薩摩国 一宇治城
かつて薩摩島津家の居城であった一宇治城は、十を越える大小の曲輪に囲まれた堅固な造りをしており、守ることに主眼を置いた典型的な山城である。
ただ一方で、政務を執るにはいささかならず不便な点が散見された。先の当主である島津貴久が、薩摩の中部から南部を平定した後、居城を内城に移した理由の一つはそこに求められるであろう。
政治の中枢から離れてしまった一宇治城であったが、島津の統治を支える重要な拠点であることにかわりはない。くわえて、多少の難があったとはいえ、十年以上にわたって島津家の居城であったこの城には、政治や軍事を滞りなく進めるための工夫が今なお残されている。
内城を一時的に放棄することを選んだ島津軍が、この城を根拠地としたのは当然すぎるほど当然のことであった。
大谷吉継はその城内の一角に部屋を与えられ、そこを起居の場としていた。
形の上では人質の身であり、軟禁されていることになるのだが、実際はといえば、城内の移動は吉継の随意であり、囚われの身である実感はほとんど湧かない。さすがに監視の人間は付いていたが、彼らのほとんどは吉継に好意的であったから尚更である。
「……この身は敵国の使者、くわえて病の身でもあるのですけれど」
過ぎた厚遇に対し、吉継が頭巾の隙間から戸惑いとも呆れともつかない呟きをもらすと、対面に座っていた少女がかすかに苦笑して応じた。
「久ね――義久姉上の件ではずいぶんとお世話になりましたから。あの脅威を取り除いてくれた方のご家族を粗略に扱うなどとんでもない、とみな口々に話しています」
冗談めかしてはいたが、その少女――島津歳久の目には意外に真剣な光が浮かんでいた。
それを見た吉継は、島津家の今代当主の趣味はよほどに家臣を困惑させていたらしい、と苦笑を浮かべ――ようとして、その実物と匂い――というか臭いを思い起こし、あわててかぶりを振った。
世の中には冗談として扱って良い物と悪い物がある。義久のそれは疑いなく後者であった。
歳久も吉継と同様の心境だったのだろう。
こほん、とややわざとらしい咳払いをした後、すぐに話題を転じた。
「ともあれ、今伝えたとおり緒戦はこちらの勝利。あなたの父君も、丸目殿も無事とのことです」
歳久の言葉に、吉継はかすかに俯いた。その口からは、ほう、と小さく安堵の息がこぼれでる。
「それは幸いでした。お義父様はああ見えて猪突というか、好戦的な人ですし、長恵殿はそれを止めるどころか微笑んで見守る為人。無茶をしないかと心配だったのです」
でも、無事で良かった。
そう言って胸をなでおろす吉継を見て、歳久は意外そうな表情を浮かべた。
「好戦的、ですか?」
歳久は雲居に対してその印象を持ったことはなかった。というより、むしろまったく逆の捉え方をしていただけに、歳久は吉継の言葉を看過することが出来なかった。
敵を知り、己を知らば、とは古の兵法家も諭すところである。今現在は手を組む形となっているが、雲居が大友家に仕えている事実が消えてなくなるわけではない。それはつまり、この戦が終わった後、敵として相対するかもしれぬということである。その情報を得る機会を逃がすべきではなかった。
わずかに瞳の光を強めた歳久を見て、吉継は相手の思惑を半ば察した。
だが、吉継は特に気にする素振りも見せず、あっさりと口を開く。隠す必要はないのだ。一度でも戦場を共にすれば、大体の人が気づく程度のことだから。
「筑前国の戦いでは制止するのに苦労しました。お義父様は作戦はたてるときは慎重すぎるほど慎重なのですが、いざ戦場に立つと危険をかえりみずに前線に立ちたがるのです。それが将たる者の務めだ、といって」
「それは……見上げた心意気、と言うべきではありませんか」
「確かに、将兵の士気を高めるという点では有効です。戦がはじまっても、矢玉の飛んでこない後方で居竦んでいる輩とは比べるべくもないほどに」
しかし、と吉継は嘆息する。
「周りの者たちは気が気ではないのです。長恵殿並の武勇の持ち主であるというならともかく、お義父様はそうではありません。戦のたびに輿にのって前線に立つ立花道雪様もそうなのですが、どうしてこう大友家には無茶をする武将が多いのか。おかげで由布様や私が要らない苦労をすることに――」
そこまで言うや、不意に吉継はぴたりと口を噤んだ。
そして、先刻の歳久と同じようにわざとらしい咳払いをする。いつの間にか愚痴になっていることに気づいたのだろう。
その吉継の姿を見て、またここまでの話を聞いて、歳久はそこはかとない共感を覚えていた。
歳久は歳久で、姉の義久に苦労させられていたからである。
吉継も吉継で、歳久が抱いた共感と似たものを感じていたらしく、なんとも言いがたい微妙な沈黙が室内に満ちた。二人の視線をあえて言語化するならば、お互い大変ですね、といったところであったろうか。
その時、沈黙を破るように障子の外から雨音が響いてきた。
はじめ、雨足はぽつぽつと緩やかなものであったが、ほどなく勢いを強め、よりはっきりとした雨滴の音が、吉継と歳久の耳朶をうちはじめた。
(降り始めましたか)
歳久は内心でそう呟いた。
朝方から雲の多い天候であったが、とうとう本格的に降り出したようであった。
薩摩の雨は黒い――歳久は以前、他国の人間からそんなことを言われたことがあった。滅多に薩摩から出ない歳久に実感は薄いのだが、薩摩の外から来た者たちは大なり小なり似たような感想をもらす。
無論、本当に黒色の雨が降るわけではない。他の地域に比べて、多少雨の色が黒ずんでいる、といった程度であろう。あるいは雨に濡れた衣服や建物が黒く汚れてしまうことも、外様の人間がそう感じる理由の一つになっているかもしれない。
これは桜島の火山灰が雨に混じることで起こる現象であり、それゆえに歳久もあまり雨が好きではなかった。とくに出かける用事がある時は。
しかし、いつ雨が降り出すかなど、人の身には知りようもないことである。もっとも山での狩猟や、海での漁を生業とする者の中には、雨の気配を感じとり、あるいは時化を読む者もいると聞くが、それとて長年の経験と勘なくして不可能な業であろう。
それゆえ、島津の智嚢たる歳久であっても、雨と用事がぶつかってしまえば、ため息まじりに諦めるしかないのだが――実のところ、この雨の到来は予測されていた。それも今朝方や昨日の話ではなく、三日も前から。
それを為したのが、まさに今歳久の前にいる頭巾姿の少女であった。
吉継の天候予測は偶然の産物ではありえない。吉継は今日にいたるまで、その精度を幾度も証明してみせており、はじめは疑いの眼差しを向けていた歳久も今では信じざるを得なくなっていた。
作戦計画に組み込めるほどの的中率を誇る吉継の天候予測、その技能の有用性はことさら述べるまでもあるまい。農政に戦に、活用すべき局面はいくらでも存在する。
歳久から見れば、大谷吉継という少女は、南蛮侵攻を予測した雲居筑前に優るとも劣らない脅威であった。
知る術のないはずの物事を知ることが出来る者たち。どちらか一人であっても厄介極まりないというのに、それがどうして義理の父娘として一緒に行動しているのか。さらには父娘ともども大友家の使者となって島津家を訪れたのか。
歳久にしてみれば、今回の戦いで南蛮軍に勝ったとしても、それでめでたしめでたし――で終えるわけにはいかない。戦乱の世はそこまで甘くも優しくもない。南蛮軍を退け、国力が減退したところに他国の侵入を招けば、たちまちのうちに島津家存亡の危機に陥ろう。
そして、その『他国』が大友の名を冠していないという保証はどこにもないのである。
雲居がそれを目論んでいる、と歳久は本気で疑っているわけではない。しかし、たとえ雲居にその意図がなかったとしても、状況次第で戦局がどう転ぶかは誰にもわからない。
であれば、予想しうるあらゆる状況に備えておくのが軍師の務めというものである。
それはすなわち、雲居や吉継が敵にまわることを想定し、それに備えておくということであった。
歳久としては頭痛の種に事欠かない今日この頃なのである。
無論、歳久とて今の戦況は承知している。南蛮軍が攻め込んできた今、要らぬ不審を撒き散らし、内に敵をつくるほど愚かではないつもりであった。
それどころか、出来うべくんば吉継を島津家に招きたいとすら歳久は考えていたのである。吉継が一宇治城に残った理由は幾つもあるのだが、その一つに歳久が誘降の可能性を探るため、という理由も存在した――もっとも、そちらに関しては見込みはなさそうだ、と早々に見切りをつけていたのだが。
歳久が襖を開けて外の様子を見てみると、雨はすでにかなりの勢いで降り出していた。
雨が降れば銃も大砲も思うようには扱えず、忍び寄る敵軍の足音をもかき消してしまう。軍隊――ことに鉄砲隊を主力とする軍にとって、雨は利よりも害の方がはるかに多い。
くわえて、南蛮軍にとっては上陸以後、はじめての薩摩の雨である。
灰色に染まった雨滴は、鎧や衣服を醜く汚し、その感触は将兵にとって不快を催すものだろう。
地面につもっていた火山灰は雨に溶けて泥濘となり、将兵の足を絡め取って進軍を妨げる。
いずれも南蛮兵の誰一人として体験したことのない状況である。戸惑いは多かろう。
とはいえ、先鋒部隊を失った南蛮軍が雨程度で退くとは考えられない。むしろ敗北の恥を雪ぐためにも更なる攻勢に出てくるのは必定であった。
ただでさえ重武装の南蛮兵が、冷静さを欠いた状態で不案内な雨の山中に足を踏み入れる。
これを好機と呼ばずして、何を好機と呼ぶのだろう。
吉継と歳久は期せずして同時にそう考え、それぞれの胸に異なる人物を思い浮かべながら、彼方の戦場に思いを馳せるのだった。
◆◆◆
重い甲冑をまとい、険しい斜面を登っていた兵士の一人が、不意に罵声を張り上げながら目を拭った。降り注ぐ灰色の雨の雫が目に入ったのであろう。
ひりつくような痛みに、たまらず兵士は毒づく。
「くそ、甲冑どころか身体さえ腐っちまいそうだ。本当にこの雨、毒はないんだろうな?」
「コエリョ様の言葉を疑うつもりか? それに毒の雨が降るような場所に人が住めるはずないだろうが」
応じる声も刺々しさを隠しきれていなかった。
苛立っているのは、その兵士だけではない。多少の違いはあれ、南蛮軍の将兵すべてが現在の状況に不快を感じているのである。
自軍に倍する敵軍と戦っても怯まぬ南蛮兵であったが、悪天候と険阻な地形を前にしては為す術がない。
彼らが誇る鉄砲も大砲も、雨だの山だのといった自然を前にしては何の役にも立たない。それどころか、かえって行軍の邪魔になるばかりであった。
不幸中の幸いというべきは、敵軍の襲撃がなかったことであろう。
つい先日までは執拗に襲撃を繰り返してきた敵であったが、南蛮軍の先鋒部隊が敗れてからというもの、ぴたりと姿を見せなくなっていた。
先鋒部隊を撃ち破り、士気を高めた上で篭城に移ったのか。予期せぬ驟雨で敵も動きがとれずにいるのか。あるいは、それ以外に何か理由があるのか。
南蛮軍の指揮官たちは様々に敵軍の動きを推測したが、答えは杳として出てこなかった。
実のところ。
士気だけを見れば、先鋒部隊の敗北後も南蛮軍将兵のそれは依然として高い。むしろ先鋒部隊の敗北を知った本隊の将兵は、自軍の油断と無様を苦々しく思うと同時に、今頃勝ち誇っているであろう小癪な敵に対し、今度こそ鉄槌を喰らわせてやろうと勇み立ったほどであった。
だが、その戦意も悪天候で水を差された形となり、さらに不案内の山中をいつ襲ってくるともしれぬ敵軍を警戒しながら進まなければならないとあって、南蛮軍の動きは重く、鈍くなる一方であった。
いっそ敵があらわれてくれた方がすっきりする――そんな思いを抱く兵も少なくなかったのである。
南蛮軍の本陣でも、ニコライがわずかに顔をしかめつつ、髪から流れ落ちてくる雨水を手で拭っていた。
「天候までが敵にまわるとは厄介なことです。もっとも、それは敵にとっても同じことでしょうが」
雨が降れば銃兵、砲兵は使えなくなるが、相手にとっても条件は同じである。
おそらく島津軍は、勝勢にのって一気に決着をつける心算であったろう。そうしなければ、南蛮軍に立ち直る時間を与えてしまうからだ。
その意味で、南蛮軍にとって不快きわまる驟雨は、島津軍にとっても厄介なものであるはずだった。
先鋒部隊の生き残りによれば、島津軍は質、量ともにこちらの予想を越える鉄砲を保有していたという。
それはつまり、島津軍の情報をもたらしたコエリョら宣教師たちと、その情報を分析したニコライら南蛮軍の双方が、まんまと島津軍に欺かれたということ。
南蛮軍は情報戦において完全に相手の後手にまわってしまった。その結果が先の敗戦に繋がったことを、ニコライは認めざるを得なかった。
だが、いってしまえば、それはただそれだけのことである。
一度の敗北は一度の勝利で償えばいい。島津軍は戦えば戦うほどに、勝てば勝つほどに奥の手を晒していく。種がわかった手品に驚く者がいないように、奥の手を晒した軍隊に脅威はないのである。
「もはや出来る限り損害を少なくして――などとは言いません。それが出来る相手ではないことは理解しました。緒戦でこれだけ叩かれるとは予想外でしたが、それがわかったことは大いなる収穫。これよりは全力をもってあなたたちと戦いましょう。油断せず、過信せず、持てる戦力のすべてを投入して、ね」
そのための手を、ニコライはすでに打っている。
ゆえに後は緒戦の屈辱を雪ぐべく戦うだけである。敵がまだ切り札を持っているのならば、そのすべてを晒させて見せよう。
ニコライがそう考えた時。
不意に雨の音が変わった。より正確に言えば、雨の音に別の音が混じったのである。
それは宙空を裂いて飛来する無数の矢の音であった。
「敵襲! 敵襲だぞッ!」
「うろたえるな! 陣形を崩すな! 乱れれば敵の思う壺だぞ!」
「槍兵部隊、前進せよ! 銃兵は楯を掲げ、クロスボウ部隊は応射だッ! 矢が飛んでくる方向に向けて撃ち続けろ! あてようと考えるな、敵に自由に撃たせなければそれでよい!」
将兵の声が交錯する中、飛来する矢は南蛮兵に向けて次々と降り注ぐ。しかし、もともと重装備の槍兵部隊に被害はほとんどない。先の戦闘では多くの被害を出した銃兵や弩兵も、報告をうけてすでに対策はとっている。一部の部隊で多少の被害が出たが、それも全体的に見れば微々たるものであった。
「ご報告いたしますッ! 西の山陰より、敵軍およそ六百、突っ込んできます! いずれも徒歩!」
「迎撃してください。しかし、通達しておいたように、敵が退いても決して追撃はしないように。彼らは偽りの敗走をもって敵軍を誘い込むことを得手としているようです。逆に言えば、こちらが陣形を保ち、整然と進軍すれば手も足も出ないということ。二度までもしてやられるつもりはありません」
「ははッ!」
「敵が寄せてきていない側の指揮官にも再度通達。ここは敵の庭、どこに新手が潜んでいるとも知れません。陣形を乱さず、決して独断で動かぬように」
「承知いたしました、伝令、出ます!」
指示を伝えるや、ニコライは腰の剣に手を伸ばす。甲冑が揺れ、ニコライの耳に鈍い金属音がかすかに響いた。
その音に耳をくすぐられながら、ニコライは小さく呟く。
「切り札たる銃兵が使えないのは痛手でしょう。まだ何か秘めているのなら、見せてもらいましょうか。ないのであればここで終わりですが、さて」
そう言って、南蛮軍先遣隊を率いるニコライ・コエルホは、口元にそれとわからないくらいかすかな微笑を浮かべるのだった。
◆◆
「堅実だな。昨日の部隊とはえらい違いだ」
眼下で繰り広げられる戦闘を眺めながら、俺はそうひとりごちた。
南蛮軍は二千、新納忠元が指揮する島津軍は六百。数の上では三倍近い差があるが、平野とは異なり、険しい山間の地形では正面に展開できる兵力に限りがある。南蛮軍二千のうち、前線で島津軍と刃を交えることが出来るのは精々二百から三百というところであった。
無論、偶然そうなったのではなく、忠元が巧妙にそういう地形を選んで仕掛けた結果である。
それゆえ現在のところ、兵力差はさほど戦況に反映されてはいなかった。
時が経てば、兵力に劣る影響は如実にあらわれてくるであろうが、戦闘が始まってまだ四半刻。今しばらくは互角の形成を維持することができるだろう。
あるいは天候が回復し、鉄砲や大砲が使える状態になれば、火力に優れる敵軍は後方からの攻撃で島津軍を追い詰めることが出来るかもしれない。
しかし、雨はいまだ止む気配はなく、両軍の将兵を灰色の雨滴が覆い続けている。当分の間、銃兵、砲兵は身を守ることしか出来ないだろう。
それはすなわち、南蛮軍二千の中で七百近い兵力が戦闘に参加できないことを意味する。
一方の島津軍はこの天候が夜半まで続くことを『知って』いた。
ゆえに鉄砲隊は帯同しておらず、島津軍の兵力は槍と弓、そして騎馬のみであり、その点でも南蛮軍との実質的な兵力差はわずかに縮まる。
このうち、槍と弓は忠元が率いて南蛮軍と矛を交えており、騎馬部隊の方は家久が率い、この場で戦の様子をうかがっているのである。
俺の傍らで馬に跨っていた家久が、俺に同意するように頷いてみせた。
「正直、もっと攻めてくると思ってたけどねー。昨日の屈辱、晴らさでおくべきかッ、みたいな感じで」
「はい。敵の指揮官はよほど冷静な人物のようですね」
さすがに猪突猛進してくれると期待していたわけではないが、正直、ここまで堅実な指揮をしてくるとは思わなかった。
忠元は槍隊と弓隊の反復攻撃によって南蛮軍に出血を強いているのだが、これに対して南蛮軍は、統一された指揮系統の下で整然と対応し、被害を最小限にとどめている。
両軍のせめぎ合いは尚しばらく続くだろう。騎馬隊を投入することで南蛮軍の陣形を乱したいところなのだが、今の南蛮軍にはその隙が見当たらない。
この場にいる騎馬隊はおおよそ百。力づくで敵陣をこじ開けることは不可能ではないが、それをすれば騎馬隊の被害も無視できないものになるだろう。
かといって、無策のまま戦況が推移すれば、兵力にまさる南蛮軍が有利になっていくは必定である。そして雨が止めば、無傷の銃兵部隊が動き出す。
そうなる前に、島津軍はどこかで損害覚悟の攻勢に転じなければならない。不利な状況で無理押しをすれば致命的な損害を被りかねないが、それを恐れて立ち竦んでいれば、より確実な敗北が待ち受けているだけなのである。
選択肢と呼ぶことさえ躊躇われるような答えのわかりきった二者択一は、彼我の戦力差が反映された結果であった。南蛮軍が驕りを捨て、冷静になってしまえば、たとえ天候を味方につけていてさえ両軍の戦力はこんなにもかけ離れているのである。
南蛮軍の指揮官は精確にそれを把握している。眼下の戦場を見るだけで、そのことは明らかすぎるほど明らかであった。
家久の言葉ではないが「神の栄光のために死ねやものども!」みたいな相手であれば、先日と同じように釣り野伏で険阻な地形に誘い出し、落石、落木で痛めつけた後、総攻撃を仕掛けるという手段も採れたし、実際、その準備はしているのだが、今の南蛮軍の様子を見るかぎり、偽退に引っかかるとは思えなかった。
家久もまた同じように考えていたらしい。その口から発せられた言葉は、あたかも俺の内心を読んでいたかのようであった。
「この様子だと、後方で伏せている兵も忠元に合流させた方が良さそうだね」
家久はそう言うと、騎馬の一人を伝令として差し向けた。
後方の兵はおおよそ三百。忠元の六百とあわせても千に達しないが、それでも援軍の存在は島津軍を勇気付けるだろう。
しかし、逆に言うと、これでもう一宇治城までの道に守備兵力は存在しない。
この戦で島津軍が敗れた場合、城に残っている歳久直属の二百名の兵が最後の砦ということになる。
元々、一宇治城の兵力は二千に届かない程度しかいなかった。くわえて、これまでの戦闘で死傷した将兵は少なくない。家久と忠元が主力を率いて出てしまえば、城に残る兵力がごくわずかになってしまうのは避けられないことであった。
とはいえ。
内城を放棄し、かりにも一国の中心となった城がなんでこんなに手薄なのかという疑念は当然のものであろう。
義久と義弘が各々一万の軍勢を率いて国を出たため、本国たる薩摩が手薄になったのは事実である。だが、それはある意味で陽動のようなもの。実際、この二つの軍は兵の数こそ多かったが、兵の錬度、鉄砲の数、ともに大したものではなかった――あくまで島津家を基準とすれば、の話であるが。他国からすれば、それでも十分な脅威であった。
ともあれ、遠征軍から削がれた分の力は当然のごとく薩摩に集中している。
薩摩の守備兵力はおおよそ五千。兵の錬度、火力、いずれも島津軍の最精鋭と呼ぶに相応しく、それを率いるのは歳久、家久を筆頭として新納忠元、鎌田政年、山田有信、梅北国兼、川上久朗ら薩摩島津家を支える勇将たちである。
彼らが総力をあげて南蛮軍に挑んでいれば、決着はとうの昔についていたかもしれない。
しかし、現在、南蛮軍と対峙しているのは家久と忠元の二人のみ。兵力も千と数百というところである。歳久は一宇治城を守っているから仕方ないとしても、他の武将と兵力はどこに消えたのか。
答えは簡単である。
彼らは南蛮軍が異なる場所に上陸した時に備え、薩摩の各地に散っていたのだ。
ことに貿易港でもある坊津、あるいは薩摩北西部に位置する京泊(きょうどまり)の港は西海に通じており、南蛮軍がこちらに兵を向ける――あるいは南蛮軍の規模によっては兵を分けて襲来してくる可能性があった。余の軍勢はそれに備えているのである。
ことに俺が気にかけたのは京泊の港であった。京泊は、博多津や坊津には及ばないが、薩摩はおろか九国でも屈指の要港であるといえる。島津の水軍の根拠地でもあり、なにより坊津よりも平戸に近い。
平戸をおさめる松浦隆信が南蛮神教に好意的であるのは周知の事実である。兵糧や水、あるいは火薬や弾丸、矢といった軍需物資の補給に万全を期すために、南蛮軍が京泊の占領を目論む可能性は決して低くなかった。
幸いというべきか、すでに松浦家は竜造寺家によって滅ぼされており、京泊を占領する利点は大きく殺がれているが、南蛮軍がその情報を持っているとは限らず、さらに言えば情報を持っていたとしても占領を断念するとは限らない。
無論、それ以外の地点から上陸してくる可能性も捨てきれぬ。
かくて、島津軍は薩摩各地の拠点に散らざるをえなかったのである。
「まあ、そんな状況だから俺が駆り出されたわけだが」
仮にも大友家の将である俺を用いるなど、思い切った人事と言わねばならない。というか、常であれば決してありえない人事であろう。
だが、眼前の状況はそれをしなければならないほど切羽詰っていた。そういうことなのだろう。
――島津家の君臣が殺人的な多忙さでてんてこ舞いになっている時、俺がのほほんと下手な笛を吹いていることに彼らがきれたとか、そういう理由ではないのである。決して。きっと。たぶん。
「段々と確信が薄れていってるよ、筑前さん」
「仕方ありません。こればかりは完全に予想外だったもので」
家久の突っ込みに、俺は肩をすくめる。
まあ予想外といえば、そもそもここまで島津家に馴染むことも予想外だったのだが。
内城の広間で向かい合う俺と島津の君臣。冷たい雰囲気の中で丁々発止のやりとりを繰り広げ、その中で何とかして島津家の指針を南蛮艦隊の襲来に備えるという方向で定めていくことになるだろう――そんな俺の予想は見事なまでに外れた。
その端緒となったのは何なのか、と考えてみる。すると、わざわざ城外まで使者を出迎えに来てくれた末姫殿の笑顔が思い浮かんだ。
俺の視線に気づいたのか、家久が小首を傾げる。
「ん? どしたの、筑前さん?」
「……いえ、何でもありません。失礼しました」
その返答に、家久はきょとんとした顔で目を瞬かせる。
俺はやや慌てて話の接ぎ穂を探したが、咄嗟に何も出てこない。
すると、次に口を開いたのは長恵だった。
別に俺にたすけ舟を出そうとしたわけではなく、戦場の只中でのんびりと話をしている俺と家久の行動を不思議に思ったのだろう。こう問いかけてきた。
「あの、師兄、このようなところで話し込んでいてよろしいのですか? 先ほどの話をうかがえば、時が経てば経つほどに南蛮軍が優勢になってしまうのでしょう?」
うむ、まったくそのとおり――と言いたげに、周囲の騎馬武者たちもこくこくと頷く。彼らも俺と家久の様子に違和感を禁じえなかったらしい。
俺は長恵に頷いてみせた。
「そうだな。これが戦戯盤の勝負だったら、もう詰みだ。南蛮の指揮官の目論見どおりにな」
「戦戯盤であれば、ですか?」
長恵がその意味を解しかねたように、頬に手をそえる。
応じたのは家久だった。
「そうそう。駒は人の兵士と違って食べないし、疲れないし、考えないし、なんでも言うことを聞くからね。指し手が落ち着けば兵も落ち着くし、指し手が油断しなければ兵も油断しない。でも、実際の戦場ではそんなことはないでしょう?」
「ふむ、それは確かに」
長恵は頷いた。
「筑前さんが言ったとおり、南蛮軍の指揮官は堅実で隙がないよね。昨日の敗戦で驕りを捨てて、しっかりと配下の手綱を締めなおして、冷静に戦いを進めている。このままなら私たちは負けちゃうかもしれない。けど――」
「将自身はともかく、兵たちはそこまで堅実ではない、と?」
「そそ。ただでさえ何ヶ月も船に揺られて遠い異国にやってきて。おもーい鎧をつけて、山がちな道を登ってはおり、登ってはおり。夜は鉄砲の音で良く寝ることもできないで、やっと戦えたと思ったら罠にはまって、こてんばんにしてやられて。おまけにこの雨の中を、また登っておりて、戦って。普通の兵士さんたちにはきついんじゃないかな?」
家久の言葉に、俺も自分の見解をつけくわえた。
「驕りや油断は連中の信仰やこれまでの勝利に根付いた感情だからな。それをあっさり払い落とせるような賢明な奴はそうそういないだろう。自分たちに敵はいない――そう心底信じているのに、正面からぶつかって、じき半刻だ。そろそろ南蛮兵たちも苛立ってる頃だろうな」
家久はこくりと頷くと、戦場に視線を投じた。
「こんなはずじゃないのにってね。その戸惑いは隙になるよ。私たち島津にとっては、この戦いは自分と家族と故郷を守るための戦いだもん。勝って当然、なんて考えて戦っている人たちとは、そもそもの覚悟からして違うんだよ。忠元もそれをわかってるから、今は鎬を削るように見せかけながら、力を溜めてるの」
あっさりと、それでいて深い確信を込めて断言する家久。
幼い外見には似つかわしくない言葉だったが、戦将としての家久の能力を知る長恵は、なるほど、と素直に感心して頷いた。
だが、ふと何事かに気づいたようで、小さく首を傾げる。
「しかし、敵将は気づかないのでしょうか?」
「気づかない、というよりは気づけないだろうな」
俺が口をはさむと、長恵は怪訝そうな表情を浮かべた。
「気づけない、とは?」
「戦えば勝ち、攻めれば取る。そんな勝ち戦ばかり続けていれば、どうしたって学べないものがある。南蛮軍の指揮官はかなりの人物だと思うが、それでも、な」
能力ではなく、経験の不足。
南蛮軍の指揮官は、将帥としてはかなりの素質を秘めていると思われるが、今のところ場数の不足が将器の拡大を妨げているように思える。
俺がいうところの場数は、火力で相手を蹂躙する戦いに慣れた南蛮軍では決して積めない類のものだ。
自軍に優る数の敵軍と相対した時、どうすれば良いのか。
自軍ではとても及ばない敵の精鋭部隊と戦場で矛を交える時、何をしなければいけないのか。
敗色濃厚な戦場にあって、兵士たちの士気を高めるためには何をすべきなのか。
苦戦も敗戦も知らない軍隊にいれば、それらに対処する術など学べないのは当然のことであった。
「師兄はそういった経験を豊富に積まれているのですか?」
何気ない長恵の問いに、俺は遠い目をして応える。
「……初陣からして、そんな戦の連続だったからなあ」
柿崎景家率いる騎馬隊とか。上杉謙信率いる精鋭部隊とか。今おもえばよく生き残れたもんである。
九国に来たら来たで、一兵卒に扮して敵城に忍び込んだり、休松城では四倍近い敵軍に囲まれたり。敗戦はともかく、苦戦だの辛勝だのといった経験は枚挙に暇がない。この一点において、俺は南蛮軍の指揮官に優ると断言できる。まあ、自慢になることではないのだが。
ただ、見方をかえれば、この戦いは名も知らぬ南蛮軍の指揮官にとって貴重な戦訓となり得るということでもあった。
ここで逃がせば厄介な敵になるだろう、この相手は。
かなうならば討ち取ってしまいたいが、それを目的の一つとしてしまえば、島津軍の作戦行動に無理が生じてしまうかもしれない。その結果、戦自体の勝敗に影響が出る可能性もあるだろう。
ここは変に欲を出さず、ただ南蛮軍を撃退することに集中しよう。仮に敵将を逃がしたとしても、陸戦の本隊を叩いておけば南蛮軍の脅威は激減する。実戦力の半ばを失えば、採り得る作戦行動がごくごく限られてしまうからである。
その時、眼下から一際大きな喊声があがった。
ここまで島津軍は槍と弓の反復攻撃に終始し、相応の成果をあげていたのだが、ある意味で単調な攻撃ゆえに対応するのも難しいことではなかった。
忠元は南蛮軍が此方の攻勢に慣れた頃合を見計らい、不意にそのリズムを崩し、前衛を突出させたのである。
俺たちの耳に届いたのは、その際の喊声であった。
新納忠元みずから率いるその突撃は、これまでの攻勢とは一線を画した猛攻であり、その圧力を真っ向からうけた南蛮軍の重装槍兵部隊は混乱を余儀なくされた。
南蛮軍の板金鎧は槍や刀で貫くことは出来ない。それはすでに周知のことであるが、板金鎧といっても、文字通り全身を隙間なく金属で覆っているわけではない。まとっている人間が動きやすいように、肘や膝、あるいは首といった間接部分には隙間があいている。そこに刃を突き立てれば、甲冑自体を傷つけられずとも、中の将兵の戦闘力を奪うことはできるのである。
ゆえに島津軍は、まず一人目が敵兵に組み付き、地面に引きずり倒したところを、後続の兵士が覆いかぶさって弱点部分に刃を突きたてるという戦い方をとった。
当然、南蛮兵はそうはさせじと抵抗するが、死を決したかのように猛然と――それこそ猿のように素手で飛びかかってくる敵兵を前にして、兵士たちは動揺を禁じえなかった。
最初の一人を槍で貫いても、その兵士は槍を持ったまま地面に倒れ、引き抜くことを許さない。すると、後ろにいた兵士がすぐさま組み付いてくるのである。
板金鎧は防御力に優れているが、その分、重量は並大抵のものではない。一度地面に倒れれば、一人で起き上がることさえ容易ではなかった。
そして、倒れてしまえば、周囲の敵兵が甲冑の隙間に刃を突き立てようと群がり寄ってくる。
動揺が恐怖に変じるまで、かかった時間はごくわずかであった。
「く、この、猿どもがッ、離れろ、離れんかッ!」
「ぐ、く、くそッ。誰か、助け……ぐあッ?!」
「よるな、蛮人どもが! この、薄気味悪い猿どもがッ!!」
「落ち着け! 数はこちらが優っているのだ! 隊列を乱すな、槍先をそろえよ! 落ち着いて戦えば恐れるべき何物もない!」
「た、隊長! 敵陣から新手ですッ、ここは退くべきでは?!」
「落ち着けといっておろうがッ! 千や二千も加わったわけではあるまいッ! このまま退けば、銃兵部隊に笑われるぞ!」
指揮官たちは部隊の混乱をしずめようと声を嗄らしたが、それにも増して島津軍の攻勢は激しかった。なにより、奇襲もなく、鉄砲も使わぬ正面からの激突において、こうまで押された経験が将兵にはなかったことが大きかった。
こんなはずでは――そんな思いに苛まれて、混乱しているうちに隊列は崩れ、その隙間から次々と敵軍の進入を許してしまったのである。
前衛部隊の混乱を見て取ったニコライは、突然の混乱に意外の念を覚えつつもただちに手を打った。
前線からの報告を受け、敵軍の凄まじい勢いを察したニコライは、別方向からの奇襲に備えていた部隊を再編し、第二陣の構築に移ったのである。仮に前線を突破されても、この第二陣で敵の攻勢を食い止めようという作戦であった。
戦闘開始からすでに一刻以上。その間、動いたのは正面の敵のみであった。もし敵に伏兵がいるならば、とうに動いているはず。
ここまでまったく動きを見せていないところを見ても、敵に伏兵はない、とニコライは判断した。
まさか敵の指揮官たちが、自軍の優勢を確信してのんびりとおしゃべりに興じていたなどとは想像できるはずもない。
想像できるはずもないが、それとは関係なく、ニコライは当初の陣形をかえることに危惧を抱いていた。
本来であれば、遊兵となっている銃兵部隊を第二陣に配置して、勢いにのって攻め込んでくる敵を一網打尽にすべきなのである。
しかし、今はそれが出来ない。なぜなら――
「まだ、止みませんか」
空を見上げたニコライは、そこに厚くたれこめた黒雲を見出し、小さく嘆息した。
天候ばかりは人の手では如何ともしがたい。全体の陣形を崩すことに一抹の不安を感じながらも、現状ではこうするしかない――そう自分に言い聞かせたニコライが、胸奥を苛む不安の影を振り払うためにかぶりを振った、その時だった。
「申し上げますッ!! 東の山間より敵と思われる騎兵隊、多数出現! 銃兵部隊に向けて突っ込んできます!」
まるで、内心の影がそのまま形となったかのような凶報が飛び込んできた。
一瞬、ニコライはこれが現実か、という思いにとらわれたが、すぐに我に返り、指示を飛ばす。
「我が軍に騎兵はいません。敵以外の何だというのですか。ただちに銃兵は後退。移動中の部隊の内、東の槍兵隊はただちに銃兵の援護にまわれと伝えてください。敵の正確な数は――」
だが、その言葉が終わらぬうちに、また一人、急使が現れる。
「報告ッ! 槍兵隊長リカルド様、戦死! 同じくパウロ様も右腕を失われる重傷を負って後退! 指揮官を失った部隊は混乱しており、このままでは突破を許すのは時間の問題かと!」
「前衛には、第二陣が態勢を整えるまでは何としても持ちこたえるように伝えなさい! 私の直属部隊は銃兵部隊の援護のため、敵騎兵にあたります。ただちに移動を――」
ニコライは矢継ぎ早に指示を送り続け、その内容はきわめて的確であった。
惜しむらくは、麾下の将兵が敗勢に浮き足立ってしまったことだろう。常であれば速やかに機能したであろうニコライの命令も、動揺した将兵にとっては混乱を助長するものにしかならず、南蛮軍は的確な行動をとることができなかったのである。
戦って敗北を知らぬ常勝軍。神の栄光に守られた南蛮軍の将兵は、今、敗北という未知の事態を前に平静を保つことが出来ずにいた。
一方の島津軍は、さほど複雑な動きをする必要はない。新納忠元が外から南蛮軍を突き崩し、島津家久率いる騎馬隊が南蛮軍を引っ掻き回すだけである。
単純な作戦行動は、単純であるがゆえに機能しやすい。敗北を知らない南蛮軍が勝手に混乱してくれるのだから尚更である。
挽回ならず、とニコライが判断するまで、さほど時間はかからなかった。
その判断の早さは、ニコライの将軍としての資質の高さを示すものであったろう。
ニコライは直属部隊を率いてみずから殿軍を務め、麾下の軍勢が戦場から退却するまで剣を振るい続けた。
この奮戦が功を奏し、南蛮軍は島津軍の猛追をなんとか退けることに成功する。
しかし、この一戦で南蛮軍が受けた傷は深かった。
戦死者は槍兵およそ三百、銃兵と弩兵はあわせて百。計四百の将兵が異国の地に屍を晒すこととなったのである。負傷者の数はさらにその倍以上にのぼった。
簡潔に言えば、南蛮軍は五人に一人が討ち死にし、さらに生き残った者も二人に一人は何らかの手傷を負ったことになる。
目を覆うばかりの大敗であったが、南蛮軍にとっては屈辱的なことに、これだけの被害を受けてなお、南蛮軍は被害を最小限に食い止めたといえるのである。ニコライら殿軍の奮戦がなければ、死傷者の数はさらに増えていただろう。ことに銃兵部隊は敵の騎馬隊に蹂躙され、壊滅的な打撃を被っていたかもしれなかった。
南蛮軍の将兵は敗れてなお千五百を数える。これは眼前の島津軍を上回る数であり、数だけ見ればいまだ南蛮軍の優位は崩れていない。
しかし、常勝であるはずの――常勝でなければならないはずの自軍が、二度にわたって東の蛮人に敗れてしまった。その事実が生き残った南蛮軍将兵に与える影響は想像を絶するほどに大きかった。
天に届くほどであった南蛮軍将兵の士気は、島津軍によって根を張る地面ごと突き崩され、彼らは大地に叩きつけられた。彼らの士気は戦闘前とは比べ物にならないほど落ち込んでおり、将兵の中には無様な敗戦を指揮した上官たちに不平不満をぶつける者さえいたのである。
夜半、雨は止んだのだが、南蛮軍は再戦を口にできる状態ではなく、また、仮に再戦を強行したとしても、敗戦の数が二から三にかわるだけであったろう。それほどまでに、南蛮軍は意気消沈していた。
これにより、当面の間、南蛮軍の一宇治城侵攻は不可能となった。それは島津家にとっては、薩摩各地に散った自軍を集結させるための貴重な時間を得られた、ということである。
各地の兵力をあわせれば、態勢を立て直した南蛮軍が再び攻めてきても恐れるに足りない。
当初の予定では、敵の規模次第では日向国に差し向けた兵を呼び戻すつもりであったのだが、あるいは薩摩に残った兵力のみで南蛮軍を撃退することが出来るかもしれない。
勝利に沸き立つ島津家の陣営では、南蛮軍なにするものぞ、と声高に勝ち誇る声が各処から聞こえてきていた。
◆◆◆
「見事、というしかないわね」
勝利に沸く島津軍の陣営に視線を向けながら、白の頭巾で顔を覆ったその人物は低声で呟いた。
もしそれを聞く者がいたならば、鋭くも情感豊かな声が女性のものであることを悟って驚きを禁じえなかったであろう。
すでに雨雲はいずこかに去り、天頂には煌々と月が輝いている。松明を持っていなくても、月の光があたりを照らしているので、ただ歩く分には支障はあるまい。
しかし、彼方の灯火を除けば、あたりには人気がなく、村落も見当たらない。おまけに足元は降り続いた雨ですっかりぬかるんでしまっている。
女性が一人でふらりと立ち寄るような時間でも場所でもなかった。
しかし、女性はみずからの安全を気に留める様子もなく、なおも鋭い視線を彼方の篝火に向け続けた。
それが島津軍が陣中で焚いている篝火であることは言うまでもない。
「軍隊において、長所と短所は紙一重。火力に優れ、常勝であるがゆえの心の緩みを、ここまで巧妙に衝いてくるとは。海ではかなわじと見て、内陸に引きずり込んだ判断の速さと的確さも申し分ない。コエルホ提督ではここが限界ね。まさか、こんな緒戦で我が軍が敗れるとは思わなかった」
そう言うや、女性は頭巾を取り払う。
白布の中から現れたのは、月光が形となったかのような亜麻色の髪と、夜の闇にあってなお鮮やかに輝く碧眼である。
トリスタン・ダ・クーニャ。
南蛮軍にあって知らぬ者とてない聖騎士は、敵に対して最大限の賛辞を向けた。それは偽りのないトリスタンの本心である。
だが。
なぜかその表情には翳りがあった。その眼を見れば、落胆の色さえ見て取れたかもしれない。
それは決して気のせいではなかったのだろう。トリスタンはこう続けたのである。
「本当に見事だわ。ただ……それでは私たちには勝てない」
トリスタンは上空に浮かぶ月を見つめ、しずかに目を閉ざした。
みずからの内にわだかまる感情の正体を確かめるために。
「……これが失望だというなら、やはり私は期待していたということなんでしょうね。自分では出来ぬことを他者に望み、叶えられなければ落胆するとは、我ながら勝手なものだ」
口元にかすかに苦笑を浮かべた後、トリスタンは踵を返した。
異国の山、深き木立の中を迷う様子もなく歩き去るその姿を追うのは、ただ天空の月のみ。
彼方に陣を布く島津軍の中に、女騎士の姿に気づく者は誰一人としていなかった。
そして、同様に。
島津軍は誰一人として気づいていなかった。
まさに今この時、遠く薩摩南方の海域を、夜の闇を裂くように進む大艦隊が存在することを。
月明かりに照らし出された大艦隊。それを構成する艦船の数は実に七十隻に及んだ。
艦隊は悠然と――あるいは傲然とみずからの偉容を星月に示しながら、着実に目的地に近づきつつあった……