日向国ムジカ沖。
波を蹴立てて日向灘を北へ北へと進んでいく船の上にあって、戸次誾は慌しく南へ――つまりはムジカへと戻っていく南蛮船を見据えていた。
その南蛮船はつい先刻までこの船に接舷していたのだが、目当ての人間がこの船にいないとわかり、慌てて彼らの主へ報告に戻っていくところなのである。
誾の目に映る南蛮船は日本の船とは形状が大きく異なっている。それは建造に際して竜骨を用いるか否かによってもたされる差異である、というのがこの船の主、戚継光の言であった。
誾が今のっているこの船もまた明の竜骨船である。何故、明の船に乗って日向灘を北へ向かっているのかと言えば、これから関門海峡を抜けて博多津へ赴くためであり、さらには立花山城にいるはずの義母、立花道雪と会うためであった。
道雪のもとに赴くことに関しては、主君である大友宗麟の許可を得ている。一方で、博多津まで海路をとることを伝えていなかったのは、とある小細工のために必要だったからである。
「……このような児戯にかかるとは、ね」
誾は持っていた白布に視線を向ける。それはつい先刻まで誾自身がかぶっていた頭巾であった。
未明、まだ夜も明けやらぬうちに頭巾をかぶってムジカを出たのは、屋敷を注視しているであろう南蛮勢力の目を惹き付けるためであったことは言うまでもない。
雲居に頼まれて行動したとはいえ、雲居の語る南蛮勢力の侵攻、さらには彼らが理由は定かではないものの吉継を付けねらっているという予測に対し、正直なところ誾としては半信半疑であった。
しかし、実際に行動に移ってみれば、雲居のいうとおりに南蛮船が姿を見せた。さすがにカブラエルや、話に聞いた聖騎士の姿はなかったが、それでも軍船を動かした以上、そこに南蛮の主たる人物の意思が絡んでいることは疑いない。
南蛮人が吉継を狙っているのが事実だとすれば、もう一方――すなわち南蛮国が日の本を狙っているのも事実、ということになるのだろうか。
「ムジカを日向の地に建設すれば、日向の奪還を念願とし、さらに南蛮神教を否定する島津が黙っているはずはない。ムジカが城砦として形を整える前に大挙して攻め寄せてくるは必定。そうして空になった薩摩本国を後背から南蛮勢が攻め寄せる、か……戦略としては十分にあり得ると思うけど」
だが、と誾は首を傾げる。南蛮というのは、そこまでして海の外に領土を求める国なのか、と。
南蛮という国が具体的にどこにあるのかを誾は知らないが、少なくとも船で十日や二十日でたどり着けるところにはないだろう。
それだけの距離、大海を越えるだけでもかかる労力は並大抵ではない。かつて――それこそ数百年の昔、日の本は大陸の軍勢と海で矛を交えたことがあるが、目と鼻の先ともいえる大陸の国と争うことさえ国を挙げての一大戦役であったのだ。大海の彼方にある国を征服するなぞ正気の沙汰とは思えない。無論、あの頃に比べれば船や戦の技術は大きく変貌しているとはいえ……
そこまで考え、誾はかぶりを振った。
日の本の人間であれば、誰もがそう考える。だからこそ――そんな雲居の言葉が思い出された。
「ふむ、なにやら思い悩んでおるようじゃな、若人よ」
不意にすぐ傍からそんな言葉をかけられ、誾は慌てて視線を横に向ける。
すると、いつから居たのか、そこに紅い戦袍をまとった少女の姿があった――いや、聞けば人の妻だというから少女というのはおかしいのかもしれないが、外見だけ見れば少女としか言いようがないのである。
そしてこの少女がれっきとした大明国の武将であるというのだから、本当に世の中というのはわからない、と誾は我知らずため息を吐いていた。
「む、人の顔を見るなりため息とは失礼な」
「も、申し訳ありません、戚将軍」
「まあ吾の美貌に見惚れたというのであればいたしかたないが」
「……」
「そこは素直に頷いておけ、若人」
「は、はあ」
戸惑いつつ、誾は頷いてみせる。
いまさら遅い、と言われるかと思ったがそんなことはなく、戚継光は誾の当惑した顔を眺めながら、なにやら愉しげにころころと笑うばかりであった。
そんな継光の姿に、誾は困惑を禁じえない。
雲居に引き合わされた初対面の時から、一貫して継光は誾に好意的であった。それこそ雲居とは比べるべくもないほどに――まあ、初対面時に面と向かって牛魔王とか言い放った雲居と比べるのは間違っているかもしれないが、それを差し引いても継光が誾に浅からぬ好意を示してくれたことにはかわりない。どうやらよほど誾のことが気に入ったらしい。
この船に来てからも、竜骨のことについて、また南蛮のことについて、継光はすすんで誾に説明してくれた。
誾としては好意に感謝しつつも、どうしてここまで親切にしてくれるのか、と首を傾げざるを得ない。
すると継光が口を開いて曰く。
『若人は国にいる吾の夫によう似ておるのじゃよ。顔かたちではなく、人柄というか、雰囲気がな』
顔は夫の方が数段冴えぬがの、と笑いながら言う継光の表情は、しかしあふれんばかりの情愛を湛え、その人物に向けられた想いの深さを誾が知るには十分すぎるほどであった。
「で、何を考えておったのじゃ?」
「……特段、何を、ということはないのですが」
相手は仮にも一国を代表するような武将である。言葉遣いに気をつけつつ、素直に内心を告げるわけにもいかず、誾ははきつかない答えを返す。
だが、継光はそんな誾の様子を意に介さない。
「で、何を考えておったのじゃ?」
「いや、ですから……」
「で、何を考えておったのじゃ?」
「…………」
「で、何を――」
「……南蛮のことについて」
そう口にした誾の言葉は、半ばため息に近かった。
「ふむ、なるほどのう」
誾から話を聞いた継光は、見ている誾が訝しく感じるほどに何度も頷いてみせた。
誾と同様、継光もまた雲居からおおよその話は聞いているはず。それどころか、実際に日の本の外において南蛮勢力が大規模な動きを見せているという情報こそ、雲居の南蛮侵攻説の確証の一つ。その情報をもたらした当の継光が、いまさら誾の話を聞いて何を得心しているのだろうか。誾はそれを不思議に思った。
しかし、継光は意識してか否か、誾の怪訝そうな様子を気に留めることなく、話を先に進める。
「まあ若人の疑念もわからなくはない。が、南蛮の輩が遠く国を出でて他国を侵しているのは確かなことよ。連中が東方攻略の拠点としているのは天竺のゴアという土地じゃが、こことて南蛮本国からは遠く離れておるという。吾は南蛮人は好かぬが、千里の彼方を遠しとせぬその覇気だけは見事なものと感心しておる。それが名声のためであれ、探求のためであれ――あるいは征服のためであれ、の」
最後の台詞を口にした時だけ、継光の顔には皮肉の影がちらついたが、そんな表情さえ紅衣の海将は妙に様になっていた。
元々、継光が倭国にやってきたのは、近年、急速に隣国で勢力を伸ばしている南蛮人の動向を確かめるためである。
南蛮神教を広めるだけであればともかく、ゴア総督が誇る主力戦艦の一つが動いたとなれば黙視してはいられない。
継光が語る戦艦の姿は、誾も出港時に目撃している。誾の目に映ったそれは船というより、もはや海上の砦であった。
『バルトロメウ――ゴア総督アフォンソ・デ・アルブケルケ、その嫡子フランシスコの旗艦よ。ゴアを守護する主力艦が、このような東の僻地に何用あって来ておるのやら』
食い入るように戦艦を見つめる誾の隣で、継光はそう呟いていた。
聞けば、このアルブケルケ父子の名は東方世界で広く知られているのだという。この場合、知名度は恐怖、畏敬にほぼ重なる。
ことに父アフォンソの雷名は泣く子も黙るといわれるほどである。軍神――アフォンソに奉られたその呼び名こそがすべてをあらわしていた。
その父と比べれば、子の方は大分見劣りがすると言われている。所詮、父の名声頼りの二代目に過ぎない、と侮る者もいるくらいであった。
しかし、その一方で南蛮の勢力拡大を武で支えるのが父ならば、智で支えているのは子である、との評もある。
相反するそれらの評のいずれが正しいのかは継光も知らない。が、おそらくは後者が正しかろうとは考えていた。具体的な証拠があったわけではない。それは長らく西方からの情報を分析してきた継光の勘といってもよかった。
そのフランシスコが倭国に足を延ばしたと聞けば、継光としても座視してはいられない。しかし、勘によって戚家軍を動かすわけにもいかない。
継光が愛する夫を残して異国にやってきたのは、みずからの勘を事実によって補うためでもあった。なんとか旗艦に忍び込めないかと苦心し、ようやく入り込めたと思った矢先に見つかって、真冬の海で(短時間ながら)泳ぐ羽目にもなったのもそのためだったのである。
(そういった事前の知識と情報があれば、あの無礼者が示した南蛮侵攻、その真偽を真剣に考慮することもできるのじゃが)
倭国に来て以来、継光のもとには南蛮が新たな艦隊を派遣したという情報は入っていない。そのため、本当に雲居が予測するように南蛮軍が動くという確証はない。
しかし、南蛮軍にそれを感じさせる動きがあったことは事実である。それゆえ、継光は雲居の考えを妄想だと切り捨てることはしなかった。むしろおおいにありえること、と内心で首肯したほどであった。
逆にいえば。
そういった知識と情報なしに、南蛮が侵攻してくるかもしれないと言われても容易に信じることが出来ないのはある意味で当然のこと。雲居の話に戸惑いと不審を禁じえないでいるらしい誾の反応を、継光はもっともなものと受け取った。
むしろこの場合、訝しむべきは継光の話を聞く以前から南蛮の侵攻を予期していた無礼者の方であろう。おまけにその人物の義理の娘を南蛮人が付けねらっているというのだから、もう本当に何が何やら――
「つくづく妙じゃな、そなたらは」
それが偽りのない継光の本音であった。
唐突に妙なやつ呼ばわりされた誾は目を白黒させているが、その中にほのかに不服げな色合いが見て取れる。それは多分、雲居と一緒にするな、という無言の抗議なのだろう。
それを見て、やはり似ている、と継光は内心でこっそりと笑う。
誾が誰に似ているのか。それは継光と出会った頃の夫と、であった。
貧家の出である継光の夫は、父親の職を世襲した継光を事あるごとに目の仇にしてきたという過去を持つ。
継光にしても、そんな相手の態度が面白かろうはずがない。実際に何かの失態があったとか、地位にあぐらをかいて職責を疎かにしていたとかいうならともかく、そんなことはないのである。
当然のように両者は反目しあい、顔をあわせれば互いにそっぽを向くような関係であった。今の誾はあの頃の夫を思い出させるのである。
(ま、その後いろいろあって、おさまるべきところにおさまったわけじゃが……)
で、現在の夫の姿は、誾とは違う別の人物を想起させるところがなかなかに興味深い。継光はそんなことを考えつつ、今回の一件を改めて振り返る。
南蛮旗艦への潜入に失敗し、長恵に救われた形の継光だが、無論、何の打算もなしに長恵についていったわけではない。
南蛮人に追われている身を助けるのだから、当然、助けた方も南蛮人と敵対しているはず。倭国の中で南蛮人と敵対している者たちから情報を得ることは無駄にはなるまい、と考えたのだ。
敵の敵は味方、と決まったわけではなく、より厄介な状況に巻き込まれる可能性も少なくなかったが、体力さえ回復すれば相手が不埒な真似をしようとも独力で退けられる自信もあった。
しかし内心で身構える継光に対し、相手の対応は予想外もいいところであった。疑い、騙し、利用し、あるいは助けた恩を着せてくる――継光が予期していたそういった反応はなく。それどころか継光の持つ情報抜きで南蛮軍の侵攻を予測していた。
継光に求められたのは、ほんの二つ三つの情報と、誾を博多津へと送り届けることのみ。後者は欺かれた形の南蛮側の怒りを買う可能性があったが、余人なら知らず、戸次誾が乗っているのだから、たとえ欺かれたと知っても南蛮側が武器を向けてくる可能性はきわめて低い。
情報の方にしても、国の機密とか、そういったものとは一切関わりがないときている。というか、なんでこの状況で『明に甘藷ってあります?』とか訊いてくるのだ、あの無礼者は。あるにきまっとろうがッ。焼いた甘藷は吾の好物であるッ。
……まあ、それはさておき。
こちらの話を聞き終え、戚家軍、ひいては明軍を巻き込むための丁々発止のやりとりを仕掛けてくるかと思えば、そんなこともなかった。継光のいうこと――吾は明の将軍である云々――を信じていないのかと首を傾げたが、相手の態度を見るかぎりそういうわけでもないようだ。
継光としては拍子抜けもいいところである。別に倭国と共同して南蛮に当たるために海を渡ってきたわけではないし、相手がそれを求めたところで素直に頷くつもりもないのだが、まったく気振りにも示されないとなると、逆に気になってしまうのが人の性というものか。
だが、それを継光が口にしたところ、雲居はかぶりを振って口を開いた。
『戚将軍は北狄が攻め寄せてきたからとて、南蛮に助けを求めたりはしないでしょう? それと同じことです』
『ふむ。自らの国は自らで守る、それがそなたの誇りというわけか』
『そこまで大したものではありませんよ。恩も大きすぎれば報いるのが大変ですし、そもそれがしに貴国と交渉する権限などないのですから』
そう言って肩をすくめるような仕草をしていたが、その時の雲居の目には思いのほか真摯な光が浮かんでいたように継光には思われた。
(やはり、妙な連中じゃ)
連中、というのは間違っているかもしれない。継光が妙だと感じることのほとんどは、あの雲居という無礼者に関わることであり、その点、誾の無言の抗議は理にかなっている。
しかし、では雲居のまわりにいる者たちがまっとうだと感じるかと問われれば、継光は首を横に振るだろう。
別に詳しい身の上話を聞かされたわけではない。しかし、眼前の少年や、あの黒髪の剣士、さらには頭巾で顔を覆っていた少女と言葉を交わせば、その非凡な才はたやすく感じ取れる。若年で才が花開くには、相応の理由があるのだろう。そんな者たちが集ったのは偶然か必然か。
(大業をなす者の周囲には、自然と人が集うというがの)
戚家軍の長は、東の方角から注がれる陽光に目を細めながら、そんなことを考えていた。
◆◆◆
薩摩・肥後国の国境
「では若、くれぐれも――本当にくれぐれもお気をつけてくださいませ。短気は身を亡ぼす腹切刀と申します。若の言動はもはや若おひとりのものにあらず。丸目の家のみならず、主家の行く末にまで関わってくるのでござる。ゆえにくれぐれも……」
「ああ、爺、わかった、わかったから。さっきから何回『くれぐれも』って言ってるのよ?」
「今ので七回目でござるな」
「数えてるんだ……」
「若に大事なことを申し上げるときは、どれだけ口を酸っぱくしようと、これで十分、ということはございませぬ。ゆえに最低でも十は繰り返し申し上げることにしております。こうでもせねば、若はおのれの気性の赴くままに自由に行動してしまわれるではござらぬか。そもそも此度のこととて、ご主君より逼塞を命じられておきながら、家中の者にもろくにはからず、一人で国境を越えるなど決してあってはならぬことでござるぞ。若の姿が見えぬとの報告を受けた時、殿と拙者がどれだけ驚愕したことか。ただでさえ薄くなった頭がよりいっそう輝きを増してしもうたではござらぬかッ」
「……それは本気でごめんなさい」
悄然と頭を下げる長恵、という非常にめずらしい光景を見やりつつ、俺は眼前の光景を一言で言い表した。
「剣聖が防戦一方だ」
すると、隣で同じ光景を見ていた吉継もこくりと頷く。
「何度見ても新鮮ですね、お義父様」
「まったくだ。いっそあの方にも一緒に来ていただくわけにはいかないだろうか。すごい心強いのだが」
冗談でもなく、そんな言葉を口にする。
いちはやくその言葉に反応したのは、吉継ではなく、長恵と相対していたご老人の方だった。
「おお、それは良案ですな、雲居殿ッ! 不肖、この山本伝兵衛、老いたりといえど薩摩の者どもに遅れをとったりはいたしませんぞ。早速、支度をととのえてまいりますゆえ――」
「いいから、爺は支度しなくていいからッ! 師兄も余計なことは言わないでくださいッ」
長恵からのかなり本気の制止を受け、俺は慌てて口を噤んだ。
どうやら俺の何気ない一言は、一旦はしずまっていたご老人のやる気を再び燃え上がらせてしまったらしい。勢い込んで出立の準備をはじめようとするご老人と、それを何とか制止しようとする長恵のもみ合いは、なおもしばらく続くことになる。
それから半刻ほど後。
背中に重い疲労を宿した長恵に恨みがましい目でじとーっと睨まれた俺は、頬をかきつつ、つとめて何気ない調子で口を開く。
「いや、肥後もっこすとはかくありき、みたいな御仁だったなあ」
「たしかに。長恵殿にも苦手な御仁というのはいるのですね」
「……師兄は顔が、姫様は声が、明らかに笑っていますよ?」
「気のせいですよ、きっと」
そう言いつつ、吉継の声は長恵の言うとおり楽しげに震えている。多分、頭巾をとれば微笑む顔が見られることだろう。
「人が困っているところを見るのが、そんなに楽しいのですか?」
むすっと顔をしかめ、すねたようにそっぽを向く長恵。そんな表情も、俺と吉継の目には、やはりめずらしく映る。
今思えば、俺たちが肥後に立ち寄ることを決めた時、長恵がやや怯んだ様子を見せていたのは、こうなることが澄明なまでにはっきりと予測できたからなのだろう。
もし、俺が長恵の帰郷のためだけに肥後へ立ち寄ると決めたのであれば、長恵は固辞したに違いない。だが(長恵にとっては)残念なことに、今回の肥後行きはそれ以外にも幾つかの理由があった。それがわかっていたから、長恵もしぶしぶながら頷いたのであろう。
「なにはともあれ、長恵が大手をふって歩けるようになったことは良いことだと思うぞ」
「それは確かに師兄の仰るとおりですが」
いまだ不服げな様子ながら、長恵は俺の言葉に素直に頷いた。
今回、丸目長恵は、主君である相良義陽から正式に逼塞を解かれ、大友家の使者に同道することを認められた。向後は俺の傍らにあっても、堂々と丸目長恵と名乗れるようになったのである。
無論、逼塞を無視して国外に出た挙句、大友家の一家臣に付き従っていたことについては散々に叱責されたらしいが。
もっとも叱責程度で済んだことは幸運というべきだろう。長恵の振る舞いは、他家であれば叱責どころか追放、あるいは切腹沙汰になってもおかしくはないのだから。
当然、俺としてもそこまで行く前に口ぞえする気はあったし、実際、長恵を弁護するための書状は差し出していたのだが、義陽は長恵に対して恩義やら借りやらが山ほどあったようで、こめかみを震わせつつも言葉の上で咎めるに留めたようであった。
――まあその分、丸目家における父、老臣からの叱責は壮絶の一語に尽きたらしい。翌日、あの長恵がしおれたもやしみたいになっていたから推して知るべし、いかに剣聖でも親と老人にはかなわぬものらしい、と吉継と二人でしみじみと頷きあったものであった。
そんな俺たちを見て、長恵はしおれている自分の姿を俺たちが面白おかしく眺めていると思っているようだが、それは誤解である――いや、まったくそういった気持ちがないといえば嘘になるが、俺の、そしておそらくは吉継もだが、気持ちの半ばを占めるのは羨望だった。
とはいえ、それを口にするのは色々な意味で憚られるのである。
「ところで師兄」
俺がそんなことを考えていると、表情をあらためた長恵が話しかけてきた。
「本当に良かったのですか、殿を説得しないでも? 殿なら、頭から無視するようなことはなさらないと思いますが」
「つい先日まで矛を交えていた薩摩に、近いうちに南蛮人が攻め込んでくるかもしれない、なんて今の時点で言っても、相良様も対処に困るだろ。当面は島津を刺激する動きは控えてほしいという申し出に頷いてくれただけでも十分すぎるよ」
それは混じりけなしの俺の本心だった。
対南蛮戦に相良家を引きずり込むつもりは俺にはない。というか、これ以上、他家を巻き込んで事態をややこしくしたくない、と言った方が正確か。
相良家は正式に大友家に属しているわけではないが、日向の伊東家や肥後の阿蘇家――というよりは甲斐家――と緊密な関係を保っている。その二家が大友家の盟下にある以上、真っ向から大友家の意向にそむく動きはとりにくい。
そこを衝いて、大友家の使者たる俺たちが薩摩にいる間、静観を保ってほしいと申し出ること。それが、俺が相良家に立ち寄った理由の一つであった。
とはいえ、巻き込みたくない、というのはあくまで対南蛮戦に関してである。
島津家との交渉については、申し訳ないが、これでもか、とばかりに利用させてもらった。
なにせカブラエルらを出し抜くためとはいえ、夜逃げ同然にムジカを出たので、本来、使者として島津家に献じる進物だの何だのはまとめて置いて来てしまったのだ。一応、屋敷には宗麟あてに「伊東家が今回の使いを妨害するために不穏な動きを見せており、その裏をかくため」などと記して置いておいたが、当然、嘘である。
そんなわけで、敵対国に赴くには、いささかならず準備不足の状態であった。
使者たるに必要なものは扇子一本に舌一つ、などと嘯くこともできたが、それで門前払いされてしまっては目もあてられない。余計な手間をかける時間もない。
それゆえ、相手に拒絶を許さないためにも、相良家の丸目長恵が同道するという事実を公にする必要があったのである。
ついでに言えば、その以前にムジカからまっすぐ南に下れば伊東家の領内に入ってしまうので、安全に島津領に入るにはどのみち肥後を経由しなければならない、という単純な理由もあった。
そんな諸々の理由で相良家を訪れた俺は、長恵が義陽から許されたその日のうちに島津家に使者を出した。使者が使者を出す、というのも妙な話だが、国境まで行って足止めをくらうのはごめんである。まさかこっそり忍び込むわけにもいかないし。
島津家への使者が戻ってきたのは昨日のこと。
返事は諾。
しかし、指定された場所は島津家の本拠地である薩摩の内城ではなく、薩摩北部にある大口城であった。
外交の使者は元来、相手領内の情報収集も兼ねるものだから、接見の場が内城でないことは予測していた。おそらくは大口城になることも。
なにせこの城は、先の戦で丸目長恵が島津家久に敗れて失った城である。島津の四姫が噂に聞くような者たちならば、相良家を帯同することで圧力をかけようとする俺の意思を汲み取れば、それを無言で、しかし真っ向からはねのけんとするに違いない。そのための最善の一手は何かといえば、接見の場を大口城に指定することしかないだろう。
「まあ、ここまでは予測どおり、か」
俺が呟くと、横で吉継がつけくわえる。
「願わくば、今後も予測どおりにいってほしいものです」
「まったくだ」
俺は満腔の同意を込めて頷く。
実をいえば、大口城は、高千穂で雇った件の鉱山師たちを差し向けた場所にほど近い。そして彼らが一応の成果を出していることは、薩摩に出した使者が帰路に確認をとっている。さすがにいきなり鉱脈を掘り当てたというわけではないが、まったくの空振りでないとわかっただけでも十分である。
俺は彼らの成果の一端を掌に転がした。使者が彼らから託されたのは、豆粒ほどの大きさの鉱石である。それこそ吹けば飛ぶような代物だが、陽光に照らされたそれは確かに黄金色の光を反射させていた――
と、その時。
「おや、あれは?」
不意に長恵が訝しげな声を発する。
何事かと見れば、視線の先には厳しい甲冑姿の将兵の姿が見て取れた。
彼らが掲げるは『丸に十字』――薩摩島津家の軍旗であった。
とはいえ、国境に迎えを出すということは、すでに使者から伝えられている。まあ迎えといっても、領内で妙なことをされないようにという監視のための人員であろうが、ともあれ、ここに島津の兵がいることは別段不思議なことではない。
では、長恵は何を怪訝に思ったのだろうか。
俺がその疑問を口にする前に、島津軍から単騎、こちらに向かって馬を駆けさせてくる者が見て取れた。
慌てて後を追おうとする者たちを制しているところを見るに、島津家の武将なのだろう。
それにしては妙に小柄な人物だが――
などと首をひねっている間に、その人物は俺たちのすぐ近くまでやってきていた。馬術の腕は間違いなく俺以上である。
そう思うと同時に、その人物を間近に見て、俺は先の自分の観察評に訂正を加えた。眼前の人物は小柄なのではない。子供なのだ、と。
化粧など無粋だといわんばかりの白皙の肌、秋の夜空を思わせる澄んだ瞳、鼻梁は形よく整い、微笑を浮かべる唇は綺麗な桜色である。抱きしめれば折れてしまいそうな華奢な身体つきといい、はかなげな微笑みを浮かべ、窓辺で花でも活けていれば「あえかな」という滅多につかわない形容を使わざるを得ないような少女であった――容姿だけを見れば。
しかし、実際にこの少女を前にすれば誰もが思うだろう。
か弱いだの、はかなげだのといった形容ほど、この少女に似合わぬものはない、と。
こぼれんばかりに生気に溢れた眼差しは、少女の内なる活力を映して余りあり、動作の端々からにじみ出る躍動感は山野を駆ける雌鹿を思わせる。
なんというか、見ていると自然とこちらも微笑んでしまいそうな、そんな少女なのである。この少女に敵意を抱くのは、きっとカブラエルと仲良くすることに匹敵する難事であろう。そんな風にさえ思う。
そんなことを考える俺の前で、その少女は溌剌とした動作で右の手を高く揚げ、口を開いた。
「はじめまして、島津が末女、家久ですッ。姉義久の命により、大友家の御使者を案内するために参りましたッ」
その名を聞き、俺の胸に去来したのが驚愕よりも諦観、動揺よりも納得であったのは、これまで積み重ねてきた経験の賜物というべきか。俺はしばし真剣に悩むことになる。