要な費用(島津への進物その他)も大友家が出してくれるので、我が家の財政的にも助かったりする。その意味では、カブラエルに感謝の念を禁じえない俺であった――もちろん皮肉である、念のため。
そういったこともあって、島津家に関してはおおむね問題はない。あるとしても、それは薩摩についてからの話である。
問題なのは――やはりあの大明国の名将殿のことだろう。
今は部屋で横になって休んでいる継光から聞いた話は、俺にとって幸か不幸か判別が難しいものであった。
なんでも継光は倭寇討伐と併行して、近年、東に向けて急速に勢力を広めつつある南蛮勢力の動向に注意を払っていたらしい。
『そなたらが知っているかは知らぬが、西域より伝わってくる南蛮の話はどれも眉をひそめる類のものばかりでな。まだ本格的にわが国に進出する様子はないのじゃが、近年、その影があちこちでちらつくようになってきおった。なにやら大規模な動きを画策している節もあって、危惧を抱いていたところ、連中の主力艦の何隻かが倭国に向かったという報告を受けたのじゃよ』
杏仁豆腐が出されず(あるわきゃねーのである)ご機嫌ななめな継光であったが、話をしている間に大分機嫌が持ち直してきたようであった。こういった戦略話が大好きなところは、さすがは明の名将といったところか。
『倭国が南蛮の膝下に跪けば、わが国に侵略するための格好の足場となってしまおう。倭寇を野放しにしておったそなたらの国がどうなろうと正直知ったことではないが、それがわが国に影響を及ぼすとなれば話は別じゃ。ゆえに南蛮人どもが何を企んでおるのかを確かめるため、張宰相や胡元帥に後事を委ね、吾みずからこの国にやってきたというわけじゃよ』
話を終えるや、継光は「眠いのじゃ」と言ってさっさと寝具にくるまってしまった。言うまでもなく一番上等のあの部屋で。名乗る際に「一宿一飯の義理は義理」とか言ってたので、最初からこの屋敷を今日の宿にする気だったのだろう。
まあ疲れていたのは事実らしいし、継光の話はこちらとしても聞くべきところがたくさんあったので、細かいことはごちゃごちゃ言うまい。
問題は継光の話の内容である。
無論、すべてを鵜呑みにしたわけではない。むしろ率直に言って、とてもとても胡散臭い。
内容もさることながら、今日会ったばかりの人間に、あそこまで口にする理由がないではないか。
むしろこれは何らかの謀略の一環であると考える方がよほどしっくり来るというものである。
しかし。
「戚継光、か。なまじ知っている名前だけになあ」
戚家軍を率い、北虜南倭を退けた明の名将。
その口から出た言葉は、昨今の南蛮勢力の情勢を知らなければ口に出来ないことばかりであった。 南蛮の謀略、あるいは南蛮と明が手を結んだ、という最悪の可能性も考えてはみたのだが――
「まあ、それはないか。向こうがそんなに俺たちを警戒しているとも思えんしなあ」
今の俺たちはある意味で敵陣に孤立しているようなもの。もっと直接的な手段に訴えることも出来るのだ。あんな騒々しい少女を埋伏の毒に仕立てるような、無意味に手の込んだ策を仕掛けてくるとは考えにくい。
となると、継光の話は事実であり、たんにその名を知っている俺が深読みしているだけなのだろうか。
だが、そう断じるのはまだ早いような気もする。
今の情勢を考えれば、一手あやまれば万事が水泡に帰すことも十分にあり得ること。何事も慎重にならねばなるまい。
だが、慎重になりすぎて機を逃すことがあってはならない。
突然あらわれた明の少女は、俺や大友家、ひいては日の本にとって吉なのか凶なのか。
不意に水音がはねた。
「ぞわッ?!」
少量ながら池の冷たい水を顔にかけられ、俺は妙な声をあげてしまう。
まったく予期していなかったことで、何事かと池を見てみれば、鯉が何やら身体をくねらせている。考え込んで餌をやる手を止めた俺に、抗議の意を示したものらしい。
かすかに生臭い水を拭い取りながら、悠然と泳ぎ去る鯉の背面を見つめる。この野郎めが、石でも投げ込んでやろうか、といささかならず大人げない考えに身をゆだねようとした時、背後から、今度は声がかかった。
「師兄、こちらでしたか……って、なんでそんな一抱えもありそうな石を持ってるんです??」
心底ふしぎそうに目を丸くする長恵に、何でもないと言いつつ庭石を地面に下ろす俺。
そんな俺をからかうように、池の中ほどでまたしても水がはねる音がした。
◆◆
「師兄のお耳にいれておかねばならないことがあります」
長恵はそう言った。
それはつまり、俺にだけ、ということだろう。
俺はそれについて理由を問うことはしなかった。長恵の表情が滅多にみないほどに真剣なものであったからだ――否、滅多に、ではない。それは俺がはじめて見る表情だった。
「師兄も気づいておられると思いますが、あの戚元敬という御仁、かなりの腕の持ち主です。一流を興すに足りるほどに。私はもちろん、お師様の門下にもあれだけの剣士はなかなかいないと思います」
「そこまでのものだったか。ただものじゃないとは思っていたけど」
生憎、見るだけで相手の力量を精確に見通すような眼力は俺にはない。ことに相手が俺より上の実力を有している場合は尚更だった。
だが、まがりなりにも戦国の世を生き抜いてきたのだ。まったく察せないわけでもない。
その意味で、長恵が口にしたとおり、戚継光が姿格好に見合わない腕の持ち主であることは気づいていた。
長恵はその判断を補強しようとしてくれたのだろうか。
だが、長恵の本題はその先にあった。
「先刻は口にしませんでしたが、実は今日、元敬殿以外にもう一人、剣士殿と出会いました。元敬殿と共に逃げている最中のことです。南蛮人の女性で、月のような髪と、海のような目をしていました」
追っ手を撒くために街路を駆けていた長恵の前に、その人物は立ちはだかってきたらしい。
その姿を見た長恵は咄嗟に足を止めざるを得なかった。何故ならば――
「剣を交えるまでもなく、相手の力量は察せられました。見立てでは、真剣で立ち合って私と五分。ということはつまり、戦えば私が負けるということです」
長恵の奇妙な言い分に、俺は首を傾げる。
「ん? 五分なんじゃないのか?」
「どれだけ自分に厳しくあろうと努めても、やっぱり私も人間です。どうしても自分への評価は甘くなる。ですから、私が五分と感じたのであれば――」
「相手の方が強い、というわけか」
「はい」
頷いてから、長恵はくすりと微笑んで言い添えた。もちろん簡単に勝ちを譲るつもりはありませんけどね、と。
「しかし、そんな相手からよく逃げられたな。元敬殿は本調子ではなかったろうに」
「逃げた、というよりは、半ば見逃してもらったようなものです。向こうも、あの場で剣を抜けばどうなるかを慮ったのでしょう」
「……ああ、なるほど」
確かに、往来のど真ん中で剣聖級の人間が立ち合いを始めれば、大惨事に繋がりかねない。南蛮の剣士は、それを恐れたのだろうか。
「あの剣士殿は最初から敵意も殺意も持っていませんでした。単に南蛮人がこの地で揉め事を起こすのを忌んだか、あるいは追っ手の人たちを心配したのか、いずれかだと思います」
その言葉に頷きながら、俺は長恵があえて吉継がいない場所で、その剣士について口にした意図を察する。
「そんな剣士が何人も南蛮にいるとは思いたくないが……」
「いない、という保証はどこにもありません。それにあの剣士殿一人でも十分に脅威です。師兄や姫様では、まず太刀打ちできません。今まではあちらも師兄のことを気にかけていなかったでしょうが、今日のことを聞けば、間違いなく排斥の意図を持ち始めています」
「まあ、俺についてはまだ実力行使するつもりはないだろ。島津に行かせるのも、命令にかこつけて敵の手で、というあたりだしな。問題は吉継の方か」
南蛮側が強硬手段に訴えてきた場合、長恵一人では、その剣士をおさえるだけで手一杯。吉継は年に見合わぬ剣の腕を持っているが、それは複数人を一時に相手にするような卓越したレベルには至っていない。
吉継の周囲に雲居家の家臣を張り付かせることも出来ないではないが、それだとて精々十人程度である。向こうが本気を出せば、一つ上の桁の人数を動かせる以上、対策にはならない。
つまり、結論としては――
「……吉継を早急にムジカの外に出すべきか」
「はい。私たちをムジカに招く際、姫様の病を治せる南蛮の医者がどうとかいう話をしたということは、あちらは明らかに姫様個人を狙っています。無論、それは師兄も姫様もご承知でしょうし、私もお守りできると考えていたのですが……」
正直、あそこまでの使い手がいるとは思っていなかった、と長恵は言う。無論、それは俺も同じである。長恵がいれば、向こうが本腰をいれて襲ってこない限りは大丈夫、とかなり楽観視していた。
とはいえ。
仮にあらかじめその剣士の存在を知っていたとしても、吉継を高千穂に残すことは出来なかっただろう。吉継自身が承知しないだろうし、なにより高千穂にいるからといって安全であるわけではないのだ。南蛮神教の影響が及ばない場所など、今の大友家には数えるほどしかないのである。
となると、だ。
南蛮と敵対し、かつ大友家に協力してくれる――そんな勢力を見つけるのが理想なのだが、そんな都合の良い相手がそうそういるわけもなく……ん?
そこまで考え、俺はようやく長恵の言わんとすることに気がついた。
「……なるほど。向こうの言うがままに歓待したのはこのためか?」
長恵はちょっと驚いたような、だが不思議に嬉しそうな顔でこくりと頷く。
「あら、もうばれてしまいましたか。さすがは師兄、そのとおりです」
「ふむ――元敬殿は信頼できる、と長恵は見たわけか?」
「陰謀や策略を事とする御仁には見えませんでした」
「確かになあ。初対面の相手にずいぶんとあけっぴろげに事情を説明してくれたし」
俺が呆れまじりに応じると、長恵は小さく首を傾げた。
「あれは多分、元敬殿なりのお礼ではありませんか?」
そう言われ、俺は腕を組んで考える。
確かに、南蛮に追われている継光を助けた以上、こちらが南蛮と敵対していることは察しがつくだろう。細かい駆け引きなしに、話しても差し支えないところまでまとめて話してくれたのは、そういった意味も含んでいたのかもしれない。
さらに長恵は続ける。
「もちろん、まだ何事かを秘しているのは間違いないと思いますが、南蛮の伸張を危惧する言葉に偽りがないのであれば、此方と手を携える道もありましょう。あとは師兄が三寸不爛の弁舌をもって相手を説き伏せれば完璧です」
「三寸不爛って……まあ、たしかに戚家軍の協力が得られるなら、頼もしいことこの上ないな。武力は無理でも、海戦の知識があれば随分と助かる。牛魔王とか言って、からかわなければよかった」
「あれはあれで、ずいぶんと緊張がほぐれたと思いますよ、双方共に」
それにしても、と長恵は感心したように俺を見つめた。
「師兄は大陸の事情にも通じておられるのですね。私は戚家軍とやらの名も聞いたことがなかったのですが」
「そ、そこはそれ、色々とな。ともかく、明日の朝に元敬殿とは話をするとしよう」
吉継とも話をしないといけないし、誾に対しても事情を説明する必要がある。その上で薩摩行きの準備もしないといけない。
くわえて、南蛮側がいつ考えをかえて強硬手段に訴えてこないとも限らない。吉継だけでなく、俺たちもまたなるべく早くムジカを出るべきだろう。
しばらくは寝る暇もないほど忙しくなりそうであった。
◆◆◆
薩摩国内城。
薩摩島津家の本城、その軍議の間に、今ひとりの少女が腰を下ろしていた。
少女の前には薩摩、大隅、日向の三国に渡る詳細な地図が置かれている。
島津家にとって、初代忠久が守護を務めたこの三州の奪還は御家の悲願であり、この地図はその象徴ともいえた。
その地図を前に少女はひとりごちる。
「肝付は降伏しましたか。頼りの伊東家が自領に立てこもっている状況では耐え切れるはずがないとはいえ、もう少し粘るものと思いましたが……まあ、弘ねえと家久の猛攻にここまでよく持ちこたえた、と褒めるべきでしょう」
薩摩統一、およびその余勢を駆っての大隅侵攻の作戦をたてた『島津の智嚢』――島津家三女、歳久はそう呟き、地図上の肝付家の本城である高山城に島津の旗を立てる。
本城を陥とされたとはいえ、肝付家は大隅の古豪である。各地に拠点となる城砦を幾つも有していたが、そちらも間もなく片がつくだろう。歳久はそう考えていた。
「本城を奪われれば、彼らの抵抗する気概も失せるでしょう。いかに我等と積年の対立があるとはいえ、自分たちを見捨てた伊東家や、異教にかぶれた大友家に跪くような腑抜けはそうそういないはず。また、いたとしても、配下の将兵が素直に従うはずもなし。これで薩摩と大隅は島津の手に帰しました。あとは日向の暴君と、豊後の狂信者を退ければ――」
その二人の名を口にするのも厭わしい、と言いたげに歳久はかぶりを振る。
ことに後者に関して、歳久は苛立ちを禁じえずにいた。
元々、大国を統べる身にあるまじき宗麟の無定見さに歳久は反感を抱いてはいたが、それが憎悪と称しえるほどになったのは、今回の戦からである。
日向侵攻における大友家の仕打ちに激怒した――というわけではなかった。大友家の内情を知っていれば、大友家が他国に侵略した際に何が起きるかは十分に予測できる。それが現実になったところで、歳久は眉一つ動かすことはない。
まして島津家は長年に渡って日向の伊東家と敵対してきた歴史を持つ。ことに父貴久が亡くなり、姉義久が後を継いでからは、伊東家の驕恣に歯噛みしたことは一度や二度ではなかった。その連中が大友家に蹂躙されたところで、同情など湧くはずもない。さすがに手を拍って喜ぶような真似はしなかったが、憤りを覚える理由はさらになかった。
では、どうして歳久が大友宗麟を嫌うようになったのか。その理由は――
「この島津歳久ともあろう者が、あんな相手に心胆を寒からしめられるとはッ」
歳久は今回、兵を挙げるに際し、当然のように大友家の動向にも注意を払っていた。
薩摩国内の制圧には絶対の自信がある。それに続く大隅侵攻も問題はない。伊東家が援軍を出してきたところで、それを退けることは難しくない。
ゆえに問題は、大友軍が出陣してきた時、ただそれのみだった。伊東家が大友家に従っている以上、その要請があれば大友軍は兵を出すだろう。薩摩兵の強さに全幅の信頼を置く歳久であるが、薩摩、大隅、日向、さらには豊後の兵を連戦で相手に出来るとはさすがに考えていなかった。
だが、今回に関しては大友軍が出てくる恐れはないはずだった。大友家は内紛に次ぐ内紛で国力をすり減らしている。しかもさらに筑前では争乱の気配が濃厚に漂っている。
自領を守るためならばともかく、今の大友家に他家を救うために大軍を南下させる余力はない。
大友軍は動かない、というより動けない。そう判断し、歳久たちは薩摩統一の兵を挙げたのである。
ところが、宗麟は歳久の予測をあざわらうように三万を越える大軍を南下させた。
島津が動くのを見計らったかのようなその動き。薩摩を制し、侵攻した大隅の地で大友軍南下の第一報を聞いた際、歳久はめずらしく顔面を蒼白にさせた。自身の策が完全に見破られていたと考えたのだ。
大友軍は三万というが、伊東家の軍勢をあわせればさらに膨れ上がる。大隅に着く頃には四万を越えているのは確実であろう。この情報が知れ渡れば、大隅の諸城も息を吹き返して、徹底的に島津軍に抗戦するようになる。大隅の制圧は当初の予定より大きく遅れてしまう――否、それどころか、大友軍が兵を分ければ薩摩すら危うくなる。
そう考えた歳久は、姉妹と相談した上で、大友軍に備えるためにただちに薩摩に戻った。その道中、内城篭城の案を真剣に考慮するほどに、この時の歳久は衝撃を受けていたのである。
だが、それゆえに。
実は大友軍の動きが、単に自家の都合のみを考えた無定見な侵略であったと知った時、歳久は深甚な怒りを抱かざるを得なかった。
「……まあ、単にこちらが勝手に深読みしただけで、八つ当たりとか逆恨みに類する感情だとはわかっているんですけどね。むしろ大友家のおかげで大隅制圧はずっと容易になったのですから、感謝してしかるべきなのかもしれませんが」
ぶつぶつと呟く歳久。戦略も戦術も考えていない宗麟の行動に脅かされたことは、知略縦横を謳われる歳久にとって、それだけ衝撃的な出来事だったのである。
とはいえ、戦はまだ終わってはいない。歳久はあらためて睨むように地図を見据える。
伊東家は佐土原城に兵力を集結させ、その北では大友軍がムジカなる新しい城市を建設している。 ムジカが南蛮神教のための都であり、異国の援兵まで来ているとの情報はすでに歳久の下に届いていた。
伊東家はともかく、大友家の意図が奈辺にあるのか、歳久にはいまひとつ掴めない。
その事実が、先の怒りとあいまって歳久の胸中を騒がせる。それは不安と呼ぶにはあまりに小さいものだったが、しかし確かに不安であったのだろう。あるいはその不安ゆえに、歳久はこうも宗麟に怒りを感じているのかもしれない。
地図に記してある県という城。それを見据える歳久の視線は、室内の灯火を映してかすかに揺れていた。