薩摩国 内城
島津歳久は軍議の間で先刻届けられた書状をじっと見据えていた。そこに記された報告の意味を読み取ろうとするように。
そんな歳久の耳に、とたた、と軽い足音が響き、間もなく歳久のただ一人の妹が姿を見せる。
「歳姉、おはよー」
「おはよう、家久」
挨拶に応じてから、歳久は表情をあらため、苦言を口にする。
「家久。島津の姫ともあろう者がみだりに城内を走り回るものではありませんよ」
「あ、そっか。ごめんなさーい。歳姉からの呼び出しに遅れちゃいけない、と思って」
てへ、と舌を出す家久を見て、歳久は何か言いたげに口を開きかけたが、結局、苦笑と共に口を閉ざした。
「それで、何の話なのかな?」
家久の問いに、歳久は書状に記された情報を妹に伝えた。
「先刻、肥前より報告が届きました。松浦隆信が竜造寺家に降伏したそうです」
「そっか。思ったより早かったね」
家久は特に驚くでもなく、あっさりと頷いた。
先の筑前における争乱終結とほぼ時を同じくして、肥前の竜造寺隆信が松浦家に攻め寄せたことはすでに島津家も掴んでいた。
平戸を治める松浦隆信は、南蛮神教を積極的に庇護し、のみならず自身も洗礼を受けて信徒となり、領内に多数の信者を住まわせることで南蛮船の寄航を増やすという、ある意味で大友宗麟と同様の方針を採ってきた人物である。さらには海を挟んだ隣国である明との交易も盛んに行っており、それらの交易によって得られた莫大な富をもって肥前の地に地盤を築き上げてきたのである。
しかし、その松浦隆信も竜造寺家の急激な拡大にはほとんど為す術がなかった。貿易港である平戸を擁するとはいえ、肥前北西部の一部を領有しているに過ぎない松浦家に対し、竜造寺家はすでに肥前の半ば以上を制圧しており、その麾下には鍋島直茂や四天王を筆頭とした勇将知将がずらりと居並んでいる。両家の力の差は誰の目にも明らかであった。
それでも、これまで松浦家が竜造寺家と何とか拮抗できていたのは、東の大友家の存在があったためである。
だが、竜造寺家の軍師鍋島直茂は、近年、続発する叛乱によって、現在の大友家に肥前をうかがう余力なしと判断、竜造寺家の総力を挙げて松浦領への侵攻を開始する。
こうなれば松浦家に勝機は少ない。交易で得た銃火器をもって抵抗するも、竜造寺軍の勢いを押し留めることはかなわず、ついに降伏を余儀なくされたのである。
この肥前における勝敗の帰結は島津家の予測どおりであった。
とはいえ、島津家にとって肥前の情勢はさして重要なものではない。少なくとも大友の動静ほどに注意を払う必要はない、というのが歳久、家久の二人に共通する見解であった――つい先日までは。
しかし、今の島津家にとって、肥前からの知らせは無視できない要素が含まれている。それは――
「松浦隆信は南蛮神教を奉じる大名。宗麟ほどではないにせよ、南蛮に対しては好意的であり、平戸には南蛮神教の信者たちが多く住まっていると聞きます。一方の竜造寺はそこまで南蛮に寛容ではない。平戸が竜造寺の手に帰したとなれば――」
「南蛮は無条件で自分たちを受け容れてくれる拠点を、一つ失ったことになるね」
遠く大海を越えて異国への征旅に発つとなれば、補給の問題はどこにいってもついてまわることになる。率いる兵力が大きければ大きいほど、それに比例して水や食料の確保が難しくなるのは当然であった。
無論、南蛮側とてそれは承知しているであろうし、補給には万全を期しているに違いない。それでも平戸港を使えなくなったことは、南蛮艦隊にとって痛手……とまでは言えないにせよ、その軍事行動に無視できない影響を及ぼすことになるだろう。
もっとも、と歳久は不機嫌そうに付け足す。
「……本当に南蛮艦隊とやらが迫っているのであれば、ですけれど」
「もう、歳姉ったらまだ疑ってるの?」
「むしろ家久たちがあっさりと信じすぎなのです。あの男の言うことに、確たる証拠など何一つとしてないではないですか」
歳久は呆れたように小さくかぶりを振る。家久の視界の中で、短く切りそろえられた歳久の黒髪がかすかに揺れた。
世に言う島津の四姫の中にあって、歳久はひとり、己の髪を首のあたりで短く切りそろえている。 女性の美しさを見るとき、髪が大きな要素を占める世の中にあって、あえて髪を短くするということは、すなわち『女性』としての自分の一部を切り捨てるに等しい。
そこに込められた歳久の決意に、無論、他の姉妹たちは気づいている。
だが、家久はそんな素振りを微塵も見せずに話を進めた。
「確かに来るって証拠はないよね」
それは家久も認めざるを得ない。だが――
「でも、逆に言えば来ないって証拠もないよね?」
少なくとも、雲居の説を明確に否定し得る根拠を島津家は持っていない。家久はその点に言及する。
もっとも、来ないと証明できないからといって、来ると決まったわけではない。そのことも家久は承知していた。
ゆえにこの場合、判断の基準となるのは雲居の言葉を信用するか否か、その一点に懸かっている。
「筑前さんが言ってたこれまでの南蛮神教の動きとか、ムジカの建設とかを見れば、南蛮が艦隊を派遣しているっていうのは十分にあり得るんじゃないかな」
「その南蛮神教の動きとて、あの男が偽りを述べたのかもしれないではないですか」
こちらは時間さえあれば調べることは可能である。だが、雲居の話が本当であれば、そんなことに時間を割いている余裕はない。偽りであったとしたら、なお悪い。時間と人の無駄遣いに終わり、大友家に貴重な時間を与えてしまうことになる。
今、島津家は大友家という大敵と相対している。島津家が総力を挙げて戦ったとしても、勝ちを得るのは難しい相手だ。
そんな状況にあって、大友家に仕える者があらわれ、実はすぐ後ろに南蛮という海向こうの大国が攻め寄せてきているかもしれないなどと言い立てる。おまけに大友家で影響力を強めている南蛮神教は、そんな南蛮国の侵略の先手に等しいという。
この言葉を信用して南蛮に備えれば、当然、大友家と戦うための戦力に不足を来たす。そんな状態で両家がぶつかれば、勝敗の帰結は火を見るより明らかであろう。
大友家が日向北部でどのような蛮行を為したのかはすでに九国各地に伝えられている。大友軍に薩摩の地を一歩たりとも踏ませるつもりのない歳久が、雲居の言葉に簡単に頷けるはずもなかった。
その一方で。
仮に雲居の言葉が真実だとすれば、大友家の侵入を阻んだとしても、南蛮という異国の軍勢に薩摩は蹂躙されることになる。それもまた歳久にとっては決して認められない未来である。
苦悩する姉の姿に、家久は気遣わしげな眼差しを向ける。
歳久の迷いは、事情を知る島津の君臣すべてに通じる迷いでもある。当然、家久も同じように考え、迷った。
そして、それは話を持ち込んだ当人――雲居筑前が十分に予測するところであった。
雲居がいうところの『手土産』は、島津家の君臣が抱くであろう信頼と疑念の天秤、それを一方の側に傾けさせるものだったのである。
「――もし、筑前さんが嘘を言っているのなら、菱刈の金の存在を知っている人をわたしたちに教えたりはしないと思うんだけど」
守田氏定という名の鉱山師が、菱刈付近に金鉱を発見した――その情報が雲居の口から出た際、島津の君臣でそれをすぐに信じた者はいなかった。それは雲居の言を疑ったというより、呆気に取られたためである。
歳久はもちろん、家久でさえ「この人は突然なにを言い出すんだろう??」と戸惑いを隠せなかった。
そんな島津家の面々が顔色をかえたのは、雲居が証拠の一つとして懐にしまっていた小粒の鉱石を取り出してみせてからである。
日の光を受けて鈍い黄金色の輝きを放つそれが何なのか、雲居が口にするまでもなく明らかであった。
◆◆
その後に起こった騒ぎは、今なお鎮まったとは言い切れぬ。
この騒ぎでもっとも注目を浴びたのが守田氏定であったのは当然であろう。同時に、もっとも割を食ったのも氏定以外にありえなかった。何故といって、命じられて菱刈近辺の調査に従事していたはずが、肝心の金鉱脈を『発見した』人物として島津の家臣たちに菱刈から引っ張ってこられた上に、その真偽を確かめるために昼夜の別なく質問――というか尋問――というより詰問を受ける羽目になったからである。
無論、これには相応の理由が存在した。
氏定は高千穂で雲居に雇われ、その指示に基づいてはるばる薩摩までやってきて鉱脈を探った。
率直にいって、そう簡単に金山が見つかるものか、と思っていたが、報酬は破格であり、たとえ空振りであったとしても、高千穂で商いをしているよりもよほど儲かるのは明らかであった。
それゆえ、氏定は手を抜かずに調査にあたった。金の気配がなくとも、鉱山師として、各地の山を見ることは今後のためにもなるはずだった。
そう考え、指示された菱刈近辺の調査を開始し――ほどなく、氏定は顔色を一変させる。
菱刈の光景に、かつてないほどの『何か』を感じたのは、鉱山師としての氏定の力量ゆえであったろうか。
氏定は目の色をかえて周囲を歩き回り、自分の知るかぎりの知識をもって綿密に調査した。その結果、幾つかの候補地を絞り込み、その周辺でもう一歩踏み込んだ調査を行い――それを繰り返すうちに、金鉱脈の存在を証し立てる物を幾つか手に入れることができた。雲居に託したのは、その一つである。
早くも夢買いの成果が出たか、と氏定は喜んだが「別にお前が見つけたわけではあるまい」という連れの冷静な指摘に赤面する。
言われてみればその通りで、氏定は命じられてこの地を調べただけで、ここに埋まっていると思われる(氏定本人は、あると確信しているが)鉱脈を自分の足で見つけ出したわけではない。これを「俺の手柄だ」と口にするのは自分自身に憚られた。
薩摩領内の金山を大友家の家臣が見つけ出した、という奇妙な構図である。氏定が小利口に立ち回れば、いくらでも利を得る術はあっただろう。実際、氏定もそれに気づかないわけではなかった。
だが、氏定が島津家に駆け込むこともせず、大友家に鉱脈の証拠を隠すこともしなかったのは、ひとえに鉱山師、というよりは男児としての誇りゆえ――とでも言えれば格好がつくのだが、実際はそれをした場合の大友家の怒りを恐れたためである。
もっとも、氏素性の知れない氏定をあっさりと信用し、大金を託してくれた雲居筑前の信義に報いたい、という気持ちも幾分かは理由に含まれていたが。
ともあれ、氏定は命じられたとおりに調査を続けたのだが、あまり大規模に動けば島津家に気づかれてしまうだろう。それに、鉱山師が一箇所に留まり続けているという事実は、ただそれだけで人の想像力を刺激する。
さてどうしたものか、と氏定たちは困惑して顔を見合わせた。
まさか、こうも短期間に成果が出るとは思っていなかったので、成果が出た際にどうするか、という指示を受けていなかったのである。
資金を託された時、遠からず確認に行くから、と雲居は言っていたのだが、大友家の人間がほいほいと島津領内に入り込めるのだろうか。
そんなところに、雲居からの使者が来た。なんでも、雲居本人が大友家の使者として間もなく薩摩に入るらしい。氏定らと顔をあわせた男は、その旨を島津に知らせる途中に氏定たちのところに寄ったのだという。
無論、一介の鉱山師(と商人二人)に大友家の戦略など何の関わりもない。氏定がこれまでの成果の一部を使者に託し、次の指示を待とうとしたのは当然の行動であった。
当然でなかったのは、そんな氏定に対する雲居の返答である。雲居はすでに使者に次の指示を託していた。それは成果が出ている時と出ていない時の二通に分けられていたのだが、氏定はそこまでは知らない。
そして渡された雲居の書状に目を通し、氏定は絶句する。
ほどなく島津家の者が『氏定が発見した』鉱山の確認に行くだろうから、しばらくそこで待機しているように、という指示であった。そして、氏定がこの書状を読んだ段階で、それは『事実』になる、との文言が付記されてもいたのである。
氏定の様子を怪訝に思った連れの二人は、書状を覗き込んで同じように言葉を失う。
それは要するに、雲居が資金を出し、場所すら特定して調べさせた鉱脈の権利を、丸々氏定に譲り渡すに等しい。
同時に、書状にはそのための条件も記されていた。
といっても、それはただ一行。此方との関係――つまりは雲居の指示で動いたことを生涯口外するな、というだけである。
あまりにも話が美味すぎる。それは氏定ならずとも考えるところであったろう。
しかし、ここで氏定を欺いて雲居に何の得があるのか、という疑問の答えは杳として出てこない。氏定には地位も権力も、富も人脈もない。そんな人間を、ここまで大掛かりなことをして欺く理由が思いつかなかった。
書状の最後には、このことに伴う面倒事への対処も記されていた。まず間違いなく島津家は氏定たちを相当に厳しく取り調べるだろう。特に氏定が持つ資金の出所は必ず確認してくる。だが、幸いというべきか、氏定の友人二人は(というか本当は氏定もなのだが)商人であり、二人に出資してもらったとでも言えば、それ以上追求されることはないだろう。
いかに島津家の情報網が優れていようと、高千穂の東のはずれでほんのわずかの間、鉱山師を募っていた事実を探り当てられるはずもないのだから。
もしや友人二人を同行させたことさえ、計算の内だったのだろうか。
氏定は雲居の底知れなさを思って身体を震わせた。
使者は「もし面倒事を厭うのであれば、強いることはしない」という雲居の言葉を伝えてくれたが、熟慮の末、氏定は首を縦に振る。これが千載一遇の好機であることは誰の目にも明らかであったからだ。
氏定の返答を得るや、使者は頷いて書状の返却を請い、手にもどったそれをあっさりと火中に投じてしまった。
氏定が、本当の意味で、自分が菱刈鉱山の発見者となったことを自覚したのは、去りいく使者の後姿を見送っていた時である……
◆◆
「……一国の使者として訪れた地で、偶然に以前の知人と出会い、その者が偶然に鉱山師であり、さらに偶然、有望な金鉱脈を見つけたばかりであった。こんな話、童とて信用したりはしないでしょう」
「でも、実際にその知人さん以外の鉱山師が見ても、相当に有望だって話だったでしょ?」
大友家の家臣が、それをわざわざ島津家に知らせる必要なぞどこにもない。それどころか、敵国の財政を豊かにしてやるなど百害あって一利なしである。あえてそれを行ったところに雲居の誠意が見て取れる――などと考えていては、島津の軍師は務まらない。
歳久は言う。
「それこそ、こちらを謀る証左であるとも考えられます。そもそも、守田氏定とやらも、有望な鉱脈を見つけたのであれば、何故すぐに私たちに知らせなかったのか。それだけではありません。付近の者たちの話では、彼らが菱刈に姿を見せて、まだ一月も経っていないというではありませんか。今回の件、あまりにも時期が符合しすぎています」
歳久の疑念に、家久はあえて反論しようとはしなかった。
というより、その疑念は正鵠を射ているのだろう、と家久は判断していた。今、歳久が口にした以外にも不審な点はいくらでも挙げられる。おそらく、守田氏定を少し締め上げれば――もとい、もう少し親身に話し合えば、真相はすぐにも明らかになるだろう。
では、何故家久はそうしないのか。
それは正直確かめるまでもない、と考えているからであった。
『雲居が菱刈の金の存在を知り、それを自身を信用させる切り札として利用した』
いつ、どこで、どのように知ったのかという疑問はあるにせよ、この一事は確定だった。何故といって、歳久の言うように、雲居の言動と周囲の状況を見比べれば、すべてがあまりに符合しすぎているからである。
要するに、それ以外に考えようがない、というのが家久の率直な見解であった。
そして――妙な言い方になるが――だからこそ家久は雲居の言葉を信用した。
もし南蛮艦隊の話が偽りであり、歳久の危惧するように兵力の分散を画策しているのだとしたら、ここまでする必要はない――というより、他にやりようは幾らでもある。それこそ丸目長恵あたりを将として、相良家の軍勢を国境に配置すれば、島津家とて対処せざるを得ない。
あるいは油津を砲撃したと思われるムジカ沖の南蛮船を薩摩にまわしてもいい。坊津や、あるいは鹿児島湾に侵入して直接に内城を砲撃すれば、十分すぎるほどに島津軍への牽制になるだろう。
さらに言えば。
島津軍がムジカを攻撃するためには、伊東義祐が立てこもる佐土原城を陥とさねばならず、今の時点で相手領内の金鉱脈の存在を示唆してまで、兵力分散をはかる意味は薄いのだ。時間が経てば経つほどに情報の真偽は明らかになっていくのだから。
とつおいつ考えていけば、雲居の言動が何のためのものかも段々と見えてくる。不審にも思える数々の行動は、個として動かざるを得なかった雲居が、南蛮艦隊を退けるために、島津家の信用をいかにして得るかを精一杯に考え抜いた末のものである――その考えを家久はすでに受け容れていた。
(まあ、個としてこれだけ動けるっていうのも、それはそれで怖いんだけどね)
家久はこっそりとそう思う。菱刈の金の存在にしても、一体どうやって知ったのやら、と不思議に思うのだが、それはまあ仲良くなって追々教えてもらおうと考えていた。
そして、そんな家久の心の動きを、歳久は呆れと微笑の入り混じった、実に複雑な表情で見つめていた。
敵かもしれない相手をあっさりと信じてしまう妹の暢気さに呆れを感じ。
敵かもしれない相手をあっさりと信じてしまえる妹の強さに喜びを覚える。
そのいずれもが、歳久には持ち得ないものであったから。
家久の考えていることは歳久にも理解できる。家久の考えていることは、ほぼすべて歳久のそれと重なっているからだ。違うのは、それらを承知した上で雲居を信じるか否か、という最後の部分だけであろうか。
島津歳久は智謀の士として知られる。だから、というわけでもないのだろうが、その為人を温雅と狷介ではかるならば、狷介の方に大きく傾くのは当人も認める事実であった。
それは生来の性格でもあったのだろう。ゆえに、判断の基となる情報のない状態で他人を信じるか、疑うかの二択を迫られたのならば、後者に傾くのは必然であった。
眼前の妹のように他者を信じる強さは、自分には持ち得ないものであると歳久は自覚しており、またそれを良しともしていたのである。
しかし。
そんな歳久の自己評価を聞けば、家久は困った顔で首を傾げただろう。
家久は姉を狷介であるとは――少なくとも、それが生来のものであるとは思わない。そういった側面がないとは言わないが、それは多分に後天的な要素によるものであった。
姉たちを補佐し、妹を守り、島津の家を拡げるために、安易に人を信じ、頼るような真似は決してしてはならなかった。島津の智嚢として働き続けてきた歳久が、為人に圭角を宿すようになったのは避け得ないことであったろう。
だが、だからといって他者を信じる強さが歳久にないはずがない。
歳久と家久の違いは、ほんのささいなことに過ぎないのだが……
(それを口にしても、多分、歳姉は素直に認めないだろうからなー)
家久はそう思うと、眼前の不器用な姉の姿に微笑まずにはいられなかった。
当然、歳久はそれに気づき、目をすがめた。
「……なんですか、家久。その意味ありげな笑いは? 微妙に腹立たしい気分にさせられるのですが」
「んー、歳姉って可愛いなーって思って」
「かッ?! な、何を突然ッ?!」
「あはは、なんでもないでーす。あ、もう話は終わりでいいよね? じゃあちょっと筑前さんのところにいってこよーっと」
「ま、待ちなさい、家久! 話はまだ終わったわけでは……い、いえ、それよりあの男のところに行ってどうするつもりですかッ?!」
「それはもちろん、筑前さんの前ではいつも仏頂面の歳姉が、実はこんなに可愛い人なんですよーって教えてあげるためだよッ」
「な、なにを元気よく、とんでもないことを口走っているのですかッ! そのようなこと、許さ――」
「それじゃ歳姉、また後でねー」
「家久ッ!!」
内城の通路に家久の軽やかな笑い声と足音が響きわたり、それを追うように、やや遅れて歳久の憤慨した声と荒々しい足音が木霊する。
何事かと振り返り、あるいは室内から顔をのぞかせた家臣たちは、そこに風のように駆け抜ける二人の姫の姿をみとめ、笑いをこらえるのに苦労しなければならなかった。
◆◆◆
救荒作物。
飢饉となり、主食となる作物が打撃を受けた際に代わりとなる作物のことである。
その特性上、荒天に強く、貧困な土壌でも生産が可能な種がそう呼ばれる。中でも有名なのは――というよりも俺が知っているのは、じゃがいもとさつまいもの二つであった。
特に後者に関しては、薩摩の名を冠していることからも明らかなとおり、火山灰の降り積もるこの国の名物であった――が。
(確か、まだこの頃には薩摩に伝わっていなかったはず)
そうであれば、この情報はある意味で菱刈の金に並ぶほどに島津にとっては有用であろう。俺はそう考えていた。
とはいえ、自信をもって断言できるほどはっきりとした知識ではないし、そもそも、この世界のさつまいもの歴史が俺の知るものであるという保証もない。
越後や京、あるいは九国に来てからも、さつまいもを食べたことはないし、市場などで見たこともなかったから、この国に普及していないのはほぼ間違いないのだが、実はさつまいもそのものがこの世界にない、という可能性も捨てきれなかった。
だが、幸いというかなんというか、戚家軍の将軍殿の「甘藷(さつまいもの中国名)は好物」という発言によってその可能性は否定された。
となれば、これを活かさない手はないだろう。俺が菱刈騒動の合間に、これこのような食べ物がありまして、という話を島津側に伝えたのは、俺の話に疑念を拭えずにいる島津家の君臣に対して、わずかであれ信を植えつけることが出来るかもしれない、と考えたためであった。
金山に救荒作物。敵対するつもりの相手にわざわざその二つを教える必要はないのだから。
……そのはず、だったのだが。
「……なんで俺はこんなところで焼きいもをつくっているのだろう?」
内城の一画に立ち昇る焚き火の煙。枯葉やら枯草やらでつくった小山を棒でつつきながら、俺はしみじみと呟く。
ふと気づけば、服の両袖がかすかに灰色に染まっていた。上を見上げると、先刻まで澄明な輝きを放っていた空の青は、いつの間にか煙るような暗灰色の霧に侵されつつある。
無論、それはただの霧ではない。視界の彼方、鹿児島湾に毅然と聳え立つ桜島から降り注ぐ火山灰であった。
降灰、などという天候はこの地に来るまで見たことがなかったが、逆にこの地に来てからは珍しくもないものであった。
冬のこの季節、風は薩摩から大隅に向かって吹くことが多いのだが、もちろん逆の場合もあり得る。今日は運悪くその日にあたるのだろう。
俺は右手に持った棒の先でいもを転がしつつ、左手で服にはりついた灰を落としていく。まあこうしたって灰はすぐに積もっていくわけで、結局は気休めにしかならないのだが。
この灰と付き合って生活していかなければならないなんて、薩摩の人たちは大変だ――などと俺がやや現実逃避気味にそんなことを考えていると、傍らからいやに弾んだ声が聞こえてきた。
「筑前さん筑前さん。そろそろ良いんじゃないかな、と思うんですけど」
その声を聞いた瞬間、何故か俺の口内にいわく言いがたい感覚が満ち満ちる。何を口に含んでいるわけでもないのに。
強烈な食事というのは、やはり強烈に記憶を刺激するものらしい。味とか、噛み応えとか、咽喉越しとか。
俺は胃の方から這い上がってくる嘔吐感を平静を装って(その実、必死になって)飲み下しつつ、傍らの人物――島津家当主である島津義久に視線を向けた。
「もう少し待った方が良いと思いますよ、義久様」
「むむ、そうかな?」
真剣な眼差しで焚き火を見つめていた義久は首を傾げたが、不意に悪戯っぽい仕草で俺に一礼する。
「畏まりました、師の仰るとおりにいたします」
「誰が師か、誰が」
思わず素で突っ込んでしまう俺。料理に関して些細な助言をしたことは何度かあるが、断じて師になった覚えはない。ゆえに、試食の義務は皆が等しく分け合うべきである、と俺は熱心に主張しているのだが、生憎、誰一人として耳を傾けてくれなかった。しくしく。
ちなみに現在の俺は半ば客人、半ば囚人の身である。
諸々の確認のために大口城から内城に連れて来られて十日あまり。室内に閉じ込められているわけではないが、刀はまだ返してもらっていないし、部屋を出れば監視のために必ず小姓か女中がついてくる状態である。
もっとも、今は俺と義久の二人だけであった。義久自身がそれで良い、と家臣に言ったのである。ゆえに、すくなくとも俺の目のつくところに小姓の姿はない。
とはいえ、まず間違いなく物陰からこちらを窺っているだろう。俺が不審な行動に出れば、たちまち飛びかかってきて、取り押さえられるに違いない。
だから義久が護衛の一人も連れずに俺とこうして話していても特に危険はないのだが――
「それでも無用心だと思うんですが?」
どこかおっとりした観のある義久に、俺は忠告まじりにそう言ってみる。刀がなくても、人を殺める手段はあるし、人質とすることも出来る。
無論、俺にそんなつもりはないが、料理の試食だの、焼きいもをつくるだのといった用事の度に、島津の当主が単身で訪れるのは、やはりなんか違うと思わざるを得ないのである。
しかし。
「大丈夫、大丈夫。私の料理を食べてくれる人に悪い人なんているわけないよ」
「……なんとも返答に困る断言ですね」
大口城での俺の料理批評がよほど堪えたらしく、義久はこのところ料理の修業に精を出しているらしい。
当初、島津の家臣たちはそんな義久を真っ青になって止めようとしたようだ。特に台所を任された者たちの顔は相当に悲壮なものであったという。
しかし今では、おそるおそるではあるものの、そんな義久の行動を皆が黙認しているとか。それどころか、爆発がなくなったのは大した進歩だ、と手を叩いて主君の成長を寿ぐ者もいるそうな。
……まあ、ほとんどが家久経由で聞いた話だから、どこまで本当か知らんのだが。しかし少なくとも、出される料理の野菜の皮が剥けていることは確かな事実であった。
とはいえ、肝心の味の部分は……まあ、察してほしい。義久ならずとも、十日やそこらで劇的に料理の腕があがるわけもないのだが、味見をして(そこは確認した)この料理が出来るということは、やはり義久の舌に異常があるのではないか、などという失礼きわまりない推測を俺は温めているのだが――
(それにしては、焼きいもは普通に美味しいって言うんだよなあ)
ほどよく焼けたさつまいもを頬張りながら、頬を綻ばせる義久を見て、俺は首を傾げざるを得ない。
義久はそんな俺をみて首を傾げる。歳こそ離れているが、そんな仕草は家久と良く似ていた。やはり姉妹というべきだろうか。
しかし、今の島津家、特に主だった地位にある者たちはかなり多忙であるはず。その主要な原因をもたらした俺が言うのもなんだが、当主がこんなところでいも食ってていいのかしら。
そんな俺の疑問に、義久が答えていわく。
「政治も戦も外交も、妹たちや家臣たちに任せた方が絶対、確実、完璧にうまくいくんだから」
だから任せる、ということらしい。
島津のみなさんの日ごろの苦労を思って、俺はおもわずほろりと涙をこぼすところだった――その涙は、続く言葉で未然に防ぎとめられたが。
「だから、私はででんとみんなの前で構えて、みんなに任せたことの責任をとるのがお仕事なんですよ」
「……なるほど。これは不心得なことを伺ってしまったようです。申し訳ありませんでした」
「ん? 別に筑前さんは謝るようなことは何も言ってないと思うんだけど??」
そう言って不思議そうに目を瞬かせていた義久の顔が、不意にひきつった。
なんだ、と俺が疑問に思う間もなく耳朶を震わせたのは、遠雷の如く轟く重低音。
「……姉上の仰ること、私も同意いたします。謝るべきは雲居殿ではなく、政務を投げ出しておいて、のんびりと焼きいもを食している姉上の方でございましょう」
「うおおッ?!」
俺は驚きのあまり、慌ててその場から飛び退る。何故といって、その声は本当にすぐ近くから聞こえてきたからであった。
振り向いた俺の視界に映ったのは、満面の笑みを浮かべつつ、こめかみを引きつらせた鬼島津の姿。義弘は足音どころか気配さえ秘して接近していたものらしい。
俺を警戒して――ではなく、姉をひっとらえるために。
「あ、や、やっほー、弘ちゃん」
「姉上、以前も申し上げましたが、他家の者や家臣がいるところで、そのちゃん付けはおやめください。島津の威信が下がります。よろしいですね?」
「えー、でも呼びなれた名前の方が親しみが感じられていいじゃない。弘ちゃんだって、お姉ちゃ――」
「いいですね!」
「うう、弘ちゃん、怖い……」
「こうでもせねば姉上はいつまで経ってもそのままではありませんかッ。今だとて、あれだけ口をすっぱくして申し上げたというのに、こうして政務を抜け出しておられる」
「抜け出したんじゃなくて、ちょっと休憩しようかな、と思ったのよー」
「……今現在の敵国の方のもとをおとずれ、いもを焼いてもらうのが姉上の仰る休憩ですか?」
「うん、ほら弘ちゃんも好きでしょ。焼きいも」
そう言って、持っていたいもを差し出す義久。
説明が遅れたが、今、俺が焼いているさつまいも=甘藷は、国内で栽培こそされていなかったものの交易はされていた。
坊津の商人の一人にえらく甘藷好きな人物がおり、その人に頼んで譲り受けたものが、内城に運び込まれたのである。
それでまあ、どうやって食べるのか、と訊かれた俺が一番ポピュラーな調理法たる焼きいもを実演してみせたのだが――
これが大うけした。
甘味に乏しい時代にあって、焼きいもの仄かな甘みとほくほくした触感は、島津家の人々の感性をクリティカルに刺激したらしい――もとい、島津家のみならず、吉継や長恵も同様だった。
俺としては救荒作物としてさつまいもの情報を提供したつもりだったのだが、なんだか嗜好品みたいな扱いにされている。
そんな状態で、この作物が薩摩の土壌に適しているかもしれない、と言ったものだから、今やそっちの方面でも大騒ぎが起きていたりするのである。
鬼と恐れられようと、義弘もまた一人の女性。焼きいもの魅力には抗しがたいらしく、義久の差し出したいもを見て、一瞬――ほんの一瞬だけ義弘の目が輝いたような気がした。
しかし、さすがは鬼島津、すぐに動揺から立ち直ってみせる。誘惑を払うように義弘が小さくかぶりを振ると、わずかに灰が積もった髪が揺れた。無粋な灰さえ降っていなければ、義弘の見事な黒髪を間近で鑑賞できたのになあ、などと俺が考えている横で、姉妹の言い合いは延々と続いていた。
「そ、それとこれとは話が別です。姉上、話を逸らそうとなさっても、そうはいきませんよッ」
「えーん、弘ちゃんが怒るー」
「姉上ッ! もう童ではないのです。島津家当主としての自覚と責任をもっと――」
「大丈夫よー、弘ちゃん、歳ちゃん、家ちゃんっていう立派な妹が三人もいるんだし、家臣の人たちも頼もしい人ばっかり。当主が少しくらいぼんやりしてても、島津の家は小揺るぎもしないんだから」
「私を立派と評していただけるのはまことに光栄ですし、妹たちの優秀さに関しては今さら口にする必要もございますまい。そして島津家が家臣に恵まれているとは、私も常々感じているところ。ゆえにこの義弘、姉上の仰ったことに心から同意いたします――ただし前半だけ」
「でしょう――って、あれ、前半だけなの?」
「当たり前ですッ! 一族や家臣が優秀だからといって、当主がぼんやりして良いなどという法がどこにありますかッ!」
……これはしばらく続きそうだな、と判断した俺は、注意を姉妹から焚き火に戻すことにした。
あと三つばかり焼いているので、その一つを差し出せば、義弘の怒気を多少なりとも緩めることが出来るかもしれない。
ちなみに残り二つに関しては、今こうしているうちにも段々とこちらに近づいてきている様子の、もう一組の姉妹の分になるものと思われた。